心おもてなし

この時期はいつも御先祖様をお迎えするためにお墓のお手入れや古民家の掃除や室礼を行っています。先祖を辿ることがあってからご先祖様が増えてお参りするところやお手入れするところも増えていますから結構長い時間をかけて取り組んでいます。

本来は、場所も数も増えて大変だと思われますが実際に実践しているとご先祖様に供養させていただける豊かさや仕合せに包まれていきます。お盆のこの時期だけでこの有難さ勿体なさを感じますから本当はもっと事あるごとにみんなでこの時を味わい楽しむ時間が持てたら世の中はさらに徳が循環していくのではないかとも感じます。

私たちは御先祖様の供養の大切さなどを知識で最初に教わります。それは祖父母からか、あるいは学校からか、もしくはお寺などからです。しかし押し付けられた知識では逆に反発をして、失礼かもしれませんが正座してお坊さんの長い話を我慢したり、蚊の多い話の中での墓参りや猛暑厳しい中で厚着をしてじっとすることなど辛かった思い出が多く楽しいなどとは思いませんでした。

しかし手を合わせて線香の香りとおりんの音を聴いていたら心が落ち着く感覚は覚えていました。それが年を重ねていく中で懐かしいものや古いものと接する中で、磨いて甦生させたり、お手入れし寿命を伸ばしていくなかで、このご先祖様の存在に助けられ、守られているのかを感じられるようになってきました。

そして具体的に目には見えませんが、今の自分と共にある存在を直観していると心が満たされ幸福感が訪れてきます。この幸福感は、自分に流れている縦の時間、歴史の空間、記憶のご縁などを味わっていることで得られているものです。

私たちは目には見えないものを心で感じるとき、心が満たされる感覚を持ちます。そこは目に見えないプロセスや想いや願い、祈りからのあらゆるものが入っているのを感得できます。

これは料理などと似ていて、手間暇をかけて心を籠めて大切に素材を育て調理して器に盛り、最適なタイミングで自分の心を運び提供したものに人が感動するように心はそういう目には見えないものを味わうことができるのです。

今の時代は特に目の時代で、目ばかりを酷使し疑心暗鬼になりがちです。しかし、心を大切にして心が味わいたいと思っているものに自分を寄せていけば自ずからご先祖様の見守りにも感じられるようになるように思います。

このお盆の行事は、忙しい現代の心を和み休めるための大切な節目になります。ご先祖様の存在を感じながら、心おもてなししていきたいと思います。

子ども心と子ども時代

昨日、ある動画を観る機会がありました。それはオードリーヘップバーンの生涯の動画でした。子ども時代に戦争に巻き込まれ、その後は脚光を浴びるような人生を歩み、最後まで子ども心を失わずに子どもを守り続けた人生の動画です。

映画を見たことがありますが、子どものような大人の様子に一様にみんな感動するものです。子どもでもなく大人でもない、その中間のような存在はひときわ私たちの心を揺さぶります。

その中間を生きていたオードリーヘップバーンだったからこそ、生涯をかけて子どもに対して深い愛情をかけたように思います。子どもの定義が、単なる大人と子どもという比較ではなく自分の内面にある子どもであることを語ります。そしてこういう言葉を遺します。

「子どもを無視して 子ども時代を無視するのは 人生に背を向けるのと同じだ 子どもは自ら声を出すことはできない 私たちが代わりにしなければならない。」

自分の人生のなかでもっとも無視してはならないものこそ子どもであり、そしてその子どもの頃に生きた自分を受け容れることです。子どもを無視するというのは、自分の人生を半分やめてしまったことと同じです。その子どもは、日ごろは抑え込まれているからこそ誰も声が出せなくなってしまっている。だからこそ、子ども心を守る私たちが実践し仲間を助け出していくのだという意味だと私は解釈しています。

私がカグヤで子ども第一義の理念を掲げて今も子どもの志事に取り組むのもほぼ同じ理由です。子どもを第一義に取り組む、この時の子どもは子どもが子どもらしくいられる世の中にしていくためでもあります。そのためには、子どもを無視するようなことをするのではなく、子どもを尊重するような世界にしていくことです。

私たちは本来、自然に自分の人生を全うできるような仕合せで豊かな時代を生きていました。それが戦争や競争、差別や貧困によってそれが失われていきました。人間の持つ一つの本性ですが、自然と共生していく生き物たちは自然から学び自然から離れずにひとつのいのちを充実させて終えていきます。そのいのちは全うし、唯一無二の喜びと仕合せを生き切ります。子どもの頃に感じたことをどう癒し、どうゆるすかは大人の話ですが子どもに大人になることを急がせたり無理にそうさせることは不必要です。

平和にみえるこの時代も、子どもは大人の戦争に巻き込まれていきます。できる限り、子どもを守り、子どものためにできることをやることが真の平和を維持することでもあります。

真摯にこれからも自分の役割と全うしていきたいと思います。

本来の伝承

そのもののはじまりというものを深めていると、なぜ今、そうなっているのかのプロセスを辿ることができます。どのような変遷を経て今があるのか、そこには壮大な歴史と物語が溢れています。

私たちはそれに触れていますが、もう目には映りませんが心にはその情景が映ります。それは空間の中に存在し、その場所で確かに行われた記憶として遺るからです。それを甦生して現代にも伝承をつなぎ直すとき、そのはじまりが今でも続いていることを人々は気づくのです。

例えば、私が手掛けたものに宿坊があります。宿坊といえば、巡礼する際に宿泊する場所の一つ、僧侶が住んでいる場所といわれます。しかし本来は、廟のある場所でありその廟を守る人たちが住んでいるのが宿坊です。もともとお山には、先祖や霊が宿ると信じられていました。故人の魂はみんな山に還ると信じられていたからです。

そのお山に住むというのは、宿直し故人の霊や魂を守るということでもありました。そこには廟があり、日々に祖霊に参拝して鎮魂や供養をする場所が宿坊ということになります。

私は現存する英彦山最古の宿坊を甦生する過程で、何回もその感じを空間に覚えました。手探りで家を触り、お手入れを続けているとその場所が本来はどのような場所であったのかがわかります。そして先人たちは、そこでどのように過ごしていたのかも想像できます。これは、その場所から学ぶという地理的な発想が必要なのかもしれません。

偶然にも、この宿坊の10代目坊主の長野覚先生が地理的な研究から英彦山修験を甦生させていかれました。その発想は地理、場所から直観し、そこから探知して感知し知識として分析し解明するという方法です。

私も場道家を名乗り、場所から同じように洞察し観察感知し、あとはお手入れを通して一つ一つの歴史の記憶を感得していきます。そうやって甦生していくなかで、情報や知恵が集まり本来の姿に回帰して歴史を紡ぎ直すということをやっています。

本来の姿になるというのは、はじまりの意味に戻るということです。分化していくこと、複雑化していくこと、それは時があるから仕方がありません。しかしそれをもう一度、はじまりに回帰すると最初からまた物語は繰り返され、今度は別の歴史を辿ることができます。これが循環の理でもあり、私たちのいのちの仕組みでもあります。

時と空、これで時空と書きます。

この時空というものは、場に宿ります。まもなく科学が追いついてくると思いますが、先人たちが感得していたものを今の時代でも継承し、本来の伝承を続けていきたいと思います。

甦生という技術

滝場との関係性が深まってくると、滝行する際の滝との関係性も変わってきます。この滝は、流れ続けている水であり澱んでいるものはありません。また岩場から流れ落ちるものです。その水は、ただの水ではなく信仰のある人たちは「お水、お滝」としいのちあるものとして接していきます。

このお水やお滝を大切ないのちのある存在だと深く尊敬している人には、形が同じものではなくなります。毎回、そのいのちに触れるたびに感覚が異なることに気づくように思います。

それは単に水量や水温、天候の違いだけではありません。その時、流れているお水やお滝の状況や状態、そして自分自身の内面、身体の状況で異なります。

時には、非常に冷厳で凍てつくような強いときもあれば穏やかで心地よく透明な風が吹き抜けていくような優しいときもあります。その時々のお水やお滝に触れることで自然と一体になることができるのです。

私たちは自然から離れることで様々な問題を抱えていきました。自然との共生をやめたことで苦しみや不自然が溢れてきました。そのことから自然の循環にある喜びや仕合せを感じにくくなり、心身の病も増えていきました。

人間だけが創り上げた世界や社会のストレスは、心身を蝕みます。愛を学び、人間であることの喜びも感じますが知識が氾濫し、分化し続けてきた複雑な状態は私たちの暮らしに大きな負の影響も与えます。

そういうものとのバランスをととのえるには、暮らしが重要です。ここでの暮らしは、仕事の余暇としての暮らしではなく自然と共生し一体になる暮らしのことです。すべての地球や宇宙の生命が循環しているいのちのリズムともいっていいかもしれません。

暮らしをととのえるというのは、この自然との調和に他なりません。その自然との調和の要諦は、甦生であることは間違いないことです。いのちは澱むと元氣が失われますから、定期的に甦生させていく必要があります。私たちが朝起きて夜眠るのもまた甦生の繰り返しです。他にも、火や水を活かしていくのも甦生の技術です。

科学がもっと進めば、本来の自然テクノロジーの価値も見直される日が来るかもしれません。今はまだ、時期尚早でオカルトや宗教などと偏見を持たれてしまいます。しかし先人たちが知恵を伝承して子孫たちにつないできたものは、確かな最先端の科学であることはそのうち証明されるはずです。

それまでの間、地道に粛々と子どもたちに伝承が途切れないように徳を磨いて積んでいきたいと思います。

使命の全う

昨日からハーバード大学で修験道の研究をされているカナダ人の方がBAに来られています。色々と情報交換をしていると、この道に入ったことの理由やその哲学などを語り合い豊かな時間を一緒に過ごしています。

もともとこの方が大学生の時に、仏教のことを教えるいい先生に出会ったことが切っ掛けだったそうです。この先生は、仏教の教えとして苦労することの大切さ、そして森羅万象の死について話をされたそうです。そこで価値観が転換し、仏教の道を学び始めたそうです。

その後は、カナダの先住民族の儀式で日本でいうお祓いのような行事に3年間をかけて参加して自分の中の価値観を醸成されたそうです。もう日本は12回目の訪問で、少し前までは出羽三山で研究を進めていたそうです。

このカナダの先住民の儀式をきくと面白いもので、シャーマンが石を火にかけてそれを円の中心に置き、サウナのようにみんなでその中に入ります。その石に、聖水や薬草のような何かをいれてかけてその水蒸気を浴びながら祈る、謳うという具合です。夕方17時くらいからはじまり深夜まで行われたそうです。まるで温泉やサウナに入ったあとのようなととのうような感覚だったそうです。

これを何のためにするのかと聴いたら、先住民族の方々は「甦生するため」とあったそうです。毎週1回、これをすることで生まれ変わることができるという意味だそうです。

この感覚は、私の取り組んでいる暮らしフルネスの「お手入れ」と同じです。私も、生きていたら日々に穢れもくすみもでてきます。それは物事が分化して複雑になっていくからこそ、初心に帰るように原点回帰していくためにも行います。

掃除も同じく、洗濯も同じく、使うと器が汚れるからそれを濯ぎ洗い拭いて仕舞うのです。私たちの心身は器ともいえます。その器には何が入っているのか、それをある人は心ともいい、またある人は魂ともいいます。どのような呼び方であっても、私たちは器に盛られた一つの存在です。

どのように生きるのか、器と一緒にどこに向かうのかは自分で決めることができます。どの時代においても、先を観て何が大切なのかと伝承してきた人たちは古から知恵を受け継いで現代も暮らしをととのえています。

暮らしがととのうことは、人間が自然の叡智をもって自然と共生し平和を保っていくことです。人間がこの甦生や生まれ変わりをしなくなれば、そのうち穢れも積もり悲しい出来事が増えていきます。

苦労も死も、私たちがどうにもならない諦観を持つための材料として存在します。何を諦めて、何を諦めないのか。現代のように人間中心の世界や社会が広がるなかで、どのような空気を吸っているのか。私たちは蓮の花のように汚泥で美しい花を咲かせる時、先人の偉大な徳を感じるものです。

子どもたちのためにも、自分の使命を全うしていきたいと思います。

和の伝承

戦争というものには二つのことがあるように思います。一つは、已むに已まれずに義を守るために戦うもの。もう一つは、権力が腐敗して一部の人たちが権益を守るために戦うものです。この二つは似て非なるものですが、見極めるためには歴史の時間や自然の篩にかけることが必要になります。

高杉晋作が、『人は艱難はともにできるが、富貴はともにできぬ。』と言った言葉があります。これは元治の内乱後、藩主からの要職の話を固辞した時に人間は苦楽は仲間と分かち合えるが、ひとたび上に立ち富や権力を手に入れると人は自分を見失い仲間との間に亀裂が生じて純粋な気持ちが失われていくものでそんなものは見たくないという意味だといいます。

苦難を忘れてしまうと人間は、初心も忘れてしまうものです。もっとも忘れるのに効果的なことは安逸や快楽です。苦労を忘れるためには必要ですが、初心を忘れては意味がありません。

今の平和がどのような苦難の歴史があって実現したのか、また現在の私たちの暮らしがどのような先人たちの苦労があってのことか、それを忘れたとき戦争は起こります。

苦しい時こそ、忘れないのが人間ですが苦しみがなくなるとあっという間に過去の大変だったことも忘れて目先の利益や快楽に流されてしまうものです。これは人間の性質でもあります。

だからこそ、人間本来の性質をよく見極め初心を忘れないように教育や内省を繰り返していく必要があります。しかしひとたび、権力や権威を独占し、自我に呑まれたら人間はその不信の連鎖においてあらゆる争いの種を蒔いていきます。そこには差別、自尊心、保身、あらゆるものが発生します。

そしてこれは別に国家という大きな組織のトップでなくても、小さなお山の大将に至るまで発生するものです。人間は誰にしろそういう本性があるということでしょう。だからこそその空気に呑まれないように、自らを正すために内省し、誰かと戦争をするのではなく自分に打ち克ち、常に自分を反省して謙虚に生きることで戦争を生むような状況をつくらないようにみんなで努力していくしかありません。

忠義というものもまた、武士道もまた、平和を維持するために先人たちが磨いてきた力です。今、また世界は権力や権威、あらゆる不信や疑念が渦巻いてきています。それは世界全体であり、人々は今このことの当事者になっていることを思い出す必要があります。

子どもたちに平和の未来を譲りつなげていけるように、自分自身を改革し続けて和を伝承していきたいと思います。

戦争の本質

戦争の足音が少しずつ身近に迫ってきています。こういう時にこそ歴史を直視して、なぜ戦争が起きるのかということを見直す必要があるように思います。私たちは、戦争は国家が起こしているもののように思っています。しかし、この国家というものの正体はとても曖昧なものです。

そもそも集団というのは曖昧で、集団をコントロールするものがあってはじめて集団は存在します。人々は集団ではなく一人一人の意思があって存在するものです。その一人一人の意思があれば戦争は未然に防げるものです。

もっとも危険なことは、集団に依存し一人一人が考えなくなることかもしれません。一人一人が、真摯に考えて戦争の意味を深めていけば誰かの操作されることもコントロールされることもありません。

戦争は人間が起こすことだからこそ、人間がなぜ戦争を起こすのかを深く見つめる必要があります。誰かの利益が誰かの不利益になるからこそ、利益を得たい人たちが戦争を利用するともいえます。その戦争を利用する人たちが、国家というものを持ち出し、国民を使って利益を確保しようと戦争にしていくのです。

利益と不利益、争いはいつまでもなくならないのはその権利を奪い合う構図がなくならないからです。哲学者のサルトルが、「金持ちが戦争を起こし貧乏人が死ぬ」とも言いました。

権力者になるということが戦争をいつまでも終わらせないのです。そして守るための平和、平和であるための武ではなく、武を権力を維持するために使うのが戦争なのです。動物たちが行う戦争は、あくまで生きるため、そして守るためです。権力を永遠に維持するためではありません。

ダライラマ法王はこういいます。「たいていの軍事行動は、平和を目的としています。しかし現実の戦争は、まるで生きた人間を燃料とした火事のようです。」と。

ひたすら燃料を投下しては、燃やしていく。何のためというと、そこに権力や利益があるように思います。そして内村鑑三はこういいます。「戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとはかつて一度もあったことはありません。」

生まれたばかりの赤ちゃんが戦争をしたいとはいわないものです。誰かに助けられなければ生きてもいけない自分が誰かを殺そうとはできないはずです。助けてもらってこの世に私たちは存在しているともいえます。

助けれてきたいのちだからこそ、助け合う社会をつくることが仕合せになります。産まれたままの赤ちゃんのまま死ぬまで助け合って生きられたらそれが平和であろうと思います。

原爆の日である今日は、なぜ原爆がつくられ落とされたのか、色々と考えを巡ります。子どもたちのためにも平和について伝承していきたいと思います。

 

今の心 念じる生き方

日々は忙しく過ごしていると目の前のことで一杯になることがあります。そうなってしまうと、それだけで先々のことを取り組めなくなることもあるものです。これは仕方がないことで、目の前のことに集中するとき、人は今に心を置きますから頭で先のことなどはあまり考える余裕もありません。だからといって心を失ってしまい頭でっかち鳴門、今から離れてしまい先のことばかりを考えてしまいます。

このバランスを取ることができれば、今に心を置きながら次のことも考えていくことができます。私もむかしは振り返ることや内省すること、このブログなどを通して訓練することで少しずつバランスを保つことができているように思います。

実際には、人は大変なときは全身全霊で何も考えることができませんから振り返りの時間を持つことが大切なのは間違いありません。

先ほどの今に集中しながら考える事とは何か、それは意味をしっかりと感じながら歩んでいくことに似ています。今、何が起きているのを目の前のことに集中しながら感じていくこと、そしてその意味が何かということを深める事。そうしていけば、意味から先のことを導かれていくものです。

今に起きていることは、もともと将来を実現したいことがあって願い想ったものです。その思いや想いが実現していくためにあとは自動でハタライテいきます。そのハタラキは、目には見えないものですがそれを可視化するときは意味付けをしていくことで実現します。

その意味が何かということを深めるとき、どうあればいいのかが観えてきます。あとは信じて進んでいくだけです。頭で考えることというのは、本当はその時の具体的なやり方として知識を活用していくという具合です。

知恵というものは、目には見えません。しかし確かなハタラキがあり、知恵が物事の半面を動かしていきます。その知恵を活かすには、今を肯定することであったり、心を優先することだったりします。

古語に、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」がありますがこれに似た境地かもしれません。藻掻いて泳ぐよりも、流れに任せながら意味を感じてその時々で必要な手を打っていく。

焦るよりも、今を楽しみ、喜び合うような関係があることが仕合せと豊かさを産み出すようにも私は思います。自分との正対を続けて、暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

かんながらの道

先日、ある方から本をいただきそこに「誠実自然」という言葉を見つけました。誠実と自然をそのまま並べていた言葉でしたので気になって改めて意味を深めてみました。そもそもこの誠実という言葉は、辞書をひくと「誠実」とは、私利私欲がなく、誠意・真心をもって人や物事に対する様子と書かれます。

さらにこの誠の文字の成り立ちをみると、「神様への祈りが成る」と書き、「想いが神様に真実と証明されたこと」ことを意味するそうです。そして「実」は實とかき、「本当のことがみちる」意味になります。字も「祭壇に貝(’宝)をたばねたものの組み合わせでここから真に中身があるものとされました。

誠実とは、嘘偽りなくそのままであるという意味です。

そしてこのあとの「自然」という言葉、この言葉もまた誠実と同じくあるがまま、そのままであるという姿です。別に無理に自分を装うのではなく、いつもの自分のままであること。これは別に自分のすべてを見せるという意味ではありません。いつも心を開いて神様や天に対して恥じることのないありのままの自分でいることを心がけようとするものだと私は思います。

自然体というものは、自分の定めた初心に対して正直で素直であるということです。つまり自分の心を優先していく生き方を実践しているということです。西郷隆盛なら敬天愛人ともいいましたし、吉田松陰は至誠ともいいました。

天地自然の一部として自分が自分のままに心に正直に生きていくことは、そのまま自然の天命を生きるということでもあります。天寿を全うする生き方をすると、人はその人をみて感動するものです。

私たちは地球が創造したものですから、心は地球そのものです。地球の心を生きることができたとき、そこは自然になります。これを私は「かんながらの道」と呼んでいます。

立場や生まれも異なっても、同じように生きた人。大和魂や武士道を実践した人がいることを知ると嬉しくなります。子どもたちのために、私も生き方を大切に残りの人生を自然体で全うしていきたいと思います。

時を待つ

松下幸之助さんの残した言葉に「時を待つ心」というものがあります。素晴らしい内容で何度も読み返したいものです。

『何ごとをなすにも時というものがある。時、それは人間の力を超えた、目に見えない大自然の力である。いかに望もうと、春が来なければ桜は咲かぬ。いかにあせろうと、時期が来なければ事は成就(じょうじゅ)せぬ。冬が来れば春はま近い。桜は静かにその春を待つ。それはまさに、大自然の恵みを心から信じきった姿といえよう。

わるい時がすぎれば、よい時は必ず来る。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。だが何もせずに待つことは僥倖(ぎょうこう)を待つに等しい。静かに春を待つ姿は、一瞬の休みもなく力をたくわえている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。

時を得ぬ人は静かに待つがよい。大自然の恵みを心から信じ、時の来るを信じて、着々とわが力をたくわえるがよい。着々とわが力をたくわえる人には、時は必ず来る。時期は必ず来る。

待てといわれればなおあせるのが人情である。だが、自然の理はわがままな人情には流されない。冷たいのではない。静かに時を待つ人には、暖かい光を注ぐのである。おたがいに時を待つ心を養いたい』(道をひらくより)

最近、特に静けさということを深めているとこの時を待つということを意識することが増えてきました。じっとしているのではなく、待っているということ。この待っているというのはとても静かな力であるように思えるのです。もともと私はせっかちですが、意外と大切なことはずっと待つことができています。この待っているときは、何もしていないのではなく時が醸成していくのを静かに待っているのです。

この時の醸成とは一人でできることではありません。絶対的な他力が入ってくるのを待ちます。それは志が一人ではとてもできないことだからこそ、すべてが集まってくるのをあらゆるハタラキを活かして待ちます。

天に龍が昇る時を待つ心のように、その時を静かに見つめます。静かに見つめていたら、時が満ちてきます。ひょっとしたらその時、私はもう寿命が尽きる寸前かもしれません。あるいは、最も最高の状態で迎えることができるかもしれません。それは私が決めるのではなく、天地自然のハタラキが決めます。

私は、場に佇み、風を読み、水を捉え、火を保ち、土に還り、木を植え、金を打ち、月を眺めて日を拝む暮らしをするのみです。どこに陣取るか、趨勢を見極めて時を待ち続けます。

私の取り組んでいることは、あと何年後に水面に現れるのか、5年か、10年か、もしくは100年か1000年か、わかりません。でも動かずにじっと祈り念じ続けています。

時を待つというのは、何よりも自然ないのちの姿であり謙虚で素直な心でもあります。一期一会の人生、妙味を味わい徳を積んでいきたいと思います。