使命を果たす

今というのは歴史の積み重ねの上に存在するものです。目には見えませんが、今までのことは目には見えないものに刻まれて記憶に記録されています。その経験が知恵になり、いつまでも子孫たちの暮らしに結ばれていくのです。

知恵というものは言い換えるのなら先人の偉大な徳です。

その徳を用いるということは、先人たちの経験して得た記憶や記録をいつまでも忘れずに使い続けるということになります。それが私たち人類が、バトンをつなぎながら生き延びてこれた理由でもあり、連綿と結ばれ繋がるご縁の中で活かされる由縁でもあります。

つまり徳というのは、ずっと積まれ続けているものであり私たちも同じようにそれを積み続けて次世代へといのちを繋いでいく使命があるように思います。積まれ続けるというのは、結び続けるというのと同義です。

この結び続けることが、結(ゆい)でもあります。この結に記録していこうとしたのが、結帳でもあります。この結帳を私は現代に甦生させたものが、徳積帳です。この徳積帳は、知恵を結集させたものでもあります。

もともとこの徳積堂がある場所には、八意思兼神という神様をお祀りした神社があります。これは八百万の神々の知恵を集める神様です。衆智を集めていくというのは、日本人の和の精神の奥義でもあります。

これから本格的に徳積帳をつかって世の中に新しい経済と教育の一致に取り組んでいきます。二宮尊徳が報徳といい、それを至誠、勤労、分度、推譲といって経済と道徳を一致する仕組みを創造したように私もこれからその心田開発を暮らしフルネスで実現します。

どのような未来になるのかわかりませんが、残りの人生、子どもたちのために使命を果たしていきたいと思います。

人づ手の伝承

古来から知恵というものは、人づてで伝承していくものです。もしくは、自分の内面の何かがその場や文化と呼応して甦ってくるものです。それは単なる目新しさではなく、創生や創新、私の場合は起新といい、真に新しくなるということです。

この真に新しくなるというのは、真であり続ける新しさのことです。

例えば、伝統文化なども形式だけ受け継がれていくものと奥義ともいえる知恵が受け継がれていくものがあります。特に一つ一つの儀式なども本来は偉大な力があったものが、今では形だけ残ったというものも多くあります。現代は便利な機械が増えていますがから、むかしのような一つ一つの知恵を使って何かを丁寧にやるよりも簡単に機械のコピーやプリントなどのようにアウトプットできるようになりました。しかしそこには、本来あるはずの暗黙知は介在しておらず見た目だけのものになっています。

意味があったものを意味がわからなくなり、意味がないものにするというのをみんながやり続けるほどモチベーションが下がるものはありません。それがとても大切だと体感し、知恵であると実感しているのならそれは続けられるものです。それが失われていくから文化もまた消失します。

本来、大切だった知恵は知識に置き換えられて別の物になっていく。だからこそ、知恵を守り続けていくために子孫や人は代を重ねて常にその知恵と共に生きてきたのです。それが人類が永続するための使命でもあり、まさに叡智だったのでしょう。

この時代、かなりのスピードで知恵が失われているのがわかります。知恵を機械化して繁栄してきましたがそれは知恵の一部分だけを採取してそれを目先の利益に活用しているということでもあります。知恵は本来は、永遠のものですから本来の使い道で活用するときに真に活かされるように思います。

子どもたちにも叡智を伝承し続けられるように、人づ手の伝承を守っていきたいと思います。

暮らしフルネス的な生き方

いよいよ本日は、英彦山守静坊の感謝祭です。昨年からずっと写真を振り返ってみてここまでの経緯を辿ってみました。まるで英彦山に呼んでいただいたように多方面から英彦山のキーワードをいただき、そして宿坊を甦生するように運ばれました。

私の生き方は、もともと天命に委ねるタイプであまり計画を立てることがありません。今、発生したことから組み立てて一期一会に学び続けます。過去からのプロセスの集積と繋がり、全体からのメッセージの声を聴いて今、何をやるのがもっとも全体快適になるのかと運を優先して徳を磨きます。

なので私自身が何が発生するのかもわからず、その時々に最善を盡していくために当たり前からもしれませんが常に充実した学びに満ちています。

時折、自分の分を超えたものに出会えばこれは大丈夫なのかと不安にもなります。しかし、天が命じたのならきっと大丈夫ではないかと覚悟を決めてあとは粛々と取り組んでいくのです。

意味はその時は分からなくても、きっと後から意味が着いてくるだろうと安心して一つ一つ、やり切っていきます。結構、ここ数年はさらに意味が分からないことが増えてきて世間一般的には意味のない(無価値)のことをやらせていただくことも増えました。

こんなことをして一体、誰が関心を持つのだろうかと思うものであってもいただいたご縁に忠実に取り組むだけです。

しかし一つだけ、いつも意味を感じるものがあります。それは「ご縁」というものです。ここで出会った、私のところまで来てくださった、有難いという「もったいない」という歓びです。

この出会いをもったいないと味わうからこそ、生まれてきた甲斐を自覚します。こんな体験をさせてもらえることの仕合せ、ご縁を感じられる歓びは常になくなりません。

だからこそ、味わおう、あとは何とかなるだろうと明るさが磨かれるのです。善いか悪いかではなく、豊かさに充たされます。まさに一つの暮らしフルネス的な生き方があります。

人生は二度とありません、この思い出もまた一期一会です。

長い歴史の縦の糸、そしてこの時代に生まれた横の糸、その結び目には美しい和があります。和を大切にして、心を紡いでいきたいと思います。

英彦山守静坊の甦生 感謝祭

明日は、いよいよ英彦山の守静坊の甦生感謝祭を行います。振り返ってみたら、本当に多くの方々に見守られ無事に宿坊を甦生することができました。結に参加してくださった方々のことを一生忘れません。この場をお借りして、改めて深く感謝しています。

思い返してみたら、今回の宿坊の甦生は困難の連続でした。工事に取り組み始めてからも何十回、もしくは何百回も神様に真摯に拝み、尽力することはやりつくすのでどうかお力をおかしくださいと祈り続けました。少し進んだと思うと、大きく後退し、善いことが起きたと思ったら八方ふさがりのような状態に陥ったり、一喜一憂してばかりの日々を過ごしてきました。

そんな中でも、本当に有難かったのは身近でいつも支えてくれたスタッフや家族、どんな時でも丸ごと信じて応援してくれた叔父さん。そしていつも見守ってくれていた仲間たち、結に参加してくれて見返りを求めずに徳を一緒に積んでくださった同朋のみなさま。小さなお気遣いから、大きな思いやり、取り組みに深い関心を寄せてくださった方々に心を支えていただいていました。

今回の宿坊の甦生で、故長野先生はじめこの宿坊に関わったこられた歴史の先人の皆様。そして英彦山に少しでも御恩返しすることはできたでしょうか。喜んでくださっているでしょうか、もしもそうなら努力が報われた想いになります。

私たち徳積財団、及び結の仲間は宗教組織ではありません。むかしの先人たちが暮らしのなかで信仰していたように、お山を拝み、お水を拝み、いのちを大切にし、お祈りを実践し、生活を助け合うなかで心をむすぶために信じあう仲間たちの結(ゆい)です。この結というのは、つながりや結びつきの中で暮らしていくという古来からの日本人の知恵の一つで「和」ともいいます。

私は、和が永続することを「平和」だと思っています。そしてそれは徳を積むことで得られると信じています。この徳を積むというのは、自分の喜びがみんなの喜びになり、みんなの喜びが自分の喜びになるという意味です。自然をお手本にして、全体のいのちが充実していくように、暮らしを充実させていくことです。それが暮らしフルネスの実践であり、徳が循環していく安心の世の中にすることです。

今の私たちは歴史を生き続けている存在です。終わった歴史ではなく、これは今も私たちが結び続ける責任を生きています。今までの先人たちの徳の集積を、さらに磨いてこの先の子どもたちに繋いでいくのが今の世代を生きる私たちの本当の使命です。

最後に、感謝祭に来てくださってお祝いをしてくださる友人たちがむかしの家族的な雰囲気で舞や唄を披露してくれます。この宿坊の谷は、弁財天さまの谷で弁財天は芸能の神様でもあります。むかしのように囲炉裏を囲み、みんなで一緒に同じ釜の飯を食べ、笑い、踊り、唄を歌う。心地よい法螺貝の音色が宿坊全体に広がっていくように豊かで仕合せなひと時を皆様と一緒に過ごせたらこれ以上の喜びはありません。

これから親友で同志のエバレットブラウンさんが、宿坊に滞在し英彦山の徳を出版や湿版写真等で伝承してくれます。そして私は、一人ひとりの徳を尊重し合い磨き合う場として仙人倶楽部というものをこれから徳積堂にてはじめます。私が心から尊敬する師の一人、二宮尊徳はこれを万象具徳といい、それを顕現させるのが報徳ともいい、その思想を一円観といいました。私はこれを現代にも甦生させ、「平和が永続する知恵」を子どもたちに伝承していきたいと思っています。

本日がその一つの節目になります。このひと時を永遠の今にしていけるように皆様と祈りをカタチにし、懐かしい未来を味わいたいと思います。

ここまで本当にありがとうございました、そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。

水屋箪笥

昨日は、宿坊に水屋箪笥を運びこみました。この水屋というのは、台所ということです。この「水屋」はもともと水を扱う場所という意味で、台所を意味します。そこに置かれる台所の収納家具のことを水屋箪笥といいます。

また「箪笥」は、室町時代頃には「担子」と書いていたといいます。この「担子」は、中国では天秤棒の両端にかけた荷物の意味で、日本では持ち運び可能な箱のことをいいました。それが江戸時代に入り、引き出し式のたんすが作られるようになった頃から、「箪笥」の漢字が当てられたといいます。円形の竹の器を「箪(たん)」、方形のものを「笥(し)」とし、これを合わせて「箪笥(たんし)」呼びます。この「箪笥」は、中国では飯などを入れる小さな器の「櫃」のことです。収納して運び出せるものということだったのでしょう。

水屋と似た言葉にむかしトイレのことを川屋といいました。これはもともと古事記に水の流れる溝の上にかけ渡した屋という意味が有力だといいます。むかしの古民家では母屋のそばに設けるのが一般的であったことから、「側屋(かわや)」とも呼んだそうです。

少し前を想像してみると、今のように水道もなく電気もありません。水は井戸を汲んだり、綺麗な川から引いてきたりと工夫したように思います。水があるところでないと生活できませんから、水がある環境の場所を選んで家屋は建てたのです。

自然に水があることの有難さやもったいなさを感じる機会も多かったように思います。宿坊でも、近くには綺麗な清流が流れ込んできています。とても清々しい水で、心身や癒され、心地よい風が吹いてきます。

むかしの道具たちや家具に触れていると、その時代の名残や余韻を感じられます。

一つ一つを甦生するなかで、先人たちの豊かで情緒深い生き方に触れることができることもまた仕合せです。丁寧に甦生し、山での暮らしをととのえていきたいと思います。

 

心の師

人は人と比べる人生ではなく、自分らしく生きていくために初心や目的を振り返るものです。何のために生きるのか、どうありたいかは自分自身が決めることができます。ある意味、この自分の中の自由というものを磨いていくことで私たちは思いを醸成し世界をよりよくしていくことができるともいえます。

しかし実際には、思いを醸成するには多くの時間が必要です。思いついた思いではなく、まさに大木や植物がじっくりと根をはり育っていくような日々の積み重ねが必要です。

原点回帰ともいうべき、その日々の成長の繰り返しによって思いは育っていきます。その思いの強さや思いの豊かさが周囲をよりよい場にしていきます。

私が尊敬している方がいます。

その方は、毎朝日が昇る前に起きて太陽を拝み祈ります。昨日のことをよく反省し、よく努力したなかで善かったこと善くなかったこと丸ごと受け容れて御礼をし、また今日、真摯に取り組みますと思いを励んでおられます。

今、この一瞬、その時々を一期一会に生きては反省し精進するのです。

決して思い通りになることはなく、世の中はあまりいいニュースが流れません。しかしその方は、人間のことを深く信じ、深く愛し、世の中の平和を信頼しています。決してただの楽観的な方というのではなく、悲しみや苦しみに寄り添いながらもそれでも人間は学ぶ、人間は成長すると信じているのです。

話をしていると自然に安心して心の不安も消えていきます。

こんな人物のように生き方で周囲を安心させる存在になりたいと心から憧れたものです。実際の私は本当にまだまだで、心の不安も自分のことで精いっぱい、そしてよい波動が出せているのかと、それに自分の言動も未熟です。周囲のことを気にし、空気を不安がることもあります。

自分がこうありたいと決めた生き方に対して、真摯には取り組んでいますが自分自身の心をどれだけ磨いているのか。自分を見つめる毎日を送っています。有難いことは、私の心の中に尊敬する方々の生き方や後ろ姿、また言葉や眼差し、記憶が共にあることです。

道を歩んでいく中で、仲間も増え、そして心も育ってきました。道の中で一円観を実践し、円満にしていく場をととのえていくのもまた私の祈るところです。心して、天に恥じないようにこの今を大切に生き切っていきたいと思います。

暮らしの中の信仰

日本人は、むかしから信仰を暮らしの中で実践してきた民族です。多神教ともいわれますが、すべての存在にはいのちが宿っていると信じて丁寧にいのちを大切に扱ってきました。

それは日本の伝統工芸をはじめあらゆる文化の中で手に取ることができるのですぐにわかります。いのちだからこそ壊れないようにと尊重しながら丁寧に接していくのです。まさにここに信仰の原型があるように私は思います。

現在は、特定の宗教によって教えという形になって一つの教義となっています。信仰が暮らしから離れてしまっているものもあります。しかし私は、目に見えないことを頭で考える事よりも日々の実践を通して実感していくことが信仰に気づいていくようにも思います。

日本には古来から様々な行事がのこっています。そのどれもが感謝の行事でもあります。当たり前ではないことを忘れないように、ありとあらゆるものに神様のようなものを見出します。それは木であったり、水であったり、太陽であったり、私たちが普段忘れてしまっているような存在に気づき直します。

そこにはいのちがあり、私たちはそのいのちを分けてもらって存在していますからつながりや結びを忘れないようにしている仕組みでもあります。今の時代は、情報化の時代であらゆる価値観や知識が混雑して何が本当かもわからなくなってきています。

こういう時は、原点回帰して本来何がはじまりだったか。そしてどのようなものが本来の姿だったかを学び直すことで情報が削ぎ落されシンプルになっていくようにも思います。

私はよく特定の宗教の人と誤解されて困ることがありますが、暮らしの中の信仰を実践してきたいと思っています。それは山を拝み、川を拝み、海を拝み、岩を拝む。そして日々の食べ物や道具たち、ご縁や時を拝みます。私たちの身体を含めたいのちを丸ごと祈るところに懐かしい未来、暮らしの信仰もまたあるように思います。

暮らしフルネスの実践を大切にしていきたいと思います。

善友と道

道を歩んでいく中で、多くの仲間に恵まれます。その仲間の御蔭で、孤立することもなく孤独も豊かなものになっていきます。人は、必ず心の中に良心を持っています。それは思いやりや優しさです。同時に、自我というものもあります。いろいろな人たちとかかわる中で、その善い方を導いていこうとするのが人生の修行そのものかもしれません。

仏陀の話の中で善知識経というものがあり、弟子のアーナンダに善き友について話をするシーンがあります。

意訳しますが、仏陀がサッカラの村に着いたときにアーナンダはこう質問します。「共に仏法を学んでそして共に仏の道を歩んでいく。このような善き友がいるということは、修行の既に半ばを達成できたに等しいと私は思ったのですが仏陀はどう思われますか?」と。それに仏陀は応えていいます。

「善き友がいることは修行の半ばではなく、そのすべてですよ」と。つまり、真の修行は善き友を持つことで完成しているということでもあります。

また別のところで仏陀は「悪友を避けて善友を求めよ、しかし善友が得られなければ、孤独に歩め」ともいいます。

仏陀は、皆が私を善き友とすることによって仏の教えを学びそして共に仏の道を歩んでいるように善き友を持つことを心がけることを言いました。

つまり善き友とは、自分の中にある善心そのものでありその心と歩んでいくことで心の平安が宿り、その仲間たちと道を歩み続けていくことで修行が為ると言ったのかもしれません。

常に心は持ち方次第で、どうにでも世界は変わっていきます。物事のどの方を観るか、そして何を想いカタチにするかによって変化していきます。仏陀は同時に悪友を避けなさいといっています。何が悪友なのかは、道を歩めない仲間たちのことかもしれません。

友達がたくさんいたらいいわけではなく、真の友は心の中に存在する友です。その友は、それぞれの心の中にいてみんな同じように優しくありたい、思いやりのある人でありたい、心美しくありたい、感謝のままでありたいなど、素直なところにあります。

そういうものを磨いていこうとする人が、同じように仲間たちと出会い日々に修行をする。そして磨き合い高め合っていく、まさにそのことが人としての一つの集大成ではないかとも私も感じます。

人間力を如何に磨いていくか、これからテクノロジーがさらに発展していくなかでその深化は必要不可欠です。だからこそ、道を歩む、そして善友が必要だと思います。2000年以上たっても、真理や真価はまったく変わらずにあることに安心します。

引き続き、自分はどうかと内省しながら言葉ではなくカタチで実践していきたいと思います。

ご縁の循環

人のご縁というものはとても不思議なものです。長い時間をかけて、そのご縁の意味がなんであったかはあとから現れてくるものです。その時は、何ともなかったご縁でも、時間が経てばそれがとても大事なご縁であったことがわかります。

振り返ってみると、まさかここでこのタイミングでということで助けていただいたご縁がたくさんあります。過去に誰かに親切にしたことが、巡り廻って自分のところにもやってくるのです。ことわざに、「情けは人のためならず」があります。これは人に対して情けを掛けておけば巡り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味の言葉です。親切の連鎖ほど、ご縁を有難く感じるものはあります。

そしてそれはいつからはじまったご縁なのかということに思いを馳せます。

自分がはじめて会った他人だと思っていた人でも、実は長い時間をかけて先祖や親族が親切にしてきた人かもしれません。偶然助けていただいた方でも、その方もひょっとしたら随分長い時間をかけてご縁が結ばれた人かもしれません。

一つ一つのご縁を大切にするのは、まだ見ぬ未来を明るくしていくためでもあります。それが時間をかけて育ってくるのを待ち、自分、もしくは未来に善い循環の流れをつくっていきます。

地球は循環を已みませんが、どのような循環をつくっていくかはその人の生き方次第です。毎日、それは試されていますしこの瞬間も実践する機会があります。そんなに人生悟ったようにはならないからこそ、ご縁を磨いていくような心がけが必要なのかもしれません。

子どもたちの仕合せを願うように、ご縁を大切にしていきたいと思います。

叡智を研ぎ澄ます

知恵というものは使うことによってのみ知恵になるものです。知識は使わなくても知識として持っていられますが、知恵はそれを使う時のみ持っていられるものです。

もちろん知識か知恵かではなく、知恵があるからそれを知識で分析することができます。また知識も知恵によって真の知識となりえるものです。

私は真の知識にとても興味があります。それは知識と知恵を併せ持った叡智のようなものです。叡智には深さがあり、そこには真理があります。

物事や時代も発展していくのに進化するという言葉があります。しかし進化だけしていてもそれが本当の意味で叡智にまでは到達しているような気がしません。それは今の時代の様子をみてもすぐにわかると思います。

毎日、SNSやテレビ、情報社会の中であらゆる新しい情報が氾濫していきます。情報過多でそれをまた整理し、また進化させようとします。急ぐことばかり、時間をかけないで結果を出す事、わかった気になるために必死に情報合戦を繰り広げていきます。目新しいものはなんども良いもののように扱い、古いものは時代遅れとまで言われます。ダーウィンもですが、進化論というのは結局は分類わけの一つの手法のようにも感じます。分類分けしていくことを進化というのなら、そこに深さはありません。ただ分けて整理できた、そして整理がうまければ上手に進化したということになるのかもしれません。

実際には、その進化ではなく深化といって深淵にたどり着き真価を悟るというものもあります。現在でいえば、豊かさということを見直す話が出ていますが果たして本当に豊かさとは何かということをこの時代に叡智まで高めて磨いた人がどれだけいるのだろうかとも思います。

だからこそ、先人の知恵を学び直し、先人の知恵から深さを知り、叡智に辿り着く必要性を感じます。言葉遊びにならないように、そしてお題目のようにならないように私たちは知恵を使い続けていくなかで学び直して改善し、この時代の叡智を磨いていく必要があるように思います。

暮らしフルネスの実践はそれをするのにとても大きな役割を果たしていくと確信しています。子どもたちのためにも、この今の叡智を研ぎ澄ませていきたいと思います。