子どもの環境

今の子どもたちとむかしの子どもたちは、基本的には同じです。しかし同じ子どもでも与えられた環境が異なってくるとその子どもたちは異なった成長をしていきます。当たり前のことですが、環境が子どもに与える影響は大きく、どんな環境であったかはその後の人生を左右していくのです。

ではどのような環境がいいのか。例えば、自然が多いところ、もしくは学術都市のようなところ、他にも有名な教育をしているところ、色々と考えることはあるでしょう。しかし、それが子どもにいいかどうかは本当に意味ではわかりません。なぜなら個人差もあり、どのような効果があるのかは人それぞれだからです。

こういうことを書くとでは、どうするのかとなります。もちろん、自然が多いところなどは感性を磨いてくれますし、身体も健康になっていきます。都会と比べて空気も美味しく、健康的です。健康に育てようとすれば、自然豊かで地産地消できるような場所、また人のつながりやコミュニティが暖かいところがいいのは間違いありません。

私は子どもの環境のことを深めていながら普遍的な環境というものがあるのではないかということに気づきました。一つは、暮らし、一つは発達、一つは伝統文化です。

例えば、伝統文化というのは今の子どももむかしの子どももそれを知恵として伝承してこの土地の人間として育ってきました。それは非常に理にかなっているものであり普遍的です。この土地に生まれたからこそのこの文化というように、地理や気候、生活文化が長い長い時間をかけて醸成されてきたのです。この環境が子どもにあるのかどうかは大変重要だと思うのです。

もう一つの発達、これは育つ環境のことです。植物であれば、土中の環境がよくその植物にあった場所で育ちます。つまり育つための環境があるということです。もともと人は個人差もありますから発達速度もバラバラですし、特性もあります。それがうまくみんなで育ちあうようにするにはそれができるような場所が必要です。植物でいえば土もない、水もない砂漠のようなところでは育ちません。自然農でも、その特性を見抜いて最適な環境をどう用意し見守るかが大切です。これも時代が変わっても普遍的なものです。

最後に暮らしです。暮らしというのは、人の営みです。大人の姿を見て子どもは育ちます。そしてその暮らしの中には、今まで連綿とつながってきた先祖からの記憶や知恵が凝縮されておりそれによって地球や自然と共生していくことができます。あらゆる生き物は、この暮らしと調和し一生をはじめ一生を終えるのです。どのように暮らすことが仕合せなのか。それも教えずにしてわかるのがこの暮らしです。

このように普遍的なものがあるなかで、人は特殊な教育ばかりを注目しますが残念なことです。空気や太陽や水などと同じように、本来は教育も普遍的なものでした。私たちは今までどう育ってきたのか、こういう時代だからこそ原点回帰していく必要性を感じています。

保育に関わる人間として、私自身、まだまだやれることがあります。残りの人生の課題の一つとして挑戦していきたいと思います。

英彦山の甦生のはじまり

昨日は、英彦山の宿坊、守静坊に120人以上が集まりみんなで茅葺屋根の茅を運び入れました。大きなトラックで6台分くらいあったでしょうか。一軒の家の屋根にこんなにも大量の茅を使うのかと驚きます。先日、阿蘇に茅を刈りにいきましたがその作業も大変な作業でしたからこれをこの数と思うと、改めて職人さんたちの労力や仕事に頭が下がる思いがしました。

現在、この宿坊は昭和のリフォームで茅葺屋根がトタン屋根に変わっています。もう地元で茅を育てている人たちもなく、みんなで茅を葺く文化も消失しました。できないのだから他の方法でということで、トタンになったのでしょう。トタンは便利で、茅を丸ごと囲いますから茅に雨が染みこむこともありません。茅は、そのままにしていると傷みますから定期的なメンテナンスが必要になります。

むかしは、常に囲炉裏に火が入っていたから茅も燻されて防カビや防虫などもしてくれ長持ちしました。現代は、燻すこともありませんからすぐに茅も傷んでしまいます。どう考えてもトタンからわざわざ茅葺にすることは見た目が良いメリット以外には大きな費用がかかるし、この先もずっとメンテナンスできるかという問題があるからと二の足を踏む人が多いといいます。それはよくわかっています。一般的には無理だと諦めるかもしれません。しかし、私は別に家をリフォームしているのではありません。

私は、古民家甦生を通して日本の懐かしい未来を甦生しているのです。なので茅葺屋根は私にとってはメリットしかないのです。やらない理由はまったくないのです。この茅葺屋根を葺くという行為自体が、懐かしさの源流であり、現代にも連綿と続いてきた真の日本人の心を甦生することになっているからです。

昨日は、みんなで「結」(ゆい)という体験をしながら、たくさんの茅を運びました。みんなで声をかけあいながら、力を合わせて協力しました。午前中だけでは終わらず、その後は有志が残ってくださって残りの茅もほとんど運びました。体力も消耗し、大変ではありましたがみんな心は清々しく笑顔も多く、素晴らしい人たちが一緒に汗をかいてくださっていることで場所全体が輝いていました。そして200年の枝垂れ桜もそれを満開の花と共に美しく揺れながら見守ってくれていました。

この懐かしい未来の光景は、決して文字では伝えることができません。

この場に参加してはじめて、これが「結」(ゆい)なのかと、直観し実感するものです。私はこの光景がいつまでも子どもたちに遺して続いていけたらいいなと心から祈っています。

人はみんな、みんなのものだと分かち合う時、そして誰もが地球では家族の一員だと助け合う時、私たちはそこに繋がっている存在、結ばれている存在の有難さに気づきます。他人と貸し借りができるのも、そして知らない人たちでも協力し合えるの、その時、心はとても豊かになります。懐かしい先人の生き方や知恵に触れるとき、私たちは何かを思い出しています。その何かは先人が私たちに遺してくださった大切な心を伝承し、その当たり前ではないことに感謝を思い出しています。そして私たちはその結ばれてきた今までのご縁の尊さを思い出すのです。

私たちは、ずっとむかしから今も結ばれ合っています。それをまたこの時代も結い直すことが、これまでもこれからも仕合せになっていくための知恵なのでしょう。

英彦山の甦生のはじまりが、この結からであったことに深く感謝しています。

歴史の大切な1ページを皆さんと一緒に、結でめくれたこと一生忘れません。英彦山のお山の徳が引き出された瞬間を感じました。ここからは引き続き、徳を磨き、英彦山から日本全体へとその徳を顕現させ子どもたちの心のふるさとを甦生させていきたいと思います。

一期一会をありがとうございました。

仁聞の徳

歴史を調べていると、文献にあるものと文献のないものの辿り方があります。本来、文字で歴史を残すというのは改ざんされたり全体が観えるものではなかっため、大勢の人たちの口伝、もしくは石碑や場の景色や風景、他には何かしらの目印を残していました。

以前、何がもっとも歴史として遺るかというものを調べた研究者がいて文字がもっとも早く失われ、その逆に長く遺ったものは言い伝え、歌や舞などの神事であったということを聞いたことがあります。

確かに文章や文字は、その時代の価値観を反映していますし記録はできても記憶は伝承できません。記憶を伝承するのが先で、それを理解するのに記録が必要ですから本末転倒になってしまいます。

私はもともと記憶を優先するタイプで、歴史を辿るときは直観的に必ずその場所に行き、その記憶を辿るための目印を探します。その目印は、時には石碑石像であったり、樹木であったり、場であったり、風景であったり、道具であったり、人々の伝承や伝説、文化や芸能であったりと多種多様です。

記憶というのは、一体どこにあるものなのか?

これは人の脳の中にあるものなのか、私は記憶は脳で理解するものではないと思っています。記憶は、五感や六感を通して直観するものであり、その記憶はいつまでも場に佇み、磨き上げたり澄ませるときに徳のように顕現してくるものだと感じています。

私が何か古いものを甦生するとき、心身を清め、場を磨きととのえ、その記憶にゆったりと心や耳を傾けていきます。つまり「聴く」のです。聴いていくと次第に、どうしてほしいか、何を出してほしいか、どれを引き継いでほしいかなど、篩にかけられた記憶が残っていきます。もしくは、じわりとにじみ出てくるように、太古からの複雑な記憶が集まってきます。

それをカタチにして甦生させるとき、人々はその記憶をはじめて実感することができるのです。いくら隠しても、いくら改ざんしても、本当にあったことはなくなることはありません。ただ忘れているだけです。忘れたものは、必ず思い出すことができます。それは脳で思い出せなくても、心は思い出すのです。

私が英彦山の甦生に取り組んでから、ますますそのむかしの記憶が蘇るご縁が増えてきています。そろそろ思い出す時機が来ていることを思い、できる限りの人たちにその記憶を伝播していきたいと思います。

古の記憶を心で聴いて子どもたちと歩んでいきたいと思います。

 

守静坊の枝垂れ桜

ついに念願の英彦山守静坊の枝垂れ桜が開花をはじめました。この枝垂れ桜は、文化・文政の頃(1804年~1819年)に、英彦山座主の御使僧として京都御所へ上京した真光院普覚という山伏が祇園枝垂の苗木を持ち帰り植樹したものだと伝わっています。

この枝垂れ桜の樹齢は約200年。高さ約15m、幅20mで、品種は一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)と言われています。

京都の祇園の桜のことを調べていたら、祇園枝垂れ桜というものが円山公園にあることを知りました。円山公園は、八坂神社の東側にひろがる京都で最も古い公園です。

なんとこの品種も守静坊と同じで「一重白彼岸枝垂桜」なのです。かつて歌人・与謝野晶子も愛でたという大きな桜は、現在二代目のものです。初代のシダレザクラは、根回り4m、高さ12m、樹齢200年余あったそうですが昭和13年、天然記念物に指定されましたが、昭和22年に枯死したといいます。現在の桜は、これに先立つ昭和3年に、15代佐野藤右衛門氏が初代のサクラから種子を採取し、畑で育成したものを同氏の寄贈により、昭和24年に現地に植栽したものだそうです。現在の容姿は、樹高12m、幹回り2.8m、枝張り10mとあります。

不思議に思ったのですが、守静坊の枝垂れ桜と初代の枝垂れ桜の年代がほぼ同じです。これは私の直観ですが、この桜はもとは同じ桜だったのではないかと感じます。現在の2代目の円山公園の枝垂れ桜は京都は南山城の井手町にある地蔵院の枝垂れ桜を株分けしたものです。この地蔵院の枝垂れ桜の写真をみたら、守静坊の枝垂れ桜にそっくりなのです。

その当時に思いを馳せると、どのような物語があったのかを想像しロマンを感じます。それが200年の歳月を経て、このタイミングで京都と英彦山がつながり枝垂れ桜のご縁で日本文化や信仰を甦生する場が誕生するのです。

ご縁というものは、時空を超えていきます。

どこまでがシナリオ通りなのか、それは神のみぞ知る世界です。私はその天意を邪魔しないように器として支えていくのみです。

皆さんと一緒に、枝垂れ桜の物語を未来に紡いで子孫たちの平和を祈念したいと思います。

学友との出会い、新たな平和への挑戦

友人のヤマップの春山慶彦さんの協力で英彦山宿坊のクラウドファウンディングをすることになりました。春山さんとは、2年前に宗像国際環境会議の座談会を聴福庵で行った時からのご縁です。

その時を思い返せば、穏やかな佇まいで語り、静かな情熱と哲学、美意識を持っている行動力のある姿に感銘を受けたことを憶えています。そこから約2年、ご縁からの行動を共にしたり英彦山の甦生への取り組みを通してさらにその人柄をすばらしさを実感しました。

振り返れば、その時々に場に誠実に、そしてどんなことからも吸収し学びを深めようとする実直な姿勢がありました。また、山のような深い心をもち長い目で物事を観て矛盾を受け容れつつ今を楽しもうと挑戦をしています。本をよく読み、知識を得ますが同時にそれを社会にどのように還元しようかと常に思案をしています。これは2年かけての私の勝手な人物評ですが、まるで「懐かしい日本の青年」という感じでしょうか。

今、世界戦争の足音が次第に近づいてきています。

私は戦後生まれですから戦争を知りません。しかし知覧の特攻の話や、沖縄の話をその土地のおじいさんやおばあさんから口伝で聞いたり、遺ったお手紙や日記、取材の内容を読んでいるとその当時の日本の青年たちの姿が観えてきます。

その姿は事に及んで真っすぐで誠実、家族のために社会のために自分の使命を全うするために深く学び、そして笑い、苦労を惜しまず命を懸けて運命を受け容れ実直に駆け抜けています。その根底には、深い優しさや悲しみ、そして思いやりを感じます。

私たちの心には、誰が与えたかわかりませんが最初から「真心」というものがあります。その真心に気づき、真心を盡そうと生きるとき、日本人の懐かしい何かに触れていくように思います。きっと歴史の中の青年たちは、この真心を常に生きていたのではないかと私は思うのです。

時代は現代、平和が続いて半世紀以上経ちました。平和で物質的豊かな時代を生きた私たちは何か大切なものを忘れているのではないかということに気づき始めてきています。これからどのような選択をするのかを決めるためにも、私たちはその当時の日本人の願いや祈り、その想いを改めて今こそ思い出す必要があると私は思います。

今回の英彦山の宿坊の甦生は、かつての日本人の心のふるさとを思い出すための大切な象徴になると信じています。

子どもたちに、何を伝承していくことが真心なのか。それは時代時代の人々の真の生き方であることは間違いありません。身近な学友から生き方の素晴らしさを学び合い、磨き合うような出会いをし、新たな平和を築くための挑戦を続けていきたいと思います。

樽の伝承

伝統の堀池高菜をむかしの樽に本漬けしました。このむかしの樽は、隣町にある伝統の味噌屋さんの蔵や建物が解体されるときにいただいてきたものです。もう随分と長い間、味噌をつけていましたが機械化したり樽がプラスチックになったりして使われなくなったものです。

昨日、樽をもう一度綺麗に洗ってみるととてもしっかりとできており隙間もありません。水をはってあげると、出番に喜んでいるような気がして使っているこちらも嬉しくなりました。

そもそも樽の文化はいつがはじまりなのかはよくわかっていません。世界ではおよそ2000年前にケルト人が金属の箍で木の板を張り合わせた丸い樽を作ったのがその始まりともいわれています。

日本国内では鎌倉時代末期に生まれ、室町時代に酒造業などの醸造業の発展と共に急速に広まっていったともいわれています。木工技術でいう結物(ゆいもの)の代表が、この樽や桶です。なので桶や樽を結桶(ゆいおけ)・結樽(ゆいたる)と呼ぶ場合もあるそうです。

これは従来の曲物の桶や樽に比較して強度・密閉性・耐久性に優れ、酒や醤油・油・味噌・酢・塩など液体や水に溶けやすい物資を入れて輸送するのにもとても役立ったといわれます。

もともと桶は、杉や檜などの板を縦に並べて底をつけ、たがでしめた円筒形の容器のことです。そして樽は、同じく「たが」で締めた円筒状の桶の形と同じですが蓋(ふた)があってお酒やしょうゆなどの液体を持ち運ぶのに重宝しました。どちらかというと、発酵させるもの全般は桶よりも樽を用いられています。

この樽の語源は、「ものが垂れる」=「垂(た)り」からきているといわれます。樽という字は木偏(きへん)に尊(たっと)いの組み合わせでできています。つまり「神に捧げる尊い酒壺」という意味で、樽は「神に捧げる入れもの」だったそうです。

よく神社にいくと酒樽が奉納されていますが、まさにあれは樽そのものの本来の役割を見事に顕現している姿です。神様に捧げると思ったらそういう品のある自然の器を用意したいと思うものです。そうなると私ならやはり木樽になります。

大事に育ってくれた高菜だからこそ、その高菜を漬ける塩も、ウコンもそして樽も本物にしたいと思うようになるものです。そしてその樽を安置する場所も、ととのえて清浄にしたいと思うようになります。

よく私はこだわりが強いといわれますが、こだわりが強いのではなく当たり前のことをやっているだけです。当たり前のことがなくなってくるとすぐにそれがこだわりだといわれるものです。

丁寧に暮らしを結んでいくなかで、本来どのようなものが本物であったか。それは自然を尊敬し、日々を大切に丹精を籠めて生きていれば自ずから本物に近づいていくものです。

子どもたちにも本物に囲まれた暮らしを伝承していきたいと思います。

知恵の本質

経験というものは知恵そのものです。人は経験をするという時点で知恵を得ているともいえます。経験をよく観察すればするほどに、そこには知恵が隠れていることがわかります。失敗をすることも成功をすることも、それは実はどちらでもよく大切なのはそこから何を学んだかということです。

この経験は、時間が経つことで観えてくる境地があります。経という字は、もともと縦軸の意味があります。つまり長い時間をかけて培われてきた知恵のことです。お経もひょっとしたら、その経の意味もあるのかもしれません。

そしてその縦軸の経験をじっくりと何回もその時々で観察してみる。すると、時間が経つにつれ、経験の質量が増えていくにつれ知恵が鮮明にかつ多面的に入ってくるようになるのです。

一つの小さな経験が、他の経験の助けにもなります。

よく一つを極めた人が、他でも極めていく道楽者の人たちをみかけますがこれはあらゆる経験から知恵を会得しその知恵によってまた別の道も達していくのです。先達というのは、あらゆる知恵を会得するような経験や体験を修練を積んで得た人です。

私たちは今、頭ばかりつかって知識を得ていますがそれで分別知は磨かれます。わかりやすく整理され、複雑な言語を使い分けまた新しい定義の言葉を産み出せます。しかし現実の世界では、現場がありますから場に真実が出てきます。

その場は、身体感覚や五感、そして直観や第六感などあらゆる全体を駆使して知恵を活用していかなければ物事を真に理解し全体と調和していくことができません。つまり知恵が必要になるということです。

子どもたちには、知恵を学ぶことの大切さを背中で伝えていきたいと思います。自分を信じて、経験をすること、観察すること、そして修練を積み、知恵を磨くことを伝承していきたいと思います。

和やかなテクノロジー

最近、ある人の紹介で「カーム・テクノロジー」(穏やかな技術)のことを知りました。これはシンプルに言えば、人、情報、自然が一体になって調和したテクノロジーのことを言うそうです。

もともと今のような情報社会になることをユビキタス・コンピューティングの父とも言われる有名なエンジニア、マーク・ワイザー氏はすでにその当時から予見していました。そしてそのワイザー氏が、現代のようなユビキタス・コンピューティングの時代に「カーム・テクノロジー」というコンセプトが必要になると予言していました。

このコンセプトは、テクノロジーが暮らしの中に溶け込み、自然にそれを活用しているという考え方です。このコンセプトは約四半世紀を超えて、人類に求められてきているテーマになっているということです。日本でも、この考え方を実装するためにmui Labという会社が京都に創業しています。この会社が監修したアンバー・ケース著の『カーム・テクノロジー 生活に溶け込む情報技術のデザイン』(BNN 2020年)にわかりやすくその内容の一部を整理しているので紹介します。

「テクノロジーが人間の注意を引く度合いは最小限でなくてはならない」

「テクノロジーは情報を伝達することで、安心感、安堵感、落ち着きを生まなければならない」

「テクノロジーは周辺部を活用するものでなければならない」

「テクノロジーは、技術と人間らしさの一番いいところを増幅するものでなければならない」

「テクノロジーはユーザーとコミュニケーションが取れなければならないが、おしゃべりである必要はない」

「テクノロジーはアクシデントが起こった際にも機能を失ってはならない」

「テクノロジーの最適な容量は、問題を解決するのに必要な最小限の量である」

「テクノロジーは社会規範を尊重したものでなければならない」

もともと、この「カーム・テクノロジー」(穏やかな技術)はなぜ必要になるのか。これは私なりの考え方では、自然を尊重するなかで如何にテクノロジーとの共生をするかは人類が生き延びるための普遍的なテーマだからです。これは避けては通れず、やり過ぎればどの文明も自分たちの技術によって滅ぶのです。これは歴史が証明していますからいつの時代でもその時代に生きる人が取り組む課題になるのです。そしてこの課題が発生する理由は、そもそも道具というものを使い進化するということの本質にこそあります。

元来、道具というものは、全て使い方から産まれるものです。そして使い方は、使い手の人間力そのものによって最大効果を発揮します。使い手が如何に人間的な徳を磨いてきたか、そしてその徳を積む環境の中で道具と調和をはかったきたか、そこには時代に反映された生き方と働き方があります。

道徳と経済の一致の話も同様に、人はどの時代においても謙虚や自然への畏敬、そして自分たちの文化や歴史を洗練させてきました。この時代においても、それは必要で今の時代は特にテクノロジーで便利になり過ぎているからこそ危険なのです。

自然環境が破壊されるのもまた、その行き過ぎた消費文明の中の技術主義にこそあります。技術が技術を調和するには、確かに私もこのカーム・テクノロジーが行き過ぎたテクノロジー依存の人類には必要だと実感しています。道具だけ進化させても人間力が伴わなければ片手落ちになるからです。それは、今の人類の核の利用をみても明白です。

私ならこういう時は先人に倣います。自立した先人たちがずっと大切にしてきた伝統的な日本の和の暮らしをととのえながら、その時代に発明された道具を必要最小限で最大の効果を発揮する仕組みを知恵として生活に取り入れるのです。

私が提唱する暮らしフルネスは、古民家の懐かしいもの、宿坊の仙人的な知恵に囲まれていますが文明のテクノロジーは否定していません。むしろどれだけテクノジーを人間力で高められるかに興味がありそれを実現させようと取り組んでいるのです。これを徳という砥石を使ってやりましょうと話しているのです。言い換えれば、私なら穏やかではなく「和やか」というでしょう。そしてこの和やかな暮らしこそ、人類を救うと私は確信しています。

和やかなテクノロジーを、この日本、この福岡の地から発信してみたいと思います。

漬物をつなぐ

昨日は天日干しした伝統の堀池高菜を仮漬けしました。ここから1週間近く漬けてから、本漬けといってウコンなどを加えて木樽に移動して他の高菜と合わせて漬けこみます。

もう11年近く漬け続てけていますし、もともとは百年以上続く老舗の高菜の菌が棲みついていますからそこで漬けることで独特の風味を産み出してくれます。種のことをブログで書きましたが、実はこの菌との共生や生き方もまた伝承していきたいものの一つです。

漬物というのは本来保存食でもあり塩は私たちの健康を守る大切な食材でした。ローマ時代には、塩が給与で支払われていたことで今のサラリー(給与)の語源になっているともいいます。かつての日本の食文化である一汁一菜は、ご飯とみそ汁と漬けもののことでした。塩とご飯、おむすびもですがこれが私たちのいのちを長年支えてきた基本のものです。

現代の塩はあまりいい塩がなく、むかしの塩づくりは自然に沿っていましたから健康を維持するのには欠かせないものでした。縁あって今、100年前の梅干しを一壺いただいていますがその塩は今でもしっかりとしていて味も美味しいです。100年以上保存できるものは、この塩が関係していることをそこから学びました。

漬物の原理は、塩の浸透圧を使います。浸透圧は、水がもともと濃度を一定に保とうとする力のことです。野菜の中の養分が外に出て、その分、塩が中に浸透していきます。その養分が菌たちの繁殖の栄養になり発酵してその野菜を別のものへと転換していきます。

重しをのせますが、これも水分を出やすくなるのと重力の力をつかい沁みこませて安定させる効果もあります。この野菜の水分で野菜が漬かることで漬物は完成します。空気に触れると腐敗菌が発生するので、塩分のある水の中に漬かることで腐敗よりも発酵を促進させます。

後は、塩分濃度さえ調整していけば、何年でもその漬物を食べ続けることができるのです。体にとっては、発酵した菌を取ることで腸内フローラも元氣にし、腐敗を防止します。漬物を食べると元氣になるのは、この発酵の仕組みをそのままに体に用いているからです。

いい塩、いい菌、いい野菜を食べ続けることで私たちは健康の基本を保つことができていました。今の時代のように多様で飽食の時代は、健康を保つことが難しくなってきています。医療がその分、発展発達して治療もできるようになりましたがその分、治療費もかなりの額になっています。この時代に生まれてきたらこれが当たり前なのかもしれませんが、本来の健康環境とは程遠くなっているかもしれません。

時代がまた揺れ戻され、何らかのかたちで治療ができなくなってきたらきっと私たちの日本もまた一汁一菜に回帰する日もくるかもしれません。その時、この漬物を守ること、塩を守ること、智慧を守ることは子どもたちのためになります。

今、やっていることを信じて、粛々と繋いでいきたいと思います。

種を守る

昨日は、郷里の伝統野菜の堀池高菜の収穫をしてきました。今年は、とても小ぶりですが逞しく健やかに育っているのは触った感じからも伝わってきました。毎年、一年を一緒に過ごす作物があることはとても豊かで仕合せなことです。

作物も種もそれは単なる呼び名であって、本来は一緒にこの世を生きる大切なパートナーです。そのパートナーとの一年一年の思い出や支え合い、その暮らしがあるということは何よりもかけがえのないものです。

お互いに貢献し合うことや、お互いに助け合うことで私たちは存在の絆を結ぶことができます。これは、生きものたちのすべての根底にある願いでありその価値の源泉です。

みんなただ生きているだけですが、その生きているだけで貢献する。物も同じく、すべてその存在理由はお互いの共生や貢献のためにあります。そしてその中でも、特に暮らしで支え合う仲間たちはともに働き、ともにその時代を生きていきます。

今、私の手の中にある種もそして目の前の高菜も同じように時代時代の中で同じ「種」として生き、お互いにいのちを分け合いここまで生きながらえてきました。私がそうであるように、先人たちもこのいのちを大切に守りながらここまで生きながらえてきました。

だからこそ、このずっと一緒に過ごしてきた種を見捨てるわけにはいかず同じようにこの土地で、この土地に生まれた者同士で生き続けていくのです。

私が伝統固定種の種を守るのは、ただ種が失われるからではありません。私がこの種を守りたいと思うのは、この種との「生き方」であり、大切なパートナーとしての仲間や家族との仕合せな暮らしをこの先もずっと子孫へ繋いでいきたいと願うからです。

現在、伝統固定種の種をブロックチェーンのトレーサビリティで守る取り組みを企画していますがこれもまた伝統を守るための革新なのです。

日本の風土の中で、この風土が育て見守るいのちを補助していけるようにこの世代の役割を果たしていきたいと思います。