山岳信仰の甦生

英彦山は霊峰として太古のむかしから先人たちに尊ばれてきた場所です。山の中に棲んでみて場をととのえるとその異界感を感じます。特に、雨を中心に水気を感じると全体が水に包まれているのを感じます。

もともと山岳信仰というものは、水分(みまくり)の神様をお祀りします。山の猟師たちも山には女神がいると信じられてきました。水は農耕を司り、そして私たちの食事を支えてくれる大切な存在です。今、私たちが食べることに困らないのはお山の御蔭ということになります。

なぜ険しく高い山々になぜ私たちの先祖は祈り拝んだのか、

食べ物のことから掘り下げてみると今の時代は、食べ物はどこからがはじまりなのかなど考えることはほとんどありません。スーパーやコンビニに当たり前に買え、流通も世界中を網羅していますから海外のものや日頃は手に入らない珍しいものまで揃っています。もしもこれらがない時代はどうだったか、少し想像力を働かせてみるとわかることがあります。

最初の先祖たちは自然から分けていただけるものを食事としていただいていました。木の実をはじめ、果物、野草や野菜、川の魚や貝などです。雨が降らなければもちろんこれらの食べ物は一つとしてありません。なので雨乞いをしたのは、食べ物を分けていただくためです。そして雨が降っても山岳がなければその水はあっという間に海に流れてなくなります。川が何日も水が流れ続けるのも、養分を海に運んでくれて魚が増えるのもすべて山岳の御蔭ということになります。

お山に供物を捧げて供養と祈祷をするようになるのも、これは当然の歴史であることが簡単にわかります。それは貴重な恩恵をいただくお山の神様への感謝をいのっているのです。宗教が山に集まってきたのは、そのお山に祈る人たちのお世話をしたからではないかと思います。

人々がお山に来る理由は、そのお山の恩恵をいただいていることへの感謝を忘れていなかったからでしょう。またお山には不思議な力があり、異界があったとも信じられていました。山岳の聖地には、霊験の場が満ちています。澄み切った領域があり、そこに心身を置くと自分の我が取り払われていきます。感覚が研ぎ澄まされることで、人は元々もっていた不思議な能力が開花するものです。

それは嵐や雨を予測できたり、少し先の危機が予感できたり、身体的な機能を著しく上昇できたりと様々です。これは山岳の中で磨かれる力です。そういう人たちがのちに修験道という言われ方をしていたのでしょう。

のちにこういう山岳で自らを磨く人たちを自然と生きる人たちの模範、日本人の模範とされたのではないかと思います。それが明治以降に、国家宗教を設けたことで山岳宗教は禁止になりました。しかしこれはあくまで宗教の話です。

山岳信仰は禁止にはできません。なぜなら今も私たちは山岳の御蔭で暮らしを成り立たせることができているからです。山岳信仰はますますこれから盛んになると私は信じています。

そのためにお山での暮らしを甦生しているのです。私はもともと宗教には尊敬はありますが憧れはありません。しかし生き方としてお山で生きている人たちのことは憧れがあります。

引き続き、子孫たちへ先人たちの大切にしてきた暮らしが伝承されていくように英彦山から日本や世界へ祈りを続けていきたいと思います。

面白いことの本質

昨日は無事に英彦山守静坊で夏至祭を行うことができました。天気予報では大雨でしたが、奇跡的に晴れ間が広がり徳積講の仲間たちのと夏至の日の光の浄化を楽しみ味わうことができました。

今朝の英彦山はずっと雨で昨日の太陽がまるで嘘のようです。以前、冬至祭の時もでしたが深く自然への畏敬が通じているのか運のよいことが続きます。

今回の神事もまたいつものように暮らしの中で行いました。みんなで共に祝詞をあげ、一緒に般若心経を唱え、一人ずつ私の発案の備長炭護摩焚きをし、火吹き煤竹で息を吹きかけ音と火の明かりでこの一年の半分のあらゆるものを省みて願い、祈り浄化しました。その後は、西から入る太陽を神鏡に写し、その反射した光を1人ずつ浴びて祈り新たないのちを喜びました。鏡が265年前のものですから、途絶えていた伝承をまた新たに繋ぎ直したことになります。

みんなの顔に光を当てると一人ひとりが神々しくなり、まさに「面白き」状態で喜びと福と仕合せに満ちました。

もともと面白いの語源は、「面白し」という古代の言葉から派生したものともいわれます。目の前が明るくなった状態や火に照らされた顔が白く浮かび上がったという説がありますが、まさに昨日のお祀りはその説そのものを実体験するような”面白い夏至祭”になりました。

毎日、浴びている光を改めてじっくりと味わい一期一会に感謝してみんなで喜び面白くなる。こんな豊かさが果たしてあるでしょうか。行事のための行事や、イベントのためのイベントではなく暮らしの一コマとしてみんなと分かち合う喜びと仕合せは格別なものです。

私はそれを暮らしフルネスと名付けて実践をし、この今、一期一会のその時々を味わい喜び、徳を積みいのちを循環させていきますがその都度、偉大な豊かさが溢れ出てきます。

そもそも現代においての「足るを知る」とはどういうことでしょうか。

それは当たり前のこと、つまりは当たり前と気にもとめない日頃の暮らしを見つめ直しそれをさらに深く味わい盡すということだと私は思います。先人たちがしてきたように、私たちも空氣や水や光や風や火などをはじめ当たり前にある存在に深く気づき初心を忘れずに和合する感性を磨いているということではないでしょうか。

昨夜は一晩中、その太陽からの光の火を焚きみんなで面白くなっていました。

この時代の面白くかる本質は、うれしい、たのしい、しあわせ、ありがたいという暮らしフルネスの喜びを実践していくことです。

子どもたちがいつまでも豊かに生きていけるようにこれから冬至へ向けて、これからまた太陽の光と共に面白く歩んでいきたいと思います。

クラシフリー

昨日、会津にいる友人から「PhaseFree(フェーズフリー)」という言葉を聞きました。これは平常時(日常時)や災害時(非常時)などのフェーズ(社会の状態)に関わらず、適切な生活の質を確保しようとする概念のことをいうそうです。

これは防災の概念から産まれた言葉の一つだといいます。では防災とはどう違うのかというと、人々が備えることを前提としているのが防災、人々は備えられないことを前提としているのがフェーズフリーであるといいます。

また具体的には、平常時と防災時と対応をわけるのではなく常に日常そのものが防災的な暮らしをしているということだと私は思います。普段でも活用できるもので防災時にもそのまま活用できるという平時も防災も選ばない普遍的な状態を保つということでしょう。

またフェーズフリーの5原則というものがあります。そこにはこうあります。

常活性 どのような状況においても利用できること。
日常性 日常から使えること。日常の感性に合っていること。
直感性 使い方、使用限界、利用限界が分かりやすいこと。
触発性 気づき、意識、災害に対するイメージを生むこと。
普及性 参加でき、広めたりできること。

これが最近では、商品開発などでも使われています。昨日の友人は、玄米ポンセンを取り扱っていて日常食としても防災食としてもそのまま役に立つことが大事だと話をしていました。

これはよく考えてみると、今の日本のようにありあまる富と豊富な物資、消費経済のなかで廃棄することも価値のようになっている金融が中心になっている世の中においてはそもそもが防災対応ではなく嗜好的なライフスタイルに傾いているものです。

本来は、先人たちが暮らしそのものがこのフェーズフリーでしたがそうではない世の中になるとこれが新しい概念ということになるのでしょう。

私は古民家甦生をはじめ、暮らしフルネスを実践していますのでフェーズフリーの生活をしているともいえます。漬物をはじめとした発酵食、また炭を中心に井戸水での暮らし。身近な畑に野草、薬草を取り入れ、乾燥野菜や保存食もつくります。また暮らしの道具たちも先人たちが大切にしてきた知恵のあるむかしの道具ばかりです。

もちろん現代の道具もフル活用しますが、それだけではなく先人たちの懐かしい暮らしは保っています。これは別に防災のためということではなく、暮らしが豊かになり幸福が増すからです。

例えば、ガスでつくる料理は早く便利ですが炭火で火吹き竹をつかいつくる料理は別の意味で格別なものです。火の通り方も異なりますが、その火に触れる時間、また味も意識もまったく変わります。

そう考えてみると、災害時はお金を稼ぐ活動に時間が使えなくなりますからその分、豊かな時間がたくさん増えるということでしょう。私たちは金融的な経済活動を優先するあまり防災する暇もなくなっているという悪循環の生活スタイルを生きているともいえます。

子どもたちには、防災を学ぶことも大切ですがなぜ防災意識そのものが失われるのかのことも同時に現実として伝えていきたいものです。まさに暮らしが中心、知恵のある生き方、知恵を実践する暮らしフルネスはクラシフリーとしてこの先も必ず知恵と共に人々を助けていくように思います。

 

お水

私たちの先祖はお水というものをとても大切にしました。西洋でいうところのウォーターではなく、オミズ(お水)といってそれは命のある存在、神様として大切にしてきました。

これは当たり前の事実ですが、私たちがもっとも生命を維持するのに欠かせないものはお水です。現代では、スマートフォンがなくなったらという人もいますがそれはなくても何とかなるものです。しかしお水がなくなれば、すぐに生命の危機になります。

現代の日本では水道水をはじめあたりまえにどこでも手に入るものになりました。蛇口をひねればすぐにじゃぶじゃぶと流れていきます。お風呂やシャワーなども大量に無制限にあるように感じてしまいますが、実際に私たちが飲めるものは地球上のほんのわずかしかありません。

私たちの国土、日本はお水に恵まれた場所です。気候の御蔭や地球上の立地、また森林によってたくさんのお水が流れてきます。それを田んぼによって貯水し、さらに国土をお水で包みます。

先人たちが長い時間をかけて、どのようにお水を循環させていくともっとも国土が豊かになるのかを試行錯誤してきた知恵の結晶です。

その分、お水への感謝というのは欠かせないものでした。水源地には水神( 水分神 (みくまりのかみ))さまとしてお祀りしてきました。お山の神様と深い結びつきがあり、共に尊敬してお祀りします。また農耕以外の日常生活で使用する水については、井戸・水汲み場にもお祀りしています。古来から水神の象徴は河童 、 蛇 、 龍 などに観立てられ大切にしてきました。

空を眺めれば雲が流れる様子に龍を感じ、川を遠くから眺めれば蛇のように感じ、湖畔や河には河童がいると感じました。まるで一つの生き物のようにお水の存在を感じて接していたのがわかります。

現代の水道の蛇口をひねってもそれがいるようには感じないものです。私は幸運にも、古民家甦生で井戸に接する機会や、宿坊での生活で山の湧水などに触れる機会が多いため、お水の存在を身近にいつも感じています。

私たちの身体をはじめ、地球はお水に包まれていますからお水の形を変えては記憶を辿り流れ続けていくことができます。お水への接し方は、一つではなく尊敬の深さや信仰の厚みによって変わっていくものです。

お水への配慮を忘れないように丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。

人の修行

この数日間、曹洞宗の禅僧と共に禅の作法で食事をとりました。食べる前には、五観の偈を唱えます。この「偈」はサンスクリット語でいう偈文のことで仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べるものをいいます。五観というは、下記のことをいいます。(曹洞宗SOTOZENーNETより)

ひとつにはこう多少たしょうはかり 来処らいしょはか

ふたつにはおのれ徳行とくぎょうの 全欠をぜんけっ(と)はかっておう

つにはしんふせとがはなるることは 貪等とんとうしゅうとす

つにはまさ良薬りょうやくこととするは 形枯ぎょうこりょうぜんがためなり

いつつには成道じょうどうためゆえに 今此いまこじき

食材の命の尊さと、かけられた多くの手間と苦労に思いをめぐらせよう

この食事をいただくに値する正しき行いをなそうと努めているか反省しよう

むさぼり、怒り、愚かさなど過ちにつながる迷いの心を誡めていただこう

欲望を満たすためではなく健康を保つための良き薬として受け止めよう

皆で共に仏道を成すことを願い、ありがたくこの食事をいただきましょう

食べる前に、この五観の偈を唱えると身が引き締まる思いがします。そして食べはじめてからも、静かに瞑想のような気持ちで最後までいただきます。またお椀を片付ける前にも、お茶を注ぎお椀一つ一つを調えながら一つ残らずに綺麗に食べ終えます。

食べることを修行にしているという点で、私たちが何を大切にしてきたのかを思い出すことができます。食べるという行為は貪る行為にもなりますが、生きるために必要な行為でもあります。食べることが分かるというのは、自分たちが生きることが分かるということかもしれません。

そういう意味で、禅僧と共に暮らしを味わうと日々の動作の中にすべて修行の初心があり、それを日々に忘れない工夫で満ちていることがわかります。食事も作るときも修行、片付けも修行、消化している時も修行、その食べ物を活かすのも修行、あらゆる日常の全てがまさに修行そのものという生き方を示します。

これは日常、これは修行と使い分けることではなくまさに今、この暮らしそのものがすべて修行という意識で生きていくことは私の言い方ではいつも初心を忘れることがない生き方をするということでもあります。

私の実践する暮らしフルネスもまた同じく、暮らしそのものが修行という意味で同じです。そして修行の定義は、徳を積むことです。徳を積むとは、自分の喜びが全体の喜びになり、みんなの喜びもまた自分の喜びになるという自他一体の境地でいることです。

そうであるために、常に日々を磨いて日々を味わい、日々を一期一会に調えていくという具合です。生き方を同じくする仲間や同志との暮らしは心地よく、味わい深いものです。

子どもたちや子孫に、自然に先人たちの尊い生き方が伝承できるように場を調えていきたいと思います。

偉大な人

私たちは、もともと根源というものを持っています。これは原始ともいえます。この根源や原始の感覚というのは、知識をまた前の自分ともいえます。

知識を持つとそこが起点となり、根源や原始の感覚を忘れていくものです。これは経験や体験が増えていくにつれて仕方のないことともいえます。

しかしふとしたことから、例えば死にかけるような体験、あるいは生まれ変わるような体験を通して目覚めて、それまでの知識を削り取っていくような学びの削除に向かっていく方々がおられます。

つまり根源や原始に近づいていくような生き方です。すると、現代の価値観からはかなり遠ざかってしまつことがあります。

そうなると奇人変人とも言われ、狂っているとも言われたりするものです。

しかし、それは人々に知識があり、その知識を通しているからこそ、そう見えるというものがあります。知識がある人は知識がない人を狂ったように感じるからです。

これは子どもや老人だと、仕方ないと受け入れてもまともな成人であればなかなか許されないことです。しかし、そうではないこともあるのですからよくよく考えないといけません。

人類は偉大な人たちによってたくさん助けていただきました。偉大な人が育つ環境をととのえていくことが子孫のためにも必要です。

これからの時代の学び方を伝承していきたいと思います。

感覚と記憶

昨日から聴福庵に来客があっていますが、その方は感覚を最優先して物事を理解されている方です。外国の方なので言葉は通じませんが、感覚で色々なことを伝えてきます。言語というものを用いなくても、人はコミュニケーションをたくさんとっていることを再認識します。

つい対話には言葉ができないとと考えてしまうものですが、実際には言葉を用いなくても様々なものと対話をしています。むしろ言葉にすることによって、そのものを感じることやそのものと対話することよりも先入観や自分の思い込みを走らせてしまい対話を濁らせていることの方が往々にしてよくあるのです。

一日、喋らないで過ごしているだけで精神が研ぎ澄まされ濁らなくなった経験もたくさんあります。特に山の中で静かに作務をして、瞑想や坐禅、あるいは静かに山の風や音に耳を傾けていると自分が澄んでいく感覚になります。

私たちは言語化していくことで、感覚を閉じてしまいそのことであらゆるものが便利に使えるようになってきました。この道具というものは、知識となりその知識量の多さで感覚を用いなくてもよくなってきました。

しかし根源的なものや、原始的なものに触れようとするのならやはり人間も感覚を最優先していかなければそのものと触れることができないように思います。

感覚というものは、無二のものです。

だからこそ、頭で考えないということが必要なのでしょう。矛盾があるのはこのブログは言語化していることです。言語化するというのは、自分の中の整理で使いますし忘れないようにと記しますがこの文章は物事のほんの一端を忘れないように記録しているだけです。記録は記憶のほんの一部を記すものです。

そう考えてみると、感覚と記憶というものは無限です。

今日も、感性の喜びや感謝を忘れないようにして過ごしていきたいと思います。

徳の周波数~暮らしフルネスの智慧

今、私は水鳥が飛来してくるような場所に住んでいて朝から様々な鳥の鳴き声が聞こえてきます。特にこの時期は、繁殖期でもありとても賑やかです。また耳を澄ますと小さな虫の羽音や植物の葉が風で擦れているような音も聴こえます。池の周りを歩いている人の話し声、車が通りすぎるエンジンやタイヤの音もたまに混ざります。

夜中にふと目が覚めるとそういう音は聞こえてきません。ただ、頭の中に響いているようなキーンという一定の響きだけが聞こえてきます。無音というものはそう考えてみるとありません。そして周波数もなくなることはありません。それはすべてのものは音を発しているということになります。

そして振動というものがあります。二つ以上の周波数が混ざり合って振動するというものです。音楽などはあらゆる音が振動して共鳴することで成り立ちます。鳥がお互いに鳴き合っていたらもはやそれは音楽ともいえます。

また地球上にあらゆる音が流れるとそれも音楽です。海の音、太陽が昇る音、風の音や地震、雷や雪などあらゆるものが自然の音を奏でています。周波数というのは、その存在そのものを顕現するように思います。

これはどんな周波数だろうかと私たちは音を聴きます。それは対話でも同じく、場を味わうときも同じです。そこに流れている周波数を通して、そのものの正体を察知することができるのです。

ある意味、すべての物質も周波数を常に奏でています。そして同時にそれが集まれば振動となります。どのような共鳴をするか、どのような調和をするかは、その周波数を感じる人によって調整、調律されるのです。

私は、手で調整や調律をします。それをお手入れともいいます。一つ一つのものを手で触り、それを磨き調えて適切に配置してそのものがそのものであるように、そして持ち味が活かせるように配置していきます。そのものがもっとも喜んでいるとき、喜びの周波数が出てきます。その喜びの周波数を自分が同時に喜んでいるとき、そこに徳の周波数が発生します。

徳の周波数を大切にすれば、人はその徳に目覚め徳の素晴らしさに感動するのです。引き続きこの知恵を子孫へと場を通して伝承していきたいと思います。

発酵の妙味

発酵のことを学んでいると、色々と人類の固定概念が覆ってきた歴史を感じます。そもそもこの発酵というものの技術は人類を長い間支えてきたものです。日本でも、麹菌をはじめ納豆などの枯草菌や土を元氣にする土壌微生物は太古のむかしから共存していますしペニシリンなどのカビ菌も健康を下支えしてくれてきました。

この菌というものは最初は、無から誕生するといわれ信じられてきました。顕微鏡もなかった時代、物質の時間的変化を観てはそう思ったのも無理はありません。空間の中に突如として別のことが発生するというとき、人はそれを神掛かりとしたのでしょう。

その後、パスツールの実験によって変化は空間の微生物の仕業だと解明されます。しかし実際のところ、宇宙根源から観たらアリストテレスの言う「自然発生的に無から出てきた」というのは真理だということは直観できるものです。そもそも今の地球がどこから誕生したのか、宇宙が何から誕生したのか、未だに解明されていませんし解明することもありません。それはこの世はすべて目に見えるものだけしかないわけではなく、意識や念、魂というような目に見えないものも同時に渾然一体となっているからです。

しかし科学というものは、その中から解明できる部分だけを発見しそれを都合が善い部分だけ人工的に利用することで人類の思い通りに加工してきてそれを進歩や発展としてきたのでそれが真理のように取って換わってきたように思います。

この発酵というものは、実際のところはいのちの話ですからよく分からないところはまだまだたくさんあります。麹菌においても、日本人に合うように飼育されて変化して今に至りますし、田んぼの土なども真心を籠めて見守り関わっていると微生物との関係性ができて地力があがりよく作物が育つようになります。人間の腸内細菌もまた、同様に腸内フローラがよくなるような生き方や食べ物によって健康が保たれます。

まるで意志を持ち、人間と同じような個性や特性を持っている菌を果たしてどう捉えるか。ある人は、人間の正体は本当は菌であるという人もいます。確かに、腸内細菌が脳を支配し、全身の微生物の調和によってウイルスなどとも和合し自然の循環の中で自然と共生しているのも菌です。

またある人は、人間はミミズが変化したものともいいます。土を食べ、菌が食べてさらによい土にしていくという循環の仕組みは本来は人間と同じです。

現代は、人間が科学的なものや不自然ものを摂取して体内の微生物たちも色々と変化していますが本来は自然と共生する菌たちの相互扶助の仕組みで生命は循環しているのでしょう。

目には観えなくても、この手のひらにも空気中にも、そして水の中にも微生物たちで満たされています。最近は、殺菌ばかりしていますがこれも何だか本末転倒というかちぐはぐというか知的文明を語りながら刷り込みというのは滑稽なことだなと感じます。

もちろんどうしても滅菌している空間でないと難しい時は当然ですが、自分たちが微生物の親類であることを忘れるのは残念なことです。今でも私たちはお酒をはじめパン、みそ汁など日々は微生物の活躍に頼っています。

尊敬の気持ちを忘れずに、子孫たちへ発酵の妙味を伝承していきたいと思います。

伝統の魂

現在、英彦山の宿坊での暮らしを調えていくなかでかつてその場所で行われていたことを一つ一つを甦生させています。その中で、学び直すことが多く私たちの先人たちがどのような伝統を創造してきたかも気づき直しています。

知識というものは、先に持つこともできますが実際には後で持つ方がためになります。何のためになるかといえば、革新するときのためになるのです。先に伝統を学ぶのではなく、先に伝統に親しむ方が後から変化させることが容易くできます。

私の場合は、場から学び、そのものから理解する癖があり体験を重視し気づきを尊重するので知識が後になることがほとんどです。このブログも、後の知識であることがほとんとで先には親しむだけです。この親しむというものも、素直さが必要でありよくそのものに使われるような謙虚な気持ちがなければなかなかそうならないものです。

よく考えてみると、幼い子どもたちは先に知識がありません。そのものからよく使われているうちに次第に知識が集まり習熟していきます。発達というのは、そのものであるということでしょう。

また伝統というものは、誰かがそれをはじめに創造してそれが時間をかけて繰り返される中で育まれていくものです。しかし気が付くと、形ばかりに囚われて中身がないものがたくさん出てきます。この時の中身とは何か、それは魂ともいえるものです。

かつて柔道の父といわれる嘉納治五郎氏が「伝統とは形を継承することを言わず、その魂を、その精神を継承することを言う」と仰っていました。まさに私も全く同感で伝統だけを保存することに何の意味があるのかと感じます。保存というのは、活かすことであり単にショーケースに居れたり形だけを保ち続けることではないのです。

そこには魂が宿るのですから、その魂を受け継ぐことが真に伝統を革新しているということになると私は思います。

また南方熊楠がこうもいいました。「森を破壊して、何の伝統ぞ。何の神道ぞ。何の日本ぞ。」と。そもそも伝統が最優先ではなく、子孫や自然を如何に守るかということでしょう。その手段としての伝統や神道などがあるということでしょう。

そもそも何のために伝統があるのかを考えれば、そこには守りたいものがあるからでありその守りたいものを守るところに魂があるということです。

伝統の魂を守ることを伝承ともいいます。伝承には純度が必要でそこには魂が宿っていることが最低であり絶対条件でしょう。周囲がどういおうと信念をもって実践できるかどうかが志の登竜門ということでしょう。

引き続き、子孫のためにも英彦山で伝統の革新を続けていきたいと思います。