徳福一致

先日、倫理法人会の創始者丸山敏雄氏のことを書きましたが、改めてその理念を深めてみようと思います。まずはこの「倫理」という言葉があります。この倫という言葉の語源は、仲間や類、また人の輪を意味します。つまりは仲間の中で大切に守る道理ということです。

人間は一人では生きておらず、社會を形成して社會の中でお互いに助け合い人になりますからこの仲間との関係が生きていく上でとても大切な生きる力であることは自明の理です。倫理をどう捉えるか、それを学び実践をすることでより善い幸福な社會を創造していくのが人間として生まれてきた使命の一つであることも間違いありません。

私が丸山敏雄さんの理念で大変共感したのは、「徳福一致」というものです。これは、徳=福であると言い切ることです。私は以前、二宮尊徳の一円観を学び大変な衝撃を受けそこからすべて一円にして万物一体善の境地を学びました。今でも一円観によって、様々な事柄を受け止めそれを一円対話というカタチに昇華させ社會の幸福のために幼児教育の環境に導入を弘めています。

そもそもこの徳福一致を提唱するようになった背景を考えてみると、丸山敏雄氏の時代は社會が急速に徳と福とを分けて考えるようになったということも洞察できます。つまりは、徳を積むことと幸福はまったく別物であると認識されていくようになったということです。

例えば、想像してみると見返りを求めずに世の中のためにただ善きことだけを祈り行うということが損となってしまえばそれはしなければならないことになります。しかし、もしもそれが幸福そのものの本体であり実体であると認識できるのなら徳を積むことそのものの価値を感じることができます。

かつての日本は、富=徳でしたから富=得ではありませんでした。西洋型の個人主義が入ってくることで、それまでの日本の倫理は崩れ社會が大きく変わっていきました。そこに警鐘を鳴らしたのが丸山敏雄氏だったようにも思います。

情けは人のためならずという諺があります。これも本来は、情けをかけることは廻り巡って自分のためであるという倫理道徳の話が、他人に情けをかけることはその人のためにならないというように勝手に認識が変わってしまいました。現代では、ほとんどの人が意味を間違えて後者として使っているようです。

このように言葉が変わるのは社會が変わるからです。社會が今どのようになっているのかは人々の言葉の中に顕著に出てくるのです。徳福一致とは、すべては人間の間で転じ合って福になって顕れてくるのが徳の正体であるというのです。

だからこそ本当に人間社會を幸福したいと心から願う世界のリーダーたちは必ずこの「徳積」の境地にたどり着くはずなのです。私が徳積財団を設立する理由もまた、この人類の幸福のため、そしてその人間と一緒に生きていく仲間のいのちたちのためでもあります。

今は、徳も得になり、福も欲のようになっています。本当の意味が回帰してくる日はいつになるのか、それは人類の目覚めが必要であり、一人一人の勇気ある行動が必須です。

子どもたちが安心できる未来を譲れるよう幸福な社會を創るために私にできることを実践していきたいと思います。

国富論

国富論という書があります。これは1776年に哲学者のアダムスミスが現代の資本主義の思想の経済構造を提唱し出版されたものです。この本は西洋の古典ですが、これが西洋的な経済観念の実質的なはじまりのように思います。

シンプルに言えば、世界の経済は個人個人の利益を最大化させることで発展を続けていくという具合のことが書かれているといいます。そのために如何に生産性をあげるか、そして効率を優先するか、さらには分業するか、現代の経済の仕組みのことを書か書かれます。そして国が富むために必要なのは消費であると定義しています。

そうやってこの200年、世界の経済学は発展しみんな資本主義を導入して国家を富ませてきました。しかしここにきて、コロナも体験し果たして「国家は本当の意味で富んでいたのだろうか?」と疑問に思った人が増えたはずです。

日本は特に、戦後、海外からもエコノミックアニマルと名指しされるほどに経済の発展に集中して世界第二位の経済大国にまでのし上がりました。最近では中国に抜かれていますがそれでも世界の中では経済大国です。しかし実際の幸福度は下がる一方だといいます。

果たしてこれが本当に国が富んだと言えるのか、国が富むとは何か、本当の富とは何かということを今一度、見つめ直す必要があると私は思います。

かつての日本は富をはっきりと定義していました。それは「徳」のことです。つまり国が富むというのは、徳を積む人たちが増えて徳が蓄えられている国になること。それを国宝とも呼び、徳を宝として大切にしてきました。

今では徳は単なる経済の中の「得」でしかなく、本物の徳は戦後の教育によって次第に荒廃していきました。明治以前の日本人は、精神がとても成熟していました。心が素直で正直で感謝を忘れず、誠実であったのは日々の暮らしの中でこれらの徳目を実践し徳を国民全体で醸成する努力をしてきたからです。

黄金のクニである日本とは、本来は徳の溢れるクニである日本であったということです。もう一度、ここで国家の国富論を日本から世界に発信していかなければなりません。それは国富論ではなく「国富徳論」を示すということです。富国有徳という言葉もありますが、国が本当の意味で富むには有徳の社会をみんなで醸成していくしかないということです。

子どもたちが、仕合せにこのクニでいつまでも生き続けることができるように徳が循環する仕組みを私が必ず成し遂げ、このクニを甦生させていこうと思います。

 

 

美しい生き方

昨日、ご縁があって豊前市にある倫理法人会の創始者の丸山敏雄氏の古民家と天和会館を見学する機会がありました。まだコロナで閉館でしたが、事情を理解してくれてご親切に対応していただきました。

丸山敏雄氏の遺した言葉は、戦後の日本において倫理運動と呼ばれる生活改善運動を実践された方です。具体的に17か条の「万人幸福の栞」というものを掲げ、生活の中に具体的な実践を積み重ねていく中で倫理の道理を説いていきました。

第一条 今日は最良の一日、今は無二の好機  第二条 苦難は幸福の門 第三条 運命は自らまねき、境遇は自ら造る 第四条 人は鏡、万象はわが師 第五条 夫婦は一対の反射鏡  第六条 子は親の心を実演する名優である 第七条 肉体は精神の象徴、病気は生活の赤信号 第八条 明朗は健康の父、愛和は幸福の母 第九条 約束を違えれば、己の幸を捨て他人の福を奪う 第十条 働きは最上の喜び 第十一条 物はこれを生かす人に集まる 第十二条 得るは捨つるにあり 第十三条 本を忘れず、末を乱さず 第十四条 希望は心の太陽である 第十五条 信ずれば成り、憂えれば崩れる 第十六条 己を尊び人に及ぼす 第十七条 人生は神の演劇、その主役は己自身である

現代の便利で人間都合の世の中では、実践を怠りただ日々を闇雲に忙しく過ごしていたらややもすると世の中の常識や風潮に流されて自己を見失い刷り込まてしまいそうなものです。それを実践によって撥ね返し、本来の自己を確立していくということ、教育者としてのロールモデルを示してくださっています。

自己の確立と仕合せは表裏一体です。自己という一人の存在、自分という二人が一体になっているもの。そのままあるがままのいのちに合致するとき、人間は本物の人間になります。それを狂わせるのは、環境であり場でもあります。知らず知らずに文化や場の影響を受けて人間は醸成されますからどのような処にいるかは知らず知らずに多大な影響を受けてしまうのです。そういう時、目を覚ますような人に出会ったり、気づきをいただき暮らしの指針が観えることで人間は自己を発見するように思います。

私は、このタイミングでご縁があったことに不思議な思いがしました。暮らしフルネスとは、生活の改善であり暮らしの改善です。本物の日本の暮らしが亡くなってしまっている今、暮らし改善運動が必要ではないかと思うのです。

私は宗教家でもなければ、運動家でもありません、ただ粛々と自分の足元で実践をするものです。しかし、今の世の中、子どもたちのことを思えば心配になるし、未来のことを思えば繋いでいかなければならないという使命にかられます。これから時間をかけて丸山敏雄さんの言っている意味の本質を少しずつ学び直してみたいと思います。

最後に、特に感銘を受けた丸山敏雄氏の「心訓十戒」です。

「人を大切にする人は、人から大切にされる。

人間関係は、相手の長所と付き合うものだ。

人は何をしてもらうかより、何が他人にできるかが大切である。

仕事では頭を使い、人間関係では心を使え。

挨拶はされるものではなく、するものである。

仕事は言われてするものではなく、探してするものである。

わかるだけが勉強ではない、できることが勉強だ。

美人よりも美心。

言葉で語るな、心で語れ。

善い人生は、善い準備から始まる。」

そうありたいと強く思い、子どもたちにその美しい生き方を譲り遺していきたいと思います。

暮らしフルネスの定義

現在、BAでの暮らしフルネスの準備をしていますが改めて働き方改革と前提を助けるのが暮らし方改革であることに気づきます。人間は、生き方改革というものもありますが実際には世の中の常識に沿った今までの生活を見直し、改めてどう生きることがもっとも仕合せなのかということに向き合うことが何よりも重要です。

なぜなら、何のために生まれてきたのかという問いがあります。

決してただ仕事をするために生まれたわけでもなく、利害損得ばかりを求めて日々を生きるわけでもない。大切なのは、自分の決めた生き方をどう展開していくかという勇気と覚悟が必要です。

しかしそうはいっても、それができる人は一握りの状態です。どこかで諦めてしまっていますが、工夫次第でいくらでも改革できるものこそ「暮らし」なのです。実際には、暮らしはすぐに改革できます。

例えば、通常の仕事だけ100パーセントの生活をしている人が心の豊かさを増やしていく生活に60パーセント切り替えればすぐに暮らしが充実していきます。それは自然の生き物と共生してみたり、絵画や音楽、あらゆるアートに触れてみたり、落ち着いて日々の手入れや手間暇のかかる食事を味わったり、実際には簡単に暮らしは改革できます。

改革できない理由は、それができないと思い込んでいる先入観なのです。私たちの会社は、日々の暮らしを優先し同時に仕事もしています。つまりは暮らしを充実させながら働くのです。ここでの暮らしは、仕事(利益)とはあまり関係がないかもしれませんが、利益を超えた徳があります。この徳をみんなで磨き、徳を楽しみ、徳を味わうことで私たちは暮らしをフルネスにしていきます。

暮らしフルネスは、私たちの造語ですが暮らしは日本人の生き方であり、フルネスは足るを知る心とも定義します。

いよいよコロナ後の未来に向けてBAでの暮らしフルネスをブロックチェーンエンジニアと共に創造していきたいと思います。

禍福一円

私たちの取り組む一円対話には、禍福一円という意味があります。これは禍福は一つのものであり切り離すことができないということ、それを一円の中で観ればちょうどいいことが発生していると受け容れるということです。

無理に転じようとすればするほどに自分の都合が入ってきますから、ちょうどいいとは思えなくなるものです。ちょうどいいの意味は、調和の意味です。調和するというように理解すれば、その禍福はすべてバランスを保つために存在するものです。

人生は、幸不幸が循環しているものです。その都度、喜怒哀楽があり様々な出来事によって人生の妙味を深く味わっていきます。また世界には一人一人別々の世界があり、人生があります。同じ人は一人として存在せず、生まれた時からそれぞれの別個の人生がはじまっているのです。

その人生を省みて、如何に様々なことをちょうどいいと感じるか。自分の主軸を自然の中に置き、自然と共に歩んでいく中ですべては運命に見守られていると実感して生きることで心は安らかになっていくようにも思います。

以前、新潟の五合庵で良寛さんの詩に触れたことがあります。

良寛さんは、すべてを聴き入れじっと受け容れることを重んじ、あらゆるものをちょうどいいとあるがまま自然体で生きられた方のように感じます。それは詩からその生き方や生き様が垣間見れ、宇宙全体と一体になっておられるような雰囲気を醸しています。

その良寛さんの遺したものに「ちょうどいい」という詩があります。なかなかちょうどいいと思えない現実ばかりの人生ですが、最期はやっぱりちょうどよかったと思えるような人生にしたいと祈ります。

「仏様のことば(丁度よい)」

 お前はお前で丁度よい

 顔も身体も名前も姓も

 お前にそれは丁度よい

 貧も富も親も子も

 息子の嫁もその孫も

 それはお前に丁度よい

 幸も不幸も喜びも

 悲しみさえも丁度よい

 歩いたお前の人生は

 悪くもなければ良くもない

 お前にとって丁度よい

 地獄へ行こうと極楽へ行こうと

 行ったところが丁度よい

 うぬぼれる要もなく 卑下する要もない

 上もなければ下もない

 死ぬ月日さえも丁度よい

 仏様と二人連れの人生 丁度よくないはずがない

 丁度よいのだと聞こえた時 憶念の信が生まれます

 南無阿弥陀仏

子どもたちにも、自分自身を全肯定して仕合せを自らが決めていく生き方になるように実践を積み重ねていきたいと思います。

心のこと

私の両親は小さいころから共働きでしたら、祖父や祖母がよく面倒をみてくれていました。弟の世話をする私や親戚の子どもたちも年が近かったらかよく一緒に過ごす機会がありました。

特に病気や怪我、そのほか何かのトラブルの時には祖父母を頼っていました。ただ病気や怪我をすると大袈裟なのであまり頼まなかった記憶があります。祖父は、無口で厳しく怖い存在でしたがその奥にある深い優しさを感じていました。

今でも思い出すのは、私が高熱やぜんそくが酷く苦しんでいると聞いた祖父が民間療法でネギを首に巻かれてそれを耐えさせられたことです。病気よりもその民間療法が辛かったので、治ったふりをしたくらいです。他にも、田圃でお米の収穫時の袋に入ったお米を運んで痒くなったり、山で一緒に遭難したり、思い出せばそれはすべて祖父の人柄との接点でした。

祖母の方は、慈愛に満ちていて私が痛い体験や辛い体験をすると自分がまるで体験したように感情を含め共感してくれて自分の方がそこまで大袈裟ではないと安心させようとして振る舞っていました。私が交通事故で病院に運ばれたときも、すぐに駆けつけては涙を流していました。心配ばかりしていた祖母に、心配かけてはいけないとその時心から反省したことを覚えています。

私は御爺ちゃん御婆ちゃんっ子でしたから、亡くなった時はとても悲しくて悲しくて涙が出ました。御爺ちゃんは病気で最期に言葉を交わしたのは沖縄に出張に行く前で、手を握ってくれて有難うと声をかけてくれました。御婆ちゃんは御爺ちゃんが亡くなってから3回忌をしてすぐに突然亡くなりました。

御爺ちゃんが亡くなってからはほとんど言葉が少なくなって、感情もあまり出さないようになり、身なりもそんなに気にせず、周囲との距離をおいてあまり人間関係が深まらないように離れていました。最期は、ほとんど印象がなく普段通りの挨拶だったように思います。

悲しみというのは、心から出てくるものです。

この心は現実の世界とまた別に存在していて、ゆっくりとじんわりと動いて生きています。脳や肉体などの反応とは別の存在で、心はまるで霧のように空中に浮いてはゆらゆらとまとまっています。

この心のことを人は魂と呼んだのかもしれません。心は霧や霞のように実態がないのですが、この揺られているなかで感受しては様々なことを深く味わっています。

たとえ頭で理解しても、心はそれを感受するのは時間がかかります。準備もいるし、そんなに簡単に味わえるものでもないのが死を受け容れることです。ただ悲しみは、そのまま心をつながります。

心は受け容れることで心を育てます。

いつか誰にも訪れるその日にむかって私たちは生きています。心の弱さを受け容れながら、心のままに心を大切に心にしっかりと明るさと美しさを保ち頂いた宝と記憶を磨いていきたいと思います。

みんなが恩人

「恩」という言葉があります。辞書の大辞林には「他の人から与えられためぐみ。いつくしみ。」と記されています。この恩というのは、人間は誰でも恩をいただいていない人など存在しないことがわかります。

つまり人間は、恩によって成り立っており、その恩をみんなで与え合うことによって生きていくことができるのです。そしてその恩には色々なものがあるように思います。

例えば、親の恩、先人の恩、社會の恩、自然の恩、身近な人の恩等々を数えればいくらでもでてくるのがこの恩です。多くの恩をいただいてばかりですが、その恩を返していくきながらまた新たな恩を循環させていく、それが人生のようにも思います。

恩返しや恩送りという言葉もありますが、実際には偉大な「恩」の中で存在していますからもっとも大切なのは「恩を忘れない」ことだと私は思います。

恩を忘れないで生きていくのなら、いつも自分は恩に恵まれていることも忘れません。その恩はどのようにめぐっているか、そしてその恩は一体どこからやってきたものか、そして自分という存在が如何に恩によって醸成されているか、その徳が備わっていることを自覚することができればみんなが恩人になるのです。

恩人の中で生きている、そして自分も恩人として生きていく。

この恩を忘れない実践が、感謝になり心の平安や豊かな社會を築いていくことができるのです。現代は、恩という言葉もあまり聞こえなくなってきました。利害損得ばかりが語られ、騙されたとか、嘘をつかれたとか、嫉妬されたとか、恩を忘れている時の状態が続いています。

この恩を忘れない仕組みこそ、徳の循環の仕組みです。

徳積の仕組みを、人々に還元するために知恵を絞っていきたいと思います。

コロナシフトの意味

世の中には本当のことだけれど、目を背けて誰も気づかないふりをすることで溢れています。これを常識といい、この常識を変えるというのは不可能だとどこかで諦めているものです。

時に、真実はこれまでの常識に気づかせる機会になります。しかし常識に気づいて、これからどうするかとなったとき、その常識は自分たちにとってとても都合よく再設置されていくのを感じます。

例えば、自然環境でいえば今回のコロナによる自粛で自然環境は驚異的な回復をみせました。CO2の削減にはじまり、あらゆる生態系が増えて同時に汚染が収まっていきました。過剰な経済活動と競争を繰り広げていく中でみんなが利潤を猛烈に追いかければ自然環境は犠牲にしてもいいというのは常識であったことに気づいたのです。

他にも、過剰に都市型社会に固執して密集させて便利にしていった結果、これが今回のコロナの最大のリスクになっていきました。古来から多様性の保持のため分散させてきた各々の地域での文化や価値観を、一つの文化や価値観ばかりを取り上げて一極集中してその強みばかりを追いかけつつそれ以外を弱さだと切り捨ててきたことで人間社会の信頼関係が非常に脆くなってしまいました。弱さを絆にすることが常識であったものを、弱さは悪であるとさえ語りそれを目に見えないところに追いやるのが常識であったことに気づいたのです。

この人間の欲望は、今更、切り離せない、だから前提は変えずになんとかできないかとみんな議論ばかりをしては部分最適ばかりで評価されてそれがさらに現在の常識の厚みを深めていくという悪循環です。

エコやエゴなど、もうすべてどうでもよくなる時が来ます。地球という家でステイすることもできなくなったとき、私たちはどこかの星に移住するのでしょうか。住みやすい世の中というのは、一体誰にとって住みやすく、誰にとって住みにくいのか。

本来、自分の家とは何か、歪んだ個人主義の先にあるいびつな家族像も気になります。生まれてすぐの子どもたちを観ていたら、社會の原型がちゃんと継承されているのを実感します。

むかしは、子どもは国の宝であり地球の宝だと定義されていました。個人的なものではなく、自然的なものとしてみんなで大切に見守り育ててきました。当たり前のことですが、果たしてこれが今はどうなっているのか。

人間は便利で自分たちにとって最高の環境にしてきたかもしれませんが、その人間にとって最高の環境が最悪の環境に突如と切り替わる日が必ず訪れます。その時、人はそれまで前提としていたものが崩れ、常識を無理にでも変える必要に迫られるのです。

環境にとって人が変わるというのは、真実だということも今回の体験で気づいたことです。引き続き、場の力を学び、どのような場によって新たな未来を子どもたちに譲っていくか、気を引き締めてコロナシフトを共に歩んでいきたいと思います。

本物の知性

起きた出来事をあらゆる角度から検証し、内省し、改善する。これはご縁を活かす生き方の一つです。実際に、もしも知識や言葉がなければ人間はどのように学んでいくのでしょうか。

それは先ほどのように、ご縁のみを振り返りそこから発生した出来事を思い出し心の感じたままに修正を続けていくのでしょう。まさに自然であり野生の感性だと感じます。

どちらかといえば、世の中は人工的なエコの世界で理屈を考えて物事を判断するようになっています。次第に飼いならされた動物園のようになり、ワイルドな感性は失われ野生動物が次第にいなくなっていきました。

山林では、いまだに野生のイノシシやシカやサル、クマなどもいますがほとんどが都会の中で現れることはありません。しかし本来、私たちは何処から来たのか、どのような暮らしをしてきたのか、それを思い返せば野生から来たのはわかります。

野生動物は動物園ではありませんから、それぞれが尊重しながら持ちつ持たれつに一緒に自然界で生存しています。動物園のように飼いならされて仕事をさせられていませんから生きるためだけに野生を放ち、イキイキとその野生を謳歌していきます。

実際には野生の生き物の方が、肌ツヤをはじめ眼光や放つ身体からの雰囲気など圧倒的に新鮮です。動物園の方は、残念ながら元気がなく野生が消えてダラシナイ姿になっています。その姿を動物は知性とは呼ばないとは思いますが、人間は知性と呼び、都市化されて飼いならされた世界に憧れるようになっています。

教育の力は絶大で、最初から野生を忘れると野生であることがよくないことのように感じるのかもしれません。しかし人間は必ず、自分の天真天命を求めていくときその根底にある野生に回帰する必要があるように感じます。

それはいのちの根源であり、仕合せの源泉でもあるからです。

日本人の先人たちは野生のままに国を実現していきました。それは家の暮らしの中にも観てとれ、野生の感性を存分に発揮して暮らしを充実させていました。まさに本当の豊かさを持っていました。それを今は、懐かしいと感じる人もいると思いますがこの懐かしさは野生の感性が呼び戻そうとするのではないかと思うのです。

野生の中には知性がないのではなく、野生の中に本物の知性があると考えること。それがこれからの自然との共生に根を下ろすときの重要なカギになると私は思います。

子どもたちが生まれながらの子どものままで暮らしの豊かさが味わえるように、日本の心、その和の持つ伝承を続けていきたいと思います。

リジリエンス~自然の回帰力~

私たちは復興力というものが備わっています。これをリジリエンスと英語ではいいますが、元に戻る力、言い換えれば回帰力のようなものがあるということです。すべてのいのちは、自然から発生して自然に回帰しますからシンプルですが私たちは自然の一部であることからは逃れられないということです。

これを必死で逃れようとするのが人間の科学なのかもしれませんが、逃れられないと思う瞬間が必ず訪れます。それは自然災害や天災、天敵が訪れるときです。今回のコロナは、天敵のウイルスです。この天敵というものは、決して敵味方の時の敵ではなく天とついていますから自然循環の中で調和を司る神様のようなものです。

科学がどれだけ進歩しても、いくら自然から離れて征服した気になったとしてもそんなものはほとんど通用しないことを自然は必ず私たちに伝えてきます。謙虚にバランスを保っていた日本人の先祖たちは、智慧を積み重ねて独特な自然との共生文化を創り上げてきました。

その智慧は世界でも類を見ないほどで、それを先人たちは「和」といい、この和の文化を通して自然と上手く折り合いをつけながら豊かに暮らしていく方法まで辿りきつきました。それを改めて見直す必要があると私は感じています。

そもそも自然の回帰力は、自然の状態に近づける力です。今回、コロナウイルスで人類が自粛しておとなしくしていたらあっという間に空気汚染がなくなり、山林や河川、海にいたるまで生態系が戻ってきたといいます。たかだか数か月、人間が科学をつかった現在の資本主義型の産業構造を停止するだけで自然は随分と回帰したのです。

いくら持続可能だとSDGsとかいって、わけのわからない経済活動ばかりを増やしては自然環境のためにとやっていてもかえってそれで仕事が増えているだけといった矛盾があることに気づくはずです。特に今回のコロナの御蔭で、人間が汚染をするのをやめれば自然は偉大なスピードで恢復するのを実感しましたからもう少し人間はそのことを真摯に受け止めて今の暮らしを換えていく必要があると私は思います。

自然を敵視するのではなく、自然の力をうまくお借りするという発想、自然を征服するのではなく、自然と共生し活かしあう関係を築くということ。これは何億年も前から人類が工夫してきたことの集積が今も伝統に生きているのを感じます。

欧米型の新しい価値ばかりを価値にし、古くからの智慧をなんでもかんでも捨てていきますが捨ててはならないものもたくさんあるのです。捨ててはならないものまで短絡的に捨ててしまうというその価値観が、人類を更に盲目にしていくのです。

だからこそ、そうではない生き方をする人たちによって本来の在り方を見直す必要があります。それは決して原始時代に戻れというのではなく、原始時代にも大切にしてきた智慧を、科学が発展しても守り続けて調和させていく努力をしていこうと言っているのです。

私が最先端技術に取り組みながら、まったく正反対の暮らしを楽しむのもまたこの人類の未来にむけて、子どもたちの将来のために必要だと感じているからです。徳積財団での活動を本格化する前に、仲間を募り同じような生き方をする人たちで新しい経済の思想を築きたいとも思っています。

コロナの御蔭でコロナからはじまる未来を楽しみたいと思います。