本当の暮らし

昨日は、聴福庵でブロックチェーンハッカソンを行いました。暮らしの場の中で働くことでどのような効果があるのか、実証実験も兼ねてでしたが非常に有意義な時間を過ごすことができました。

現代は、個人が優先されすぎてきて仕事とプライベートを分け過ぎてかえって日々の暮らしが貧しくなってきているように思います。仕事もプライベートも充実するというのは、本来、暮らしが充実するということです。

この暮らしとは、言い換えれば人生のことであり、人生の中に仕事があるのであって、仕事の中に人生があるのではないと言えばすぐにわかると思います。

どのような人生を歩みたいかを決めたなら、暮らしが始まります。その暮らしの中で、どのように働くのかと思えば当然幸福で充実した日々を送りたいと願うものです。

そして人生の豊かさとは、味わい深い今の集積によって満たされていきます。つまり、いのちの営み、いのちのハタラキを充分に実感する時間を味わって過ごしているということなのです。

この暮らしという言葉もそれぞれの人たちが色をつけては様々な定義で使われています。

しかし本当の暮らしのことは頭ではわからず、いのちで理解するものです。いのちの理解は、具体的にはいのちのハタラキと一緒に過ごしている時にしか感じません、それは丁寧に生きて、手間暇をかけて味わうという悠久の時間、また永遠の時間と共にあるときに感じるものです。

先人の暮しは、常に人生の意味を味わっているものばかりでした。

現代は特に忙しくなる仕組みが動いていますから、心の病を抱えたり、身体が不健康になったり、何か本当の仕合せなのかに気づきにくくなってきています。人生を救済するというのは、本来は先生や宗教の務めだったのかもしれませんが今の時代はそれも難しくなってきていますから本物の場の必要性を感じます。

子どもたちが、自分の人生の暮しを味わえるよう私がまず挑戦して実践で示していきたいと思います。

庭石の意味

現在、建設中のBAの中庭には立石があります。この庭石は、日本庭園では重要な役割を果たしています。むかしから水は海や川や滝、植物は自然らしさを表現し、石は山岳を表現し、石は不変であることから「永遠」という意味があるといいます。

その石の産出場所としては、山、海、川があります。

山石はゴツゴツした角のある石で山間部などの地表面に露出しているものや地中に埋まっているものを掘り起こしています。山さびがつきやすく植物の根が入り込んでいるものがあります。今回のBAのメインの立石は、植物の化石のようなものが石と合体して永遠の時間を感じさせるものです。また川石は丸みが出て趣のある庭石で最も庭に合うといわれます。そして海石は波の力によって表面の変化に富んでいてよく貝が付着しているといわれます。

庭に据えられた立派な庭石は、どっしりとした見ごたえがあります。そして石の風化作用を見ることで独特な侘びや寂びの感情が表現されていきます。

庭石は日本人の心の静けさを取り戻すのにとても役立つかもしれません。今回は、この庭石の周囲に苔や観音竹などの植栽を入れ、山水の風景を表現します。そしてその周囲を炭が囲むことで、宇宙に浮かぶ庭園をイメージします。

まさにブロックチェーンアカデミーに相応しい庭になるでしょう。子どもたちに、日本の文化が伝承できるようにつながりを大切に丁寧に進めていきたいと思います。

徳の貯金の経済学

銀行に貯金通帳があるように、私たちの人生には徳の貯金通帳というものがあります。また経済にも同様に、道徳という貯金通帳があります。人生の中で生きていくうえで、私たちは知らず知らずのうちにこの徳の貯金通帳を使っているとも言えます。

それに気づいている人は、長い目で見て子孫たちのために自分の人生を徳積みに活かしていきます。その反対に、気づかない人はその先祖からの徳を全部自分の代で使い切ってしまいます。

この徳は、通常では損得を含めて考えますがそもそもこの損得とは自分にとっての損得であって本来の自然や宇宙には損も得もありません。天地自然の運行のようにある生きものにとって都合が悪いことが損になっても、同時にそれは全体で長い目で観ると他の大きな生命にとっては善いことになっているからです。

先日、ある人から台風が来ると人間は都合が悪くても海の生命にとってはかき混ぜてくれることでサンゴが甦り魚が潤うというお話をお聴きしました。これらのように損得を超えた徳は常に循環をして私たちの根底の暮らしを支えているとも言えます。

これらの仕組みをそのままに暮らしに活かしたのが里山とも言えます。自然を活かし、自然の循環を邪魔しないように自然の一部としてその徳を循環させていくためにも徳を積んでいくという生き方。面倒でも手間暇かかっても、少し損をみんながすることで徳を積み重ねていくのです。その方が、心が豊かになり、仕合せも増えていくのを知っていたのです。

徳の貯金は、いわば心の貯金でもあります。

心の豊かさは、単にお金持ちになれば豊かになるのではありません。心の豊かさは、むしろ徳を積む人のこそ豊かになるのです。

これからの時代、昔の人たちが当たり前に観えていた目に見えなくなってしまった徳の貯金という経済学を学び直す必要があるように感じています。そうして新しい徳の経済を積んでいくことで未来への心豊かな伝承が広がっていきます。

私は決して大金持ちではありませんが、本当に幸運にいつも恵まれています。有難いことにこれもまたご先祖様からの徳の恩恵をいただいているからです。その恩徳に報いていけるよう、私自身も徳を磨いていきたいと思います。

日本人の風情

今年もそろそろ干し柿をつくり聴福庵の箱庭に飾る季節がやってきました。次第に乾燥が進み、食べごろになっていく様子を見ていることが豊かであり食べると一層仕合せな気持ちになります。

現代は、なんでもお金で買いますが本来の豊かさはこの取り組みのプロセスの中にあります。美味しさとは、単に舌先で味わうものではなく心で取り組む中で味わいが深くなっていくのです。

暮らしが充実していくということは、それだけ日々のプロセスそのものが満たされていくということであり、小さな喜びや仕合せにたくさん出会いご縁に感謝することができるようになるということです。

話を干し柿に戻しますが、この干し柿は渋くて食べられない渋柿を干すことでできるものです。この干し柿に用いられる柿は、乾燥させることで渋柿の可溶性のタンニンが渋抜きがされ渋味がなくなり、甘味が強く感じられるようになるという仕組みです。しかもその甘さは砂糖の約1.5倍とも言われています。

具体的に日本に柿が伝わったのは弥生時代といわれていますが文献では平安時代に干し柿の存在が確認できるそうです。また927年に完成した『延喜式』に祭礼用の菓子として記載されています。

健康食品としての効果もあり高カロリーで食物繊維も豊富にあり、マンガン、カリウムもたくさん入っています。また取り立ての柿はビタミンCが豊富ですが、それが干しているうちに減っていきますがβ-カロチンが増えていきます。また柿自体に悪酔い防止作用があり二日酔いの時によく熟した甘柿を一つ食べると気分が良くなるとも言われています。

もう1000年以上前から私たちの暮らしに存在していたこの干し柿は、貴重な冬の食料としても甘味としてもまた薬としても愛されてきたものです。冬の風物詩でもあるこの干し柿が、日本の原風景の中から消えていくのは寂しいものです。

冬の味わい深さ、冬の楽しみが増えていくのは日本人の風情を楽しむ心の豊かさの象徴の一つです。子どもたちに、充実する暮らしが伝承できるように身近なところから大切に過ごしていきたいと思います。

消えないもの

現在、日本では消えかけている文化があります。それは伝統工芸品を含め、日本の先人たちが築き上げてきた自然から学んできた技術です。それはマニュアルでは残せず、暗黙知の伝承ですから共に学び取り組む中でしみこんでいくものです。

しかしその文化は、時代の流行があり時としては時代に合わなくなることもあればまた時節が到来すれば時代に合うこともあります。それが流行ですから、その流行が訪れるまでじっと耐えて待つ必要があります。

時として何をしても、それが合わない時代もあります。そんな時でも、色々と工夫して新しい技術を取り入れながら温故知新して取り組んでいくうちに、そこで学んだ技術がかつての先人たちの思いもつかなかったような独創性が産まれたりします。

またそこで産まれた新しい独創的なものが、世の中全体に大きな影響を与えることがあります。文化が消えかけていくことは確かに悲壮感がありますが、同時にそれは世界に向けてかつての技術を発信して新しい時代を産んでいくための切っ掛けにもなるのです。

すでに世界では日本のお茶や、日本酒、焼酎、出汁、和服などが認められ海外の需要が大幅に増えているともいいます。日本では人気がなくなってきている文化が世界で花開こうとしています。

つまり消えかけるときこそ実はチャンスであり、それをもう一段別のステージで挑戦する機会にすればいいのです。

私は性根が明るいから悲壮感がないのかもしれませんが、同時に消えかけても消えることはないと信じているから明るいのかもしれません。子どもたちに確かな文化を伝承するためにも、自分自身が温故知新を楽しんでいきたいと思います。

仲間は力

人は自分にできないことがあるからこそ仲間が必要です。仲間とは力であり、力は仲間の存在によって引き出されていくものです。現代では、能力主義や評価を気にするあまりできないことを隠し、できることだけで人とつながろうとします。しかし一人でできることは少なく、そして脆いですから仲間の存在や信頼があればできないことへも挑むことができるように思います。

では仲間とはどのようなものか、それを省みるとどんなことがあっても離れていても最後までご縁を活かし合う関係ではないかとも感じます。その時だけの関係というよりも最後までそばにいるような絆をもった関係です。

そう考えると、いつもそばにいるというのは苦しみも悲しみも喜びも分かち合う関係があるということです。それは絆ができているともいえます。お互いの違いを認め合っても、お互いのことを信頼し続ける。それだけお互いのことを分かり合っているとも言えます。

本心や本音で分かり合えるからこそ仲間になります。本心や本音を最期まで隠すのは、評価や認められたいと外側ばかりを見つめては自分の内面を誤魔化すからかもしれません。自分が仕合せになるためにも、自分の本心や本音を打ち明ける仲間が必要なのです。

仲間がいれば、一人でも頑張れますが仲間がいなければ一人では頑張れないのです。一人で頑張れるのは、それをわかってくれる、信じてくれる、助けてくれる、支えてくれる存在を感じることで力が湧いてくるからです。

仲間は力です。

力を精いっぱい出して自分のやりたいことに挑むためにも貴重な仲間の存在とつながりを大切にしながら歩んでいきたいと思います。

徳の循環

この世の中には、いのちがあります。そのいのちとは、そのものに備わっている徳ともいい、そのものの長所や持ち味でもあります。そのいのちを何に活かすか、それはいのちの命題であろうと思います。

どんなものでもその中には確かな徳性が備わっています。それを用いるには、その徳を引き出す側の力が必要になります。徳を引き出すことが、いのちを活かすことになりますからこの関係は切っても切り離すことができません。

現代では、幼少期から比較競争させられ能力評価を中心に教育を施されてきました。また社会の空気感としても、結果重視で効率優先ですからどうしても能力が高いことがもっとも価値があるかのように刷り込まれていきます。

しかし実際は、いのちの現象ですから能力が価値があるのではなくその徳にこそ価値があるのです。徳は、存在価値そのものでありまたお互いのいのちのハタラキそのものですから畢竟すべての生命は徳を磨き徳を高めていくことが命題なのです。

その命題をしっかりと思い返し原点回帰するには、何のために生きるのかといった道を見出す必要があります。それは言い換えれば自分の心と向き合うということです。その上で、天地自然のいのちの在り方を学び直し如何にその心を天地自然に近づけていくか。

すべてのいのちが天地自然と混然一体になって報いていくように、私たちもまたその混然一体の一部になって徳を還元していくのです。そうやってみんなで徳を還元する社會こそ真の楽園になり、平和が訪れるように思います。

徳の循環というものは、永続的にいのちが発展繁栄する道理でありまさにいのちの在りようそのものの根源であり、生きる意味の真実です。

子どもたちが現代の道理に外れた現実で迷わないように、真摯に徳の循環の実践を積み重ねていきたいと思います。

いのちの感覚

昨日はむかしの田んぼで、仲間たちと一緒にお米の収穫祭を行いました。ちょうど、前日に大嘗祭があり翌日に私たちも新米を食べる行事を行いました。

具体的には、宮司さんに来ていただき田んぼの真ん中に祭壇を設けみんなでご祈祷を行いました。そして竈門で炭を使ってじっくりとご飯を炊きそのお米をおむすびにしていただくという具合です。

おむすびは、佐藤初女さんのいのちのおむすびを参考にみんなでお米が呼吸できるようにと心を籠めてむすんでそれをみんなで歌いながら交換し合って食べました。いのちがむすばれたおむすびは本当に優しい味わいで身も心も充実しました。その後は、思い思いにそれぞれで好きな具材を使っておむすびをむすびみんなで楽しく共食を楽しみました。

美味しいお米をつくり、美味しくお米を食べる。

これだけをやってきたのですが、お米を大切に愛して食べていくだけで今ではお米のいのちを感じる貴重な機会になっています。

美味しいというのは決してただの食べものではなく、いのちそのものの味わいのことを言うのです。いのちに対してどのように向き合っているか、いのちを如何に大切にしているか、いのちをどれだけみんなで分かち合っているか。

これらが美味しさを磨く秘訣であり、美味しいと感じる根源なのです。

人間は単に味覚だけではなく、五感を超えた何かをつかっていのちを感じているのです。まさにそれは「いのちの感覚」と呼んでいいかもしれません。

いのちだからこそ、いのちそのままに次世代に譲っていく。いのちは生き続けるからこそ、生き続けるいのちとして私たちはいのちと共に存在していく。今回の大嘗祭を受けてのむかしの田んぼはいのちがいっぱい宿っていることを実感した行事になりました。

行事のはじまりと共に、子どもたちに大切ないのちの存在をこのむかしの田んぼを通して伝承していきたいと思います。

不便の徳

現代は、様々な理由から体調を崩し精神を病む人が増えています。生活環境はますます便利になり、なんでも思い通りに快適になりましたがそれと反比例するかのようにあらゆる病気が増えているように思います。

人間は、便利になればなるほどにそれまで必要不可欠であった自然の道理から離れていきます。時間をかけて手間暇を惜しまず、心を寄せて何かに取り組んでいくということも、忙しい現代においては最初に省かれる項目に入ります。

不便なものは悪のように語られ、便利さこそが価値があるかのように評価されます。人間においても同様に、不便な人よりも能力の高い便利な人の方が重宝されやすくなっています。物の扱い方もまた、便利なものがたくさん売られ不便なものはすぐに捨てられていきます。

自分の五感をフル稼働させ時間をかけて習得するのではなく、誰でも簡単に平均的に時間を短縮してできる道具を求めてきたから今ではAIやロボット、さらに便利な存在に近づいていこうとしています。

しかしよく考えてみると、これは誰にとって便利なのか、誰にとって都合がいいのかということです。

楽して栄養をとれる、楽して自動でできる、楽して時間が節約できる、これらは自分にとって利があるから便利を優先します。しかし実際は、その楽して栄養をとれているように見えて健康を害していき、楽して自動でやっているうちに仕組みや修練、能力を磨くこともないから応用ができなくなり、楽して時間を節約しているうちに味わい深い関係や思い出をなくしていたりします。

結果ばかりを求めて、自分に利があるかどうかばかりを追求すればするほどに不自然が増えていき気が付くと本質的に不便になっていることに気づく日が来るのです。

むかしは、里山のように、または暮らしの中で、自分だけが利することをせず、敢えて不便であっても全体最適であるように努めていきました。手間暇も労力もかかり不便であっても、それを善として、周囲への思いやりのためにと楽よりも苦を選びその分、楽しくなるように、仕合せになるようにと発想を転換して喜びに換えていました。

例えば、お酒造りも、漬物作りもも、今の時代は、化学的なアルコールを添加したり、漬物も化学合成調味料を塗り込むだけですが本来は時間と労力と手間暇をかけて丁寧につくりこみました。お酒は、苦労の中でも醸し唄のようなものをみんなで歌いながら苦労してつくり、漬物も手でかき混ぜながら声がけしながらつけていきました。

しかし五感や体は、自然であることが分かるようにそのものを食べると美味しいと感じるものです。不便であることが美味しさをつくり、便利であることが不味さをつくるのです。

これは人格形成においてもまた同様のことが発生するように私は思います。教育の本質とは何か、それは地球の平和が続くよう人格を高め道徳的な社會を形成していくためにあるように思います。

だからこそ人間がどうあるべきか、それは生き方に出ますから便利な教育ばかりを施していたら便利な世の中になり便利な人になっていくでしょう。だからこそ今の時代の教育の中に私は不便さが必要であるように思います。

子どもたちに不便の徳を伝承できるように、実直に誠実に伝統の初心を継承していきたいと思います。

一所懸命の今

人間は、「今」というものにどれだけ真剣に打ち込んでいるかはその人の生き方を顕すものです。畢竟、人生とは何かといえば「今の集積」であり、終わりの時は今の集大成なのですからこの今に打ち込めないというのは生き方が定まっていないということです。

仕合せの青い鳥はいつも脚下にこそあるというのもまた、この「今」に対する心構えのことを示しているように思います。

経営の神様と呼ばれた松下幸之助氏はこういいます。

「現在与えられた今の仕事に打ち込めないような心構えではどこの職場に変わっても決していい仕事はできない。」

「どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすことである。」

どうしても心が離れてしまうと今からも離れてしまうのが人間です。今から離れないように今に真剣に打ち込む人は、心が今から離れることがありません。つまり「今、此処」に生きています。今、此処というのは、過去と未来がつながる処でありそれは心の在る処です。

以前、「今でしょ」という言葉で有名な林修さんの記事を拝見したことがありました。そこに「今」というものに対する哲学が書かれてあり、そういう意味でもあったのかと感じ入ったことがあります。「今やる人になる40の習慣」林修著にこう書かれてあります。

「例えば、あなたがパン屋さんで、朝早くからパンを焼く日々を送っている、とします。その場合、あなたの焼いたパンを買うお客さんにとって、あなたが楽しそうに焼いたか、あるいはつまらなそうに焼いたか、パンを焼くことが好きなのか嫌いなのか、実はそんなことはどうでもいいことなのです。大切なのは、あなたの焼いたパンは美味しいのか、それともまずいのか、それだけです」

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「嫌いなことをやってお金をもらっているのに、いい加減なことなんてできるはずがない。そう考えて、いつもできる限りの準備をして授業に臨んできました。そうまでしてこの仕事を続けてきたのは、世の中に数多くの仕事があるなかから、自分で選んだんだし、嫌いではありましたが適性はあると感じており、また実際にいい結果がずっと出ていたからです。もちろん、自分の仕事が好きな仕事をしているという人は、それはとても幸せな、しかもめったにないことなんですから、わざわざ嫌いになる必要はありませんよ」

 

いい加減なことをしない、自分本位ではなくお金をもらっているのだから真剣に喜んでもらう、パンで言えばどのような美味しいパンを食べてもらうのか。今でも活躍の場を広げているのは、この方の「取り組みの姿勢」が素晴らしいからでしょう。

私も営業から今に至るまで、どのような仕事であっても好き嫌いかどうかという自分の感情ではなく、本気で善い仕事をしようと真摯に取り組み、自分がやる以上、自分の設定した質の高さを維持しようや、前回よりももっと成長した仕事にしようや、子どもたちのためにも一切妥協しないで心から打ち込もうというようにどの仕事にも誠心誠意全力を尽くしてきました。そして今があります。

一所懸命という言葉もあります。

これは今、自分が与えられた場所で本気で命懸けで取り組んでいくという生き方です。そもそもこれは中世(鎌倉時代の頃)の武士たちが将軍から預かったり先祖代々伝わっている所領を命懸けで守ったことに由来してできた言葉です。この「一所懸命」がその後は「命懸けで取り組む」という意味になり「一所」が「一生」と間違われて「一生懸命」となり、発音も「いっしょけんめい」から「いっしょうけんめい」に変わったのです。

今に一生のすべてをつぎ込むことの集積こそが、自分の人生を真に切り拓いていくことができるのです。選ばない生き方というものは、この今に真剣に生きるということ。まさに私の座右の一期一会の実践をするということなのです。

最期にマザーテレサの言葉です。

「いかにいい仕事をしたかよりもどれだけ心を込めたかです。」

どんな仕事であってもやるからには常に真剣に本気で心を籠めて取り組んでいくこと。まさに真剣勝負の生き方こそ、一所懸命という日本古来の武士道であり根源的な在り方なのです。

子どもたちのお手本になるような歩み方を、今に正対しながら取り組んでいきたいと思います。