心の風景

時間というのは、変化のことです。どんなに変化がない物質であっても、必ず微細には変化しているものです。変化しているからこそ、変化を感じることで時間を捉えることができます。私たちは時間というものを人生の中の時間と認識しますが、本来の時間というものは変化そのもののことをいうように思います。

その変化は、現実に外界が移り変わっていくもの。また内面の世界が移り変わっていくものがあります。その両方が合わさって時となりますから、この時間というのはとても矛盾に満ちていて同時に不安定なものです。

私たちはその時々の組み合わせから一期一会を感じるものです。

この一期一会は、組み合わせともいえます。その組み合わせは変化の組み合わせから産まれる偶然の一瞬のことです。その一瞬は、外側の変化の一瞬に合わせて内面的な心の状態が組み合わせられ自分にしか見えない景色が現れます。

その景色に心は感動し、今この一瞬に目覚めるのです。

今朝も雨の晴れ間に一瞬、美しい虹が出て心の風景を映しました。

美しい景色をみても何も感じない人もいれば、その景色に涙する人もいます。私たちは景色を磨いていく生き物であり、人生とはどのような景色を産み出したかといっても過言ではありません。

心の景色を大切に過ごしていくことは、変化を味わい変化を愛おしむように生きていくことです。二度とない人生だからこそ、悔いのないように大切な初心のために生きていくこと。

人生の純度を高め磨いていくことは、この心の風景をより鮮明に美しくしていくことです。

一期一会を生きていきたいと思います。

物語を生き切る

英彦山の宿坊の甦生が始まる前に色々と心の整理をしています。毎回、古民家甦生や場の甦生をする前は傾聴や覚悟の時間があります。このプロセスはとても大切で、今までの様々な物事を紡ぎ、結び物語を続ける準備に入るからです。

物語というものは、すべてのものに存在するものです。

この世にあるものはすべて物語があり、その物語の続きを私たちは生きています。何も意味もないもののように見えても、実際にはそこには意味が存在します。それが物語がある由縁であり理由です。

その意味が観える人と、意味が見えない人がいるだけです。私たちはどのような場にも意味があると感じられる人と、場に意味を感じられない人がいます。私は場道家を実践しますから、そこに一期一会の物語を直観していくのです。

これは自分の人生にも言えることです。

今の自分があるのは多くの物語の集大成でもあります。その物語を歩んでいく過程で、色々な人たちとさらなる物語の続きを見つめ、自分の役割、徳、業にいのちを傾けていきます。

こうやってまた新たなご縁が産まれ、新たな出会いと別れがあります。この出会いと別れもまた物語の一端に過ぎないことでありまた再び物語は歩むのです。私がもっとも仕合せを感じるのは、止まっていたもの、忘れられていたもの、捨てられていたもの、失われていたもの、形がなくなっていたものを「甦生」するときです。

私にとっての甦生は、物語を綴ることでありそれはこのブログを書いていることにも似ています。

今日も一日、かけがえのない日々がはじまります。

子どもたちのように一期一会に生き切り、自分自身の一生の物語に生きていたいと思います。

世の中で一番

心訓七則というものがあります。福沢諭吉が弘めたものですが作者は誰かはよくわかっていないようです。どちらにしても、これはとても心の持ち方に対して大切な教えが入っているものです。

一、世の中で一番楽しく立派なことは、一生を貫く仕事を持つことである

一、世の中で一番みじめなことは、教養のないことである

一、世の中で一番さびしいことは、仕事のないことである

一、世の中で一番みにくいことは、他人の生活をうらやむことである

一、世の中で一番尊いことは、人に奉仕して決して恩を着せないことである

一、世の中で一番美しいことは、すべてのものに愛情を持つことである

一、世の中で一番悲しいことは、嘘をつくことである

この「世の中で一番」というのは、他にはないものということです。つまりそれ以外はないものという意味になります。例えば、ある人は世の中で一番大切なものは利他であるとします。すると、それ以外は実は必要ないとしているのです。またある人は、世の中で一番大切なものは義だといいます。それも同様に、それ以外は自分の人生においては取るに足らないものということです。

人間は、誰もが初心というものを持っています。他の言い方では業と呼んだ人もいます。その人の使命、人生の役割がその人の世の中で一番であるのです。

この心訓七則ですが、ここでは強調するために世の中で一番と使われていますからこんなに一番ばかりが並んだら本来はおかしなことになります。だからこれは並べて読むものです。

「一生を貫く仕事を持ち、教養があり、他人の生活と比較せず自分を生き抜き、利他に善き、すべてのものにいのちがあるものとして愛情深く接し、正直に生きていくこと。」これがもっとも世の中で一番の生き方であるということを感じさせるためのものです。

理想の生き方として、日本人の伝統的な美しい暮らしを営む人々が世の中で最も尊いと言っているようにも思います。そこから離れないこと、そういう人間にならないように心がけようと戒めているともいえます。

よく考えれば、この逆は「仕事がなく、教養もなく、他人とばかり比べては自分のことばかりを優先し、物を粗末にして嘘ばかりついている生き方。」これを戒めているのです。

学問をしていくのは、志を磨き、精神の働きを高めるためでもあるといいます。まさに、人間は生き方が仕合せを決めますから時代が変わってもその本質は変わりません。しかし環境や場が濁ってくると、それもできなくなってくるのでしょう。

場を磨き高めること、これらの学問の本懐を守り続けることにもつながります。子どもたちが安心して素直に正直に成長していけるように、見守り続けていきたいと思います。

徳積の一灯

仏陀に「貧者の一灯」という物語があります。これは簡単に言うと古代インドの阿闍世王が招待した釈迦のために、宮殿から祇園精舎への帰り道を大量の灯火で明るく照らそうと布施を声掛けします。貧乏な老婆も自分も釈迦のためにとお金を工面して一本の灯火を布施する。阿闍世王の灯火は徐々に消えていったが、老婆の灯火は朝まで消えなかったという話です。

それぞれの解釈の仕方がありますが、この物語はその中身がとても重要な話です。食べるものがなくて貧しくても布施をしようとしたこと、釈迦の教えを説いて布施をする人を集めたこと、単に油や火をつけたのではなく永遠に消えない信仰という火をつけたこと。どんな大量の油や火よりも真心を籠めて徳を積んできた火は尊いということ。世の中のために世界のために未来永劫の子孫のためにという偉大な心で取り組んだこと。ないからできないではなく、徳を実践しようと心掛けたことなどがあります。

釈迦は、説法もしますが実践をされた方です。それは姿からもわかります。布切れ一枚しか持たず、道を歩み、最期まで徳を実践されました。この徳は、仏教では布施ともいい、わかるよりも行動で示されました。

有名な布施には、「無財の七施」というものがあります。言い換えれば、徳を積むための「七つの実践」ということです。眼施、和顔施、言辞施、身施、心施、床座施、房舎施の七つです。

眼施(がんせ)は、常にやさしいまなざしでいる実践。

和顔施(わがんせ)は、いつも和やかに笑顔で人と接する実践。

言辞施(ごんじせ)は、優しい言葉で人と接する実践。

身施(しんせ)、自分の身体で奉仕する実践。

心施(しんせ)は、他の人に対して心配りをする実践。

床座施(しょうざせ)は、席や地位を譲る実践。

房舎施(ぼうじゃせ)は、自分の家や部屋を提供する実践のことです。

これは、他人を自分だと思って大切にする実践。自他一体の境地を顕すものです。私たちは自分を大切にするように他人を大切にするときに徳は積めます。決してお金をたくさん持っていなくても、財産に恵まれていなくても徳は積めます。言い換えるのなら、ないからこそ徳の実践はさらに豊かになります。

簡単にできないからこそ磨かれるものであり、それがもっとシンプルで根源的であるからこそ私たちは迷いなく生きていくための真理に近づいていくともいえます。

大切なのは真心で「一緒に積んでいこう」「共に磨こう」というあるないにかかわらず、実践するという純度の高い一灯に真の意味があるように私は思うのです。この貧者は果たして本当に貧者なのか、真の豊かな心を持つ「心の長者=仏陀」ではないかと思うのです。

昨日のブログで心の長者のことを書きましたが、この心の長者は心の豊かな者のことです。そしてこの心の豊かな者の正体は、この貧者の一灯の実践をする人ということだと私は確信しました。まさに仏陀は、誰にもできることであり、みんなが勇気を出して踏み出せばそこには仏陀があるのです。

徳の仲間ができることは、仏陀を産み出すことであり仏陀はそれを同じ人として平等なところで語っているのです。

これからいよいよ地球環境の変化の著しい人類の行く末を決める大きな分岐点に、この貧者の一灯はこの世を明るく照ら光明になるでしょう。子どもたちのためにも、徳を積むことの意味を実践して伝承していきたいと思います。

最善観の覚悟

昨日、「最善観」という言葉を改めて知りました。これは教育者、森信三先生が語った言葉です。この意味は、「いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然である共に、またこの私にとっては、最善なはずだ」という根本原理に沿ったものです。

この最善観、私は「禍福一円観」という言葉をよく使いますがほとんど同じような意味に感じています。人は自分に色々なことが毎日発生してきますが、それを自分勝手に左右に分類してはこれはいい、これはよくないと決めていきます。

しかし、そのどれもは本当は現実には自分に最も相応しいことが発生しているのだと実感する人と、これは自分には相応しくないと分別している人がいるだけです。

本当はすべて必然であり、自分の身に発生したことはそれが現実ですからそれを素直に受け取っていくところによりよい人生が開けていくように思います。つまりいいかわるいかではなく、そこに大切な意味があるという生き方でもあります。自分にとって必ず通る道だから天命として絶対安心して歩んでいけということもあります。

これを西洋ではオプティミズムともいい、楽観性と表現します。積極思考ともいうかもしれません。また別の言い方では、「これでいいのだ」という言葉にも似ています。

最初から自分に与えられた自分だけの人生は、他と比べられるものもなく自分自身が体験しながら自分の道を自分の足のみで歩んでいくものです。その道は誰でもなく自分にしかない道、自分にのみ与えられた道だから善悪関係なく「すべて最善」なことだと覚悟して生きるということです。

時折、何で自分がとか、誰かがやるだろうとか、他の人の方がなどと思うこともあるものです。もしくはなぜ自分がや、どうしてこんなことにと悲嘆にくれること、もしくは自分にはもったいないや、自分にこんなにもという恩恵もあるかもしれません。しかしそのどれもをそのままあるがままに受け容れることで最善観を持つことがその人の人生を真に生きることになるように思います。

私はよく考えてみると、まだまだ世間の刷り込みが多く入り込み自分自身というものを正しく認識することができないでいるように思います。というよりも、日々の刷り込みの中で本当の自分、主人公としての自分を日々に顔を洗い目覚めていく鍛錬が不足しているようにも感じます。

自分にしかできないことをやるには、誰とも比べられない自分を生きる必要があります。森信三先生が日々の実践に生きたように、私自身も絶対必然、最善であると自分を鼓舞して素直に謙虚に生きていきたいと思います。

この世のすべての御縁を一期一会と共に歩んでいきます。

ありがとうございます。

螺旋の真理

私は法螺貝を吹いています。この法螺貝はとても不思議で、螺旋の形状をしており音が螺旋状に回転しながら空間に広がります。二つ以上の法螺貝を同時に吹くと、その螺旋が合わさり調和して独特の波動を体感できるほどに振動を味わえます。このような螺旋運動は、宇宙の摂理でもあり私たちの生き方を原点回帰するときにも必要になるように私は思います。

私たちの身体をはじめ、すべてのものはこの螺旋でできています。螺旋は、一つの理解としては遠心力と求心力があります。つまり外に向かって広がっていく力があること、そして内側に向かって深めていく力があることです。

この外と内に向けた力の調和、それが螺旋の本質だと私は直観しています。

宇宙を見てみるとそれはわかります。宇宙は外へといつまでも広がっていく、そして私たちは自分自身という内なるものを磨き上げて深めていこうとする。これが一つの私たちが宇宙でしている体験であって、それを形を変えては宿命的に行い続けているのです。

これは決して物だけでもなく事でも同じです。

時代が循環し世界は広がっていく、同時に私たちは時代を経てさらにさらに奥深い場所へと真理を到達させていく。つまり、この螺旋の外へと螺旋を深くは同じ意味であるということです。

呼吸を吐いて吸うように私たちはこの広げることと深めることといつも繰り返し行っているということです。これは海の波も同じく、そして朝と夜も同じく、男女も、そして生死も同じです。

私が法螺貝を吹くのは、深めたものを広げるためです。

今、世の中はグレートリセットを求める気風が出てきている時代です。日本語だと原点回帰というのでしょう。そのためには、今一度、それを実践で取り組む必要が出てきます。

法螺貝にはその可能性があると私は信じています。

引き続き、子どもたちの未来のためにも自分に与えられた使命を全うしていきたいと思います。

ZEN

今日、11月1日は釈宗演氏の命日です。この人物は、日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として有名です。ちょうどZEN2.0とご縁ができ、鎌倉に学び直す機会ができましたので改めて深め直してみたいと思います。

釈宗演氏は安政6年(1859)福井県高浜町に生まれ20歳のときに鎌倉円覚寺に修行の場を移し25歳で今北洪川老師より印可を受けています。その後は、27歳で慶應義塾にて福沢諭吉より洋学を学び29歳のときにスリラカに留学します。そして明治25年(1892)34歳で円覚寺派管長に就任します。

1893年にはシカゴで開催された第1回万国宗教会議に日本の仏教代表として参加し日本人として初めて欧米諸国の人々の前で仏教についての講演をされたといいます。その後は47歳で建長寺・円覚寺の管長を退き、廃寺寸前であった東慶寺の復興をされたといいます。大正8年(1919)、11月1日、61歳で遷化されました。

この釈宗演氏の遺した修養座右の銘は私の提唱する「暮らしフルネス」に通じるものがあるのでご紹介します。

1)「早く起き未だ衣を改めず、静坐一炷香」
早起きして、40~45分くらい線香の香に包まれて背筋を伸ばし、肩の力を抜いて正座しながら、静かな時間を過ごしましょう。

2)「既に衣帯を著くるば必ず神仏を礼す」
着替えたら、神仏に手を合わせましょう。

3)「眠は時を違えず、食は飽くに至らず」
就寝時間は規則正しく、食事は食べ過ぎないようにしましょう。

4)「客に接するは独り処るが如くし、独り処るは客に接するが如くす」
人前では独りでいるときのように、ありのままの自分を出し、独りのときは、人前にいるかのように、慎みを忘れずに過ごしましょう。

5)「尋常苟くも言わず、言えば則ち必ず行う」
禅は必要ないものを捨て去ることが修行だから、余計なことは口にせず、言ったことは必ず実行しましょう。

6)「機に臨みて譲ること莫かれ、事に当りて再思ず」
「機」とは仏の教えに従って活動する心を意味する。その心を譲ることなく、なにごともよく考えて行動しましょう。

7)「妄りに過去を想うこと莫かれ、遠く将来を慮れ」
過去にとらわれず、これからどうするかを考えましょう。

8)「丈夫の気を負い、小児の心を抱け」
立派な大人の気概をもちつつ、同時に子どものような純真無垢な心も忘れないようにしましょう。

9)「寝に就くは棺を蓋うが如くし、蓐を離るるは履を脱ぐが如くす」
寝るときは、お棺に入るときのように静かに寝よう。起きるときは、靴を脱ぐときのようにさっと起きましょう。

孔子の大学にある、天子から庶民にいたるまで如何に暮らしを整えていくのかというのは普遍的な道理です。この釈宗演氏もこの日々の暮らしの実践を重んじていたのがわかります。

明治の廃仏毀釈で仏教はとても荒廃しました。現代の仏教が原点回帰して発展したのにこのZENは日本だけではなく世界的に大きく貢献しました。一期一会に今の環境を受け容れ、敢えて世界への布教し日本に回帰するという生き方。

学ばせてもらうことばかりです。ご縁を大切に、英彦山甦生の参考にしていきたいと思います。

場力

世界には同じようなことをやっている人がいるものです。昨日もアメリカから2名の方が、聴福庵に見学に来られましたが通じ合う話が多く楽しい時間を過ごすことができました。

不思議ですが、似た人たちや同じ目的を持っている人はいつも同じことを考え波動もまた似ているものです。しかし、同時に似ているからことお互いの異なりから発見することも多くあります。

つまり何が似ていて、何が似ていないのかが合わせ鏡のようにわかるということです。その似ているものの普遍性が何で、似ていないものからたくさんのことを発見し学ぶことができるのです。

私自身も昨日は、何か力になればとオープンにお伝えしましたが私の方が学ぶことが多かったように思います。

場づくりというのは、その場で何をするかということに由ります。

つまり何のためにその場をつくるか、そして何がその場で発生していくようにするのか。そこにはその場の思想というものがあるのです。その場の思想は、思想が先か、場が先かというとこれは表裏一体です。

なのでその場がどうなるかは、常に思想と場に磨きをかけて光らせ続けていく必要があるのです。場力があるとよく人に言われるのは、その主人の思想力があるということでもあり、同時にそれは場によく反映されているということです。

この場は、その思想全体の集中する舞台ですからその舞台には役者が集まるのです。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるようにここから変化を伝道していきたいと思います。

御縁

御縁というものは誰にもあります。そのご縁の中でも自分の魂や本心が望んでいるものは、そのご縁との結びつきを強く厚くしていきます。御縁というのは、それだけ自分自身と深く関係しているということになります。

御縁には人とだけではなく、物とのご縁というものもあります。そして空間や場所、思想や思い出、歴史や感覚というものもあります。それをどれだけ磨いたか、関係を高めたかということがご縁の姿です。

私も思い返せば、ふとした出会いの中から自分にとってとても大切なご縁をずっとつなげて磨いてきました。一期一会にその時機にしか出会わないご縁もあれば、ずっと長い道中で共に出会い続けるご縁もあります。お互いにこの世に存在する長さも感覚も異なりますから巡り会えた仕合せは格別なものです。

お互いにたくさんの思い出や絆を結んでまた次の道へと向かっていきます。

いつかは離れ離れになってしまうとしても、その一瞬の仕合せやめぐり合わせに感謝するのです。最近は、木々や山、岩との出会いが増えています。不思議なことですが、200年以上の枝垂れ桜や銀杏の木をお手入れし守るご縁です。幼い頃から、神社の境内には樹齢数百年の楠や杉がありましたが眺めているだけの存在でした。

人が関わり大切に守ってきたものには、人との深いつながりやご縁が感じられます。

時代を超えても思いは思い出と共に懐かしく、思い出と共に豊かになります。

私たちはこの世で豊かに生きていくために御縁を深く味わう感覚を持っているのです。人類のそう遠くない未来、原点回帰することが予想されます。その原点回帰は、新しいとか古いとかではなく普遍的なものに気づきなおすことです。

複雑怪奇に分類わけされたこの世の中の霧がかった空を澄んだものに転じていくことです。暮らしフルネスは、この転じるものの礎になるものだと信じています。子どもたちがご縁に恵まれ豊かに育っていけるように見守り続けていきたいと思います。

場と智慧

日本の神話で最初の合議によりアイデアを出して実行して世の中を明るくしたことに天岩戸伝説というものがあります。この伝説の中心人物が、私の運営するBA(場の道場)に御鎮座する神さま、八意思兼神(オモイカネ)です。この神さまは他にも、国譲り・天孫降臨など重大な局面で智慧を出してみんなで物事を解決していく「場」を創造していきました。

この天岩戸伝説は御存じの人の方が多いと思いますが、簡単に言うとアマテラスの弟のスサノオを悪さをしてショックを受けたアマテラスが岩戸の中に隠れて引きこもってしまった。そのことで太陽が消えたように世の中が暗くなり混乱が起きた。それを解決するためにすべての神様が一堂に集まり、場で話し合いをし智慧を出した。そのファシリテーション役がオモイカネが行い下記のようなアイデアにまとめました。

一つは、常世の長鳴鳥(ニワトリ)を集め、鳴き声で夜明けを知らせること。二つ目は天安河の岩と、金山の鉄で鍛冶屋の天津麻羅に鍛えさせること。その鍛えたもので伊斯許理度売命が「八咫鏡」をつくること。三つ目は玉祖命が「八尺瓊勾玉」を繋いだ珠を作ること。四つ目が天児屋命と布刀玉命が雄鹿の肩の骨を抜きとって朱桜の枝で焼くという占いをして事をはじめることなどです。

実は三種の神器の勾玉と鏡はここの智慧で出てくるものです。

それを使って神様たちが作戦を実行しアマテラスを岩戸から出てきてもらいます。有名なのは実際にはアメノウズメノミコトが岩戸の前で必死に踊っていたら裸踊りになってしまいそれをみた神さまたちが笑い転げているとその様子にアマテラスが気になって岩戸から出てきたという具合です。それで鏡をつかいアマテラスの純粋な美しさに気づかせ真榊と勾玉で出てきたところを岩戸を開けて戻らないようにみんなで頼んだという話です。オープンに協力して持ち味を活かし、神さまたちの笑いが「和来」(わらい)となって、みんなが心和むことでまた調和が訪れて世の中がまた明るくなったというシーンでしょう。それから禍が転じて福が続いているという日本人の親祖たちの智慧で今があります。

本来、場と智慧があって禍福が一円になっていくものです。

私の取り組んでいる場が、現在の世界の課題や問題を解決していけるように真心を込めて磨き上げていきたいと思います。