徳積カフェ

現在、徳積カフェの建築で色々と思案をして素材を組み合わせて検証しています。私の場合は、いのちをもったいなく活かしきる仕組みで取り組んでいきますから世の中に捨ててあるものや、価値が変わってしまったものに息吹を与えてそれを甦生し、さらに観建て直して輝かせるように工夫します。

そもそもこの見立ては、あらゆるものの融合と調和からはじまります。そしてそれを組み合わせを創意工夫し折り合いをつけては新しい価値に仕立て直します。

新しい創造とは、今あるものの組み合わせの再定義であり再構築です。これは自分の成長とも同じで、もともと備わっているものはあるがままですがそれを使い方次第で、また組み合わせ次第でまた別の能力へと変化するのです。

私は建築家ではありませんから、あまり建物のことにどうこうというこだわりはありません。しかし、日本の文化や大和心、民族伝承の智慧には強いこだわりがありますからそれを徹底的に深め、今ならどうこれを活かすか、その価値の最大化や再構築には妥協は一切することはありません。まさに、狂ってるかのようにそのものと一体になってそのものを寝ても覚めても離れることはありません。

今回、カフェを設計するにいたっては「徳」にこだわるのは大前提です。その上で、暮らしフルネスの応用を使って「禅」や「茶」の空間や場の和の仕組みを融合させて組み立てています。

当然、風水を重んじ、日、月、水、石、風、土、木そして火に炭、光、陰、ゆらぎ、時間、手間、色、素材などを丁寧に組み合わせていきます。まるで、自然の野菜をつかって、自然の道具を用いて料理を楽しみ味わうような瞬間です。

本当は、忙しくて大変なはずですがこれらを設計している間はいのちがわくわくしてきます。そして新たな空間と場ができれば、そこに奇跡の人たちとのめぐり逢いが生まれます。

建物を創る喜びは、出会いです。

出会いがあるからこだわりが産まれ、こだわりがあるからご縁が深まっていきます。一期一会の生き方を、この新たな建物に息吹を与え、イキイキといのちが輝けるように真心を籠めて最期までやり遂げてみたいと思います。

真の改善

政府のコロナ対策を観ていたら、本当の問題はコロナではないことに気づきます。これはどの国家でも言えることですが、問題が起きると、その問題よりもその問題が問題になっている本当の理由が観えてくるのです。

例えば、ある国家ではリーダーが不在で責任者がいつまでも出てこなかったり、ある国家ではみんなが不正をして隠し事ばかりをしていて本当の情報が出なかったり、またある国家では自分のことばかりを優先して周りのことは他人事のようにしていたり、またある国家は100年以上前から変化できないでいつまでも改善する気がなかったりと、そのことからコロナがそこの弱点をついて猛威を振るいます。

それをコロナのせいにしていますが、それはコロナのせいではなくその組織や文化、あり方のせいであるのは自明の理でしょう。

しかしその問題を解決しようとしないので、いつまでもコロナは猛威をふるい続けます。

私たちは、きちんと問題と正対するときはじめてそこに変化があり改善が生まれます。問題を先延ばしにしたり、見なかったことにしたり、何もしないということをすれば自然に淘汰され衰退し滅びるのは明らかです。

問題を引き延ばしているうちに、世界は本当の問題にぶち当たるという真実。

地球環境の問題、気候変動の問題、それも同様にこれは人間の問題であるのは間違いありません。いくら地球に挿げ替えても、気候に挿げ替えても、そのこと自体は問題の本質ではありません。隕石が落ちるのならまだしも、こうなるとわかっていてもいつまでも変わろうとしなかって今の災害なのだからこれはもはや天災と呼んではならずやっぱり人災なのです。

人災をどう防ぐか、そこには謙虚さが必要ですし、生き方を決め覚悟を実行するための勇気も必要です。

コロナから観えてきた、人類の本当の問題と向き合い、子どもたちのために真の改善を示していきたいと思います。

価値観の変化と意識の成長

時代の変化と共に、人々の価値観が次第に変わってきているのを感じます。今までは、当然だったものが不必要になっていく感覚。まさに、もう充分にそれを体験して次のステージに入ったということでしょう。

そう考えてみると、人間は常に分断と統合というものを繰り返して社會が形成しているように思います。資本主義経済への傾倒で分断が続き、これでもかというくらいにあらゆるものを分けて処理してきました。物質文明は、物に価値を置いていますから物以外の価値を奪っていくのです。

しかし今は、自分もみんなもという本来の統合へと進んでいるように思います。あらゆるものを分かち合い、それを味わおうという考え方です。これ以上、物ばかりが必要ではないこれからは心をもっと大切にしようとする考え方に価値観が変化してきています。

その証拠に、シェアサービスや、マインドフルネス、持たない暮らしをする人が増えてきています。それは心が豊かになる方へと関心が高まり、心のつながりを取り戻していこうとするステージに入っているということです。

時代は、価値観と共に繰り返しながらその意識も成長させていくように思います。私たちの歴史でいえば、飛鳥時代などは心の世界でありありとあらゆる物が心と一体になって存在していたように思います。

それはその時代の遺跡や建造物、書物などからも垣間見ることができます。他にも縄文時代なども、自然と調和してつながりを大切にみんなでわかちあい生きていました。

現代は、歪な個人主義が進み、お金を中心に機械化された社会で心が忙しさで死んでいて利己的な人たちが身勝手に自然を利用して破壊を続けています。

地球が単なる物置小屋のようになりゴミが蔓延しているかの様相です。

次の時代の子どもたちは生まれながらにその状態をしり、何とかしようとする価値観と共に育っていきます。このままではいけないと、新たな価値観を生き、私たちの代わりにその責任を背負ってくれています。申し訳なさや、悲しみがあるからこそ今の代にできること、私たちの世代でもまだ間に合うことをしたいと思うようになるのです。

私はまずその物置小屋やゴミ溜の状態を、坂本龍馬や横井小楠の言ったようにこの世の中を「じゃぶじゃぶと洗濯をする」ことと、「綺麗に片付けて整える」ことからはじめます。

そして甦生させたものを、心とつなげ直して新たな価値を与え子どもたちがそれを舞台に活躍できるような環境を用意していきます。あとどれくらい、自分のいのちが持つのかわかりませんができることを粛々と実践をして根を深めていきたいと思います。

もったいない暮らし

全ての物や場には「いのち」というものが宿ります。そのいのちをわかりやすく感じる方法は、「思い出」でというものに置き換えてみるとわかるように思います。

無機質だったものが、何かの物語に出会い、そこで共通する「思い出」を持ちます。そのものは、ある人の思い出になりその人の心の中で共に生きいのちを与えられます。するとそれはモノではなく、いのちの一つになって存在するようになります。

つまり「出会う」のです、いのちとしてのご縁と。

これがいのちの一端を感じる方法であり、思い出はみんなそうやっていのちとつながっていきます。例え、片方がこの世から去りそのものがなくなっているように感じたとしてもその思い出といのちは、別のものに引き継がれ一体として残りのいのちの寿命を全うしていくのです。

この仕組みとこの仕掛けこそ、私たちが存在するいのちの真理であり私たちはその仕合せと喜びを無償で天与されているのです。ありとあらゆるものが、変化し、思い出と共に循環するという仕組みは宇宙の本体でもあります。

だからこそ、その寿命を少しでも伸ばしてあげたいという思いやりはその人の寿命だけでなく全体の寿命も伸ばしていくのです。それを神道では真心といい、観音様は大悲といい、イエスキリストは愛といい、孔子は仁と呼んだようにも思います。

もったいないというのは、この思い出を大切にしていくということと同じ定義です。下位概念である、捨てないとか、利活用できるとか、その辺ももったいないといいますが本来はこの「思い出」の方を言うのです。

一日、一瞬、人生はそのすべてをいのちと共に歩んでいきます。だからこそ、大切ないのちの思い出を忘れないで、いのちの思い出と共に暮らしていく。

これが暮らしの本体なのです。

暮らしフルネスという言葉は、暮らしとマインドフルネスの合体した言葉であり、現代の西洋思想に取って代わられた日本人が分かるように転換した言葉です。改めて、一つ一つのいのちを大切にしながらもったいない暮らしを味わっていきたいと思います。

本物と醸成

人は、時間に追われ効率ばかりを優先していくと次第に本物であることをやめようとするように思います。本物であり続けるというのは、効率を優先しないということでもあるからです。敢えて、手間暇をかけたり、自然に完成するのを待ったり、そのプロセスが本物だからそれが本物になるのです。

現代は、時間がかかるものは科学的な手法で上手く誤魔化して本物風で仕上げます。そしてできる限り本物に近くなってくると、それを本物だと定義していきます。流行り目立ち、人気がでれば本物だとするのです。周りもそれを持て囃していきますが、本物にはなっていないのだからかえって矛盾から本物を演じるようになるのです。そしてみんなも本物だと信じようとするのです。そうなってくると次第に、そのカタチがもっと効率化されついに本物はここまで来たかのように人々から語られます。それは偉大な偽物になったということなのです。

例えば、発酵関連の食品などもそのすべてを科学の力で発酵食品っぽく入れ替えました。発酵もたいしてしないものを短時間に効率的に、淡々便利に防腐剤などによって腐らないようにしてしまいました。

店で売られれば人はこれもまた発酵食品だと思いますから、本物だと信じて購入していますがこれは本物の発酵食品でもなんでもありません。発酵しているものをふりかけのようにふりかければ発酵したのではなく、本来は時間をかけてそのもの全体が醸成されて発酵するから本物の発酵食品になるのです。

つまり醸成するということ。時間をかける、手間暇をかける、一歩ずつ丁寧に変化していく。この長い時間をかけて多大な配慮をし手入れをすることが本物である証だったのです。

醸成なしに本物は決してないのです。

効率優先の世の中は、この逆を目指していきます。短時間で便利に、機械的に科学的に結果を出したものがいいともいいます。しかしそれが最高品質化されたもののように表現します。そのような価値観の中で、そのような製品に囲まれて育てば、本物と偽物がすげ変わってもだれも気付くことがありません。

人の教育や、そして本来の暮らしもそのように塗り替えられていきました。人間も時間をかけてじっくりとゆっくりと醸成されていきます。その醸成される環境は、日本の伝統文化や住環境の影響を受けていきます。穏やかな暮らし、静かで悠久がある場には、私たち日本人をじっくりとゆっくりと醸成します。

またその中で、楽しむ暮らしは日々のプロセスが最大化するように味わえます。日々を味わい暮らす人は、心が育っていきます。心を育てるのは、人間が生き方を通して仕合せになるために必要ですしこれが人間を磨いていくことにつながっていくように思うのです。

物が溢れたこれまでの便利で偽物に囲まれて満足した生き方の時代から、たとえ不便でも手間暇をかけて本物に囲まれた暮らし、新しい生き方に換わるのは時間の問題だと私は思います。

子どもたちのためにも、あるがままの暮らしを楽しみこの醸成する時間をありのままに味わっていきたいと思います。

変化とは何か

東京から戻ってきてBAに滞在していますが、室礼していた紫陽花の花が次第に寂てきています。また庭先には蝉の鳴き声が大きくなり、雲は積みあげられ空の碧さはますます鮮明です。

季節は梅雨から初夏にはいり、光の差しかたや風の動きが変わってきました。

私たちは、気づいていないうちに日々に大きな変化に晒され私たちも変化の真っただ中に存在します。止まっているようでも止まってはない、地球が自転し、宇宙が旋回し、あらゆるいのちが循環をしていくなかで活動を已むことはないのです。

しかしこの動きの本体こそが、静止していることもでもあるように私は思います。つまり動こそが静であり、その静こそが止であるということ。言葉遊びのように聞こえますがこれはそうではなく、この偉大なる動きこそが已むことがないのだから止まっているということなのです。

心を落ち着けて瞑想をすると、この動いている今の中に静を感じます。つまり静止します。静止するというのは、先ほどの宇宙の旋回、地球の自転、いのちの循環を感じている状態になることです。

それを感じるとき、これが永遠に繰り返されていることを知り本当の止まるという意味を悟るという具合です。

変化とは何か、それは変化しないということです。永遠とか永久とかいうものもまた変化の正体です。私たちは、変わるものと変わらないものを持ちますが、変わらないものは変えようがないものです。変えることができるものだけが、私たちが変化と呼ぶものです。

私たちが変化と呼べるものは宇宙や自然、いのちに私たちが合わせて和していくことです。こうやって暮らしを一つ一つ丁寧に紡いでいけば、私たちはそこに変化の根源や変化の意味を直観するのです。

変化しても已まない、この心の安心感はとても偉大で穏やかです。子どもたちに、変化の喜びや仕合せを伝道していきたいと思います。

徳の正体

老子にこういう言葉があります。

これは「大方は隅なく、大器は晩成し、大音は声希かに、大象は形無し、道は隠れて名なし。」(大方無隅 大器晩成 大音希声 大象無形 道隠無名)

直訳すると、「大いなる方形には角がなく、大いなる器はでき上がるのがおそく、大いなる音声は聞きとれず、大いなる象には形がない。道とは目に見える事象の裏側に隠れているもので、もともと名づけようがないものなのです。」となります

これは道を語る一文です。

偉大なものはこういうものであり、偉大だからこそそこに徳があるというのです。

この言葉は私の解釈ですが観方を換えれば、こうなります。

「もし道を学ぶのであれば、大方とはもっと大きな意味と深さがあることを知り分かった気になってはならぬ、そして本物になろうとするのなら時間がかかることを覚悟し根気をもって事に励み実力をつけ、真摯に研ぎ澄まし洗練された透明で鮮明になるまで磨き上げ、自他一体、全体善になるほどにすべての事と調和してそのものとなる。これが道であると。」

どんなことにも大切な意味があり、その意味はその先の偉大なものの一部であるという生き方。まさに道は徳に裏付けられて存在し、道を歩む人は必ず徳の存在に出会います。

私たちが捉えている宇宙と、老子が捉えている宇宙はまるで別物かもしれません。それは道には天の道と人の道があるというように、道を解釈する人と、解釈する前の道があるという言葉では語りつくせないものを表現しているように思います。

文字や言葉では表現できないものが必ずこの世には存在します。私はそれを「意味」と呼びます。意味がないものなどこの世には一切存在せず、意味があるから日々が発生してきます。真理を探究していく人は、意味を深めて意味をつなげて意味を生きる人たちです。

真実の深さというものは、この意味を辿る生き方、ご縁と共にあるひとたちがもっています。頭で考えてどうにもならないことがあるのは、そこには天の道、徳があるということでしょう。

「道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無名は天地の始め、有名は万物の母なり。故に常に無はもってその妙を観んと欲し、常に有はもってその徼を観んと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄のまた玄衆妙の門なり。

この玄妙こそ、私は徳の正体に近いと感じています。

私の歩む道は、遠大で偉大を志しています。そのことを自覚して、心の余裕を大切に日々の意味を紡いでいきたいと思います。

 

一つの生き方

人は主体的な能動的であるとき、やる気が出てくるものです。しかし自分のやりたくないことや否定的なことをやらされると感じるとき、やる気は出てきません。これは感情がその人のやる気を調整しているからです。

しかしよく考えてみると、人生というものは生きていればやりたくないこともやりたいことも同じくらい出てきます。やりたいことだけをやっていたら、それと同じくらいやりたくないこともでてくるのです。

これを毎回、自分でやっていたら結局はやりたくないからやりたいこともしないという具合に消極的になることが多いように思います。

その中で、どんなこともやる気に満ちていて人生を楽しみ充実させている人がいます。日々に、一期一会だと真剣に向き合いどんなこともやる気がある人がいます。そういう人たちの共通する特徴は、やらされているという感じがないということです。

つまりどのようなことでも、「自分のやりたいこと」になっている人はやる気がつねに湧いてくるということでしょう。では、やりたくないことはどこにいったのかということです。この方々は、「やりたくないことも含めてやりたいことになっている」ということが前提にあるように思います。

物事の捉え方、物の観方が最初から異なるのです。

何のためにやるのか、なぜやるのか、それを突き詰めている人はどんなことも必然であり必要なことだというマインドセットを持っています。そして大きな意味で、それは自分の魂が望んでいることであるという自覚を持っています。

そういう人は、すべてやりたいことだったと自分の意識をすぐに切り替えることができる訓練を積んでいるのです。生きていれば、本能もあり感情もありますから心の声に従えといってもなかなか言うことを聴いてくれないのが人間です。

しかし何度も自分の初心や心の声に問いかけて、本当は自分はこれをやりたかったのではないかと自問自答する中で次第に磨かれていきマインドセットされていきます。それを修練を通して、気が付くとすべてやりたかったことに換わるマインドを身に着けるように思うのです。

人生は一度きり、日々は常に一期一会。感情に左右されても、目的は失わない。そういう生き方ができる人が、人生のプロセスを味わい、初心を忘れずに豊かで楽しい人生が送れるように思います。

現代は、忙しすぎてそんなマインドセットの修練をするよりもすぐに目先の結果ばかりを追いかけてしまいます。心豊かに生きられる人生は、成功も失敗もなく、そこに最高の人生があっただけです。

子どもたちのためにも、一つの生き方としてお手本を目指していきたいと思います。

フルネスと暮らし

昨日、ある場所で座禅をする機会がありました。座禅は、長崎の禅寺で社員で参加したことがありましたが改めて体験してみると別の角度からその座禅の効能を実感することができました。

現在は、日本よりも海外でZENといいその座禅の価値も広がっています。特に海外の名経営者や発明家、あらゆるジャンルの人たちもこの禅の効能を述べています。

ジェームス・スキナー
「再新再生(活性化)を図る最大の方法の一つは、毎日「瞑想と思索の時間」をとることである」

プラユキ・ナラテボー
「仏陀の「気づきの瞑想」は「マインドフルネス・トレーニング」と呼ばれ、精神医療の現場では有効なストレス軽減法として、またグーグルやインテルなど多くの企業では社員のメンタルヘルスと仕事のパフォーマンス向上を目的として、取り入れられてきている」

アンディープディコム
「このテクニック(瞑想)の素晴らしいところは、1日あたり10分程の時間で人生を変えられることです。ただコツを覚える必要があります。練習が必要で意識する方法を学ぶ為のフレームワークも必要です。これが瞑想というもので今この瞬間を理解するのに役立ちます。また今という瞬間から最良を得る為の アプローチ方法も学ぶ必要があります。瞑想はこの為にあるんです」

リチャード・デイビットソン
「人々が単に一日、心のトレーニングを行うことで遺伝子の活動というレベルにまで効果があった」

この瞑想のアプローチは、人の生き方の対話であり、人生を振り返り自分自身の存在、自然の一部である自分、真我に気づくことのように思います。

私は座右が一期一会ですが、この生き方もまた禅に通じています。よりよい人生を歩む人は、常に自分への問いかけを持つ時間を大切にします。自己の判断を歪めないように、自己の純粋な調和を保てるように、穏やかでゆったりとした場を心の中に澄ませます。

以前、道具は扱う人によっては凶器にもなることを感じた時、人もまた然りであると実感しました。人は本来は人ですが、使い方次第では凶器になるということ。心の平安を保つことで、私たちは人としての生き方を守っていくように思います。

禅はまさに、心の調和に導引する仕組みで満ちています。改めて、フルネスと暮らしを学び直していきたいと思います。

オフィスの定義

現在、職場という考え方が大きく変化してきています。コロナのことで、今までの職場がリスクなり新しい職場をどうするかとそれぞれで工夫しています。

もともと日本は、職住一体型の暮らしを続けてきた民族ですが西洋の文化が流入してきてから工業化が進み、高度経済成長期、衰退期を経て、今にいたります。そのプロセスでオフィスの環境は大きく変わってきました。

しかしここにきて、今までのオフィスの定義が変わってしまうような出来事が発生してオフィスそのものをなくすという選択をする企業も増えてきているといいます。そもそもオフィスは何のためにあるのか、そこからまた見直すいい機会になっているようにも思います。

時代の変化と共に、会社も事業も変化は已みません。今まで大きく事業投資してきた企業は、そう簡単には今までの投資した状況を変化させるというのはできません。そこには大きな勇気が必要です。特に大企業などは、人数も額も大きく変化するのには大ナタをふるう覚悟も必要です。

小さな会社や組織は、その点、大きな投資もしていませんから撤退も変化も楽にできます。職場もまた、大人数を擁しているわけではないのでどこでも移動でき、どんな状況でも働けます。

変化は小さなところから大きなところまで、また所帯の大きなところから小さなところで起きてきます。改めて、オフィスは何のためにあるか、その意味が多様化してきますからそれぞれに新しいスタイルがたくさん産み出されていく時代に入っているように思います。

しかしそこに共通する上位概念というものがあると私は感じています。それは生き方のことです。

何のために生きるのか、何のために働くのかという人生の目的、言い換えれば初心のようなものをもって人は生き方と働き方を決めていきます。そしてその生き方と働き方が一致したものが「暮らし」となります。

どのように生きたいか、どのように働きたいかは、暮らし方が決めるのです。私の会社は、子ども第一義、子どもが憧れるような働き方と生き方をしていくことをみんなで取り組んでいます。

子どもが憧れる働き方は、大人たちがイキイキと仕合せそうに楽しんで仲間を愛し、助け合い支え合い、変化を挑戦と成長のチャンスにして自他の仕合せが周囲の喜びになり、人々が尊重し合い生きていく社會を創造することでもあります。

ある意味でオフィスがどうなろうが、原点となるところは不動です。その時、オフィスがどのように化けていくのか、これからの展開がとても楽しみです。子どもたちが未来に、憧れる暮らしがあるように場づくりを通して面白いことに取り組んでいきたいと思います。