自然の智慧を活かす

今度の徳積カフェの内装は、すべて古材を活用してあらゆる時代物の建具を組み合わせて配置します。また、外壁には焼杉板を一枚一枚焼いて創り上げ、仕上げは“鎧張り”を行います。

この鎧張りは木造民家の外壁に用いられる伝統的な張り方で、まさに鎧のように板を重ねていく工法です。とくに雨の多い地域に多く見られる方法でしたが板の隙間から風が吹き込むことがなく、雨も全て下へ流れ落ちる仕組みになっています。具体的には柱の間隔の長さに調整した板材を、下から上に順々に重ねるように、釘で打ち付けていきます。

焼杉というのは、耐久性を増すために、杉板の表面を焼き焦がし炭素層を人為的に形成したもので別名で焼板とも言います。これは調べると滋賀県より西の地域で使用される伝統技法で、外壁の下見板や土中に埋まる土留め板などに用いられています。なぜ西日本だけなのかの理由はいまだにわかっていないともいいます。

塗料で塗装するのではなく、焼いて耐久性を上げるという発想。これは自然を観察しながら焼いた板がなかなか腐らないことに注目して発明されたようにも思います。

この鎧張りも焼杉も、自然の法則や摂理を上手く活用したものです。今回の徳積カフェのコンセプトには徳を活かすというものもあります。万物の徳を活かすというのは、自然の理法に従うということでもあります。

不自然に人間の都合で建てる建物ではなく、まさに自然の仕組みをよく観察してもっとも理に適ったものにしていくということ。また自然物を用いて、できる限り加工していない自然のものを活かすということ。

まさに「あるものを活かす」というところに自然の智慧は入っています。

子どもたちに自然の智慧を示しつつ、自然の沿った生き方を伝承していきたいと思います。

真の改善

政府のコロナ対策を観ていたら、本当の問題はコロナではないことに気づきます。これはどの国家でも言えることですが、問題が起きると、その問題よりもその問題が問題になっている本当の理由が観えてくるのです。

例えば、ある国家ではリーダーが不在で責任者がいつまでも出てこなかったり、ある国家ではみんなが不正をして隠し事ばかりをしていて本当の情報が出なかったり、またある国家では自分のことばかりを優先して周りのことは他人事のようにしていたり、またある国家は100年以上前から変化できないでいつまでも改善する気がなかったりと、そのことからコロナがそこの弱点をついて猛威を振るいます。

それをコロナのせいにしていますが、それはコロナのせいではなくその組織や文化、あり方のせいであるのは自明の理でしょう。

しかしその問題を解決しようとしないので、いつまでもコロナは猛威をふるい続けます。

私たちは、きちんと問題と正対するときはじめてそこに変化があり改善が生まれます。問題を先延ばしにしたり、見なかったことにしたり、何もしないということをすれば自然に淘汰され衰退し滅びるのは明らかです。

問題を引き延ばしているうちに、世界は本当の問題にぶち当たるという真実。

地球環境の問題、気候変動の問題、それも同様にこれは人間の問題であるのは間違いありません。いくら地球に挿げ替えても、気候に挿げ替えても、そのこと自体は問題の本質ではありません。隕石が落ちるのならまだしも、こうなるとわかっていてもいつまでも変わろうとしなかって今の災害なのだからこれはもはや天災と呼んではならずやっぱり人災なのです。

人災をどう防ぐか、そこには謙虚さが必要ですし、生き方を決め覚悟を実行するための勇気も必要です。

コロナから観えてきた、人類の本当の問題と向き合い、子どもたちのために真の改善を示していきたいと思います。

価値観の変化と意識の成長

時代の変化と共に、人々の価値観が次第に変わってきているのを感じます。今までは、当然だったものが不必要になっていく感覚。まさに、もう充分にそれを体験して次のステージに入ったということでしょう。

そう考えてみると、人間は常に分断と統合というものを繰り返して社會が形成しているように思います。資本主義経済への傾倒で分断が続き、これでもかというくらいにあらゆるものを分けて処理してきました。物質文明は、物に価値を置いていますから物以外の価値を奪っていくのです。

しかし今は、自分もみんなもという本来の統合へと進んでいるように思います。あらゆるものを分かち合い、それを味わおうという考え方です。これ以上、物ばかりが必要ではないこれからは心をもっと大切にしようとする考え方に価値観が変化してきています。

その証拠に、シェアサービスや、マインドフルネス、持たない暮らしをする人が増えてきています。それは心が豊かになる方へと関心が高まり、心のつながりを取り戻していこうとするステージに入っているということです。

時代は、価値観と共に繰り返しながらその意識も成長させていくように思います。私たちの歴史でいえば、飛鳥時代などは心の世界でありありとあらゆる物が心と一体になって存在していたように思います。

それはその時代の遺跡や建造物、書物などからも垣間見ることができます。他にも縄文時代なども、自然と調和してつながりを大切にみんなでわかちあい生きていました。

現代は、歪な個人主義が進み、お金を中心に機械化された社会で心が忙しさで死んでいて利己的な人たちが身勝手に自然を利用して破壊を続けています。

地球が単なる物置小屋のようになりゴミが蔓延しているかの様相です。

次の時代の子どもたちは生まれながらにその状態をしり、何とかしようとする価値観と共に育っていきます。このままではいけないと、新たな価値観を生き、私たちの代わりにその責任を背負ってくれています。申し訳なさや、悲しみがあるからこそ今の代にできること、私たちの世代でもまだ間に合うことをしたいと思うようになるのです。

私はまずその物置小屋やゴミ溜の状態を、坂本龍馬や横井小楠の言ったようにこの世の中を「じゃぶじゃぶと洗濯をする」ことと、「綺麗に片付けて整える」ことからはじめます。

そして甦生させたものを、心とつなげ直して新たな価値を与え子どもたちがそれを舞台に活躍できるような環境を用意していきます。あとどれくらい、自分のいのちが持つのかわかりませんができることを粛々と実践をして根を深めていきたいと思います。

もったいない暮らし

全ての物や場には「いのち」というものが宿ります。そのいのちをわかりやすく感じる方法は、「思い出」でというものに置き換えてみるとわかるように思います。

無機質だったものが、何かの物語に出会い、そこで共通する「思い出」を持ちます。そのものは、ある人の思い出になりその人の心の中で共に生きいのちを与えられます。するとそれはモノではなく、いのちの一つになって存在するようになります。

つまり「出会う」のです、いのちとしてのご縁と。

これがいのちの一端を感じる方法であり、思い出はみんなそうやっていのちとつながっていきます。例え、片方がこの世から去りそのものがなくなっているように感じたとしてもその思い出といのちは、別のものに引き継がれ一体として残りのいのちの寿命を全うしていくのです。

この仕組みとこの仕掛けこそ、私たちが存在するいのちの真理であり私たちはその仕合せと喜びを無償で天与されているのです。ありとあらゆるものが、変化し、思い出と共に循環するという仕組みは宇宙の本体でもあります。

だからこそ、その寿命を少しでも伸ばしてあげたいという思いやりはその人の寿命だけでなく全体の寿命も伸ばしていくのです。それを神道では真心といい、観音様は大悲といい、イエスキリストは愛といい、孔子は仁と呼んだようにも思います。

もったいないというのは、この思い出を大切にしていくということと同じ定義です。下位概念である、捨てないとか、利活用できるとか、その辺ももったいないといいますが本来はこの「思い出」の方を言うのです。

一日、一瞬、人生はそのすべてをいのちと共に歩んでいきます。だからこそ、大切ないのちの思い出を忘れないで、いのちの思い出と共に暮らしていく。

これが暮らしの本体なのです。

暮らしフルネスという言葉は、暮らしとマインドフルネスの合体した言葉であり、現代の西洋思想に取って代わられた日本人が分かるように転換した言葉です。改めて、一つ一つのいのちを大切にしながらもったいない暮らしを味わっていきたいと思います。

本物と醸成

人は、時間に追われ効率ばかりを優先していくと次第に本物であることをやめようとするように思います。本物であり続けるというのは、効率を優先しないということでもあるからです。敢えて、手間暇をかけたり、自然に完成するのを待ったり、そのプロセスが本物だからそれが本物になるのです。

現代は、時間がかかるものは科学的な手法で上手く誤魔化して本物風で仕上げます。そしてできる限り本物に近くなってくると、それを本物だと定義していきます。流行り目立ち、人気がでれば本物だとするのです。周りもそれを持て囃していきますが、本物にはなっていないのだからかえって矛盾から本物を演じるようになるのです。そしてみんなも本物だと信じようとするのです。そうなってくると次第に、そのカタチがもっと効率化されついに本物はここまで来たかのように人々から語られます。それは偉大な偽物になったということなのです。

例えば、発酵関連の食品などもそのすべてを科学の力で発酵食品っぽく入れ替えました。発酵もたいしてしないものを短時間に効率的に、淡々便利に防腐剤などによって腐らないようにしてしまいました。

店で売られれば人はこれもまた発酵食品だと思いますから、本物だと信じて購入していますがこれは本物の発酵食品でもなんでもありません。発酵しているものをふりかけのようにふりかければ発酵したのではなく、本来は時間をかけてそのもの全体が醸成されて発酵するから本物の発酵食品になるのです。

つまり醸成するということ。時間をかける、手間暇をかける、一歩ずつ丁寧に変化していく。この長い時間をかけて多大な配慮をし手入れをすることが本物である証だったのです。

醸成なしに本物は決してないのです。

効率優先の世の中は、この逆を目指していきます。短時間で便利に、機械的に科学的に結果を出したものがいいともいいます。しかしそれが最高品質化されたもののように表現します。そのような価値観の中で、そのような製品に囲まれて育てば、本物と偽物がすげ変わってもだれも気付くことがありません。

人の教育や、そして本来の暮らしもそのように塗り替えられていきました。人間も時間をかけてじっくりとゆっくりと醸成されていきます。その醸成される環境は、日本の伝統文化や住環境の影響を受けていきます。穏やかな暮らし、静かで悠久がある場には、私たち日本人をじっくりとゆっくりと醸成します。

またその中で、楽しむ暮らしは日々のプロセスが最大化するように味わえます。日々を味わい暮らす人は、心が育っていきます。心を育てるのは、人間が生き方を通して仕合せになるために必要ですしこれが人間を磨いていくことにつながっていくように思うのです。

物が溢れたこれまでの便利で偽物に囲まれて満足した生き方の時代から、たとえ不便でも手間暇をかけて本物に囲まれた暮らし、新しい生き方に換わるのは時間の問題だと私は思います。

子どもたちのためにも、あるがままの暮らしを楽しみこの醸成する時間をありのままに味わっていきたいと思います。

変化とは何か

東京から戻ってきてBAに滞在していますが、室礼していた紫陽花の花が次第に寂てきています。また庭先には蝉の鳴き声が大きくなり、雲は積みあげられ空の碧さはますます鮮明です。

季節は梅雨から初夏にはいり、光の差しかたや風の動きが変わってきました。

私たちは、気づいていないうちに日々に大きな変化に晒され私たちも変化の真っただ中に存在します。止まっているようでも止まってはない、地球が自転し、宇宙が旋回し、あらゆるいのちが循環をしていくなかで活動を已むことはないのです。

しかしこの動きの本体こそが、静止していることもでもあるように私は思います。つまり動こそが静であり、その静こそが止であるということ。言葉遊びのように聞こえますがこれはそうではなく、この偉大なる動きこそが已むことがないのだから止まっているということなのです。

心を落ち着けて瞑想をすると、この動いている今の中に静を感じます。つまり静止します。静止するというのは、先ほどの宇宙の旋回、地球の自転、いのちの循環を感じている状態になることです。

それを感じるとき、これが永遠に繰り返されていることを知り本当の止まるという意味を悟るという具合です。

変化とは何か、それは変化しないということです。永遠とか永久とかいうものもまた変化の正体です。私たちは、変わるものと変わらないものを持ちますが、変わらないものは変えようがないものです。変えることができるものだけが、私たちが変化と呼ぶものです。

私たちが変化と呼べるものは宇宙や自然、いのちに私たちが合わせて和していくことです。こうやって暮らしを一つ一つ丁寧に紡いでいけば、私たちはそこに変化の根源や変化の意味を直観するのです。

変化しても已まない、この心の安心感はとても偉大で穏やかです。子どもたちに、変化の喜びや仕合せを伝道していきたいと思います。

徳の正体

老子にこういう言葉があります。

これは「大方は隅なく、大器は晩成し、大音は声希かに、大象は形無し、道は隠れて名なし。」(大方無隅 大器晩成 大音希声 大象無形 道隠無名)

直訳すると、「大いなる方形には角がなく、大いなる器はでき上がるのがおそく、大いなる音声は聞きとれず、大いなる象には形がない。道とは目に見える事象の裏側に隠れているもので、もともと名づけようがないものなのです。」となります

これは道を語る一文です。

偉大なものはこういうものであり、偉大だからこそそこに徳があるというのです。

この言葉は私の解釈ですが観方を換えれば、こうなります。

「もし道を学ぶのであれば、大方とはもっと大きな意味と深さがあることを知り分かった気になってはならぬ、そして本物になろうとするのなら時間がかかることを覚悟し根気をもって事に励み実力をつけ、真摯に研ぎ澄まし洗練された透明で鮮明になるまで磨き上げ、自他一体、全体善になるほどにすべての事と調和してそのものとなる。これが道であると。」

どんなことにも大切な意味があり、その意味はその先の偉大なものの一部であるという生き方。まさに道は徳に裏付けられて存在し、道を歩む人は必ず徳の存在に出会います。

私たちが捉えている宇宙と、老子が捉えている宇宙はまるで別物かもしれません。それは道には天の道と人の道があるというように、道を解釈する人と、解釈する前の道があるという言葉では語りつくせないものを表現しているように思います。

文字や言葉では表現できないものが必ずこの世には存在します。私はそれを「意味」と呼びます。意味がないものなどこの世には一切存在せず、意味があるから日々が発生してきます。真理を探究していく人は、意味を深めて意味をつなげて意味を生きる人たちです。

真実の深さというものは、この意味を辿る生き方、ご縁と共にあるひとたちがもっています。頭で考えてどうにもならないことがあるのは、そこには天の道、徳があるということでしょう。

「道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無名は天地の始め、有名は万物の母なり。故に常に無はもってその妙を観んと欲し、常に有はもってその徼を観んと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄のまた玄衆妙の門なり。

この玄妙こそ、私は徳の正体に近いと感じています。

私の歩む道は、遠大で偉大を志しています。そのことを自覚して、心の余裕を大切に日々の意味を紡いでいきたいと思います。

 

フルネスと暮らし

昨日、ある場所で座禅をする機会がありました。座禅は、長崎の禅寺で社員で参加したことがありましたが改めて体験してみると別の角度からその座禅の効能を実感することができました。

現在は、日本よりも海外でZENといいその座禅の価値も広がっています。特に海外の名経営者や発明家、あらゆるジャンルの人たちもこの禅の効能を述べています。

ジェームス・スキナー
「再新再生(活性化)を図る最大の方法の一つは、毎日「瞑想と思索の時間」をとることである」

プラユキ・ナラテボー
「仏陀の「気づきの瞑想」は「マインドフルネス・トレーニング」と呼ばれ、精神医療の現場では有効なストレス軽減法として、またグーグルやインテルなど多くの企業では社員のメンタルヘルスと仕事のパフォーマンス向上を目的として、取り入れられてきている」

アンディープディコム
「このテクニック(瞑想)の素晴らしいところは、1日あたり10分程の時間で人生を変えられることです。ただコツを覚える必要があります。練習が必要で意識する方法を学ぶ為のフレームワークも必要です。これが瞑想というもので今この瞬間を理解するのに役立ちます。また今という瞬間から最良を得る為の アプローチ方法も学ぶ必要があります。瞑想はこの為にあるんです」

リチャード・デイビットソン
「人々が単に一日、心のトレーニングを行うことで遺伝子の活動というレベルにまで効果があった」

この瞑想のアプローチは、人の生き方の対話であり、人生を振り返り自分自身の存在、自然の一部である自分、真我に気づくことのように思います。

私は座右が一期一会ですが、この生き方もまた禅に通じています。よりよい人生を歩む人は、常に自分への問いかけを持つ時間を大切にします。自己の判断を歪めないように、自己の純粋な調和を保てるように、穏やかでゆったりとした場を心の中に澄ませます。

以前、道具は扱う人によっては凶器にもなることを感じた時、人もまた然りであると実感しました。人は本来は人ですが、使い方次第では凶器になるということ。心の平安を保つことで、私たちは人としての生き方を守っていくように思います。

禅はまさに、心の調和に導引する仕組みで満ちています。改めて、フルネスと暮らしを学び直していきたいと思います。

オフィスの定義

現在、職場という考え方が大きく変化してきています。コロナのことで、今までの職場がリスクなり新しい職場をどうするかとそれぞれで工夫しています。

もともと日本は、職住一体型の暮らしを続けてきた民族ですが西洋の文化が流入してきてから工業化が進み、高度経済成長期、衰退期を経て、今にいたります。そのプロセスでオフィスの環境は大きく変わってきました。

しかしここにきて、今までのオフィスの定義が変わってしまうような出来事が発生してオフィスそのものをなくすという選択をする企業も増えてきているといいます。そもそもオフィスは何のためにあるのか、そこからまた見直すいい機会になっているようにも思います。

時代の変化と共に、会社も事業も変化は已みません。今まで大きく事業投資してきた企業は、そう簡単には今までの投資した状況を変化させるというのはできません。そこには大きな勇気が必要です。特に大企業などは、人数も額も大きく変化するのには大ナタをふるう覚悟も必要です。

小さな会社や組織は、その点、大きな投資もしていませんから撤退も変化も楽にできます。職場もまた、大人数を擁しているわけではないのでどこでも移動でき、どんな状況でも働けます。

変化は小さなところから大きなところまで、また所帯の大きなところから小さなところで起きてきます。改めて、オフィスは何のためにあるか、その意味が多様化してきますからそれぞれに新しいスタイルがたくさん産み出されていく時代に入っているように思います。

しかしそこに共通する上位概念というものがあると私は感じています。それは生き方のことです。

何のために生きるのか、何のために働くのかという人生の目的、言い換えれば初心のようなものをもって人は生き方と働き方を決めていきます。そしてその生き方と働き方が一致したものが「暮らし」となります。

どのように生きたいか、どのように働きたいかは、暮らし方が決めるのです。私の会社は、子ども第一義、子どもが憧れるような働き方と生き方をしていくことをみんなで取り組んでいます。

子どもが憧れる働き方は、大人たちがイキイキと仕合せそうに楽しんで仲間を愛し、助け合い支え合い、変化を挑戦と成長のチャンスにして自他の仕合せが周囲の喜びになり、人々が尊重し合い生きていく社會を創造することでもあります。

ある意味でオフィスがどうなろうが、原点となるところは不動です。その時、オフィスがどのように化けていくのか、これからの展開がとても楽しみです。子どもたちが未来に、憧れる暮らしがあるように場づくりを通して面白いことに取り組んでいきたいと思います。

文字を記す意味

人は頭で理解するために文字を読みますが、共感するためには実際に体験するか実践している現場を感じるかといった感覚を用いるものです。最初は文字から入ったとしても、そこに共感できるものがなければその文字は本当の意味で自分に入ってきているわけではありません。

人間が文字を読むとき、それは自分の体験や経験とアクセスしてそれを補完して仮想体験をしています。それを実際にするには、その後にその文字にあるような体験をしたり、似たような境遇を経験してはじめて共感して文字が自分のものになっていきます。

人間は文字を通して学びますが、文字が自分のものになるのはずっと後の事です。

学校で私も文字を学びましたが、その文字は暗記によって覚えましたが時間が経てばすぐに忘れていきました。そしてその文字をいくら知っていても、体験したわけではないからその文字が人生の役に立つことはあまりありませんでした。

例えば、火の熾し方などは縄文時代から現代までどうやって火を使ってきたか、どの道具をどのように使えばいいかは知っていました。しかし実際に、木や炭から火を熾すことは簡単にはできませんでした。これは何度も何度も経験してからはじめてできるようなるわけで、文字はあくまで知識としては得ますが実際の生活にはそのままではあまり役に立つことがありません。

何かを伝承するときにも同様で、記録としては文字があってもそれを経験して体験し共感した関係がない限りそれが実用として実践し続けることがないのです。

私は古民家再生をしている人になっていますが、建物を直しているのではなく日本文化の甦生や、大和魂の継承、民族伝承の智慧を遺すことなど、子どもたちのためにと思って取り組んでいます。言い換えれば、子どもの仕事をしてきた体験や実践をたまたま古民家でやっているだけで古民家甦生が本業ではないということです。

子どもの仕事というのも、直接的な子どもの仕事から、子どもとは関係がないように観えて本当の意味で子どもの仕事になっていることもあります。子どもの定義も、下位概念は年齢の小さな人間のことをいいますが上位概念は、純粋な魂や、清らかな心を持つ人のことを言ったりします。

つまり同じ「子ども」という文字を使っていても、その使う人の体験や経験、その人生の目的や生き方によっては別の意味を記しているのです。だからこそ、この「記す」という実践は大切なことで、発信し続けていくことで同志と切磋琢磨でき、仲間を鼓舞し合い、草莽崛起し合う縁をつないでいくようにも思います。

論語の「遠方より朋来る」の一文がありますが、あれもまた文字であって共感するものは別の次元、上位概念の中にあるように私は思います。

子どもの未来のために、これからも今を綴り続けて精進していきたいと思います。