野見山広明-子どもたちの未来を願い徒然なるままに書き綴るカグヤ社長の惟神の道blog。

仏陀の絆

現代の私たちはあまりこの150年の間の歴史を知りません。明治に入り激動の時代を超えて今がありますが、この150年間で一体何が起きて何が変わったのかを検証されることもなく前へ前へと進むことばかりに注力してきました。

しかし、時代が変わっても忘れてはいけないものがありますし、今の私たちがなぜこういう生活ができているか、その御恩もいつまでも覚えておく必要があると感じるからです。「懸情流水受恩刻石」という言葉があります。これは受けた恩は石に刻み、かけた情は水に流せというものです。人として、いつまでも恩を忘れす、恩に報いていこうとする生き方は子孫繁栄のためにも大切なものです。

明日、スリランカから来客があり英彦山でおもてなしをする予定があります。

このスリランカというのは、実は私たちは大変な御恩があります。それは1951(昭和26)年9月6日午前11時からのスリランカ代表のJ・R・ジャヤワルダナのサンフランシスコ講和会議です。

実は私たちの日本は、第二次世界大戦の敗戦後、分割統治をされバラバラになるところでした。今のように一つの島国ではなく、ありとあらゆるものが解体され日本という国も失われる寸前でした。戦争に負けるというのは、大変悲惨なものであり歴史をみると文化も人も財産もすべて消失するほどの出来事に遭遇するものです。

その大事な局面が、サンフランシスコ講和条約でした。世界から49か国が署名してくれて私たちの国は主権を回復しました。そこには先ほどのスリランカの故ジャヤワルデネ元大統領が対日賠償請求権の放棄などを訴えた演説がありました。その演説がなければ、今の日本はなかったほどです。こんな大切な徳のことを子孫へ伝えないのは恥ずかしいことです。

その演説では「憎悪は憎悪によってやまず、慈愛によってのみやむ」との仏陀の言葉を引用して語られました。スリランカもまた第二次世界大戦の犠牲をたくさん受けており、損害賠償を請求する立場にあったにも関わらずすべてを放棄され仏陀の言葉を実践する演説をしたのです。他の国々もこの演説に感動して同意してくださった御蔭で、今の日本の主権は守られました。

先人たちが掲げた独立自尊の精神、本来、植民地で支配されるような世の中ではなくそれぞれが尊重しあう社会を求めて国々が平和を結んでいこうと感じたのではないでしょうか。もちろん、歴史ですからそこには大小さまざまな思惑などもあったかもしれません。しかし人の心を打つ演説にはその人の生き方が出ていますからこのJ・R・ジャヤワルダナ元大統領が目指した理想をみんなが共感したからに他なりません。

この方は、そのあとも日本と交流を続けられその後は「自分はこれからもスリランカと日本という二つの国の行く末を見守りたい。だから、二つの目の角膜の一つをスリランカ人に、もう一つを日本人に移植してほしい」と願い、そのこの遺言どおり、片目の角膜は群馬県に住む女性に移植されたといいます。

中国の老子に、「怨みに報いるに徳を以ってす」という言葉もあります。お互いに恨み憎しみあう先に、戦争はなくなりません。戦争をなくすというのは、愛と許しが必要ですがそれは一人からの勇氣ある行動によってからだと感じます。

戦争はいつの時代もいつまでも終わらないものです。憎しみや恨みは停戦しても失われず、溜め込んでは爆発し、冷戦のような陰湿なものになるだけで真の平和は訪れません。難しいことではありますが、平和のために人々はみんな一人一人の中で平和のために仏陀や老子のいうような実践を結んでいくしかありません。

私たちが日々の暮らしの中で、恩や徳に報いていこうとする生き方を実践することで世界の平和も革新していけるように私は思います。仏陀の教えに守られてきた日本とスリランカとの歴史や初心からこれからも平和の絆を維持していきたいと思います。

いのちの知恵

私は循環という言葉をよく使います。この循環には様々な意味があります。例えば、めぐるという意味、あるいは全体調和という意味、他にも様々なところで用いられます。

私の場合は徳が循環する経済という言い方をして表現しますが、これは現代の価値観の中で表現するギリギリのところです。そもそも徳というものが何か、そして循環とは何か、経済とは何かということがあっての組み合わせの言葉です。

そもそも言葉は組み合わせでできています。私たちが何かを理解するとき、基本的には全体を理解して一部を切り分けてそこから全体の何がそれなのかという理解をします。

地球を理解するには、宇宙の中の地球になりますし日本になれば世界の中の日本となります。常に全体を広げて相対的に理解するとき私たちはその意味を自分の知りうる認識の海の中で全体のどこに配置するかを定めることで知識を得ます。

しかし古代、古来、本来は知識というものになる前はどうだったでしょうか。言語がなかった時といっていいかもしれません。それは知恵があったということです。知恵とは、言語ではないもの、相対的でも全体でもないもの。存在そのもののいのちのようなものが知恵です。私はこの知恵を表現するのに徳といい循環といい経済といいます。そもそも徳は循環のことです、切り分けられることのないいのちすべてのこと。その姿そのものは循環しています。循環の中にあるから知恵です。これは水の中に流れているものこそ水としていのちとし循環と観るのと似ています。また経済は経世済民のことです。社会のことであり共生や貢献しあう相互扶助の関係のことです。これは体の内臓がすべて循環して助け合い体を維持するようにすべてが繋がり結ばれ調和するから経済になっているということです。

現代の経済は、経世済民の徳治の経済ではなく単なる手段としての経済になっています。それは今の医学のように、内臓のその部分だけをみてそれをよくすればいいという短絡的に切り取られた知識としての経済のことです。

知恵というものは、私たちの伝承の文化の中にこそ生き続けているものです。その知恵こそ野生であり本能であり、偉大な知識の集大成であり結晶です。先人たち、あるいはその知恵を持ち続けていきている先住民族たちはみんな当たり前に徳も循環も経世済民も知恵で一体となって調和し続けています。

言語が増え続けてさらに知識は細分化されて増大していますが、そろそろこの過渡期に終止符を打ってもいいのではないかと私は思います。AIはますます知識の切り分けによっていのちから遠ざかります。

遠い昔、先人たちが実現させた知恵を今一度、子孫たちもバランスよく得られるような環境を甦生していく必要を感じます。日々の暮らしフルネスを通して、いのちの知恵を伝承していきたいと思います。

徳を引き出す

場所には、目的というものが具わっているものです。何のためにその場所があるのかということを守り続けることができたのならその本質は守られます。しかしその場所の目的が変わってしまったら、その場所そのものが変化してしまいます。

例えば、何百年も人が修行をして大切に磨いてきた場所が単なる消費者のための観光施設や歓楽街などになったらその場所は元の場所ではありません。目的に対して、目的ではないものがあるから穢れがはじまりその場が澱み濁ります。そもそも澱みや濁りというものは何か、それは目的が変わってしまうということです。

これは経営でも同じことが言えるように思います。理念や初心、目的がありはじめた事業もそれを忘れたり変わってしまえば目的が失われます。そうなることで、その場所そのものが磨かれなくなり変わってしまうのです。

私はお手入れやお掃除などをよくあらゆる場所でしますが、その理由はその場所が本来どのようであったのかという目的を探るためです。それを探すには、長い時間をかけて磨いてきた人々の真心や実践をなぞっていきます。

そうやって見つけることができたのなら、そこからまた新たにその場所を本来の場所へと目的を磨き直します。磨き直していくなかで、目的を甦生させそこに関わる人たちに場所の持つ力や意味を伝承していくのです。

歴史というものは、目的がセットです。目的のために命を懸けて人生を賭して取り組まれたものがあります。その尊さを知り、そして敬い、それを伝承していくことは、先人への御恩を忘れず、子孫へとその徳を譲り渡していくことになります。

自分の世代のことだけ、自分のことだけ、その時だけその場限りという生き方では、目的など感じられなくなってしまいます。もっと長い目でみて、何のためにそれをやったのかとみんなが感じていけばその目的の尊さに触れて人と場は磨かれていくのです。

引き続き、私は私なりの徳積を実践していきたいと思います。

病気の正体

現代人の病気のほとんどは、がん・脳卒中・急性心筋梗塞・糖尿病、そして精神疾患があります。どれも理由ははっきりしていますが、その環境は取り除かずに病気を退治しようとするのでこれらの病気を扱う病院はいつもいっぱいです。それに医療費の負担も増え、そのうち何のために働いているのかと気づくほどにみんな病気に近づいていくかもしれません。

本来の健康は、未病であり、病気にならないような暮らしを調えていくことによります。病気になる生き方には、他人軸といった評価や期待、空気を読みすぎたり、比較されたり自分に厳しすぎて自己を大切にしなかったことなどで頑張り無理がたたり心身が病んでいきます。もちろん、いくら気を付けていても自分のいる環境がそういうところにいる場合は知らず知らずのうちに影響を受けて病気になることもあります。

自分というものを大切にしていれば、環境の影響があっても自分というものを持ち続けることもできるかもしれません。しかし人間は弱いもので、欲望もあり感情もありますからそんなに強いメンタルを維持することはなかなかできません。

そういう時は、自分にもお手入れが必要になります。自分のお手入れというものは、日々に自己の心と対話をする習慣をもったり、身体の声を確認する時間があったり、あるいは環境を変えて心身を調える場に身を置いたりなど工夫はできます。

私の場合は、ライトワークとして徳の循環する経済圏を創生していますから意識的に水や火を用いて自然から離れないよう、不自然と自然が何かを常に確認する機会に恵まれています。そして場づくりで風水をよく感じて、気の流れが澱まないように気を付けています。そもそも病気というのは、気の流れの澱みから発生するのではないかと私は直感しています。気が流れれば、病気は次第に快復していくからです。

例えば水でいえば、澱むことで水は腐ります。私たちは水を纏い循環することで生きていますが、排水や排出ができないと病気になります。植物も同じく、水というものがいのちの中心でありその水の流れ方がどうなっているのかというのはとても大切です。

暮らしフルネスを実践していますが、これはメンタルヘルスにも大いに役立ちます。そもそもむかしの先祖たちは病気を一番、気を付けていました。今では仕事を一番気にして病気になるという悪循環ですが本来は健康であることが一番であったのです。

健康でなければ喜びもしあわせもありません。常に健康で自他が喜び合う中に徳もあります。子どもたちのためにも、暮らしフルネスを伝道して子孫へと先人の生き方の知恵を伝承していきたいと思います。

私の伝統

私は色々なものを甦生していますがその一つの伝統というものがあります。そもそも伝統というものの定義は曖昧なものだと最近は感じています。最初からすべてのことはほとんど伝統ともいえます。誰が農業をはじめたのか、誰が林業をはじめたのか、創業100年とか500年とかいいますが、実際には農業はもう人類がはじまったくらいからありますから数万年あるいはもっと長く続いている伝統です。

10年でも伝統といえば、1000年でも伝統という。しかしその伝統とは、結局は続いているということを言っているように思います。むかし、誰かが発明したものが今でも採用され続けてどこかで使われているということです。

そしてそこにまた逆説があることがわかります。誰も採用しないものは伝統ではないとかということです。採用されないものを伝統だからと遺そうとするのは無理があるように思います。文化財の保存なども、私の場合はすぐに活用しようとしますがその活用を否定する人もいます。しかし活用を否定して伝統を守るというのは不可能ではないかと私は思うのです。一時的に、誰も採用しないので保存しておこうとするのはわかります。しかし実際には、活用しようとすると法律や日本独特の空気感で新しいことをするなと言わんばかりの声もでます。

本来、伝統とはその都度、新しく磨き上げていくものです。なぜなら、採用し続ける状態、活用し続ける状態を維持していかなければならないからです。

私も古民家を扱えば、色々な専門家からあれは間違い、これはわかっていないだのご指摘いただくことがあります。もちろん、それは学び、深め、理由を理解しますがそのうえで自分の好きなように改善します。なぜならそれが活用だからです。他にも、宿坊を甦生するとどうしても世間から見れば宗教染みたことをやってしまっていたりします。別に特定の宗教や宗派、ルールなど周囲を気にしていたら何もしない方がいいということになってしまいます。何もしなかったら活用できませんから維持存続することもできません。そうなれば伝統はそこで終わってしまいます。

私が考える伝統は、活用ありきなのです。活用するというのは、ちゃんと自分のものにしてそれを新しくし、使い続ける創意工夫をしていくということです。その時、それまでとは形が変わってしまうかもしれません。もちろん先人の知恵や技術、そして思想や真心などは当然尊重して尊敬していますがどう使うかはその時々の人たちの全身全霊ですから同じことはできません。

同じことなどは存在しないのですが、同じことを形だけ続けることよりも先人たちと同じようにその時代を真摯に生きてその真心と丹精を込めた生き方を実践していくことで人事を盡すことしかできないと私は感じます。

そもそも伝統とは革新のことです。つまり伝統=革新なのです。だからこそ、私の取り組んでいる仕組みは、これからの伝統を創造しようとする人たちの仕組みの参考になるのでしょう。

子どもたちや子孫を第一優先して取り組むからこそ、私は色々と批判や非難をされても、ご迷惑を多少おかけして人間関係でも少し距離を置かせていただいていてもこれは自分の使命だと思い取り組んでいます。

先人たちが譲り遺してくださった未来を、そのままにさらに新たにしてもっと先の未来のために創造を挑戦していきたいと思います。

変化を味わう

人は自分の人生の経験をどう深く味わうかによってはじめてその意味を感じ取るように思います。あれこれと脳で考えて、良し悪しを裁くことがあっても本当のところはどう感じてどう味わったかはその人にしかわからないものです。

100人には100通りの人生があり、また同時に100通りの味わい方があります。それぞれに与られた自分の人生を、どう味わいどう感じるかはその人の主体性が必要です。よく自分軸という言い方もしますが、自分の人生をどう味わうか、その責任は自分で持つということでしょう。

誰かを比べて、羨ましがったり妬んだりしますがそれも味わうことを疎かにしていることだったりもします。自分がこの世に生まれてきて何を体験したいと思っているのか。喜怒哀楽そして苦労も多いですが、どれも必要なことが起きているともいえます。

そう考えてみれば、必要なことをすべて味わい盡していくためには素直さや謙虚さ、そして丸ごと含有できる寛容さや感謝があります。感謝というのは、思えば当たり前ではないことに気づくことのように思います。

少しでも体調を崩せば、当たり前だった健康が懐かしくなる。急に一人になれば、家族や仲間がいたことが有難いと思うようになる。これは雨が降らなければ雨が恋しくなり、降り続ければ洪水や土砂崩れなどの心配がくる。

人間の心や感情というものは、その時々の変化であちらこちらに移動していきます。しかしよく考えてみたら、心や感情が動くからこそはじめて味わい深いものに気づくともいえます。何も変化がなければ味わうことが難しいのです。

変化があるから味わうことができ、その変化に対してどう味わったかというのが私たちのもともと持っている感覚なのでしょう。すでにあるものに気付けるか、もともとあるものをもう一度思い出せるか。まるで記憶にアクセスするかのように、変化を体験し、その時の懐かしい味わいを思い出します。

人生は一期一会、その時、その場所、その人、そのご縁は一回きりで同じことは二度とありません。日々の変化を深く味わい、変化と共に唯一無二の今を味わっていきたいと思います。

徳の宝

明日の守静坊の夏至祭の準備で宿坊を調えています。もともとこの宿坊の伝承では、夏至に太陽の光を鏡に受けるという行事があったといわれています。今は、もう文献も残っていませんがそれを甦生させてみようと試みています。

本来、神事というものは形式が問題ではなくその本質が何だったかを学び直すことのように思います。繰り返し伝承されるものは、形式が問題ではなくその伝承したものの本体をどう承ることができたかということによります。伝える方がいなくなったのなら、伝える側が使ってきた道具たちやものたちに物語を謙虚に教えてもらいそれをなぞりかたどるなかでその真心を直感していくものです。

私が甦生をするときは、まずよく「聴く」ことからはじめます。この聴くは単なる思い込みを外すだけではなく、そのものがどうしたいのか、何のためにあるのか、もともとはどうだったのかと深く丁寧に時間をかけて取り組んでいきます。そうしていると、早ければ数日、遅くても数年から十数年で次第にその本質にたどり着くまでの情報やご縁があちこちから集まってきます。

そのためには、そのものへの敬意や畏敬の心が必要です。何かを学ぶというのは、それだけそのものから学ばせてもらうための心の姿勢が大切になります。わかるとかわからないとかという心情ではなく、真心に対して真摯に応えるという真剣さが必要になります。それは深く礼を盡して、純粋で素直、そして謙虚であるかという心の基本が立っているかどうかによります。

自然から学ぶ、自然から聴くというのもまた同様です。

今回の夏至祭もまた、どのようなものであったのか。それを今、辿っていますが太陽の徳を感じています。太陽は、広大無辺に私たちいのちがあるものを遍くすべてに徳を与え続けます。その姿は見返りのないあるがままのものです。

そして夏至は、その太陽の光がもっとも長く、高く、広く、私たちの今いる場所を照らしてくれています。植物たちや木々を英彦山の山中でよく観察していたらこの太陽に徳に報いようと一生懸命に成長しているのを感じます。成長するというのは、この果てしなく広大な太陽の恩徳をいただいているからだと気づきます。

一年に一度、私たちは徳の存在に気づくことがこのお祭りの本質であり、そしてその徳を一年、そして一生忘れないで暮らしていこうとする意識こそ太陽を拝む生き方なのかもしれません。カラスもまた、太陽の使いや太陽に住む鳥ともいわれます。英彦山には烏尾観音や烏天狗の伝承もあります。太陽と深く結ばれ、太陽に祈る文化があったように私は思います。

当たり前に気付ける感性、もともとある存在をいつも感じる感性は、徳を磨く中にこそあります。今の時代は変人だと思われるかもしれませんが、太古のむかしからつながっている物語を今の時代も変わらずに実践し、子孫たちへ徳の宝を結んでいきたいと思います。

保存食の知恵

燻製の歴史を考えてみると、どこからどう誕生したのかを想像してみます。歴史をたどれば、今から13000年前くらいの石器時代にその原型があるともいわれます。それから古代ローマに入り、ゲルマン人が塩を使い保存し、その後はスパイスが混じり今のような燻製の形になっているともいわれます。

随分長くこの燻製という調理法は大切に伝承されてきました。煙を嫌う生き物たち、煙が如何に防虫防カビ、除菌などにすぐれているかに気づいた先人たちの知恵の御蔭で今私たちはこの調理法をもっています。

他には発酵や乾燥、冷凍、焼く、水で洗う、干すなどもすべて常温保存のための知恵です。特に水が多い日本では、水を上手に活かして保存していきました。どんぐりなどのアクの強いものも水にさらすことで食べれるようにし冬の間の保存食にしました。干し野菜や焼き米なども同様です。

つまりは、今のように冷蔵庫や保存料、防腐剤などがなかった時代、如何に栄養がありいのちが充実し飢餓や飢饉から身を守ろうかと生み出した知恵でもあります。特に燻製は、動物性の肉を保存するには最適でした。普通にしていたら腐ります。それが燻製になると腐りにくくなります。そこには熟成という知恵が働きます。

この熟成は肉の中に酵素という物質があり、それが肉のタンパク質を分解し旨み成分であるアミノ酸に変わる工程のことをいいます。酵素がタンパク質を分解するには日数が必要です、その間、腐敗に傾かないように塩漬けにしておきます。この塩漬けは、水分を脱水し味をよくするためです。水分が残ると腐敗がつよくなりますから、そこに塩を入れて腐敗の微生物たちをおとなしくさせておくうちに熟成するのです。

なぜ人は熟成するものを美味しいと感じるかというと、化学的にはタンパク質がアミノ酸やペプチドに変化し増量するからだといわれます。人間の舌はこのアミノ酸を旨味として捉えておいしいと感じるからだといわれます。また人間の体はのたんぱく質は、そのままでは吸収されずペプチド・アミノ酸に分解され吸収されますが熟成肉はすでにアミノ酸になっているのでそのまま栄養が吸収されるそうです。

肉は腐る前が一番うまいという言葉もあります。この熟成の技術は、食べるものをよく観察することで得られるように思います。むかしの人たちは、どこまで食べれるか、いつまで食べれるか、そしてどうすれば長持ちするかとその3つを真摯に研究してきたように思います。

今のような飽食の時代、ありあまり食料を捨てている時代にはわからなくなっているでしょうが本来は食べるという営みの源流はこの保存食の知恵にこそあります。

子どもたちに保存食の意味を伝承していきたいと思います。

土と共に歩む 士魂を磨く

いのちというのは、どこから来るのか。それは私は土から感じます。土から新しいいのちは芽生え、そして土に還ります。土は私たちのいのちを支えている存在です。この土とは何かということです。

私たちの住む地球は、天地によって存在します。天は、空であり宇宙です。そして地は土のことです。土がある御蔭で私たちは食べ物を循環させることができ、水を貯蔵することもできています。

植物などは、土からいのちをもらい一生を廻り子孫をつくり循環しています。その植物を食べて私たちも循環しますが、よく観察するとそれは土が巡っているということです。つまりは、土こそ私たちの正体でありその土が豊かであればあるほどに私たちは安心して暮らしていくことができます。

土は、生死のめぐりが豊かであるところほど豊かです。様々な生き物たちが住んでいる、そして共生して生死を無限に繰り返すなかでますます土は発酵していきます。もともとこの発酵というものは、いのちが活かされ、いのちが好循環をするなかで行われていくものです。

自然界では、すべてのいのちが輝き活き活きすることで喜びあえます。土はその喜びを貯蔵したものであり、土があるから新たな喜びが生まれ続けます。農というのは、本来は自然の摂理に生きることです。

農薬を撒いたり、工業化したり、化学肥料を使ったりすることが本当の農ではありません。農的暮らしをするというのは、土と寄り添い、土に生き、土と共に歩んでいくといういのちの道に生きるということです。

私は有難いことに、農的な暮らしを実現されておられた人物との邂逅によってそれを深く学ぶことができました。その方の足跡を私は追いかけ、そしてその足跡の先を往きます。

土とともに、ますます士魂を発酵させてこれからさらに一歩進めます。

ありがとうございます。

天命を歩む

天命というものがあります。天命を感じるのはどういうときか。それは誰かの評価や価値観などを気にせずに、与えられた場所で自分の本当に好きなことに出会いその喜びを深く味わっているときに感じられるように思います。理由などなく、すべてをお任せして委ねている喜び。そして心がいっぱいにその今に充たされていきます。

なぜその光景が観たかったのか、なぜその景色に出会えると確信していたのか、あとになって考えてみると「そうしたかった」だけです。理由などは後付けですし、困難や不安や恐怖などは感じていてもどこ吹く風のように流れていくだけ。やっている最中には、ただ偉大な存在と一緒一体なっているという感覚。周囲の嫉妬や批判、差別やプレッシャーもそんな時に当てられてしまいますが、純度の極みのようなその状態に誰も止めることはできません。

そもそもさらによく考えてみると、子どもというのは本来はそういう存在ではないかと思います。子ども心に純粋にやりたいと思ったことを、そのまま思いきりやらせてあげること。それは天の命に素直であることです。そのやりたいことは、完璧にはできなくても今の時代ならこういうやり方があると環境を調えたり、周囲のことを考えて喜びになるのならこうやったらいいと仕組みを整えたりと、色々と大人は工夫するのです。

やってはいけないとそれぞれの天命を尊重しなくなったのなら、人間はその瞬間に仕合せを感じられず人間らしさを失っていくように思います。ある意味で、先人たちの声や子孫たちへと遺してくださった生きざまや言葉もまた天命を生きることの大切さを忘れないようにと伝承してきたものです。

子孫たちはその姿から未来を安心し、魂を発揮させて一度きりの地球の楽園での生を全うしたのでしょう。天命に生きる人はそれだけ仕合せですが、同時に周囲にも本来の仕合せを甦生していきます。

私は私の天命を歩んでいきたいと思います。

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