プラットフォームの意味

プラットフォーム(platform)という言葉があります。これはIT用語としては、アプリケーションやソフトウェアが動作するための土台を指します。一般的には、モノやサービスなどがつながる場とも定義されます。そもそも「プラットフォーム」の語源の原義は「一段高くなった平らなところ」という意味です。この原義から「プラットフォーム」の別の意味が生まれていったといいます。

これを日本で考えてみると今では「舞台」が近いように思います。そしてそれは別の言い方では「場」とも言います。どのような場になっているか、そこに○○プラットフォームという言い方をするようになったのではないかと思います。

私の考えているプラットフォームは「繋がる場」ということになります。どのような繋がる場を用意するか、場に繋がる環境を整えていくか、そこにプラットフォームを創造し磨いていく面白さがあります。

つまりプラットフォームを提供するというのと、場を提供するというのは同義であるように思います。

私は場の道場を運営していますが、場づくりと場の提供こそ道の本質となります。どのような道を歩んでいくかを設定していくにもこの「場」の提供は欠かすことはできません。

何かをやり遂げたいと思うと、まずは「場」を産み出すこと。そしてその「場」を通して繋がること、さらにその「場」を結び合うこと。これによって場と道は実践され永続的に循環されていきます。

この「場」とは、先ほどの「プラットフォーム」であり、こういうものを具体的なアナログでの場で実現させるのと同時にデジタルの空間の中にプラットフォームを実現させようと試みているのが今の私の取り組みということになります。

人類はこれからどのような場を創造しくかにかかっていて、そこには理想や哲学や初心が入っているものでありその価値観を結び合わせて居場所をどう醸成していくかにかかっているのです。

そしてそこには、自己組織といったDAOの考え方、またスマートコントラクトといった透明性、ブロックチェーンの持っている特性が活かせるのです。そして私は世界に古来からある「徳」に着目し、徳を循環させることでいのちもまた甦生していくことを発見しました。

私が実現したいプラットフォームは、徳のプラットフォームであることはこのブログでもたびたび発信してきたものです。古民家甦生もまたその場の創造をアナログで実現してきたもの、そしてこれからデジタルで場を創造していきます。

ハイブリッドに取り組むのは、暮らしフルネス™を創造して提供しています。子どもたちのために、未来の世代のために挑戦を続けていきたいと思います。

お金のトレーサビリティ

ブロックチェーンではトレーサビリティとの相性の良さがありよく利用されます。このトレーサビリティとは、「その製品がいつ、どこで、だれによって作られたのか」がはっきりすることで原材料の調達から生産、消費、廃棄までを追跡可能な状態にすることができる仕組みです。

このトレーサビリティは、トレース(Trace:追跡)とアビリティ(Ability:能力)を組み合わせた造語です。

もともとは、食の安全で有名になった言葉で狂牛病が切っ掛けでもあったといいます。現在、牛舎にいけば牛の耳に識別番号のカードがついているのを見かけます。あれは牛トレーサビリティの一環で、牛が生まれてから店頭に並ぶまでの履歴を後追いできるシステムがついています。狂牛病のまん延防止措置の的確な実施を図るため、牛を個体識別番号により一元管理するとともに、生産から流通・消費の各段階において個体識別番号を正確に消費者に伝達するという仕組みです。

ブロックチェーンの相性の良さは、追跡でき情報を集約できること、また改ざんできないことがあります。ここでは食の安全を守るということで、食に関するすべて有機的につながっているものを安心安全に保つ状態にすることをフードトラストともいい、ブロックチェーン技術が活躍しています。

そして最近では一歩進んで、お金のトレーサビリティがはじまっています。

お金というのはよく色がないといわれます。この色とは、お金は手に入ったものがどのように自分の手元にあるのかがわからないということです。つまり一生懸命に働いて誰かのお役に立って入ったお金、もしくは悪いことをしてくすねたようなお金、もしくはどこかに落ちていたのを拾ったお金、あるいはその人が一生をかけて奉仕のために貯金したお金であっても、財布に入ったり銀行に入ってしまえば数字や紙幣といったものになります。

どのようにそのお金がここまで流れ着いてきたのか、どのような経緯で今のところにたどり着いてこれからどのようにそのお金が使われていくのかなどまではわかりません。よくマネーロンダリングなどといって、よくないお金をいろいろなところを経緯して使いまわし洗浄を繰り返せば、汚いお金の汚れもすっかり消えてしまうともいわれます。

同じ100億円であっても、その100億円がどのようにそうなったのかは数字ではでないのです。しかし、これは先ほどの食の安全と安心、フードトラストと同じで、どこかで改ざんされたり、変な使われ方をしたり、偽装されてしまうと一番名枠を被るのは信頼して使っている人たちであることは間違いありません。

その信頼を保つためにも、はっきりとそのお金がどのように流れて使われているのかをちゃんと追跡して、それを集約して明確に可視化されていく必要があるのです。つまり正直に取り組む人たちの信頼を守る必要があるということです。それが目的をもってお金を使うことであり、その目的に合わせてお金を流して目的が達成できるように有機的にみんなが安心して関われるようにできるということです。

これがお金に色をつけるということになるという言い方になります。例えば、地球環境に配慮したものだけを使いたいとなればそのように色がついたものにお金を使います。もしくは、未来の子どもたちのためにつながるもの、もしくは自然物として分解されること、循環を促すための仕組みで取り組んでいる人たちへの投資としてなど使い方は様々です。

実際には、本物をやろう、本当に価値のあることに費やそうとするならばそれ相応の時間や労力は必ずかかります。それは目には見えないところであり、その人たちの志や初心、生き方のところです。安く便利に儲かることだけを考えて本物風や偽物を偽装するようなことをやっている人に騙されるのはいい思いは決してしません。そんなことが発生しないようにこのブロックチェーンのトレーサビリティはお役にたっているのです。

これからの世の中、私たちは無意味にただお金を使うようなことはできなくなります。なぜなら、モノがない時代から物があふれる時代になり、ただあればいいから、本物で善いものを持ちたいと思うように変化していくからです。それは価値観の変化であり、人類はそろそろ本物に回帰したいと願う人が増えてきたからです。それだけ、この世界は流通が行き渡り情報が覆ってしまったということを意味します。

ブロックチェーンの可能性は、この情報の追跡と集積による智慧の活用にあります。私も現在、古き善き新しい仕組みを開発していますがブロックチェーンとの親和性は抜群であり、未来の子どもたちにとっても価値のあるものを譲り遺せると直観しています。

引き続き、この場から世界に未来の在り方を発信していきたいと思います。

徳治の世とブロックチェーン

ブロックチェーン技術の持っている根本的な特性として興味深いものは、特定の誰かが管理する台帳ではないというものです。つまり台帳の管理を、みんなで一緒にするということです。

つまり「統治主体」が特定の誰かではなく、みんなで統治するということです。住民自治と似ている概念ですが、これはもっと根源的であり人類の目指す一つの平和の理想郷のようなものかもしれません。

ガバナンスやガーバメントなどは、もとは管理、統制などという言葉が語源です。政府があり国家があるのはこの管理統制をするために行います。世界では様々な国家が形成し、今でもその国家によって統治されています。

不正が行われていないか、法令を遵守しているか。最近のコンプライアンスのことや、リスクマネージメント、色々と出てきたプライバシーの問題などもすべてこれは管理統制するために発生してきた事例です。

しかし法で全部を完璧に管理するとどうなるか。それは誰もが息苦しく、幸福などとは程遠い世のなかになるのは理解できます。今までの統治ではなく、新しい統治が必要ではないか。

そこでそれを実現するのにここでブロックチェーンという技術が突如誕生してきたともいえるのです。それは今までの統治法ではなく、新しい統治の方法が誕生したということ。

しかしこの新しい統治というのは、別にかつて人類がやったことがなかった統治をするということではありません。これは実は人類がもっとも長い時間をかけて体験してきた統治に原点回帰することです。例えば、それが縄文時代であれば同様にみんなで安心して暮らしていける社会を築いていました。

現代は、そこに文明が入ってきて狡賢く富を独占し管理する人たちが増えてきました。そうやって全体のエコシステムを保つよりも、自分さえよければいいという欲を優先し欲に負けてきたのが現代の文明構造を構築したともいえます。それが、世界の隅々まで行き渡りいよいよ人類による人類の自滅の危機の領域に踏み込んでいるともいえます。

それを解決するための手段としての技術革新が必要であり、エンジニアをはじめ覚者たちが新しい統治の必要性を発信しはじめているのです。それは決して、現在の政府や国家への反逆ではなく、別の統治法があるという提案でもあります。

この改ざん不可能なブロックチェーンの仕組みは、人類をアップデートする可能性があるものです。正直な世界、安心の世界、かつて人々が幸福感をみんなで味わって思いやり助け合い、豊かな社会をこの時代でも甦生させていこうとする取り組みになるのです。

私がブロックチェーンに取り組む理由は、この徳治の世を甦生することでもあります。そのために徳積財団を設立し、古い文化を伝承し新たに甦生させ続けて場を広げています。

子どもたちが安心した世界で、末永く生きていけるように挑戦を続けていきたいと思います。

コミュニティの甦生

コミュニティという言葉があります。本来の英語の意味よりも、日本人は別の意味でこの言葉を用いることが増えているように思います。最近では、トークンコミュニティという言葉も出てきています。少し並べただけでもコミュニティの古典研究、コミュニティビジネス、オンラインコミュニティ、地域コミュニティと地方創生、東日本大震災とコミュニティ、コミュニティデザイン、コワーキングスペースとコミュニティ、オンラインサロン、コミュニティマーケティング、コミュニティビジネス等々があります。

このコミュニティの定義をどうするかで、その言葉の理解も変わりますから少しこの辺を整理したいと思います。

コミュニティと同じくらいよく使っている言葉にコミュニケーションがあります。このコミュニケーション (communication) の語源はラテン語のコムニカチ(communicatio) だといいます。このコムニカチオの意味は「分かちあうこと、共有すること」だそうです。

そして英語のコミュニティ(community)語源は、ラテン語の communis が転じて communitas フランス古語のcomunete、英語のcommon 、中世後期に現在の使われ方になってきたそうです。

このコミュニティとは、共同体のことです。

ある一定の地域に一緒に暮らす人たちから、仮想的なところで共に生きる仲間たちという意味にも発展してきています。つまり、何をもって共同体というのかという幅が多様性と文明の発展によって変わってきたのです。

●●コミュニティと書けば、その価値観を共有する共同体ということにもなります。これが管理しない、管理されない、ともに主体的にフラットにオープンな共同体にしていこうという流れが広がっているのです。

通常は、最初は小さな組織、2人から3人なら管理などせずとも阿吽の呼吸で共同体を結び維持しています。それが100人、1000人、数万人、数十万人となれば誰かが管理するという仕組みを入れていきます。それが国家というものになり今の世界を形成しているともいえます。

しかしその大きなコミュニティとは別に、小さな地域でのコミュニティというものが存在します。それが地方自治であったり、ご近所さんと結んでいたりした小さなサークルであったり、親戚などと結んでいた血縁などです。

何かあった時にお互いに協働して助け合う必要があり、私たちは共同体を結んでいました。しかし、現代はそれを社会のシステムによって保障したりカバーできるようにしたことで今では1対国家の関係で解決できるようになってきました。そのことで得た利点とそのことで失われたものがあることにも気づいたのです。

具体的に少し事例を言えば法律でほぼ網羅した半面、法律では賄えないもの、つまり個人の善意や主体性が必要なものがほとんど政府や行政に依存するようになり失われています。その部分をそのまま放置すれば、国家が破綻して自治が壊れます。そうすれば社会も失われ法律も消失してしまいます。実は、絶妙なバランスで維持されているこのコミュニティは本来は、機械のようなものではなく生命体であるからその生命体を維持するためのお手入れは絶対不可欠なのです。

それをコミュニティとして甦生させようとするのが、現代の一つの流れであろうと私は思うのです。実際に人類においてのコミュニティの本質は相互扶助であり思いやりや助け合い、一緒に暮らしていく人々とのつながりを醸成していくのは古今普遍的なものです。それが失われてきている現代というものは、人類にとってはこの先を生き延びることができるどうかの重要な局面を迎えているということでもあります。

どのようなコミュニティを創り出そうとするかは、この先の人物たちの主体性と覚悟で決まります。子どもたちのためにも、私は徳を用いたコミュニティをこの世に甦生させていきたいと思います。

素直さの意味

人間はみんな我があるものです。この我とは、一つは欲であり一つは情です。他にも細かく言えば我ばかりですがその我があるから真実や本質が見えにくくなっていきます。なぜこうなっているのかと、真摯に洗い清めて透明になるまで磨き上げていけば真実は見えやすくなりますがその間に様々な穢れがこびりついてきますからどうにも本当のことがわからなくなります。

そうなると、人は「素直」であることができません。素直というのは、単に従順になることではないことはすぐにわかります。他にも、ただ性格が良いことだけを言うのではないこともすぐにわかります。

素直さというのは、ある意味で無の境地であり、謙虚に我が省かれている状態であり、何か偉大な自然と直につながり直観が働いている心境であったりのことです。

つまり何物にも囚われない澄んだ心の姿勢の時こそ、人は素直になっていると言えます。人の話が素直に聴けるというのは、人の言うことを単に逆らわずに聞くことではなく心が澄んだ状態であるがままのことを聴けるということです。

よく他人に質問して何かを訊いているのに話をまったく素直に聞かない人がいます。それは自分の我があるからですが、素直ではない状態だから訊かないのはすぐにわかります。自分自身の心が澄まないので、澄ませていきたいと思って訊くのならその人は謙虚ですから素直に近づいていくこともできるかもしれません。

しかし最初から我が強く出て自分の思い通りにしたいと思っているのもがあるのなら、本当のことを素直に直観できる感覚はそこで働いていないと私は感じます。

素直さというものは、直観力であり、そして浄化力であり、研磨力でもあります。どれだけ研ぎ澄ましていくか、そして洗い流していくか、心を清らかにして真実を明らかにしていくかというものであろうと思うのです。

素直にいきましょうと声掛けするのは、お互いに心を澄ましていきましょうという掛け声をすることです。みんなが素直になるのなら、本当のことがわかり本質のままにお互いに協働して助け合い、清々しく明るく物事に取り組むことができます。

つまり素直にという意味は、「清々しく明るく」いましょうということだと私は思います。人間は、常に相手がどうかではなく自分が澄んでいることが重要です。そうでばければ、この世にいて本当に起きている事象や出来事、ご縁を理解していくことができなくなるからです。

日々の喧騒や荒波、濁流の中であっても深海のような静けさ、水面の鏡のような美しさを保ちたいと思います。子どもたちのためにも、むかしからある日本人の智慧を伝承していきたいと思います。

農泊の本質

以前、ヨーロッパに滞在していたときにドイツで民泊を体験したことがあります。そこは、年老いた夫婦がかつて息子がいた部屋を旅行者に開放していました。表看板に「部屋がある」と書かれた表札がかけられておりそこで交渉して泊まります。簡単な食事も提供されていて、ゆったりと過ごしたことを憶えています。

他にもフランスやイタリアで同様に田舎の民泊を体験しましたが、どれもその土地に相応しい人と、相応しい料理、風景、そして文化を体験できるものでした。その土地での体験はいつまでも心身に沁みこみ、懐かしい思い出になっています。

思い返せば、あれは単なる経済効果を狙ってやっていることではありませんでした。あれは、地域を守り、古民家を守り、暮らしを守るためにそれぞれが自分のできることで精いっぱい努力している人々の姿でありその故郷を子孫のために大切にしたいと願う思いの結晶であったように思います。

日本では、すぐに金儲けの手段としての●●というように何か西洋から持ってきてはそれを真似して広めます。そして流行らなくなればすぐにやめては、別の金儲けをはじめます。そのうち、その地域は疲弊してきてさらに廃屋が増え、文化が途切れ、子どもたちは離れ、そして過疎地のように荒れていきます。

経済効果ばかりを追いかけているうちにミニ東京やミニ都会の考え方を田舎に持ち込み、そのうち田舎の善さも消失していくのです。これは、ヨーロッパと日本の文化の違いとかではなく単に古いものや伝統文化に対する意識の差があるだけのことです。

古民家などもヨーロッパではとても大切にされます。特に古い土地、風土、家はその地域の文化の象徴でもありいつまでも子どもたちに遺していきたいと思っている風景です。

その風景を守ろうという取り組むの中に、農泊、グリーンツーリズムがあり地域の人たちの真摯な取り組みがあります。いつまでも故郷を大切にしたいという思いが人々をその地域に集め、同じように故郷を見守り続けたいという人たちが立ち上がってそこに仲間ができていくのです。

私が見てきたヨーロッパの農泊には理念がその地域にありました。どんな地域にしたいという願い、それは本来、どの自治体でも持つべきもののはずです。しかしそれを実践に移そうとすると、ないものねだりばかりして何もできていません。その理由はほとんどがお金になっています。

私はお金で古民家を甦生しているのではなく、お金で暮らしを甦生しているわけではありません。子どもたちに何を譲り遺していくのかを考えたとき、故郷を甦生させていつまでもこの故郷を大切にして見守りたいと願い投資していくのです。

この投資は、世間一般のお金儲けのための投資ではなくまさに未来、子孫への投資です。これを徳積みという人もいますが、むかしの人たちは当たり前にみんな行っていたことです。

自分のことしか考えないといった部分最適では、結果的に自分も破滅してしまいます。全体快適といって、自分が損をしても全体のためにと投資したならそれが長い年月を経て子孫や、そこで暮らす人たちのためになっていくのです。

そういうものに投資できる人というのは、実はとても幸せなことです。なぜなら、自分が今あるのは先人たちの投資の御蔭であることに気づけるからでありそうやってみんな守られてきたことを実感し感謝に生きていくことができるからです。

誰でも廃屋、廃村にならないように取り組もうとするその志、そして生き方を選択する人が出るのならその地域は必ず復興し復活します。要はその初志初心を貫けるかどうかということでしょう。

子どもたちにいつまでも伝統文化や暮らし、その土地や人々の歴史の徳が守られるように脚下の実践を積み上げていきたいと思います。

感受性を磨く

人間には感性というものがあります。辞書には「物事を心に深く感じ取る働き」とあります。この感性というものの正体は一体何なのか。私たちは生きる目的=初心ということと向き合うとき、この感性を磨くことの大切さに改めて気付くように思います。

例えば、日々は誰にしろ訪れ、同じように24時間をかけて過ぎていきます。しかし、その一日をどのように感受するのかは人によって全く異なります。これは同じ環境、同じ状況、同じ体験をしたとしてもです。それだけ人は感性によって人生が異なっているともいえます。

私は毎日、何らかの事件が発生して何もない日はないほどに様々なことが発生するタイプのようで周囲にいる人たちは一緒に過ごすと大変だとよく言われます。確かに、自分でもよくもこんなにいろいろなことが発生するものだと感心するのですがこれは感性によって無意識下によって行われているもののように思います。近くにいることで周囲の人も感性が増幅するのかもしれません。

つまり感性が磨かれているからさらにその感受性が豊かになっていったということでもあります。そうすると、次第に学びや心のメッセージに向かって自ずから深く体験をするような出来事をますます呼び寄せていくのです。

人間は誰でも自分がこの世で体験したいと思っていることを自ずから実践することで感受性を高めていきます。それは言い換えれば、何のために生きるのかということを突き詰めていくことに似ています。

日々に何のために生きるのかと向き合う人は、次第に感受性が高まっていきます。そうすると、自分の運命や宿命、そして目的や本質に気づきやすくなっていきます。そして初心を持つようになり、その初心に帰るたびにアンテナが研ぎ澄まされ立っていきます。

その初心のアンテナが磨かれていけば感受する力もまた同時に高まっていきます。そうすると、自分の初心に適うものはどんなに僅かなものでもすべて受け取れるようになっていきます。すると次第に自分の人生に必要なことをすべて自覚でき、その意味付けをすることでさらに体験が濃く深くなっていくのです。

特段、テレビや映画やドラマで見かけるような激しい事件でなくても日々の微細なことまですべて事件のようにダイナミックに感受できるようになるのです。これが感受性が豊かになっていくということでしょう。

感受性とは、つまりその人の初心を自覚する力ということです。

子どものころにもって生まれた感受性がつぶされてしまうとなかなか元に戻らなくなっていきます。教育をはじめ刷り込みによって子どもたちは本来の感受性に蓋をされ貧しい感性に仕立てられていることもあります。

子どもたちが感受性を思い出せるよう、初心を伝承していきたいと思います。

苦労し甲斐~メリハリのある人生~

人生には「苦労し甲斐」というものがあるように思います。時が経ち、後で振り返ったときに苦労した甲斐があったなと感じるもののことです。苦労したからこそ、得たものがあります。それはそこまでに経てきた体験からの気づきであったり、智慧であったり、そして技術であったり心身の練磨による成長であったりです。

これをやろうとすれば苦労すると最初に誰もがわかっていてもそれを厭わずに挑戦し突進していく。そこに人生の真の妙味があるように思うのです。

人生の妙味を知る人こそ、苦労し甲斐を知る人でもあります。

周りからすれば、何でこんなことをと思っていますがそこには苦労によって誰でもわからない境地に生きているからです。私の場合は、未来の子孫のためにと初心を定めていますからそのためには苦労を厭わずに何でも来たものは選ばずにご縁と導きを信じて取り組んでいきます。

過去の経験や何かそれを実現する才能などは特にありませんから、毎回新しいことに挑戦することになります。周りからは、苦労するよと言われてもそうですねと笑いながら取り組んでいきます。失敗したり困難があると、ほれ見たことかといわれることもありますがそんなことは最初から分かっていることだから特段何も影響はありません。

問題は、この苦労は苦労のし甲斐があるかどうかというところが重要なのです。そしてそれは「道」として必ず通らなければならないのであれば正面から向き合って取り組んで味わい通過、もしくは突破していくだけです。

そうして振り返ったとき、今の自分が育てていただいたこと。今の自分の信念や勇気、そして生き方や生き様を創造してくださったことに感謝できるのです。

人生は一期一会であり、今は唯一無二です。

何事も遣り甲斐があることに挑むことが、メリハリのある人生が送れるということになります。このメリハリとは、緩むことと張ること、つまり弓のように適度に弦がはっている状態をいいます。いい意味で、充実して心身が調和している状態のことです。

何かに集中するというのは、そのものを実現するために真剣に打ち込んで苦労をしていくということです。苦労のない人生は、ハリがありません。ハリのある人生は、苦労を通して人生の妙味を知りそしてそれをゆったりと振り返りその時の思い出を豊かに味わい感謝していく生き方です。

これは苦労のし甲斐があると、偉大な目的に向かって生きるとき人は人生が真に豊かになり充実するのです。若さ、情熱、青春は苦労と共にあります。大変でも目的に生きる苦労の多い人生の価値を、子どもたちに伝承していきたいと思います。

お手入れの循環

最近、捨てないということについての動きが活発になってきています。資源が枯渇してくればくるほど、資源のリサイクル化は進んでいきます。しかし実際には、膨大な量を生産していれば捨てなければこの世はまるでゴミ溜のようになっていきます。

現在は、資本主義経済を循環させることが大前提ですから両立するというのは如何に経済を回すかということですがそれでは本当の意味で解決することはありません。

私は捨てないということよりも、本物にするということだけで十分解決すると感じています。

例えば、日本には伝統職人さんたちがいます。彼らは、自然物を上手に活かし、里山循環の中にしっかりと溶け込み、自然の一部としての役割を見事に果たしています。藁ぶき職人であれば、その地域の藁やカヤ、葦などを用いて家の屋根を葺きます。また左官は田んぼの土などを活かして土壁を塗ります。また森林を手入れし炭焼きをし、大工さんらはその木を用いて家を建てます。竹の手入れによって数々の暮らしの道具を人々はつくります。かつて、私たちは「何が本物であるか」を知っていたのです。

その時、私たちは捨てるのでもなく作り続けるのでもなく「手入れする」ということだけに専念したのです。

私は今の時代、もしも世界が変わりこの人類の方向性を導けるとしたらこの「手入れ」をするということだと確信しているのです。そのことから、徳積財団を設立し、暮らしフルネスを起草し、「お手入れ」のための活動と実践をこの地から発信しています。

物を大事にすること、もったいなくいのちをいただき伸ばすこと、このすべては「お手入れ」する心から育つものです。自分の心をお手入れし、身体をお手入れし、そしてお導きやご縁にお手入れする。当たり前のことかもしれませんが、自然はみんなでお手入れをすることで循環を守り続けてきたのです。

現代はこのお手入れの反対のことをみんなでやってます。やりっぱなし、なげっぱなし、捨てっぱなしで作りっぱなし、これがゴミの正体であることに気づく必要があると私は思います。

日本にはそもそもゴミという概念がありませんでした。八百万の神々の一つであり、それが他の神様のお役に立つ大切な存在でした。だからこそ、ここ日本からこの思想や生き方を伝道していくのが今の世代の使命だと感じています。

子どもたちがこの先、100年後、1000年後、どれだけの自然に見守られているのか。自然の回復力と人間の魂の真の成長を信じて、子どもたちのために日々のお手入れ、修繕を伝承していきたいと思います。

枝垂れ桜の妙

あることから枝垂れ桜のことを深めていたら色々と感じることがありました。もともと桜というのは、600種類以上あるといわれこの枝垂れ桜はその桜の突然変異で誕生したものです。

なぜ枝垂れるのかも仕組みもあまりわかっていないようですが枝が上に向かって伸びるのは枝の先端部でオーキシンという植物ホルモンが伸長成長させジベレリンというホルモンが肥大成長させることで生じます。それが何らかの原因で枝の上側にジベレリンが作用せず、肥大成長できずに枝が重力に抗しきれなくなり枝垂れるということまではわかっています。

この枝垂れ桜は別名をイトザクラ、オオイトザクラと呼ばれています。その歴史はとても古く、今から1200年前の平安時代からあったといわれます。現存する有名なものでは福島県にある「三春滝桜(みはるたきざくら)」です。これは樹齢1000年を超える老木です。

品種を調べてみたら下記のような種類ありました。

八重紅枝垂(ヤエベニシダレ)、紅枝垂(ベニシダレ)、清澄枝垂(キヨスミシダレ)、枝垂彼岸(シダレヒガン)、吉野枝垂(ヨシノシダレ)、菊枝垂(キクシダレ)、雨情枝垂(ウジョウシダレ)、糸枝垂(イトシダレ)です。

今年の春に英彦山の守静坊の前に、美しい枝垂れ桜に出会う機会がありました。

この枝垂れ桜は樹齢約200年、高さ約15m、幅20mあるといいます。その品種は一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)というそうです。これは江戸時代、上京した守静坊の山伏が京都祇園のしだれ桜を英彦山に持ち帰って移植したものだそうです。

神様の依り代として、桜の木を大切に目出てきた日本人の先人たちは枝垂れ桜に何を観たのでしょうか。今でもその当時の美しさは変わることはなく、変わっていく世の中においても神聖で優美なままで存在をひっそりと山で暮らしています。

人はこの枝垂れ桜に優美さに何を思うのか。

これから数年かけてその意味とその価値を深めて鑑照してもらいたいものです。子どもたちのためにも、伝統を守り、古からの真実を伝承していきたいと思います。