人類存続の智慧

私たち人間の平均寿命はいくら長くても約100年くらいです。むかしはもっと短く30年くらいの時もあったでしょう。そして一家族がもしも10人くらいいたとしても、その歳まで生きられた人はどれくらいただろうかとも思うとかなり少ないものです。

100年でも3世代、1000年になると30世代くらいは繋いでいきます。縄文時代は1万年ですから300世代くらいということになります。

自分の代で人類が終わってしまうような危機は何度もあったはずです。祈るような気持ちで、子孫たちにいのちのバトンをつないでいったのでしょう。

そのいのちのバトンを渡す側の気持ちはどのようなものだったでしょうか?そしていのちのバトンを受ける側の気持ちもどのようなものだったでしょうか?

私たちはその先人たちのバトンを受けているから今を生きています。

よく何百年も続く老舗企業に言われることですが、老舗企業が廃業する一番の理由は不景気の時よりも好景気のときといわれます。時代が滅びに向かう時もまた、同様に悪いときよりも良い時です。人間は、欲に呑まれて謙虚さを失う時、いのちのバトンが消えかけます。

子孫たちのことを思う時、私たちはどのくらいの長さを想定していのちのバトンを渡そうとするでしょうか。自分の子どもや孫くらいは誰もが考えます。しかし本当は人類の子孫というもののことももっと真剣にみんなで考えて議論する必要があると思っているのです。

国の違いや、人種の違い、地理的な分け方とは別に地球全体のいのちをどうつないでいくかという視座で私たちはもう一度、原点回帰するときが来ているように思います。

なぜならこのままの状態であと1000年後に果たしてどのような未来が来るかが想像できるからです。世界中の資源を消費し続け、貧富の差で富を摂取し続けて地球にないからと宇宙に探しにいくというのはあまりにも欲に呑まれていると思うからです。欲は生きるエネルギーですが、それを謙虚に制御していくことで先人たちは永続する暮らしを実現してきました。

それを人類存続の智慧と呼ぶのでしょう。

人類存続の智慧がそろそろ消えかけてきています。それを甦生し、すべてのものを原点回帰してやり直す必要が出てきています。言い換えれば、学び直しの時代というkとでしょう。

子どもたちの未来が、真に豊かで平和になるように脚下の実践をさらに真摯に取り組んでいきたいと思います。

 

 

ブロックチェーンバレー

私はFBAというフクオカ・ブロックチェーン・アライアンスのボードメンバーでもあります。このFBAは、産学官民が連携したアライアンスで福岡県飯塚市を拠点に九州一円にあるブロックチェーン事業者とも連携し、あたらしい経済のあり方、豊かな生活をテクノロジーが支える時代を見据え、ブロックチェーンの拡大&展開を推進するために設立しました。

このフクオカ・ブロックチェーン・アライアンスでは、ブロックチェーンを基軸とした「人材育成」、 「企業誘致」、「創業支援」などを通じて、福岡県にブロックチェーンの産業クラスター(産業集積) 「ブロックチェーン・バレー」を形成し、世界に誇れる地域づくりを志して活動しています。

私の役割は、このブロックチェーンバレーなどを実現してこの場を整えていくことです。そのために世界中からブロックチェーン技術者や企業が集まる街の実現のために、様々な取り組みを行います。例えば、エンジニアが働く場所を自由に選び、より個人の成⻑を高める環境を自ら作り出すオフィスを持たない” 新しい働き方(暮らしフルネス)”の実現です。

私はブロックチェーンというのは、テクノロジーの名前ですが一つの思想を持っているとも思っています。よくブロックチェーンで使われるDAOはDecentralized Autonomous Organizationの頭文字をとった単語で「ダオ」といわれています。日本語では「自律分散型組織」と訳されることが多いものです。

この分散のところだけを使われ、分散型の働き方ばかりを取り立てることが多いように思います。しかし、私はこの自律分散型とは何かということを日本語にすべきではなかったかと思います。

自律というのは何か、それは真に自立して協力し合える関係が築けるということです。つまり自律=協力であり、真の自立は人々が支え合い助け合い豊かに見守りあうような社会を築いていくことをいいます。

それをテクノロジーの力を使って実現しようというのが、私のブロックチェーンの定義なのです。エンジニアではない私は、何ものなのかと思うことがあります。しかし本来、人間はカテゴリー分けできるほと単純なものではありません。

ある人はアーティストと名乗りながら、アーティスト風の職業をやる人のことをいうこともあります。偉い学者でも同じく、資格や立場があれば誰でもが学者です。こんなことをかくと批判とも思われるかもしれませんが、そうではなく大切なのはその本質が何かということを深く理解し、それを深堀りしつかみ取るように分かることが重要だと感じています。

この土地、この場所で、真に協力しあう風土や環境が仕上がっていくこと。それを人類のアップデートと共に、テクノロジーもアップデートさせようとしているのが私の試みであり挑戦でもあります。

少しずつ、同じ志の仲間が世界から集まってきています。子どもたちの未来は、私たちの人類の未来です。そこから逆算して、どうある世界がもっとも私たちが願う平和なのか。真摯に真向から取り組んでいきたいと思います。

新しい社会への挑戦

現在、「Society5.0」に「地域循環共生圏」を加味された新しい社会を目指してAI、IoTなどのICTを最大限に活用しようということになっています。このsociety5.0は以前ブログでも書きましたが狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)といった「人類がこれまで歩んできた社会に次ぐ第5の新たな社会を、デジタル革新、イノベーションを最大限活用して実現する」という意味で「Society 5.0(ソサエティー5.0)」と名付けられたたものです。

Society 5.0は、それまでの産業だけに特化したものの変革中心ではなくICTやIoTなどのデジタル革新により「社会のありよう」そのものを変えることによって、社会が抱える様々な課題を解決しようとする包括的なコンセプトであるということがポイントになっています。同時に世界の課題解決という観点から、国連が提唱する「持続可能な開発目標(SDGs)」と絡めて、「Society 5.0 for SDGs」として用いられています。

そして第5期科学技術基本法では日本政府の研究開発への投資額は5年間で26兆円が見込まれ、その市場規模は760兆円あるとされています。大きな市場規模であることからもこれからの新しい社会に向けて変化させるための挑戦をしようとそれぞれの民間企業を含め、社会起業家たちも革新のためにしのぎを削っています。

現状としては、下記の具体的な革新を提案されています。

CPS(Cyber-Physical System)における知覚・制御を可能とする人間拡張技術
革新的なAI用ハードウェア技術とAI応用システム
AI応用の自律進化型セキュリティ技術
情報入出力用デバイスおよび高効率のネットワーク技術
マスカスタマイゼーションに対応できる次世代製造システム技術
デジタルものづくりに向けた革新的計測技術

これらの技術をシンプルに言えば、サイバー(仮想)空間とフィジカル(現実)空間の融合を優先しています。最先端のテクノロジーを使って、どう様々な問題を解決するか。そういう意味では、それぞれの技術者たちが全員であらゆる分野から智慧も腕も磨き挑戦する時代に入っています。

私は懐かしいものと新しいものを融合させる甦生家ですからこの新しい社会の創造は私のライフワークそのものでもあります。現在の単なるITだけでは片手落ちなものを先人の智慧や古代からの叡智からカバーしていくことができます。

技術だけあっても社会ができるわけではなく、そこにはやはり人類の智慧が必要になります。子どもたちに譲り遺していきたい本物で真に豊かな社会に向けて、私にできることで挑戦していきたいと思います。

危機に備える

昨日に続き、環境のことについて少し深めています。最近、サーキュラーエコノミーという言葉もよく聞きます。このサーキュラーエコノミーを日本語にすると、「循環経済」となります。これは「大量生産・大量消費・大量廃棄」を基本とする従来型の経済を「線形経済」と定義し、サーキュラーエコノミーは「3R(削減・Reduce、再利用・Reuse、再生・Recycle)」を基本にし、そこに技術革新などを通じて資源循環を促すことで新たな価値を生むことを目指す経済活動にするといことをいいます。

シンプルに言えば、これまで「廃棄物」とされていたものを「資源」にして、廃棄を出さない経済循環の仕組みするということです。言い方を選ばなければ、この仕組みやルールで大きな利益循環を産み出そうとする政策です。これをオランダ政府ではサーキュラーエコノミーを「Linear Econony(直線型経済)」だけではなく、リサイクルを中心とする「Reuse Economy(リユース経済)」とも明確に区別しているといいます。

こうなったのもつまり、人口も増え消費がかさみもはや資源の量が追いつかないということです。持続不可能なエコノミーではなく、持続可能なエコノミーに換えないとほとんどの企業が倒産もしくは廃業することになり人類も滅ぶかもしれないという予測からです。

今の物質的に豊かな状態を維持しながら、それをできるだけ維持するためにテクノロジーを活用しうまく回していこうというものです。具体的な方法論としては、国際的なサーキュラーエコノミー推進機関でもあるエレン・マッカーサー財団というところがサーキュラーエコノミーの3原則というものを設定しました。

一つ目は、自然のシステムの再生(Regenerate natural systems)。これは有限な資源ストックを制御し、再生可能な資源フローの中で収支を合わせることにより、自然資本を保存・増加させる。二つ目は製品と原料材を捨てずに使い続ける(Keep products and materials in use)。これは技術面、生物面の両方において製品や部品、素材を常に最大限に利用可能な範囲で循環させることで資源からの生産を最適化する。そして三つ目、ゴミ・汚染を出さない設計(Design out waste and pollution)。これは負の外部性を明らかにし、排除する設計にすることによってシステムの効率性を高める。としています。

自然資本をできるだけ保存し増やしながら、物を捨てず長持ちする仕組みをつくり、ゴミが発生することがないようにモノづくりをするということです。

基本的には、全部当たり前のことですがもはやこれができない状態の経済社会にしてしまっているということが現実なのでしょう。古の先人たちが当たり前にしてきたことは今では当たり前ではなくなっています。今の時代にタイムスリップしてきたらどう思うでしょうか。

ありあまる物や豊かさに溢れたこの時代、多すぎていらないから捨てています。そしてあるとき、途端にすべてがなくなってしまいます。まさかと思いますが、気候変動というのはそういうリスクがあるものでこれは太古の昔から何度も発生してきたことなのです。

そのリスクに備えるために、この当たり前であった準備をする暮らしを尊んできました。失ってみてはじめてわかる本当の有難さみたいなものです。

子どもたちのためにも、本来の足るを知る暮らし、あるものを活かす満ち足りた生活、暮らしフルネスの実践でこれから訪れるであろう本物の危機に備えていきたいと思います。

子どもたちの未来に向けて

最近、カーボンニュートラルートラルや脱炭素社会という言葉をよく聞くと思います。これは地球温暖化の原因となる温室効果ガスの排出量を実質ゼロにしようとすることやその社会のことをいいます。

産業革命以降、40%も上昇した二酸化炭素の排出量があり地球温暖化が進んでいます。先進国が優先して取り組んだ京都議定書から発展途上国も参加したパリ協定、それをもってしても温暖化を止めることにはならない計算です。

なので5年ごとに、見直しをかけるとし昨年、日本からは「2050年を目途に、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする」という脱炭素社会への所信表明をしています。

具体的には二酸化炭素だけでなくメタンや一酸化炭素など、温室効果ガス全体の排出をゼロにするという内容でした。そこでカーボンニュートラルという言葉が出ます。このニュートラルというのは、CO2の排出量と吸収量を相殺してゼロにするものです。つまり「CO2実質ゼロ」だとここからいいます。

出したものを差し引きするという考え方です。余談ですが、先日お酒を飲んでいたときにお酒の量と同じ量のお水を飲めば血管や心臓に負担をかけないからいいと医者に言われた話がありました。プラスマイナスゼロのゼロが実質ゼロということでしょう。このカーボンニュートラルは、温室効果ガスの吸収、および除去量を排出量から差し引いた合計をゼロにすることで温室効果ガスの排出を実質的にゼロにする仕組みです。

また排出・廃棄物を最小限に抑えつつ資源を有効活用する循環型社会「ゼロエミッション」という言葉も誕生しました。この「ゼロエミッション」は産業活動から発生するものをゼロに近いものにするために最大限資源の有効活用を目指す理念のことをいいます。つまり、完全に循環して無駄が生まれない、日本では江戸時代に誕生していた循環型社会を実現しようとするものです。

ちなみにこの「ゼロエミッション(zeroemission)」の語源は、数字の0を表す「zero」と排出を表す「emission」を組み合わせた言葉の造語で排出ゼロ構想ともいわれ1994年に国連大学によって提唱されたものです。

難しく説明しましたが、結局はシンプルに言えば過剰な産業発展で傷んだ地球を思いやるためにそれぞれの国でちゃんと考えて新しい産業構造を構築してくださいという具合です。そこに、新しいゲームルールのようなものを設定しそれぞれで競い合って取り組みましょうというものです。取り組まないものには罰則や罰金などを制裁しますよという感じでしょうか。

世界を変えるという仕組みの一つに、構造全体を換えてしまうためのルールや法規制というものがあります。私は、別の仕組みとして原点回帰というものがあると思っています。本来の原点は何か、本質は何か、真の意味での豊かさや幸福さに気づき実践して変わろうというものです。

世の中は経済が最優先ですから前者を取ります、これも確かに分かりやすく欲望も活かそうという発想です。しかし、それだけでは片手落ちです。私は後者の真の意味でというのが大好きなので暮らしフルネスを提唱するのです。

今、全世界全人類が同じ課題に取り組む必要がでてきた時代でもあります。新しく懐かしい生き方、そして働き方、暮らし方を子どもたちの未来にむけてここから提案していきたいと思います。

暮らしフルネスの実践

現在、気候変動をはじめ環境問題は待ったなしで人類に大きな影響を与えています。もともとこのままでは環境破壊が自然の回復スピードを超えてしまうということはずっといわれ続けてきたことです。

言われはじめてからも人類の多くは聴き入れず、今のような時代にまで入ってきました。環境問題は人間の問題であるとはわかっていながらも具体的な解決策を外へ外へと求めては自分自身を変えようとは人間はなかなかしないものです。

それは自分一人が変わっても世界が変わらないと思っているからかもしれません。しかしそれは現象や物体に対しての影響のところだけで、実際には人間の意識や価値観、一人一人の中の変化がなければ最終的に世界が変わることもないのです。

一人一人の変化というのは、話を聞いて頭で理解しただけでわかるわけではありません。それはわかったという気にはなりますが、具体的な暮らしや生き方が変わっていかなければ結局は真の意味でわかることはないのです。

真の意味で自分が変わることが世界が変わることなのかと気づき理解するとき、人は自分自身のそれまでの人生を向き合う必要がでてきます。それは今まで自分が何をやってきたのか、いったい何を学んできたのかという大きな労苦との矛盾に出会います。人間はそれだけしてきた苦労を簡単に捨てることはありません。今更手放すことはとても大変なことなのです。なので人間は理解を線引きしとどめ、そこからの深い学びを止めてしまうように思うのです。人間が学びを止めるから、世界の変化もそこまでで止まってしまいます。これはとても悲しく残念なことです。そしてこれが環境問題がいつまでも真の意味で解決に向かわない根本原因でもあるように私は思います。

人間がその問題に素直に対応するためには、具体的な生き方や実践をみんなで一緒に取り組んでいく必要があります。そうやって今度は、意識をみんなで変化させていくのです。そのためにも学びを止めるわけにはいきません。

私が暮らしフルネスを提唱したのは、足るを知る暮らし、心が満ち足りた生き方をすることの実践が環境問題も解決すると確信したからです。人間が真の意味で心豊かであるのなら、この世の環境問題は発生しないことに気づいたからです。

人間が変わるということ、これ以外に世界が変わることはありません。そしてそれは誰かのせいにしたら永遠に変わりません。すべての環境問題が一人一人の意識の改革にあると気づき、具体的な暮らしを変えたときだけこの人類の文明は真の意味で平和に向かって転換するのです。

子どもたちの平和な未来のために、諦めずに暮らしフルネスの実践を楽しんでいきたいと思います。

宿坊の生まれ変わり

昨日、加持祈祷のお話をお伺いする機会がありました。この加持祈祷は、私たちがイメージするのは仏教寺院で行われる護摩焚きなどが多いように思います。この加持は一説によれば空海が1200年前に実践伝道したものとも言われています。

ウィキペディアには「加持」とはadhisthanaの訳で手印・真言呪・観想などの方法で加護を衆生に与えること、「祈祷」とは呪文を唱えて神仏に祈ることを意味する。従って、本来は祈祷は加持を得るための手段の1つに過ぎないが、混同されて用いられることが多い。」

とあります。

空海の著書の中で「加持」についてこうあります。

「加持とは大日如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と言い、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく。すなわち、仏の慈悲の心は常に衆生に注がれているが、そのことを「加」と言い、信心深い人がその仏の慈悲の心をよく感じ取ることができることを「持」と言う。しかし私たちの心は、欲望・嫉妬心・間違った考え方(邪見)に覆われて、仏の慈悲心に気付かない。何も仏に限ったことではない。他人の優しい気持ちに気付かず、我儘な振る舞いをして、後で自分自身の至らなさに後悔する。」

これを「お加持」と呼ばれる人もいるそうですが、仏の心を感受するという意味でしょう。自分の心の中の様々な雑念や想念、穢れなどを取り払い、本来の仏の心に気づかせるというのがお加持ということかもしれません。

それに祈祷がついてきます。つまり加持=祈祷であり、空海のいう祈りとはまさに加持のことを言ったのでしょう。

私たちは如何に自分以外の存在を引き出していくか、観えない天地の力やカミガミと呼ばれる自然の偉大な影響力をお借りするか、そういうものに奇跡を見出してきました。

天地自然の災害も、祈祷によって治めることができたというのはそれだけ謙虚に人間のみの我欲を優先しないで共生しあって取り組めたということかもしれません。

例えば、待っていれば雨が降るといっても待てませんし晴れるとわかっていても曇っていたら文句を言う人もいます。人間は思い通りにならないことで苦しみますが、本来はそれは自然界ではすべて意味があるもので真心や至誠そのものの姿でもあります。

この加という字で似たものに「ご加護」という言葉もあります。

これは神の力添えというものです。

今、宿坊の甦生をしていますがいつも天候や人々に恵まれ、材料やタイミング、出会う人に恵まれ、恵みのシャワーが降り注いでています。まさに神様の力添えを感じることばかりです。

引き続き、この「お加持」を深めて宿坊の生まれ変わりを見届けたいと思います。

心の器

器の大きな人がいます。この器というのは、何を器に載せるのかということでもあります。物理的に、巨大な器をつくってもそこに何を載せるかでまたその器の存在が変わってきます。つまり器というものは、その人そのものがもっている容量でもあります。

器の容量が物理的に小さければ載せることはできません。大は小を兼ねるものです。だからといって器が小さいことがよくないことはまったくありません。私の身近にある一輪挿しも、また小さなお皿もとても小さくて美しいものを載せることができます。

つまり言い換えるのなら、器の質そのものが器の本来の定義ということでしょう。

どんな人間であるかが、その器を示すということです。人間の器の大きい人というのは寛大であり人の善いところを観て、自分に責任を持ち、周囲を思いやることを忘れない人物ともいえます。

心が広い人、心が美しい人、心が綺麗な人、心が豊かな人には私はいつも器の質を感じます。人間は、器をどう磨いていくかでその載せれるものが変わってきます。載せようとしているものが神聖であればあるほどに、その器もまた深く透明に磨かれていくからです。

だからこそ器を磨くというのは、心を磨いていくことです。器が大きい人とは、心の大きい人ということです。

器とはつまり、心の器ということなのでしょう。

心を高めることで器を高め、心を磨くことで器を磨く。人は一生、この自分自身の器に責任をもって生きていく必要があります。それはこの一生に一度の人生に、自分が主人公として最期までやり遂げる存在でもあるからです。

器の大きな人とお会いするのは、仕合せです。

また再会を心から楽しみにしています。

一期一会の味わい

聴福庵で秋から冬の風情を楽しんでいると、色々な発見があります。もう5年目になりますが、毎年、味わい方が変化し豊かさが増していきます。暮らしが豊かになっていくというのは、当たり前の日々が味わい深いものになっていくということです。

遠方より朋来るまた楽しからずやという論語の言葉もあります。

コロナで出張もほとんどできず、家で過ごすことが増えましたがその分、たくさんの友人や同志たちが集まってきました。あらゆるジャンルのお仕事をしている人たちが来ては、あらゆるお話をしてくれます。

その中でもお酒を酌み交わし、石風呂を共にし、共に就寝し、共に暮らしを磨き合う関係はとてもかけがえのないものです。

素のままの姿で接していると、その人の本当の人柄が観えてきます。子どもに戻った時のように、みんな素直でいい人ばかりです。人間は、色々な立場や肩書などを背負って社会では頑張っている人が多いのですが素で人間同士で語り合う場があることは豊かな人生にとっても重要なことだと私は感じます。

そしてその豊かさは、豊かさに生きる人たちの傍にこそ存在するものです。

本当は何のために生きるのか、自分の存在とはどういうものかを日々に確かめてゆとりや余裕をもって確認していくことで仕合せを感じて暮らしを紡いでいくのが人間の素晴らしさでもあります。

忙しすぎる日々というのは、如何にもったいないことをしているのだろうかとも感じます。どんな瞬間瞬間であっても、人が人と結ばれ何かを分かち合えるというのは一期一会の味わいです。

子どもたちに真の豊かさをつないでいくためにも一期一会を楽しみながら、出会いと暮らしを結んでいきたいと思います。

 

薬草の原点回帰

日本の神話には、大国主が薬草を用いて病や怪我を治癒するという話が出てきます。縄文時代の遺跡からも薬草が出てきますから、太古のむかしから私たちは植物を用いて治療をしてきた歴史があることがわかります。

歴史の中で特に私が印象に残っているのは鑑真和上です。

この鑑真和上は688年に中国の唐で生まれ763年に日本で亡くなりました。

そもそもこの鑑真和上が日本に来ることになった理由は、その当時の日本では修行もせず戒律も守らない名ばかり僧侶が増え社会秩序が乱れていたといいます。それに困っていた朝廷は、仏教制度を本来のあるべき姿に整備しようと日本人僧侶(栄叡、普照)を唐に派遣して日本の仏教を正しい道へ導いてくれる人材を探しにいかせました。そして授戒制度を伝えることで日本の仏教の発展に大切な役割を果たしたのです。

この授戒制度は、今でいう資格や免許のことです。

話を薬草に戻しますが、この鑑真和上は平安貴族の文化になった香合というお香を調合する技術を伝え、漢方薬を伝えたのも鑑真です。鑑真が日本へ渡航してきた際の積荷リストには複数のお香や漢方薬などの記載があります。

鑑真は薬にとても詳しい医僧で仏教だけでなく日本の医療進歩に大きく貢献したといいます。目は失明していましたがあらゆる薬を嗅ぎ分けて鑑別することができました。聖武天皇の夫人であった光明皇后の病気を治したこともあり、大僧正の位を授けられました。奈良の正倉院には、その当時の薬の一部が、いまも大切に保管されているといいます。

以前、ある方にその唐招提寺を建立する際、どの場所にするかで土を食べて判断していたということを聴いたことがあります。土の状態でいい土地かどうかを判断する。 目が観えなくてもあらゆる五感を活かして情報を得ていることにも感銘を受けました。

有名な鑑真和上像というものがあります。

もう1300年も前のものでも、今でも生きているかのような木造です。仏教の理想の生き方をした人、仏教の生き様の理想像を持っていた立派な人物であったから人々が慕ったのでしょう。単なる資格や免許を発行する人ではなく、本来の在り方、どうあることが仏教の本義であるかをその人の生き方や実践で当時の日本人を導いたのでしょう。

医療もまた、原点回帰するときが近づいているように私は感じます。対処療法だけを進歩させて最新医療だとしそれに頼るのは本末転倒だと感じています。子どもたちのためにも暮らしフルネスの中で、本物の医療をこれから極めていきたいと思います。