徳積循環社會の実現

私は、徳を磨くことの一環として人が捨てたものを拾うことを実践しているように思います。それは決してゴミ拾いが好きだという意味ではなく、まだまだその徳が活かせると思えるもの、磨き直せばきっと何か徳が出てくると思えるようなもの、また寿命が尽きる最後まで一緒にお役に立っていきたいと思っているものを拾っているように思います。

それはそこに「徳」が残っているからです。

徳を捨てて私利私欲の得を取るのが今の世の中ですが、本来は得(私利)と徳(利他)がセットになってはじめて全体の道徳経済は一致していくように私は思います。資本主義が偏ってしまったのは、徳ばかりが失われて得ばかりが優先されてきたからに他なりません。

私は決して資本主義を否定するものでもなく、現在の経済も決してダメだとも言いません。実際に私もその恩恵の中で暮らしを育まれており、お金の御蔭で多くの味わい深い幸福も得ています。

しかし否定していませんが、本来の資本主義を完成させるためにも徳循環経済をもっと大きくしてバランスを取る必要があると思っているのです。だからこそ徳積財団を設立し、徳積の仕組みを発明し先進技術によってそれを実現しようとしているのです。

同時にこの徳積は理解がなかなか難しいものでもあります。なぜなら利益中心の世の中においては、無私の発想で放たれる徳の経済の考えは照らし合わせるものがないからです。

長い目でみれば、徳は必ず経済には必要不可欠であることはわかります。しかし現代のようなスピード社會では、その価値はなかなか理解されません。着眼大局、着手小局と先達の人物たちは取り組みましたがなかなかそのような人物が現代では巡り合うことがありません。

世の中の価値観に振り回されてしまい、また組織が大きければ大きいほど、その時代の価値観の影響を受けてしまい取り組むことができないからです。

だからこそ今は、小さい組織で信念で価値観を醸成できるチームを分散させ、その人たちによって草莽崛起するように徳循環の社會を創造していく必要を感じています。

まずはここで自分でやり遂げ、その志を継いでくれる人、仲間を集めてみようと思っている次第です。

引き続き、徳積循環社會の実現に向けて挑戦していきたいと思います。

二つが一つ

物事は冷静に客観的に分析すると本質が観えてくるものです。しかし実際には主観が入り、じっくりと待つことができず物事が歪んでいくものです。心を澄ませること、そして心を整えること、心の状態を平常心に保つ工夫がある人は本質的な生き方を維持していくことができるように思います。

私も人間ですから、日々に様々な喧騒の中で心が揺さぶられて波立つことがあります。波立たないことなどはなく、風が吹けばすぐに波立ちます。また人間には感情がありますから、肉体や精神が味わい深い複雑な体験を通して人生を感じます。

大事なことは、元の澄んだ状態にどう戻るか、元の穏やかで整った心境に如何に回帰するかということだと思います。天気が日々に換わっても、空はいつも碧く、夜空には星が煌めきます。月がカタチが変化しても、いつも本体は変わらずに地球を見守り続けるように私たちは心に月を持っているのです。

これは科学的に言ったら荒唐無稽のように思われるかもしれませんが、私は地球と月は一体であると思っています。つまりは私たちが思っている地球の生命には月もセットになっている。言い換えれば二つで一つであるということです。

私たちがその中で生命をはぐくまれ、人間が、また動植物が存在するのはこの二つの存在が生命を見守る環境が存在しているからです。

私たちは見守られる環境の中で初めて育つことができるのは、親がいて子がいることからも真実であることは見知っていることです。同様に、地球と月にも真実があり私たちのいのちは二つが一体になって存在できているのです。

科学者は住める惑星を求めて地球と同じ大きさや形の星だけで探していますが、本来の実相が観えていないように思います。二つで一つのものを探すことが、いのちに近づく方法だと私は思います。

善悪、陰陽、寒暖、生死、すべては二つが一つではじめて成り立ちます。物事の実相を見極め、本質を見抜き、真実のままに心を育てていきたいと思います。

こだわりとは

私はこだわりが強いタイプと周りに言われます。いちいちこだわっているといわれ、嫌煙されるか尊敬されるかがどちらかに分かれます。自分自身では無意識にやっていることなので今さら周囲がどういおうが生き方が変わらないのですが、納得するまで本質を突き詰めたいと思いあれこれを深めていたら自然にこだわりが強くなっていくだけのように思います。

先日、稲盛和夫さんにこういう言葉に出会いました。

「ひとつのことを究めることは、すべてを理解することなのです。すべてのものの奥深くに、真理があるのです。」

確かに、一つのことを深めれば深めるほどにあらゆる総合的な知識や経験、そして智慧や直観が使われていきます。今まで見聞きしたものから真理を思い出し、その真理に照らして道理を悟ります。

私の場合は、どれも自然から学んだ智慧ものを用います。例えば、自然か不自然かがまず最初の篩であり、その後は、歴史の智慧に照らします。歴史の智慧とは、発酵とか、共生とか、体のことや気候、伝統などです。

いわれてみれば、自然農をやってきたり、人類を学んだり、伝統を学んだり、暮らしを学んでいる過程で私はすべてを理解していきました。そのすべてのものの奥深さに感動し、その感動したものを自分のものにする過程で新たな発見は発明に出会います。

現在、建造中の復古創新した日本伝統のサウナもまたすべてを理解するなかで創造する総合芸術であり、その中には私が経験して学び理解した本質のすべてを組み合わせていきます。

気が付くと、こだわりが強いといわれていますがこれはこだわりではなく真実に近づいているということでもあります。こだわりとは、決して嘘偽りない正直な真心で取り組んでいるということかもしれません。

執着というこだわりと、真理というこだわり、同じこだわりという意味でもその大前提が異なります。自然は無為であるように、真理もまた同様に無為というこだわりがあります。

自然も真理も道理ですから、そこから外れないで生きることこそ人類にとって必要なこだわりではないかとも私は感じます。時代が変わればこだわりもまた変わります。人類の道理を忘れないよう、初心を大切に取り組んでいきたいと思います。

 

自然の基盤

今回の新型コロナウイルスは、人間社會にとっては非常に大きな問題ですが虫たちや植物たちにとってはそれよりも気候変動の方が大きな問題になっているように思います。

一部では、かえって空気汚染が解消され人間が自粛することによって生活範囲がひろがり快適になっている動植物もいると思います。地球には人間だけが住んでいるのではなく、あらゆる生物が折り合いをつけて自然と共生しているのだからどちらかの天国がどちらかの地獄でもあり、お互いに謙虚に支え合って生きているのが地球のいのちの本体です。

私が気になるのは、コロナウイルスで経済が打撃を受けて世界恐慌や戦争になることではありません。もちろんそれも心配ですが、人間は何をするかもっとも分からない生きものですからこればかりは予想などできず、常に福に転じていくよう日々の暮らしを整えていくしかありません。

しかし気候変動は、生物界全体に大きな影響を及ぼします。一つの生き物が息絶えてしまえば、それを支え合う大くの生きものたちもまた息絶えてしまいます。絶滅の連鎖です。

この絶滅の連鎖は、最終的にはすべての生命の生息をとめいのちの水そのもののハタラキも停止させてしまいます。現在の火星のようになるのも時間の問題です。地球は、あらゆる生きものたちが有機的につながることで生命を維持しています。この絶妙でもっとも微妙なバランスが崩れることは、その間を流れる水の流れもまた止めてしまいます。

水は人間の身体でいう血液であり、血液が流れるから細胞は活動します。血液を流し続けるには、細胞たちの活動とハタラキが欠かせません。そのために、私たちは肉体を通して地球の生命の実相を学び、その肉体から発する様々な感情を得ては何が健康であり、何が不健全であるかを学びます。

いくらAIや意識や脳を進化させても、陰ながらすべてを支える地球の存在を抜きにして私たちはこの暮らしを保つことはできません。

気候変動機において、如何に多種多様な生物を守り共生を持続させていくか。人間ができることはまだまだたくさんあります。まずは、今の人間の経済のみを優先する姿を見直し、徳を積み、徳を広げるという自然の基盤となる道徳経済の世界に易えていくことだと私は思います。

子どもたち、子孫たちのためにも、今できることを今やらなければなりません。自然との共生は、足元から変えていくことができます。このチャンスを活かして、新しい挑戦に取り組みたいと思います。

モビリティの本懐

最近、あることからモビリティのことを深めている中でふと乗り物の歴史について学び直す機会がありました。私たちの現代においては、自転車や車は当たり前で飛行機も新幹線も当然身近にあるものです。しかし150年前まではそのどれもが存在しておらず、私たちの乗り物は大きな変化を遂げていきました。

現代では車社会も一つの終焉を迎えており、移動手段が激変していく時代を迎えています。乗り物としての存在と、そもそも乗り物を使って何をしたかったのかという人類の目的の狭間で新しいものが創造されていくのは時間の問題です。

改めて少し移動手段の歴史を整理してみると、そもそも紀元前1万年以上前は足で歩いていました。そこから筏や丸太がではじめ丸木舟は紀元前7千年くらいに出てきたといいます。そして紀元前5千年にはソリが生まれ、紀元前三千五百年頃には車輪付きの車が誕生しました。これをロバなどが引いていたといいます。そして紀元前三千年頃には、乗馬や帆走船がでてきて交易船によって栄えていきました。そのあとも、少しずつ改良され様々な自然物を活かした乗り物が利用されていきました。

急激に現代のように科学の乗り物が進化したのは蒸気による動力の発明からだといわれます。この発明から、より多くの荷物、スピード、そして遠くまでいけるようになりました。

産業革命はその後、様々な科学技術の進歩と共にあらゆるものが発明されていきました。1769年には、蒸気で走る三輪自動車が発明され、1783年には蒸気船、1802年には蒸気機関車、1886年にはついにガソリンを使った車が誕生しました。1903年には飛行機という具合です。ここから100年はさらに進化し、原子力潜水艦、人口衛星、宇宙ロケット、新幹線、リニア、ジェット機、電気自動車、水素自動車、他にもこの数年で様々なエネルギーを活用した乗り物が誕生しています。

私たちは、乗り物を使い科学を発展させていきました。言い換えれば科学の発展と乗り物は常に一体に進歩してきたとも言えます。しかしそのことから、環境汚染が広がり、人間の生活速度が変わり、世界中に資本主義経済が発展する動機となりました。

物流は日々に便利になり、今日ウェブ上で注文したものがその日のうちに届く具合です。さらに仮想空間ができたことで、体は移動しなくてもVR等により意識が移動できます。他にも、AIやIOTが進みそもそも移動する必要がない状態が生まれています。

人類の乗り物は、単なる移動手段ではないことは歴史を学べば明確です。

だからこそ、本来、モビリティの本質は何かを人類は問われているように私は思います。ゆったりとスローに移動するということは、ひょっとしたら今の人たちからしたら変人の戯言のように思われるかもしれません。

しかし、私の提案する暮らしフルネスは敢えてそれを先進技術で補う仕組みを取り入れています。時代が変わりますが、人類の目的や人生の意味は普遍的です。

子どもたちが安心して地球に豊かに住み続けられるように、新しい取り組みを発信していきたいと思います。

自然の薬

昨日は、郷里で有名な漢方の先生のご紹介で諫早にある御湯神指しでよもぎ蒸しを体験してきました。ここは、韓国の「汗蒸幕」(ハンジュンマク)を改良したサウナがあります。松の木をドーム型の石室の中心で燃やし、麻布をかぶって入るという約600年の韓国式伝統サウナもあります。

昨年末より胃腸の具合がわるく、疲労の蓄積があると漢方の先生にいわれて漢方治療と湯治を優先しつつ回復につとめています。ちょうど、BAでの復古創新している日本古来のサウナも出来上がったことから敢えて色々と対比しながら学ぶためにも体験してみました。

サウナの方の火は、私の備長炭のサウナと異なり陽の火が強く感じられ長く入っていることはできませんでした。その分、短時間で体内に熱を貯めつつそれを外に排出する作用があり短い時間でも充分な効果があるようにも感じました。難病の方や、重度の病気を持った方が来られることが多いとお聞きし、いのちの燃焼を手助けして寿命を延ばす効果があるようにも感じました。

私は火には、陽の火と陰の火があるように直観しています。陽の火は、キャンプファイヤーの火で明るく燃え盛り爆発するようなエネルギーを周囲に散らしていくような興奮の火です。特徴は瞬間的に、一気に燃え盛るものというイメージです。
もう一つの陰の火は、火鉢の中の備長炭の火で穏やかにしんしんと静かに消えていきながら遠赤外線を放射していく癒し回復を助ける火です。陽の火はアドレナリンが出て、陰の火はドーパミンが出てきます。

つまり火は二つの性質が一体化したもので、火は最初から二つで一つであるということです。陰陽の原理は、いのちの原理であり、最初から水も火も、木も土もすべて二つの別々のものが合わさってできています。これは人という字にもあるように、人間も肉体と魂が融合して存在するように二つが一つになっているのです。

話をよもぎ蒸しに戻せば、このよもぎ蒸し(よもぎむし)は、よもぎを煎じた蒸気を下半身を中心に体全体に浴び吸収させる民間療法で韓国では600年から700年ほど前から、産後ケアとして愛用されているといいます。

よもぎといえば、私も幼いころから怪我をしたり虫に刺されたりしたときの応急処置で使っていました。不思議と、よもぎをすりつぶしたものを塗り込むと皮膚炎が収まったり擦り傷の回復が早かった記憶があります。

漢方でこのよもぎは、浄血、造血、末梢血管の拡張作用、新陳代謝促進、抗アレルギー作用、殺菌・制菌、などの働きがあるといいます。実際に入ってみると、独特な香りがして体の毒素を中和しているような感覚がありました。

そもそもお灸で使うもぐさもよもぎからつくられます。特にお灸に使うもぐさは春、草餅やよもぎ団子になっているあのよもぎを使います。よもぎは春に芽を出す生命力旺盛なもので、街中の道端の隙間や土手などにたくさん生えてきます。生命力旺盛な植物です。そして乾燥したよもぎは艾葉(がいよう)と呼ばれ、生薬としてカラダを温め、腹痛、胸やけ、下痢、便秘など、さまざまな症状に効果があります。

このよもぎのもぐさは、梅雨が終り花の咲く前によもぎを刈り取り乾燥させ臼でくだいたあと葉や茎を取り去るという作業をくり返しくり返しつづけやがてほんの少しのフカフカの綿毛だけになります。この綿毛がもぐさなのです。

乾燥したよもぎからたった200分の1しか取れない貴重なものです。このもぐさにはよもぎに含まれる精油成分があるためか、火つきがよく、熱さ少なく火持ちもよいのでお灸に最適です。

先人の知恵というか叡智には頭が下がります。中国では2000年以上前からこのように民間療法がお灸という形で伝承されてきました。時代が変わっても歴史が過ぎ去っても、効果があったものだけは自然の篩にかけられて今でも残っているのです。西洋からやってきた科学的な薬も短期的には効果がありますが、本来の自然治癒や人間の叡智から編み出された自然の薬はなによりも人々の身体だけではなく心も同時に癒します。

BAの浄化場で自然治癒をさらに究め、人々の心身を癒し自然との共生を回復させていきたいと思います。

日本サウナの誕生

昨年の夏ころから準備してきた備長炭を使った日本古来の伝統サウナが無事に復古創新されました。昨日はその最初に火入れをした記念すべき日で感動も一入でした。

思い返せば、フィンランドのキングオブサウナを訪ねて、トナカイが道を歩いているような田舎までいきその仕組みや原理を学び、その空間や場から本質を洞察しました。また現地のスタッフの方から考え方や生き方、そしてそのおもてなしの在り方までご指導いただき世界標準の水準を設定しました。

そして帰国してからは、日本古来の石風呂をはじめ全国各地にあるサウナ石を研究し収集し、実証実験を何度も繰り返しました。また現代のサウナの聖地と呼ばれるサウナを渡り歩き、日本人にとっての好ましい水風呂の質を研究しました。

同時に医療の事を学び、自律神経を整える仕組みや、漢方を学び、サウナにもっとも相応しい生薬が何であるかなど一つ一つ整理していきました。

また外気浴のために、如何に善い風が吹いてくるか、どの場所に何を配置するともっとも穏やかな感覚になれるかを図面で何度も検証して現在の配置にしています。

日没の夕陽が鳥羽公園に反射してキラキラと幻想的な風景を演出できるように庭も改造しています。

そして用いる炭は、最高級の備長炭をつかい6時間から8時間ほど火を見守り、石に火のいのちを転換させ波動を発生させていきます。

私は正月から体調を崩し、ずっと不調のままでこの日を迎えましたが昨日甦生させた日本古来のサウナによって体調が回復する奇跡を得ました。身をもってまさにその効果を体験でき、これからこの浄化場が人々の心身を救っていくことを道具たちと共に誓い、新しい場が誕生したことをお祝いしました、

この地に、新たな聖地が生まれたことを仕合せに思います。

子どもたちが、安心してこの先も日本の伝統文化を温故知新していくモデルが残していけるように私の生き様から世界へ表現していきたいと思います。すべてのご縁と出会いに感謝しています。

自然淘汰 

自然淘汰という言葉があります。これは辞書では「時の経過とともに、優良なものが生き残り、劣悪なものがひとりでに滅びていくこと」と記されます。長い歴史の中で生物の生存競争において少しでも有利な形質をもつものが生存して子孫を残し適しないものは滅びることとも言われます。

この淘汰という字を分解すると、「淘」は「水洗いをして不純物を取り除く」「より分ける」こと、そして「汰」は「不要のものを流し去る」「良いものと悪いものをより分ける」を意味します。

つまり洗い流して不純物を取り除いていくということでもあります。

自然界は生きものに偉大な慈愛を注ぎますが、同時に偉大な厳格さも与えます。つまり成長し続けること、進化し続けること、改善し続けること、手放し続けること、努力し続けること、等々、いのちを全身全霊で活かしきるように働きかけてきます。

自然農の畑に出て自然の一部に入り込めば、様々な生き物たちの楽園で私も一緒にいのちを全力で活かしきろうとします。元氣なものは生き残り、弱っているものは駆逐されていきます。

元氣でいるためには、自然の中で自分自身を常にブラッシュアップして共存共栄しながら適応していくしかありません。それは言い換えれば、自分自身が自然に照らして淘汰し続けなければならないのです。

自分が淘汰するのと淘汰されるという意味ではその主体が異なります。自ら淘汰していくということは、自然の変化と共に順応していくことです。かつて長い歴史の中で私たちが見たこともなかったような生物がたくさんあったと思います。時にそれは淘汰され、今はみかけることもなくなったものもあります。

私たちは自然の篩に常にかけられ、その隙間を落ちるものと残るものに分かれます。いい種を残そう、適応する種を使おうと、常に自然は濾過し続けているのです。

地球は水の惑星ですから、この淘汰や濾過はいのちの作用そのものです。

自然から離れず共生し、自然の意思に従って応じて順じて改善していきたいと思います。

健康から学ぶ

植物や樹木には根があることで養分を吸い上げて成長します。農家が健康状態を測るときは、土壌の質とその根の状態を観ていきます。私が不耕起栽培でご指導いただいているメンターもまた、土と稲の根の状態を観て田んぼの健康状態を測ります。

明らかに土の状態がいいとき、その土には大量の菌類がいて活発に活動しています。また稲の根も深くまで入り、たっぷり菌と共生している様子が根に現れます。

人間であればこの土と根は何かということを考えると、腸内環境でありそれが便に現れていることを感じます。腸内で私たちは、養分を吸収しますから腸内の状態がよければよいほど、先ほどの植物と同じように菌と共生できているということです。

私たちは、自然のままにむかしから続く暮らしをしてその地域で食べてきたものを食べ、暮らしを営めば自然にそれに適応した腸内フローラになるように思います。それが生活が乱れ、おかしな食生活や、生活リズム、他にも住環境が乱れれば当然腸内環境も乱れていきます。

腸内環境が乱れれば、先ほどの植物では根の力もなく土も貧弱になりますから健康が害されて弱くなっていきます。

健康というものは、そう考えてみると自分の土壌環境や根の状態を知らせてくれる存在でもあります。自分の根が弱っているのなら、環境を換えていくことが大切です。特に人間は、動けますから自分から進んで改善をしていくことができます。

例えば、冬の間に蓄積した疲れをどのように取り除くか、他にも運動不足から発生する筋力の衰えをどのように改善するか。それは日々の暮らしの工夫によって改善できます。

免疫を高める工夫をする中で、改めて先人たちの暮らしの知恵の素晴らしさを感じます。色々と今回の機会で、取り組んでみたいと思います。

ご縁をもてなす

ホスピタリティという言葉があります。これは日本では「おもてなし」と呼ばれますが、文化が異なりますが実際の定義も歴史も異なります。私は、場を創造する仕事をしていますからこの場の定義においてホスピタリティやおもてなしの定義を明確にすることは重要なことです。

まずはこの英語の「hospitality」の語源は「hospice(ホスピス)」ですがラテン語の「hospes(ホスペス)」と「hospitium(ホスピティウ)」からできた言葉です。この「ホスペス」は「客の両者」を意味し「ホスピティウム」ラテン語で「客を厚遇すること」という意味になります。

実際に「ホスピタリティ」の歴史を遡ってみるとホスピタリティhospitalityの基礎用語はhospitalであり、このhospital は第一義に「病院」と訳されていますが歴史ではキリスト教の慈善施設のことでした。そこには老人、孤児、貧者などを収容する施設として人々の救済を担っていた場所だったといいます。

つまり巡礼者を歓待し、保護し、厚遇して家族のように迎い入れていた場所ということになります。日本にも、伊勢神宮の伊勢講のようにみんなで旅をして巡礼をしていたころはそれぞれに宿場町がありそこで旅の疲れを癒しました。むかし、四国でお遍路の体験をしたことがありましたがその巡礼中に地域の方々が大切に巡礼者をおもてなしすることに感動したことを覚えています。

知らない土地で、他人に対してまるで身内のように接してお世話をしてくださる存在にとても感謝したものです。

そして日本のおもてなしは、茶道が源流ともいわれますがこれは「一期一会」と用いられます。これは千利休の高弟・山川宗二が「たとえ同じ顔ぶれで何回も茶会を開いたとしても、今日ただ今のこの茶会は決して繰り返すことのない茶会だと思えば、それはわが一生に一度の会である。そう思うと互いに粗略に扱うこともない。真剣な気持ちで、何事もなおざりにすることなく一服の茶をいただくことになる。 」(WEBサイト「井伊直弼と開国150年祭」より)とあります。

その場は、一度きり、二度とないからこそその瞬間の出会いを大切に心を盡すことをいいます。他人を歓待するだけではなく、出会いを大切にするという意味が籠められています。

つまり日本のホスピタリティマインドには、「ご縁をもてなす」という意味があるように私は思うのです。私の場づくりもまた、一期一会。その場に来た出会いを大切に味わい、二度とない今を大切に感じ切る。その上で、その瞬間の自然の一部として共にあり、共に暮らし、共に生きる仕合せを尊重し合う出会いの哲学があります。

暮らしフルネスは、とてもシンプルですが何よりも奥深いものです。

この地この場のご縁を如何にもてなすか、新しい挑戦ははじまっています。引き続き、九州のご縁をもてなす首都にこの地を換えて出会いの場を高めて磨いていきたいと思います。