自然の薬

昨日は、郷里で有名な漢方の先生のご紹介で諫早にある御湯神指しでよもぎ蒸しを体験してきました。ここは、韓国の「汗蒸幕」(ハンジュンマク)を改良したサウナがあります。松の木をドーム型の石室の中心で燃やし、麻布をかぶって入るという約600年の韓国式伝統サウナもあります。

昨年末より胃腸の具合がわるく、疲労の蓄積があると漢方の先生にいわれて漢方治療と湯治を優先しつつ回復につとめています。ちょうど、BAでの復古創新している日本古来のサウナも出来上がったことから敢えて色々と対比しながら学ぶためにも体験してみました。

サウナの方の火は、私の備長炭のサウナと異なり陽の火が強く感じられ長く入っていることはできませんでした。その分、短時間で体内に熱を貯めつつそれを外に排出する作用があり短い時間でも充分な効果があるようにも感じました。難病の方や、重度の病気を持った方が来られることが多いとお聞きし、いのちの燃焼を手助けして寿命を延ばす効果があるようにも感じました。

私は火には、陽の火と陰の火があるように直観しています。陽の火は、キャンプファイヤーの火で明るく燃え盛り爆発するようなエネルギーを周囲に散らしていくような興奮の火です。特徴は瞬間的に、一気に燃え盛るものというイメージです。
もう一つの陰の火は、火鉢の中の備長炭の火で穏やかにしんしんと静かに消えていきながら遠赤外線を放射していく癒し回復を助ける火です。陽の火はアドレナリンが出て、陰の火はドーパミンが出てきます。

つまり火は二つの性質が一体化したもので、火は最初から二つで一つであるということです。陰陽の原理は、いのちの原理であり、最初から水も火も、木も土もすべて二つの別々のものが合わさってできています。これは人という字にもあるように、人間も肉体と魂が融合して存在するように二つが一つになっているのです。

話をよもぎ蒸しに戻せば、このよもぎ蒸し(よもぎむし)は、よもぎを煎じた蒸気を下半身を中心に体全体に浴び吸収させる民間療法で韓国では600年から700年ほど前から、産後ケアとして愛用されているといいます。

よもぎといえば、私も幼いころから怪我をしたり虫に刺されたりしたときの応急処置で使っていました。不思議と、よもぎをすりつぶしたものを塗り込むと皮膚炎が収まったり擦り傷の回復が早かった記憶があります。

漢方でこのよもぎは、浄血、造血、末梢血管の拡張作用、新陳代謝促進、抗アレルギー作用、殺菌・制菌、などの働きがあるといいます。実際に入ってみると、独特な香りがして体の毒素を中和しているような感覚がありました。

そもそもお灸で使うもぐさもよもぎからつくられます。特にお灸に使うもぐさは春、草餅やよもぎ団子になっているあのよもぎを使います。よもぎは春に芽を出す生命力旺盛なもので、街中の道端の隙間や土手などにたくさん生えてきます。生命力旺盛な植物です。そして乾燥したよもぎは艾葉(がいよう)と呼ばれ、生薬としてカラダを温め、腹痛、胸やけ、下痢、便秘など、さまざまな症状に効果があります。

このよもぎのもぐさは、梅雨が終り花の咲く前によもぎを刈り取り乾燥させ臼でくだいたあと葉や茎を取り去るという作業をくり返しくり返しつづけやがてほんの少しのフカフカの綿毛だけになります。この綿毛がもぐさなのです。

乾燥したよもぎからたった200分の1しか取れない貴重なものです。このもぐさにはよもぎに含まれる精油成分があるためか、火つきがよく、熱さ少なく火持ちもよいのでお灸に最適です。

先人の知恵というか叡智には頭が下がります。中国では2000年以上前からこのように民間療法がお灸という形で伝承されてきました。時代が変わっても歴史が過ぎ去っても、効果があったものだけは自然の篩にかけられて今でも残っているのです。西洋からやってきた科学的な薬も短期的には効果がありますが、本来の自然治癒や人間の叡智から編み出された自然の薬はなによりも人々の身体だけではなく心も同時に癒します。

BAの浄化場で自然治癒をさらに究め、人々の心身を癒し自然との共生を回復させていきたいと思います。

日本サウナの誕生

昨年の夏ころから準備してきた備長炭を使った日本古来の伝統サウナが無事に復古創新されました。昨日はその最初に火入れをした記念すべき日で感動も一入でした。

思い返せば、フィンランドのキングオブサウナを訪ねて、トナカイが道を歩いているような田舎までいきその仕組みや原理を学び、その空間や場から本質を洞察しました。また現地のスタッフの方から考え方や生き方、そしてそのおもてなしの在り方までご指導いただき世界標準の水準を設定しました。

そして帰国してからは、日本古来の石風呂をはじめ全国各地にあるサウナ石を研究し収集し、実証実験を何度も繰り返しました。また現代のサウナの聖地と呼ばれるサウナを渡り歩き、日本人にとっての好ましい水風呂の質を研究しました。

同時に医療の事を学び、自律神経を整える仕組みや、漢方を学び、サウナにもっとも相応しい生薬が何であるかなど一つ一つ整理していきました。

また外気浴のために、如何に善い風が吹いてくるか、どの場所に何を配置するともっとも穏やかな感覚になれるかを図面で何度も検証して現在の配置にしています。

日没の夕陽が鳥羽公園に反射してキラキラと幻想的な風景を演出できるように庭も改造しています。

そして用いる炭は、最高級の備長炭をつかい6時間から8時間ほど火を見守り、石に火のいのちを転換させ波動を発生させていきます。

私は正月から体調を崩し、ずっと不調のままでこの日を迎えましたが昨日甦生させた日本古来のサウナによって体調が回復する奇跡を得ました。身をもってまさにその効果を体験でき、これからこの浄化場が人々の心身を救っていくことを道具たちと共に誓い、新しい場が誕生したことをお祝いしました、

この地に、新たな聖地が生まれたことを仕合せに思います。

子どもたちが、安心してこの先も日本の伝統文化を温故知新していくモデルが残していけるように私の生き様から世界へ表現していきたいと思います。すべてのご縁と出会いに感謝しています。

自然淘汰 

自然淘汰という言葉があります。これは辞書では「時の経過とともに、優良なものが生き残り、劣悪なものがひとりでに滅びていくこと」と記されます。長い歴史の中で生物の生存競争において少しでも有利な形質をもつものが生存して子孫を残し適しないものは滅びることとも言われます。

この淘汰という字を分解すると、「淘」は「水洗いをして不純物を取り除く」「より分ける」こと、そして「汰」は「不要のものを流し去る」「良いものと悪いものをより分ける」を意味します。

つまり洗い流して不純物を取り除いていくということでもあります。

自然界は生きものに偉大な慈愛を注ぎますが、同時に偉大な厳格さも与えます。つまり成長し続けること、進化し続けること、改善し続けること、手放し続けること、努力し続けること、等々、いのちを全身全霊で活かしきるように働きかけてきます。

自然農の畑に出て自然の一部に入り込めば、様々な生き物たちの楽園で私も一緒にいのちを全力で活かしきろうとします。元氣なものは生き残り、弱っているものは駆逐されていきます。

元氣でいるためには、自然の中で自分自身を常にブラッシュアップして共存共栄しながら適応していくしかありません。それは言い換えれば、自分自身が自然に照らして淘汰し続けなければならないのです。

自分が淘汰するのと淘汰されるという意味ではその主体が異なります。自ら淘汰していくということは、自然の変化と共に順応していくことです。かつて長い歴史の中で私たちが見たこともなかったような生物がたくさんあったと思います。時にそれは淘汰され、今はみかけることもなくなったものもあります。

私たちは自然の篩に常にかけられ、その隙間を落ちるものと残るものに分かれます。いい種を残そう、適応する種を使おうと、常に自然は濾過し続けているのです。

地球は水の惑星ですから、この淘汰や濾過はいのちの作用そのものです。

自然から離れず共生し、自然の意思に従って応じて順じて改善していきたいと思います。

健康から学ぶ

植物や樹木には根があることで養分を吸い上げて成長します。農家が健康状態を測るときは、土壌の質とその根の状態を観ていきます。私が不耕起栽培でご指導いただいているメンターもまた、土と稲の根の状態を観て田んぼの健康状態を測ります。

明らかに土の状態がいいとき、その土には大量の菌類がいて活発に活動しています。また稲の根も深くまで入り、たっぷり菌と共生している様子が根に現れます。

人間であればこの土と根は何かということを考えると、腸内環境でありそれが便に現れていることを感じます。腸内で私たちは、養分を吸収しますから腸内の状態がよければよいほど、先ほどの植物と同じように菌と共生できているということです。

私たちは、自然のままにむかしから続く暮らしをしてその地域で食べてきたものを食べ、暮らしを営めば自然にそれに適応した腸内フローラになるように思います。それが生活が乱れ、おかしな食生活や、生活リズム、他にも住環境が乱れれば当然腸内環境も乱れていきます。

腸内環境が乱れれば、先ほどの植物では根の力もなく土も貧弱になりますから健康が害されて弱くなっていきます。

健康というものは、そう考えてみると自分の土壌環境や根の状態を知らせてくれる存在でもあります。自分の根が弱っているのなら、環境を換えていくことが大切です。特に人間は、動けますから自分から進んで改善をしていくことができます。

例えば、冬の間に蓄積した疲れをどのように取り除くか、他にも運動不足から発生する筋力の衰えをどのように改善するか。それは日々の暮らしの工夫によって改善できます。

免疫を高める工夫をする中で、改めて先人たちの暮らしの知恵の素晴らしさを感じます。色々と今回の機会で、取り組んでみたいと思います。

ご縁をもてなす

ホスピタリティという言葉があります。これは日本では「おもてなし」と呼ばれますが、文化が異なりますが実際の定義も歴史も異なります。私は、場を創造する仕事をしていますからこの場の定義においてホスピタリティやおもてなしの定義を明確にすることは重要なことです。

まずはこの英語の「hospitality」の語源は「hospice(ホスピス)」ですがラテン語の「hospes(ホスペス)」と「hospitium(ホスピティウ)」からできた言葉です。この「ホスペス」は「客の両者」を意味し「ホスピティウム」ラテン語で「客を厚遇すること」という意味になります。

実際に「ホスピタリティ」の歴史を遡ってみるとホスピタリティhospitalityの基礎用語はhospitalであり、このhospital は第一義に「病院」と訳されていますが歴史ではキリスト教の慈善施設のことでした。そこには老人、孤児、貧者などを収容する施設として人々の救済を担っていた場所だったといいます。

つまり巡礼者を歓待し、保護し、厚遇して家族のように迎い入れていた場所ということになります。日本にも、伊勢神宮の伊勢講のようにみんなで旅をして巡礼をしていたころはそれぞれに宿場町がありそこで旅の疲れを癒しました。むかし、四国でお遍路の体験をしたことがありましたがその巡礼中に地域の方々が大切に巡礼者をおもてなしすることに感動したことを覚えています。

知らない土地で、他人に対してまるで身内のように接してお世話をしてくださる存在にとても感謝したものです。

そして日本のおもてなしは、茶道が源流ともいわれますがこれは「一期一会」と用いられます。これは千利休の高弟・山川宗二が「たとえ同じ顔ぶれで何回も茶会を開いたとしても、今日ただ今のこの茶会は決して繰り返すことのない茶会だと思えば、それはわが一生に一度の会である。そう思うと互いに粗略に扱うこともない。真剣な気持ちで、何事もなおざりにすることなく一服の茶をいただくことになる。 」(WEBサイト「井伊直弼と開国150年祭」より)とあります。

その場は、一度きり、二度とないからこそその瞬間の出会いを大切に心を盡すことをいいます。他人を歓待するだけではなく、出会いを大切にするという意味が籠められています。

つまり日本のホスピタリティマインドには、「ご縁をもてなす」という意味があるように私は思うのです。私の場づくりもまた、一期一会。その場に来た出会いを大切に味わい、二度とない今を大切に感じ切る。その上で、その瞬間の自然の一部として共にあり、共に暮らし、共に生きる仕合せを尊重し合う出会いの哲学があります。

暮らしフルネスは、とてもシンプルですが何よりも奥深いものです。

この地この場のご縁を如何にもてなすか、新しい挑戦ははじまっています。引き続き、九州のご縁をもてなす首都にこの地を換えて出会いの場を高めて磨いていきたいと思います。

自粛よりも優先するもの

現在、コロナウイルスで自粛要請がありますがおかしなことがたくさんあることに気づきます。これはあくまで自粛できる人に限るものであり、自粛したくてもできない人たちのことは入っていません。

例えば、先日、期限があるため免許の更新にいきましたがとても密集していてマスクを外す回数も多く、換気もよくない密室で消毒するものもたいしてありません。免許は更新しなければ失効しますからどんなに感染拡大で警戒があっても行かないわけにはいきません。法律を優先しての判断でしょうが、結局は法律を破れないからそれぞれで自粛といいますが法律優先であればだれも自粛などできないのです。

他にも、保育園や幼稚園には毎日たくさんの子どもたちが来ます。あれだけ密集してマスクもできない子どもたちが日々に接していたら感染が拡がるのは当たり前です。特に保育園や幼稚園は、日ごろから感染症の集積場のようにあらゆる感染症をもらってくるところですから今回のコロナウイルスのような感染力が高いものであれば防ぐのはほぼ不可能です。

学校は休校するのに、保育園幼稚園は休校しないというよくわからない理由のせいで何を国家が優先しているのかもよくわかりません。感染拡大は国民のせいとなれば、みんな協力しようとすることができなくなります。

こういう時こそ、法律は一時的に度外視してでも国民を守り、そして国民もこういう時だからこそみんなで助け合い協力して乗り越えていこうとする必要がありますが現在のような疑心暗鬼の状態で不安や不満ばかりが蔓延すればせっかく日本にある人徳的に乗り越えてきた絆や知恵を活かすことができません。

国民を信じて、リーダーを信じるというのは、お互いに一つの目的のために協力しあうために尽力するときにこそ発揮されます。これは会社組織でも同じことです。社長も社員を守るために尽力し、社員も会社を守るために尽力するとき絆も知恵も活かせます。

まず何を優先するかを示さない限り、みんなは安心して助け合おうとしないのです。国家はいわば、家庭の大きなものです。家長が家族を守り、家族は家を守るために尽力する。

この当たり前のことができなくなっていることが、今回の自粛要請には見え隠れするのです。みんな他人事のようになっている組織の末路は、想像すればすぐにどうなるかわかります。会社でいえば、社員に自粛しろといいながら同時になんとかしろということを社長が言っては社長は何も具体的なことをしないということです。そんな状態の会社で、みんなが協力し合ってまとまる雰囲気がでるわけがないことは簡単にわかります。

家の経営、会社の経営、国家の経営、その道はどれも同じで規模間や人数は関係ありません。みんなが助け合うために組織を創造したのだから、本来の組織の意味を学び、活かしてこそ困難を乗り越える原動力になります。

死人がたくさん出て、悲しみがより深くなってきています。早く、目覚めて気づいて勇気をもって果敢に挑戦してほしいと願います。まずは自分から取り組み示していきたいと思います。

楔を打ち込む

世界が同時にコロナウイルスが蔓延しています。地球は丸く、すべては海を通して一つにつながっています。改めて国境というものの意味のなさ、そして現代人類というものの傲りを感じます

そもそもむかしは、みんなで別々の地域に住み、多様な生活を通してあらゆる環境に適応する人々が存在していました。独自の生態系に独自の生活文化が多様にあることで、あらゆる気候変動や災害に備えることができました。

現代のように画一的に同じ生活文化を世界に広げてしまったことで多くの弊害が出てきました。これは過去の歴史で何度も学んでいたはずなのにまた同じことに遭遇しています。

のど元過ぎれば熱さ忘れるではないですが、人類は忘れてしまえば過去のこととして今驚いていますが、よおくむかしのことのを感覚的に思い出してみればおかしいと思うことがたくさんあることに気づくはずです。

それは道理に反していることが直観できたり、王道ではないと原理原則から外れていることに気づくことに似ています。そういう感覚的なものは、むかしの記憶にアクセスしているのです。

自然界においても、あらゆる生きものたちは自然の中に暮らしながら気候変動のサインを察知します。おかしいと少しでも思えば、行動に移して身を守り生活居住区も換えていきます。時には冬眠し、時には種として土深く潜ります。これは、生き残る戦略でありかつての歴史の災害の記憶をいつまでも忘れないために持っています。

人類の傲りとは、目に見えるものしか信じなくなり、かつての記憶を蔑ろにし、本来の直観や感覚よりも科学が勝っていると誤解したところにあるように思います。都市型の生活をみればすぐにわかりますが、災害に非常に脆弱なつくりになっていることがわかります。

もしもに備えているものがほとんどないのです。自然から離れることはかえって自然災害から弱くするということです。これはウイルスでも同じなのです。滅菌や殺菌などで無菌にしても、あっという間に耐性菌が出てきて広がります。しかも自分の身体の中に菌を何兆ももっているのだからそもそも殺菌とか滅菌とかしていたら最後は自分も死んでしまいます。

ウイルスも同様に、免疫をつけて共生している存在をすべて取り払うことは不可能です。自然界は共生するために、どうすればいいか、どのような戦略があるのかをすべての動植物やいのちの存在から学べるようになっています。

人類が頂点にいる錯覚を起こしたことに気づき、実は頂点ではなく自然界の智慧に敵わない事実を悟ることが今回のウイルスから学ばせてもらうことにように私は思います。

人類は学ぶことで成長する生きものですから、どんなことからも真摯に学び直し、改善し、努力していけばまたそれが別の方向へと世界を換えていけるように思います。今回の機会は二度とない機会かもしれません。しっかりと天からの教えをキャッチし、然るべきこれからの時代に楔を打ち込みたいと思います。

美しい徳

有事の時に、生き残るためにみんな必死ですがその中でも日本人らしい美しい徳が引き出されそれによって助け合いの風土が醸成されみんなが安心して危機を乗り越えるための原動力になりました。

本来、有事の時こそ草莽崛起といって日本では他人のせいにせずに自分が何ができるかと立ち上がって物事を解決してきた歴史があります。まさにこの今こそ、それが試されるときでありみんなで行動を示して日本という国、そして人々を守っていく必要を感じます。

私たちは災害時にこそ、原点に立ち返りどのような助け合いが生まれたかをもう一度思い出すことです。

熊本や東日本大震災でも、助け合いの光景はたくさん見られました。自分さえよければいいのではなく、譲り合い、並び合い、正直に嘘はつかず、自分の分を少し我慢して周囲のためにと尽力していました。

世界にも稀にみる道徳的な人々だと称賛され、日本人は有事のときこそ自分さえ善ければいいではなく、みんなのお手本になるようにと自分を律し振る舞ってきました。

この誇るべき「助け合いの精神」は、私は自他一体の精神からきているものと思います。相手の事を自分の事のように思いやることができる、自分のことで相手のことを思いやることができる。

つまりはいつも誰かを思いやりながら暮らしてきた民族の歴史が証明するように思うのです。共感力の高さや、傾聴力の高さ、同じ人間として平等に接し、すべてのことを自分事として心配する。

ここに日本人の自然風土、そして生活文化の中で育まれた歴史があるように思うのです。

私たちは誰もが同じ人間であり、いのちはどれも同じものです。それを慈しみ愛おしむ心を持てるのは、神話の時代からすべてを八百万の神々として接して暮らしてきた日本人の精神文化が源流になっているのでしょう。

こういう時だからこそ、みんなで助け合い、日本人が有事の時にどのように乗り越えてきたかを歴史に学び取り組むチャンスです。子どもたちのためにも、自分にできることを挑戦していこうと思います。

自然の篩

日本人として生まれるというのは、日本の風土が育てたといのちというものもありますが日本人の体質というか遺伝的なものも持っているものです。その両方が上手くかみ合ったとき、日本的な意識と日本人的な暮らしを味わうことができます。

この日本的なものとは、中国には中国的なもの、ドイツにはドイツ的なものがあります。それは生活文化の中で発見することができます。海外に住んでみてすぐにわかるのは、その生活文化がその国にしっくりくるようにできているということです。

今までどのように暮らしを営んできたか、その風土とどのように付き合ってきたか、そこにその民族の生き方が反映されています。民族の生き方は、その後私たちに言葉としてではなく教えられたことがなくても感覚として刻み込まれています。

それは五感でも感じますし、第六感でも感じます。例えば「懐かしい」という感覚の中には、かつてその生き方に触れたことがったことを思い出した時に感じているものです。

この懐かしいものを味わうとき、私たちは同時に太古の記憶にアクセスしてかつての暮らしを思い出しているのです。そしてその懐かしさがしっくりくるとき、まさに自分たちの生活習慣を確認し直しているのです。

それは遠い遠い先祖まで遡ることもありますが、私たちはそこから分かれて今がありますからその経過の中で学んだことを篩にかけて今があります。そしてこれからも私たちは篩にかけていきます。

自然界は、長い歴史の中で様々なシーンで時代が変わるとき、環境が変わるとき、自然が篩にかけていきます。もっとも生き残るものを残し、そうではないものを淘汰させていくのです。

私たちはその時々の価値観を抽象的に今に反映させて、なんとなく世界を創りこんで世界がそうなっていると信じ込んでいますが自然は流転しながら常に変化を已みません。自然が変化するとき、私達もまた変化を求められます。自然に合わせて自分を変えていく生き方は、歴史に学び、温故知新して今を刷新していくことです。

今回のコロナウイルスは、新しい環境変化の兆しを伝えてきたものかもしれません。

これからどう生きていくか、生き方の何を見つめ直すか、早速行動に移していきたいと思います。

野生の勘 自然共生の智慧

人間はそもそも自然界の中で生きてきた生きものです。そこには教科書もカーナビやマニュアルなどもないところで自分の野生の勘や直観のようなものを通して行動していたように思います。

ずっと安全な場所などあるわけはなく、みんな油断しないように注意深く生き抜いてきました。その中でも特に危険を事前に察知し、準備を怠らない人物が群れのリーダーになり、人々を導き守ってきました。

そんなリーダーだからこそ、人々は信頼し自分のいのちを共に預けるようになったように思います。

現代では、人間は頂点に君臨し、安全な中で過ごすことが当たり前になってきました。災害の方が滅多に出会わないことになり、運が悪かったと片付けられます。本来は、それは自然では当たり前に起きることでありそれに対する準備や意識を生きものたちは常にアンテナを立てて準備しています。

人間にとって当たり前になっている常識は、すでに自然界では非常識です。それに気づかせるように、自然災害や今回のようなウイルスによる天敵に出会うのです。

こんな時、もっとも大切なのは本来の野生の勘を取り戻し、自分の直観を信じて果敢に行動していくことです。なぜ果敢なのかといえば、それだけ現在の大衆心理や常識が通用しない出来事が次々に起きるなかで真実の行動をしなければならないからです。

その時、周りは変人や過剰などと言われるかもしれませんが自然と共生している側から観ればそれはもっとも当然の行動です。暮らせないところで暮らさない、生き残るために大切な水や火や食料などのある場に移動する。自然界の生き物たちは、何が生き残るための智慧であるのかを自然と共に流転する中で忘れることはありません。

私が古民家で暮らし、自然農をし、自然の火や水を用いて調理するのもこの時の判断基準を見失わないためでもあります。これからの数か月間、人類は自分たちが平和ボケをしていたことに気づくことが次々に起こるでしょう。

私が暮らしフルネスを実践する意味もまた、きっと理解していただけるようになると思います。その時に備えて、多くの人たちを助けられるように今から準備しておきたいと思います。