心を磨く

昨日、ご縁あった方々と一緒に滝行を行いました。この滝行は、古来からある修行法の一つで心身を禊清め、鍛え磨く効果があるといわれています。この時期の、とても冷たい水を受けることで心を強くし気持ちを一新する効果もあるといわれています。

本来、日本では大切な儀式のときや人生の節目にはこの禊や潔斎を行いました。その一つに滝に打たれて心を研ぎ澄ますというものがあったように思います。

現代では、楽で便利な環境下ですから厳しく不便な環境は慣れていない人が増えています。滝に打たれると聞いただけで震え上がる人も多く、滝行は人気があるとはいえません。

しかし時代が変わっても、大事な局面で自立して覚悟を決める何かがあるときこそ自分の弱い心を向きあい、乗り越え、強い決意をもって何かをやり遂げる心をつけることもでてきます。

世の中で、逃げようとする心を断ちたいと思う人は大変多いと思います。かの二宮尊徳も、成田山新勝寺で断食や厳しい修行を通して心を鍛え直し、もう一度復興の心を呼び覚まし、そこから最後までやり遂げていきました。

もちろん極端な修行がいいというわけではなく、今の人たちがどのようにしたらその覚悟を持て心身を鍛えられるかを時代時代に考える必要があると私は思います。あまりにも極端な修行や苦行では、自分自身と向き合うことはかえって難しくなると感じるからです。

今の時代は、苦から楽ではなく、楽を真楽にする方が導くのには効果があるのではないかと私は思っています。真の喜びを知ることは、真の喜びの苦を学ぶことです。楽は苦の種ですが、苦も真楽の種です。

この苦楽を共にする暮らしを通して、私たちは真楽にたどり着くのではないかというのが私の提唱する暮らしフルネスでもあります。

実践を通して、気づいたことをみんなで分け合い、子どもたちが仕合せに暮らし続けるような社会に近づけていきたいと思います。

一期一会のご縁、ありがとうございました。

 

薬草の面白さ

薬草のことを深めていると、むかしの人たちの観察力の偉大さを感じます。そのものの何が毒で何が薬になるのか、これは特性を見極めないとできないものです。そしてこれを思う時、全ての存在には、その両面を併せ持つという素質のことを洞察していたことに気づきます。

例えば、毒だけの存在はないし薬になるだけの存在はほぼありません。個性も同じく、偏りがあるからそれを活かせば薬になるし、場合によっては毒にもなります。上手に個性を活かせば、社会の中で非常に有意義な使用もできれば、間違えれば残念なことにもなります。

そのものをどう活かすか、そのためにその素材がどうなっているのかを見極めて使うのです。ある時は、毒をもって毒を制すようなこともやってのけるのです。

薬草の知恵は、そのものの素材素質の活用の中にあるように私は思います。

もちろん、分量、加工法、また使い方、投与の仕方、きめ細かく丁寧に使用します。これは、人間活用もまた同様でそのものをどのように活用するのかは、全体を観ながら使う薬草と同様です。

食材で面白いのが、発酵の技術です。発酵させることで、毒を無害化させたり、菌と共生させることで非常に長い間、人間に有益なものにもなっていきます。つまり、同じ菌であっても人間との相性もありその菌の特性を上手に組み合わせるのです。

お酒が薬になるのもまた、その組み合わせの知恵を活用したのでしょう。

この薬草の知恵を深めていると、観察眼が深められ、同時に活用方法によってアイデアも広がります。温故知新の面白さというのは、この懐かしい人たちの心や感覚に触れるときです。

子どもたちにも、先人の叡智が伝承できるように色々と場を遺していきたいと思います。

只管打座の暮らし

先日、ある禅僧の方と一緒に瞑想をするご縁がありました。この瞑想というものは一般的には、足を組むなどして座り目を閉じて心を落ち着ける行為のことを言われます。広辞苑(第六版)には「目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと。」と書かれます。

私はこの瞑想の自分なりの解釈は、整えることを言うと思っています。常に暮らしの中で整えながら生活をしていくということ。私の暮らしフルネスは、この暮らしを整えることをベースにしています。

かの道元禅師は、「只管打坐(しかんたざ)」という言葉を遺しています。これはそのまま「ただ ひたすらに坐る」という意味です。その解釈としては下記のように説明されているといいます。

「瞑想を行い、そこから様々な功徳を得ている人は数知れない。あまりにも単純な方法だからといって、その可能性を疑ってはならない。今、自分が存在している場所で真実を見つけることができないというなら、一体どこに真実があるというのか。人生は短く、何人も次の瞬間が何をもたらすかを知ることはできない。心を養いなさい。その機会はいくらでも訪れる。やがて、すばらしい知恵を発見することになるだろう。そうすれば、今度はその知恵をほかの人びとと十分に分かちあい、彼らに幸福と平和を与えることができる。」

そもそも考えてみると、悟りとは何か、修行とは何かということを思います。悟りがあるから修行するのであり、修行するから悟ります。つまりこの悟り=修行は一体のものであり分けられるものではありません。悟ったから修行を終わるのではなく、修行したから悟るのではありません。常に、修行しながら悟り続けていく姿こそが真の道であるということです。

すると座禅というものもそこから考えるとわかります。ただ、座ればいいというものではありません。自分のいる場所で、修行し悟り続ける。この座るという字は、据わるともいわれます。居場所を保つことです。そして坐るというのは動作の漢字であり、座るというのは場に座すということです。

英彦山にも座主がいるように、このその場を創る人は座っているのです。私の場合は、「場の道場」(BA)の座主であるともいえます。どんな状況や環境であっても、自分の生き方や信念に座り続ける。まさに、道元禅師という方はそのような方だったのだろうと想いを馳せました。

私も、このような現代社会の中で人類の本当の生き方、そしてあり方などと正対しているとこの座禅は何よりも必要であることに気づきます。子どもたちが安心して自分の天命を生きられるように私も只管打座の暮らしを実践していきたいと思います。

 

神話のはじまり

むかしから神話というものがあります。はじまりの神話というのは残っているところも多く、それを口伝で伝承してきたから私たちはその話を知っています。文字がなかった時代、記録しようもなくそれはずっとみんなで口伝えしてきました。

そう考えてみると、いつまでもはじまりの理由を忘れないようにと先人たちが子孫へと知恵を譲ってきたのでしょう。この知恵の正体は、一つのご縁のことだと感じます。

今の私たちがあるのは、あるご縁がずっと結ばれて繁栄してきたからにほかなりません。最初の一人からはじまり、二人になり、それが四人になりとそうやっているうちにかなりの人の数と合わせて相当な数の人生が誕生しました。その一つ一つには、物語があり、その物語は実は原始からずっと繋がっています。

なんで今、自分がこんなことをしているのか。それを思い返すとき、はじまりからのご縁でこうなっていることに気づきます。

例えば、息を吐けば次に吸います。それは吐くというご縁によって吸うが誕生します。何かを開けば何かを閉じるご縁に結ばれます。このように私たちは常に動静を繰り返しながらご縁を織りなしていきます。

神話は、そのはじまりの糸がどのように結ばれたのかを知るものです。それをひも解いていく時に必要になるのです。

人間の歴史を観察してみると、その時々で原点回帰が必要になるときがきます。そんな時、今の複雑に繁栄したご縁をひも解き、もう一度、そのはじまりからやり直すという温故知新が必要になります。

まるで反物の糸を解いてもう一度、織りなすようにこれを繰り返しその時代時代に本質や普遍性が失われないようにやり直すのです。やり直すときの出発点こそ、神話ということになります。

為政者たちによって色々と都合よく書き換えられてきましたが、神話には一つの真理と普遍性があります。それをひも解くためにも、私は英彦山宿坊の甦生に取り組んでいます。

どのような真実が出てこようとも、謙虚に畏怖の念を忘れずに真心を籠めて取り組んでいきたいと思います。

求道者の学

布施行をしていると、お布施を集めるという言葉がズレていることに気づきます。そもそもお布施は集めるものではなく、お布施は修行ですから修行しにくのです。修行をする中で、徳を磨いていくことでお布施をする人たちが集まってくる。その中で、本当の意味で布施による徳の磨き合い、つまり徳を積むことが醸成されていくように思います。

今まで常識として知っていることを学び直して刷り込みを取り除いていくためには、自分自身が実体験で学び、その本質を理解してその実践を高めていくしかありません。

余計な知識があるから、どうしてもおかしなことをしてみんなでそれをやるから常識がますます本質から外れ歪んでいきます。歪んだ社会通念の中で、学んでいると本来の真実や本質まで間違って認識してそれをさも本当のことのように他人に語ってしまうものです。

本当は何か、真実は何か、それを知りたいと思う心の中には道があります。求道者というものは、常識を毀し社会通念を妄信せず、太古のむかしから普遍的に流れている真実に生きようとする人たちのことをいうのかもしれません。

知識は常に分別知でもあります。分けるために言葉が生まれ、それが無限に分け続けては膨大な知識が溢れていきます。IT化が進み、さらに知識は人間の認知を超えるほどに増えていきます。

だからこそ私は、原点回帰の必要性を感じています。分別知を元に戻していく。つまり、知識から知恵へと学び方を換える必要があると思うのです。それは知識の否定ではなく、知恵そのものが知識であると統合していくことに似ています。

例えば、先人の知恵を学び直しそれを現代に活かすということ。あるいは、子どもから学び、自分たちの生き方を換えるなどもそうです。

そうやって普遍的なものを砥石にして学び直していくのです。そのためには、目利きが必要になります。つまり何が本物であるのかを知っているということです。その本物とは、自分自身の中にあります。仏陀が言う、自灯明法灯明です。

現在、英彦山の甦生に取り組んでいますが宿坊からたくさんのことを学び直しています。坊主(ぼうしゅ)が宿る場には、それだけの知恵と道があります。先人に倣い、自分の在り方を見直していきたいと思います。

心の時

出会いというのを人を変えていきます。その出会いは時との出会いというものがあります。私たちは時を通して、今何に出会っているのかということを直感できるからです。

これは四季のめぐりにも似ています。四季折々に私たちはその時々の風景に出会います。その風景を観ては、その時を感じ、出会いの意味を知るのです。

例えば、この時機は冬から春にかけて空気も光も風もそして鳥、虫たち、植物たちも冬のもっとも冷えている環境の中で春を待ちます。この透明で凍てつく寒さの中で、春を待つ景色にその時の様相を感じます。それは時が止まったようで、ゆっくりと音も静かに流れている景色です。

朝焼けや夕焼けもその時を静かに語るものです。

私たちは日々に時と出会い、時に心を映します。

その時々の出会いをどれだけ感受性豊かにキャッチしていくか。それはその出会いに対して、どれだけ純粋に心が味わったことを噛みしめていくかに似ています。その出会いの余韻や、その時の仕合せ、心が時になるのです。

心の時というのは、永遠でもあります。

それは過ぎ去っていないままに、心に刻まれているからです。この心の時を持つ人は、いつも別の次元に時が止まったままで暮らしていきます。先ほどの、四季折々の変化のようにその時とその風景といつまでも出会いが続いているのです。

ご縁の世界というものは、現実的に目に見えるものだけの中ではなく、心の時といった風景の世界でもあります。

二度とない今だからこそ、この二度とない時を生きます。

子どもたちに美しく懐かしい未来を、続けていきたいと思います。

布施行の本質

昨日は、英彦山にある守静坊の甦生でまた多くの仲間や同志たちに見守られ大掃除や片づけ、木材を運び込むことができました。今回で5回目になりますが、いつも新しくご縁が結ばれた人が来てくださいます。本当に不思議で毎回、居心地よく明るく笑顔で豊かな時間をみんなと分かち合うことができています。

金銭での見返りもなく、大変な作業もある中でみんなで主体的に下座行に取り組んでいきます。この甦生中の宿坊は、もともとはお寺であり坊家であったからこそお布施で甦生すると覚悟して取り組んでいますが皆様の徳の行いや明徳に私自身が学び直すことばかりです。

もともと「お布施」というものは、仏陀の布施行がら来ている言葉です。この布施行には、法施と財施と無畏施の三種があるとそのあと分類されています。「法施」は、学んできた法を説いて実践を通して安心に導くこと。次に「財施」は、見返りを求めずお金や衣食などの物資を必要とする人に与えること。そして「無畏施」とは、恐怖しないでおそれずやろうという強い心、その勇気の背中で人々を安心させることです。

よく考えてみると、このお布施は他人に求めるものではないことはすぐにわかります。これは自分が実践する徳行であり修行なのです。よくお布施を集めるという言い方をしますが、これは金銭を集めることではありません。一緒に布施行を実践する人たちを集めるということです。

何を一緒に実践するのか、それがこの布施行の三種を代表に行います。さらに仏陀は布施の具体例に「無財の七施」ということをいいました。これは雑宝蔵経というものに記されています。

「身施」は、肉体による奉仕であり、心身を盡して布施行。「心施」は、思いやりの心を盡す布施行。「眼施」は、やさしきまなざしを盡していく布施行。「和顔施」、他人に柔和な笑顔を盡す布施行。「言施」はあたたかいぬくもりの言葉を盡すこと。「牀座施」は、自分の席を譲り尊重すること。そして「房舎施」家を提供しおもてなすこと。

他にも、布施行はたくさんあります。そのお布施をするのは自分自身であり他人がするのではありません。布施行を通して、自分を磨くのです。自分を磨くための方法として布施行がありその布施行が人々を菩薩にしていくということでしょう。托鉢というのは、つまり布施行を実践するということです。

山伏というのは在家で信仰していた人々だといわれます。私も特定の宗派宗教などはなく、尊敬している方々はたくさんいますが日本人としての伝統的な信仰心は持っています。気が付けば、多くの方々に支えられ見守られ、道を歩まさせていただいています。

今回の宿坊の甦生を通して、先人たちがどのようなお山での暮らしを営んできたのか、そしてどのように周囲の人々にお布施をしていたのか。学ばせていただいています。

人の捨てたものを拾いながら、一つ一つの我を捨てていく日々。

出会いとご縁に感謝しながら、残りの時間を大切に過ごしていきたいと思います。

 

初志と予祝

昨日は、無事に妙見神社の御祭と徳積財団設立2周年の座談会を盛況のままに開催することができました。コロナで人数を限定していましたが、心ある仲間たちが参加してくださり気持ちを一つに真暦での正月と予祝を過ごすことができました。

場にはその心地よい余韻がのこり、その余韻でまた夜も直会をして音楽を楽しみ時を忘れて仕合せを噛みしめていました。

思い返せば、もう25年くらい前に国際人とは何か、コスモポリタン、また地球を代表する人類として一体どう生きたらいいのかを模索していました。その頃も、東京の新宿で国際人会というものを私が立ち上げ有志のメンバーでどう生きるか、日本人としてどうあるべきかを語り合っていました。

そのころは、みんな若く情熱だけありましたが実力も時も定まっておらず必死でそれぞれ起業をしたてだったことと、他にも入社したてだったこともあり、気持ちだけで取り組んでいました。

あれからだいぶ経ち、気が付けば日本人とは何か、そして国際人とは何かということがもう身近にあり、今では実力も多少は追いつき、そして時が味方してくれているのを感じます。

初志はずっと変わらず、気がつけばその初志に合わせて人も物も物語も集まってきただけです。

私はこの集まってくるというものがとても多いタイプのようで、身近にはいつも本物や普遍的なものが集まってきます。志を共にする同志は、決して人だけではなく物や物語なども同じです。

たくさんの物語が集まってくると、それが集大成となり偉大な物語になっていきます。

人生は記憶を生きていますが、同時に歴史もつくっています。歴史は決して過ぎ去った過去のことではなく、今もこの瞬間も創られ続けています。どのような歴史を刻んでいくかはその人の生き方、そして信念、志が決めるのです。

他人をみて、他人のことを気にするのではなく、自己を省みて、自己を研ぎ澄まして本来の初心を忘れず初志を貫遂することが自分自身を生きることです。自分自身を生きるというのは、自らの「場」に物語を顕現させ続けることです。

出会いが場をつくるように、歴史が場を育てます。

じっくりと時を遊び、時を活かし、時を信じて、時が集まってくるまでその時を心静かに待ってみたいと思います。英彦山は、日本人の、いや世界人類の心の故郷として間もなく甦生します。

おめでとうござます。

本当の歴史、真実の暦

本日は、旧暦での正月となりいよいよ今年が真にスタートする日です。現在、新暦とか旧暦とかの言い方をしますがもっともここで大切なのは「本当の歴とは何か」ということです。

私は本当の歴である2月4日の正月に、当社の妙見神社(ブロックチェーン神社)を秩父神社と多田妙見宮から勧請して建立したのには深い意味があります。もともと御祭や大祭は一年の中でもっとも大切で重要な御祭りです。かねてからそれを本来の本質的な歴で行いたいという願いと祈りがありました。

先祖や先人たちがなぜもともとこの日にしたのか、なぜ一年のこの場面でこの行事が必要だったのかという記憶に実践をし心を研ぎ澄ますことで直観的にアクセスでき思い出すことができるからです。ある意味、この行事とか御祭りとは子孫たちがいつまでも忘れてはならない「初心を思い出す」ためにあります。この初心を思い出せば、あらゆる記憶や感覚が生まれ変わり新しくなります。神道ではこれを常若という言い方もします。親が子を産み、繁栄していくように繰り返していくなかで初心は伝承されていくのです。それが文化伝承の知恵でもあります。

今年は、午前中にはいつものように初心と甦生を重んじる例大祭を昨年一年の無事と繁栄の感謝をこめて執り行います。そして午後からは、本当の歴史を学び直すための座談会をそれぞれの歴史の道を歩まれる方々と共に語り合います。

そして徳とは何かということを、みんなで分かち合い、先人への感謝と子孫への祈りを共有します。ただの知識ではなく、そこには確かな歴史がありその歴史を私たちは刻み続けている存在であることを学び合うのです。

一年のはじまりに私はこの御祭と理念の共有をするのは、英彦山の予祝でもあります。英彦山がはじまり、このご縁がうまれ、そして甦生が勢いづいてきます。後になって感謝をするではなく、その目出度い吉報とご縁と、そして天命にみんなで先に喜びあうのです。

神様がそうしてくださっているように私たちは真心で取り組めたか、神様にお任せして信じて自分自身の至誠を盡すことができたか。これを先にみんなで覚悟を認め合うのです。

日本の生き方は、先人の真摯な命がけの歴史と共に醸成されてきた一つの大和魂です。素晴らしい一年がはじまることに感謝いたします。

おめでとうございます。

 

暦の知恵

今年は旧暦では2月1日が元旦になっています。これは二十四節気の雨水の前の新月が正月とするという天保暦に沿ったものです。この旧暦は太陽太陰暦のことをいいます。今は、新暦といって自然や季節とあまり関係がないものになっていますが、むかしは農業や漁業、そのほか、自然と調和して暮らしていましたから暦はそれを上手に取り入れるための一つの知恵でした。

例えば、太陽暦というのは太陽と地球の関係性を一年の周期でわかるようにしたものです。1年で365日というのは、今でもわかります。そして月の満ち欠けの周期は、1月で28日ですから少し短く1年354日になります。

もともと陰陽は、女性は陰で男性を陽で例えます。その男女のバランス、生命のリズム、またその持っている性質が備わっているともいえます。特に女性は生理も月の周期と深い関係があります。

私たちは、どのタイミングで生命を調和させていけばいいのかを太陽と月と地球の絶妙なバランスを直感しながら生きてきたともいえます。

つい頭でっかちに私たちは数字の便利な側面だけをみて、歴もただのスケジュールやイベントのように今では考えている人が増えているようにも思います。何かのイベントがある日は、そのイベントをやるという具合に、そこには季節や生命、また忘れていけない初心があるなどとは思ってもいないものです。

しかし実際には、二十四節気は自然の天候や運行とのリズムを観察したものであり、旧暦は太陽と月と地球のバランスとリズムを観察したものです。私たちの生命も体も、この地球の一部ですから確実に太陽や月、そして四季の変化の影響を大きく受けています。

その影響を活かすこともできれば、無視することもできますが自然に逆らうとバランスが崩れて不幸や災難が増え、自然と調和すれば自然体でも仕合せの機会が増えていくものです。

先人の生き方や知恵を学び直すことは、本来の私たちがどのようにこれから暮らしていけばいいのかのヒントを得ることです。なんだか働き方改革とか生き方がどうとか、SNSやテレビなどで最近言葉ばかりが流行っていますが本当は先人はどうしていたのかをもっと丁寧に学び直すことが肝要ではないかと私は思います。

実践をしながら、暮らしの豊かさを子どもたちに伝承していきたいと思います。