当たり前の真実を直視する

無事に今年の宗像国際会議が終了しました。天候にも恵まれ、上手にコロナ対策をし、人との結びつきや繋がりも生まれ見事な3日間に感動しました。実行委員会の方々をはじめ、いつもおもてなししてくださっている関係者、配慮ある裏方の皆様、そして神社の皆様には心から感謝いたします。

昨日は、安宅和人さんと黒田玲子さんとのセッションでしたがとても学びが多く有難いご縁になりました。現実をあらゆる方法で伝えてくださり、そこではじめて今、世界で起きていることを知る人もいたかもしれません。

環境問題は、地球に住む私たちにとっては本当に重大な問題です。この環境がある御蔭で私たちは営みをつくることができますが、環境がなくなれば元も子もありません。

「当たり前」の真実を直視するということは、私たちが第一歩を踏み出すためにはとても重要だと私は思います。

人間は、今の環境を変えたくないとき当たり前(現実)を直視することをやめてしまいます。特に今の状況があることが当然だと思い込んでいるのであれば尚更に、自分は変えずに何とか周りを変えることができないかと方法を求めようとします。

しかし現実を変えるというものは、まず本当のことを知ること、現実を受け止めること、そして自分が何を変えればいいかと受け容れることができてはじめて実現するものです。

例えば、環境問題は環境のせいではなく自分自身の問題、自分のせいであること。これは現在の環境問題は人間がやっている問題なのだから、そうなります。なので、根源治療は人間を変えることしかありません。対処療法は永遠に増大していきますが、対処できなくなるまで続きます。それでは環境問題を解決するためにかえって環境に負担をかけて消耗していく本末転倒にもなりかねません。

人間の数も増えて、どうにもできないから対処療法になるのですが遠い未来から今を逆算してみて、まず自分自身からお手入れしていくしかありません。歴史を変えてきたのも、人類の方向を変えてきたのも最初はみんな「一人」からはじまっているからです。

そして自分が変われば、世界も変わるということを歴史は証明しています。

人間はみんな「欲」という病が備わっていますから、うまくその病と付き合うためにもなるべく未病になるようにし、一病息災の健康を保つように養生していくのがいいと思うのです。

それは心の豊かさ、徳を積むことで実現すると私は思います。

一人一人の心が豊かであれば、そしてみんなが徳を循環するような譲られたものをそのまま磨いて子孫に渡すようにすれば人間の心も、そして環境も、足るを知るように永遠の循環をめぐります。自然界に見習えばそうなります。

気を付けるのは対立概念や物質的なものの見方にもっていかれないことかもしれません。あっちかこっちかではなく、あるがままの当たり前(現実)を観ること。みんなで当たり前が何かをもう少し議論できるようになれば、当たり前のところから変えていけると変化もまたスムーズです。

もっと自分の手や足や感覚で、世界で起きていること、自然に発生していることを実感することからだと私は思います。都市の中でなんでも自由に人間の思い通りになる便利な場所を離れて、山に来てほしいと思います。山に来れば、色々な当たり前に気づきます。

今日からいよいよ日本三大修験場の一つ、英彦山で最古の宿坊「守静坊」の甦生に入ります。宿坊と一緒に在る200年以上の枝垂れ桜のご神木も今か今かとお待ちいただいています。

徳を積むことを、実践を通して伝え、みんなで世の中の当たり前を変えていけるようにまずは私自身、自分自身を変え続けていきたいと思います。

ありがとうございました。

 

 

マインドフル・プラネット

昨日は、宗像国際会議のスピリチュアルツーリズムのセッションでZEN2.0の活動をされている宍戸さんと三木さんのお話のコメンテーターとして参加してきました。この団体の掲げているミッションは『生きとし生けるもの全てをかけがえのない存在として、人類全体が心豊かに地球を共有するマインドフル・プラネットを創っていくことをミッションとしています。また、近づく方法として、仏教の「仏・法・僧」の三宝から借り、「わたし」「自然」「つながり」を調和した社会の実現を目指します。』とあります。

お話の中では、ご自分の病気の体験やそこからの気づきにはじまり、心豊かに生きていくことの大切さ、世界のマインドフルな想いをオンラインで繋がりあうなど共感するお話がたくさんお聴きできました。また詳しくは後日、宗像国際環境会議のHP等から動画配信されると思います。

このZENというのは、アメリカに伝わった禅がそのままZENとして呼ばれているものです。アメリカではZENというと仏教という印象が強く、一般的にはマインフルネスという言葉で使われることが多いように思います。

マインドフルネスという呼び名になると、特定の宗教や宗派というものを超えて高い精神性や、静かな心境、穏やかな境地のようなものを持ちたいと願う人たちが使う言葉として現在は世界で定着しているようにも思います。

私には古くからの友人の一人に長崎にある禅寺の僧侶の方がいます。

その友人は、いつも禅的な生き方をして自由奔放で私のイメージする「雲水」そのものです。何ものにも捉われない、自分自身であることを大切にしておられます。

私自身も若い頃、道元禅師を慕い永平寺を参拝して朝の参禅に参加したことがあります。今でも思い出すのは、永平寺の周辺の滝場の美しさ、そしてととのった場の美しさ、今でも想いを馳せると心に薫ります。

本来、頭で理解する宗教や経典などとは別にそもそも生き方というのは「感じる」ものです。感じるというのは、五感をすべて自然に投げ出してそれを深く味わう時に磨かれ、その自然と一体になって全体と調和していきます。

本当の自分とは何か、自分自身とは何かということを自然から導いてもらうのです。

私たち人間は生きているうちに、人間だけが創り出した社会という名のどこか仮想で虚構の空間の中に放り込まれていきます。しかし、現実というものはそれとは別に「地球と一体になって暮らし」ているのです。

私もこのzen2.0のマインドフルプラネットという理念にはとても共感して、そうありたいと思う一人になりました。志のあるお二人に出会えたことをとても仕合せに思います。今日は、私も10時から「環境問題と価値観の転換」というテーマで登壇しますが未来の子どもたちのためにも自分の役割を真摯に果たしてきたいと思います。

ありがとうございます。

出会いの面白さ

昨日から宗像大社での宗像国際環境会議に出席しています。昨年の御縁から末広がり、今年もさらに深いご縁をいただきました。私は来たものを選ばないでタイミングを観て動いていますから、導いていただけるような機会にめぐり逢えることは仕合せです。

2回目の参加になりますが、1回目のこの会議の参加で出会った人との関係がさらに深まりました。回数を重ねて会うほどに、まるで噛めば噛むほどにその人たちの味わい深さを実感します。

どうしてもテレビや本、雑誌などごしでこういう人なのかなと思いこんでも実際にお会いすると全然違うということがたくさんあるものです。人間が最も分類わけできないとも思います。それが個性でもあり、その人の持ち味でもあります。

出会いの面白さは、その持ち味を噛みしめるときに再実感することができます。その人との出会いから酸いも甘いも知り、そのうえで尊敬し好きになることができるのです。テレビなどで見て一方的にファンになるのとは異なり、一緒に出会い語り合う中で丸ごとの魅力を感じることができるのです。

昨日もそんな機会が多々ありました。

肩書とか立場とか、来歴とか、どうしても有名な方々はその方が目立つものです。今更こんなことを思われるかもしれませんがみんな立場や役割、そして周囲の期待などもありバイアスがかかっているのです。人間はそうやって自分たちの価値観を実際のものとは別のものとして膨らませていくものです。

よく見せようとするテレビや雑誌では、実際の姿よりもよく見せてもらえます。舞台芸術も同様です。それはそれで美しく、よりリアルに印象的に伝わります。しかし舞台裏での苦労や大変さはなかなか感じられないものです。今回の開催では、その舞台裏で努力されている方々、それを豊かに楽しみに換えて届けていこうとする創意工夫。皆さんが継続するなかで、大切にしている努力や挑戦、そして真心などを感じました。

昨夜は宗像大社でおしまいに法螺貝締めできる機会もいただき、そんな皆さんの気持ちに共感することができました。

思い込みや先入観が邪魔しないように、私も素のままで今を味わい噛みしめながらこの数日間を豊かに味わっていきたいと思います。

お手入れの思想

現実というものを直視できるというのは素直であることでより磨かれていくように思います。きっとこうだろうと決めつけるのではなく、きっと自分に何かわからないことがあったのだろうと聴く心を持っている方が素直になっていくからです。

この素直の力というものは、思い込みを外す力であるように私は思います。

人は何かの考えに縛られ執着をすると、その考えに固執してしまいます。すると、この固執した考えが邪魔をして現実を隠したい歪めたりしていくものです。これを価値観という言い方もしますが、その価値観を転換する方法は私は「聴く」ことであると信じています。

少し詳しく説明すると、人間は素直に聴くことができるのなら物事はすべて福に転じていくことができます。古い諺にある「禍転じて福になる」のです。

つまり聴くことで福になる、そして本来、人とはそういう存在である。

これを私は「聴福人」(ききふくじん)と名付けています。これは七福神(しちふくじん)に因んでそう呼んでいます。私は人生でこの聴福人の誓いを立てて、その人物を育てるために一円対話(いちえんたいわ)という方法を編み出しました。これは、二宮尊徳の一円観(いちえんかん)から命名したものです。

一円観は、善や悪など世の中のありとあらゆる対立するものをひとつの円の中に入れて観るというものの見方です。シンプルに言えば、もともとこの世は表裏一体。自分の思い込みが相手をそうさせ、自分の決めつけがその反対を生み出すということです。そもそもが混然一体になった丸ごと一つの団子のようなものだと思えば対比することもなく、素直に物事を観ることができるということです。

つまり許すとか許さないとか、正しいとか間違っているとか、いちいち対比して比較して物事を観るのではなくあるがままで丸ごと観るということ。素直に現実を観るということです。

人は何かを考えるとき、自分にとってどうか、相手にとってどうかと縛られます。これが価値観を持っているということです。その価値観を転換するというのは、その自他を最初から一体にしてしまうこと。しかしこれを文字で書いても、やっぱりまた我が入り対比してしまうでしょう。だからみんなわからないで苦しむのです。

なので実践してみて私が気づいた境地は「聴く」ことが解決するうえで王道であり智慧だと私は思うのです。この聴くは、頭で聞くのとは違います。耳に徳の字が合わさった文字です。つまり心の耳、心のすべてで傾聴するということです。

例えば実践となると、「きっと何か自分にもわからないような重要な理由があるのだろうやきっと何か大事な意味があるのだろう」と自分から決めつけないための努力をしているのに似ています。刷り込まれないように眼鏡を吹き続けたり、心を清めつづけていくのです。

日々の塵や埃のように、何もしなければそれは溜まっていきます。掃除をして綺麗にして磨いていないとすぐに汚れていきます。汚れたままでは、元の状態もわかりません。なので、暮らしをととのえて磨く必要があると私は思うのです。

私が暮らしだというのは、これは日々の実践でしか解決するしかないと確信しているからです。いくらいい人や聖人、周囲から偉人と呼ばれている人であってもそんな称号があっても何の解決もしません。どんな人でも、それば仏陀でも孔子でもキリストでも地球に住んで肉体を持っている以上、お手入れし続けているのです。

それが修行ということでしょう。

この世に生まれてきて最期の日を迎えるその日まで、私たちは自分で穢れを祓い清めて洗い流してお手入れしていくのが生きる醍醐味です。私が取り組むお手入れの思想、暮らしフルネスの実践を皆さんにお話しする機会に恵まれたことに感謝しています。

保育の豊かさ

人が一生のなかで巡りあう出会いやご縁というものは自分が蒔いているものです。この自分というものは、意識、無意識に関わらず自分が由あって結ばれているものです。

私たちは不思議ですが、そのように結ばれている「場」を創造しながら今を歩んでいく存在ということです。この今というものは、この今の選択にすべて帰命しています。

今何を感じているか、今何を選択したか、この小さくて偉大な今の全てが種になってそれを自分が蒔いているのです。自分自身が何を思ったか。その思ったことでさえ、それが種になりそれを蒔いています。

その種から芽が出てやがて実をつけます。その元の種が初心が澄んでいるものならばどんな環境下においても蓮の花のように美しく清らかです。人はみんな目的や初心を大切にして今を生き切れば、それなりの種になっていきます。

そしてその種もまた、今まで他の人たちが蒔いた種。もっと突き詰めれば、先人たちが蒔いた種が自分に宿っているともいえます。自分自身の中には、その初心というものをもった自分。そして時間を経て様々な体験を通して適応してきた自分があります。その自分が今此処で見事に調和して種になっているともいえます。

私は毎年、固定種の伝統高菜の種を蒔いて育てていますが毎年その生育は紆余曲折あります。一喜一憂は常に絶えず、悲喜こもごもに様々な体験をその季節ごとに味わっています。

そんな中でもまた種になり季節を巡り続けます。苦しい時には苦しみを乗り越えた花が咲き涙し、うれしい時には喜びを味わった花が咲きます。畢竟、私たちの本体は「種」であるのは間違いありません。

この種を一生をかけてどう育てていくか。そこに人間の一生の醍醐味があるように私は思います。

子どもたちはその種が繋がり結ばれた存在です。前の世代、そのずっと前の世代から連綿と種を蒔き続けて今があります。どんな種もまた見事な一生を送ります。その一生を見守る存在が環境ということになります。

どのような環境を見守っていくか。自分が見守られてきたように見守っていくことが種を育てていくことです。子どもたちのためにも、みんなでその保育の豊かさを味わっていきたいと思います。

味噌汁~時の味わい~

昨日は、久しぶりに味噌づくりの体験のお手伝いをする機会がありました。思い返せば、最初に味噌を自作したのはもう15年以上前だったようにも思います。子どもたちと一緒に熱々の大豆を手ですり潰していく作業が思い出に残っています。

大豆を育てるのも一苦労で、簡単そうで大量となるとなかなか育ちません。育たない理由は大豆になる前の枝豆が美味しすぎてそこで収穫したり人に配ったりしてしまうこともありますが。

昔の人たちは味噌をつくるために、大豆もたくさん育てていたのだろうと思うと懐かしいものを感じます。そのすり潰した大豆に麹菌を混ぜて塩を足し発酵させていくと味噌になりますがこの変化を楽しむこともまた味噌の醍醐味です。

私は発酵は木樽にこだわっています。その理由は、木樽は呼吸をしていて水分量を調整してくれます。プラスチックだと水分の調整が難しく、水がうまく抜けません。適正水分を保つというのは、どの生き物においても重要なことです。私たちのいのちは水でできていますから、この水との調和がいのちを適切に育むからです。

水と塩、まさに海ですが地球を保つ仕組みと私たちの身体や食物のいのちもまた同じ仕組みで構成されているのです。

そしてこの発酵というものは、まさに代々を継いで円熟していく「時の美味しさ」というものが入っています。味付けというのは単にその時の組み合わせだけではなく、それまでかけてきた時間や歴史も味になっているのです。

特にこの「味噌汁」は、日本人は1200年くらい前から私たちのいのちの健康を支えてきた食べ物です。私たちが味噌汁を食べるとき、それは単に組み合わせの美味しさだけではなくこの時の美味しさも感じています。懐かし味の代表はこの味噌汁でもあるのです。

保存に適し、麹菌をベースにあらゆる腸内細菌との調和をはかり食べ物をうまく包み込み美味しく仕上げていく。少し大げさかもしれませんが味噌汁の御蔭で私たち日本人は、この高温多湿の風土の中でも健やかに暮らしを営んでいくことができてきたように思います。

昨日は手作りの真心籠った味噌汁に竈と備長炭で炊いた自家製の無肥料無農薬の玄米ご飯に野菜の味噌漬物の一汁一菜を、子どもたちも一緒に懐かしい藁ぶきの百姓古民家で深く味わいました。本当に日本人に生まれてきてよかったと思う瞬間の一つです。

時を感じるというのは、自分たちが「ここで生まれてきて善かったと感じる瞬間を味わっている」ということでしょう。できれば、未来までずっとこの瞬間が子どもたちに伝承していけるように私のやるべきことをやり遂げてこの世を去りたいと思います。

貴重な一期一会の時間をありがとうございました。

場を守る意味と価値

その土地にはその土地特有の歴史があります。それは言い換えれば、その土地で発生してきたご縁と物語があるということです。私たちは、今いるところが前なんだったのかは想像でしかわかりません。もしも遺跡などが遺っていたら、なんとか想像できますが痕跡もないような状態の場所になれば想像することもありません。

例えば、ある場所では祭壇があってずっと祈りの場であったところがあったり、また或いは戦争でたくさんの人がそこで亡くなっていたり、それは何百年も経てば更地になっていたり土に埋もっていたりしますから今、そこにいても目には見えませんからわからないのです。

しかし、その土地には必ず何らかのご縁や物語があり消えているようで消えずにそのままその土地に紐づいて記憶として遺っているように私は思うのです。

それをふとした時に実感することがあります。

それは懐かしいと感じる場所であったり、なぜか身震いするような嫌な気配があったり、そこに来ると祈りや癒しの空気に包まれ眠くなってきたり、それはその土地、その場所特有の何かが働きかけているからだと私は思います。

まもなく量子力学など、他にも場を科学的に分析して可視化できる技術も整ってくれば、これらの土地や場所には何かが存在したままにあることが解明されるように思います。

むかしの人たちは、そこに存在しているご縁や物語を感受し感知することができたからこそそこにお社を建て、お祀りすることをしてきました。また権現といって、神様が顕現されているということを人々に可視化できるようにしていました。

私たちは知らず知らずのうちに、その場所の歴史と紐づき、その影響を受けているのです。だからこそ、私たちは「場」を整え、大切に甦生し続けていく使命があります。

私は甦生に取り組みますが、場所との出会いは歴史との出会いでもあります。どう古代、いやもっと前、何千年、何億年も前から続いてきた偉大な何かとアクセスし、その力やご縁を結んでいく。すると、そこに引き寄せられるように人々もまたふれあい、物語をつないでいくのです。

宗教的だとか哲学的だとか、もしくは変人だといわれるような架空仮想な話のようではありますが、確かにその場所には私たちが目には見えない物語が連綿と生き続けているということです。

子どもたちにも、場を守ることの意味とその価値を伝承していきたいと思います。

真に尊重し合う世の中へ

昨日、結果平等や結果公平の話が会議の中でありました。もともとこの平等や公平性などは誰かによって押し付けるものではあってはいけません。なぜならこの平等や公平性は、あくまで「受け手」がそれを感じるかどうかが重要だからです。

例えば、食料で平等といって同じものを与えることや、公平といって分配するということをやったにします。しかし個々人には好き嫌いもあるし、それに体の大きさ、病気の有無、アレルギーなどもあります。与え手がいくら同じものを同じ量与えたとしても受け手がそれを必要としない、もしくは何らかの理由で欲していない場合はその平等や公平は成立していないからです。

お互いの尊重し合う社会というのは、相手の意見をよく聴いて尊重してお互いに配慮し合う中で実現していきます。それはどんなに小さな意見でも一理あると傾聴し、またどんなに弱い立場の人の話でもそれも一理あると大切にしていくところに存在していくのです。

先ほどの平等や公平性を考えて一方的に押し付けるというのは、まさにやっていることの本質としては不平等や不公平を一方的に押し付けたということになっています。多様な意見や状況を尊重しようとしていないところにすでに不平等も不公平もあるのです。人間は正論だけでは解決できないことはあるのは当然です。なぜならこの世の中に正しいということはないからです。同時に間違っているということもありません。それが自然界であり、宇宙の道理です。

だから私たちはどんなことにも配慮し、尊重し合うことで調和しこの世で持続可能ないのちの循環をみんなで分け合い助け合いながら暮らしていけるようになったのです。それを人間の一方的な押し付けで、正論を掲げ、人類の中でしか通じないルールを押し付け、一方的に不平等や不公平を広げていくのは単に誰かだけによって独裁する世の中に仕上げていくだけのように私は思います。

独裁の中では本当の意味で自立や協力し合うような自立分散の平等や公平の世の中になることはありません。私たちは、平和を持続させていくためにも各々が尊重し合う世の中を目指していく必要があります。

私がブロックチェーンのテクノロジーにこだわりそれを昇華させて徳を積むというような実証実験に取り組むのもその原点はこのいのちのありのままの姿を可視化して気づきを与えるキッカケを創ろうとする実験でもあるのです。

子どもたちには、見守る保育のようにお互いに尊重し合いながら助け合う環境の中で本来の人間社会の在り方、自然との共生や貢献を学び合ってほしいと願います。引き続き、自分のやるべき使命に没頭していきたいと思います。

耕さないことと耕すこと

自然農を実践していますが耕すという意味がまた少しずつ変化していくのがわかります。もともと自然農では耕さない、虫も草も敵にしないという一つの概念がありますが実際には土の表面を削り草を取りますし、野菜の種類によっては耕すことがあります。そして虫も大量発生すれば、手で取り除いていきます。

つまりこれは形式的な概念ではなく、その背景があるということを意味します。例えば、虫や草を敵にすると農薬で全滅させようとします。自然界には当然、分解者がいたり、共生者がいたりして全体を循環させていますから何かだけを取り除くとすぐに別の問題が出てきます。つまり、「敵」にするのか、「和」にするのかではその取り組み方が異なってくるということです。

自然農では、敵ではなくどう調和していくのかを重要視します。言い換えれば、他の生き物たちへの配慮や思いやりを忘れないということです。つまり敵ではないというのは「優しくある」という姿勢です。自然に対して相手を敵にするのは視野が狭く、相手も生きていくために理由があり生きています。自然界では取り過ぎないのはそういう道理を知り分を弁えているからでもあります。人間界はそれを無視してでも取りすぎますから道理から外れてしまいます。すると自然農では具合が悪いことが次々と発生し健康な畑や農作物が育たなくなるのです。

もう一つ耕さないというのは、農業で耕すのは土を拡販して肥料を足して収量をあげていくためです。一つの土地で収穫できるようを増やそうとすればそこに肥料を足す必要があります。そしてその肥料を土の中に攪拌すれば栄養過多になり作物が大きくなり実をたくさんつけます。栄養過多ですから病気にたくさんかかりますし、その栄養を分解するために虫たちがたくさん発生します。それを防ぐために抗生物質や農薬を散布して対応するのです。また耕すと土中環境が乱れます。具体的には、土の中や野菜の周囲で育っている菌類や虫たちの住まいを崩してしまいます。土の中に住んでいる生き物たちの生態系が豊富で循環がめぐっていたらその代謝物そのものが肥料になります。つまり生き物たちの生きている日々のプロセスが他の生き物たちを活かす肥料になっていくのです。

耕さない方がいいというのは、土の中の生態系まで配慮していこうとする生き方の表現でもあります。環境問題が色々といわれますが、作る段階から環境に配慮していこうとするのが耕さないということもあると私は思います。

ではむかしの人たちは耕すことで畑が醸成され豊かになるといったのは何かということです。これは畑を攪拌すればいいという意味ではなく、その畑でたくさんの野菜を育てて活かし続けるという意味だったと感じます。つまり「耕す=活かす」ということです。

二宮尊徳にも心田開発がありますが、これは心を耕すという言い方もしますがこれは真心を活かし続けるという意味でもあると思います。つまり活かし続ける、使い続けることこそが耕しているのだということ。

自然農の耕さないというのは、言い換えればむかしの人たちは耕すということ。時代が変われば、その言葉の表現も変わっていきますからむかしの言葉を言葉通りだけで認識するのではなくその言葉の本質や本意が何か、それを理解していることが重要なのです。教科書に書いている通りを額面通りに理解するのは、本質を理解したのとは異なるのです。

子どもたちには、本質や本物の体験を幼児期からしてもらう機会や場があることを望みます。実践を磨いていきたいと思います。

自分の答えを生きていく

現在、世界の富の半分は人口の1パーセントが持つようになっているといわれます。少しイメージをしやすくしたとして別の見方では、地球の半分の土地は1パーセントが持っていてそれ以外を99パーセントで分けているという具合です。

むかし子どもの頃に場所取り合戦のようなものをしましたが、敷地のほとんどを先に取ってしまえばあとはそれ以外を取り合うという具合です。最近では、運動会などで保護者達が場所取り合戦をしてたくさん取っている人もいますがそんなに使ってどうするのかという広さを確保しています。

その広さの中でテントをたくさん建てたり、物置にしたり、知り合いを呼んだりして実際は運動会を見ずに飲み食いして盛り上がっています。

これが土地となると、広大な土地をいくらもってもその手入れが大変です。お金になるところは人に貸したりするのでしょうがそこで入った富を使ってまた富を増やすことばかりに余念がなければ地球の土地は富を増やすためだけの富の惑星になっていきます。

この富が本当の意味で、すべてのいのちが豊かになるような富であればいいのですが実際には先ほどの1パーセントの人たちが持っているのですから歪さは否めません。これがいつまで続くのか、その1パーセントの富の比率がこれからどうなっていくのか。それがこの先の未来です。

またよく考えてみると不思議なことですが、人口が80億人もこの地球にいてそれを統治するというのは如何に大変なことか。中国だけでも、約14億人くらいいるといわれますがそれを統治しているトップは今は習近平さんです。人間は100人くらいでも大人数、学校や会社にいけば500人くらいでも大変なのにそれが14億人もです。

人類はどうやってこの地球で共生し合っていくのか。場所取り合戦ばかりして富ばかり追い求める前に、そういう基本的な事実に向き合いこの地球で末永くみんなで豊かに生きていくための方法を議論する必要があるのではないかとも感じます。

1パーセントといえば、先日ある歴史家が記事で「歴史とは人口の1パーセントがしてきたことであり、残りの99パーセントは畑で働いていたのだ」という文章を発見しました。

世の中で起きている様々な歴史や富は、地球での生命を維持できる環境があってはじめて成り立つものです。現に、滅びている文明はそれが維持できなくなったから滅びたのです。どんなに富を持っていても、地球で人類が生きていけない状況になればそんな1パーセントの富では何の解決にもならないのです。

だからこそ、人類は何が原点であるのか、それをまず議論をするところから始める必要があると私は思います。こんなことを言うと、また現実逃避といわれそうなものですが現実逃避しているのは本当は誰だろうかというものです。

この先、もしも地球環境の変化が人類の生存を脅かすようなほどに荒れたとしてその時、私たち人類はどう乗り切るのか。80億人を統治するリーダーが出てくるのか、それとも本能に従って生き延びる道をみんなで模索して決断するのか。極端かもしれませんが、極端なことがたくさん発生してきたのがこの地球史です。

それでもこの地球に存在する意味は何か、なぜ魂を磨いていく必要があるのか。本当は学校の勉強や富ばかり増やすことに躍起になる前に、人類は今こそ向き合う時間を持つ機会をいただいているように思います。

子どもたちの未来のためにも、自分の答えを生きていきたいと思います。