道具の役割

道具というのは使われるなかで磨かれていくものです。特に使い手が徳のある人物であったり、その目的が偉大であればあるほどに道具の質も変化していきます。これは道具の話でもありますが、人間の話でもあります。

人間も道具と同じように、何か天や神意に使われることで磨かれ偉大になっていくものです。尊敬して已まない方々をみると、みんな一様に何かに使われている感じがします。

それは自分が使っているのではなく、何かしらの偉大なものに使役しているのです。それをよく人は、「神懸かる」という言い方をします。この神懸かるという言葉は、辞書を引くと「計り知れない、神霊の仕業かとも思われるような様子を表す表現。」とあります。別の言い方では「神霊が人のからだに乗り移る。また、人が普通と違うようすになることにもたとえていう。」ともあります。

つまり使い手の意志が道具に乗り移りそのものになっているということです。

これは自分の身体でも同じではないかと思うのです。魂が宿っているのが自分の肉体ということであれば、その魂懸かるのが自分ということです。純粋であればあるほど、精神を研ぎ澄ますほどに自分の魂が外側に出てきます。

私の尊敬している新潟の方がまさにそのような方で魂が外に顕現しています。純粋さや純粋性を磨き切ると、人は神懸かるのかもしれません。

日本刀のような美しさもまた、その魂を磨いていく中でこそ味わえる境地です。

英彦山に関わっていると、私の中の純粋性が磨かれていくように感じます。お山の御蔭で今まで感じなかったこと、観えなかったことなども近づいてきています。少しでも恩返ししたい、お役に立ちたいと取り組めばさらに純粋性が高まります。

これから何が起きるのか、わかりませんが心を澄ませて、魂を研ぎ澄ませ、邪魔にならないように道具としての役割を果たしていきたいと思います。

守静坊の枝垂れ桜

ついに念願の英彦山守静坊の枝垂れ桜が開花をはじめました。この枝垂れ桜は、文化・文政の頃(1804年~1819年)に、英彦山座主の御使僧として京都御所へ上京した真光院普覚という山伏が祇園枝垂の苗木を持ち帰り植樹したものだと伝わっています。

この枝垂れ桜の樹齢は約200年。高さ約15m、幅20mで、品種は一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)と言われています。

京都の祇園の桜のことを調べていたら、祇園枝垂れ桜というものが円山公園にあることを知りました。円山公園は、八坂神社の東側にひろがる京都で最も古い公園です。

なんとこの品種も守静坊と同じで「一重白彼岸枝垂桜」なのです。かつて歌人・与謝野晶子も愛でたという大きな桜は、現在二代目のものです。初代のシダレザクラは、根回り4m、高さ12m、樹齢200年余あったそうですが昭和13年、天然記念物に指定されましたが、昭和22年に枯死したといいます。現在の桜は、これに先立つ昭和3年に、15代佐野藤右衛門氏が初代のサクラから種子を採取し、畑で育成したものを同氏の寄贈により、昭和24年に現地に植栽したものだそうです。現在の容姿は、樹高12m、幹回り2.8m、枝張り10mとあります。

不思議に思ったのですが、守静坊の枝垂れ桜と初代の枝垂れ桜の年代がほぼ同じです。これは私の直観ですが、この桜はもとは同じ桜だったのではないかと感じます。現在の2代目の円山公園の枝垂れ桜は京都は南山城の井手町にある地蔵院の枝垂れ桜を株分けしたものです。この地蔵院の枝垂れ桜の写真をみたら、守静坊の枝垂れ桜にそっくりなのです。

その当時に思いを馳せると、どのような物語があったのかを想像しロマンを感じます。それが200年の歳月を経て、このタイミングで京都と英彦山がつながり枝垂れ桜のご縁で日本文化や信仰を甦生する場が誕生するのです。

ご縁というものは、時空を超えていきます。

どこまでがシナリオ通りなのか、それは神のみぞ知る世界です。私はその天意を邪魔しないように器として支えていくのみです。

皆さんと一緒に、枝垂れ桜の物語を未来に紡いで子孫たちの平和を祈念したいと思います。

学友との出会い、新たな平和への挑戦

友人のヤマップの春山慶彦さんの協力で英彦山宿坊のクラウドファウンディングをすることになりました。春山さんとは、2年前に宗像国際環境会議の座談会を聴福庵で行った時からのご縁です。

その時を思い返せば、穏やかな佇まいで語り、静かな情熱と哲学、美意識を持っている行動力のある姿に感銘を受けたことを憶えています。そこから約2年、ご縁からの行動を共にしたり英彦山の甦生への取り組みを通してさらにその人柄をすばらしさを実感しました。

振り返れば、その時々に場に誠実に、そしてどんなことからも吸収し学びを深めようとする実直な姿勢がありました。また、山のような深い心をもち長い目で物事を観て矛盾を受け容れつつ今を楽しもうと挑戦をしています。本をよく読み、知識を得ますが同時にそれを社会にどのように還元しようかと常に思案をしています。これは2年かけての私の勝手な人物評ですが、まるで「懐かしい日本の青年」という感じでしょうか。

今、世界戦争の足音が次第に近づいてきています。

私は戦後生まれですから戦争を知りません。しかし知覧の特攻の話や、沖縄の話をその土地のおじいさんやおばあさんから口伝で聞いたり、遺ったお手紙や日記、取材の内容を読んでいるとその当時の日本の青年たちの姿が観えてきます。

その姿は事に及んで真っすぐで誠実、家族のために社会のために自分の使命を全うするために深く学び、そして笑い、苦労を惜しまず命を懸けて運命を受け容れ実直に駆け抜けています。その根底には、深い優しさや悲しみ、そして思いやりを感じます。

私たちの心には、誰が与えたかわかりませんが最初から「真心」というものがあります。その真心に気づき、真心を盡そうと生きるとき、日本人の懐かしい何かに触れていくように思います。きっと歴史の中の青年たちは、この真心を常に生きていたのではないかと私は思うのです。

時代は現代、平和が続いて半世紀以上経ちました。平和で物質的豊かな時代を生きた私たちは何か大切なものを忘れているのではないかということに気づき始めてきています。これからどのような選択をするのかを決めるためにも、私たちはその当時の日本人の願いや祈り、その想いを改めて今こそ思い出す必要があると私は思います。

今回の英彦山の宿坊の甦生は、かつての日本人の心のふるさとを思い出すための大切な象徴になると信じています。

子どもたちに、何を伝承していくことが真心なのか。それは時代時代の人々の真の生き方であることは間違いありません。身近な学友から生き方の素晴らしさを学び合い、磨き合うような出会いをし、新たな平和を築くための挑戦を続けていきたいと思います。

樽の伝承

伝統の堀池高菜をむかしの樽に本漬けしました。このむかしの樽は、隣町にある伝統の味噌屋さんの蔵や建物が解体されるときにいただいてきたものです。もう随分と長い間、味噌をつけていましたが機械化したり樽がプラスチックになったりして使われなくなったものです。

昨日、樽をもう一度綺麗に洗ってみるととてもしっかりとできており隙間もありません。水をはってあげると、出番に喜んでいるような気がして使っているこちらも嬉しくなりました。

そもそも樽の文化はいつがはじまりなのかはよくわかっていません。世界ではおよそ2000年前にケルト人が金属の箍で木の板を張り合わせた丸い樽を作ったのがその始まりともいわれています。

日本国内では鎌倉時代末期に生まれ、室町時代に酒造業などの醸造業の発展と共に急速に広まっていったともいわれています。木工技術でいう結物(ゆいもの)の代表が、この樽や桶です。なので桶や樽を結桶(ゆいおけ)・結樽(ゆいたる)と呼ぶ場合もあるそうです。

これは従来の曲物の桶や樽に比較して強度・密閉性・耐久性に優れ、酒や醤油・油・味噌・酢・塩など液体や水に溶けやすい物資を入れて輸送するのにもとても役立ったといわれます。

もともと桶は、杉や檜などの板を縦に並べて底をつけ、たがでしめた円筒形の容器のことです。そして樽は、同じく「たが」で締めた円筒状の桶の形と同じですが蓋(ふた)があってお酒やしょうゆなどの液体を持ち運ぶのに重宝しました。どちらかというと、発酵させるもの全般は桶よりも樽を用いられています。

この樽の語源は、「ものが垂れる」=「垂(た)り」からきているといわれます。樽という字は木偏(きへん)に尊(たっと)いの組み合わせでできています。つまり「神に捧げる尊い酒壺」という意味で、樽は「神に捧げる入れもの」だったそうです。

よく神社にいくと酒樽が奉納されていますが、まさにあれは樽そのものの本来の役割を見事に顕現している姿です。神様に捧げると思ったらそういう品のある自然の器を用意したいと思うものです。そうなると私ならやはり木樽になります。

大事に育ってくれた高菜だからこそ、その高菜を漬ける塩も、ウコンもそして樽も本物にしたいと思うようになるものです。そしてその樽を安置する場所も、ととのえて清浄にしたいと思うようになります。

よく私はこだわりが強いといわれますが、こだわりが強いのではなく当たり前のことをやっているだけです。当たり前のことがなくなってくるとすぐにそれがこだわりだといわれるものです。

丁寧に暮らしを結んでいくなかで、本来どのようなものが本物であったか。それは自然を尊敬し、日々を大切に丹精を籠めて生きていれば自ずから本物に近づいていくものです。

子どもたちにも本物に囲まれた暮らしを伝承していきたいと思います。

知恵の本質

経験というものは知恵そのものです。人は経験をするという時点で知恵を得ているともいえます。経験をよく観察すればするほどに、そこには知恵が隠れていることがわかります。失敗をすることも成功をすることも、それは実はどちらでもよく大切なのはそこから何を学んだかということです。

この経験は、時間が経つことで観えてくる境地があります。経という字は、もともと縦軸の意味があります。つまり長い時間をかけて培われてきた知恵のことです。お経もひょっとしたら、その経の意味もあるのかもしれません。

そしてその縦軸の経験をじっくりと何回もその時々で観察してみる。すると、時間が経つにつれ、経験の質量が増えていくにつれ知恵が鮮明にかつ多面的に入ってくるようになるのです。

一つの小さな経験が、他の経験の助けにもなります。

よく一つを極めた人が、他でも極めていく道楽者の人たちをみかけますがこれはあらゆる経験から知恵を会得しその知恵によってまた別の道も達していくのです。先達というのは、あらゆる知恵を会得するような経験や体験を修練を積んで得た人です。

私たちは今、頭ばかりつかって知識を得ていますがそれで分別知は磨かれます。わかりやすく整理され、複雑な言語を使い分けまた新しい定義の言葉を産み出せます。しかし現実の世界では、現場がありますから場に真実が出てきます。

その場は、身体感覚や五感、そして直観や第六感などあらゆる全体を駆使して知恵を活用していかなければ物事を真に理解し全体と調和していくことができません。つまり知恵が必要になるということです。

子どもたちには、知恵を学ぶことの大切さを背中で伝えていきたいと思います。自分を信じて、経験をすること、観察すること、そして修練を積み、知恵を磨くことを伝承していきたいと思います。

平和のために

現在、ロシアとウクライナの戦争が激化してきて報道で一般人が大勢被災している映像が流れています。暴力というものは、どの時代にもありますが改めてそれを目の当たりにすると平和であることの大切さを思い出します。

平和とは、永遠に和み続けている状態のことです。

これは力で乱暴に何かを押し付けるのではなく、みんなで分け合い分かち合っているものです。誰かだけが富を独占したり、誰かだけが権力を維持したり、誰かだけが特別扱いされる環境ではなく、地球に一緒に生きる大切な仲間としてみんなで苦しみも喜びも仕合せも分かち合っている心がそのまま和んでいるということです。

差別せずいのちを尊重し、いのちを大切にする。いのちには違いがないからです。そのいのちを粗末にせず、いのちを乱暴に扱わない。これは地球の平和をさらに育てます。私たちに真の教育の意味があるのは、本来は人類が平和を司るための知恵なのです。

人類は傲慢になると謙虚さを失い戦争をします。戦争をしてまたいのちの有難さや大切さを学びます。本来は、わたしたちは小さな虫から植物、動物にいたるまであらゆるもののいのちを尊び、その寿命を大切に分かち合って暮らしてきました。伝統的な和の暮らしは私たちが傲慢にならない一つの仕組みであり知恵でした。

現在の教育は偏差値や成績ばかりで他と比較し競争させ、知識一辺倒で思い込みばかりを増やし仮想に偏っています。本当は、自然のなかで一人ではないことを知り、平和を学ぶのが教育の本義であったはずでそれが市場原理や経済優先の社会で蔑ろにされてきています。

そういう人が教育され大人になり社会にでて、平和を望むのか。むしろ孤立し戦争の温床をつくっているかとさえも思います。自分のいのちを大切にすること、自分以外のいのちもまた大切にすること。それをいつまでも忘れないようにみんなで平和を保とうとしたのが「暮らし」だったのでしょう。戦争は暮らしが破壊されるときにすでにはじまっているのです。戦争をする人の暮らしはほとんど破綻しているからです。

私が「暮らしフルネス」を提唱するのもまた永続する平和のためなのです。

日本人の親祖をはじめ先人たちもそれを知っていました。きっと戦争の苦しみのなかで必死に平和を生きる方法をみんなで悩み対話して考え抜きました。そこからみんなで一緒にお米作りをして藁ぶき屋根を葺き、自然の素材を最後まで大切に使い切るような意識でみんなでいのちをもったいないと寿命を丁寧に使い切ったのではないかと思うのです。これが子孫の平和と繁栄のためだと信じていたからでしょう。

今こそもっと長い目線、縦の歴史を学び直すことだと私は思います。

今、戦争が起きていますがもっとむかしも同じように戦争はありました。暴力で苦しんだなかで今の平和をつかみ取ってきました。それを忘れないというのは先人や先祖たちの願いや祈りを忘れないことではないでしょうか。仏壇や神社を拝むのも、私たちはその先祖の祈りや願いを受け継いでいる存在だからでしょう。

私たちに今できることは、ただの正義のぶつけ合いや正論の押し付け合いではありません。そして運動ではなく、「実践」が必要だと私は思うのです。その実践とは、何か、それは一人一人の暮らしをととのえていくことです。一人一人の暮らしから立て直すのです。

身近なことでも戦争は防ぐことができます。それは一人一人の小さな実践、1人の100歩よりも100人の一歩が大切だと思うのです。これ以上、戦争の犠牲者が増えないことを願い、子どもたちのためにも暮らしの実践を通して祈りをカタチにしていきたいと思います。

 

和やかなテクノロジー

最近、ある人の紹介で「カーム・テクノロジー」(穏やかな技術)のことを知りました。これはシンプルに言えば、人、情報、自然が一体になって調和したテクノロジーのことを言うそうです。

もともと今のような情報社会になることをユビキタス・コンピューティングの父とも言われる有名なエンジニア、マーク・ワイザー氏はすでにその当時から予見していました。そしてそのワイザー氏が、現代のようなユビキタス・コンピューティングの時代に「カーム・テクノロジー」というコンセプトが必要になると予言していました。

このコンセプトは、テクノロジーが暮らしの中に溶け込み、自然にそれを活用しているという考え方です。このコンセプトは約四半世紀を超えて、人類に求められてきているテーマになっているということです。日本でも、この考え方を実装するためにmui Labという会社が京都に創業しています。この会社が監修したアンバー・ケース著の『カーム・テクノロジー 生活に溶け込む情報技術のデザイン』(BNN 2020年)にわかりやすくその内容の一部を整理しているので紹介します。

「テクノロジーが人間の注意を引く度合いは最小限でなくてはならない」

「テクノロジーは情報を伝達することで、安心感、安堵感、落ち着きを生まなければならない」

「テクノロジーは周辺部を活用するものでなければならない」

「テクノロジーは、技術と人間らしさの一番いいところを増幅するものでなければならない」

「テクノロジーはユーザーとコミュニケーションが取れなければならないが、おしゃべりである必要はない」

「テクノロジーはアクシデントが起こった際にも機能を失ってはならない」

「テクノロジーの最適な容量は、問題を解決するのに必要な最小限の量である」

「テクノロジーは社会規範を尊重したものでなければならない」

もともと、この「カーム・テクノロジー」(穏やかな技術)はなぜ必要になるのか。これは私なりの考え方では、自然を尊重するなかで如何にテクノロジーとの共生をするかは人類が生き延びるための普遍的なテーマだからです。これは避けては通れず、やり過ぎればどの文明も自分たちの技術によって滅ぶのです。これは歴史が証明していますからいつの時代でもその時代に生きる人が取り組む課題になるのです。そしてこの課題が発生する理由は、そもそも道具というものを使い進化するということの本質にこそあります。

元来、道具というものは、全て使い方から産まれるものです。そして使い方は、使い手の人間力そのものによって最大効果を発揮します。使い手が如何に人間的な徳を磨いてきたか、そしてその徳を積む環境の中で道具と調和をはかったきたか、そこには時代に反映された生き方と働き方があります。

道徳と経済の一致の話も同様に、人はどの時代においても謙虚や自然への畏敬、そして自分たちの文化や歴史を洗練させてきました。この時代においても、それは必要で今の時代は特にテクノロジーで便利になり過ぎているからこそ危険なのです。

自然環境が破壊されるのもまた、その行き過ぎた消費文明の中の技術主義にこそあります。技術が技術を調和するには、確かに私もこのカーム・テクノロジーが行き過ぎたテクノロジー依存の人類には必要だと実感しています。道具だけ進化させても人間力が伴わなければ片手落ちになるからです。それは、今の人類の核の利用をみても明白です。

私ならこういう時は先人に倣います。自立した先人たちがずっと大切にしてきた伝統的な日本の和の暮らしをととのえながら、その時代に発明された道具を必要最小限で最大の効果を発揮する仕組みを知恵として生活に取り入れるのです。

私が提唱する暮らしフルネスは、古民家の懐かしいもの、宿坊の仙人的な知恵に囲まれていますが文明のテクノロジーは否定していません。むしろどれだけテクノジーを人間力で高められるかに興味がありそれを実現させようと取り組んでいるのです。これを徳という砥石を使ってやりましょうと話しているのです。言い換えれば、私なら穏やかではなく「和やか」というでしょう。そしてこの和やかな暮らしこそ、人類を救うと私は確信しています。

和やかなテクノロジーを、この日本、この福岡の地から発信してみたいと思います。

真心の磨き合い

今日は、英彦山の宿坊「守静坊」の大掃除があります。有難いことに、大勢の方が片づけに加勢してくださいます。英彦山というお山の信仰の御蔭もあって、この半年間の間本当にたくさんの方々からのお布施や見守りをいただきました。

そして同時にいい出会いをたくさんいただきました。良縁というのは、想いの清らかなところ、純粋なところにあるように思います。そこには、皆さんご人徳があり、笑顔で仕合せを分かち合う場が誕生しているからです。

私は、場道家を自称していますが実際には皆さんの御蔭様で場ができ道がつながっています。私が一人で歩いでいるのではなく、同志たちと共に歩んでいく中で道ができてきます。

一人ひとり、大切なお時間をつかって駆けつけてくれたことはいつまでもその場所に記憶として遺っています。その記憶が、場をさらに醸成し色々な想いを引き付けてご縁を紡いでいくのです。

人は自発的に、真心で行動しているとき、本当の自分の姿を実感できます。心が先に動き、行動するときにこそその人の真の調和が発生しととのっていきます。真心は、さらにまた他の人の真心を集め磨き合います。

真心を磨き合う中に徳があり、私たちは徳を感じることで心の豊かさを味わうことができるからです。人が人と出会い、そして物語を共有する喜びもまたここにあります。

人生は一度きりです、時間もその時、一回キリです。

いつも思うのですが、毎回、同じことはなく、いつも思い出は新鮮です。私もこの英彦山や宿坊の御蔭様で、有難い人生の体験をたくさんさせていただいています。その恩返しができるよう、子どもたちに未来と希望をつなぎ立派な宿坊として多くの道中の同志を導き助けられるような場にしていきたいと思います。

ありがとうございます。

自立と自律

春は出会いと別れの季節でもあります。思い返せば、何かが終わるときは何かが始まります。そして同時に新しい扉を開くときは、古い扉を閉めていきます。開けっ放しのままもありますが、戻ろうとしても戻れず人生は前進するのみです。

自立というものは、自分が一人ではない存在であること、多くの人たちの支えや御蔭様であることを知るたびに成長していくものです。親元から離れてみたり、新しいことに挑戦していくたびに自分が如何に守られていたのかということに気づくものです。

人間はそうやって、守り守られる存在をつくることで自立していきます。一人だけでできることや、一人だけで生きることを自立のように教え込まれてきましたが実際に大人になってみたらそれはまったく違っていたことに気づきます。

実際に、一人だけでできることなどはこの世には存在せず一人だけで生きることはできないのです。この時の一人は、決して内面の自己と現実の自己といった本当の自分で生きるという意味ではなく、単なる社会の中で自分のことは自分でできるようになりなさいという意味だったのでしょう。

本当はここでは自立とはいわず、自律と言えば善かったのではないかと私は思います。ちゃんと自立について体験せず深めていないと、おかしな自立を押し付けることになります。これは生きてみてそうだったのだから嘘はありません。実際の社会ではみんなで助け合って支え合っていますから、自律は必要です。これは、協力することを学ぶことにもなり自分もみんなを支え見守る存在になっていくことのためになります。

みんな自分らしく自己を実現し、そのままであることでみんなを支えていけばこんな仕合せな社会はありません。誰かだけができて、誰かができないという歪なものではなく、みんな違ってみんないい社会が居場所も安心も立命もある社会です。

産まれてきた以上、みんなそれぞれにお役目がありますからそのお役目にみんなで感謝しあって生きられたらこの世は天国になります。人間社会は、色々な人たちがいます。何が善で何が悪かなどは誰にも裁くことはできません。だからこそ、みんなで尊重し合う社会を目指していかなければならないと私は思うのです。

私が保育を本業にするのは、それを実現するために必要なことだからです。

子どもたちがずっと未来にまで、安心して豊かに暮らせる世の中にしていくために社業を通して目的を貫徹させていきたいと思います。

修験の甦生

英彦山修験の伝説のお薬を甦生する中で、改めて修験者の人たちの知恵を学び直しています。もともと修験者は、最先端技術を持ち、心技体共に洗練された人々であったことが歴史を深めると次第に自明してきます。

役行者が有名ですが、空海なども同様にみんな修験によって知恵を会得した修験者たちです。

その修験者は医術にも長けていたことがわかります。あらゆる心身の不調や、健康を維持するための様々な知恵や実践を伝道していました。むかしから、厳しい自然の中で鍛錬し生きるための方法を得ていましたから修験者の生き方が里の人たちの暮らしを支える一つの教えになったのです。

話をお薬に戻しますが、有名な修験者の薬には奈良の「陀羅尼助」や長野の「百草」などがあります。

まず陀羅尼助は、修験者の多い吉野山大峯山で伝承されたものでキハダの樹皮から名薬を作り出しました。このキハダの木の樹皮を剥いで乾燥したものを「オウバク」といいます。このキハダは、ミカン科の落葉性樹木で樹皮の裏が黄色いため「黄肌」とも呼ばれる木です。

もともとこの発明の伝承は修験道の開祖である役行者が今から1300年前大峰山の開山のとき、山中に生え繁るキハダを煮てそのエキスを取ったところ胃腸の病をはじめ色々な、内臓、外傷にも薬効のある事を発見したそうです。ちょうど7世紀末に、疫病が大流行したときこのキハダからとったオウバクを煎じて多くの病人に飲ませ救済したそうです。

もともとこのキハダは縄文時代の遺跡からも見つかっています。つまり太古の時代からお薬として使われてきたものです。役行者にはこの伝来の薬草の知識があり、何が身体のどこに効くのかをどこかで学び知っていたのかもしれません。その薬草調合の知恵活かしつつ、人々に心身をととのえる神通力を用いて疫病を退散させた妙薬になって今に至っています。

もう一つの、御嶽山の「百草」の方は、寿光行者(普寛行者の高弟)が王滝口登山道を開く際に協力してくれた王滝村の村人に対し「何も御礼するものがない。せめて “霊薬百草” の製造が今後役にたてば幸いである。」と王滝の村人に百草の製造を指導したのが現在の百草の始まりだといわれます。

これも先ほどの陀羅尼助と同じで修験者が「御嶽山の霊草百種を採り集めて薬を製すれば霊験神の如し」その製法を村人に伝授し200年以上にわたって大切に継承され今にいたります。

これもまた御嶽山で採れるキハダのオウバクのエキスを使っています。この百草という名前は、「百種類の薬草を使ったと同じくらいの効果がある」あるいは「百の病を治す万能薬」として「百草」と名付けたといわれているそうです。

修験者の間で大切に使われてきた薬草の知恵が、人々を病から恢復するためのお薬になっています。よく考えてみると、生きる智慧に溢れた人たちこそが修験者だったのかもしれません。

どんなに厳しい環境下でも、豊かに仕合せに生きる、そして生き残る。時代が変わっても、普遍的な生き方や生きるすべをもった人は、大事な局面において人々を導き、初心を忘れないように守ってくれているのかもしれません。

当たり前になってきて大切なことを忘れるときこそ、修験者たちに私たちは導かれます。山で生きる人、山の暮らしを守る人、山は私たちの本当のふるさとだからでしょう。山の薬草を使い、色々とこの時代の修験が甦生できるように色々と試行錯誤していきたいと思います。