調和力

昨日は、聴福庵の庭のお手入れをしましたが今朝からとても庭が清々しく感じます。特に先週は、出張で不在にしていましたので夏の日照りが強すぎたようで紅葉も葉焼けし、無双庭園の方もカラカラになっていました。

植物や木々たちは、自然環境の中に過ごしていますが庭というのは人工的に私たちが植栽をしていますから手入れとお世話が必要です。

これは野生動物か飼育する動物か、もしくは半野生半飼育かという具合に自然とのかかわり方によって異なるものです。

例えば、社内や自宅内の観葉植物は飼育するのだから人が無視して何もしなくなれば枯れてしまいます。風通しや水やり、光の調整が欠かせず一緒に生活する中で気を配りながら育てます。その分、安らぎや癒し、また感情を整えてくれたりして無機質な場所をいつも優しく包んでくれます。

他にはベランダや中庭などは、半分自然に接していますから半分は常に見守りながら手をかける必要があります。もう半分は自然の調和の中にいますから自然に任せていたら雨が降り、風が吹き、光も星も調和の中で育ちます。しかし、本来、その植栽や生きものたちは中庭やベランダが生息地ではなかったのだからその分、こちらが気配りをして環境を調整していく必要が出てきます。それによって美しい情景や、イキイキとした生命エネルギーを発してくれることでこちらも元氣になったり、また心落ち着けて四季の情景を感じることができたりします。

完全の野生となると、山野や海、川や森のようにこちらから自然のところに移動すれば関わることはできます。野生が強いので、こちらが強くないとなかなかその環境に馴染むのも難しくゆっくりと休むということは難しいように思います。

私は自然農を野生の溢れる場所で行っていますが、庭の畑と違ってそこで発生してくる虫や植物も野性味あふれていて太刀打ちできません。そこで手入れをするには、ほぼ野生の中で野生に近いままで育てるといった双方のエネルギーの衝突と調和があります。

こうやって人工的にかかわるところと、自然にかかわるところ、そして野生的にかかわるところなど場所場所でその接し方も気配り方も手入れの仕方も変わります。私たちは地球に住んでいますが、住む場所を換えるたびにその微妙な匙加減で関わり方もまた換えていくのです。

自然とうまく調和していく力、自然を調整する力、自然と調律する力、私たちはこれらを内に備わって生まれてきます。

本来の人類の力を発揮することで私たちがそのかかわり方から自然の存在を謙虚に学び、これからの人類の行く末を考えていけます。子どもたちがこの先、何百年、何千年と生き続けられるように今必要な智慧を伝承していきたいと思います。

徳循環経済

現在、世界は負の循環ともいえる状態をつくりそれを子どもたちが受け継ぐことになります。例えば、資本主義というものも株主のためには何でもするというように倫理や公器といった企業の本来あるべきこともまた競争原理と一部の権力者の富の集中によって私的に流用されています。

自然全体、地球の事よりもまず先に経済活動だけを只管行い続けるという行為が様々な環境や社会を破滅に向かわせています。

この現代の経済の仕組みは、際限なく富を集め続けるというところに起因します。そのためには環境はどうなってもいいという視野に問題があります。本来は、逆で環境(場)をよくするために富を賢く分配していくことでさらに環境が好循環を生んでみんなが仕合せになっていくのです。

例えば、自然環境がさらに調和するような田んぼや畑づくりを行えば私たち人類だけではなく人類の周囲の生態系も豊かになってさらに環境が豊かになって平和な場が創造されていくような具合です。

私たちが取り組んでいるむかしの田んぼがそうなっており、農薬も肥料も一切使いませんが生きものがたくさん増え、生態系がイキイキと循環を促しそのなかで育ったお米が美味しくなり、それを食べる人たちが仕合せを感じるという具合です。

環境への投資は、自分たちさえよければいいという発想ではできません。どうやったらみんなが善くなるか、どうやったら自分以外の人たちも一緒に仕合せになるか、共に生き、共にいのちを輝かせるように働きかけるのです。

本来、それが経済と道徳の一致であり本質的な経済というものでした。二宮尊徳の時に、飢饉や飢餓で大勢いが苦しんだのもまたその一部の搾取する人たちのつくった経済活動が人々の心を荒廃させて土地や環境も破壊していたからその言葉を放ったのです。

現代、私たちは似たような境遇が世界全体に広がっています。

今こそ、ここで観直しをかけなければ子どもたちに譲るものがとても悲しいものばかりになってしまいます。まずは自分の足元から、様々な実践を通してその豊かさや仕合せを伝道していきたいと思います。

目的の進化と人類の行く末

子どもの憧れる会社に取り組んでいると、次第に先人たちの教えや文化の伝承にたどり着きます。自分たちがなぜ今があるのか、そしてこの先に何を譲り遺していくのか、その恩の循環のようなものに出会うからでもあります。

同じように志す企業は、みんな同じプロセスを辿り同じ場所に向かっていくように思います。

現在、世の中は経済の方に大きく傾いていてあまり自然や道徳ということが重要視されていません。一週間の生活の仕方をみてもわかりますが、週休二日制で週末までも経済のために過ごすようにほぼ毎日経済活動を中心に行われます。

むかしは、自然と共生する暮らしを行っていて経済はその中のほんの一部として存在していました。すると、日々は暮らしが中心になりその余力で経済活動を行うことになります。自然とのバランスも保ちやすく、今のような環境を破壊するほどの経済活動は必要ありません。

つまり、経済か自然かという二極ではなく大切なのはそのバランスがどこに在るかということです。そもそも人間の欲望を中心にそちらに偏れば、次第に地球や自然のサイクルとは合わなくなり片方が破壊されていきます。私たちは、欲望を正しく抑制しながらその中でバランスをどう保つかということが必要で許されている範囲の中ではじめて持続可能な生活が保障されていきます。

自ら生活圏を壊していけば、文明は必ず滅びます。豊かさといっても、物質的な豊かさばかりを追い求めていたらその豊かさで滅んでしまえば本末転倒です。豊かさには、物とは別のものがあります。それは心の仕合せといわれるもので、自然を愛でたり、先祖に感謝したり、人々との深い愛の循環や喜びを謳歌するときに感じます。

人間は、そもそも国境などはなく人類という同じテーマをもって歩んでいるだけです。人類の仕合せを思う時、どのような働き方や暮らし方をするのかは私たちに与えられた地球に存在する大切なテーマでありミッションです。

子どもたちのことを思えば思うほどに、私たちはそのテーマを考えない日はありません。気が付くと、環境の会社になり、伝統の会社になり、人を大切にする会社になり、最先端科学に取り組む会社になり、徳を積むことを循環するための会社になります。

これは必然的に、辿るところであり向かうところです。

子どもたちのために、引き続き社業の目的を進化させていきたいと思います。

自然界最強の道理

自然界では強いものが生き残ります。そのため、強い種を残すために日々に切磋琢磨され強さを伸ばしていきます。しかし環境の変化というものは無情でもあり、ある時を境に強いものが弱いものになったりします。

それは病気であったり、ケガであったり、もしくは気候変動によってそれまでの強みが弱みになることもあります。例えば、暑さに強い生き物が急に寒冷化によって弱い生き物になります。このように、自然界では常に弱者と強者が入れ替わり立ち代わり生き残りをかけて命懸けで変化しているのです。

ここではっきりするのがそれでは強者とは何かということです。

自然界での強者は言わずもがな「変化に適応するもの」です。

その時々の変化があってそれにもっとも適応していくとそれが強者ということになります。先ほどのことであれば、暑さに強かったものが寒さに強くなる。それまでの暑さに適応してきた能力を捨て去って寒さに適応する能力に切り替える。すると、強者のままでいられるのです。

しかし実際には、変化のスピードが速ければ早いほどに適応することが難しくなります。私たちの身体が熱中症になるのもまた、急に暑くなってきて身体が適応できないからです。同様に、急激な変化というものは私たちに適応する時間を与えてくれません。

自然界の生き物を観ていたら面白い現象があるものです。それはまるでそうなることを先にわかっていたかのように先に強みを捨てて弱くなり変化に事前に適応するものがあるのです。

それは大変なリスクであり、時として弱さからいのちが終わる心配もありますが自然界の変化にピタリと合わせてきます。その生きものたちが次の時代を担い創っていくのです。

強みはあるとき、弱みになる。そして弱みがあるときに強みになる。その道理は、自然は無常に変化するという真理ということでしょう。自然界最強の生き物とは何か、それは「適応する」生きものなのです。

変化するには、様々な能力が必要です。それは勇気だったり、志だったり、挑戦だったり、実践だったりと多岐に及びます。しかしもっとも大切なのは、信じる力であると思います。

変化は、見方を換えれば千載一遇のチャンスの到来です。引き続き、子どもたちの舞台を用意できるよう最善を盡して変化を味わいたいと思います。

面倒という醍醐味

人は日々に様々なご縁をいただいて暮らしを営みます。その一つひとつのご縁は、そのまま思い出になりますからどのようにご縁を大切にするかで思い出もまた大切になります。

人との出会いを大切にするというのは、言い換えれば人との思い出を大切にすることです。

人との出会いは面倒なことばかりです。しかしそれを面倒くさいと切り捨ててしまったら、ご縁も切り捨て、思い出もまた切り捨てていくことになります。

一枚の絵があるとして、全体で絵は完成しますがその部分部分の細部はあらゆる景色が重ね合わさってできた憧憬でもあります。その憧憬を積み重ねながら人生の一枚の絵を完成させていくなかで、この絵が全体で観たらどのような絵になるのだろうかとワクワクドキドキと好奇心を発揮して取り組んでいくことで人生の醍醐味というか、豊かさや深さを感じることができるように思うのです。

面倒見がいい人という徳が高い人が居ます。

面倒という言葉の語源を調べると、「ほめる」「感心する」などの意味を表している動詞で「めでる」という説。またもう一つは、地方に住む幼児が、人から物を貰った時に額に両手で差し上げて言った「めったい」「めってい」「めんたい」と言う感謝の言葉からの説があります。

そして面倒見がいいというのは、面倒なことを感謝で観ることができる人ということになります。どんなことでも有難いと他人が煩わしいと人が感じるものを敢えて大切にしていく人は徳を積んでいる人です。

徳は別に積もうとしていることが大切なのではなく、徳は大切だと思っている人が徳の人ということです。つまり見返りをそもそも求めていない、そもそもの執着を手放しているから自然に徳が磨かれていくのです。

仏教の話に、仏陀から「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除く」ということばと掃除だけを与えられ、それを繰り返し毎日続けて、ついに大悟して阿羅漢果(あらかんか)を得たという方がいます。ある意味、この故事でいう掃除という面倒なことを敢えて取り組むことで徳を磨き、執着を手放して悟りを得たといいます。

魅力がある人や、徳のある人は、何か当たり前ではないことを大切にし、世の中の当たり前というものにいちいち左右されることはありません。それが如何に価値があることかを誰よりも知り、常に自分軸の中でその当たり前のことを徹底的に大切にされるのです。

その一つがご縁を大切にすることであり、ご縁を活かし続けるという実践でもあります。

日々の学びは、ご縁の連続ですがどのようにそれを活かすかはその人の生き方次第です。子どもたちが未来で、日本人の徳が伝承していけるように日々の面倒なことに喜びを感じ率先垂範して味わい楽しんでいきたいと思います。

ありがとうございました。

欅のなつかしさ

今度の徳積カフェは、欅の古材が全体に配置されています。日本の木造建築の中でも、欅はとても日本の伝統を醸し出しているものでありその気配や色合い、そして模様には懐かしいものを感じます。

この欅(ケヤキ)の語源は”際立つ””美しい”という意味を持つ「けやけし」という説もあり、くっきりした木目が特徴的です。今回のカフェでも様々な欅の木目を楽しめる設計になっています。

木の木目といえばふつうは柾目や板目ですが、そうした分類には収まらない絶妙の模様を、「杢目」(もくめ)と呼んでいるのです。杢目にも様々な種類があり、ざっと書くと「網杢 泡杢 稲妻杢 渦杢 鶉杢 絵巻杢 火炎杢 蟹杢 雉杢 銀杢 孔雀杢 絹糸杢 瘤杢 笹杢 さざ波杢 さば杢 縞杢 如鱗杢 白杢 たくり杢 筍杢 玉杢 縮み杢 鳥眼杢 縮緬杢 虎斑 虎杢 中杢 波杢 縄目杢 バイオリン杢 葡萄杢 放射杢 舞葡萄杢 山杢 りぼん杢 リップルマーク 雲頭の杢 糠杢」などがります。

実は、これ以上にもあらゆる杢目があり木の内面的な表情として味わい深いものがあるのです。

今回のカウンターに使われた神代欅にも模様があり、他の建具や道具たちにも玉杢があります。この玉杢は樹齢の高いケヤキの根元近くで出てくる模様で、独特の丸い模様が現れています。この珍しい模様は、縁起がいいとむかしから重宝されて大切な場所で使われてきたそうです。

例えば、有名な話では相撲部屋の看板はこの玉杢を勝ち星に見立てたりします。欅は重い木材だから看板でつくれば「一度看板を上げたら降ろさない」という意味も縁起担ぎで使われたりしているそうです。

私が古民家甦生を手掛けるなかで、いつもうっとりと美しい表情を見せてくれたのが欅の木でした。蜜蝋などで磨けば、杢目がはっきりと出てきてはその独特の飴色や橙色に輝く木肌は傍にいるだけで空間を優しくします。

ただ欅は扱いにくい木材でもあるそうで、よくねじれたり歪んだり、乾燥に時間もかかり臭いもあるそうです。今回のカフェのカウンターは神代欅なので2000年以上前から土に埋まっていたものなのでとても安定しています。

神社仏閣でなぜこの欅が重宝されて愛されてきたのか、この木は日本の風土に適応した日本人が愛している木であるからだと私は感じています。もちろん日本の風土には様々な木がありますが、もっとも日本人が身近に感じて見守られたと感じる木ではないかと私は経験から直観したのです。

全体が欅で室礼した空間で、懐かしい時間を子どもたちに感じてもらいたいそれを繋いでいきたいと思います。

場道の心得

日本の精神文化として醸成し発展してきたものに、場・間・和があります。これは三位一体であり、三つ巴にそれぞれが混ざり合って調和しているものですからどれも単語が分かれたものではなく一つです。

この三位一体というのは、真理を表現するのに非常に使いやすい言葉です。私たちは単語によって分化させていきますから、実際には分かれていないものも分けて理解していきます。言葉はそうやって分けたものを表現するために使われている道具ですから、こうやってブログを書いていても全体のことや真理のことなどは文章にすればするほど表現が難しく、読み手のことを考えていたら何も書けなくなっていきます。

なので、共感することや、自分で実感したこと、日記のように内面のことをそのままに書いていくことで全体の雰囲気を伝えているだけなのかもしれません。

話を戻せば、先ほどの三位一体ですが例えば心技体というものがあります。これは合わせて一つということで武道や茶道、あらゆる道という修業が伴うものには使われるものです。これらの分かれて存在しているようなものが一つに融合するときに、道は達するということなのでしょう。言い換えれば、このどれも一つでも欠けたら達しないということを意味しています。

そして私に取り組む、場道もまた道ですからこの心技体は欠かせません。では何がこの場によっての心技体であるかということです。これを和でわかりやすく伝えると、私は「もてなし、しつらい、ふるまい」という言い方で三位一体に整える実践をしています。そもそもこれが和の実践の基本であり、そして同様に場と間の実践にもなります。

まず「もてなし」は、心です。「しつらい」は技です、そして「ふるまい」が体です。

これは場道を理解してもらうために、私が自然に準備して感覚で理解してもらいその道を伝道していく方法でもあります。もてなしは、真心を籠めることです。相手のことを思いやり、心の耳を傾けて聴くこと。そしてしつらいは、それを自然の尊敬のままに謙虚におかりし、場を整えていくことです。美しい花の力を借りたり、磨き上げた道具たちに徳に包まれることで万物全体のいのちに礼を盡します。最後のふるまいは、一期一会に接するということです。この人との出会いはここで最初で最後かもしれない、そして深い意味があってこの一瞬を分け合っているという態度で行動することです。もちろん世の中のふるまいのような立ち振る舞いもあります。しかし本来は、見かけだけのものではなくまさに永遠の時をこの今に集中するという態度のことで覚悟のことでもあります。

人生を省みて、その時にどのようにふるまったのか。

つまりその人は、どのような夢や志をもちこの時代の出会いの中での「ふるまい」という上位概念でのふるまいを私はここでの三位一体のふるまいと定義しているのです。これは実は、先ほどの「もてなし、しつらい、ふるまい」の共通する理念を指しているものでもあります。

つまり「生き方」のことです。

場道の真髄と極意は、生き方を日本の文化を通して学び直すことです。先人たちに倣い、本来の日本人の大和魂とは何か、生き方とは何かを、思い出し、それを現在に甦生させていくことで魂を磨き結んでいくのです。

子どもたちが、この先もずっと日本人の先祖たちの徳を譲り受けて輝き続けられるように見守っていきたいと思います。

 

 

分散型スマートシティの本質

コロナの影響があって現在は、分散型にしようという気風が全世界的に広がっています。しかし実際には都市型集中という仕組みはむかしからリスクが高く本来の自然界の生き物たちはみんな自立分散させて種を保存させているのです。

例えば、もしも人類を一か所だけに集めてしまい都市の中だけで生活すればもしも凶悪なウイルスが蔓延すればそこで絶滅してしまいます。敢えて、広い範囲で小さく分かれて生活していればそのウイルスで一部が滅んでもそのウイルスもまたそこで消失していくものです。これも一つのリスク回避の道理で、すべての生き物には必ず寿命がありますから、その寿命が尽きるまでは耐えて離れていればいいのです。

私たちのいのちは永い進化の過程で、世界各地へ広がり独特の進化を遂げてきました。それは遺伝情報に記されていますが、あらゆる風土に適応していく中で免疫や耐性というものをそれぞれに獲得してきました。

寒いエリア、乾燥のエリア、灼熱のエリア、高地のエリア、高湿度のエリア、それぞれに順応しながら分散型に多様化させて生き残るための智慧を獲得していきました。

現在は、みんな一斉に同じような生活様式で同様な環境下にありますがこれが本来どれほどに危険なことなのかを改めて見つめ直し考える時機だと私は感じています。でなければまるで今の人類は一斉に人口を増やし一斉に滅ぶために集まっているようにも思えます。

自然が謙虚なのは、生き残るためです。生きものがそれぞれにみんな足るを知りつつほどほどに種を保ち、絶妙なバランスでみんなで協力し合って地球で生き残ろうという共通戦略は不動のものです。すべての生命はそうやって生き残るためにも利他的に協力し合い、それぞれに自律分散しているともいえるのです。

地球という場でいのちを維持しようとみんなが考えるとき、お互いに地球の生命体は路傍の石ころや苔にいたるまで「みんなで一つである」と認識し、敢えてそれぞれに生命保持のための適切な距離を保ちながら互いに共生し合う関係を築こうとしていることはわかります。これが共生と貢献の原理原則です。

昔の人たちは、その自然の道理を知っていましたから様々に常に分散させていくことこそが本当の意味でのリスク回避であることを熟知していました。農作物や住宅の配置、村や家という集合体でのコミュニティの形成、風土や生活習慣などすべて分散型で賢く(スマート)に暮らしたのです。

私は次世代型の都市(シティ)は、この分散型であること、そして智慧と共に暮らすことが未来都市の在り方になると確信しています。今は、可笑しなことをいうと思われるかもしれませんが廻りくる巨大な宇宙や自然災害の歴史の中で「末永く生き残る」ということ一点に絞り込み、そのテーマの実現を大前提にすればいつか必ず人々の間にも理解されていくだろうと思います。

子どもたちのためにも、自分の暮らしフルネスで次代の在り方を示し、時代の行く末を見守っていきたいと思います。

いのちの伝統食

日本人の風土が生んだ歴史的な食のことを伝統食といいます。この伝統食というのは、色々な定義があると思いますが私は日本古来の風土食であると定義しています。

例えば、現在は海外からあらゆる食材が入ってきますからふるさとの味とかいいながらそれは海外の風土でできたものだったりします。またおふくろの味とかいいながらも、実際には海外のレシピでできたものだったりします。もちろん、その人にとっての味がふるさとであり、おふくろであればそれはそれで懐かしい味でいいのですが伝統食とは言わないということです。

そもそも伝統とは何かということになるのですが、「世代を超えて受け継がれた精神性」「人間の行動様式や思考、慣習などの歴史的存在意義」と辞書にもあります。

これをその日本の古来の風土、つまり自然のなかで時間と人々の暮らしと共に醸成されたものが伝統なのです。その中で何を食べ続けてきたか、何をもっとも中心に据えて食を支えてきたか。まさにそれが伝統食になるのです。縄文時代のもっと先から私たちの先祖は、この日本の風土で収穫できるもの、育てられるものを工夫して食べ続けてきました。食べるというのは、健康で生き続けることですから何を食べて健康を維持してきたか、そして何を食べて医薬としてきたか、それが食の歴史には詰まっています。

その伝統食とあわせて地域の郷土料理というものに人々が移動移住と共に発展していきます。私たちが食べている郷土料理は、伝統食が分化してその地域の郷土料理として発展していくのです。

そこにはその地域特有の生活習慣があり、価値観があり、風習やしきたり、ならわしなどもありそれぞれの個性を発揮していきました。それが精神性を含めて受け継がれて、食を通して懐かしい日本人の生き方までを実感できるのです。

私は伝統食に取り組んでいますが、その材料は神棚にお祀りする神饌そのもののように丹誠を籠めて慎んで提供するようにしています。古来から何を神様にお祀りしてきたか、その一つにいのちのままの自然の素材、いのちを壊さないための配慮、いのちを組み合わせた調和する品格、いのちを支えるいのちの器、これらを働かせるいのちの料理をしています。

いのちの料理をすることで、それを食べた人たちはいのちの存在を身近に感じて自分のいのちを味わい美味しい、しあわせと口々に語ります。

こうやって伝統が伝承されていけば、子どもたちにも日本の大和魂を甦生させていけるように私は考えるのです。引き続き、子どもたちのためにもいのちの伝統食を提供していきたいと思います。

奥深い日々

生きていくということは、一つ一つの自分の人生の道のプロセスを歩んで味わっていくことに似ています。その道は、誰の道でもなく自分自身の道ですから誰も経験していないのだからいくら知識があってもそれは知識では補えません。体験を純粋に味わうしかないと思うのです。

周りがなぜそんなことをやっているのかあざけ笑うからとそれを気にして自分の道を諦めては意味がありません。人が通らなかった道だからこそ、誰もいないからこそ自分がその道を往くのだと取り組む必要があると思うのです。

人間は、選択肢を持ちます。それは知識が増えれば増えるほどに選択できるものもまた増えていくように思います。しかし増えた知識は、自分以外の他人の人生の道のことを知ったくらいで自分の道とは関係がありません。

しかも他人の道と比べたり、その人の経験を参考にしてなぞってみてもそれは自分の人生を歩んだことにはなりません。自分の人生を素直に生きるには、参考になるにはみんな自分の人生を素直に生きたということの真実を知ればいいだけかもしれません。

これは危険だからとか、これは真実だからと、参考書を片手に取り組むと確かに失敗が少ないかもしれません。しかしそれでは大事な味わうということが疎かになるようにも思います。

よくわからないけれど、天にお任せしてこれでいいと自分の道を味わっていくと失敗も増えますが同時に学ぶことも増えていき味わい深い日々を歩んでいくことができるようになります。

奥深い日々はそれだけで価値があります。

世間一般の価値などは実はたいした価値ではありません、本当の価値は自分であることです。自分であることは何よりも尊く、人はみんな誰しも平等にその価値を持っているのです。

だれかが勝手に価値だと言い出したことに縛られてしまうと、気が付くと価値にしばられて私たちは価値の奴隷にように生きることになってしまいます。本来の主体性とは、自己の価値を開放することです。自然界の自然のようにあるがままの価値に気づけばいのちは素直に廻ります。

謙虚に自分を生きることを自分が取り組むことが、私たちが徳を磨き道を拓く原動力になっていくように思います。子どもたちのためにも、日々の体験を深く味わい一期一会の今を大切に噛みしめて学び歩んでいきたいと思います。