真の豊かさ

聴福庵やBAには、一輪挿しがたくさんあります。野花を摘んでは、その時々の旬を活けていますが次第に枯れてくる花を少しずつ取り分けては花器を換えていきます。はじめは大きな花瓶を使い、そして次第に小さくなって最後はもっとも可愛らしい一輪挿しに移動していきます。

この花の生涯を眺めていたらこんな風に歳を経ていきたいものだと感じるのです。真の豊かさというのは、その時々の活け方にこそ由るのではないかと私は感じます。

人生の中では、それぞれに時節というものがあります。

シンプルに言えば、節目でもありますがその節目節目には節目に相応しい舞台や環境、そして場があり、その場に移動していくことで新しい活かし方があります。そうやっていのちを大切に扱い、仕合せに生きていけばそれがそのままに真の豊かさになっていくのです。

もしこの花瓶に合わなくなったから要らないと捨てたり、まだまだいのちがあるものも役に立たないからと放棄するのは豊かさではないように感じます。現代の豊かさは、所有することであったり、大量にあることであったり、すぐに入れ替えができるほどに換えがある状態であったりすることを豊かだと思い込まされていたりもします。

しかしそれはあくまで、物質的な経済を活性化するための詭弁であり本来の真の豊かさとは異なるように思うのです。

先ほどの花で例えるのなら、活かし方の上手い人は押し花にしたり、ドライフラワーにしたり、水に花びらを浮かべたり、さらにはそれを絵に描き写してその花のいのちを永遠に味わったりする工夫を持っています。

そういういのちを最期まで慈しみ愛おしむように使える人こそ、暮らしの達人であり真の豊かな人だと私は感じます。身近には、唯一無二のいのちばかりが一緒に生を謳歌しながら共に歩んでいます。

その一つ一つを丁寧に丹誠を籠めて生きていくことは天恵であり徳そのものです。

子どもたちに真の豊かさを伝承していきたいと思います。

 

曲木の椅子

徳積堂の椅子の一つに、1960年代につくられた曲木家具があります。この曲木家具は、その名の通り木を曲げてなめらかな美しい曲線と微細で緻密な調整によってつくられたものです。家具職人たちは、手作業であらゆるものを丁寧に仕上げていきます。

少しその曲木家具を深めてみたいと思います。

この曲木家具の曲木の技術を発明したのは、ドイツ人のミヒャエル・トーネット(1796年〜1871年)といわれます。トーネットが発明した曲木工法は、木が持つ可塑性(圧力を受けて変型したものが、そのまま元に戻らない性質)を利用して天然の無垢材を煮沸し、鉄の金型に沿って曲げ成型していきます。

そしてこの人物が仕上げた曲木の椅子が、モダンスタイルの原点として爆発的に世界に広がっていきます。特に1859年に発表されたNO.14は歴史に残る名作となり現在までに約2億脚製造されたといわれています。その時代に、2億脚というのはものすごい量です。

そして日本で唯一の曲木家具ブランドが立ち上がります。これを秋田木工といいます。この秋田木工は、秋田曲木製作所という名前で1910年に曲木に適したブナやナラの豊富な秋田県湯沢市に設立されます。

秋田木工は、理念に「木が木で立っていたときよりも立派に美しく」を掲げて熟練した職人の丹念な手作業で、曲木家具を生み出し続けます。また、日本を代表する剣持勇、柳宗理などのデザイナーとのコラボレーションも行い、数々の曲木家具がグッドデザイン賞に選定されています。その後は、粗悪な輸入品が横行し経営がたちゆかなくなり大塚家具に買収されたといいます。

現在では、大塚家具として曲木をつくり続けているようです。秋田木工という名前がなくなりましたが110年以上、丹誠を籠めて技術を磨き上げてきたものは常に本質的でシンプルです。この秋田木工の信念のハイチェアがまたこの場を磨いてくれると思います。

子どもたちに日本人のものづくりの心を伝承していきたいと思います。

歴史を磨く

地球における人類の歴史というものを客観的に捉えると、大きくは自然と対立している時代か、それとも自然と調和している時代かに大きく分類できるようにも思います。自然の中で、私たちはどう生き、どう活かされたか、長い年月をかけて私たちは旅をし、その本当のバランスの場所を探しているようにも思えます。

ひょっとしたら、私たちは地球ではない惑星にもそれぞれに根をおろし、それぞれの場所であらゆる体験を通して一緒に成長しているのかもしれません。あくまでこれは妄想ですが、宇宙には似たようなことをしている生命体がたくさんいてもっとも調和し全体最適するところを探しては歴史を産み出しているのです。

私たちは記憶と共にあり、何度もその記憶を辿りますから歴史はまさに未来であり、未来もまた歴史なのでしょう。その歴史に一つの生き方を刻んでいくこと、そこに一つの偉大な意志も感じます。

私たちは時を生きていますが、時に活かされて存在します。それは生死を超えた時空のような今の中に存在します。この今も、あらゆる思い出を創造してはその思い出に親しんで心を映します。

今回の人生ではこうだった、前回はこうだったと、毎日、眠っては起きるように日々に出会いと別れを繰り返し、この地球で体験できる時間を惜しんでは今を生きています。

人間は今に生きることで歴史になっているのです。そして今を本気で生ききることで歴史に今を刻むのです。つまり、歴史とは今そのものであるということでしょう。

この今も変化を続け、新しく古い物語を創造し続けてはあらゆるものを感じ取って魂は磨かれていきます。私たちは魂を磨くことで永遠を感じることができます。どのようなご縁に導かれていくのか、好奇心は魂の道筋を今此処に誘います。

子どもたちが子ども心にわくわく生きていけるように、歴史を磨いていきたいと思います。

サードプレイスを練り上げる

人は人それぞれに居心地の善い場所というものを持っています。その場所は、心が落ち着く場所、懐かしい場所、自分らしくいられる場所、などいろいろな言い方がありますが安心する場所であることは間違いありません。

この安心する場所をどれだけ持っているかは、その人がその人のままで心をオープンにしてやりたいことをみんなと分かち合う機会にもつながります。そういうあるがままの心を分かち合う「場」があれば、何かその人たちと面白いことや豊かなことをやりたくなっていくのです。

私は「場」を通して創造しているのは、自然にそれぞれのいのちが輝くようなサードプレイスとしての居場所を練り上げているともいえます。

自分がやりたいことをそのままにオープンにしてそれをみんなで体験し合う、そういう場には、不思議な魅力が集まっていきます。その楽しそうな雰囲気にみんなが刺激され、そこに新しいことが産まれていきます。

新しいことが産まれていくことは、豊かなことです。その豊かさは、一人ひとりの心が合わさってできてきます。

場とは、その豊かさが集まるところでありそれを醸成していく力が湧いてくるところです。むかしは、家がそうであり、生きものたちも棲み処がそうであり、私たちは元氣を蓄えて暮らしを充実させていきました。

暮らしの充実は、豊かさの充実です。

引き続き、子どもたちのためにも豊かな場を醸成していきたいと思います。

 

学ぶ楽しさ、知る喜び

人は誰しも「知る喜び」というものを持っています。好奇心というか、新しいものに触れたり発見することはいのちが喜び輝き出します。幼い子どもたちの世界では、毎日毎時間、新たな発見に感動し驚き、学ぶ楽しさの中にいます。

本来、人間は新しいことを学ぶことで成長し、その学ぶ楽しみがあるから人生をイキイキと謳歌し輝かせていくことができるように思うのです。

それがある時から、知る喜びがなくなってきて好奇心が減退してきます。それは残念なことに現代の教育に問題があるのはすぐにわかります。

例えば、人間はお腹が空いたらご飯が食べたくなります。その時にご飯が出れば、喜んで食べると思います。さらに、あらゆる素材を手作りで育てて自分で料理すればその喜びは一入です。しかし、お腹も空かず食べたくもないのにただ大量に食べさせられたら人間は何も食べたくなくなっていきます。むしろ、どんなに美味しい料理を与えても何も興味もわかずしかも無理にでも栄養をとれと食べさせらるのだからもっと食べることに喜びを感じなくなるのです。

知識も同様に、大量の知識を一方的に詰め込まれ毎日膨大な情報量の中で生活をしていていると知ることがそんなに喜びではなくなっていくように思います。それを繰り返していると、学ぶことも次第に楽しくなくなっていくように思うのです。

当たり前のことですが、知る喜びは学ぶ喜びです。

私は毎日、このブログでもそうですが学びたいことが尽きず、知りたいことばかりで好奇心が尽きません。やりたいこともたくさんあり、経験したいことも山ほどあります。しかし時間が膨大にあるわけではないので、その中でも本心や初心を大切にして日々を大切に使っています。それは私の暮らしの中に、日々の発見や学びがあり、その学ぶ喜びや知る喜びがあるからです。

好奇心の原点は日々の暮らしの中にこそあり、その暮らし方を改革することでより一層、喜びを日々を歩んでいくことができるように思います。

真実を知る仕合せ、美しさを味わう仕合せ、そして全体快適や居心地の善い場がある仕合せ、これらは学ぶこと、知ることをより一層、楽しくさせます。

子どもたちは、現在、本当に学ぶ仕合せや知る仕合せを知っているのでしょうか?そして学校や先生は、何を教えることがもっとも学生たちにとって大切なのかを自分たちがやっているのでしょうか?

学び知ることの仕合せや豊かさは、人間のいのちが輝くための大切な道の一つです。場の道場の具体的な徳目として、何を目的に場を醸成するのか、改めてその原点から見直してみたいと思います。

 

道を拓く言葉

先日、京都の南禅寺の法螺師の指導を受けましたがその感覚がいつまでも心身魂に残っています。大変短い時間であったにも関わらず、心身魂に響いているのはそれが単に何かを教えたのではなく、伝承し合ったことであることは時間が経つにつれて沁みてきます。

私は今までの人生で、多くの師とめぐり会ってきました。もう何人かはお亡くなりになりましたが、いつまでも心の中で生き続けて励まして応援してくださっています。

その方々の特徴は、若輩で未熟な私に対しても丁寧に真心をもって真摯に接してくださり、私の求めているものを惜しげなく親切に与えてくださいました。今があるのは、その師の方々のご指導の御蔭であることに気づき、恥ずかしくない生き方をしたいと願い実践するばかりです。

先日、ある方から森信三先生の言葉集を送っていただきました。もう随分若い時から、森信三先生の本は読んでいましたがいただいた本の言葉に目を通していると、また異なる味わいがあり、その時々によって言葉と出会えることは仕合せなことです。

その一つの文章にこういうものを見つけました。

「真にすぐれた師というものは、門弟たちを遇するのに単なる門弟扱いをしないものです。すなわち卓れた師というものは、つねにその門弟の人々を共に道を歩むものとして扱って決して相手を見下ろすということをしないものであります。それは同じ道を数歩おくれてくる者という考えがその根底にあるからです。」(森信三)

師弟関係とは、本来、平等であり対等、同じ道を志す仲間ということです。たまたま生まれた時機や学び始めた場が異なっただけでそこには上下があるわけではなく、能力の差があるわけではありません。そこには、ただ同じ道があったのです。

私は歴史を刻むような仕事がしたいと心から思っています。それは私の尊敬してきた人たち、偉大だと感動して薫陶を受けた方々の後ろ姿がみんなそうであったからです。

変人や狂人だと思われようと、純粋な気持ちには嘘がつけません。子どもたちがいつまでも憧れるような心をもって、子どものために真摯に道を切り拓いていきたいと思います。

場とIT

インターネットの歴史を振り返すと、まだ100年も経っていないことがわかります。現在わかる起源は1960年代に米国国防総省が核による攻撃にも耐えうるコンピュータネットワークを必要とし、パケット交換ネットワークであるARPANET(アーパネット)の開発に着手したことが切っ掛けです。そこから1969年には接続実験が開始され、最初の広域パケット交換ネットワークであるARPANETが誕生します。その特徴は「分散型ネットワーク」「パケット通信」であり、これがインターネットの起源だそうです。

現在、私はブロックチェーンに関わっていますがベースになっている技術は今も変わりません。まだ60年くらいの歴史しかないこのITの技術は、まだまだ黎明期でありここから革新的に変化を続けていきます。

そういう意味では、まだまだ現在のIT企業は最先端といってもすぐに変わってしまう技術と向き合い何かの切っ掛けで構造が完全に変化する微妙な位置で研究開発を続けています。

このIT技術を産んでいる人が人間である限り、人間が考えられることしか発明することはありません。人間は人間を超える発明ができないのは、よほどの偶然が重ならない限り過去の経験や発想からしかものづくりをすることがないからです。

そして同時にその人間には、大きな可能性があることに気づきます。一つは、仏教を含め、神と呼ばれる世界観を持っているということです。つまりは神と呼ばれるチカラ(神通力)を人間はものづくりで実現しようとすることです。

例えば、仏教でいうところの神通力は瞑想によって悟りを得られると同時に獲得するといわれる6つのチカラがあるといいます。

1つ目は、神足通=自由自在に自分の思う場所に思う姿で行き来でき、思いどおりに外界のものを変えることのできる力。飛行や水面歩行、壁歩き、すり抜け等をし得る力。2つ目は、天耳通= 世界すべての声や音を聞き取り、聞き分けることができる力。3つ目は、他心通= 他人の心の中をすべて読み取る力。4つ目は、宿命通= 自他の過去の出来事や生活、前世をすべて知る力。5つ目は、天眼通=一切の衆生の業による生死を遍知する智慧。一切の衆生の輪廻転生を見る力。漏尽通=煩悩が尽きて、今生を最後に二度と迷いの世界に生まれないことを知る智慧。生まれ変わることはなくなったと知る力。

結局、人間が人間に真に近づくのは神のチカラを得ることですから人間はこれらの神通力をITのテクノロジーで産み出そうとしています。そしてそれを産み出そうとするからこそ、そこに関わるITのエンジニアたちは瞑想をし修行をする必要があるのです。

私が取り組む「場の道場」では、これらのことを実現するために心の修行や魂の錬磨ができるように「暮らしフルネス」を実現しています。世界の本当の最先端は、これらの懐かしい未来の調和の場によって顕現するのです。

世界がこの先、大きく変わるのは、人類がこの神の領域に踏み込むときです。そして神のテクノロジーを知るとき、人間ははじめて謙虚に自分たちが何が整っていないか、その世界がどのような平和で幸福な世の中であるのかに悟り、真実の豊かさ、善きご縁の繋がり、そして美しい暮らしを調和させていくことができるように思います。

科学が発展し心の世界に追い付けば追い付くほどに、心の世界も同時に発展していきます。それまでの間、私達人類は様々な困難や試練に出会いますが、必ず私たちは、対立概念ではなくそれを超えた真の調和の世界で生きて偉大ないのちを成長させていくのです。

子どもたちが、そのいのちを活かし、真の豊かさを生きられるように懐かしい未来の場を磨いていきたいと思います。

暮らしフルネスの本

現代は、脳が中心で動いている世の中です。脳以外の部分、例えば五感などの感じる部分が減退しています。都市化された社会で、なんでも便利になってしまえば頭で考えて計算していくことが価値があるように価値観が変化していきます。

思い通りになることが是で、そうではないことが非になるのです。なんでも未来を計算し、計算することがなんでも先になってしまうと感じる力をまたつかわなくなります。これがいのちが弱っていく理由なのです。

私がいのちの甦生を手掛けるのの最初の一つ目が、感じる力を高めることです。暮らしは五感を整え、清浄な場があらゆる五感を研ぎ澄まさせていきます。

例えば、未来というものは誰にもわかりません。予測はついても、それは予測通りにしているだけであって1時間後にどうなるのかは誰にもわかりません。ひょっとしたら事故にあったり、何か大事な出来事が勃発することもあるでしょう。何に出会い、何が変わるかなども誰にもわかりません。

つまり未来は計算通りになっていないのです。自分が計算をしているだけで、未来という別個の空間と時間が存在していてそこはどうにもならない全体の出来事の影響を受けているのです。だからこそ、計算ばかりしていても意味がないということです。計算疲れというか、現代人は、脳をフル稼働するばかりでいのちを使っていません。そんなことをしていたら不安や不信が募るばかりでいのちがすり減っていきます。

いのちは使わなければすり減ります。物質文明の価値観だと、使うと減ると思い込んでいますがいのちは物質ではありませんから使えば使うほど磨かれて光っていくのです。私の言葉にすれば、いのちが甦り続けて永遠に生き続けていくのです。

これが生まれてきた仕合せであり、この世で修行をする目的でもあるのです。自分の生き方を磨いていくことは、いのちを使うこと、それは言い換えればもっと直観や五感を大切にして感じるままに心の声を信じて行動していくことです。それは計算ではなく、感じるものを優先して生きるということです。

そのためには五感を常に研ぎ澄ます必要があります。自然の中に入り他のいのちに倣い、いのちを磨く道具と共にさらにそのいのちを調和させていく。その中にこそ、いのちがイキイキと喜び、充実する時間を持てるように思います。私が現代になぜ暮らしフルネスが必要だと思う理由はここなのです。

現在、私の尊敬する方々が本を編集していただいています。この地球上で最高のパートナーたちであり、整理編集は余人に代え難い見事な人たちがやってくれています。

私の人生初の書籍は、内容がどうこうというよりも誰と一緒にやっているか、まさに一期一会、今ここ、この瞬間の奇跡が何よりもいのちの仕合せです。

同じ理想を持つ人たちと一緒に本に取り組めることに心から感謝しています。

 

法螺貝の甦生

昨日は、法螺貝を4時間かけて磨きました。いつの頃のものだかわかりませんが、木箱には大峯龍王講とあり、実際に触れた感じだと200年くらいは経っているのではないかとも感じます。

この大峯講というのは、奈良県の大峯山にある役小角が開山した修験道の聖地のあるところです。この役小角は、幼名を金杵丸といい幼い頃より叔父の願行上人より仏法を学んだといいます。その後は、17才で葛城山に入り岩窟において孔雀明王の秘法を受け、生駒山では人々に危害を加え苦しめていた前鬼・後鬼を諭し改心させそのまま弟子にしています。

そののち大峰山に入山、金峰山山頂において世界の平和とすべての魂の幸福を願い一千日の間修行を積まれました。これが千日回峰行のことです。そして衆生済度のご本尊金剛蔵王大権現を感得されたといいます。そして吉野山へ下り、金剛蔵王大権現を自ら桜の木で彫られ祀りました。そこからこの大峰山が道場となり日本を代表する修験道が開かれました。

そして講というのは、本来は仏教の講話を聞くために集る人々の集会を意味し、信仰を中心に修行を共にする相互扶助のコミュニティのようなものでもあります。

ここから役行者という高祖神変大菩薩の遺徳を追慕して、大日大聖不動明王・金剛蔵王権現を信仰して修験道を伝承していく人達が使っていた法螺貝ということになります。

この信仰で立てる法螺貝の目的は「法螺表白文」にこうあります。

「謹んで吹奏し奉る金剛三昧の法螺と云者、金剛界バン字の智体にして法身説法の内証なり。 又、天界の音楽なれば、一度之を吹き奉れば、其の響き十方世界に周偏して、諸々の不浄を清め、邪気を除き、悪気魔障立ち所に降伏せしめ奉る。恭しく法楽荘厳の御為に丹誠を致して吹奏し奉らんとす。願わくば本尊聖者哀愍納受を垂れ給はんことを。」

修験者たちは、この法螺貝を通して浄化し、破邪顕正のまごころを磨いたのです。これに対して、陣貝という戦国時代に軍の進退を知らせるものもありました。一番貝、二番貝といって送り出す合図に使ったりしたといいます。様々な流派があるそうで、細かく吹くことで様々な指示を軍に送ったそうです。

同じ法螺貝でも使われ方で、その役目が変わっていきます。私の手元にあるものは、信仰の方の貝ですから不浄を祓い、己を磨くための法具です。これは永い間、色々な人たちの間で吹かれてきたものです。それをこの時代に甦生させ、新しいいのちを吹き込んでいく。

その吹き込んだいのちのチカラによって、様々ないのちを温故知新して生まれ変わらせたい。その心願を法螺貝に委ねて、新しい時代を切り拓いていこうと思うのです。一見、古いと思われている法螺貝も私が甦生させれば新しくなります。

日本には伝承者が減ってきています。このままでは、いのちは甦生できなくなり終焉を迎えてしまいます。新しいいのちを吹き込めるように精いっぱい真心を籠めて精進していきたいと思います。

 

歴史は繰り返す

高度経済成長が終焉を迎え、人口増の時代から人口減の時代へと入ってだいぶ経ってきました。人口減の問題は、もう随分前から提議されていますが現在の経済成長の仕組みは過去のままで歪は大きくなるばかりです。

今までのやり方をやめてしまうと経済も会社ももたないとなれば、未来を無視してでも今までのやり方に固執する。そういう生き方が結局は最後には限界がきて崩壊し変化せざるを得ない状況に追い詰められます。

歴史を省みても、そんなことばかりを人類は繰り返しており何回生まれ変わっても同じ様相です。これは人類のパターンなのかとも思いますが、地球環境や他の生物全体に多大な影響を与えるようになってきていますからそろそろこれもなんとかしないといけません。

マクロでは地球環境の改善ですが、ミクロでは一人一人の生き方の改善です。

環境問題は人類の意識が引き起こしていますから、人類が意識を改善していくしか変えようがありません。

人間は何かを変えようとするとき、それまでの過去のものを捨てるほどの覚悟が必要です。それは今までと同じことをしないという意識、もう一つは前に進み新しい未来を創造するための意識です。どちらにも覚悟力が必要です。

慣れ親しんだ日々や、得意になって同じ筋力や能力を使うことの方が人間は楽ができます。楽をしてしまうと、楽な方が正しいと思い込み、それが時代的にズレて正しくなくなったとしてもそれを変えることができないのです。

自分の都合の善いことを一つ一つ外していくのは、自分に打ち克つチカラが必要です、己に克つというのは、自分にとっては楽ではないけれどそれが目的のために捨てるのなら楽しいと、軸足を自分にせずに初心や目的に合わせて変えていくときにできるものです。

言い換えれば、自分にとっては都合が悪い方を選択していくという割にあわないことを実践することで変化を後押ししていくのです。これは人類も同じです、そして当然、それは個人一人一人の改革と己との正対によってしか実現しないのです。

生き方で存在を示す会社をやるというのは、一人一人がそのことに深く向き合いそれを実現するために惜しみない努力と生き方改革をニコニコ顔で命懸けで取り組んでいくという志事をしているということです。

そういう志事が仕事になるとき、世直し行は完成に向かいます。

子どもたちのためにも、理屈ではなく真心で、計算や下心ではなく正直で、言い訳ではなく素直な行動で示していきたいと思います。