新しい社会への挑戦

現在、「Society5.0」に「地域循環共生圏」を加味された新しい社会を目指してAI、IoTなどのICTを最大限に活用しようということになっています。このsociety5.0は以前ブログでも書きましたが狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)といった「人類がこれまで歩んできた社会に次ぐ第5の新たな社会を、デジタル革新、イノベーションを最大限活用して実現する」という意味で「Society 5.0(ソサエティー5.0)」と名付けられたたものです。

Society 5.0は、それまでの産業だけに特化したものの変革中心ではなくICTやIoTなどのデジタル革新により「社会のありよう」そのものを変えることによって、社会が抱える様々な課題を解決しようとする包括的なコンセプトであるということがポイントになっています。同時に世界の課題解決という観点から、国連が提唱する「持続可能な開発目標(SDGs)」と絡めて、「Society 5.0 for SDGs」として用いられています。

そして第5期科学技術基本法では日本政府の研究開発への投資額は5年間で26兆円が見込まれ、その市場規模は760兆円あるとされています。大きな市場規模であることからもこれからの新しい社会に向けて変化させるための挑戦をしようとそれぞれの民間企業を含め、社会起業家たちも革新のためにしのぎを削っています。

現状としては、下記の具体的な革新を提案されています。

CPS(Cyber-Physical System)における知覚・制御を可能とする人間拡張技術
革新的なAI用ハードウェア技術とAI応用システム
AI応用の自律進化型セキュリティ技術
情報入出力用デバイスおよび高効率のネットワーク技術
マスカスタマイゼーションに対応できる次世代製造システム技術
デジタルものづくりに向けた革新的計測技術

これらの技術をシンプルに言えば、サイバー(仮想)空間とフィジカル(現実)空間の融合を優先しています。最先端のテクノロジーを使って、どう様々な問題を解決するか。そういう意味では、それぞれの技術者たちが全員であらゆる分野から智慧も腕も磨き挑戦する時代に入っています。

私は懐かしいものと新しいものを融合させる甦生家ですからこの新しい社会の創造は私のライフワークそのものでもあります。現在の単なるITだけでは片手落ちなものを先人の智慧や古代からの叡智からカバーしていくことができます。

技術だけあっても社会ができるわけではなく、そこにはやはり人類の智慧が必要になります。子どもたちに譲り遺していきたい本物で真に豊かな社会に向けて、私にできることで挑戦していきたいと思います。

子どもたちの未来に向けて

最近、カーボンニュートラルートラルや脱炭素社会という言葉をよく聞くと思います。これは地球温暖化の原因となる温室効果ガスの排出量を実質ゼロにしようとすることやその社会のことをいいます。

産業革命以降、40%も上昇した二酸化炭素の排出量があり地球温暖化が進んでいます。先進国が優先して取り組んだ京都議定書から発展途上国も参加したパリ協定、それをもってしても温暖化を止めることにはならない計算です。

なので5年ごとに、見直しをかけるとし昨年、日本からは「2050年を目途に、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする」という脱炭素社会への所信表明をしています。

具体的には二酸化炭素だけでなくメタンや一酸化炭素など、温室効果ガス全体の排出をゼロにするという内容でした。そこでカーボンニュートラルという言葉が出ます。このニュートラルというのは、CO2の排出量と吸収量を相殺してゼロにするものです。つまり「CO2実質ゼロ」だとここからいいます。

出したものを差し引きするという考え方です。余談ですが、先日お酒を飲んでいたときにお酒の量と同じ量のお水を飲めば血管や心臓に負担をかけないからいいと医者に言われた話がありました。プラスマイナスゼロのゼロが実質ゼロということでしょう。このカーボンニュートラルは、温室効果ガスの吸収、および除去量を排出量から差し引いた合計をゼロにすることで温室効果ガスの排出を実質的にゼロにする仕組みです。

また排出・廃棄物を最小限に抑えつつ資源を有効活用する循環型社会「ゼロエミッション」という言葉も誕生しました。この「ゼロエミッション」は産業活動から発生するものをゼロに近いものにするために最大限資源の有効活用を目指す理念のことをいいます。つまり、完全に循環して無駄が生まれない、日本では江戸時代に誕生していた循環型社会を実現しようとするものです。

ちなみにこの「ゼロエミッション(zeroemission)」の語源は、数字の0を表す「zero」と排出を表す「emission」を組み合わせた言葉の造語で排出ゼロ構想ともいわれ1994年に国連大学によって提唱されたものです。

難しく説明しましたが、結局はシンプルに言えば過剰な産業発展で傷んだ地球を思いやるためにそれぞれの国でちゃんと考えて新しい産業構造を構築してくださいという具合です。そこに、新しいゲームルールのようなものを設定しそれぞれで競い合って取り組みましょうというものです。取り組まないものには罰則や罰金などを制裁しますよという感じでしょうか。

世界を変えるという仕組みの一つに、構造全体を換えてしまうためのルールや法規制というものがあります。私は、別の仕組みとして原点回帰というものがあると思っています。本来の原点は何か、本質は何か、真の意味での豊かさや幸福さに気づき実践して変わろうというものです。

世の中は経済が最優先ですから前者を取ります、これも確かに分かりやすく欲望も活かそうという発想です。しかし、それだけでは片手落ちです。私は後者の真の意味でというのが大好きなので暮らしフルネスを提唱するのです。

今、全世界全人類が同じ課題に取り組む必要がでてきた時代でもあります。新しく懐かしい生き方、そして働き方、暮らし方を子どもたちの未来にむけてここから提案していきたいと思います。

一期一会の味わい

聴福庵で秋から冬の風情を楽しんでいると、色々な発見があります。もう5年目になりますが、毎年、味わい方が変化し豊かさが増していきます。暮らしが豊かになっていくというのは、当たり前の日々が味わい深いものになっていくということです。

遠方より朋来るまた楽しからずやという論語の言葉もあります。

コロナで出張もほとんどできず、家で過ごすことが増えましたがその分、たくさんの友人や同志たちが集まってきました。あらゆるジャンルのお仕事をしている人たちが来ては、あらゆるお話をしてくれます。

その中でもお酒を酌み交わし、石風呂を共にし、共に就寝し、共に暮らしを磨き合う関係はとてもかけがえのないものです。

素のままの姿で接していると、その人の本当の人柄が観えてきます。子どもに戻った時のように、みんな素直でいい人ばかりです。人間は、色々な立場や肩書などを背負って社会では頑張っている人が多いのですが素で人間同士で語り合う場があることは豊かな人生にとっても重要なことだと私は感じます。

そしてその豊かさは、豊かさに生きる人たちの傍にこそ存在するものです。

本当は何のために生きるのか、自分の存在とはどういうものかを日々に確かめてゆとりや余裕をもって確認していくことで仕合せを感じて暮らしを紡いでいくのが人間の素晴らしさでもあります。

忙しすぎる日々というのは、如何にもったいないことをしているのだろうかとも感じます。どんな瞬間瞬間であっても、人が人と結ばれ何かを分かち合えるというのは一期一会の味わいです。

子どもたちに真の豊かさをつないでいくためにも一期一会を楽しみながら、出会いと暮らしを結んでいきたいと思います。

 

薬草の原点回帰

日本の神話には、大国主が薬草を用いて病や怪我を治癒するという話が出てきます。縄文時代の遺跡からも薬草が出てきますから、太古のむかしから私たちは植物を用いて治療をしてきた歴史があることがわかります。

歴史の中で特に私が印象に残っているのは鑑真和上です。

この鑑真和上は688年に中国の唐で生まれ763年に日本で亡くなりました。

そもそもこの鑑真和上が日本に来ることになった理由は、その当時の日本では修行もせず戒律も守らない名ばかり僧侶が増え社会秩序が乱れていたといいます。それに困っていた朝廷は、仏教制度を本来のあるべき姿に整備しようと日本人僧侶(栄叡、普照)を唐に派遣して日本の仏教を正しい道へ導いてくれる人材を探しにいかせました。そして授戒制度を伝えることで日本の仏教の発展に大切な役割を果たしたのです。

この授戒制度は、今でいう資格や免許のことです。

話を薬草に戻しますが、この鑑真和上は平安貴族の文化になった香合というお香を調合する技術を伝え、漢方薬を伝えたのも鑑真です。鑑真が日本へ渡航してきた際の積荷リストには複数のお香や漢方薬などの記載があります。

鑑真は薬にとても詳しい医僧で仏教だけでなく日本の医療進歩に大きく貢献したといいます。目は失明していましたがあらゆる薬を嗅ぎ分けて鑑別することができました。聖武天皇の夫人であった光明皇后の病気を治したこともあり、大僧正の位を授けられました。奈良の正倉院には、その当時の薬の一部が、いまも大切に保管されているといいます。

以前、ある方にその唐招提寺を建立する際、どの場所にするかで土を食べて判断していたということを聴いたことがあります。土の状態でいい土地かどうかを判断する。 目が観えなくてもあらゆる五感を活かして情報を得ていることにも感銘を受けました。

有名な鑑真和上像というものがあります。

もう1300年も前のものでも、今でも生きているかのような木造です。仏教の理想の生き方をした人、仏教の生き様の理想像を持っていた立派な人物であったから人々が慕ったのでしょう。単なる資格や免許を発行する人ではなく、本来の在り方、どうあることが仏教の本義であるかをその人の生き方や実践で当時の日本人を導いたのでしょう。

医療もまた、原点回帰するときが近づいているように私は感じます。対処療法だけを進歩させて最新医療だとしそれに頼るのは本末転倒だと感じています。子どもたちのためにも暮らしフルネスの中で、本物の医療をこれから極めていきたいと思います。

引力と場

何かの決意と覚悟で物事に取り組むとき、そこには引力のようなものが働きます。不思議と最良のもの、最適なものが集まってくるのです。これは意識せずとも、自然にまるで向こうから集まってくるかのように時が重なりタイミングが合います。

この偶然のようで必然が発生するのは、その「場」に充分に気や志が満ちたということの証明でもあります。

例えば、あるものを磨き続けているとします。それは泥団子でも構いませんし、古い木材、もしくは貝殻を磨いても同様です。ある一定の磨きをかけたら、ある時に突然光り輝きはじめます。

単にコーティングや塗装をしたものではなく、内側のもっているものが光りだすのに似ているのです。この状態になれば、自ずから光を発して変わらない状態に入っていきます。

実際に、舞台や場が磨かれていくとそこには義士が集まり、志が和合し、まるで水滸伝の梁山泊や南総里見八犬伝のように仲間や同志が集まってくるのです。

時間をかけてそれぞれが志を温めるまでの期間、また多くの人たちと志をぶつけ合い錬磨し合う機会の質量がある一定を超えるとき、そこに「場」が誕生するのです。

その場をどうつくるか、そこには夢を実現しようとするもの。そしてその夢に共感して自分もと挑戦をする人たちが必要です。小さくまとまるのではなく、大きなところで目的が同じであればそれぞれが自立して懸命にその目的に殉じていく必要があります。

その時、離れていても、或いは同じようにやらなくても結果は必ず一緒に取り組むところに落ち着くのです。こうやって歴史的な場は誕生し、それが時代を動かす一つの引力になっていくのです。

これは宇宙の働きの姿でもあり、私たちは同じやり方で場を創造していきます。

それぞれの志が一つになっていくことは、人生の仕合せとご縁の喜びです。引き続き、二度とないこの今に集中していきたいと思います。

続 暮らしフルネスの実践と幸福論 

古代ギリシャにディオゲネスという哲学者がいたといいます。この人は、ユニークな哲学者として様々な逸話が遺っています。物乞いのような生活をし、樽を住まいにしていたといいます。またアレクサンドロス大王がなんでも与えてあげようといっても、媚びを売らずに考えるためにどいてくださいと言ったほどだそうです。

例えば、残した名言も印象深いものです。

「つねに死ぬ覚悟でいる者のみが、真に自由な人間である。」

「人生を生きるためには理性を備えるか、それとも首括りの輪縄を用意しておかなければならない。」

「かの金持ちは財産を所有するにあらず。奴の財産が奴を所有しているのだ。」

「私に祖国などありません。私はただ天の下で暮らしているだけなのです。私は天下の住人です。」

「愚人から誉められても嬉しくない。多くの人から誉められたりすると、私も愚人なのではないかと心配になる。」

本来の自由とは何か、そして持たないものと持つものとの間にあって天下の住人とはどういうものをいうのか、まさに真理に生きた人の言葉のように感じます。

またこうもいいます。

「休みたいのなら、なぜいま休まないのか。」

「何もしないこと。それが平和だ。」

今でこそ、捨てることや持たないことなどを実践し、執着を離れることの真の価値を証明している人が増えていますがその当時にそれをやってのけているところは求道者の様相です。

そして私がもっとも共感したのは、幸福論です。そこにはこうあります。

「人生の目的はよく生きて幸福になることである。身体を労苦によって鍛え、健康と力を得るように精神や魂を徳によって錬磨し、その静かさと朗らかさの中に真実の豊かさと喜びがある」

時代が変わっても、流行は変化しても普遍的な真理は一切少しも変化したことはありません。この時代、物が溢れ、お金も成熟し過渡期です。本物の幸福に人類がアップデートしていかなければこの先の未来はありません。

改めて歴史に学び直し、この時代に相応しい「暮らしフルネス」の実践を増やしていきたいと思います。

日々の精進

若い頃に安岡正篤さんの著書で「六中観」というものを知りました。これは安岡正篤さんの座右の銘だったそうです。「私は平生ひそかにこの観をなして、いかなる場合も決して絶望したり、 仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないように心がけている。」というほど意識されていたことがわかります。

常に中庸を保つというのは、丹田の錬磨によるものと思いますが歳を重ねるにつれてこの六中観の感じ方が変化してきます。

この六中観は、「忙中閑あり 苦中楽あり 死中活あり 壷中天あり 意中人あり 腹中書あり」の六つです。人生の中で、どんな「中」にいても六つに転じて福にしていく工夫。まさに人生の達人ともいえる境地です。

最近は、英彦山に関わることでまさかの壷中天ありまで体験させていただいています。仙人の境地に入れるかどうかわかりませんが、この六中観によって中庸や中心を磨いていけることに仕合せを感じています。

もう一つ、私は六然訓というものも同じくらい意識してきました。「自處超然  じしょちょうぜん 處人藹然  しょじんあいぜん 有事斬然  ゆうじざんぜん 無事澄然  ぶじちょうぜん 得意澹然  とくいたんぜん 失意泰然  しついたいぜん」の六つです。

これを合わせて私流に「かんながらの道」、つまり自然道と名付けて実践を続けています。どんな時でも、自然に委ねて天に任せるという生き方。まさに神人合一の境地です。

人生の中で、生き方の羅針盤があるというのはとてもすばらしいことです。時に絶望するとき、時に悲嘆にくれるとき、偉大な勇気になります。また時に歓喜するとき、有頂天になるとき、偉大な謙虚さを与えてくれます。

感情があることで様々な貴重な体験ができますが、分を弁えることで信仰や信心が磨かれます。人はこの感情と心のバランスを保ちながら、唯一無二の人生経験をこの宇宙で得られ記憶を育てます。

今に生きることは、この六中観や六然訓を大切に生きていくことです。

子どもたちにも健やかないのちの伝承ができるように日々の精進していきたいと思います。

徳豊一致の泉

WELLという言葉があります。これは井戸や源泉が語源であるといいます。そして最近、WELLNESSやWELLBEINGという言葉もよく聞きます。これは健康な状態や幸福な状態のままというように私は解釈しています。

つまり日本語では日々の暮らしがととのい心豊かに健康に元氣で生きられる状態であるということです。これを私は「暮らしフルネス™」と名付けて実践を弘めています。

ウェルネスやウェルビーイングは海外から入ってきたものですが、本来、日本人は何がもっとも豊かで幸福であるかということはみんな実践できていた民族でした。貝原益軒の養生訓にもありましたが、私たちの先祖は長寿で健康、そして日々の暮らしの喜びに満ちたものでした。

改めて今の時代、人類は何を求めているのかという問いに対しての答えがはっきりする時代に入ってきたのかもしれません。成長と発展、繁栄の先にあると信じたものがなかったと思ったなら人類は大きな方向転換を定める時機です。

そこでこの「暮らしフルネス」こそ、私は世界に新しい人類の智慧を提案するものになると信じています。

私たちの生命は、偉大な何かを与えられて存在しています。すぐに分かるのは水や太陽、大地、空気など私たちが生存するためには与えられ続けている存在に頼っているのはわかります。私たちは与えられ、そして与える存在。つまり貢献し続けて共生しているから生きているともいえます。

この枯れない泉は、滾々と水を湧き出していのちを潤し続けています。この泉の水は何かということです。

英彦山にも湧き出ている清水があります。それが大きな川になり海になります。そのはじまりの水は流れ続けています。これを「徳」とします。この徳が湧き出ているからこそ、その徳を集めて私たちはあらゆる豊を積んでいくことができます。その徳を積むとき、泉は湧き出てきます。

つまり私たちはみんなで徳を積みながら真の豊かさを増やしていくのです。徳と豊かさは表裏一体であり、徳のあるところにこそ真の豊かさがあり、真の豊かさがあるところにこそ徳は積めるのです。

永遠という言葉は、この徳豊一致の泉にこそあります。

人類の目覚めは、「場」の道をととのえるところからはじまります。子どもたちのためにも私の使命を全うしていきたいと思います。

お滝場の甦生

昨日はお滝場の石風呂にはじめての火入れを行いました。関わってくださった方々の御蔭で無事に場が整いました。特に建築に携わった大工の棟梁や窯をつくりあげてくれた職人、お掃除して綺麗に守ってくださった人たち、また修行者の方との一期一会はとても心に残りました。

滝行というのは、冬季の寒い中での荒行のように思われますが実際には一人で行うのと仲間と行うのではその感覚は異なります。昨日は、背中から水をかけてくださる方、勤行を唱えて祈りを捧げてくださる方、また法螺貝を吹いてくださる方がいて、他の仲間が見守る中でお滝をいただきました。

滝行をする方々は信仰深く、滝ではなくお滝とも呼びます。

私たちはいのちあるもの、尊敬しているもの、大切なものには「お」をつけます。お花、お米、お母さん、お水なども同様です。お滝というのは、流れている水ですがそこに確かな何かの存在を感じるのです。

神道の大祓詞には、瀬織津姫という神様のことが書かれていてこの神様が滝場にいて色々な災厄を祓い清めてくれると記されます。祓いというのは、あらいが語源で、禊というのはすすぐことを言うといいます。つまり祓い清めるというのは、今でいう洗い流ししてきれいにするということでしょう。

このお滝の神様の瀬織津姫のほかに、速開都比売(はやあきつひめ)・氣吹戸主(きぶきどぬし)・速佐須良比売(はやさすらひめ)という洗い流してきれいにする神様がいると祝詞には出てきます。川や渦、海などみんな洗い流してきれいにする神様たちの御蔭で私たちの汚れや穢れは取り除かれて自然に循環するというのです。

先人たちはこの自然の仕組みを知り、日々の小さな塵や垢のように心や魂などにつく汚れや穢れも洗いきれいにできる方法を発明したのでしょう。

今の時代、以前よりもスピードがあがり今までのように簡単に洗い流すことができなくなってきています。できればしっかりと洗い流しておかないと積もり積もるとそれだけ浄化に時間がかかってしまいます。

日々の暮らしの中で、私たちは禊をしますがこれからはますます必要になってくると私は確信しています。人間は集合意識によって社会を形成しますからそれが歪であればあるほどに地球や宇宙にも影響を与えてしまいます。量子のことが解明すれば、意識こそが世界に影響を与えていることはわかってくるはずです。情報化社会というのは、意識の社会ですから人間力を磨き高めていくことで未来の流れも変わることでしょう。

子どもたちのためにも、大切な智慧や伝統を活かしながら場を創造していきたいと思います。

 

心の風景

時間というのは、変化のことです。どんなに変化がない物質であっても、必ず微細には変化しているものです。変化しているからこそ、変化を感じることで時間を捉えることができます。私たちは時間というものを人生の中の時間と認識しますが、本来の時間というものは変化そのもののことをいうように思います。

その変化は、現実に外界が移り変わっていくもの。また内面の世界が移り変わっていくものがあります。その両方が合わさって時となりますから、この時間というのはとても矛盾に満ちていて同時に不安定なものです。

私たちはその時々の組み合わせから一期一会を感じるものです。

この一期一会は、組み合わせともいえます。その組み合わせは変化の組み合わせから産まれる偶然の一瞬のことです。その一瞬は、外側の変化の一瞬に合わせて内面的な心の状態が組み合わせられ自分にしか見えない景色が現れます。

その景色に心は感動し、今この一瞬に目覚めるのです。

今朝も雨の晴れ間に一瞬、美しい虹が出て心の風景を映しました。

美しい景色をみても何も感じない人もいれば、その景色に涙する人もいます。私たちは景色を磨いていく生き物であり、人生とはどのような景色を産み出したかといっても過言ではありません。

心の景色を大切に過ごしていくことは、変化を味わい変化を愛おしむように生きていくことです。二度とない人生だからこそ、悔いのないように大切な初心のために生きていくこと。

人生の純度を高め磨いていくことは、この心の風景をより鮮明に美しくしていくことです。

一期一会を生きていきたいと思います。