本当の基本とは

何をするにも基本というものがあります。その基本は、その基本を話す人の定義によって異なるものです。この意味を辞書でひくと物事の判断、行動または存在などのよりどころとなるもと。大もと。どだい。基準。基礎とあります。

この基本は「中心」、基礎は「土台」ともいわれますが、両者はほぼ同じ意味の言葉で使われています。例えば「基本を身につける」と「基礎を身につける」などです。

しかしこの基本がわかるというのはどういうことか、これを深めていると色々と思うことがあります。私は、なんでも好奇心があり取り組んでいきますからこの基本というベースを本当に意味でわかるからそれを応用して様々なことに取り組めます。

自分でも自分は百姓といって、あらゆるものを自分で取り組んでいますからこの基本を理解するというのはとても大事なことに思うのです。

私が思う基本は、自然から学ぶということです。

もともと私たちはこの宇宙や地球を含めた自然の一部としてこの世に存在しています。当然、私たちを成り立たせているものの中心は自然であることは間違いありません。その自然がどうなっているのかを理解しているということは、基本は理解しているということです。

では何が自然かということになると、それは言葉で語れるものではなく直観するものです。何を直感するかといえば、無数の全体を構成している要素を丸ごと理解しているという具合です。例えば、自然のリズムであったり、四季の循環であったり、あるいはいのちや共生などあらゆるものを感得することです。

人間は知識を得てから自然から少し遠ざかっていきました。しかし、結局はどこまで突き詰めても私たちの科学は自然を応用したに過ぎず、すべての基本や基礎は自然そのものです。

なぜ幼少期に自然に親しむのがよいのかといえば、この自然の基本や基礎を身に着ける場を得られるからです。しかしそれで終わりではなく、一生をかけて自然を学び続けていくのが本来の人間の素養でしょう。

子どもたちにそのモデルになるような生き方や実践を伝承していきたいと思います。

寿命をととのえる

人間にも寿命があるように物にも寿命があります。その寿命は、形あるものとカタチのないものもあります。形のあるものは、身の回りの物体、目に見え手に取れるものすべてのものです。そしてカタチのないものは、いのりや願いなどの想念、言い換えれば魂や遺志などです。

前者の形のものは形をなくしてもまた時間をかけて再生しまた別の形になります。それは土が集まって山になったり、石になったり、もしくは木や水などあらゆるこの世のものは形を換えて変化しては役目を持ちます。そうやって歳月を経ては繰り返し、循環を続けています。

そして物には同時にカタチのないものもあります。それは物が語るように、その物とのご縁で結ばれた様々な歴史がその物に語り継がれていくのです。その物語は、その物に触れて感じていくことで直観していくものです。

私の周りには、古民家甦生をしているからか伝来物の古い道具ばかりありいつも手入れをするとその物のもっている歴史に触れていくことができます。特に人に大切につかわれてきたもの、そして仕合せな記憶を持っている道具たちは歳月の中で新たに出会うご縁をとても楽しみにしているようにも思います。

いつまでも綺麗に磨いてくれる存在、そして丁寧にお手入れしてくれる存在によって私たちは仕合せを感じます。大事にしてくれたご縁や記憶はいつまでも心の中に遺るように、物にも残っています。

すべての存在には物語があるという真実。

こういうことを感じながら生きている人は、一期一会のご縁を大切に生きていくことができます。目には見えないからと言って無視するのではなく、眼には見えなくてもその存在に気づいていくことが私たちが目覚めるためには必要です。

気づく感性を磨いていくことが、物語を聴く力を磨いていけます。

聴福人、聴福庵の庵主として物の声を聴いて寿命をととのえていきたいと思います。

真の融合

最先端と伝統文化の融合をみていて色々と思うことがあります。私は先人の智慧や先人の願いや祈りを尊重しますからあまり目新しくなる感じにはなりません。むしろ地味で、何が新しいのかわからないという具合にほとんどが目には見えません。今、あるものを活かし、そのあるものを別のものと組み合わせていくなかで今の自分に相応しい使い方を味わいます。

器というものは、その器は無です。しかしその器に何を載せるのか、もしくはその器をどう使うのかは、その器の天命にも関わってくるものです。

ある器は、飾り物になり、ある器は花の場になり、またある器は何かの想いを宿します。器は器、そして私たちもまた器にもなりえる存在でもあります。難しくなってきたかもしれませんがシンプルにいえば、徳を磨いていくということです。

私は古いものと新しいものを融合するとき、そこに徳を見出します。その徳は、いのちを尊重する中で顕現してきます。丁寧に磨き、丹精を籠めてお手入れをする。そうして、みんなが喜ぶように、そして少しでも長く幸福になれるようにとそのものの豊かさをみんなで味わいます。

ご縁を大切にしていく中で、自分に与えられた天命に従っていく。

そういう生き方が折り重なっていくとき、私たちは縦の糸と横の糸を結ぶように一期一会の融合に出会います。

よく考えてみるとわかります。

私たちの今もまた古いものと新しいものは融合し続けています。それは自分自身がそうであるからです。先祖からずっとつながっている自分、そして今を生きる自分。先人の恩徳に深く感謝して、今も子孫のために謙虚に自らを磨いて今以上に美しい世の中を推譲していく。

こういうことの繰り返しの中にこそ、真の新しいものと古いものの融合があるのです。見た目の融合ではなく、真の融合なのです。

私の取り組んでいることは、すぐにはわからないかもしれませんが時を経て歴史や時代に鑑照すればいつかは理解してくださる人も増えていきます。悔いのないよう、今とご縁を結んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの真価

春うららかな天気が続くと、犬や猫、鳥たちも心地よくゆったりと過ごしています。自然は四季のめぐりと共に、自然のリズムで時が流れます。現在のような人間都合のスケジュールではなく、まさに自然の時は全生命の時でもあります。

本来、むかしは人間も同様に自然のリズムで暮らしをしていました。今では暮らしが失われ、労働するための時間に管理されなかなか自然のリズムで生きることは難しくなっています。

その中で、暮らしの意味も変わり、暮らしはリズムとは関係のないものとして言葉も定義されて使われます。私の定義する暮らしは、自然のリズムのことであり決して日常生活のことをいうのではないのです。

私たちは本来、この自然の営みの中に伝統的な暮らしを持っていました。これを生活文化ともいうのでしょう。この文化が失われて、現代のような文明が優先されていく生き方が求められ息苦しくなっている人も増えているように思います。

子どもたちは、自然そのもので産まれてくる存在です。その最初の三つ子の魂のときは、私はできる限り自然のリズムで生きられるような環境を用意する方がいいと思うのです。それが地球で自立して生き残るためのチカラを得ることができるからです。

あまりにも早期に文明に慣れさせすぎると、人間は性格のバランスがととのわなくなります。人間の性格は、その後の社会でのバランス感覚や、その人が自分の人生をよりよく生きるための柔軟性に影響が出てきます。

だからこそ、私たちの先祖たちは日本の家屋の中で自然のリズムと調和する暮らしを永続して生きる力、生き残る力を醸成し伝承を続けたのでしょう。

私が古民家にこだわる理由も、自然のリズムと一体になって暮らしていくのに都合がいいからです。もちろん、大都会でもできなくはないですが圧倒的に自然のリズムに包まれにくいから智慧と工夫が必要になっているのです。それは決してデジタルで無理やりに自然をつくることではありません。もっと、リズムを考えて暮らしをととのえていく工夫をみんなで知恵を絞って取り組んでいくということです。

私の暮らしフルネスは、足るを知る暮らしと一般的にはお伝えしますが自然のリズム側から話せば暮らしだけで充分という意味でもあります。

暮らしの真価を子どもたちに伝承して、今と未来をよりよくしていきたいと思います。

英彦山の菩提樹

昨日、英彦山の宗像神社の境内にある菩提樹周辺のお掃除をしてきました。もともとここはかつて弁財天をお祀りしていて明治の神仏分離や廃仏毀釈で宗像神社に代わったものです。

本来、ここは寺院だった証としてもこの菩提樹があります。この菩提樹は、植物名ではありません。この「菩提」はサンスクリット語の「ボーディ」(bodhi)の音写で、仏の悟りという意味を現します。なので菩提樹というと、仏の悟った樹という名称なのです。もともと仏陀は苦行難行の末菩提樹の樹の元で坐禅を組み、12月8日明けの明星と共に悟りを開いたといいます。仏陀はこの菩提樹と共に悟ったということでしょう。

今でもインドのブッタガヤには二千五百年前にその下で悟りを開いたといわれる菩提樹の巨木が存在しているそうです。日本では、インドボダイジュではなく中国産の支那菩提樹が植えられています。これは栄西禅師が文治5年(1189)香椎の文治寺植え、後建久6年(1195)に奈良東大寺鯖木の跡に植えられたものが各地の寺院に植えられたご縁でそうなっているようです。

この英彦山の菩提樹は県指定の天然記念物で昭和39年に指定されました。この天然記念物指定とは、文化的、歴史的にも価値があり日本の宝として保存していきたいというものです。

菩提樹の歴史をよく眺めると仏陀とのご縁で広がり、またその後の仏教の弾圧などを受ける因果の樹木でもあります。仏教と共に歩み、そして様々な歴史の苦難を共にしてきた不思議な樹です。私にはこの菩提樹の佇まいが仏陀の化身そのものにも観え、不思議な気持ちになります。

英彦山の守静坊にある枝垂れ桜も、数奇な運命で今も存在していますが同じ下谷を守り続けているこの菩提樹もまた数奇な運命であることを直感します。

この不思議な2本の樹木は、誰が何のために植え、そして今も何を語っているのか。

こうなってくると直観や五次元や量子の世界の話になってしまいますがこの樹木たちが歴史をとおして見てきたもの、そしてこの樹木に語り掛けてきたご縁のある人たちの想いを今に伝えているように私には感じます。

歴史のなかで、今も生き残り人々に触媒として何かを伝道し伝承する存在こそ日本の宝です。私もこのご縁を通して、未来の子どもたちに大切な宝を守り譲っていきたいと思います。

自然の仕組み

私たちは1年のめぐりを四季を通して行います。1000年続いていれば、1000回の四季を、そして2000年続いていれば2000回の四季を巡ってきたことになります。私たちは時代を年数で捉えますが、実際にはその回数繰り返してきたということでもあるのです。

自然の仕組みは見事で、毎年同じように繰り返されます。その都度、はじめからやり直すようになっていて私たちはその自然に合わせて自分たちもはじめに戻します。例えば、種を蒔き、芽が出て、花が咲き、実をつけまた種になる。この繰り返しですが、自然はその前の一年と同じことはほぼありません。毎回、はじめに戻りますが同じことは二度とありません。

その都度、私たちは謙虚に自然の姿から学び、自分たちを変化に合わせて成長させていく必要が出てきます。つまり自然の変化にあわせて私たちも進化し続けているのです。

同じように菜の花が咲いても、同じ菜の花はない。

これはタイミングも異なれば、同じ量でもない、大きさも形状も前の年とは異なります。つまり自然のあらゆる生命は同じように、自然と調和しながら進化を已みません。そして一緒に、進化して生きているのです。

私たちは自然と共生しながら、その生き方を学び、同じように変化に合わせて繰り返しの中でいのちを磨き直していきます。

いつまでも同じようにしていくのは、私たちが自然の存在であるからです。

大事な時こそ、今までどのようにして暮らしを営んできたのか原点回帰していたいものです。謙虚に、人類の行く末と子どもたちの平和のために尽力していきたいと思います。

お役目

遺志というものは時代を超えて受け継がれていくものです。しかもそのバトンは、受け継がれながら永続していくものです。肉体は滅んでも、魂は生きているという言い方をすることもありますが形を変えて生き続けているということでしょう。

これは歴史や伝統文化などに触れると、人はそれを直感します。

私たちは一代では為し遂げられなかったことを代々を重ねて為し遂げるのです。そこにはいろいろな人たちの想いが生きていて、その想いと共に歩み目的に向かってつながっていくのです。

私たちは想いが人をつなげていくのです。その想いは、歴史がつなぎます。

例えば、すでに失われてしまったような遺跡であったり、もう語り部がいなくなってしまったら終わりかというとそうではありません。遺跡も磨けばその失われたものが想いと共に顕現してきます。そして語り部も遺伝子を含め、深い記憶を持っている人たちが引き寄せられまた新たにそこから語り部となり甦生していくのです。

まるで眠っていたものを目覚めるように、そして地下水脈の水が井戸を通して溢れ出てくるように失われていたと思っていたものが見事に復活してくるのです。

私たちはその復活してくるものの呼び水になればいいということです。

現在、取り組んでいる歴史の甦生は日本人が代々受け継いできた生き方やあり方、そして精神や魂などの根源とのつながりを結び直す作業です。こんなことをしたからと何かすぐにメリットがあるわけでありませんが、ご縁を大切にしていくなかで渡された襷は次代へとつないでいく責任もあります。

子どもたちが安心して、仕合せな暮らしを伝承していけるように私のお役目を果たしていきたいと思います。

 

真の調和

最近、ブロックチェーンの関係でweb3.0の話ばかりを耳にします。そもそも思い返せば、25年前にインターネットもなかったような時代から今までずっとITに関わり、会社を経営していく中での経過を見ているとおおよそのことは予想していた通りでした。人間が使うものだから、人間がどのようにその道具を使っていくのかは歴史を見れば大体同じです。

情報などわかりやすいものですが、誰か特定の人だけが知っていた李、既得権益で隠したりしていると、それを持っている人と持っていない人で格差が出ます。それをみんなでオープンにしようといったり、シェアしようとするのは自然な流れです。

そもそもこのweb3.0を最初に提唱した仮想通貨「イーサリアム」の共同創業者のギャビン・ウッド氏がアメリカのスノーデンの告発の問題意識からであるそうです。

中央集権から分散型へ、これもまたある一定のGAFAなどの企業が情報や富を独占する中で、この行き詰った状態を打破するために新たに生まれた産業構造が現れます。シェアリングエコノミーなどのその一つであることが容易にわかります。

産業革命は新しいテクノロジーによって起こりますから、今のブロックチェーンというテクノロジーがどのように産業を換えるのかは産業に関わる人たちの一つの生命線にもなっているということです。

私は、デジタルとアナログのバランスが重要で、本来は人間がデジタルをきちんと理性的に活用していくことを暮らしでととのえていますからどうしてもデジタルだけの方の話は偏って感じます。

最近、結(ゆい)という相互扶助の集まりを甦生し茅葺屋根を甦生しました。みんなブロックチェーンのことはあまり知らなくても、私がそこで話せばすぐにDAOや自律分散型の意味を伝えることができます。また聴福庵というように、物が調和して繋がりあうような場をみせてその概念を伝えることがあります。また羅網のような仏具で話すこともできます。

すでにある概念ですが、理想ははっきりと心にあります。

子どもたちのためにもこれを実現するために、地味なところで根気強く真の調和に挑戦していきます。

今を生きる責任

昨日は、無事に20周年の振り返りを行い21年目に向けて気持ちを新たにしました。これまで支えてきてくださった方々の存在の大きさに改めて感謝する一日になりました。今では、本当にたくさんのご縁に恵まれ、私たちを今も応援し一緒に歩んでいく家族やパートナーが増えました。本当に有難いご縁に深く心から感謝しています。

よく私は大切なことを語るときに「懐かしい未来」という言葉を使います。しかしこれは決してむかしが一番いいからむかしに戻そうと言っているのではありません。最近は、コロナが流行してから以前みたいに集まりたいとか、むかしみたいに海外旅行に行きたいとか、すぐに過去がよかったというような言葉を聞きます。しかし今この時、この瞬間はすでに過去ではなく未来そのものになっています。

だからこそこの今である未来そのものが一番いいとなっていることが仕合せであり、そうやってこの一期一会の今を刷新していくことで懐かしい未来を継いで仕合せをさらに守っていったように思うのです。

先人たちは、自分たちよりも子孫が不幸になってほしいなどと願ったことはありません。今の自分たちの仕合せを同じように、子孫たちにも譲っていきたい、もしくはもっと仕合せになる世の中を創造してほしいと心から願ったはずです。そこには自然界のように無償の愛に満ちています。

だからこそ、今を生きる責任をもっている私たちはこの今をかつての先人や先祖たちが願ったように仕合せな世界にし、また同じように子孫にその仕合せを繋いでいきたいと思うのです。

人は人からされたことをまた他の人にしたいと思うようになります。この連鎖は、ずっと変わらずに今もこの世を支えています。だからこそ謙虚に、子どもたちの仕合せを願い誠実に今を善いものにしていくために精進していく必要があるのです。

過ぎた過去は戻ってきません、その過去を善かったものにするにはこの今をまさに善くしていくことだけに専念していくしかありません。今を見て今に生き切るのは、その時々のご縁を大切にしたいと願うからであり先人たちのような美しい生き方を子孫に繋いでいきたいと思うからです。

今があることに感謝して、いのちと調和していくことが真の豊かさになり心のままに生きることのようにも感じます。これからもいただいてきたご縁を感謝で結び直して、新たなご縁を結んでいきたいと思います。

20周年

起業して20周年を迎え、これから21周年目に入ります。多くの方々にご支援、ご指導をいただいて20年間、子ども第一義の理念に取り組んでくることができました。本当にありがとうございます。

振り返ってみると、最初に会社を立ち上げたときのことを思い出します。満を持して会社を起業したという感じではなく、周囲から押し上げられるように会社をつくることになったのを覚えています。そして最初のスタッフは友人や兄弟などからはじまりました。夢や希望だけはありましたが、他にはほとんど何もなくまさに裸一貫のような感じでした。

それが次第にお客様とのご縁が増え、事業も増え、スタッフも増えていきました。会社としては利益が増えたのですが、目的から少しズレていくのを修正するばかりにエネルギーを奪われて疲れていきました。そこから理念を定め、理念経営に舵を切り、色々な事業や取り組む内容をととのえていきました。老舗企業を研究し、どうしたら1000年続く会社になるのだろうかと試行錯誤しているうちに会社もスリムになり、今に至ります。

この今も、裸一貫のような気持ちで続けていますが家族が増え、同志が増え、子ども第一義の理想に向かってみんなで手を取り合って挑戦を続ける日々を送らせていただいています。

カグヤという会社は竹取物語が由来で竹がよく使われます。この竹には節目があり、節目があることが成長の証でもあり柔軟にしなやかに逞しくなっていく由縁でもあります。

会社の節目は何だったのか。思い返すと、たくさんあります。事件ばかり、感動ばかり、ご縁ばかりの20年でした。今日は、みんなで東京のライトハウスに集まりその節目を振り返る一日になります。

これからも子ども第一義の理念を実践し、1000年先の未来から逆算をして私たちにしかできないことをやり遂げていきたいと思います。