いのちの甦生

私たちの身体は、いのちをいただくことでいのちを活かします。この世のすべての存在はいのちを移し替えることによって存在しているともいえます。あらゆるいのちを転換して移動しているともいえます。これが循環の本質でありいのちの姿です。

そのいのちの移動で大切なことは、いのちを壊さないように丁寧に移し替えることです。例えば、いのちを壊すというのは心を籠めない、丁寧に扱わない、粗末にする、差別をするなどという時に行われます。その逆に、尊敬をし、真心で接し、大切に扱い、感謝すればいのちは甦生します。

いのちというものは、関係性の中、つながりやご縁の中にこそ生きているもので私たちはその「いのち」をいただき暮らしを営むものです。

一番悲しいことは、単なるいのちのない物として扱われることです。いのちがあるものを、いのちがないように扱われることで循環が止まります。いのちの循環が止まるというのは、つながりが断絶するということです。自然が失われるということでもあります。

私たちはそもそも自然という有機的なつながりの中に存在します。この宇宙もまた、いのちと捉えたらすべてはつながって存在していることに気づきます。その中の一つに私たちがあります。

死は死ではなく、新たないのちになっていくという感覚もまた同じようにいのちを大切にする生き方を通して感じられるものです。いのちは水の流れのようにありとあらゆる物質を透過し、通過することですべてのいのちをつなぎます。

私たちは水がなければ生きていけないのは、いのちの循環ができないから死ぬのです。肉体的な死だけではなく、私たちは空気中の水分、あるいは食べ物を通しての水分などいのちを吸収しいのちを転換して元氣を保っているともいえます。

現代は、いのちをあまり感じない生活が増えてきました。これは自然の循環をとめてしまうような環境が増えたともいえます。本当の環境問題とは何か、それは温暖化でもなければゴミ問題でもありません。これはいのちの問題のことです。

いのちを直視して、いのちを大切にする暮らしが私の実践する暮らしフルネスですが、いのちの甦生を通して自然の循環も甦生させていく必要性を感じています。知識ではなく、知恵としてこれを実践してこそ意味があります。知ることとわかることは異なります。知っても知っただけであれば、何も変わりません。

わかることは、知恵の中に生きているいのちがつながっている証拠です。子どもたちにも知恵が伝承していけるように丁寧にいのちことを実践していきたいと思います。

いのちの養生

昨日は、堀池高菜の漬け直しを行いました。春先に漬け込んだものをこの時期に漬け直せば来春までまた漬かります。長いものでは9年目に入ったものがあり、3年目や今年のものもあります。長い時間をかけて漬け続けるにはコツがあります。

私はもともとこの堀池高菜は、供養のために続けています。採算度外視で儲けるためにやっているわけではありまんから唯一無二のものです。

例えば、30年以上農薬も肥料の入れない畑で自然農で行いこの地域にしかない伝統固定種の種のみでつくります。樽は吉野杉で塩も平窯天日塩、また天然秋ウコン、蓋は楮の和紙で閉じています。そして発酵場は林の日陰の風通しの良い場所で備長炭と共に寝かせ続けます。

こんな環境の中で育っていますから菌もイキイキしています。はじめて3年目くらいまでは腐敗することがありましたが今ではほとんどそれもありません。手塩にかけて塩梅をみながら丁寧に関わっていく。ずっと生きているものとして関わりますから大切に一緒に育っている家族のようなものです。

現代は、大量生産、大量消費で儲かるためにあらゆる作業を省いて効率優先、合理化優先していきます。すべては売り物、そして買い物にするために加工するのです。

私は加工することは儲かるためだとは思っていません。加工するのは、大切に扱うためのプロセスだと思っているのです。私が手掛けるこの堀池高菜は生産、加工という名の家族と共に暮らす豊かで仕合せな営みなのです。

その営みのなかで出来上がったものだからこそ、舌先三寸では味わえない深い滋味があります。その滋味を感じていただける人たちからは、本当に喜ばれ、運がよくなりそうだと感動されます。

この場所、この土地ならではの風味は風土がつくります。

そしてその風土で育ち、風味をわかる人だからこそ滋味が出せるのです。身土不二という言葉もあります。これは『体と土とは一つである』という意味です。私たちは土を食べる化け物ですからその土地の味はその土の味でもあります。

今では遠くの食べ物をどこでも便利に食べれるようになりました。しかし本来、食事というのは食養であり大切ないのちの養生の根源です。

だからこそこの土地に来て、この土地で自然に食べてもらうことこそがその土地のいのちを味わうことになります。

私がやっていることは、今の資本主義社会でやっている儲けるための食事とは異なるものになります。だからこそ儲からないし売れないし売らないのでは誤解され、道楽や趣味のようにいわれます。しかし本来、伝統文化や伝承というものはそのためにやっているのではなく、先祖代々、豊かに暮らし仕合せにいきる知恵を自分も同様に生きているということを守っているだけです。

子どもたちや次世代、子孫へ知恵が伝わり同じような仕合せが繰り返されるように今の時代の価値観に流されずに本質を保ち喜びを楽しむのです。これからますます遣り甲斐も生き甲斐も増えていきますから大切にいのちを養生していきたいと思います。

 

戦争の時代

ロシアとウクライナの戦争がさらに進行しています。世界を巻き込んだ戦争、第3次世界大戦はすでにはじまっています。もともと第一次、第二次世界大戦のときもやっている最中はそういう意識ではなく終わってみてあれは世界大戦だったとなっていたのです。

どの国が先に本気で火ぶたを切るのか、これはもはやロシアであることは間違いないことです。もう随分長い間、平和が続き私たちも戦争の記憶がなくなった人たちばかりです。まさか自分が戦争に巻き込まれるはずはないと考えるものですが、実際にはみんなそのまさかで巻き込まれます。

自分だけはみんな巻き込まれないはずと安全バイアスが働きますが実際には全体を巻き込んでいますから他人事ではありません。

昨日もニュースで、ロシアで召集令状が出され一日にして大勢の人たちが戦地に輸送されていきました。家族、恋人や妻子と別れていく様子は映像をみていて心が酷く傷みました。行きたくない戦争、政治的に行われた戦争に強制的に参加させる。参加しなければ刑務所で刑期10年といいます。この刑期も果たしてどのような刑期なのか、無理やり理由をつけては戦地に送り出されることも予想できます。すでに、10万人ほどのロシアの兵隊も死者がでていて戦況は悪くなるばかり。それでも諦めずに兵隊を送り続けてあとどれくらいの人が死ねば戦争をやめようとするのか。為政者によって戦争が行われるというのは歴史の事実であり時代が変わっても何も変わりません。

戦争の歴史を深めると、その理由はほとんどが為政者の都合です。皇帝といわれるような独裁者が権力を握りしめ独断で行うもの、あるいは内部が腐った組織、その民衆の依存した既得権益者たちの操り人形のような組織、他には集団的無責任で保身だけにひたすら走る組織、キリがありませんが発端は思考停止になっているところからはじまります。もっとシンプルにいえば「まともではない」状態に意識が入っているのです。

戦争をしている当事者、もしくは巻き込まれた人たちは保身がちらつきますから身の危険を感じてまともではなくなります。安心安全なところにいる人からすれば、そんなことはないだろうと思いますがまともではない人たちになっているのだからそんな理屈は通じません。気が付いたら巻き込まれているのです。

召集令状一つにしても、明治頃は市役所が赤紙といってそれを自宅にもって「おめでとうございます」とあいさつに来ます。それを受けて逃げれば家族全員が非国民として差別され、受けたら家に旗をたてて英雄と称えられます。もはやこれだけでもまともではありませんが、戦争とはそういうことです。ロシアでは、選択肢は戦争で罪のない人を殺すか、あるいは刑務所に入るか、もしくは海外逃亡しかありません。他にはいつも時代も同じですが、政治力や資金力、コネや賄賂などを渡して戦争でも死なないような職種や配属をさせたり、兵役を逃れられるように話をつける人たちが逃げられることです。実際に政治の中枢にいる家族や子どもは守られるという構図です。

人間はいつの時代も似たようなことを繰り返します。権力や権威は何のためにあるのか、本来は人々の生活を守るためにあるものが権力闘争や利権に巻き込まれ結果、大勢の人が悲惨な戦争に巻き込まれます。

そうならないように本来は、教育があり人間学があり道徳を習慣にする文化があったはずです。今思い返せば、世界経済が破綻寸前まで紙幣を発行し、感染症で人々のつながりが分断され、自然災害が追い打ちをかけ、大国間の戦争が発生する。もはや歴史通りであり、シナリオそのままです。

この先、どう生きるのか。

失敗から何も学ばない人間だとしても、失敗を未然に防ぐためにできることはあるはずです。それは現代のように情報で世界がすぐにつながるのだから、一人一人の意識と行動が変革を促すはずです。

私がDAOや徳循環、ブロックチェーンのテクノジーに可能性を見出すのもその部分です。気づいていないのだから、気づいた人が草莽崛起することしか今はありません。

残りの後半の人生、今まで学んだことを活かし、やるべきこと、使命を果たしていきたいと思います。

言葉の意味

言葉というものには不思議な力があります。この言葉は何かの鍵のように別の世界の扉を開いてくれたりするものです。例えば、ある悩みがあったり思い込んだりしてものを力のある言葉によって開放されたりするからです。

私もよく人間万事塞翁が馬という言葉や、禍転じて福にするという言葉を使いそれまでの自分の発想から抜け出すことがあります。最近、滝行を通して真言を学び直していますが真言にも似たような感覚があります。

むかしの人たちは、この言葉の持つ別の側面の力をよく理解していたように思います。何度も何度も繰り返し同じ言葉を発し続けることで自分の中にある囚われや思い込み、執着を乗り越えていくことができます。

ある意味、人間は思い込みの生き物でこの思い込みによって世界を想像しています。集団の思い込みが強いほどに国家や世界が形成されていきます。人々がどのような心で生きていくか、その心をこの世界に反映させていくかで世界もまた変わっていきます。

人間は根本的なところで、あらゆる欲を持っています。社会を形成する中で、自我がありますからそれをうまく調和させ世界に天命をもって活かしあう仕合せな世の中にしていきたいと何度も挑戦を続けてきました。

その都度、どうにもならない自分の中の心を磨きととのえていくために修行や養生を行いました。自然の持つあらゆる力をうまく取り入れ、心を澄まし人格を高めていきました。そういう先人のモデルをみては、自分もそうありたいと道が続いてきたともいえます。

不思議なことですが、日本は自分たちの自然観のなかにあらゆる教えをうまく取り入れていきます。真言も同様に、古代語であるインド、アジアの洗練された言語を今でも使いいのりを唱えています。疑問にも思わずに誰しもが般若心経をはじめ漢文や古代語を使いますがそれはそのまま他の国々でも広がり使っているのです。

言葉は特に人生の経験を深め、意識も磨かれていくと言葉の意味も変わってきます。そして使っている言葉の重みや価値も変化していきます。何度も同じ言葉を使っていても、体験して得た質や数によって力も変わっていくのです。

言葉を大切にしていくというのは、言葉の持つその意味を大切にしていくということでもあります。

何歳になっても体験を重ねても、言葉を学び続けてその言葉の持つ真の意味を高めていきたいと思います。

お手入れと対話

昨日は、秋晴れの気持ちいい天気のなか畑のお手入れを行いました。土に直接触ることで、土の状態はよくわかります。美しい畑に憧れてから、食べるだけでなく畑に入ることで心身がととのっていきます。私たちは自然に触れて自然から学ぶことで地球と対話していくことができます。

この地球との対話というのは、あらゆる五感の感覚を使うことですが私は暮らしフルネスを実践していますから手の感覚をとても大切にします。この手は、手触りというものです。手で触れるというのは、私たちが原始時代からずっと大切にしてきた感覚です。

もちろん耳も眼も鼻もありますが、手は対話につながります。最初に握手をするという文化もまた、手触りで心を伝え合う仕組みを用いています。最近は、量子力学で眼もまたお見合いするなかで触れ合うことができるともいわれます。花を見て心が触るように目でもいのちの存在に気づきます。しかしやはり、お手入れすることが私は人間に与えられた大きな力であるように思うのです。

自分の手を使って何に用いるか。

ある人はいのちを守り、ある人はいのちを奪います。それも全部手で行います。手作業というものは、温かみがあると今ではよく言われます。その反対が、機械で手が入っていない冷たいものとも。手を入れるというのは、人間の心が手から通して物質に宿るという仕組みがあるように思います。

便利になって、頭で考えたことがそのままデータとして転送されたり指示されたりする近未来も予測できます。そうやって手を使うことをやめていくのが便利さというものです。しかし大事なことを失います。それは自然や地球からまた遠ざかっていくということです。

人類は不思議ですが、心の本体やいのちの正体である自然やいのち、地球からすぐに離れていこうとします。征服したり縛られたくないと抗ったり、まるで地球から逃れたがっているかのようです。そうやって逃れてみると、やっぱり地球が一番よかったとかなるのでまた可笑しなことをします。

手を使い地球と触れなくなることで私たちは何か大切な感覚を失っていきます。だからこそ私はお手入れの大切さを話し実践をします。掃除も、磨くことも、拭いて綺麗に整えることも手を使うためです。

手を使うことで私たちは自分の心との対話もできます。手は心が直に触れるものであり、自然と対話するための大切な命綱のようなものです。

子どもたちも手で色々なものに触れて心を育てます。どのような存在に触れるのか、できるだけ地球と対話できるような本物を、いつまでも生き続けているいのちのぬくもりを伝承していきたいと思います。

人類のリーダー

世界中で自然災害の猛威が広がっています。自然災害はそれまで人間が当たり前に生活していたことを一瞬にして破壊していきます。洪水、津波、地震、熱波に寒波、ついには隕石などあればどうしようもありません。

人類は目の前に明らかに危険が迫ったときでないと動かないということがインプットされています。時間をかけてゆっくりじっくりということにはあまり危機感がなく、突然来たことに対して対処するようになっています。これは昆虫も似ていて、急に現れると逃げれますがゆっくりやってくると逃げれないのです。

この辺はもう経験と直観で対応するしかないように思います。そういうとき、リーダーといった危機感が強く、大事な局面で大きな災害を予見し集団を救うという存在が出てきます。

本来、政治というものはそういう未来を見据えて危機意識の高い存在が人々の信頼を得て未来へ導いたのでしょう。最近は、政治と金というように既得権益を守るために存在しているようになり文明衰退期の様相です。しかし文明の問題と、この自然災害は関係はありません。むしろ自然災害が発生すればそれまでの文明の構造もパワーバランスもあっという間に崩れていきます。自然災害のリスクの方が、圧倒的にリスクになるのは間違いないことです。

だからこそ人類は本来は、リーダーをどのように選択するかは自然災害に対応できる歴史に精通し、人類の機微をよく理解し、環境に配慮でき、自然と共生する智慧に長けている存在を選んだ方が生き残る確率が高くなるのです。

インディアンの長老や、自然の道理に精通している経験豊富な知恵者などをリーダーにした方が生き残れると思うのです。今の時代は、経験者よりも知識者の方を重宝しそういう人がリーダーになります。しかし実際に事が起きる前、また事が起きたときにその知識では経験を補うことができません。いくらみんなで事実を知っても、知ることと知恵を持つことは全く別物だからです。

知恵を持つためには、知恵を持つための経験が必要になります。経験があるから知恵は維持されていくからです。その知恵を実践しているというのは、危機に備えていくということと同義です。先人たちはなぜ知恵を伝承してきたか、それは体験から得たものを忘れないようにしてくれてきたからです。

子孫として今のような時代、何が本来の人類の進む道かを見極め、子どもたちに生き乗るための知恵を伝承していきたいと思います。

天災ではなく天福

自然の猛威が増しています。台風14号が上陸しましたが、遠くにあっても暴風で激しく家が揺れてあちこち軋む音が聞こえて眠れませんでした。

天災は忘れた頃にやってくるという格言があります。これは常に天災は人間の活動とは別に発生しているもので地震も台風等の自然災害が多い風土である日本では日常的です。

しかし人間の方は、そんなことよりも人間の欲を優先しお金を稼ぐことに意識を奪われ経済活動の方を最優先にしていくうちに自然災害が身近にあることすら忘れてしまうのです。これが本当の災害の正体であり、自然災害よりも人間の災害であることも歴史が証明しています。

まだむかしの方が、自然の身近に住んでいつ災害が来てもいい暮らしをしていましたから災害が来ることを常に意識して人間の災害を気を付けていたように思います。建物も住む場所も、そして常備食も保存食も災害に備えているような生活です。慎ましいけれど、災害に備えて暮らしをととのえていたのです。

それが文明の便利さに酔い、栄耀栄華に浸るうちに自然を征服できると思い込みあっという間に自然の畏敬を忘れていきます。これが人間の中にある性質というものなのでしょう。人間という特性の中にこの災害が組み込まれているということです。

人間の災害といえば、思いつくだけでも身近に様々にあります。

例えば、すぐに誰かのせいにすることだったり、自分の問題として考えなくなったり、目先の事象ばかりに囚われて目的を見失ったり、長いつながりやご恩や感謝を忘れたり、目には見えないものを存外に扱ったり、比較競争、嫉妬、差別やいじめ保身などもあります。

こういうものが本当の災害であり、それが増せば増すほどに自然災害の猛威は増していきます。人間が自然であること、謙虚であることを忘れたとき、本当の災害がやってくるということです。

自然災害は正しく恐れているのなら、避けようとすれば避けられるものです。自然の動物や昆虫、そして植物たちも日ごろから自然と共生して暮らしていますから自然災害は日常の一コマにすぎません。人間のように忘れるということはほとんどないのです。

何をしていたから人間が忘れるというのか。それをよく見つめなければ人間はこの先も自然災害の猛威に晒されます。謙虚さを失う時、私たちは自然に人間の持つ性質を思い知らされるのです。

本来、建ててはならないところに自然を征服できたような建物を立てて、住んではならないところに住んでいます。そして食べてはならないものを食べ、取り過ぎてはならないものをすべて取りつくします。歴史を省みることをやめてただ目先の欲望に流されています。そうして忘れるのです。

天災とは本当は何か、これは天の災いではなく天の恵みであり天の教えで天福であるかもしれません。むかしの人は、天に背いていないかを確認するために伝統文化を見つめてきました。今一度、子どもたちにも天災を忘れた日常や環境を与えるのではなく、人間の性質を自覚して自らを磨くような暮らしを学ぶ場を与えたいと切に思います。

子どもたちが天福をいつも感じられるように、生き方を見つめて見直していきたいと思います。

人間というもの

人間は長い時間をかけて様々なことを体験してきました。少し前でも時代が今とは異なり、流れている時間も環境も違います。もっと以前、太古の時代にとなるとさらにすべてが異なります。時代時代に、環境や状況、便利さや時間などもすべて変化しますからその時代にしか体験できないことをしているともいえます。

今では、車も飛行機もインターネットもありますがむかしは動物に乗り、自然界の道具で合図を送り合っていました。人間の住んでいる地域も狭く小さく、一生をその環境の周囲で過ごしていたものもあります。大きく変化したのは、人間の移動範囲が広がり、繋がりも拡大したことでしょう。宇宙にも地球から色々なものを飛ばせるようになっていますから活動範囲を広げていくのはこの先も続くのでしょう。

しかし一つだけ変わらないことがあります。それは人の営みです。暮らしの中で様々な体験をして喜怒哀楽を味わう。そして人生という一つの体験を初めて終えていく。肉体を持ち、最後に死が訪れるまでの物語は誰にも等しく訪れますしこれは変わってはいません。

例えば、今のように台風を予測して災害対策をして不安で待っているとします。これが同じように台風を予測し災害対策ができるテクノロジーが古代もあったとしても人間の心境は変わっていません。家族を心配し、自然の畏敬を思い、生きていられることへの感謝を味わう。何百年も何千年も、どの時代も同じように同じ体験を続けてきました。

つまりはここからひも解けるのは、似たような体験を通して私たちは学び、体験を通して知恵を得てはそれを忘れないようにまた同じ体験を続けていくのです。テクノロジーによって乗り越えられたように見えても、実際には人の心は変わっていません。そして当然、幸福も喜びも仕合せも変わっていません。悲しみもまた苦しみも変わらないのです。それが時代という形を換えては、感じ方が変化しているだけともいえます。

だからこそ人間は、時代時代に原点回帰して本来の目的を思い出すことで協力し合って生き延びていく必要があります。どうお金を得ようかや有名になろうかではなく、どう生き残るかということを学び続けることがいるのです。

当たり前に生きられるようになった気がする今の時代だからこそ、どう生き延びるのかということを世界は協力して取り組んでいく必要があります。それは同時に、どういう生き方にしていくのかという目的に取り組んでいくということです。

環境や時代に流されず、人間としての本質をよく見つめ直すことがこの先の時代を生き延びる知恵になります。

子どもたち、子孫のために徳の循環する経済を甦生させ私の役割を全うしたいと思います。

経営と実践

会社を経営していると、経営者とはこうあるべきという話をあちこちから聞くことがあります。それぞれに経営論はありますが、その一つがプレイヤーかマネージャーかというものがあります。管理するのが経営だから、実際に実行させるのは部下にさせればいいというものです。

私はむかしからいつまでも現場で実行する方が多かったのでこの辺はあらゆる人たちから経営者として他人にやらせた方がいいといわてきました。何でも自分でやるから育たないとか、自分がやるから全体がおろそかになるなどです。

しかし私はもともと初心というものを定め、理念を実践するということを優先した経営を志していますから実践というものをしないことの方が経営効率がいいかどうかよりも問題で決めたことを自分でやらなければ意味がないから実践にこだわっています。

こんなことをやって意味があるのかといわれても、他に大事なことがあるのではないかといわれても他に大事なものもあるけれど実践することがもっとも大事なことだと取り組んできたのです。その結果として、今があります。

例えば、いのりというものがあります。他人にいのってもらっていたらいいというものではありません。いのりは自分で実践してはじめていのりになります。他にも、日々の片づけや掃除、お手入れなども自分でやっていることに意味があります。もちろん、一人ではできないことや日々の仕事があるときなどはどうしても協力者のお手伝いが必要ですがそれもまた実践ですからみんなで一緒に実践して取り組むことに意味があります。

そもそもこの実践というものは、修行でもあり修養でもあり、志を実行するという行為です。それをせずに経営をするというのは、そもそもその志は何だったのかということが疑問になります。

志があるから、道を歩みます。その道を歩むというのは、自分で実践するということに他なりません。自分で実践することなしに道を自分で歩んでいるわけではありません。今は何でもお金で買えます、そして経営者ほどすぐにお金を買おうとします。お金で買って運んでもらおうとしますが、そんな便利な方法で果たして道が実践できるのかということです。

道の実践は、自分で歩んでこそです。

そのためにも、手間暇をかけ、丹精を籠め、面倒だと思うことでも自ら率先して取り組み、時間がかかっても、苦労をしても、自分で決めた志に忠実に誠実に取り組んでいくことが大切なことのように思います。

経営もまた実践の一つですから、自分で決めた道を丁寧に歩み取り組んでいきたいと思います。

道を歩むということ

今日は、早朝から私の尊敬する禅僧とともに座禅をご一緒するご縁がありました。静かに言葉を交わさずに坐し、只今の心になっていく。そして感謝と共に先人やご先祖さまたちへの御供養と御礼をし参拝する。自然に心は落ち着き、穏やかな風に包まれます。

日々の暮らしをととのえていくはじまりの朝に、静かな時間が持てるということはとても仕合せなことです。私が綴っているブログも、書き出す前に前日にあった出来事を振り返り、内省し、それは一体何だったのかということを学びます。

これは自学自悟です。

本来、学問というのはすべては志があって道が始まります。つまり何のためにやるのかということを忘れずに、日々に取り組んでいくからこそ道の中にいるということです。人は道から外れることは簡単で、あらゆる寄り道をしながら自分にしか与えられていない道を闊歩していきます。

一生は一度しかありませんが、人はみんなこの初志という目的、何のためにやっているのかということを忘れます。時代に流されて迎合していくうちに、純粋な自分の最初の志を失っていくのです。それを忘れていない人は、非常に純度の高い想いで生きていきます。

そしてそういう人の周りには、いつも陰ひなたから支えてくれたり応援してくださる人たちが出てきます。その人たちもまた、その初志を貫徹してほしいと願い、同時に自分自身もそれを実現したいと祈り闊歩していくのです。

道は無窮です。

そしてこの道をもっとも顕すものは自然です。自然とかいて、かむながらと読むという言葉があります。道はこの今も、この先もずっと続くものです。終わりもなければ始まりもない、ずっと道があるだけです。この道は、私が途中でいなくなっても続きますしまた次の人がその道を歩みます。唯、生きるだけの道です。しかしその道は、決して一人ではなく同行二人です。つまり心が常に共にあります。

この先にどのようなことがあるか、それはわかりませんがこの道を歩んでいくことを決めた初心が共にあるからこそいつまでも道を歩むことが豊かになります。

何のためにやるのか、それを常に思い出しては磨き直す。そのような生き方をこの先も続けていきたいと思います。