善根の真心

善根宿(ぜんこんやど)という言葉を知りました。別の言い方では、御蔭宿ともいいます。これは諸国行脚の修行者、遍路、または行き暮れた旅行者などを無料で宿泊させる宿屋のことです。ただなぜ善根というのか、それはお遍路さんに奉仕をし孝徳を積むことができるかともいいまます。

この孝徳とは、孝行の徳のことです。自分の親を大切にするように、喜ばせて大切にするということです。親孝行とは、子が親を敬い、親に尽くすことをいいます。

デジタル大辞林には、《「ぜんごん」とも》仏語。よい報いを招くもとになる行為。また、さまざまの善を生じるもとになるもの。「善根を積む」「善根福種ふくしゅ」とあります。

もともと仏教には、因果応報の法則というものがあります。そこには「善因善果」(ぜんいんぜんか)「悪因悪果」(あくいんあっか)という言い方をします。これは「善い行いをしていれば、いずれ善い結果に報いられる」その逆に「悪い行為には、必ず悪い結果や報いがある」という意味です。

これは地球を含め、丸い球体をみればわかります。どんなに遠くに投げたものでも必ず自分のところに戻ってきます。つまりどのようなものを積んでいるかで、その積んだ因果が長い年月をかけて戻ってくるのです。その時、善い種を蒔く人は善い花が咲くし善い実を漬けます。そうやって、どのような因果を積むかということを常に意識するのが人生をよりよくする一つの知恵でもあったのでしょう。

しかし実際は、宗教とは別に自分の人生を善悪のどちらかでいるためにこんなことをやっているのではかったのではないかと思います。私の思う信仰は、自他を喜ばせることです。みんなの喜びと自分の喜びが一致することです。それを私は徳積みと呼び、お布施といいます。

お布施行としての善根宿であり、まさに御蔭様で宿っているということでしょう。お互いに仕合せになりような巡礼にしていたのが、本質的な宿坊の役割だったのではないかと思うのです。

仲間や巡礼路の甦生に手掛けていますから、私自身もその一つの役割を果たせるように善根の真心で取り組んでいきたいと思います。

伝統的な稲作

今日は、福岡の自然農の田んぼで田植えを行います。毎年、参加する方々が異なり一期一会の田植えです。今回は、近くでブロックチェーンを学ぶ大学生たちも参加してどのような感想が聞けるのか今から楽しみにしています。

思い返せば、2012年からこの自然農での田植えをはじめています。その前も自宅の庭で色々と試してみましたが田んぼで本格的に取り組むのは10年前くらいからです。毎年、新しい仕組みを試行錯誤しながら一度も同じことをやってきませんでした。

それくらい、田んぼは好奇心を磨き喜ばせ、大変なことが多いのですが飽きることがありません。私の場合は、収量にこだわらず、生き方や育ち方、そして環境の見守り方にこだわりますから一般的な農家さんと目線も取り組み方も異なります。

しかし10年も続けていたら、知識も智慧も増え、田や稲との関係性から学んだことが人生に大いに役に立ち始めています。そもそもこの稲作というのは、日本の風土で生きていくための智慧の宝庫です。

水をどう扱っていけばいいか、そしてどのようにみんなで協力していけばいいか。さらに、種をどのように扱い増やしコントロールしていけばいいか。人間が謙虚で感謝を忘れない暮らしを維持していくための仕組みが入っているように思うのです。

今のように、全部機械で自動化し、科学肥料や除草剤、農薬をつかって便利な農法になってからあまり謙虚さや感謝などは感じにくくなってきています。

しかし本来、この日本の稲作はある意味で信仰に近いもので道です。

この稲作道というか、八十八の丹精を通して私たちは日本の和の心を伝承してきたと私は確信しています。これまで大切にしてきた生き方は伝承していくことは、先人からの恩恵に感謝し続ける大切なことです。時代が変わっても、何を変えてよくて何を変えてはよくないか。それはその時代の当事者たちの大切な責任です。

保育に関わるからこそ、私たちはこれからもこの伝統的な稲作を継承し、子孫たちへ伝承していきたいと思います。

守静坊から皆さまへの感謝

一つの偉大なことを為すのは一人の力では成しえません。それはよく振り返ってみればわかります。本当に多くの人たちが助けてくださって、関わってくださってそして一つになります。

つまり一つというのは、みんなで一つということでそれだけ歴史の中で偉業は行われてきたのです。つい歴史の本などには、誰か特定の一人だけがフォーカスされてその人がさもやったかのように記されます。しかし果たしてそうでしょうか。そんなことは絶対にありません。

その当時、その一人に共感してお手伝いしてくださった多くの人たちの人生や願い、想いがあります。それが形になったものが偉業であり、その偉業はその人の名前で為したみんなの偉業ということになるのです。

今、英彦山の宿坊の甦生で本当に多くの方々のお力をお借りしています。本日も、いよいよ茅葺屋根の完成と足場の解体で結をお願いしたら50名以上のお手伝いをいただくことになりました。

思い返せば最初から本当にいろいろな方に関わっていただき、そしてここまで出来上がったのは皆さんが力をお貸ししていただいたことの結晶であり、集積です。それが建物に宿り、いのちを吹き替えてしています。

最初は空き家でボロボロ、シロアリが食べ、野生動物が棲み、暗くジメジメとした廃墟のような状態でした。このままでは、この家は失われて歴史が消えてしまうという声もあり、様々なご縁が背中を後押しして甦生させていただくことになりました。

とても最初は一人では途方に暮れるような話で、不安や心配ばかりでしたが一人、また一人とお手伝いいただいたことでどれだけ心を励ましていただいたかと思うと感謝しかありません。

この後、宿坊でどうするのかというという声もありますが今はそんなことは何も考えられずただただ感謝と恩返しがしたいという気持ちがあるだけです。宿坊が素晴らしいともしもこの先、褒められることがあるとしたらこれは甦生に参加していただいた皆さんが素晴らしいと褒められたということだと私は感じています。

最後まで皆さんの真心に応えられるように、みんなの一人としてやり遂げていきたいと思います。いつも本当にありがとうございます。

真の天狗

むかしから「天狗になる」という言葉があります。そして同時に「天狗の鼻をへし折る」という言葉もあります。もともと「天狗」は深山にすむという想像上の妖怪のことをいいます。

一般的には天狗は赤い顔で鼻が異様に高く山伏姿をしていて手には団扇や混合杖を持っています。そのうえ翼があって空を飛び、特殊な神通力をもつ存在だといわれます。また実力もないのに自慢したり怨恨や憤慨によって堕落した僧侶は天狗道という魔道に入ってしまうといいます。慢心から堕落するといわれたそうです。

慢心は身を滅ぼすという言葉もあります。高い地位や名誉、また肩書を持てばもつほどに謙虚にならなければ身が滅ぶということなのでしょう。先人たちは、そういう自戒を込めて天狗になることを戒めたのかもしれません。

増上慢という言葉もあります。これはデジタル大辞泉を引くと 仏語。未熟であるのに、仏法の悟りを身につけたと誇ること。七慢の一。 自分を過信して思い上がること。また、そういう人や、そのさま。「増上慢をたしなめる」とあります。

悟っていると勘違いしてしまうと人は謙虚さを失うのでしょう。悟りは状況環境で変化するからこそ、その唯今の悟りを悟り続ける謙虚な修行の姿にこそ慢心を戒める生き方があるように思います。修行そのものが悟りであり、悟りは修行そのものであるということだと私は思います。

どんな時も、自分に矢印を向けて反省を繰り返しながら自己を磨き続けていこうとするところに魔道に入らない本質的な天狗道があるように私は感じました。人間は、すぐに他人と比べては競い争い、嫉妬し評価するものです。しかし、そういう気持ちが慢心を生み、謙虚さを遠ざけていく原因になっていきます。

そうならないように謙虚であるには、自戒をもった生活を心がけ、初心を忘れないように実践を磨いていく環境をととのえていくことがいいようにも思います。先人たちはそれを暮らしで実現していたようにも思います。

最後に、座右の銘を最初に作った人に崔瑗という学者がいます。この崔瑗の座右の銘を空海が筆写して日本に持ち帰り広がった自戒があります。空海というあれほどの人物だからこそ謙虚を磨いておられたのでしょう。そこにはこう記されます。

「人の短を道うこと無かれ、己の長を説くこと無かれ。人に施しては慎みて念うこと勿かれ、施しを受けては慎みて忘るること勿かれ。世誉は慕うに足らず、唯だ仁のみを紀綱と為せ。」

意訳ですが、「人の短所は追及してはいけない、そして自分の長所や能力は自慢してはいけない。人に良いことをしたり恩を施したことは早く忘れなさい。しかし、人から受けた恩は決して忘れてはいけない。世間の名誉を得ようなどとは思わず、ただ真心や思いやりのみを心の拠り所にして道を歩んでいきなさい」と。

私も深く反省をして、自分自身の初心を忘れずに専心していきたいと思います。

 

 

この道を究める

自分の道を歩んでいくなかで、大勢の方から評価されることがあります。その評価は賛否両論あり、それぞれの意見があります。人には価値観があり、それぞれに生き方も異なりますからそのどちらも参考になります。

しかし時折、親しくなりたい方や、大きな影響力をある方、認めてもらいたいと思っている方からの意見に自分が揺さぶられてしまうことがあります。

人が自分を見つめるというのは、こういう時かもしれません。

自分を見つめるというのは、自分というものをもう一度、外の目、内の目、全体の目で観直してみるということです。その中で、自分はいったいどうしたいのか。そして周囲はどう思うのか、自分の初心、役割、天命はどうしたいのかと自分自身を掘り下げていきます。

自分を掘り下げていくなかで、本当の自分に出会います。そして本当の自分の声を聴いてどういう結果になっても悔いのない方を生きようと心で納得するのです。

すると、結果に限らずその人はその人らしい人生を生きていこうとします。つまり自分らしく生きていくのです。

私は子どもを見守ることを本志、本業にしています。なので、試練はいつもそれを見守れるかどうかというものを見つめる機会があります。童心、そして道心を守れるかと自己に問うのです。

子どもが子どもらしくいられる世の中をつくりたい。そして子どもの憧れる生き方を実践したいと決心してから今があります。それは自分の中にある子どもを守れるかという覚悟と一心同体でもあります。

しかし有難いことに、事があるたびに救われるのはその自分の中にある子ども心であり納得していきていこうと約束して決めた二つが一つになった自己一体の本心です。

本心のままに生きていけるように、強く逞しくしなやかに、素直に謙虚にこの道を究めていきたいと思います。

純粋性

人生の中で感動するものの中に純粋性というものがあります。この純粋性は、その人の真心や本心に触れるとに顕現してくるものです。すぐに人は物事を頭で考えては、それが正しいか間違っているか、深いか浅いか、意味があるかどうかなどで裁こうともしますがそれでは心か感動する機会を失ってしまうようにも思います。

心というものはもともとは純粋性が備わっているものです。

なので人は心からの行動や言葉、心のままに生きている人をみると感動するのです。産まれて間もない子どもたちや、もしくは生き物たちの素直な行動に心を打たれることも多いように思います。

この純粋さというのは、純粋なものから引き出されていくように思います。自然界にはこの純粋なものが溢れていて、それを見出しその心を自分に投影するなかで純粋性もまた磨かれていくように思います。

心のままであるようにするには、色々な心のまわりにこびりついていくものを綺麗に掃除して取り除いていく必要があります。これは暮らしのお手入れも同じで、日々に積もってくる塵や埃を掃除し、そして次第に色あせてくるものを布で拭いて磨いていくような取り組みが必要です。

結局は、人は純粋性を保ち、この世で自分のままで生きていけるというものに憧れているように思います。私が子どもの憧れる生き方にこだわるのもまた、この純粋性を守りたいと願っているからかもしれません。

誰もが純粋のままでいられる世の中。みんなが素直になっている世の中。そこに美しい日本人の姿を感じます。

どの時代でも人は心の奥底で、純粋に生き切る人たちのことを尊敬しています。日々に純粋性を保てるように、暮らしフルネスの実践を味わっていきたいと思います。

いのりの道

伝統的なもの一つの信仰というものがあります。これは宗教とは異なっていて、むかしから自然と共生するなかで自然に発生してきた祈りの実践です。人は、祈りというものを感覚的に持っています。これは祈りのそのものといのちそのものが繋がっているからだと私は思います。

そもそもいのちというものは、自然から活かされている存在です。これはすべての動植物はじめあらゆる生命エネルギーが万物と共生しあうことで存在していることからわかります。

それが長い時間をかけて循環をし、あらゆるものが渾然一体となって活動しているともいえます。そしてそれは目に見えるものから目には観えないものまで膨大にかつ複雑に存在していますから私たちはその全体の一部としてこの今という世界に生き続けている存在ということになるのです。

そしてそれぞれに役割というものを持ち、いのちをかけてその役割を全うしていきます。一生懸命に自らのいのちに生きるだけで、私たちは自分にしか与えられていないいのちの使命を果たしていくのです。

そこには正否もなく、善悪もなく、そのいのちの全うこそに意味があり価値があります。

そのいのちの全うするなかで、私たちは時折、初心というものを忘れてしまいます。それは欲望や執着がうまれ、目先のことに流されて大切ないのちの存在を忘れてしまうからです。

そのいのちの存在を思い出すことが、伝統的な信仰であると私は思います。

そもそも信仰とは何かという話になりますが、私にとってはいのち=信仰です。これは宗教ではなく、人の生きる道です。つまり、人生道ともいうものです。宗教は真理が外側に存在していますが、信仰はいのちそのものです。そのいのちの存在を思い出すこと、いのちの存在に畏敬し触れようとするもの、そういう自然との一体化、共生のなかに太古のむかしから今も連綿とつながっているいのちの存在にいのるのです。

つまりいのりやいのるというのは、いのちの存在のままでいるということでしょう。

子どもたちにもこのいのりの生き方、そしていのりの道が続いていくことを忘れないように私自身も天命を全うしていきたいと思います。

自然から学ぶ

人はそれぞれに固定概念を持っています。今までの常識があるから思い込んでいるものはなかなか拭えません。特に最初からあったものに関しては、ほとんど疑うことがなくそういうものだと信じ込むのです。

これらの思い込みが執着になり、本質や真実がわからなくなっています。特に知識として誰かに教わって疑問を持たないとよりその思い込みは強くなります。

本当は文字や知識がなかったころ、人は何を見て学ぶのか。それは自然を観察して学んでいました。自然の中で発生する様々な道理や真実を直に観て、その本質を察知していきました。小さな変化から大きな変化、またこうすればああなるというように場数を繰り返して事実を学びました。

今では誰もがそうやって習得しなくても、言葉や文字によって便利になりある程度は理解し合えるようになりましたからその分、かつてのような本質の察知や道理の習得は失われていきました。

しかし、原理原則や道理、真実というのは基本であり基礎であり根本や根源の部分です。応用というのは、その原理原則をもっていることで発展させていきますから物事の道理を習得していた方がこの世の仕組みや知恵を発明するのに重要な役目を得られます。

例えば、私は自然農や伝統文化などに触れていますがそうすると道理や原理原則ばかりを見つめる機会が増えます。自然の原理原則に照らさなければ壊れる仕組みになっていますから、毎回、自然に近づき自然に寄り添い、自然の叡智をおかりしながら取り組むのです。

そうやっているうちに、自分が思い込んでいたものに気づき、大前提になっていた知識や執着が取り除かれていきます。世の中の当たり前を疑い、本来の自然にある当たり前に気づけるようになっていくのです。

こういう学問をしていたら、飽きがくることはありません。毎回、新鮮な学びがあり、気づくことが増えていくだけです。なにに気づくにか、それは自分の思い込みに気づくということ。そして新たな発見や発明に気づくということです。それはその道理や原理原則を応用する面白さに出会うからです。

人間の学問の根本は、この「自然から学ぶ」ことにあると私は思います。子どもたちのためにも、自然から学ぶ姿勢を伝承していきたいと思います。

歴史道

私たちは歴史というものを教科書で学びます。しかし本当の歴史は教科書には書いていないことがほとんどです。その理由は、歴史は勝者の歴史でありその時の勝者の目線で都合よく改ざんされていくからです。事実も、事実の様で事実ではありません。現実はさらに多くのものが関わり、同時に敗者の歴史もあるからです。

真の歴史を知るためには、起きたことを丸ごと理解して受け止めていくような歴史道のようなものがあるように思います。それは今まで連綿をつながってきたものにアクセスをし、それがなぜ行われていたのかをその土地や文化から学び、それを辿りながらかつての人たちの想いをつないだり甦生させていく過程で学ぶのです。

つまり本当の歴史は人々の心を伝えていく中にこそ存在するということになります。これは人の生きる道であり、まさに連綿と続いている歴史です。

歴史は生きているというのは、生き続けているということです。つまり生ものですから保存するには漬物のように漬け直して発酵させ続けていく必要があるのです。保存とは本来、放っておいて保存はできません。そこにはお手入れが必要です。そのお手入れは、物であれば行事ごとに出したり仕舞ったり、片づけたり、そして磨き直して手入れします。これが食べ物であれば、先ほどの漬物のように何度も漬け直して腐敗しないように手塩にかけて守っていくのです。

歴史も同様に、常に私たちが手塩にかけて育てていくものであり、また定期的に古くなり腐敗しないように漬け直していくことで甦るのです。

形だけを残すのなら、ホルマリン漬けや氷漬けにして深い暗闇で光が当たらないところで保管すれば可能かもしれません。しかし、そんな形式だけ残っても何の意味もないのです。

私がやっている歴史の甦生は、形をただ残すことに意味を感じていません。そうではなく、その歴史の道を残すことの方が大切だと思っているのです。そのためには、先ほどの伝統保存食の知恵がそのまま使えるのです。

私が漬物から学んだのは、この甦生や保存の知恵でありそれが和の心であり、すべてにおいて対応できる道の処し方とつながっているのです。

子どもたちのためにも、真の歴史を伝承しその知恵がどの時代でも活用できるように私の役割を全うしていきたいと思います。

 

 

目と心の和合

欲に目がくらむという言葉があります。目というのは眩いものに弱いようでどうしてもキラキラしていると目がくらみます。他にも目の格言を色々と調べてみると面白い言葉が多いことに気づきます。目から鱗がおちるというものがあります。これは何かがきっかけとなって、急にものごとの実態がよく見え、理解できるようになることのたとえです。

他にも、目にまつわることわざはたくさんあります。どれも共通するのは、目というものがそれだけ人間の感情や心の状態を示している部分であることがわかります。目は口ほどにものを言うという言葉もあります。それだけ、この目は影響を与えあっているということです。

日ごろ何を見ているのか、どんなものを見るのかでもその目の状態は心に影響を与えます。人は自分が何を目を通してみているかで写りこむ世界が変わります。

掃除をしたりゴミを拾ったり、磨いたりしたあとはまるで曇りガラスが綺麗になったあとのように世界も鮮明になります。その逆に、都会のネオンや派手な人工物をみていたら目が疲れて澱んでいきます。いくら澄み切った青空があっても、美しい山々があっても、広大な海の前に立っても、その目の状態次第で真実や本質は目には入ってきません。

よく座禅をしていて「半眼」というのを行います。これは目を半分開いて、半分閉じている状態のことです。 つまり目を見開いているのではなく、心の眼が半分、あとは残り半分。つまり全部目でみずに、心の眼で自分を見つめている状態になっているともいえます。

目で追いかけているうちに、人は不安が増えていきます。あまり見すぎてしまうのはかえって余計な疑念を生み、自分の見たい証拠ばかりを目で追いかけてしまうものです。

目で目は見えぬという格言もあります。これは自分の欠点は自分ではわからないということです。そういう時は、素直に謙虚に自分の目がどうなっていますかと、澄んだ心の目を持つ人、または真実や本質を見ようとしている人にアドバイスをいただくのも一つの半眼かもしれません。

子どもたちのためにも、丁寧に目を閉じ、そしてゆっくりと開き、瞬き一つが修行と思って心を研ぎ澄ませていきたいと思います。