憧れる生き方

子どもの憧れる社会の一つに、仕事観というものがあります。将来、自分は何をして生きていくか、それが自分の仕合せや喜びにどうつながっていくのかということをわくわくと取り組める社会のことです。

日本は、義務感や責任感が仕事をすることの基本として教えていてあまり楽しそうにしていたり、自由に働いていることを良いことのようには教えません。特に学校というところもハードな仕事で残業もなく、精神疾患などが増えているということもよくニュースで流れています。

本来、憧れる職業の上位にあったものが今ではハードワークの代名詞のようになり担い手も減り、子どもたちもその仕事を夢とはしなくなりました。子どもたちにキャリア教育を指導することも大切かもしれませんが、本来は自分たちがどれくらい豊かに幸せに楽しく働いているか、そんな環境を調えているかということに向き合う方が先ではないかと私は感じます。

そういう私も、日本の社会のなかで目立つとすぐに色々と厳しい指摘があります。どれも有難い言葉として受け取ってはいるものの、子どもたちのこの先の行く末のことを思うと本来はもっと寛容な部分があってもいいのではないかと思うのです。

みんな勇気を出して、人と異なることをしてでも世の中のお役に立ちたいと思っているものです。しかし何か新しいこと、理解できないことをやろうとするとすぐに否定されたり、クレームが入ってきたりします。もちろん、新しいことをやるには秩序が乱れることもありますがそれでも何のためにやるのか、その初心が何か、目的がどうなのかを聴いてみるとそれはこの先の未来に必要なことだったりすることがほとんどなのです。

そういう時は、文句を先に言うのではなくどのようなフォローができるだろうか、どのように見守れるだろうかというのが大人の対応ではないかと感じるのです。子どもたちが同じようなことを挑戦し、新しいことをして世の中や社会をよくしたいと夢に挑戦するとき、自分はどちらの大人でありたいか、どうせ無理だと諦めるように促すのか、それともやったことは必ず意味があるから、フォローしたりカバーするから挑戦してみようと励ますのか。私は、これからを生きる子どもちたちが理想の社会を築いていけるように見守りたいと思うのです。

人は自分が仕合せでなければ、人の仕合せを喜べません。まずは自分自身の幸福、仕合せを感謝で磨いて高めていかなければ他人の成功や成長を支援できないように思うのです。

だからこそ、このいま、この瞬間を大切に夢を生き、夢を味わい、苦労ができる有難さや挑戦させていただける喜びに感謝していくことからが子どもの見本になるように思います。

まず正しいことを教えるよりも、喜びを感じてもらうことの方が生き方は換わるものです。引き続き、子どもたちの未来のためにも自分の生き方で力になれるように精進していきたいと思います。

変革を味わう

今の私たちが観ているものはむかしの人たちが夢見た世界の一つともいえます。どのような未来が訪れるかを意識し、人間は大きな世界を想像してきました。どの想念がもっとも大きいか、それで時代は創られます。人間の意識が世界を創りあげているともいえます、そこから今、バーチャルリアリティがIT分野で伸びていますがまさにこれも仮想ではなく本来の人間の意識が想像する世界をデジタルの中で実現したものです。

デジタルの世界というのは、人間の想念の世界です。まるでゲームみたいだと思っていたのも懐かしく、今ではゲームの方が本当の世界に取ってかわる勢いです。何らかのプログラムだけが動いているのか、プログラムの本体を突き止めようとしているのか、どちらにしても人間の想念はますますデジタルではっきりしてきます。

そのとき、集合意識はどこに向かうのか、最終的になぜ今、私たちはここにいるのかなどもわかるのでしょう。しかしわかることがゴールであれば正解だけを求めていくのですが、実際にはわかることよりも味わうことの方が仕合せですから必ずバランスを保つようなことが発生してくるように思います。

私たちは意識がありますが、同時に身体を持っています。この両輪のバランスは普遍的であり、身体から離れてしまえば意識だけは進化できるのでしょうがそんな簡単にはいきません。お互いに影響しあい、私たちはいのちを保ちますからどちらかが進化すればもう一方も進化するものです。現代は意識が大変革していきますから、同時に身体の感覚も変革が進みます。

最先端と最も古いものがなぜ一致するのか、それはこの意識と身体の関係と似ているからです。

私は今、ブロックチェーンやVRなど最先端のテクノロジーにも触れながら仙人や徳などに興味をもって融合させていますがこれも変革上、必要不可欠だからです。

この時代の変革は、あらゆるものを原点回帰しまた芸術、哲学すべて混淆させていくでしょう。面白い時代に入ったなと感動することばかりです。

ここから色々と面白いことを顕現させ、結の仲間と変革を味わっていきたいと思います。

観音様の生き方

観音様を深めていますが、観音様の真言というものがあります。この「真言」とは古代インド語のサンスクリット語でマントラ(Mantra)と言われる言葉のことで「真実の言葉、秘密の言葉」という意味です。空海の般若心経秘鍵によれば「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」記されます。私の意訳ですが、真言はとても不思議なものである。この真言をご本尊を深く実観するように読んでいると知らず知らずに目が覚め、一つの字の中に無限の理を感じ、直ちにそのものと一体になり悟ることができるという具合でしょうか。

この観音様の本来の名前はサンスクリット語では、「アヴァローキテーシュヴァラ」(avalokiteshvara)と記されます。もともと般若心経などを翻訳した鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳し、その観世音菩薩を略して観音菩薩と呼ばれるようになりました。この鳩摩羅什(Kumārajīva)という人物のすごさは、母国語がインドでも中国でもなくウイグルの地方の言葉が母国語でしたがその両方の言語の意味を深く理解し、それを見事な漢訳の言葉に磨き上げたことです。これは仏教の真意を深く理解し、それを透徹させてシンプルになっているからこそ顕れた言葉です。これは意味を変えないままに言葉と事実の折り合いをつけその中庸のまま中心が本当はどういう意味かという真意を的確に理解しているからこそできたものです。これによって仏の道に入りやすくなったということに厚い徳を感じます。

今でも私たちはそのころに漢訳されたお経を読んで生活しています。西暦400年ごろから今でも変わらずそれが普遍的に読み継がれるのはそれだけその言葉が磨かれ本質的であるということの証明でもあります。そこから約200年後、三蔵法師で有名な玄奘三蔵はこの観音経の真言を「ava(遍く)+lokita(見る)+īśvara(自在な人)」とし観自在菩薩と訳します。つまり鳩摩羅什による旧訳では観世音菩薩とし、玄奘三蔵の新訳では観自在菩薩となりました。

それを私の観音経の解釈では「円転自在に物事の観方を福に循環する徳力がある」と現代に訳します。つまり、自分の物事の観方を変えて、すべてのことを福に転換できるほどの素直さがある仏ということです。これは観直菩薩でもいいし、調音菩薩でもいい、観福菩薩でも、そう考えて訳している中で当時最もその人が深く理解したものを言葉にしたのでしょう。大事なのは、その意味を味わい深く理解し自分のものにしていくということが親しむことであるしそのものに近づいていくことのようにも思います。

最初の観音様の真言に戻れば、観音菩薩の真言は「オン アロリキャ ソワカ」は「Om arolik svaha」といいます。これもまた私が勝手に現代語に意訳してみるとこうなります。

「おん」=私のいのちそのものが

「あろりきゃ」=穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを

「そわか」=心からいのります

『私のいのちそのものが穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを心からいのります。』

とにかく「善く澄ます」ことということです。実際にその言葉の意味をどのように訳するかは、その人の生き方によって決まります。その人がどのような生き方を人生でするかはその人次第です。それは自分でしか獲得できませんし、他人にはどうにもできないものです。しかし、先人である観音様がどのように生きたのか、そしてどのような知恵があって自ら、或いは周囲の人々を導き救ってきたか、それは今もお手本にできるのです。

私たちが目指したお手本の生き方に観音様がとても参考になったというのは、私たちのルーツ「やまと心」が何を最も大事にしてきたのかということの余韻でもあります。

時代が変わっても、響いて伝わってくる本質が失われないように生き方で伝承していきたいと思います。

 

 

場の伝承

むかしの遺跡に巡り会うとそこには色々な人たちの思いが結ばれている痕跡があります。かつての人がどんな思いを持ってその場に関わったのか、そこには物語があり歴史があります。

静かに思いをその場所に佇み、巡らせているとその場所から聴こえてくる音があります。この音こそ思いの本体であり、その音を聴くことによって人々は心が結ばれ調和していくようにも思います。

この音とは、物語でありその物語をどのような心境で聴いたかという生き方が顕現したものです。私たちは生きていると、手触り感というものを感じます。体がある感覚であり、それを触れるという感触です。いのちはこの感覚を通して生きていることの実感を得られます。物語というのは、まさにその感覚の集合体でありその物語に触れるときに人は感覚が目覚めるともいえます。

遺跡というものは、触れることによって目覚めていきます。教科書や本に書いているものをみても伝わってはきません。その場所にいき、お手入れをしてこそ感じられるものです。

そもそも修養するということや、修行をするというのもその場所によって磨かれるものです。その場所とご縁を結び、その場所から感得したものを共感し伝承していくなかで顕在化していきます。

その感性は、五感や第六感と呼ばれるものによって得られており知識ではなく知恵であることは自明の理です。

本来のあるべき姿、人々が何千年も前からどのように様々な知恵を伝承してきたか。その仕組みは、知恵を知恵のままに感受するものです。

子どもたちの未来のためにも、本来の伝道や伝承が知識にならないように実践を継承していきたいと思います。

自然と聴く

私が尊敬している教育者、東井義雄さんに「ほんものはつづく。つづけるとほんものになる」という言葉があります。時間をかけて伝統や老舗を深めていると、理念が本物であるからこそ続いているのがわかります。

この本物というのは、自然に限りなく近いということだと私は思います。自然は人工的なものを篩にかけては落としていきます。自然に近ければ近いほど、自然はそれを自然界に遺します。つまりは本物とは自然のことで、自然は続く、続いているものは自然に近いということでしょう。

この自然というものは、人工的ではないといいましたが別の言い方では私心がないということです。自然と同じ心、自然の循環、いのちの顕現するものに同化し一体化しているということでもあります。

私たちが生きているのは、自然のサイクルがあるからです。水の流れのように風の動きのように、ありとあらゆるものは自然が循環します。自然の心はどうなっているのか、自然は何を大事にしているのか、そういうものから外れないでいるのならそれは「ほんもの」であるということです。だからほんものは続くのです。

歳を経て、東井義雄さんの遺した文章を読めば読むほどにその深淵の妙を感じます。生きているうちにお会いしたかった一人です。

その東井義雄さんが遺した言葉に、こういうものがあります。

「聴くは話すことより消極的なことのように考えられがちですが、これくらい消極的な全身全霊をかけなければできないことはない」

私は、聴くという実践を一円観で取り組む実践者でもあります。この聴くという行為は、全身全霊で行うものです。ただ聞き流しているのではなく、いのちの声を聴くこと。万物全ての自然やいのちからそのものの本体を聴くということ。そういう自然の行為をするのなら、この世の中は福に転じます。

私が日本を立て直すという聴くことの本意はこの自然と聴くというものに由ります。子どもたちに少しでも善い世の中にて推譲していきたいと思います。

帰る場所

人は心が帰着する場所というものがあるように思います。それは安心する場所のことです。ある人にはそれは帰る家があるともいい、またある人は心の故郷と読んだりもします。帰るところがあることは仕合せなことです。人はそれぞれに安心できるところがあるかが重要です。それは仕合せであるかということと通じているからです。

例えば、生まれてきては親という存在があります。自分一人だけでは生きてはいけない存在で誕生し、どうしても親の助けが必要です。自分のいのちを守ってくれる存在に出会うことで私たちは安心を得ます。その安心は、偉大な信頼でもあり幸福でもあります。自分を守ってくれるという絶大的な安心です。これがあることで、私たちは多少不安なことがあっても心配があっても前進していこう、挑戦していこうという気持ちが湧いてきます。守られているということを実感するところが帰る場所ということでしょう。

そういう意味では、私には帰る場所がたくさんあります。気が付くと、私たちは安心の場所を求めては移動して心を守り育てています。私たちは安心の繰り返しで心身が成長していくのであり、見守られたことによって自他自己に対する偉大な信頼が醸成されていきます。一度きりの人生において、守られて生きたということの幸福や感謝はなにものにも代えがたいことです。

人が家族をつくり、仲間をつくり、助け合い、守り合うのはみんなにとっての大きな安心、帰る場所を創造しています。同時に、今まで守られたことを思い出す場所や、今も守ってくださっていると感じるご先祖様や、深い関係性を築いたお守りのような存在も帰る場所です。

帰る場所があることは仕合せです。

人の仕合せを増やすことは、安心基地をその人の心に増やすことです。私が取り組んできた半生はその帰る場所づくりだったのかもしれません。これからも人々の幸福、そして子どもたちの仕合せを創造していき自分がいただいた感謝を多くの方に光を伝承していきたいと思います。

いつもありがとうございます。

場の貢献

昨日は、理念経営を実践されておられる企業で一円対話を実施させていただくご縁がありました。いつも一円対話で聴福人を実践させていただくと有難い聴き、気づき、学ぶ貴重な時間も同時にいただくことができます。何のためにやるのか、どうありたいかなど、生き方や働き方をお聴きできることでその企業が何を目的に今、どのような人たちが集まりどう取り組んで正対しているのかも深く感じ取ることができます。

理念経営を真摯に実践されている方々のお話をお聴きすると、私たちも同じように取り組んでいるからこそ課題を共有でき、また尊敬し合うこともでき、そこに集まる温かく思いやりのある場を感じられます。こういうお時間を持てるということが何よりも仕合せと豊かさがあり、それぞれの人生のなかで道を学び、道を味わうことは自他のいのちが元氣になる原動力にもなります。

本来、人間としてもっとも深く厚い動機付けというものは、お互いの実践から学び気づき、それを改善しながらその意味を味わうときに行われていくものです。人間は一人で生きているのではなく、ご縁と共に見守り合いながら道を歩みます。これがよかった、これはやり直そう、これは一緒にやろう、そういう仲間や同志との邂逅がいのちを甦生させ生き続けるのです。自然の好循環というものは、心との対話、そのあるがままの素直なリズムによって廻ります。一円対話には、その自然と人間の中心を活かす水車のような役割があると私は信じています。

こういう一円対話の機会を得て内省していてよく直観するのは、「絶妙な場のタイミング」というものです。別の言い方では「今が一番その時に相応しいという時機」のことです。人も企業も生き物です。いくら食べ物が豊富に贅沢に用意されてもお腹が空いていなければ食べれません。どんなに楽しい娯楽が用意されても寝不足や病気なら遊べません。これは当たり前のことですが、その時機時機にもっとも相応しいことが来ていると実感する中に的を得ることがあります。それも最善観というものの道理の側面であると私は感じます。

そしてこの時機というのは、不思議なもので一人一人にも絶妙な時機がありその場その場にも最善の時機があります。だからこそ、すべてから丁寧に聴き、すべてに一理あると聴くことでその時機が円満になっていくように思うのです。時機を自ら決めず、時機に決めさせるというもの。古語に「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ともいいますがこのような境地に達するかもしれません。

そして私はよく「正しいよりも楽しい方」をということをよく話します。楽しい方とは、お互いを尊重しみんなで一緒に道を歩み取り組む喜びを大切にしていくということでもあります。それが自然に正しくなっていくのは、それぞれの話を聴いて尊重し合い尊敬しあう「和」が場に醸成されるからです。これが見守り合いという知恵であり、日本古来からある「衆智を集める」という伝統伝家の宝刀です。

人間、企業、国家などそれぞれに上下があり、優劣があるわけではなく、お互いにしかできないことでお互いを活かしあうことが真の場の貢献でもあります。この先、どのような未来が循環していくのかワクワクする一日になりました。

今年最初のお志事の一期一会とご縁に深く感謝しています。

全体快適と一円対話

世の中には、完全なる善人や悪人はいません。みんなその両方を持っています。なぜならある方向からみれば善でも別の方向から見たら悪になるからです。ただ、自分がされて嫌なことはしないとか、思いやりをもって接するとか、善であることを優先して心がけようというものがあります。自分だけが正しいと思い込むと、そうではないという正しさがまた出てくるものです。だからこそ、人は価値観の相違を超えて協力して助け合うとき有難い徳や恩恵がいただけるようにも思います。

自然というものも同じです。自然の変化である生き物たちは辛いことになっても、同時に別の生き物には有難い感謝になったりもします。自然は全体最適ですから、部分最適なことは循環しているなかでは些細なことです。人間の身体も同様に、意味のない臓器も活動していない細胞もなくすべては調和して内外で全体最適をしています。寒くなれば、それだけのことを活動して熱をつくり健康を守ります。

自分の視野をどのようにととのえるのか。この実践の中に逆転の発想や、禍転じて福にしていくような知恵があります。なので自然界ではほどほどがよく、足るを知るものがいいともいいます。しかし人生を色々と体験したい、味わいたいと思っている人は極端になり強欲になることもあります。どれもが完全ではないのです。不完全であるからこそ、全部を持っているからこそ全体快適を目指そうというものです。

私が一円対話で大切にしていることは、この全体快適です。森信三先生はこれを「最善観」ともいい、中村天風先生はこれを「絶対積極」ともいいました。つまりは、自然の中心と共に一体であれば善悪が消え一円のように丸くなるということです。

この丸くなるというのは、日本では「和」ともいいます。和とは、調和の和です。調和の調は、言葉を周るという字で形成されています。これは言葉に神経がゆきとどくという意味でもあります。物事というのは、なかなか全部にはゆきとどきません。しかし、みんなで和合して協力し助け合えばそれを補完しあうことができます。これが一円融合です。

みんながそうなるような「場」をどれだけ醸成してきたか、そこに自然の妙法や智慧があります。今は、個が歪んで歪な関係になりやすい場が増えています。今一度、場を調えることの大切さを子どもたちに伝承していきたいと思っているのです。

私の一つの使命ですから、これは復興、甦生の大事業の一つです。

同志や仲間と共に、世の中を明るく全体快適にしていきたいと思います。

天地の学

天地自然の法というものがあります。これは誰かが教えたものではなく、誰かに倣うものでもありません。人間が人間として解釈するのではなく、自然がそのままに存在して運行するものです。

私たちは便利に誰かが観察したものをもってそれを理解して分かった気になれるものです。畢竟、便利さというものはどこか大事なものを欠けさせているものです。結局、便利なものに縋って生きてしまうと便利なものが大事なことになってしまい本来の天地自然の理などは後回しになるものです。

先人たちの中には、安藤昌益や三浦梅園のように誰かの教えたものを観ずに直接天地自然を観察した人たちがいます。本来、人はその師をどこに置くかでその求めているところを直観するものです。

その直観は、人が疑問に思わないところ、当たり前すぎて考えもしないところに置かれるものです。誰も考えないというのは、それくらい当たり前にあって気づかなくなっているものです。

例えば、この呼吸というもの、身体の神経、他にも光や影、空間や場などもです。あって当たり前のもの、なぜそれがあるのかを考えるところに自然を観察するための入り口があります。

なぜというのは、真理の入り口でありそのなぜをどの場所でなぜと思うかで人は学びの場所が変わるということでしょう。

これだけ知識が増えて複雑になった世の中では、知識はさらに便利なもの、特殊なものばかりに偏っていきます。しかし天地というものは、悠久に変わりなくこの先も永遠に普遍です。本来の学びというものは、何を主軸にしているかで自分たちの在り方も変わっていきます。

後世に名を遺すような偉業、つまり子孫たちのために何をすべきかを問う学問は常に天地と正対しているものです。

私も先人たちの生き方に倣い、脚下の観察と実践を味わっていきたいと思います。

故郷の徳を磨く

昨日は、私の母校の庄内中学校の生徒たちと鳥羽池のお手入れ、ゴミ拾いを行いました。前回は、バスケットボール部が中心に行いましたが今回は生徒会が中心に声掛けをして80名以上の有志が集まりお掃除を行いました。

休みの日の初日に、これだけの生徒が集まってみんなで主体的に掃除をしましたからその熱気や熱意は相当なものでした。私たちは、ゴミ袋に入らないようなものを軽トラックで伴走しながらお手伝いしましたが普段拾うことがないような工業ゴミや自転車、タイヤなどの粗大ごみもたくさん拾うことができました。

この池は、ブラックバスが良く釣れるということで釣りの人たちがたくさん来ます。ルアーをはじめあらゆる釣り具が捨ててありましたがそれで怪我をして生徒もいました。きっとすべての釣り人が捨てているわけではなく、一部の人たちによって全体の釣り人の評判が下がるのはとても残念なことです。自然を愛する人たちは、自然を汚したりゴミを捨てたりすることはしないように思います。みんなが気持ちよく、自然を楽しめるように配慮していただけると鳥羽池も喜んでくれるように思います。

ゴミで多かったのは空き缶など、そのほかには生活ごみです。ゴミ箱に捨てるのが面倒だったのか、それとも捨て方がわからなかったのかその辺に投げ捨てているものがほとんどです。粗大ごみにいたっては、きっとお金がかかるとか面倒という理由で池に投げ捨てたのでしょう。冬の間に水を抜くことで、ゴミが捨ててあることに気づきます。

この池は、冬鳥たちや渡り鳥がたくさんきます。年中、色々な鳥たちが憩いの場になっています。魚をはじめ亀なども多く、小春日和や秋の夕暮れなどは幻想的で自然の美しさにうっとりします。自分の故郷や町にこのような場所があることで、心のゆとりや余裕もうまれます。朝夕、散歩の老夫婦をはじめランニングをする方々もたくさんいます。私の父も、桜を守っていて蔓などが桜を枯らさないように見守っています。

みんなが愛した場所は、愛したように場所が美しくなっていきます。

場というものは、本来はみんなでお手入れして守っていくものです。お手入れとは、心のお手入れでありそして場所のお手入れです。このお手入れとは、いつの日か必ずこの世から存在が消えてしまうものだからこそ勿体ないと丁寧に少しでも寿命が長く持てるように愛していくことです。

そうやって愛されたものは、そのままにその愛を周囲に恩返ししていきます。私は古民家甦生をしていますから、それがよくわかります。古く長く大切にされてきたものは、みんなから愛されてきたものがほとんどだからです。

生徒たちが中心になってこのような活動を故郷で行っていくことは本当に素晴らしいことと思います。こういう活動がいつまでも続き、そしてその生徒の姿をみて大人たちがもっと変わっていけばいいなとも感じます。子どもたちに恥ずかしくないような大人でありたいと思います。

これからも故郷の徳を磨いていきたいと思います。