滝行と龍

人はみんな感情を持っています。感情があるから様々なことを感じます。その感情は、欲望や願望などと結びついていて自分の中でも大なり小なり渦巻いているものです。その感情をととのえて本来の自分がどのように生きたのか、そしてどのように道を歩むかはその人の人格を修養することで行われていくものです。

昨日、友人のお坊さんと一緒に滝行をしてきましたが大雨のあとで水量が増しいつも以上に滝の威力を感じました。また滝に打たれているうちに、自分の中に渦巻いていたものが綺麗に澄んでいくのを感じます。

冷たい水が打たれるほどに熱くも感じ、また内面の熱が冷まされていくのも同時に感じます。

私たちの感情は、体温のように熱を帯びるように思います。たとえば、欲望も薪をくべるように火は燃え盛っていきます。穏やかな火になるには、穏やかな火でいるような状態にととのえていく必要があります。焚火と炭火もまた異なるように、どんな火を日々に熾すかによって感情もまた変わっていくのです。

滝行をしていると「龍」が関係してきます。この龍は一般的には想像上の生き物だといわれます。しかし、むかしの人たちは龍は存在しているもので雨乞いをし龍の力で多くの雨を降らせてきました。

今の日本では身近にあまり干ばつなどを気にすることはなくなってきました。しかし田畑を耕し食料を確保していたころは、雨が降らないというのは大変なことでした。川も干上がり、井戸も枯れ、田畑に水もなくなれば人間は生活することができません。

今では水道水も整備され、水のことなどほとんど心配せずむしろ大雨の洪水の方が心配されています。自然は、私たちの思っているように人間ばかりを優先することはありません。地球全体でバランスを取っていますから、謙虚に自然に祈り、水の有難さに手を合わせていたように思います。

時代や環境がかわっても、龍というものは私たちの心に存在します。その龍を穏やかにして、龍に祈ることで私たちの心の龍を鎮めて穏やかにしていくということ。滝行を通して、その場、その学びを子どもたちに伝承していきたいと思います。

大学の知恵

古典、四書五経の大学を改めて読み直して徳の循環を考えているとこの文章の中に徳のすべてが知恵として記されていることに気づきます。

「大學の道は、明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り。
止まるを知りて后定まる有り。定まりて后能く靜かなり、静かにして后能く安し。安くして后能く慮る、慮りて后能く得。
物に本末有り。事に終始有り。先後する所を知れば、則ち道に近し。
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の國を治む。
其の國を治めんと欲する者は、先ず其の家を齊う。
其の家を齊えんと欲する者は、先ず其の身を修む。
其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しうす。
其の心を正しうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。
其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。
知を致すは、物を格すに在り。
物を格して后知至る。
知至りて后意誠なり。
意誠にして后心正し。
心正して后身修まる。
身修まりて后家齊う。
家齊いて后國治まる。
國治まりて后天下平らかなり。
天子自り以て庶人に至るまで、壹に是れ皆身を修むるを以て本と爲す。
其の本亂れて末治まる者は否ず。
其の厚くする所の者を薄くして、其の薄くする所の者を厚くするは、未だ之れ有らざるなり。」

何度読み返しても、本当のこと、真実を述べられています。二宮尊徳が、明徳を明らかにすることは道徳の至極、そして民を新たにすることは国家経論の至極と言いました。これが至善に止まるということだとも。道徳と経済の一致の真髄は、この大学にこそあるということです。

この最初の「大学の道は明徳を明らかにするに在り民を親た(あらた)にするに在り、至善に止まるに在り。」を説明するためにそこから解釈があるというのがこの大学の特徴です。

世界を修めるというのは、自分自身を修めることからはじまります。自分を修めることで世界もまた修まります。これは天子と呼ばれる天命のある人であろうと、一般的な人たちであろうとすべて同じ道理ということになります。どうしても私たちは自分以外のところのせいにして、物事を変えようと欲します。しかしそもそも国というものはそれぞれの意識の中にあるものであって、その意識がみんなよくならなければ国というものも善くなりません。

私たちはまずその意識をどのようにするのか、それぞれの人が持つ天から与えられた徳性を磨いていくことからすべてがはじまるといいます。如何に思い込みの世界から抜け出して明徳を明らかにするのか。これは一人一人が真の知恵を持てるかどうかにもかかっています。

修身というのは、今ではあまり使われなくなりましたがそれぞれが暮らしの中で如何に日々の自分自身の徳を磨いてととのえていくかが私たちが安心平和を維持する知恵ということでしょう。

子どもたちにその知恵が伝承していけるように、カタチもととのえていきたいと思います。

徳の循環する世

世界中で気候変動の影響を感じる映像が出てきます。どこかで大雨が降ればどこかが干ばつになります。地球は一つとしてバランスをとりますから、環境が変わっていくのは今にはじまったことではありません。

どの国境でどの立地にあるかで私たちは住みやすいところもあれば住みにくいところもでてきます。ある場所は極寒の地、またある場所は砂漠、またある場所は火山や湿地であったりもします。人類は、その場所を離れていくものもあればその場所で知恵を出し工夫して順応したものもあります。それもまた選択の歴史であり、今も私たちは新たに選択を迫られています。ひょっとしたらこの先、地中や地球外、あるいは仮想空間などに移動していこうなどという未来もあるかもしれません。栄枯盛衰、これは自然の摂理です。どの時代、どの場所にいても、如何に自然と共生していくかは私たちの使命でもあります。

そして環境の変化で大変苦難の時代があったとしても、人類はその中でも仕合せを求めて生を全うしていきました。私たちの生命はどんな環境下であっても仕合せに生きているものもあれば、その逆もあります。大事なのは、使命を全うするということです。

そして使命を全うするには自分というものを知る必要があります。自分を知るには、自分の根を知る必要があります。根は地球につながっているところに存在します。まるで先祖から今の私たちに結ばれているように根もまた張り巡らせています。

まさにこの時代、この変化の時をどのように協力して乗り越えていくか。自立分散型、いわゆるDAO的なつながりのなかでどうみんなで調和していくか。太古の時代から、私たちは「和」にその解決法を見出してきました。人間も喜び、また自然も喜ぶ道。かんながらの道です。

私が思う、自然との関わりというのは、私たちの暮らしを本来の全生命が喜び合えるものに還るものです。それは徳が循環するような世の中にしていくことです。これをもう忘れてしまっている現代においては、何が自然を喜ばせるのか、そして自然とは何かというところの定義から学び直す必要があります。

暮らしフルネスはその道に入るための一つの扉です。

子どもたちに、いつまでも仕合せや福が結ばれていくように徳の循環する世の中に近づけていきたいと思います。

稲への感謝

昨日は、福岡にあるむかしの田んぼで稲刈りを行いました。今年は紙マルチという自然に負荷をかけずに分解されるものを使ってみましたがもともと山の境界にあるような棚田の田んぼですから草の勢いが強くあまり防草の効果はありませんでした。

草とりが少なかった分、手間は減りましたがその分、稲の方は養分が少なく大変そうでした。しかし、それでも無事に収穫ができ実ることができたのは有難いことでした。

現在、ほとんどの田んぼでは肥料や農薬で簡単に稲が育ちます。しかしむかしの田んぼでは全然簡単には育ちません。しかも収量も少なく、これでは食べるほどのものも収穫できません。しかし、このむかしの作り方で一緒に稲を見守り育てることに心の収穫がとても大きいのです。

目に見える収穫が少なくても、目に見えない収穫が非常に豊かであるということ。これはやってみなければわからない境地ですが、心はとても安らかになります。

本来のお米づくりの意味を観て、本当の稲の持つ力と共生し感謝する。伝統の行事を大切にして、そこに秘められた知恵を感得していくこと。食べるものは人をつくるものですから、どのようなものを食べるのかが人生を左右します。その作られたものは、結果出来たものではなくどのようなプロセスで作られたかは目には見えませんがそれは必ず食べると感覚として伝承されるのです。

私たちが主食を稲にしたのには理由があり、この土地、この風土でどのように暮らしを仕合せにしていくかの知恵が溢れています。

暮らしフルネスの実践の中でもこの自然農でのむかしのお米づくりはとても中心的な役割を果たしてくれています。また今年も収穫した稲のはさかけを観ながら年を越すことができます。

一年のめぐりがとても豊かで幸福なのは、稲があるからです。稲に感謝して、これからのお月見や新嘗祭を楽しみたいと思います。

歴史を前に進める

過去の歴史の中には、時が止まっているままのものがあります。本来、何もなかったところに人が物語をつくります。そしてその物語は、そこで終わってしまうものか、それとも続いていくものか、もしくはまた再開させるのかはその歴史の物語を受け継いだ人の判断になります。人は、このように自由に時を止めたり動かしたりしていくものですがそれは物語の中にいる人たちでしか繋いでいくことはできません。

いくら文字でそれを知識として分析しても、それは止まった歴史です。生きている歴史は知識ではなく知恵として受け継がれていきます。歴史を受け取った人のその後の行動で甦生するからです。これを遺志を継ぐともいいます。

その前の歴史がどのようなものであったか、それを学んだ人がその歴史を前に進めていきます。その人が進められるところまでを進めたら、それを継いだ人がさらに前に歴史を進めます。こうやって過去にどのような悲しい歴史があったとしても、それを転じてそのことによってさらに素晴らしい未来が訪れるように歴史を変えていく人たちが現れることで過去の歴史も肯定されます。

この時、悲惨な歴史も未来がそれによって善くなっているというのならただ可哀そうな存在にはなりません。後世の人からは感謝され、大切に思われ、偉大な先祖であったと慕われ尊敬されることもあります。しかし時を止めたままにしたり、悪いことのままで終わらせてしまうと人は歴史に学ぶことができません。

世の中には終わらせてはいけない大切な知恵が入った歴史がたくさんあります。私の周りにも、子孫の仕合せを願い取り組んできた先人たちの想いを深く感じるような場所がたくさんあります。

その方々からの遺志を感じ、過去の歴史の続きを紡いでほしいといった願いや祈りを感じることもあります。今の私をはじめ、私たちが生きているのは先人たちが人生をかけて大切ないのちを使ってくださっているからでもあります。

その願いや祈りは、世代を超え、身体をこえて伝わっていくものです。これを伝承ともいいます。伝承するというのは、歴史を生きてその歴史をさらに善いものへと転換していく私たちの生きる意味でもあります。

自分のことばかりを考えて、世代を省みて未来を思わなければ歴史はそこで途切れてしまいます。自分の中にあるあらゆる想いや祈り、そして願いを忘れず一つ一つの歴史を丁寧に紡ぎ修繕し、お手入れしながら子どもたちに譲っていきたいと思います。

むすびの真心

昨日は、カグヤの初心会議のワークショップで「むすび」の体験をみんなで行いました。具体的には、合気道の極意に触れるような体験をいくつか行いました。現代は、型を中心に形式的なものが武道になっていますがどの武道も突き詰めれば戦わない知恵を極めたもののように私は感じます。

矛盾ですが、戦わないで勝つというのが真の勝利ということでしょう。我をぶつけ合い、感情や闘志を戦わせるのは周囲は興奮しますがそんなものは本当の力ではないということでしょう。本当の力は、大切なものを守るためのものでそれはすべて生き方に関係しているようにも思います。

私たちにはもともと「軸」というものが具わっています。この「軸」は辞書では車の心棒、回転の中心となる棒。また 中心や基準となる直線。そして物事の中心、大切なところと記されます。

軸が定まっていないと、色々なことに振り回されてしまいます。言い換えれば、軸がどこにあるかで自分がブレなくなるのです。むしろ、周囲のブレの影響を無効化することもできます。

敵対関係というものも、敵にならなければ無敵です。

この無敵というのは、最強の力を獲得したから無敵になると思い込まれていますが本来は読んで字のごとく敵がいなくなるから無敵です。以前、木鶏の実践を学ぶ中で無敵になることを説明されている故事を知りました。闘鶏の話でしたが、最後は木鶏になり無敵になったということです。

これを同様に、軸を立てることができそしてむすぶことができるのなら私たちは無敵になるということです。無敵になることが目的ではなく、むすびの生き方を実践することが大切だということでしょう。

様々な他力や様々な自他一体の実践によって、大いなる一つの力そのものとむすばれていく。我を通そう、自分の力だけに頼ろうとすることは力を働かせたのではなく、力は偉大なるすべてのいのちを活かすときにこそ発揮されるということ。

頭でわかるのではなく、それを日々の暮らしや実践の中でととのえていくことが大切であることを学び直しました。暮らしフルネスに通じる体験で、すぐに取り入れられるものばかりでした。

子どもたちに、先人の生き方、その知恵を伝承していきたいと思います。

大丈夫、浩然の気を養い、臥龍となる

「大丈夫」という言葉があります。これは本来、儒教の言葉で孔子 の説いた「 君子 」と同一視されている言葉です。孟子は、これを「常に浩然の気を養い、高い道徳的意欲を持つ理想の人間像」と定義しています。

それが現代では少しずつ意味が変化し、使い方も多様になっています。例えば、頑丈でしっかりとしていて安心ということ、他にも間違いがなく問題がないこと、さらには必要や不必要、イエスやノーの返答でも使います。丁寧に断るときも大丈夫ですという言い方もします。

言い換えれば、君子も大丈夫も徳を志す生き方をする人たちの総称でもあります。この言葉は、時代が変わっても自分自身をどうあるかということを問いているように思います。仏教では菩薩のことを丈夫と呼ぶようになっていきます。

この丈夫というのは、本来は中国では成人男子を「丈夫」と言いました。その中でも特に立派な男子を「大丈夫」と言ったそうです。そこから日本では立派な男子という意味になります。立派な男子という流れになるのに孟子の思想や言葉が有名です。

孟子は人間には誰でも「四端(したん)」の心が存在することを説きました。この「四端」とは「四つの端緒、きざし」という意味です。具体的には、「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)。「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)。「辞譲」(譲ってへりくだる心)。「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)の4つの道徳感情のことです。

この元来備わっている四端を精進することで仁・義・礼・智という人間の4つの徳を磨くことができるといいました。この端というのは、「道に入ることができる入り口」というように私は解釈しています。そしてこの徳を磨く実践することにより、見事な精神性が高まりそれを浩然の気が備わるといいました。その浩然の気が備わっている徳のある理想の人物こそ「大丈夫」としたのです。

孟子はこのような問答のやりとりが「滕文公章句下」で記されます。これは景春という人が、大丈夫というのはその人がひとたび怒ると諸侯が恐れをなし、その人が安居していれば平穏になるそんな人のことではないかと申しに尋ねます。これに対して孟子は真の大丈夫とはどのような人物であるかを返答します。そこにはこうあります。

「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ。志を得れば民と之れに由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ。富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず。此れを之れ大丈夫と謂ふ。」

これを私が意訳すると、「どんなに時代が代わり変化していくなかでも自らその天命を信じ、徳を実践する。志が人々に認められ引き上げられたなら徳を周囲の人々と共に実践し、人々がいなくても独り、徳を磨き道の実践を行う。そういう人は、名誉や地位、富貴や金銭に惑わされることもなく、貧しく苦労し困窮しても動じない。権威や権力に媚び屈することもない。こういう人物こそが真の人物であり大丈夫な人である」と。

大丈夫を志、いつか立派な男子になろうと自らを磨き上げていく。そうして社会の中で、自然体でありながら徳を循環させていく人物になること。子どもたちのためにも、浩然の気を養い、臥龍となり、その時を静かに待ちたいと思います。

牛乳の徳

昨日、地元の中学生たちにノンホモ牛乳のアイスクリームを振る舞いました。もともと鳥羽公園のゴミ拾いを一緒に行った後にみんなで食べる予定でしたが大雨のため急遽日程を変更したために先に掃除の意味や目的などをレクチャーする時間を持つことになったのでその際に一緒に食べました。

もともと、このノンホモ牛乳は嘉麻市の吉村牧場でつくられています。吉村さんとはもう20年以上のお付き合いになりますが素晴らしい生き方をされております。牛を大切に尊重し、放牧して山の中の大自然でストレスなく自由に育てているからまた牛乳もとても美味しいのがわかります。

以前、私は東京でミルクランドというお店と一緒に自然食を守る活動を食べることで行っていました。会社のお昼ご飯はいつもそこの食事でみんなで味付けや内容などを付箋紙でアドバイスしながら生き方を応援し共に守っていました。コロナでやむなく、農園を優先して閉店しましたがその生き方は今も大切に受け継がれています。

そのミルクランドで小寺ときさんと出会い、本物の牛乳の話をお聴きしたのを覚えています。小寺さんがヨーロッパで飲んでいた牛乳と日本の牛乳が全く異なり、日本で子どもたちがアレルギーで大変な目にあい本物の牛乳を飲ませたいというところからはじまった活動がミルクランドでもあります。

今回、中学生たちにも本物の牛乳を飲んでもらいたいと思い吉村さんにお願いして用意してもらいました。

そもそもこのノンホモ牛乳のノンホモとは、「ノンホモジナイズ」の略語です。このホモジナイズ(homogenize)は「均質化」という意味で、これにノンが付いているため「無均質」という意味です。よくスーパーで購入するものは牛乳の中に含まれる乳脂肪分をホモジナイザーと呼ばれる機械によって均質化の処理がされています。これによって大量生産もでき安価で販売できるようになりました。しかしここに大きな問題もあります。そもそも大量生産で安くするということは、本来自然であるものをどこかしらを操作し不自然にする処理をするということです。

特に食品の問題は、そこがほとんど中心で添加物のことや防腐剤、環境ホルモンにいたるまですべて安く大量に販売するために行われているともいえます。便利になってなんでも安く買えるようになりましたが実際には安心して食べれるものがほとんどなくなったという健康の問題がでてきました。お金で健康は買えませんから、未来の人類の食べ物の問題は早晩必ず解決しないといけない問題です。お金にどこまで操作させていくのか、これは生命体の本来の在り方に関わっているように思います。

話を戻せば、このように均質化された牛乳をホモ牛乳と呼び、この処理を行っていない無均質の牛乳をノンホモ牛乳と呼ぶということです。私は、後者のノンホモを自然に近い牛乳と呼んでいます。

なぜ一般的な牛乳ではアレルギーになりやすいのか、その理由はもう科学的に分かってきています。それは高温の熱処理で脂肪球を壊し、その脂肪の膜に保護されていたタンパク質などが急速に体内に取り込まれることで下痢やアレルギーが発生するということです。

本来、牛の赤ちゃんが消化吸収しやすいように自然に乳にしたものを高温で熱処理、均質化したことで胃袋での消化ができなくなり腸に負担をかけることになりました。消化はゆっくりとした方が身体の負担は少ないのですが、それが時間をかけなくすることで消化不良となっていきます。

アレルギーはもともと、消化するときの問題が関係することがほとんどです。つまり吸収できない量が発生するか、そもそも吸収したくないものであるかということです。

吸収しない、できないものを使ってアレルギーが出ているのならそれは自然の反応です。不自然に対してアレルギーが発生しているということでもあります。それは環境のアレルギーもいえるし、人間の感情にもアレルギーがあります。

本来の自然にみんなで近づいていくこと、そして本物を子どもたちに体験することはこれから大切なことです。私も子ども第一義の実践のなかで、常に本物を意識しています。

これからも自然を尊重する生き方をしている人たちを応援し、その徳の循環を増やしていきたいと思います。

基本の深化

先日から続けて創作料理を食べる機会を得ています。創作料理の定義は基本となる料理の伝統や文化を守りながら新しい味への挑戦で生まれた料理といわれます。これは伝統と革新と同様に、温故知新、復古創新したものということになります。

基本を知っているということが大前提ですが、場合によっては身勝手な料理になっているものを創作料理という人もいるように思います。何かが足りないと思うのは、その基本が身についていないということがあるように思います。

基本というのは何か、それはテクニックの基本もあればそのものの素材や成り立ちの基本というもの、さらにはその取り組む際の基本というように、基本にもあらゆる基本があります。

その基本が全部丸ごと自分のものになっていることではじめて基本は身についているということになります。基本が身に着くまでには長い年月が必要です。なぜなら基本は、頭や知識でわかるものではなく長い時間をかけた経験と知恵によってはじめて獲得するものだからです。

基本は探求心が重要になるように思います。よくこだわりが強い人が基本をよく理解しているように、とことん追求していくのでそのものの基本の起源や根源的な意味、そして素材の持っている価値などを深めていきます。そういうものを深めていくなかで、基本が次第に沁みついていくのです。

言い換えるのなら、基本とは物事を深めていく根本的実力ともいえます。

根本的な実力を持っている人は、どの分野においても基本が入っていますから応用もできるようになっていきます。一道を極めていくことは容易ではありませんが、一道を極めるからこそその真価が直観できるようになるということでしょう。

基本はその基本への姿勢が重要ですから、どんな時も基本を怠らずに基本に忠実に取り組んでいきたいと思います。

火の心

先日は、迎え火をしてご先祖様をお迎えしました。これから送り火をして見送ります。もともと火は、鎮魂、慰霊をする意味もあります。この鎮魂、慰霊とは、人の魂を鎮めること、そして死者の魂を慰めることをいいます。元々「鎮魂」の語は「たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式を指すものだったといいます。

そして「慰霊」の方は、霊を慰むとありますがこの慰むというのは、「心を穏やかな状態に静める」という意味です。この慰むという字の上の尉はもと叞(い)に作り、手(又)に火のしを持って布にこてをあてる形を表します。それに火のしをして布が平らかに伸びやかになるように、心が伸びやかな状態になることを慰といい「なぐさめる、なぐさむ、いやす」の意味になります。また慰むは、凪という意味もあるといいます。凪は、風がやみ波が穏やかになる様子です。

このように、魂や霊が静まり穏やかに和むという意味にもなります。

私は場道家としてよく炭を使います。特に備長炭を使うことが多いのですが、この火は燃え盛る激しい火ではなく懐かしくて静かに和む火です。この火を観ていると心が落ち着き研ぎ澄まされていきます。

火はもともと古来より、祓い清めるという効果があります。特に和蝋燭をはじめ線香などの火も同様に鎮魂や慰霊に結ばれる意味がよくわかります。私たちは、穏やかで静かな火を見つめることで心が和やかになっていきます。

心が荒まないようにいつも穏やかに和やかにいてくださるように火をお供えするのです。

迎え火も送り火も常に心和やかでいてくださるようにという真心のおもてなしです。人はみんなもともとは神様です。そこにあらゆる我や欲や感情が執着して、澄んだ心が穢れていきます。またもとの澄んだ真心に回帰して静かに平和な魂になるようにと祈るのです。

私たちがお供えするものは、その清らかな心であることは古来から間違いないものです。時代が変わっても、大切に繋いでいく心は失ってはいけません。それは本来の意味であり、その心を継ぐのが子孫の使命でもあるからです。

火の有難さと感謝とともに、今日も穏やかな一日を過ごしていきたいと思います。