徳の戦略 

江戸中期の徳の実践家で思想家の三浦梅園に、「悪幣盛んに世に行わるれば、精金皆隠る」があります。これは、西洋ではグレシャムの法則といって、「悪貨は良貨を駆逐する」が同じように有名です。私は、徳積循環経済に取り組み、ブロックチェーンの技術を徳で活用していますからこの辺の話は参考にしています。

そもそもこの三浦梅園が自著「価原」でなぜこういうことを言ったのか、それはこの明和9年(1772年)から発行された、南鐐二朱判は一両当りの含有銀量が21.6匁であり、同時期に流通していた元文丁銀の一両当り27.6匁と比較して不足している悪貨であったといいます。このことが南鐐二朱判を広く流通させ、このような計数銀貨が次第に秤量銀貨である丁銀を駆逐していったということもあったといいます。これよりも前の元禄8年(1695年)に行われた品位低下を伴う元禄の改鋳後にもまた良質の慶長金銀は退蔵され、品位の劣る元禄金銀のみが流通したともあります。

そしてグレシャムの法則の方は、16世紀のイギリス国王財政顧問トーマス・グレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事に由来しています。これを19世紀イギリスの経済学者・ヘンリー・マクロードが自著『政治経済学の諸要素』(1858年)で紹介し「グレシャムの法則」と命名してできた言葉です。

他にも調べると、似たようなことは古代ギリシアでも行われていました。劇作家アリストパネスは、その自作の登場人物に「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨がでまわるように、良い人より悪い人が選ばれる」という台詞を与え、当時のアテナイで行われていた陶片追放(オストラシズム)を批判していたといいます。

今の時代もまた似たようなものです。これは貨幣に限らないことは半世紀ほど試しに人生を生きてみるとよくわかります。市井のなかで、「本物」と呼ばれる自然な人たちはみんな私心がありません。世間で騒がれている有名な本物風の人ばかりが情報消費に奔走し、あるいは流通し、同様に消費されていきます。実際の本物は粛々と自分の持ち場を実践し磨き上げ場をととのえています。そこには消費はありません。

そういう人たちは、世の中では流通せずにそれぞれに徳を積み、そうではないものばかりが資本主義経済を拡大させていきます。そもそも人間の欲望と、この金本位制というのは表裏一体の関係です。そして金本位制を廃止してもなお、人間は欲望のストッパーを外してはお金を大量に発行して無理やり国家を繁栄させ続けようとします。すでに、この仕組みで動く世界経済は破綻をしているのは火を見るよりも明らかです。国家間の戦争も歴史を省みればなぜ発生するのかもわかります。

かつて国富論というものをアダムスミスが定義提唱し、富は消費財ということになりました。この辺くらいから資本主義の行く末は語られはじめました。如何に現代が新しい資本主義など世間で騒いでみても、そもそものはじまりをよく観ればその顛末は理解できるものです。ジャッジするわけではありませんが、歪みを見つめる必要性を感じます。

実際の経済とは、経世済民のことです。その経世済民を支えるものは、相互扶助であり互譲互助です。つまりは、人は助け合いによって道と徳を為すとき真に富むということです。この時の富むは消費財ではなく、絶対的な生産であり、徳の醸成です。そういうものがないのに経済だけをブラッシュアップしても片手落ちです。

本来、テクノロジーとは何のために産まれるのか。それはお金を増やすためではありません、世の中を調和するためです。だからこそ、どのように調和するかを考えるのが技術まで昇華できる哲学者たちであり、思想を形にする実践者たちです。

私はその調和を志しているからこそ、ブロックチェーンで三浦梅園の生き方を発信していきたいと思っているのです。そこには先人への深い配慮や思いやりが生きています。

先人たちのこれらの叡智、そして知恵は何世代先の子孫のために書き綴られそれは魂と共に今も私たちの中に生きています。少しでも子孫たちの未来が今よりも善くなるように私の人生の使命を果たしていきたいと思います。

徳あるものは永遠に生きる

山本玄峰先生という方がいます。百万遍念仏のことを調べていて知ったのですが、素晴らしい生き方をされ示唆をいただいております。終戦にも深く関わっておられ、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」という言葉に影響を与えた人物としても知られている方です。

多くの政治家をはじめ、リーダーたちを指導して国を導きました。まさにあの頃の国師のような存在です。

この山本玄峰先生は、若い時に失明を宣告され絶望をして死地を求めてあらゆるところを探し回りました。そしてどこでも死にきれず、四国巡礼の道を開いた弘法大師に願をかけ「自分は死にきれずここまで来ました。私が少しでも世の中の役に立つものならば、結縁をおさずけてください。役に立たなければ、早く命を引き取って下さい」とお遍路に最後の希望を懸けました。

そして7回目の巡礼の三十三番目の高知県の雪蹊寺(せっけいじ)の門前でついに行き倒れました。その後、無銭宿泊所の「通夜堂」で、3、4日過ごしついに出家を決意して同寺の太玄和尚に相談します。

「自分は紀州の山奥で育って、目も見えず、読み書きもできませんが、坊さんにしていただけますか」と。

すると太玄和尚は答えます。

「いくら目が見えても、障子一枚向こうは見えない。いくら耳が聞こえても、一丁先の声は聞こえない。目や日が悪くても、心の眼が開けたならば、世界中を見渡し、天地の声を聞くことができる。葬式や法事をする坊さんにはなれなくても、心の眼が開ければ、人天の大導師になることができる。これは誰にでもできることだ。お前でもやればできる」と。

その後は、すべてを手放し出家して修行にあけくれました。その師匠の言葉どおりの人物になり、葬式や法事をするためではなく、真理を開眼するような大導師になったのです。

その山本玄峰先生は、こういう言葉を遺しています。

『力をもって立つものは、力によって亡ぶ。金で立つものは、金に窮して滅び、ただ、徳あるものは永遠に生きる』

何を拠り所にすることが、もっとも生きるのか。死を求め続けて、生きることの真の意味を悟られた先生の法の言葉は深く心に沁みます。

暮らしの中で禅で生きるというのは、暮らしのすべてで徳を積むということだと感じます。実際にはとても難しく、先達の偉業に深く尊敬の念がこみあげます。

今に集中して、暮らしフルネスで徳を実践していきたいと思います。

純善たる伝承

レッジョエミリア教育というものがあります。これは、イタリアのローリス・マラグッツィという人物の思想や実践が一つの形として表現されたものです。

もともとこのレッジョエミリアは、第2次世界大戦後1946年の北イタリアの町の名前です。その街の郊外のヴィラ・チェラという村でガレキの中から復興を志し、幼児教育に力を入れようと熱心な親や町の人々が教育者、専門家と一体になって立ち上げたことがはじまりでした。このチェラでは、戦後に住民たちが戦争で残った石やレンガを使って、幼稚園を建てるためにドイツ兵が残した戦車やトラック、馬などを売って運営資金にしていたといいます。その後の数年間でレッジョ・エミリアでは女性たちを中心にして60にも及ぶ幼稚園が開園・運営されました。

戦争で子どもたちを保育する場所を自分たちの手で母親たちが主体的に復興するのです。そしてようやく1963年にイタリアで最初の公立の幼児学校がこのレッジョ・エミリアで誕生しました。そこから公立の幼児学校はイタリア全土に広まっていきました。

そもそもイタリアは元々昔から地方分権が強い場所でレッジョ・エミリアはファシスト政権に対する「レジスタンス運動」の本拠地で市民たちの自治意識が高い土地だったといいます。

その当時、教師やジャーナリストとして活動していたレッジョエミリア教育の中心となるローリス・マラグッツィは地域の教育活動に尽力していきます。

このローリス・マラグッツィは「100の言葉」という詩を書きその理念や哲学の中心になるものを残しました。そこにはこうあります。

「子どもには 百とおりある。
子どもには 百のことば 百の手 百の考え 百の考え方 遊び方や話し方
百いつでも百の聞き方 驚き方 愛し方 歌ったり理解するのに 百の喜び
発見するのに 百の世界 発明するのに 百の世界 夢見るのに 百の世界がある
子どもには 百のことばがある…それからもっともっともっと…

けれど九十九は奪われる
学校や文化が 頭とからだを ばらばらにする

そして子どもに言う 手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい 話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい 愛したり驚いたりは 復活祭とクリスマスだけ

そして子どもに言う 目の前にある世界を発見しなさい
そして百のうち 九十九を奪ってしまう

そして子どもに言う 遊びと仕事 現実と空想 科学と想像 空と大地 道理と夢は 一緒にはならないものだと つまり百なんかないと言う

子どもはいう でも 百はある 」

自分なりの意訳ですが、それぞれの子どもにはそれぞれの子どもの人生がありその人生には正解などなく、それぞれに自分らしい人生があるということのように思います。この時代、いや今の時代も、子どもが真に尊重されているかといえば教育はその真逆で今でも軍隊のように権利を奪われ、画一的に個性をつぶし、あるいは大人の都合で子どもが主体的に自分のままであることを認めないものばかりです。

「子どもは無限の可能性をもち、あらゆる権利を持っている。そして、それは誰にも奪われず、主体として大切にすることが教育のあるべき姿だ。」とローリス・マラグッツィは静かに諭します。

その後、1991年に「ニューズウィーク」誌は、レッジョ・エミリアのすべての市立幼児教育センターと保育園の代表として紹介し園長を務めたディアナ保育園を世界のベスト10校の一つに挙げました。今では、グーグルやディズニーでも採用され世界中に実践が広がっています。

そう考えてみると、日本ではどうでしょうか。

どのような保育こそが、真にその子どもの主体性を保障し、無限の可能性を奪っていないのか。私は自然農法なども行い、暮らしフルネスを実践しますが日本人はいのちとの繋がり、つまりは物も人もすべていのちの顕現したものという意識を持ちます。

本来は、子どもがもっとも世界で仕合せに暮らす国だったように思います。そういう文化の国が西洋からの古臭い教育で色々な歪が出てきました。今一度、本来の日本にある伝統の教育を今に甦生する時機に入っているように思います。

私が実践する暮らしは本来の日本の保育そのものです。それを大人がまず実践することで、子どもたちにその保育を伝承することができます。大人か子どもかではなく、共に生きる、つまり一緒に暮らすことで実現するのです。これは働き方と生き方の一致でもあるし、過去と未来と今の一致でもあります。

いのちの共生、ものも人もすべて繋がっている場をつくりだす。これが日本式の子どもを育てる伝承法である。それを純善たる伝承とも呼ぶのでしょう。

時機が到来していることに仕合せを感じつつ、かんながらの道を真摯に力強く動き出していきたいと思います。

 

月心

昨日は中秋の名月で夜が神々しく輝いていました。特に、水面やススキ、そのほかの植物たちに反射して全体が照らされ暗闇が一層優しく映りました。この中秋の名月は、いつの時代からみんなで眺めるようになったのかと思いを馳せました。

あくまで空想ですが、縄文時代の人たちやまだ電気などがなかった時代、夜というのはどう感じていたのか。そしてその中にある月をどう観ていたのか。夜に静かになっていく空を見上げて、何を思っていたのか。

きっと現代とは、まったく異なる見え方をしていたように思います。月は観る人の心を映し出します。ある人は、大きいと観えたり、またある人は蒼いと観えたり、またある人はウサギがいるように観えたり、人によって観る心境を鏡のように映しだします。

千人いれば、千通りの観え方があります。

よく考えてみると、人の目は同じものはありません。私たちが太陽や月、そして色などもなんとなく共通したものを観ては同じだろうと認識していますがそれが本当に全く同じかというと怪しいものです。なぜなら、人間の目には非常に微細で通常には感じられないようなものを観ているものもあります。

それに心は、観える世界を変えていきますから同じものであるはずはありません。私たちが中秋の名月を眺めるとき、なぜ美しいと感じるのか。それはその心の中にある、微細なゆらぎを味わう感性と結ばれていることからのように私は感じるのです。

その証拠に、月を眺めたときに感じるものは色々と変化します。音も色も、味も、月をよく眺めたらその感覚が変わっていくのを感じるのです。そしてこの変化こそ、心の中の変化であることがわかります。

私たちは毎日、月を観ても、月は同じことはありません。月も変化し続けているのです。その変化を観ては、自分の心の中に移る観念を変化させていく。そこに無常の喜びや仕合せも、または心の住処もあるように思います。

中秋の名月をあとどのくらい眺めることができるのか。人生は一期一会です、仲間たちやご縁ある方々と共に月と共に心を清め磨き歩んでいきたいと思います。

月の心

この季節は、夜空の月をよく眺めるものです。夜半に目が覚めれば、家の隅々に月の光が差し込んできます。この月の光が強すぎては、気になってなかなか眠れません。この月の光は街灯のネオンなどとは違って、清らかに反射する真鏡の光のようです。

もともとこの中秋の名月はなぜ美しいかというと、秋の空気と月の適度な高さが関係しているといいます。この時期の空気は、水分量が春や夏に比べて少なく乾燥しています。それに月の位置も冬に近づくほど空の高い位置を通り、夏は低い位置を通ります。そして春は地上の埃などで月本来の明るさが霞んで綺麗にはみえません。月の通る高さと空気の水分量がより美しく観える条件になっているともいいます。それに加え闇夜に入っていく時間帯、またススキにはじまり枯れていく樹木や草たちがより光を反射させます。またものさみしく弱弱しく鳴いているコオロギや鈴虫、また水鳥たちの声の風情がより月を引き立てます。

この季節の月というのは、どこか日本の懐かしい原情緒や侘びさびを感じさせるものがあります。古来から月で詠まれた和歌がたくさんありますが、寂しさやせつなさを詠うものが多いのもその理由かもしれません。

私がその中でも月の詩でもっとも好きで肌身離さず手帳にはさんでいるものがあります。それは菅原道真公の詩です。

海ならず たたへる水の底までに きよき心は月ぞてらさむ

これは京都から九州へと向かうときに詠まれたものといいます。月の光が深い海の底も照らすように、曇りなき澄んだ心を照らしてくれるだろうという私心なき姿を詠まれたものです。

月の光というのは、私にとっては澄んでいるものの代名詞です。月の光は月そのものです。そして夜空の光のなかでもっとも私たちを見守っているのも月です。私は月の生き方に憧れ、社名もカグヤにしていますし、常に陰徳に憧れています。

月は私の心そのもの。

いつの日か、子どもたちに月を観ては心を澄ますような美しい場を譲り遺していきたいと思います。

長老の木

昨日、古民家和楽の銀杏の対応のためにシートなどを設置しました。毎年、1万粒くらいの銀杏が実をつけてくれます。その銀杏を拾って、炭火で食べるのが仕合せで毎年仲間やご縁のある方々を招待して楽しんでいます。

短い期間に大量に拾えますから、とても数人では食べきれません。むかしもきっと、近隣の方々や家族親族で分け合って食べていたのでしょう。一気にとると、下処理が大変で辟易としますが毎日、落ちてくる分をその都度下処理をするのなら特に大変には感じません。

むかしの暮らしの時間では、この9月の1か月は銀杏祭りで毎日が美味しい食卓の一つの旬として楽しく味わえたように思います。

この銀杏の木は、あの氷河期を乗り越えてきた貴重な木だといいます。ほとんどの植物が枯れても生きているという、まさに生きる化石だといわれます。また同時に火にも強く、寺や神社、都市でも防火で植えられています。荘厳で長寿、まさに長老のような佇まいの木です。

私は、この銀杏の木が好きでもう20年くらい育てているものもあります。特に葉っぱの形や色が綺麗でうっとりします。銀杏の木陰もまた心地よく、木漏れ日が優しく穏やかな気持ちになります。

黄色に染まった姿に光が当たれば、輝きが反射してとても幻想的です。冬も間も、強い風から守ってくれていますし春の新芽もかわいらしくて瑞々しい水気を周囲に放ってくれます。鳥たちの休憩所にもなり、一年を通してあらゆる鳥たちがこの木に集まってきます。

この木の一生は、節目節目に私たち生き物のいのちを潤します。まさにご神木ともいってよい、長老の木です。

いつまでもこういう長老の見守りのなかで子孫たちが暮らしていけることは平和で幸せなことです。世間では、簡単に伐採したり自然から離れてさらに人間中心の世の中になっていきますがそこにこの銀杏の豊かさは失われて寂しさを感じます。

子孫たちのためにも、身近なところから自然と共生し、未来世代への責任を果たしていきたいと思います。

自分のままでいられる場所

自分のあるがままを受け容れるということは大切なことです。それができないと苦しでいる人が多いといいます。では、なぜその自分のあるがままを受け容れることができないのか。言い換えれば、自分のままではいけないという他者や周囲からの影響を受けるからです。

例えば、全部がまっすぐに同じ大きさと長さ、形で同じスピードでと求められる植物があったとします。他はみんなそう育っているのに、自分だけ他と異なる状態になればこのままではいけないと焦るものです。しかしどうやって演じてもそうならない場合は、自分を責めてなぜこんなことになど悲嘆にくれます。あるいは、開き直って諦めてしまうこともあるでしょう。しかし、周囲と比べて奇怪な目で見られたり差別や排除されると苦しくなるのです。

本能的に私たちは社会をつくりますし、周囲と調和したいと思うものです。生き残るためには、周囲のお役に立ちたい、自分の存在が認められたいと思うものです。だからこそ、頑張って自分もそうなろうと思うのです。

しかしその自分が周囲から求められる姿が、あまりにも自分とは異なる歪なものであれば本人はとても苦しみます。鳥にカエルになれと言われても無理ですし、蛇にライオンになれというのも無理です。しかし、人間の可能性は無限で特に小さな子どもならほとんどどんなものにもなれるような気もするものです。

人間は、誰がどのように育てるかで変わります。動物に育てられれば、動物のようにもなります。そうやって、どのようなものにするのかというのが教育というものです。

自分らしくいられなくなるはじまりは、みんな同じように金太郎飴のようになる社会設計に組み込まれるときにはじまっています。

お互いを尊重しあう社会というのは、持ち味を発揮する社会です。持ち味が発揮されるというのは、その人がその人らしくいることができてそれをみんなもわかっているという社会です。みんなもそれをわかっているから、それをそのままに活かそうとします。自分がこれを役にたちたいと思っても、もっとお役に立てるものがあるとみんなが気づいてその人を尊重できるのです。

その人らしくいられる環境というのは、みんなが持ち味を活かせる場があるということです。こうならねばならないという、無理や頑張りは心を痛めていきます。

居心地のよい場所は、自分のままでいられる場所ということです。

子どもたちにも無理をしないでいいように、場の大切さを感じてもらいそれぞれの個性や持ち味、自分らしさをみんなで活かしあう豊かで平和な社会になるようにその実践事例やモデルケースを場でととのえていきたいと思います。

場の原点

昨日から久しぶりに鞍馬寺に来ています。コロナもありまた色々とあったのでじっくりとお山に来てお話をする機会もありませんでした。改めて、感じるのはお山の持つ場の素晴らしさです。

私は、今、英彦山をはじめ場づくりをしていますがその原点はこの鞍馬山です。鞍馬山で修養してきた十数年が今の私の血肉になりこの感覚を忘れずに実践しています。私たちはお山を大切にすることで、お山からたくさんの気づきをいただきます。その気づきをもってまたいつもの日常生活に活かしていくのです。

太古のむかしから、私たちは言葉ではなくても場によって多くのものを気づいてきました。不思議なことですが、ある場所にいくとそこには何かがあるという気づきがあります。その何かというものが、私たちが気づいていく本体であり正体です。

そしてその場を大切に磨きととのえていく人たちは、たとえ寿命が尽きていらっしゃらなくなったとしてもその場所の他のいのちと共に存在し続けていきます。

私たちは自分や個人といった、自他を分けてものごとを理解するようになってきました。この言葉や文字などもそうですが、分けることで理解する仕組みから世の中は分かれているものとして認識するようになっています。しかし、実際の現実のこの世は分かれているものなど一つもなく渾然一体になっているものです。

この渾然として一体になっているものに気づいているかというのが、先ほどのお山でいただく気づきと同化しているのです。

あらゆるいのちや物質も、分かれているものは一つとしてこの宇宙に存在しないという真実。わかれていないからこそ、場がそれを伝えていくことができるのです。そしてその場を伝える人々は、その場に渾然一体となって暮らしています。

何かを教えるのではなく、何かに気づいていくこと。

人は気づいたことでしか、変わりませんし、気づくだけで救われる境地もあるのです。むかしの先人たちは、なぜ山に入り山で修養してきたのか。そしてその山をお山として心や魂の故郷を実現させていったのか。

この感覚を忘れずに、丁寧に自分の今いる場を磨き上げていきたいと思います。

聴福人の実践

先日、あることで松下幸之助さんの生前の講演動画を拝見する機会がありました。そこでは、私心を消すことについて謙虚にお話をされておられ色々と省みる機会になりました。

そもそも私心というのは、小我やエゴなど自分がという己の存在を過少過大評価をしている状態のことです。何物もでもない、存在している自分をよほどの存在として独善的になっていくと私心に囚われた状態になります。

本当の自信を持つというのは、難しいことでそれだけ日々に自分というものと向き合い、自分の中の私心がどうなっているのかを見つめ続ける必要があるように思います。

松下幸之助さんも、自分の私心が毎日出てくるからそれを危険だと思って気を付けていると。賢い人こそ、危険であるから要注意であると。賢いからこそ会社をつぶすことがあると、使い方次第であると仰っていました。

確かに、今の能力も才能もそして自分というものもそれをどう使うかというのは心が決めるものです。それを世のため人のため、そして社会のため世界のためにと自分を天から預かりものとして使うときは私心はなくなっていきます。しかし、それを自分のものだからと勘違いして特別な存在だと勘違いしてしまうと私心にまみれて判断がすべて己の方に引き寄せようと欲望に吞まれます。

この世のすべてはみんな天が与えた存在であると自覚すれば、天命というものの声も聴けるように思います。しかし、天命がわからなくなるのは自分勝手、得手勝手に勘違いし視野が狭くなるからのようにも思います。

視野の広さとは、自分はとても小さな存在と思えるとき視野は広がります。永遠から結ばれている先祖からの自分を感じたり、この世のすべてのいのちは繋がっていると感じたり、宇宙や星々、光や道を感じるときもそう感じます。しかし便利さや自分の権利が当然のような環境の世の中では、そういう感覚は麻痺してみんな私心まみれ我欲まみれになりたいように思います。

夏目漱石が晩年の境地に「則天去私」(天に則り私を去る=てんにのっとりわたくしをさる)ということを語っておられます。天命に生きることの要諦で、亡くなるまでずっとその道に挑戦されたことを想像できます。

また松下幸之助さんを尊敬されておられた稲盛和夫さんもこう仰っています。

「私心を捨てて、世のため人のためによかれと思って行う行為は、誰も妨げることができず、逆に天が助けてくれる。」

動機善なりか、私心なかりしかと、自問自答を日々に繰り返されたいたそうです。毎日、私心はないかと自分に尋ねるというのは本当に大切なことだと反省するばかりです。

最後に、私が大好きな良寛さんの遺した言葉だそうです。

「おらがおらがの「が」を捨て、おかげおかげの「げ」で生きよ」

感謝や御蔭様というのは、私心を毎日お手入れすることに似ています。自己の徳を磨いていくのは、それが天命であることを忘れないようにしていくためかもしれません。

よくよく反省して、自ら勘違いしないように周囲の声に耳を澄ませ、聴福人の実践を真摯に取り組んでいきたいと思います。

お山を調える暮らし

英彦山の宿坊の周辺の石組みや水路の修繕をしています。実際には、ほとんど土木作業ですが今のように重機がなかった時代にどのように石組みをしていたのかがほとんどわかりません。なので、一つ一つの自然や石組みを観察しながら推察したり想像したりと、先人の足跡から学び直しています。

今でも守静坊の周辺は、立地的にも機械や重機は入れません。なので、テコの原理を使って石を動かしたり、人を集めてみんなで運ぶという具合でととのえています。しかし、あまりにも大きな石はどうしようもなく、そのままにしています。本当に、どうやったのだろうかとまるで古代の失われた技術にため息ばかりです。

エジプトのピラミッドもですが、どうやってというのは今も解明されていません。その時代に生きた人たちの知恵は子孫のためにも伝承していく大事さをひしひしと感じています。

むかしの水路には、水を抑制する技術に長けていることがわかります。ただ流すのではなく、水の力を敢えてそぎ落としたり、ところどころで土に浸透させてガス抜きのように溜め込ませたり、落として力を逃がしたり、曲げて速度を調整したりと工夫に満ちています。

標高の高い英彦山は、大雨が降ると一気に洪水のように水が下に流れていきます。先日の豪雨はまるで、石段が川のようになり段差が大滝のようでした。土砂が崩れるのではないかと心配になりました。しかし数百年の間、壊れていない場所に建っていますからある意味での安心感があります。

先人は、なぜその場所が壊れないと思ったのか、そしてなぜ今のような石組みにしたのか、考えさせられます。とはいえ、宿坊の周辺もところどころ石が崩れ、水路の流れを換えてしまっています。小さな水路の破壊が、その場所の破壊にもなり、手入れをし続けないと場も保てません。

今は宿坊跡になり、ほとんど空き地になり家も人もここにはいません。しかし、本来、標高1000メートル以上の山というのは水を貯水する天然の給水塔だといわれます。森が水を育むという言葉にあるように、この山が水を保水しているから平地の暮らしが保たれています。特に福岡県においてもっとも高い山であり、水を生み出す英彦山の御蔭で県内のすべての支流は確保されています。その山を守るためにも、むかしは山伏たちが山が清浄であるように健全であるように暮らしを保ち山をととのえたのです。

その調え方は、まずは自らの宿坊の周辺を丁寧に修繕し続けること。そして風通しや水の流れなどを澱まないようにしたこと。山に感謝して、自然のありがたさを感じることなどをやったように私は思います。

やることはいくらでもありますが、身体は一つしかなく時間をかけて少しずつ取り組んでいます。お山の知恵に学び、人類の行く末を祈り、子孫のためにも暮らしフルネスを味わっていきたいと思います。