出会いの哲学

昨日、久しぶりに恩師の一人である吉川宗男先生が訪ねてきてくださいました。コロナもですが、色々なことがありなかなかお会いできなくて本当に久しぶりでした。思い返せば、まだ20代のときに同じような生き方を目指している先生に出会うことで私のインスピレーションも膨らみました。

今、場の道場を始めたきっかけも宗男先生とのご縁でした。その当時、先生からは、伝統的日本の文化である「場と間と和」の話を聞かせてもらい、ありとあらゆるものがメビウス上につながっているというメビウス理論を学び心が震えました。

先生の著書には5つの知の統合こそが人間力の知(HQ : Humanity Quotient)だといわれます。①知力、ヘッドナレッジ、IQ(Intelligence Quotient)頭で知る力。②感力、ハートナレッジ、EQ(Emotion Quotient)心で知る、観る、感じる力。心眼知。③行力、ボディナレッジ、BQ(Body or Behavior Quotient)身体の力。身についた技能。身体知。④活力、シナジーナレッジ、SQ(Synergy Quotient)そして上記の三力を源泉として生まれる生命力・活力・共生力。⑤場力、フィールドナレッジ、FQ(Field Quotient)場の暗黙知を感知し、場にライブ感を創り出す力。

このトータルな人間力の知は「全人格人間力の知」と定義しています。

昨日も、私が暮らしフルネスで創造した場の石風呂に入りながら色々とお話を伺いました。「味わう」ということの大切さ、そして出会いを哲学する人生をずっと歩んでこられたこの今の姿からも改めて生き方を学ばせてもらうことばかりでした。

人間は何歳になっても、出会いは無限です。

出会いに対して純粋な姿、ご縁を結びそのご縁を深く味わい余すところなくそれを好奇心で追い求めていく道を歩む姿勢。メビウス理論や場と間と和のどの話も、宗男先生と一緒に体験していく中で得られる知恵そものです。

説明ももちろんわかりやすく、非常に言葉も磨かれておられますがもっとも磨かれておられるのはその純粋なありのままの出会いの哲学です。

ちょうど色々と私も悩んでいた時期、遠方より師が来るで元氣をたくさんいただきました。大切なことを忘れずに、一期一会の人生を歩み切っていきたいと思います。

ありがとうございます。

徳への御恩返し

振り返ってみると、今取り組んでいることのすべては最初のご縁やキッカケがあることに気づきます。時間が経てば次第に繋がってきますが、それがどの時点であったのかは後から次第にわかってくるものもあります。

例えば、私が徳というものに興味関心が湧いたのは致知出版の本社で藤尾社長から徳の講義を受けたことからはじまります。そこで志に徳が入り、徳の道に気づいたことです。それから何年もかけて、気づきの実践から徳を見つめ直します。さらに、冨屋旅館の鳥濱トメさんの教えに触れる機会を経て、さらにその徳の意味を学び直して徳の意味を知ります。

他にも出会った方々が、それぞれに徳の話をしてくださり徳に益々のめりこんでいきました。その後は、徳積財団をつくり古民家甦生や伝統文化の甦生などに関わり徳を磨くことを実践していきます。気が付くと、徳積帳をブロックチェーンで開発し、いよいよ徳循環経済へと転換に挑戦することになっています。

今思い返すと、最初は一体どこだったのか。故郷の近くにあるお地蔵さんだったのではないかとも感じます。きっとこれもあと数年、もしくは数十年後に意味に気づける日がくるのでしょう。

歴史というものを観察していると、その原因が数百年前のことが今につながりそれを私が一緒になって取り組んでいることがあります。もうだいぶ経っていますからその人たちは当然生きてはいません。しかし、今私がやっていることに絶妙に繋がっているのです。

こうやって人は、後から意味に気づいて理解していけますからやっている最中はきっと何か大切な意味があるのだろうとよくわからなくても自分を動かしている何かと一緒に歩んでいくしかありません。

私の生まれてきた意味や、やっていることの意味もまた、後から繋がって気づかれるものです。今、わからなくても、今、理解されなくてもこれは確かな何かにつながっています。こんなことを書くと、いい加減のように思われるかもしれませんがこの世はすべてを説明できることはできません。大切な何かに今、気づき続けているという学問は一生終わることもなく、磨き続けるのみです。

至誠や真心、そして真摯に実践をすることで徳への御恩返しをしていきたいと思います。

謙虚に精進

人は、負の連鎖というものを持っているものです。これは親子や先祖代々などから続いているものもあります。一般的には悪循環のことを言いますが、実際には同じことを何度も繰り返しながら同じパターンに陥ることです。

例えば、ある出来事が起きた時、それがよくないものであっても許し、それを別の物に転じるという考えがあります。故事にある禍転じて福にするという発想です。別の言い方では禍福一円というものです。

物事の善悪正否は、一円の中に置いて観るという思想です。これは二宮尊徳が実践したものです。世間や外側からみたらそれが負の連鎖であっても、それをどう福に転じるかということに重きを置くのです。

私は子どもに関わる仕事をしていますから、特に幼児期の刷り込みを目の当たりにすることが多くあります。無意識に、親から子へとトラウマが伝承されたり、潜在意識の深いところに価値観やイメージを刷り込まれてしまうのです。

それが時間をかけて成長し、その人の人生にとても大きな影響を与えます。ある人は、それに苦しみ、ある人はそれを乗り越え、またある人はそれを福に転じます。それはご縁や出会いによって変わっていきますが、その人の生き方が決めます。

大事なことはそういうことに気づけるかということです。気づかないままループするのと、気づいて少し変えてみようと試行錯誤するのではプロセスも異なります。人は自分の思い込みやトラウマを他人にぶつけていくものです。それを受けた人は、それに傷つき同じことをしようとしてしまうこともあります。それは同質のトラウマや刷り込みがその人にあるからです。

本来、その時、一緒に乗り越えていこうとする人に出会ったり、もしくは先に乗り越えた人に出会ったり、寄り添ってくれたりすることもあります。その逆に、お互いにやり返しあったり、仕返ししあったり、攻撃し合ったりと紛争になっていくこともあります。それは深いところでは、個人の心の中にあるそのトラウマとの葛藤が周囲を巻き込んでいくのです。

平和も戦争も、元はその個人の心の中にある種が芽生えているものがつながって発生してくるのかもしれません。だからこそ、特に大切な幼児期に見守られ、許され、それを寄り添い受け容れてくれた人の存在が助けになることもあります。主体性や自立もまた、その負の連鎖を福に換える偉大な仕組みの一つでもあります。

社会の今を観て、長い目で観て一石を投じていくところに保育や環境、場づくりの氏名や役割もあるように思います。私自身が、禍転じて福にしていけるように謙虚に精進していきたいと思います。

経済の本質

道徳と経済の一致という言葉があります。渋沢栄一は、論語と算盤という言い方をしました。これはそもそも二つは一つであるという意味であろうと思います。二宮尊徳は、道徳なき経済は犯罪 経済なき道徳は寝言であるといいました。犯罪と寝言、厳しい言い方のようですが実際には今の資本主義の中ではなかなか理解し難いものかもしれません。

よく経済を血液の流れのように例えられることがあります。血液が綺麗でサラサラであれば、健康でその逆は不健康だといわれます。血液が循環し続けることで身体も維持されますからその血液を澱まないようにしていくためには工夫が必要です。

どうしても人間は、二者択一、対立構造で物事を分類していきます。本来は分けられないものを分けることでわからなくなります。その分かれているものを一致させていくことで本来の一つにしていくというのは魂の力です。魂という言葉もまた、心身一如、主人公としての自己一致の境地での言葉です。

本来、はじまりの言葉が何であったのかを考え抜くことで原点や初心を思い出すことになろうとも思います。

道徳も経済もそもそもは人の生きる道です。その道をどう歩んでいくかは、どのような実践をするかにかかっているともいえます。まず道があり、その道をどのような志で歩んでいくか。そこには徳があります。その徳をどのように磨いていくかで、社会を豊かにしていきます。

何のためにそれをやるのかを忘れずに、それぞれが道を歩んでいけばそれぞれが仕合せな社会を築いていくことができます。そのために、まず足元の実践を見つめ直す必要があります。

石田梅岩という人物がいます。この方もまた経済と道徳の一致を述べていた方です。その方が商人の道としてこんな言葉を残しています。

「商人の蓄える利益とは、その者だけのものではない。天下の宝であることをわきまえなくてはならない。」

天下の宝という認識は、今の世の中には少ないように思います。本来、私たちは何のために経済を豊かにしていくのか。

子どもたちや未来のためにも原点を忘れずに実践していきたいと思います。

安心できる場をつくる理由

人間には「我」があります。その我は、相手か自分かという相対するときにより出てきます。例えば、敵か味方かということも同じです。今の時代、競争や対立ばかりが目立ちそのことでどちらかが一方的に我慢させられたり、尊重し合えない関係の中で傷ついている人もたくさんいます。

社会そのものが一つの権力や権威によって尊重し合えない環境が発生すれば、この人間の我は際限なく大きく成長していくものです。戦争もまた、その一人一人の我が発展してさらに激しくなっていったものだともいえます。

この我というものは、周囲の中で感じる自分の立場や自分という認識のことでもあります。比較されたり競争させられていけば、次第に自分がどういう立ち位置にいるかということを人は気にしていくようになります。本来、主人公としての自分を素直に自覚し、天命を全うするような生き方をしている人はあまり我に影響を受けません。しかし、競争や比較で周りからどう評価されているか、または何をやられたか、いわれたかで自分を気にして自分のことを認識したとき我に飲み込まれます。

この時の我は、本当の自己ではない外から見えている我というものに執着するということでしょう。外から認識した仮想の自分に本当の自分が脅かされるということでしょうか。つまり本来の自分ではない何かに飲み込まれているということです。

本来の自分というものが何か、それは初心の中にあります。

何のために生きるのか、本当の自分はどうしたいのかと自分と向き合う中で真の自己の存在に人は気づきます。その真の自己には我はなく、真の自己があるだけです。では我とは何か、それは周りがどう認識しているかという自分の思い込みということでもあります。もっとシンプルにいえば、自分の思い込みこそが我の本体だということです。

だからこそ、思い込まないことが我に飲み込まれないということになります。そこで私は一円対話を通して「聴く」ということを実践することをみんなとしています。きっと何か自分にわからないことがあっているのだろうと思い込みを取り払ったり、自分の心にみんなで聴くという内省を共有することによって我の影響を小さくしていきます。

人は不信になると疑心暗鬼になると我に呑まれていきます。それは外から攻撃されるのではないか、裏切られるのではないかと不安になるからです。不安がさらに思い込みを強くしていきます。安心すると不安は減り思い込みも薄くなります。

本来の自分、自己の主体性を発揮するためにはこの「安心」という状態が重要です。一人一人が健やかに発達していくためにも、この安心できる場をどう醸成するかが鍵なのです。これは保育に関わる中で気づいたことです。

子どもたちが未来に、我に飲まれずに本当の自己、真の自我のようなもので天命を全うしみんなで働きを喜びあう社会が実現していけるように保育に関わる私だからこそ文句も言い訳もせずに場をととのえていきたいと思います。

甦生の道を精進していく

物事は小さくはじめて大きく育てていく方が自然に近いように思います。最初から大きくしようとすると、確かに注目されて目立ちはしますがじっくり味わい取り組んでいくことができません。

現代はすぐに結果重視で、なんでも派手に目新しいことを探します。そして一度、見てしまえばわかってしまったと安心して飽きてしまいます。わかることが目的になっているからです。しかしわかるというのは、そう簡単なことではありません。なぜなら知ったことと、真にわかることは別のことだからです。

わかるというのは、本当はとても奥深く時間が必要です。しかし今の時代は、時間をかけることを嫌がります。時間をかけずにすぐに結果が欲しいと思うのです。だから、わかりにくいものを毛嫌いします。わかりづらいと文句をいったりします。

しかし本当はそれは真にわかろうとしない人の意見であることがほとんどです。ちゃんと理解しようとする人たちは、何度も通い、体験をし、その深い意味や味わいを感じ取ります。一度ではわからないから何度も通うのです。

私も今までわからないことを真にわかろうとして、何度も通い続けているものがあります。ひょっとすると死ぬまで通いながら学ぶのではないかとさえ思います。他には、法螺貝などもそうですが練習してもしてもわかりません。わからないから、もっと練習しますがそれでもわかりません。先日、先輩たちの会合で練習風景を見学しましたが何十年とやっていてもまだわからないとみんな目をキラキラさせています。

人が何かをわかるというのは、道を究めるということです。

道を究める志があるからわからないのであり、それがわかるというのは道がわかるということです。知識ばかりが増えて、なんとなくわかったらそれでもう終わりというのは冷めた感情だなと思う時があります。ワクワクドキドキし、好奇心を発揮させ、面白い世界を学び、まだ見ぬ世界の広さや深さを学ぶことは人生を真に豊かにしていきます。

わかってもらおうと思う自分への焦りも捨てて、滋味にじっくりと地道に甦生の道を精進していきたいと思います。

知恵を学び直す

むかしの格言には様々な知恵があるものです。それは生きていく中で先人たちが実体験して、得た法則のようなものが取り入れられているからです。それを長い年月をかけて何回も検証し、自然や時代の篩にかけられても残っているものだからです。

実体験を如何に観察していくか、それは反省と改善の繰り返しです。人生経験の豊富な人や長老たちは知恵の宝庫です。それは人生の中で何度も試行錯誤して学んできたからです。

そう考えてみると自然界も同じです。

すべての生き物は知恵を持っています。それが進化に現れていきます。時代が変わっても環境が変わっても適応していきます。そして知恵に生きている生き物はずっと生き延びています。長いもので数億年も同じように生き続けられています。それは自然の法則に沿っていることであり知恵そのものを生きているからでもあります。

知恵は自然の摂理です。自然の摂理というものは、私たちは自然の一部ですから自然が存在している以上、自然に寄り添って自然の知恵を持てば自然と共生していくことができます。

逆に自然から離れて、自然から反するとそれは知恵ではありません。私たち人類は、知恵を捨て知識ばかりを得てきました。知識を得たから自然の摂理を忘れていきました。すると、ある時、自然の摂理を思い出すようなことに遭遇します。そして謙虚にまた知恵を学び直すのです。

私たちは知らず知らずに自然の摂理の中に存在します。この身体も、そして心も精神も、これは空気があるように水があるように、朝晩があるようにあらゆるところに絶対的な影響を受けていきます。そんなものを疑ったり、分かれたりすることは意味もなく、自然であることに安心し、知恵を学ぶことで仕合せの意味を感じ直すこともできるのです。

最近、ウェルビーイングが世界的に流行っています。生き甲斐や働き甲斐、また暮らし甲斐など心身健康である生き方のことです。逆を言えば、心身不健康になっているから求めているということでもあります。

自然に寄り添うということの豊かさ、そして自分自身であることの仕合せ、真の喜びは自然体の中にあり、それは知恵を学び直すことで得られます。私の取り組む「場」にはそれがあります。

子どもたちに子どもらしく子どもが憧れる未来と共に今を歩んでいきたいと思います。

仮想と陰徳

現在、新しい通貨がどうとかこうとか色々と騒がれています。仮想通貨が新しい経済をつくるというのもわかります。もともと仮想というものの定義が何か、IT用語辞典で引くと「実際には無いが、仮にあるものと考えてみること。 仮に想定すること。 ITの分野では慣用的に “virtual” の訳語として「名目上は違うが、実質的には~であるとみなせる」という(本来とは少しずれた)意味で用いられる。」とあります。

仮想は英語では「virtual」と書きます。これははラテン語の「男らしさ」を意味する言葉で「目には見えないがあるもの=事実上の」という意味になったそうです。英単語としては、virile(男性的な)virility(男らしさ)virtually(事実上)virtue(美徳)とあります。

私にとっての仮想は、この「virtue・美徳」に近いものがあります。それで徳積帳を開発したのです。これは「物理的な効力 [virtue] によって本質的に存在することという意味です。つまり、実践することで顕現する効果ということでもあります。これは日本語の仮想の意味とは異なります。本質的な言葉の意味は、「陰徳」なのです。

変なことを言っていると思われるかもしれませんが、私にとっての仮想は陰徳という定義です。そもそも仮想通貨も、通貨の側面を意味しています。価値を道具で交換し合うところから生まれたものですが現代の世の中はお金でなんでも交換できるように仕上げてきました。その結果、ある意味でとても便利な世の中になりました。しかしまたある意味でとても冷めた物質的で機械的なものにもなってきました。

現代、真の豊かさという言葉が出てきているのもまた貧富の差が開く一方であまりにもお金に支配されたこの社会システムにつかれてきた人が増えてきているからかもしれません。

私がこれから取り組む仮想空間は、「場」です。この場には、いのちが宿りその顕現する姿として「道」が現れます。それを「場道」と呼び、現代の人たちが忘れてしまっている初心を思い出すため、暮らしフルネスという体験を通していのちを甦生させていくのです。

現代の社会では、なかなか意味が分からないことをやっていると思われますがそのうち時代が追いついてくるはずです。その時、この仮想が陰徳であったことの事実を人々は悟るように思います。これは宗教ではなく、自然科学の現象の一つを改めて気づき直すということでもあります。

研究者も増え、そして実践者が増えていくとき、私たちはその価値観を学び直し、先人たちの生き方を尊敬し、子孫たちへ徳を譲る世の中にしていけると思います。

私は粛々と深く静かに私の提案するブロックチェーンが実践して具現化したものを表現していこうと思います。ここで根をはり花を咲かせ、実をつけ、そして種になっていきたいと思います。

和紙とは何か

英彦山の宿坊、守静坊の甦生のクラウドファウンディングの返礼品を用意するために和紙の準備に入っています。和紙の定義は、現在では西洋から伝わった製法の木材原料を主とする洋紙に対して、むかしながらの製法でつくっているのが和紙と言われます。他にも手漉き和紙のみが本来の和紙という定義もあります。また最近では原料に三椏や楮が100%使われたり、機械でも手すきに近いものも和紙と定義されたりしています。

何が和紙というのかは、それは個々人の受け止め方ですから厳粛に何が和紙かということはわからなくなってきています。以前、伝統のイグサで畳をつくっている農家さんからイグサは加工品ではなく生産品であるという話を聞きました。つまりいのちあるものとして生きているものだということです。

私にとっての和の定義は、いのちがあるものということになります。そういう意味で和紙は、私にとってはいのちのあるものでつくっているものという意味です。それでは何がいのちがあるのかということになります。

もともと日本の和紙作りの三大原材料として使われているものは楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)です。この植物を収穫し、丁寧に扱って和紙の原料をつくっていきます。それを和紙職人が、一枚ずつ手で漉いていきます。私もその場面を何度も観ましたが、とても神秘的で神々しい様子です。

その和紙は機械ではでない風合いがあります。これは手漉きだけではなく、最初からずっと完成するまで日本の伝統的精神でつくられているからです。

和というのは何か。

この問いは私にとっては明確な定義があります。それは日本の心でであるということです。日本の心とは何か、それは思いやりのことです。思いやりを忘れない、すべての主体をいのちとして主人公としていのちをすべて全うできるように配慮や尊重があること。

そうやってつくられたものだからこそ、和であり和紙になるのです。

だから自然の篩にかけられても長持ちし、何百年、もしくは千年を超える時間を維持することができるのです。そういういのちを入れるものだからこそ、むかしはお札にも使われていて人々の暮らしを守ったのでしょう。

返礼品は、このいのちをそのままお届けしたいと思います。

英彦山の守静坊から思いやりを伝承していきたいと思います。

徳治の世

自分らしさというものがあります。これは個性でもあり、その人にしかない天命というものもあります。誰かと比較してではなく、その人がその人にしか与えられていないいのちを最大限発揮していくということです。それが自由でもあり自立でもあります。そしてそれが社会の役に立つようになれば人類の仕合せもあります。

社会で役に立つようにするには、みんなでお互いの自分らしさを尊重し合うような寛容な世の中である必要があります。それぞれがお互いに反省し合い、そして認め合う世の中にしていくことです。

誰かが正しい、誰かが間違っているとなっていがみ合えばいつまでも対立構造が変わらず争いが絶えません。しかしお互いに尊重し合うようになれば、自分も正しい、みんなも正しいという具合にそれぞれの違いを認め合えるようになります。

そのためにどうお互いに折り合いをつけるのかを対話するのが人類の叡智です。

人類は、太古のむかしから真の豊かさとは何か、そして真に平和な世界は何かということを何度も何度も反省しては築こうと努力してきました。そして徳による政治を行うことを孔子は説きました。つまり徳治の世にするということです。

自然界というものは、弱肉強食と教えられます。しかし果たしてそうでしょうか。サバンナやアマゾンをみていても、お互いに自制し合い、尊重し合いながら自然の摂理に従ってお互いのいのちを精いっぱい発揮しています。自然界はまさに自分らしくあります。弱肉強食は、何度も立場が入れ替わりますからお互い様ということです。

人間はその自然の尊重し合う仕組みを捨てて、一方的に権力や権威で集団をまとめようとしていきました。その方が、都合もよく実は時代が変わってもこの辺はあまり変化していません。しかし、この時代、情報化も進み、人類も世界と結ばれ、国境もなくなってきました。人類としてどう生きるのか、どう自分らしさによって真の豊かさに近づけていくのかをみんなで対話する時が近づいているように思うのです。

そのモデルをどの国の誰がやってみせるのか、そして深く静かに実践することで形どっていくのか。今、人類は試練の時です。だからこそ、子どもたちのために徳積財団を立ち上げ、徳治の世を実現しようと挑戦をはじめたともいえます。

いよいよ、宿坊の甦生もひと段落して本懐であった徳積堂の運営をはじめていきます。子どもたちに譲り遺していきたい懐かしい未来を今、この時代に甦生して実践していきたいと思います。