叡智を研ぎ澄ます

知恵というものは使うことによってのみ知恵になるものです。知識は使わなくても知識として持っていられますが、知恵はそれを使う時のみ持っていられるものです。

もちろん知識か知恵かではなく、知恵があるからそれを知識で分析することができます。また知識も知恵によって真の知識となりえるものです。

私は真の知識にとても興味があります。それは知識と知恵を併せ持った叡智のようなものです。叡智には深さがあり、そこには真理があります。

物事や時代も発展していくのに進化するという言葉があります。しかし進化だけしていてもそれが本当の意味で叡智にまでは到達しているような気がしません。それは今の時代の様子をみてもすぐにわかると思います。

毎日、SNSやテレビ、情報社会の中であらゆる新しい情報が氾濫していきます。情報過多でそれをまた整理し、また進化させようとします。急ぐことばかり、時間をかけないで結果を出す事、わかった気になるために必死に情報合戦を繰り広げていきます。目新しいものはなんども良いもののように扱い、古いものは時代遅れとまで言われます。ダーウィンもですが、進化論というのは結局は分類わけの一つの手法のようにも感じます。分類分けしていくことを進化というのなら、そこに深さはありません。ただ分けて整理できた、そして整理がうまければ上手に進化したということになるのかもしれません。

実際には、その進化ではなく深化といって深淵にたどり着き真価を悟るというものもあります。現在でいえば、豊かさということを見直す話が出ていますが果たして本当に豊かさとは何かということをこの時代に叡智まで高めて磨いた人がどれだけいるのだろうかとも思います。

だからこそ、先人の知恵を学び直し、先人の知恵から深さを知り、叡智に辿り着く必要性を感じます。言葉遊びにならないように、そしてお題目のようにならないように私たちは知恵を使い続けていくなかで学び直して改善し、この時代の叡智を磨いていく必要があるように思います。

暮らしフルネスの実践はそれをするのにとても大きな役割を果たしていくと確信しています。子どもたちのためにも、この今の叡智を研ぎ澄ませていきたいと思います。

 

出会いの哲学

昨日、久しぶりに恩師の一人である吉川宗男先生が訪ねてきてくださいました。コロナもですが、色々なことがありなかなかお会いできなくて本当に久しぶりでした。思い返せば、まだ20代のときに同じような生き方を目指している先生に出会うことで私のインスピレーションも膨らみました。

今、場の道場を始めたきっかけも宗男先生とのご縁でした。その当時、先生からは、伝統的日本の文化である「場と間と和」の話を聞かせてもらい、ありとあらゆるものがメビウス上につながっているというメビウス理論を学び心が震えました。

先生の著書には5つの知の統合こそが人間力の知(HQ : Humanity Quotient)だといわれます。①知力、ヘッドナレッジ、IQ(Intelligence Quotient)頭で知る力。②感力、ハートナレッジ、EQ(Emotion Quotient)心で知る、観る、感じる力。心眼知。③行力、ボディナレッジ、BQ(Body or Behavior Quotient)身体の力。身についた技能。身体知。④活力、シナジーナレッジ、SQ(Synergy Quotient)そして上記の三力を源泉として生まれる生命力・活力・共生力。⑤場力、フィールドナレッジ、FQ(Field Quotient)場の暗黙知を感知し、場にライブ感を創り出す力。

このトータルな人間力の知は「全人格人間力の知」と定義しています。

昨日も、私が暮らしフルネスで創造した場の石風呂に入りながら色々とお話を伺いました。「味わう」ということの大切さ、そして出会いを哲学する人生をずっと歩んでこられたこの今の姿からも改めて生き方を学ばせてもらうことばかりでした。

人間は何歳になっても、出会いは無限です。

出会いに対して純粋な姿、ご縁を結びそのご縁を深く味わい余すところなくそれを好奇心で追い求めていく道を歩む姿勢。メビウス理論や場と間と和のどの話も、宗男先生と一緒に体験していく中で得られる知恵そものです。

説明ももちろんわかりやすく、非常に言葉も磨かれておられますがもっとも磨かれておられるのはその純粋なありのままの出会いの哲学です。

ちょうど色々と私も悩んでいた時期、遠方より師が来るで元氣をたくさんいただきました。大切なことを忘れずに、一期一会の人生を歩み切っていきたいと思います。

ありがとうございます。

経糸のような生き方

むかしの日本の歴史を調べていたら、素晴らしい生き方をされている方々のことが伝わっているものがあちこちにあります。その地域の偉人ともいう人ですが、今でいう医者であったり、教育者であったり、僧侶だったりします。

そこにはお金をもらうために職業を選択するのではなく生き方に憧れて職業に就くというものがあったのでしょう。尊敬される人たちが、その場、その場で徳を積みそして場を高めたことでそののちにその土地からまた偉大な人物が登場したりするものです。

私は大分県の耶馬渓にある青の洞門が好きで、時々、訪れます。禅海和尚が人生を懸けて取り組まれたところで、色々と苦しいときや辛い時は想いを馳せて共感します。この土地でその後、福沢諭吉が育ってきます。時代が異なっても、その土地に遺徳は場として生き続けていきますから生き方もまた伝承していきます。

尊敬される人が出るというのは、その尊敬の陰に憧れた人たちがいますからその人たちがあとを継ぎ、つなげ、また同じような存在となり時代を超えて人々のために働いてくれます。

むかしの人たちは、そうやって生き方を選び恩返しをしてきました。そこには横軸ではなく縦軸として時を超えて働いていこうとする経糸のような生き方があったように思います。

その時々で、人は周囲に恩返しをして生計を立てていきます。僧侶や医師や教師は、むかしは今でいうボランティアのような生活をしていたとあります。江戸時代の武士も同じように尊敬される生き方を志して学んでいたとあります。寺小屋でもまた、立派な人物になるようにみんなで切磋琢磨学んだように思います。

理論と実践というか、むかしはお手本が身近にありその人に触れて薫陶を受ける機会を求めて学問を磨いた人が多かったように思います。志は師友の出会いで道が拓けていきますから、いつの時代もその生き方を継いできた人たちによって日本も守られてきました。

話は戻りますが、耶馬渓の風景の中にはその場で醸成された生き方の余韻があるように私は感じます。最後に、福沢諭吉の言葉です。

「社会共存の道は、人々自ら権利をまもり幸福を求むると同時に、他人の権利幸福を尊重し、いやしくもこれを侵すことなく、もって自他の独立自尊を傷つけざるにあり」

自他一体に全体快適に生きる場を、この時代でもととのえていきたいと思います。

徳への御恩返し

振り返ってみると、今取り組んでいることのすべては最初のご縁やキッカケがあることに気づきます。時間が経てば次第に繋がってきますが、それがどの時点であったのかは後から次第にわかってくるものもあります。

例えば、私が徳というものに興味関心が湧いたのは致知出版の本社で藤尾社長から徳の講義を受けたことからはじまります。そこで志に徳が入り、徳の道に気づいたことです。それから何年もかけて、気づきの実践から徳を見つめ直します。さらに、冨屋旅館の鳥濱トメさんの教えに触れる機会を経て、さらにその徳の意味を学び直して徳の意味を知ります。

他にも出会った方々が、それぞれに徳の話をしてくださり徳に益々のめりこんでいきました。その後は、徳積財団をつくり古民家甦生や伝統文化の甦生などに関わり徳を磨くことを実践していきます。気が付くと、徳積帳をブロックチェーンで開発し、いよいよ徳循環経済へと転換に挑戦することになっています。

今思い返すと、最初は一体どこだったのか。故郷の近くにあるお地蔵さんだったのではないかとも感じます。きっとこれもあと数年、もしくは数十年後に意味に気づける日がくるのでしょう。

歴史というものを観察していると、その原因が数百年前のことが今につながりそれを私が一緒になって取り組んでいることがあります。もうだいぶ経っていますからその人たちは当然生きてはいません。しかし、今私がやっていることに絶妙に繋がっているのです。

こうやって人は、後から意味に気づいて理解していけますからやっている最中はきっと何か大切な意味があるのだろうとよくわからなくても自分を動かしている何かと一緒に歩んでいくしかありません。

私の生まれてきた意味や、やっていることの意味もまた、後から繋がって気づかれるものです。今、わからなくても、今、理解されなくてもこれは確かな何かにつながっています。こんなことを書くと、いい加減のように思われるかもしれませんがこの世はすべてを説明できることはできません。大切な何かに今、気づき続けているという学問は一生終わることもなく、磨き続けるのみです。

至誠や真心、そして真摯に実践をすることで徳への御恩返しをしていきたいと思います。

謙虚に精進

人は、負の連鎖というものを持っているものです。これは親子や先祖代々などから続いているものもあります。一般的には悪循環のことを言いますが、実際には同じことを何度も繰り返しながら同じパターンに陥ることです。

例えば、ある出来事が起きた時、それがよくないものであっても許し、それを別の物に転じるという考えがあります。故事にある禍転じて福にするという発想です。別の言い方では禍福一円というものです。

物事の善悪正否は、一円の中に置いて観るという思想です。これは二宮尊徳が実践したものです。世間や外側からみたらそれが負の連鎖であっても、それをどう福に転じるかということに重きを置くのです。

私は子どもに関わる仕事をしていますから、特に幼児期の刷り込みを目の当たりにすることが多くあります。無意識に、親から子へとトラウマが伝承されたり、潜在意識の深いところに価値観やイメージを刷り込まれてしまうのです。

それが時間をかけて成長し、その人の人生にとても大きな影響を与えます。ある人は、それに苦しみ、ある人はそれを乗り越え、またある人はそれを福に転じます。それはご縁や出会いによって変わっていきますが、その人の生き方が決めます。

大事なことはそういうことに気づけるかということです。気づかないままループするのと、気づいて少し変えてみようと試行錯誤するのではプロセスも異なります。人は自分の思い込みやトラウマを他人にぶつけていくものです。それを受けた人は、それに傷つき同じことをしようとしてしまうこともあります。それは同質のトラウマや刷り込みがその人にあるからです。

本来、その時、一緒に乗り越えていこうとする人に出会ったり、もしくは先に乗り越えた人に出会ったり、寄り添ってくれたりすることもあります。その逆に、お互いにやり返しあったり、仕返ししあったり、攻撃し合ったりと紛争になっていくこともあります。それは深いところでは、個人の心の中にあるそのトラウマとの葛藤が周囲を巻き込んでいくのです。

平和も戦争も、元はその個人の心の中にある種が芽生えているものがつながって発生してくるのかもしれません。だからこそ、特に大切な幼児期に見守られ、許され、それを寄り添い受け容れてくれた人の存在が助けになることもあります。主体性や自立もまた、その負の連鎖を福に換える偉大な仕組みの一つでもあります。

社会の今を観て、長い目で観て一石を投じていくところに保育や環境、場づくりの氏名や役割もあるように思います。私自身が、禍転じて福にしていけるように謙虚に精進していきたいと思います。

安心できる場をつくる理由

人間には「我」があります。その我は、相手か自分かという相対するときにより出てきます。例えば、敵か味方かということも同じです。今の時代、競争や対立ばかりが目立ちそのことでどちらかが一方的に我慢させられたり、尊重し合えない関係の中で傷ついている人もたくさんいます。

社会そのものが一つの権力や権威によって尊重し合えない環境が発生すれば、この人間の我は際限なく大きく成長していくものです。戦争もまた、その一人一人の我が発展してさらに激しくなっていったものだともいえます。

この我というものは、周囲の中で感じる自分の立場や自分という認識のことでもあります。比較されたり競争させられていけば、次第に自分がどういう立ち位置にいるかということを人は気にしていくようになります。本来、主人公としての自分を素直に自覚し、天命を全うするような生き方をしている人はあまり我に影響を受けません。しかし、競争や比較で周りからどう評価されているか、または何をやられたか、いわれたかで自分を気にして自分のことを認識したとき我に飲み込まれます。

この時の我は、本当の自己ではない外から見えている我というものに執着するということでしょう。外から認識した仮想の自分に本当の自分が脅かされるということでしょうか。つまり本来の自分ではない何かに飲み込まれているということです。

本来の自分というものが何か、それは初心の中にあります。

何のために生きるのか、本当の自分はどうしたいのかと自分と向き合う中で真の自己の存在に人は気づきます。その真の自己には我はなく、真の自己があるだけです。では我とは何か、それは周りがどう認識しているかという自分の思い込みということでもあります。もっとシンプルにいえば、自分の思い込みこそが我の本体だということです。

だからこそ、思い込まないことが我に飲み込まれないということになります。そこで私は一円対話を通して「聴く」ということを実践することをみんなとしています。きっと何か自分にわからないことがあっているのだろうと思い込みを取り払ったり、自分の心にみんなで聴くという内省を共有することによって我の影響を小さくしていきます。

人は不信になると疑心暗鬼になると我に呑まれていきます。それは外から攻撃されるのではないか、裏切られるのではないかと不安になるからです。不安がさらに思い込みを強くしていきます。安心すると不安は減り思い込みも薄くなります。

本来の自分、自己の主体性を発揮するためにはこの「安心」という状態が重要です。一人一人が健やかに発達していくためにも、この安心できる場をどう醸成するかが鍵なのです。これは保育に関わる中で気づいたことです。

子どもたちが未来に、我に飲まれずに本当の自己、真の自我のようなもので天命を全うしみんなで働きを喜びあう社会が実現していけるように保育に関わる私だからこそ文句も言い訳もせずに場をととのえていきたいと思います。

思案する

宿坊の掃除を続けていますが、なかなか片づけがうまくいきません。もともと収納が少ないこともあり、長い年月で大切にされたものをどう片づけいいのかが定まりません。この片づけるというのは、語源を調べると決着をつけることや仕舞う、直すにもつながります。

色々と残った道具をどうしていくのか、収納できないから片付けるのですがどう活かすか、どこで使うかなど思案のしどころがいっぱいです。新しい役割があり配置できればいいのですが全部は難しく、どうしても悩んでしまいます。

一つ一つを掃除しながらも、一時的に置いておくようなものも必要です。しかしその置いておくものもまたお手入れを続けていく必要があります。将来のために、これはここまでにしておく、いただいたものだからそれをどう直しておくのか。これは先人たちもみんな思案のしどころだったのでしょう。

物が多い時代、それはすぐに捨てるものになります。しかしかつての時代は、ものにはいのちがあり、物語や意味があるからもったいないものでした。もったいないものだからこそ思案するのです。

思案するのはかつての過去を辿り、未来を省み、今どうするかを決心していくことです。大切なものだからこそ、そこに意味が入ります。

宿坊の歴史は今も続いていますが、その続いてきたものをこの先どうしていくのか。片づけるというのは、直すことでもあり、その本質を磨き甦生することです。

子どもたちのためにも充分に思案を続けていきたいと思います。

甦生の道を精進していく

物事は小さくはじめて大きく育てていく方が自然に近いように思います。最初から大きくしようとすると、確かに注目されて目立ちはしますがじっくり味わい取り組んでいくことができません。

現代はすぐに結果重視で、なんでも派手に目新しいことを探します。そして一度、見てしまえばわかってしまったと安心して飽きてしまいます。わかることが目的になっているからです。しかしわかるというのは、そう簡単なことではありません。なぜなら知ったことと、真にわかることは別のことだからです。

わかるというのは、本当はとても奥深く時間が必要です。しかし今の時代は、時間をかけることを嫌がります。時間をかけずにすぐに結果が欲しいと思うのです。だから、わかりにくいものを毛嫌いします。わかりづらいと文句をいったりします。

しかし本当はそれは真にわかろうとしない人の意見であることがほとんどです。ちゃんと理解しようとする人たちは、何度も通い、体験をし、その深い意味や味わいを感じ取ります。一度ではわからないから何度も通うのです。

私も今までわからないことを真にわかろうとして、何度も通い続けているものがあります。ひょっとすると死ぬまで通いながら学ぶのではないかとさえ思います。他には、法螺貝などもそうですが練習してもしてもわかりません。わからないから、もっと練習しますがそれでもわかりません。先日、先輩たちの会合で練習風景を見学しましたが何十年とやっていてもまだわからないとみんな目をキラキラさせています。

人が何かをわかるというのは、道を究めるということです。

道を究める志があるからわからないのであり、それがわかるというのは道がわかるということです。知識ばかりが増えて、なんとなくわかったらそれでもう終わりというのは冷めた感情だなと思う時があります。ワクワクドキドキし、好奇心を発揮させ、面白い世界を学び、まだ見ぬ世界の広さや深さを学ぶことは人生を真に豊かにしていきます。

わかってもらおうと思う自分への焦りも捨てて、滋味にじっくりと地道に甦生の道を精進していきたいと思います。

有事に備える暮らし

現在、ウクライナとロシアの紛争から食料危機の問題が浮上してきています。もともと日本は食料のほとんどを輸入に頼っており、その大半はアメリカのものです。食料自給率は37%と先進国中最低です。そのアメリカの食料自給率は128%を超えています。詳しくは、農林水産省のHPからもご覧になれます。

食料を自給できていないということはどういうことか。自分で暮らしていける分を持っていない場合、有事の場合はどんな悲惨なことになるのかはすぐに想像できます。食料自体が海を越えてくるのですから、もしも戦争が発生したり、経済危機になったり、地球規模の災害が起きれば、すぐに食料はなくなります。

現に、インドは今回の紛争からすぐに小麦もお米も輸出を停止しました。それは国内の食料が不足することを予測してのことです。当たり前のことですが、すべての国は自分の国の食料をすぐに確保します。

日本は円安で海外からの輸入品がすべて高額になっていきます。すると、今まで国内で安く買えていたものも次第に値上がりしていきます。小麦やお米、大豆をはじめ、あらゆるものを輸入に頼る日本は今はまだ資金があるからなんとかなりますがいよいよ世界の国々が輸出をストップすれば経済危機と食料危機がやってきます。

そもそも世界大戦とは何か、それは世界を巻き込んだ争いに発展していくことをいいます。最初は食料危機からかもしれません、そして経済危機、最後は国家存続の危機に陥り、そういう国々が連帯して資源のある国や食料を求めて戦争をはじめていくのです。

だからこそその争いに巻き込まれないように食料自給率があるということは重要なことになります。

日本人の食生活はこの輸入にあわせて変化してきました。ほとんどが小麦をはじめフルーツ、肉なども海外のものになっています。本来の和食はとても質素でした。日本人はもともとお米を中心に味噌や漬物、そして小魚、貝などを主食をしていました。今のように贅沢な食卓になっていったのもまた、この輸入政策が影響してきました。

いよいよ食糧危機となったとき、私たちの世代ははじめて国に食料がないという体験をすることになるでしょう。その時、どのように暮らしをしていくか。今から準備している必要があると思っています。それは材料を確保するということだけではありません。本来の伝統的な暮らしに回帰して何があっても対応できるようにする準備がいるのです。

だからこそ私は暮らしフルネスを通して、子どもたちはじめ自らがその実践を通して危機に備えていく必要性を発信しています。長い目で観て、まさかということはたくさん起きるのが人類の歴史です。今回のコロナ感染症も世界を巻き込みました。そしてウクライナのことも世界を巻き込んでいます。他人事ではなく、今は有事なのです。

もっと危機感をもって、みんなで知恵を出し合い、これからの難局にどうみんなで助け合い乗り越えていくかを考えていきたいと思います。子どもたちのことが一番心配です、だからこそ大人である私達こそその第一線で真摯に向き合うことを大事にしていきたいと思います。

知恵を学び直す

むかしの格言には様々な知恵があるものです。それは生きていく中で先人たちが実体験して、得た法則のようなものが取り入れられているからです。それを長い年月をかけて何回も検証し、自然や時代の篩にかけられても残っているものだからです。

実体験を如何に観察していくか、それは反省と改善の繰り返しです。人生経験の豊富な人や長老たちは知恵の宝庫です。それは人生の中で何度も試行錯誤して学んできたからです。

そう考えてみると自然界も同じです。

すべての生き物は知恵を持っています。それが進化に現れていきます。時代が変わっても環境が変わっても適応していきます。そして知恵に生きている生き物はずっと生き延びています。長いもので数億年も同じように生き続けられています。それは自然の法則に沿っていることであり知恵そのものを生きているからでもあります。

知恵は自然の摂理です。自然の摂理というものは、私たちは自然の一部ですから自然が存在している以上、自然に寄り添って自然の知恵を持てば自然と共生していくことができます。

逆に自然から離れて、自然から反するとそれは知恵ではありません。私たち人類は、知恵を捨て知識ばかりを得てきました。知識を得たから自然の摂理を忘れていきました。すると、ある時、自然の摂理を思い出すようなことに遭遇します。そして謙虚にまた知恵を学び直すのです。

私たちは知らず知らずに自然の摂理の中に存在します。この身体も、そして心も精神も、これは空気があるように水があるように、朝晩があるようにあらゆるところに絶対的な影響を受けていきます。そんなものを疑ったり、分かれたりすることは意味もなく、自然であることに安心し、知恵を学ぶことで仕合せの意味を感じ直すこともできるのです。

最近、ウェルビーイングが世界的に流行っています。生き甲斐や働き甲斐、また暮らし甲斐など心身健康である生き方のことです。逆を言えば、心身不健康になっているから求めているということでもあります。

自然に寄り添うということの豊かさ、そして自分自身であることの仕合せ、真の喜びは自然体の中にあり、それは知恵を学び直すことで得られます。私の取り組む「場」にはそれがあります。

子どもたちに子どもらしく子どもが憧れる未来と共に今を歩んでいきたいと思います。