元氣の素

日本には古来より穢れを祓うという思想があります。この穢れは別の言い方では、気枯れともいいますが魂そのものが澱まないように手入れを行い続けて常に新鮮であり続けるための工夫です。

この思想は、世阿弥の初心を忘れるべからずのようにあらゆる先達の方々が実践の中に取り入れてきました。現代では、あまりこの穢れという言葉を見聞きすることもなくなってきましたが私たちは本来、水の性質を生きていますから水が清らかであり続けるように自分たちの根源的な本質を洗い磨き続ける必要があります。

「洗心」という言葉があります。

これも穢れを祓う禊から出てきた言葉です、読んで字の如く心を洗い続けることで魂を磨くということを示します。私たちは、生きていると色々なものがこびりついてきます。油汚れのようなものから、埃のようなものから、また或いはシミのようなものまで生活の中で様々な垢が出てきます。

それをそのままにしていたら、本来あった瑞々しい本体を維持していくことが難しくなり自分が一体何ものであったのかすら思い出すこともなくなっていきます。自然のままであったものを不自然にすればするほどに穢れは増えていきます。

この自然のままというのは、元素、エレメント、つまり原始的な火、水、月、土、風などのシンプルなものであればあるほどに「そのまま」です。それを加工すればするほどに不自然になるということです。

滾々とわき出てくるような元氣の根源は、常にこの原始的なものと触れているときに活性化するものです。私たちは元氣を失えば、気枯れをおこし、病気になります。心身を病んで精神を痛めてしまえば、まともな暮らしを営んでいくことができません。

古来の先人たちは、常にそのことを意識し穢れを日々に祓うことを大切にしてきました。私も日々の暮らしの中で、火や水、風、土、木をはじめ様々なものを活用してその穢れを祓い元氣を甦生させています。

元氣さを保つというのは、大自然の中に一人、一緒になって存在している感覚を保ち続けることです。現代は大きな刷り込みのシステムがあり、そんなことはいちいち考えないとは思いますが私たちは地球と一人であり、宇宙とも一人です。

地球人、宇宙人であるという意識に先人たちは生きたからこそ神話もあり、星々の運行を直観することもあったのです。非科学的なもの非現実的なものは、現在の常識では非常識な意見とも思われます。しかし実際に、内面の深くに入れば入るほど、潜在意識の奥底に沈めば沈むほどその価値が偉大であることに気づくものです。

私たちは暮らしの中に宗教があり、それを道と呼びました。これは暮らしこそ道であるという意味です。暮らしは文化ですから、文化を生きていれば次第に日本人らしくなっていくのです。日本文化の根源にこの「穢れを祓う」という思想があることに仕合せを感じます。

日本人らしい生き方を実践しながら、子どもたちに元氣の智慧を伝承していきたいと思います。

価値の真実

すべてのものには価値というものがあります。その価値は、目には見えないものから目に見えるものまであります。例えば、ダイヤモンドなどの価値は市場で評価されている価値であることを知っている人には価値があります。しかし何も知らない人には特別な価値を感じないかもしれません。

私たちは知らず知らずに価値というものの判断を市場に委ねているのが分かります。こうやって価値を売買して、価値を交換することで経済は動かされているとも言えます。何が価値がもっともあるのか、それを金融の方で眺めれば世の中が何に執り付かれてうごめいているのかがわかります。

それに戦争でもひとたび発生すれば、武器が売れ、その統治国になるであろう国に資源が高騰していきます。石油なども、何かあるたびに価格が乱降下していきますがそのたびに株価も変わります。

この価値というものの歪さは、市場価値が誰かによって操作されていくところです。いつまでもそのものの価値を保つために、あらゆる操作をしてそれを維持しようとする。資本家や資本主義の持つ、中央集権の仕組みは世の中の価値を標準化していきました。

そのために、市場と切り離されていたむかしからの暮らしを維持していた農村も次第に巻き込まれその価値を押し付けられていきます。市場に参加するように促されていくのです。

一度、参加してしまえば市場価値合戦がはじまりますから市場にとって価値があるものしか製造しなくなっていきます。農家などわかりやすく、暮らしのために多種多様に作っていたものたちがある一つの果物だけを大量につくる農家に変身します。それは市場価値があるもののみを扱おうとするからです。価値がこうやって塗り替えられてしまえば、その周辺の村々に住む人たちの価値観も入れ替えられてしまいます。

何が価値があるのか。

この問いは、本来その人その人によって異なるものです。しかしその自分の価値を生きるよりも、周囲の価値を優先して生きていかなければ無価値になるとさえ思い込み、自分の価値の最大化を怠ることでより市場原理によって価値は中央集権化していきます。

そんなことをこのまま続けていたら、多様性は劣化していき本来の真実の価値が痩せ細り価値があることに気づかない人が増えていくだけです。

すべてのものに価値があるということを私たちの先祖は、八百万の神々という生き方によって守ってきました。そこにはゴミなどもなく、すべてがいのちのある神様として同等の価値を維持していきました。

私はこれを分散型と定義して呼びます、分散型の技術の哲学は私はこの八百万の思想から定義しているのです。ブロックチェーンの仕組みも私はこれと同じものであると確信しています。

これからは本物の価値とは何かをみんなで本気で議論する時代に入ります、そしてその価値をどうやってみんなで最大化していくか。それは生産性や効率性を最大化するのではなく、価値を如何に最大化するかということ。言い換えるのなら、真の豊かさをみんなで生きて幸福な世の中を今一度見直していこうとする時代です。

子どもたちが安心して、自分のあるがままを認められ信じ見守れるような世の中をここから実現していきたいと思います。

新しい常識

私たちは日常を生きていますが、そこには確かな社会システムというものが入っています。それは常識とも言い、また別の言い方では刷り込みとも言います。いくら本人が常に本質的に目的を優先して生きていこうとしていても、霧や霞がかるように次第にぼやけていくものです。

初心を忘れないという言葉もありますが、これもまた常に自分の心のままであること、正直な自分自身であるままに醒めている状態でいるということでもあります。醒めているから、物事があるがままに観えて惑わされることはありません。

たとえば、自然か不自然かという判断基準があります。自然が観えている人であれば不自然というものが何かを見極めることができます。しかしそもそも不自然を自然と思っている人には不自然というものが自然になっているのです。

常識とはそのようなもので、人によって常識が異なりますが誰かが常識を創り上げてしまっていたらそのシステムの中で本質や真実でいようとすると非常識なことをしていると周囲に評されていくのです。

変人や奇人と呼ばれる人は、常識がないと揶揄されます。常識がある人は正常な人で、常識ではない人は奇人変人。では常識がもしも誰かが創り上げたものであって、それが非常識になってしまった場合は全員が奇人変人ということになります。

これくらい人の世は、常識が変わっていくのです。それは時代が変われば変わってしまうことを歴史から学べるはずです。戦国時代の常識、縄文時代の常識、現代の常識、人間はそうやってその時代時代に常識を創り上げていきます。

自然界からすれば、常識は変わることはなく存在します。それは地球の常識に従うからです。私たち人類は、地球の常識を常識にしなくなりました。だから地球からしたら非常識だと思えることを、それこそ非常識だと言い切り、人間の常識を地球に押し付けていきます。

これこそ人類の刷り込みの原因であり、根幹にあるものです。自然と共生していくという生き方は、現代では奇人変人の類になります。しかし太古の時代から、変わらずに私たちは自然と共生してきたからここまで生き延びてきました。自然の常識に逆らって生きていけるはずもなく、自然に淘汰されていきます。

現在、コロナのことがあり人類は立ち止まって新しい常識と向き合う機会をいただきました。この新しい常識とは、決して特異なものではなく本来の常識、地球の常識であることに気づく必要があると私は思います。

新しい常識に生きるのなら、まずそもそも常識とは何かから考えることです。子どもたちの未来の仕合せのためにも、常識の意味を実践していきたいと思います。

コロナの御蔭~人類の転換期~

コロナ後によってまた世の中は元の姿に戻ろうと動き始めています。元の姿の代表的なものは、資本主義経済優先の世の中のことです。コロナの御蔭で、何が価値で何が本来だったかを思い出したのもつかの間、生活の安定のため、不安の解消のためにまた資本主義のシステムに依存するようになっていきます。

しかしこれはすでに限界に達していることが分かっており、また近くに似たようなことが発生することは間違いありません。そもそもコロナはあくまで切っ掛けの一つであり、新しい経済を創造する想像力がなければこのまま第二のコロナは必ず訪れるだろうと思います。

いつまでも資本を優先し、みんながそれぞれに貨幣そのものを欲望しつづけ、目的と手段が入れ替わってしまっている世の中にいることは本来の幸福や自然の調和とはかけ離れており持続するはずはありません。

限界に達している時に、今回のコロナが発生したともいっていい状態であり私たちは何が問題だったのかをよく観察してみる必要があるのです。

私たちは本来、価値を生きています。つまりそれぞれにみんな違ってみんないいという違いを味わうように分化してきました。顔が一つも同じものがないように、葉っぱが一枚も同じものがないように私たちはその違いを喜びにしました。

それが何か一つの価値観のみや、ある優れたものだけを比較差別され、価値を一方的に評価され、その価値以外は無価値かのように扱われていきました。資本主義の本体は、この価値の押し付けであるのは自明の理です。

本当の価値や本質よりも、大多数の集合真理や資本家たちの価値のみが優先されていく歪なシステムというのは不自然極まりないものであり、そんなものは長続きするはずがないのです。しかしそれを長続きさせるために貨幣は次々と発行され、膨大に膨れ上がってきて今があります。

世界自然保護基金WWFがこのまま人類が消費ペースを続ければ2030年には地球2個分が必要といわれます。すでに中国を中心にさらに競争が激化してきましたからすでに到達しているかもしれません。

こんな経済、果たして成り立つのか。ゼロベースで質問すればだれでもわかるようなことを、私たちはわかろうとはしません。

本来、このコロナはコロナ禍ではなくコロナの御蔭と生きていくのは人類の智慧です。何が間違っているのか、どう変異すべきかを教えてくれたのはウイルスたちです。

今の人類がこうなったのもウイルスの御蔭であり、ウイルスがいなければ私たちは進化もせず、分化も促されません。変化の象徴でもあるウイルスが一体、私達に何を伝えようとしたのか。

メッセージを受け取るかどうかは、私たちの意識次第なのです。

子どもたちが未来に安心した暮らしが譲り渡されるように、今やるべきことに注力していきたいと思います。

 

共生の智慧

以前、ある方から蜘蛛やトンボやカエルが古代から稲作と共存してきたことを寺院の古鏡に刻まれていたというお話をお聴きすることがありました。確かに、稲作にとってその3つの昆虫はよく見かけるもので稲を食べる虫を食べてくれる虫でもあります。

トンボやカエルなどは小さい時から親しみがあり、なんとなく愛着が湧いている人も多いように思いますが蜘蛛は結構、嫌われていることが多いように思います。

しかしよく考えてみたら、身近にいつもいる昆虫たちは人間と共生してきたから傍にいるのであり、人間の営みが自分たちにとっても都合がよいから一緒に生きてきたとも言えます。

他にもツバメやニワトリ、犬や猫、もっと以前になれば牛や馬などの動物たちも人間と共生してきました。

お互いの長所や役割を上手く活かしながら、共に生活を営む仲間がいるというのはこれは大きな暮らしの智慧であるように思うのです。そしてこれは自然の共生の原理であり、すべての生物たちはそのようにして仲間をつくり共に互助関係を築き上げていのちを助け合い繋いできたとも言えます。

改めて考えてみると、それぞれの生態系を調べていくことはどのように共生してきたか、また身近な生きものたちから自分たちが何を学んできたかを発見する鍵でもあります。共生の智慧を学ぶこともまた、身近な生き物を深めていく中で自明するように思います。

例えば、先ほどの蜘蛛という昆虫も偉大な生物の一つです。蜘蛛は糸を出しますが、最長で700m近く出し、風で糸を飛ばしては最長で一日に30キロほど移動するといいます。また餌のあるところを見つけては設けた蜘蛛の巣は毎日手入れのために分解し綺麗に作り直します。蜘蛛は狩の名手でもあり経糸と横糸があり、移動する糸と捕獲するための油のついた糸は分けられ絶妙な巣によって昆虫を捕獲して保存します。

また全世界に生息するクモが食べている昆虫の量は、毎年4億~8億トンに及んでいるとの研究結果が出ていてこれは人間が1年間に消費する肉と魚の総量に匹敵するといいます。しかし同時に蜘蛛は食べられる存在でもあり、8000種以上に及ぶ鳥や他の捕食動物や寄生動物が蜘蛛だけを食べて生きているとも言われます。

蜘蛛が全生物に与える影響をみれば、如何に偉大な存在としてこの地球で共生していることがわかります。身近なミクロな存在であっても、マクロで観直してみればそれが地球全体の貴重な共生の一部であることを知るのです。

私たちが身近な生きものたちと暮らすのは、同時に虫たちや動物たちも人類を同様に生態系を維持する共生の仲間として観られているのかもしれません。

自分のことしか見えなくなるのは、人間の弱点の一つです。

視野を広げて、視座を高めて、もういちど、共生の智慧から学び直していきたいと思います。

歴史を間違えない

歴史を学べば、その時代時代に数々のことが発生したことに気づくことができます。その中でも人類の歴史というものと、自然の歴史というものがあるように思います。

人類の歴史は世界史や日本史などもそうですが、その時々で権力者たちによって書き換えられてきたこれまでの人類の変遷です。本来は、人類史というものは世界全体でどのように暮らしを営み現在まで行われてきたかということのみあれば事足りるように思います。つまり人類史は社會史でもありますから、どのように社會を形成して変化させていったか、その中でどのような出来事によって価値観が変容してきたかを知ることで人類という生物の歴史が学べるように思います。

また自然の歴史というものであれば、それは災害の歴史でもあります。隕石や火山の噴火、津波、寒波に熱波、大地震など地球全体の生命を危機に晒すような出来事が現在までに発生してきたか、その中で生命はどのように変化してきたか、これによって自然から生命の歴史が学べるように思います。

今、生きているものたちはみんな過去の歴史を歩んだものたちです。その時々でどのように乗り越えて種を保存してきたのか。これはとても偉大な形跡であるように思うのです。

そしてこの先、同様な危機が訪れた際にどのようにその困難を乗り越えるのか。

それは歴史に学ぶしかありません。

今、私たちは歴史を学んでいるでしょうか。そして本当の歴史を見つめているでしょうか。為政者や意図的に誰かが刷り込むための歴史を歴史と勘違いしていないでしょうか。本物の歴史は果たしてどれくらい役割を果たしているでしょうか。

人類がもしも大きな間違いをするとしたらこの歴史を間違えるということかもしれません。歴史は、私たちの先人からの徳の中にこそ存在しています。それを智慧とも言います。

歴史や知恵から、なぜそうしたのかと洞察するとそこに歴史を乗り越えてきたヒントやコツ、そして答えが記されています。私が古民家で暮らしを甦生するのも、1000年先の子どもたちのための環境を遺すために今に取り組むのもまた以上の理由からなのです。

人は自分というものの小さな単位でしか物事が見れなくなってきました。自然から離れ、個人主義を刷り込まれ、偉大な時間や存在のことを忘れてしまいました。刷り込みの怖さは場や環境から感じ取れるものです。

もう一度、まだ間に合うからこそ一人でも多くがその歴史の智慧や本質を学び直して子どもたちに徳を譲り遺していってほしいと祈ります。自分ができることから、取り組んでいきたいと思います。

スローな暮らしの時代

昨日はBAの畑づくりをしましたが、敷き藁と支柱で懐かしい牧歌的な畑に仕上がってきました。モノづくりをするという環境からどのようなインスピレーションをいただくことができるか。私たちは、豊かな心でモノと接するには豊かな環境が必要になります。

それはなんでも効率優先で無視してきたゆとりや余裕の中にこそ非効率的な豊かさや暮らしの美しさがあるように思うのです。

一見、無駄だと思われて省かれる中に、そして不必要だといって捨てられる中にこそ心の余裕が入っています。この心の余裕とは一体何かということです。西洋ではこれを「スロー」ともいいます。このスローは、イタリアで起こったスローフード運動から派生したもので、効率や利便性を追求する現代人に、あらためて自分自身、また自分の生活を見直そうといった考え方であるといいます。

日本では田舎暮らしのことをスローライフとか言われますが、実際にはグローバル化された比較競争の資本主義経済の社会の中でも他人や社会に翻弄されないでゆっくりと自分自身の懐かしく美しい暮らしを実現させていくようなことを言うと思います。

コロナの御蔭で、世界は一度立ち止まることができました。その上で元に戻そうとする人、元には戻らないというする人に大きくわかります。つまり、元通りがよいという人、元よりももっと善い世の中にしていこうとする人ともいえます。

改めて行き過ぎた過剰な経済競争や欲優先の知性を少し手放し、子どもたちの未来のために自然との調和と人類の社会の平和のゆるやかなスローな暮らしの時代に向けて少しずつ変化していきたいと思います。

徳積BAFE~場の創造~

場を深めていると、その場の中に人も場になるという性質を知ることができます。その人がいるからそこに行く、その人が居ればなぜか別の効果が産まれる。つまり人が場になっていることが分かります。

例えば、私たちの会社にも感謝を磨くことを人生のテーマにしている女性の方がいます。この方がオンラインでも打ち合わせに参加されれば穏やかで安らかな場が生まれます。これはみんなそう感じていて、天然でオープン、自然体で周りを尊敬する姿勢がこの場を創るということでしょう。

他にも、一緒にお仕事をするある先生がその場にいるとみんなの議論が深く大きくなり志が共有され高揚感ができモチベーションが高まります。その人がいるだけで、世の中を変えていけるような自信と学ぶ楽しさを味わえるのです。その人がいるかいないかだけで学ぶ喜びが変わっていきますからこれもまた人が場を創っている証拠です。

場とは何か、これは大変奥深い問いです。

私は「場道家」を名乗り、場を研究して極めていこうとしていますが深めても深めてもまだまだ真髄は奥底に沈んでいます。それはいのちの存在そのものと正対することであり、宇宙という空間に触れていくということに近いからです。

そして人は心と向き合うとき、居場所というものの存在の大きさに出会います。自分の居場所とは、還る場所であり、帰る場所だからです。みんな安心したいと思っているのは、その居場所を思い出したいと願っているようにも思います。

懐かしいふるさとの存在によって私たちは、活動を揺るがないものにし、自分の生を全うする自信を得ますからこの「居場所」はとても重要なのです。

子どもたちに居場所を創るためにも今度の徳積BAFEは、実践研究の大きな役割を果たしてくれると信じています。私もカフェに参入しますが、誰も見たことのないようなものになると思います。子どもの憧れる生き方、働き方を追求していきたいと思います。

無双庭園の伝承

聴福庵のメビウスガーデン(無双庭園)が無事に完成しました。日当たりもよく、水はけもいい、そして風通しもよく、居心地の善い、新たな循環環境の徳を可視化する「場」ができたことが有難く思います。

まずこのつくりは、自然の雨をじっくり時間をかけて浸透するようにらせん状になっています。それに野菜や花に余裕を持たせた適当な空間を用意し山のように斜面によって全体に陽が当たるように設計しています。水も、日ごろは土から上がってくる水と雨で降ってくる水が行き来できるように水はけを考えて土を盛り、日照りのきつい時の水やりは浅井戸水を汲み上げて上から流せばらせん状に最下層のビオトープまで流れていきます。

よくパーマカルチャーのスパイラルロックガーデンと同じではないかと思われますが見た目は参考にしていますが、その思想は日本人である私が手掛けていますから同じところと異なるところがあります。

そもそもこのパーマカルチャーという言葉は、「パーマネント(永続的な)」+「アグリカルチャー(農業)」+「カルチャー(文化)」を合成した造語で1970年代のオーストラリアで環境問題や農業に取り組んでいたビル・モリソンとデビッド・ホルムグレンが体系化したものです。

具体的には、3つの倫理である、「地球に対する配慮」「人々に対する配慮」「余剰物を分配する」というものがあります。これを実践する12の原則として下記があります。

1、観察と相互作用 2、エネルギーの獲得と貯蔵 3、収穫せよ 4、自律とフィードバックの活用 5、再生可能な資源やサービスの利用と評価 6、ゴミを生み出さない 7、パターンから詳細までのデザイン 8、分離よりも統合 9、ゆっくり、小さな解決を 10、多様性の活用と尊重 11、接点の活用と辺境の評価 12、変化に対しての創造的な利用と対応

これらをデザインした暮らしを実現していくのがパーマカルチャーではないかと感じます。私はちゃんとした本も読んでなく、触れてもいないので実際にはその奥深さはわかりませんが私のライフワークとライトワークと共通しているところも多く、共感しています。

話がだいぶ逸れましたが、似ているところは以上の原理原則ですが異なるところもあります。それは日本人の文化を主軸に、この3つの原則と別に先祖が喜ぶかという基準をを持っているところです。私が古民家甦生をするのも、日本人の誇りを子どもたちに譲っていくためでもあります。

日本の文化を活用して取り組んだかどうかは、智慧の伝承につながっています。今回の無双庭園は、先人たちからの智慧を存分に取り入れて造園されています。例えば、炭や竹、瓦や井戸、発酵と伝統をデザインしています。

そもそも目的が異なれば、見た目の手段は同じであってもその本質は異なるものです。似て非なるものとは、その目的を確かめれば異なるところを見極めることができます。しかしその目的や理想のスケールによって、手段の意味合いも異なりますから奥深さがどこにもあるのです。

大切なのは、一体何の目的でそれをやろうとしたかということを理解し道に入ることだと私は思います。

時間をかけてじっくりと持続してきたものの御蔭で私は今あります。まさに徳の成果でしょう。その徳を譲り渡してそのままに永続していけるように場を守るのは今を生きるものたちの本来の使命です。

これからここに作物のめぐりがはじまりますから、この数年でできた新たな徳を可視化し、子どもたちの未来に確かな場を継承していきたいと思います。

智慧の伝承~人類の誇りを守る~

知識と知恵という言葉があります。これは、識と恵という言葉で成り立っています。別の漢字では、智慧とも書きます。これらは実際にはどのようなものかということを深く考えてみると、同じ響きの言葉でもまったく意味が異なることが分かります。

そもそも識という字は、言葉を縦横に織りなしながらその意味を理解するということ。そして、恵という字の成り立ちは糸巻きから新しい意味が転じていくということ。これはどちらも織物がカタチになって漢字になっているものです。そして知るという字は、矢と口ですが神意のことを指します。

つまりは神様の織りなす意味を理解し、神様からの意図を転じて解釈する。つまり知識と知恵とは、どちらも神意を悟るということです。不思議ですが、学校で知識や知恵を学ぶというのは常に神意を悟るための学問を実践するということになります。

現代は、知識は単なる暗記の材料になり、コンピューターの出現によって知恵も知識の集合体のように評されることが増えてきて、先人たちが長い年月で築き上げた知識や知恵が伝承されることがなくなってきました。世界が広がっていくのはいいのですが、その分、世界は浅くなってきていないか、今の暮らしに知識と知恵の深みがないことが残念に思います。

そういう私も、人生の半分以上はその知識と知恵の詰め込み教育で育ってきました。知識は武器であり、情報化社会においては知識こそが経済を発展させる道具であると信じ込んできました。現在、戦争も情報戦といってむかしのように直接的な殺戮を行わず情報によって追い込んで勝敗を決めていきます。

本来の人類の目的のために知識と知恵を使わずに、ただの手段として知識と知恵を使おうとする。これでは持続可能な社會など実現することは不可能であることは、誰が考えてもわかります。目くらましにあっているだけで、刷り込みを取り払えば私たちは先人たちの知識と知恵の伝承である本来の智慧によって神様に活かされてきた事実に直面するのです。

この世でいくら知識や知恵があっても生きていくことはできません。私たちは、大宇宙の大自然から偉大な恩恵をいただきその智慧によって活かされます。この身体の細胞の一つ一つ、そして絶妙にバランスを保ち存在しているあらゆる存在、そして関係性やつながり、そのどれもが智慧に満ちています。

その智慧を学ぶことは、大宇宙の大自然の法則に学ぶことであり自分をその存在に少しでも近づけていこうとするのです。つまり神人合一ともいうように、私たちは先人たちの大いなる命の集合体で集積体、まさにその歴史の伝承者ですからそれをそのままに活かし生きることが智慧になるのです。

智慧とは何か、つまりはあるがままの自分に回帰することです。それはあるがままであることが理解できるということ、ありのままで活かしあう真理に生きるということ。これができてはじめて智と慧は和して日本人になるのです。

日本人を創るということは、日本人になるということです。それは日本人の誇りを大切にして日本人のままでいるということです。私は、特別なことをしていることではなく日本人の原点を探り日本人の誇りを保ち子孫にそれをそのままに伝承しようとしているのです。

これを徳ともいうのです。

私は一緒に10年以上、パートナーとして取り組んでいる存在がいてその方は智慧を学びその智慧の真理を伝承するために私塾をひらいています。なぜ私が一緒にと知識と知恵を重ねて考えてみると、それは私が子どもたちのために智慧を実践し覚醒させようとしていたからだと今では感じます。

私が智慧にこだわったのは、すべて子どもたちのためですがこれは日本人のためでもあるし世界の人々のためでもあるし、未来の人たちのためでもあります。人類は大きな分岐点にきていますが、文化は文明の手段であってはならないのです。文化は目的そのものですから日本人の文化を守ることは、日本人の目的を守ることです。文明という手段に翻弄されて本末転倒してはならないのです。

引き続き、私の人生の集大成は徳と決めました。

神意に従って、やるべきことに専念していきたいと思います。