九州の総鎮守

以前、九州自然歩道のことを調べているとそれが英彦山に続いていたという話を友人に聞いたことがあります。これは長い年月をかけて人々が、信仰によってあるいた巡礼の道があったということも意味しています。

そしてその場所には、点と線を結んだところにそれぞれ総鎮守というものがあります。この総鎮守とは、国または土地の全体をやすらかに守る神や総社のことをいいます。それぞれの住んでいる場所には、それぞれの鎮守がありその広さが大きくなっていきそれをまとめているところが総鎮守という具合です。またそこには一宮、二宮という言い方もします。

大体、その土地や地域を巡り総鎮守にいってみるとそこが何らかの発祥の地であることがわかります。つまり始まりの場所ということです。総鎮守には、全体を広く纏めるという意味とあわせてそこがはじまりの場所であるということもあるように思うのです。

言い換えるのなら、そこからすべての発展がはじまる原点があるということです。人間であれば初心があるということです。

私たちは、道すがら点があるのならそこに原点回帰しながら歩んでいくという智慧を伝承しているからでもあります。何度も生まれ変わり、先祖の想いや祈りを生きている私たちは時としてその原点に出会い自分の役割や使命を振り返ります。道は、巡礼そのものでありそのご縁や御蔭様や意味に触れては感動し感謝するのです。

総鎮守に詣でることは自分の原点を確認することになります。自分の原点を確認すれば人はそこに確かな運命や意味を実感して確信に至ります。勇気の源泉にもなり、偉大な信仰を呼び覚まします。

九州にも総鎮守というものがあるはずです。私はそれを英彦山だと思っています。その理由は九州の歴史は英彦山から始まったことがあまりにも多いことと、九州の巡礼の道が英彦山に向かってつながっているからです。

一つの九州という言い方を九州人はします。英語でONEKYUSHUという言い方もしています。それではその九州の総鎮守はどこかといえば英彦山にこそあります。それをこれから証明していきますが、九州人ならみんな英彦山を大切にすることで原点回帰すると私は信じています。そして九州は日本の始まりの場所ですから、九州が甦生すれば日本全体が甦生するはずです。

忘れてしまった歴史、隠された歴史、失われた歴史を甦生し、九州の場で新たな歴史を結びたいと思います。

 

 

恩を労う

人生の中で、大切なことに挑戦するときいつも周囲の方々が大きな力を貸してくれます。大義があり、真剣に取り組むからこそみんなその努力に共感し手を貸してくださるのです。

そのうち大勢いの方々が参加してくれて応援してくれますが、いつも有難い気持ちに充たされます。今まで振り返ってみると、身近な人たちから特に苦労をかけています。苦労をかけて手伝ってくれていますが、気が付くとそれが当たり前のようになってしまうこともあります。

心では感謝を思っていても、いつも過ぎることで労をねぎらうことを忘れてしまうのです。しかし実際には、もっとも身近で苦労をかけているのですから感謝しているのです。

敢えて、労をねぎらうことはお互いの努力や苦労を分かち合う機会になるように思います。いわなくてもわかっていることを敢えて言うことや、しなくてもいいことを敢えてすることでその労に報います。

私は上手にそれを伝えていることはできているのだろうかと思うことがあります。時に、人によって苦労に対するねぎらいの質量も異なりますからその人がどれだけ頑張ったかを感じる機会は見守るときに感じるように思います。

まだまだ私は身体が動くので周囲と一緒に取り組んでいきますが自分を含め労をねぎらうことをさらに磨いていきたいと感じます。

今日も、英彦山の宿坊の甦生に取り組みまた今回もご縁のある方々と身近な仲間のお力をお借りします。こうやって一つひとつの苦労を分かち合いながら歩んでいけることに仕合せと徳積みを実感しています。

子どもたちの未来のためにも、恩を労い徳に報いる日々を創造していきたいと思います。

世の中で一番

心訓七則というものがあります。福沢諭吉が弘めたものですが作者は誰かはよくわかっていないようです。どちらにしても、これはとても心の持ち方に対して大切な教えが入っているものです。

一、世の中で一番楽しく立派なことは、一生を貫く仕事を持つことである

一、世の中で一番みじめなことは、教養のないことである

一、世の中で一番さびしいことは、仕事のないことである

一、世の中で一番みにくいことは、他人の生活をうらやむことである

一、世の中で一番尊いことは、人に奉仕して決して恩を着せないことである

一、世の中で一番美しいことは、すべてのものに愛情を持つことである

一、世の中で一番悲しいことは、嘘をつくことである

この「世の中で一番」というのは、他にはないものということです。つまりそれ以外はないものという意味になります。例えば、ある人は世の中で一番大切なものは利他であるとします。すると、それ以外は実は必要ないとしているのです。またある人は、世の中で一番大切なものは義だといいます。それも同様に、それ以外は自分の人生においては取るに足らないものということです。

人間は、誰もが初心というものを持っています。他の言い方では業と呼んだ人もいます。その人の使命、人生の役割がその人の世の中で一番であるのです。

この心訓七則ですが、ここでは強調するために世の中で一番と使われていますからこんなに一番ばかりが並んだら本来はおかしなことになります。だからこれは並べて読むものです。

「一生を貫く仕事を持ち、教養があり、他人の生活と比較せず自分を生き抜き、利他に善き、すべてのものにいのちがあるものとして愛情深く接し、正直に生きていくこと。」これがもっとも世の中で一番の生き方であるということを感じさせるためのものです。

理想の生き方として、日本人の伝統的な美しい暮らしを営む人々が世の中で最も尊いと言っているようにも思います。そこから離れないこと、そういう人間にならないように心がけようと戒めているともいえます。

よく考えれば、この逆は「仕事がなく、教養もなく、他人とばかり比べては自分のことばかりを優先し、物を粗末にして嘘ばかりついている生き方。」これを戒めているのです。

学問をしていくのは、志を磨き、精神の働きを高めるためでもあるといいます。まさに、人間は生き方が仕合せを決めますから時代が変わってもその本質は変わりません。しかし環境や場が濁ってくると、それもできなくなってくるのでしょう。

場を磨き高めること、これらの学問の本懐を守り続けることにもつながります。子どもたちが安心して素直に正直に成長していけるように、見守り続けていきたいと思います。

最善観の覚悟

昨日、「最善観」という言葉を改めて知りました。これは教育者、森信三先生が語った言葉です。この意味は、「いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然である共に、またこの私にとっては、最善なはずだ」という根本原理に沿ったものです。

この最善観、私は「禍福一円観」という言葉をよく使いますがほとんど同じような意味に感じています。人は自分に色々なことが毎日発生してきますが、それを自分勝手に左右に分類してはこれはいい、これはよくないと決めていきます。

しかし、そのどれもは本当は現実には自分に最も相応しいことが発生しているのだと実感する人と、これは自分には相応しくないと分別している人がいるだけです。

本当はすべて必然であり、自分の身に発生したことはそれが現実ですからそれを素直に受け取っていくところによりよい人生が開けていくように思います。つまりいいかわるいかではなく、そこに大切な意味があるという生き方でもあります。自分にとって必ず通る道だから天命として絶対安心して歩んでいけということもあります。

これを西洋ではオプティミズムともいい、楽観性と表現します。積極思考ともいうかもしれません。また別の言い方では、「これでいいのだ」という言葉にも似ています。

最初から自分に与えられた自分だけの人生は、他と比べられるものもなく自分自身が体験しながら自分の道を自分の足のみで歩んでいくものです。その道は誰でもなく自分にしかない道、自分にのみ与えられた道だから善悪関係なく「すべて最善」なことだと覚悟して生きるということです。

時折、何で自分がとか、誰かがやるだろうとか、他の人の方がなどと思うこともあるものです。もしくはなぜ自分がや、どうしてこんなことにと悲嘆にくれること、もしくは自分にはもったいないや、自分にこんなにもという恩恵もあるかもしれません。しかしそのどれもをそのままあるがままに受け容れることで最善観を持つことがその人の人生を真に生きることになるように思います。

私はよく考えてみると、まだまだ世間の刷り込みが多く入り込み自分自身というものを正しく認識することができないでいるように思います。というよりも、日々の刷り込みの中で本当の自分、主人公としての自分を日々に顔を洗い目覚めていく鍛錬が不足しているようにも感じます。

自分にしかできないことをやるには、誰とも比べられない自分を生きる必要があります。森信三先生が日々の実践に生きたように、私自身も絶対必然、最善であると自分を鼓舞して素直に謙虚に生きていきたいと思います。

この世のすべての御縁を一期一会と共に歩んでいきます。

ありがとうございます。

螺旋の真理

私は法螺貝を吹いています。この法螺貝はとても不思議で、螺旋の形状をしており音が螺旋状に回転しながら空間に広がります。二つ以上の法螺貝を同時に吹くと、その螺旋が合わさり調和して独特の波動を体感できるほどに振動を味わえます。このような螺旋運動は、宇宙の摂理でもあり私たちの生き方を原点回帰するときにも必要になるように私は思います。

私たちの身体をはじめ、すべてのものはこの螺旋でできています。螺旋は、一つの理解としては遠心力と求心力があります。つまり外に向かって広がっていく力があること、そして内側に向かって深めていく力があることです。

この外と内に向けた力の調和、それが螺旋の本質だと私は直観しています。

宇宙を見てみるとそれはわかります。宇宙は外へといつまでも広がっていく、そして私たちは自分自身という内なるものを磨き上げて深めていこうとする。これが一つの私たちが宇宙でしている体験であって、それを形を変えては宿命的に行い続けているのです。

これは決して物だけでもなく事でも同じです。

時代が循環し世界は広がっていく、同時に私たちは時代を経てさらにさらに奥深い場所へと真理を到達させていく。つまり、この螺旋の外へと螺旋を深くは同じ意味であるということです。

呼吸を吐いて吸うように私たちはこの広げることと深めることといつも繰り返し行っているということです。これは海の波も同じく、そして朝と夜も同じく、男女も、そして生死も同じです。

私が法螺貝を吹くのは、深めたものを広げるためです。

今、世の中はグレートリセットを求める気風が出てきている時代です。日本語だと原点回帰というのでしょう。そのためには、今一度、それを実践で取り組む必要が出てきます。

法螺貝にはその可能性があると私は信じています。

引き続き、子どもたちの未来のためにも自分に与えられた使命を全うしていきたいと思います。

徳に報いる

生きていると御恩をいただいたところに恩返ししたいと次第に思うようになります。恩返しをしたいという気持ちは何処からくるのか、それは自分というものを育ててもらった感謝からくるものです。これは親孝行に似ています。

今までお世話になった存在、大切に育ててくださった存在に対して何かお返ししたいと思うようになるのです。

思い返すと、私も沢山の御恩をいただいてここまで来ました。それは故郷などの土地の恩、そして他の場所でいただいた恩、地球や自然からの恩など数えきれないほどの恩をいただきまた今もその恩を引き続きいただいています。歳を経ていくと共にその恩が観えてくるようになります。

それだけ多くの恩に包まれているのです。その恩に次第に感謝するようになるとき、徳に報いたいと願うようになっていきます。自分を育ててくださったもの、自分というものを与えてくださったすべてに自分は何かできないかと思うようになるのです。それが「徳」を積む動機になります。

この徳は決して良いことをすることが徳になるとはいいません。その人らしく、その人の持ち味を活かして自分にかできないことをやるとき徳は顕現してきます。素直で純粋、真心で恩返しに生きようとするとき徳は湧き出してきます。

なぜ自分にこの才能があるのか、なぜ自分がこれを与えられたのか、なぜ今なのか、そのようななぜを合わせていくとき、可能性を発見し挑戦をしていきます。周囲の固定概念やそれまでのルールに縛られずにその人らしく育てていただいた徳に報いるのです。

その根底にあるもの、それは恩返しの真心からであればそれは徳積の仕合せを深く味わっているように思います。

子どもたちの未来のために、自分がいただいた偉大な御恩を同じように次へと譲り渡していけるように自分らしいやり方と自分の徳で貢献していきたいと思います。

智慧の集積

人間は、よりよく生きるために心を鎮めるための手段をたくさん発明してきました。心の乱れや穢れをどう穏やかにして静かに洗い清めるかはそれぞれにあり、今でもそれは多くの場所で活用されています。

例えば、宗教の儀式や伝統的な暮らし、また芸術芸能などの行事、他にも聖地巡礼や道、作法などです。如何に、浄化していくか、そしてその心の乱れをととのえていくかを何千年も前から行われているのです。

これはもう運命的というか宿命的なものを感じるものです。

その格言も、世界中の思想家、実践家によって今も変わらずに語り継がれみんな子孫たちもそれに従って精進を続けています。

むかしある人に、人は何かを理解するために相対的にしたということを聴いたことがありました。「理解」するために私たちは脳を働かせ、文字を発明し、文明を発展させ、今でもそれをやっているのです。

理解して何になるのかというものもありますが、理解したいという欲求はもう長いこと刷り込まれていますからそれはなくなりません。理解してそれを捨てるというのは、心の力が必要になります。そこには矛盾が発生してくるからです。

不思議な話ですが人間は元々の状態、「純粋無垢」になろうとし体験を経て様々な知識を得て世の中を渡り歩きますがまた元の状態に回帰しようと何度も続けています。それは人の一生でも然り、人類の時代でも然りです。言い換えるのなら、宝石を磨き続けて拭き清め続けて光を放ち続けることに意味があるようで、汚泥の中の蓮の花を美しく咲かせ続けるようで、そこに意味を感じるのでしょう。

私たちはそれぞれの時代にどう磨いていくか、心を穏やかに沈めて純粋に回帰するかは時代を生きるテーマです。今の時代、世界がIT技術で結ばれ世界のあらゆる場所と物理的に繋がってきました。

その御蔭で今まで知らなかったあらゆる知恵が結ばれるようになったともいえます。智慧を集めていくことは、この先の子どもたちの未来に新しい世界を拓いていくためにも大切だと私は感じます。

この場所に暮らしフルネスの智慧を集めて、新たな取り組みに挑戦していきたいと思います。

デジタル証明書の未来

役所にいくと今でもたくさんの証明書の発行が必要になります。本人の確認できるものとして使うものとしては現在は、免許証や保険証、パスポートなどもあります。マイナンバーもはじまり少しずつIT化していますがまだまだ進んでいません。

時代の流れでもうすぐ紙の証明書がなくなっていくことは予想されますが、なかなか今までのものが変わるというのは難しいことです。誰もが電気が止まったらどうするのかや本当に本物かどうかを専門家が確認したのかなど、偽物であっては困るものはこれでもかというくらい確認するものです。

よく考えてみたら印鑑なども5000年も前のメソポタミアではじまっていてそこでも証明をするものを用意していたことになります。

人類にとってこの「証明」というものがこれだけ時代を経てもなくならないのはそれだけ証明は人類にとっては重要なことであるということです。

現在はデジタル証明書というものが出ています。このデジタル証明書はインターネット上で行われる取引に関する事実や価値の真偽を証明するために発行された電子ファイル全般のことです。

紙での契約書を電子契約書にし、署名も電子署名になり、それが本人のものであることを証明するためのものです。

このデジタル証明書は、紙での証明書と同じく第三者機関によって発行さることがほとんどです。これをは「認証局」と呼びます。その認証局がデジタル証明書が本物かを認証します。インターネットでいうSSLなどの仕組みも同じです。

このウェブサイトは、本物かどうか、この商品の売買は間違いないかとうかなど認証局を通していれば安心という具合です。それだけデジタルの世界ではコピーが容易く、なりすましや偽装などができるということでもあります。しかし認証局を通さない複雑なやり取りなどがある場合は新しい解決方法を用意しなければなりません。

そこでブロックチェーン技術の登場でこのデジタル証明書が誕生しています。

ブロックチェーンは書き込んだ情報を変更できないことやブロックチェーン上に分散管理することもできること、さらにそれがいつまでもコストをかけずに保存できることができよりデジタル証明書としての機能が発展しています。

これからのデジタル証明書の可能性は、人類が今まで続いてきた偽装や改ざんなどの歴史の中で如何に信頼性を高めた社会にしていくかという課題と紐づいているように思います。それは権力というものがあるからでもあります。

本来、私たち日本人は信用第一にする民族ですが世の中が変われば対策を立てて取り組んできました。それは印鑑、サイン、方言、合図、家系などあらゆるものに出ています。

近未来の社会実験の実証実験を子どもたちの未来のために挑戦してみたいと思います。

感謝を磨く

人間は一生のうちで多くの出会いと別れがあります。そのどれもが一人ひとりの道であり、それぞれの人生です。思い返すと、多くの人たちの真心や親切によって私たちは暮らしを豊かに彩ることができます。

自分一人が生きるのに、どれだけ多くの人たちが関わっているのかと思うと私たちの生活のすべては親切で成り立っているといっても過言ではありません。

あの時、あのタイミングでお世話になったとか、あの時、あの場所で出会ったおかげで助かったとか、まさに人の親切は重なりあいます。

だからこそ出会った時の喜び、別れの悲しみがありますが同時に感謝が結び合っていることに気づくのです。あの出会いも、別れも感謝であったと思う人生は親切を感じやすいように思います。

親切を感じる人は、感謝を感じる人でもあります。

そういう人にとっての出会いもまた別れもも感謝が結びます。感謝を磨いていくというのは、その一期一会の出会いに際にして感謝を忘れないようにしていくことです。

人は頑張り過ぎたり無理をし過ぎると感謝を感じる力が鈍っていくものです。それは自分というものを出し過ぎているからです。本当の自分というものは伴侶であり、とても親切で陰ひなたから自分自身の存在に常に寄り添って見守ってくれているものです。

自他に素直に親切にすることができる人は、他人にも親切にできる人でもあります。そうやって自他との関係が親切にできる人は、感謝を持ち続けていきます。感謝は自他を結ぶ仕合せの絆です。

誰もがいつか人は必ず死ぬ時がきて、それまでに多くの出会い別れを繰り返します。その引き際や別れ際にその人の生き方が出てくるものです。引き際を感謝でというのは人生においてはとても大切だと感じます。

感謝を磨いていくと今まで自分自身そのものの存在が与えてくださった偉大な恩恵にも自然に有難いと感じることができ喜びと仕合せを感じます。私にも2年前から共に感謝を磨こうと、一緒に取り組んでいる同朋がいますが私は本当にまだまだです。

最後に、ローマの哲学者キケロの格言です。

「感謝は最大の徳であるだけでなく、全ての徳の源である。」

徳の源泉、それは感謝。

子どもたちのためにも徳を目指して、精進していきたいと思います。

 

徳の醸成

昨日は、各地から大勢いの方々が手伝いにきてくれて無事に宿坊の掃除や片づけを終えることができました。雨の予想でしたが、作業している間は不思議に雨もなくみんなで気持ちを一つにして片づけることができました。

振り返ってみると、皆さん清々しい人ばかりで一期一会に貴重なご縁をいただいているのを感じます。煤汚れや重労働、大変な作業の中、笑顔で助け合い協力して一心一体になって身体も心も合わせていきます。

誰が指示するわけでもなく、最初に方向性だけ伝えるとあとはそれぞれの役割が自然に分かって自分のいる場所に配置されていきます。

これは懐かしいむかしの人たちの協力の仕方の甦生でもあります。

以前、宮大工の西岡棟梁の話に飛鳥時代の人々はみんな主体として協力し合って建物を建てていたと言っていました。それは建物を観ればすぐにわかるとのことでした。まさに、全員棟梁という言葉を使っていました。

今の時代は、棟梁は一人であとは職人という構図ですが本来は誰もが棟梁の気持ちで家に取り組んだということでしょう。これは神社でもみんなが宮司という気持ちで場を整えていたのと同じだと私は思います。これは国民一人ひとりが国の主という気持ちで働くこととも同じです。実はみんが主体として働けることこそが仕合せなのです。

昨日の片づけではみんなが宿坊の主と思うくらいに丁寧に、隅々まで真心を込めて取り組んでくれました。御蔭様で終わってからの余韻もまた清々しく、「場」が美しく整ったのを実感しました。

そして作業が終わるころには、信頼関係がより深まります。一緒に汗をかいて取り組むことで、人の心は通じ合い、豊かな心を醸成します。こうやって徳を積むことをみんなで体験できることこそが仕合せであり、未来そのものを引き寄せていきます。

真の豊かさとは何か、それを体験するには徳を磨くための「場」が必要です。

これからもこの英彦山を活かして場を用意し、この山に来た人たちが一人でも多く豊かさを味わえるように徳を醸成していきたいと思います。