徳積帳とご縁

私は結というものを通して様々なことを結びなおそうとしています。生きている間は、さまざまつながりがありその結び目に気付きます。それを丁寧にほどいてまた新たに結んでいくこと。ほどくことも結ぶことも生きていることの醍醐味であり、人生の妙味はそのご縁の最中にこそあるように思います。

振り返ってみると、産まれる前からいただいてきたご縁によって導かれ今があります。それをほどきながら新たな結びをつなげます。それを生きているときにまたほどければいいのですが、ほどけないものは次への持越しになります。次の持越したときに、あまりにも結び目がきつすぎたりすればほどけません。それに絡まり合っていたらそれも時期が来なければほどけません。

不思議なことですが一つほどけ、二つほどけ、周囲が、あるいは誰かが、もしくは何かが偶然におこり奇跡によってほどけるものがあります。ほどけたとき、みんながまたそこから結びなおして調えていく。美しい結び目ができれば喜び、複雑に絡み合えばまた執着する。人間というものは、こうやって何度も心の循環を繰り返していくように思います。

自然界というものも結んでいます。そして生死を繰り返してほどけていきます。連綿と網羅し繋がっているこの宇宙で私たちは何度も結んではほどいてそのいのちを循環させていくのです。

新たな結をつくるのに大切なことは、あまり強い結び目にならないことです。すぐにほどけるようなゆるいつながり、そして何かあればすぐに結べるような柔らかで寛容な結び目を繋がり続けること。

徳積帳でこれから行っていこうとしている、私の結の本質はこのほどくことと結ぶことの中の場にこそあります。ご縁に導かれるように、ご縁を味わい、ご縁とともにいのちのつながりを子どもたちに結びなおしていきたいと思います。

自然と聴く

私が尊敬している教育者、東井義雄さんに「ほんものはつづく。つづけるとほんものになる」という言葉があります。時間をかけて伝統や老舗を深めていると、理念が本物であるからこそ続いているのがわかります。

この本物というのは、自然に限りなく近いということだと私は思います。自然は人工的なものを篩にかけては落としていきます。自然に近ければ近いほど、自然はそれを自然界に遺します。つまりは本物とは自然のことで、自然は続く、続いているものは自然に近いということでしょう。

この自然というものは、人工的ではないといいましたが別の言い方では私心がないということです。自然と同じ心、自然の循環、いのちの顕現するものに同化し一体化しているということでもあります。

私たちが生きているのは、自然のサイクルがあるからです。水の流れのように風の動きのように、ありとあらゆるものは自然が循環します。自然の心はどうなっているのか、自然は何を大事にしているのか、そういうものから外れないでいるのならそれは「ほんもの」であるということです。だからほんものは続くのです。

歳を経て、東井義雄さんの遺した文章を読めば読むほどにその深淵の妙を感じます。生きているうちにお会いしたかった一人です。

その東井義雄さんが遺した言葉に、こういうものがあります。

「聴くは話すことより消極的なことのように考えられがちですが、これくらい消極的な全身全霊をかけなければできないことはない」

私は、聴くという実践を一円観で取り組む実践者でもあります。この聴くという行為は、全身全霊で行うものです。ただ聞き流しているのではなく、いのちの声を聴くこと。万物全ての自然やいのちからそのものの本体を聴くということ。そういう自然の行為をするのなら、この世の中は福に転じます。

私が日本を立て直すという聴くことの本意はこの自然と聴くというものに由ります。子どもたちに少しでも善い世の中にて推譲していきたいと思います。

思い込みを手放す

人間は思い込みを持っています。ほとんどの世の中のことを自分の価値観や経験で思い込むものです。その思い込んだことが集積すると、この世は本来の世の中ではなく自分の勝手に思い込んだ世界になってしまいます。そういう人が増えたら、本当のことを確かめるよりも自分の思い込んだものが正しいはずとより意固地になったり頑固にその自分の思い込みに囚われていくものです。

相対性理論のアインシュタインが「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。」と言いました。これは思い込みも似ています。思い込みが先にくると、他人の話を素直に聴かなくなります。そうなると真実はさらに遠ざかっていくものです。

だからといってなんでも従順に鵜呑みにすればいいというのではありません。思い込みで聞かないようにすること、つまりは「素直に聴く」ことを心がける必要があると思うのです。

この素直に聴くとは何か、これは松下幸之助さんは素直をこう定義しました。

「素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります」

まさにこのような聴き方は、先ほどの思い込みを取り払う実践そのものではないでしょうか。ではなぜ思い込むのか、それは自分の中にある感情、私心、都合の良しあしが影響をするからです。そして不安、恐怖、疑心、欲望など自分というものをあまりにも優先するからそうなっていくものです。思い込みに囚われれば自滅していくものです。常に素直でありたい、そのために謙虚でありたいと先人たちはみんな「素直に聴く」努力と精進をしてきたのでしょう。

先ほどの松下幸之助さんは、素直の十箇条というものをつくり自戒していたといいます。「第1条 私心にとらわれない 第2条 耳を傾ける 第3条 寛容 第4条 実相が見える 第5条 道理を知る 第6条 すべてに学ぶ心 第7条 融通無碍 第8条 平常心 第9条 価値を知る 第10条 広い愛の心」です。参考になると思います。

最後に、人はみんながもし素直に物事が観えてお互いの話を素直に聴くことができるならこの世から争いはなくなっていくように思います。真の平和というのは、それぞれが真実を知り、世の中の実相があるがままに観えて、それについて対話するなら協力するのは当たりまえになります。

世界では、戦争が激化してきていてそれをよく観察するとお互いの思い込みで恫喝しあいリーダーはじめ物事を決める方々の私心の押し付けあいにも観えます。時代の先を観て、どのように生きていけばいいか。そのためにはまず脚下の実践を守る必要があります。

この素直に聴くということは、思い込みを日々に手放すことです。そして思い込みを手放した分だけ未来を子孫へ譲り遺す大切な徳になると思います。引き続き、素直に聴くことを守るためにも聴福人の実践を続けていきたいと思います。

天地の学

天地自然の法というものがあります。これは誰かが教えたものではなく、誰かに倣うものでもありません。人間が人間として解釈するのではなく、自然がそのままに存在して運行するものです。

私たちは便利に誰かが観察したものをもってそれを理解して分かった気になれるものです。畢竟、便利さというものはどこか大事なものを欠けさせているものです。結局、便利なものに縋って生きてしまうと便利なものが大事なことになってしまい本来の天地自然の理などは後回しになるものです。

先人たちの中には、安藤昌益や三浦梅園のように誰かの教えたものを観ずに直接天地自然を観察した人たちがいます。本来、人はその師をどこに置くかでその求めているところを直観するものです。

その直観は、人が疑問に思わないところ、当たり前すぎて考えもしないところに置かれるものです。誰も考えないというのは、それくらい当たり前にあって気づかなくなっているものです。

例えば、この呼吸というもの、身体の神経、他にも光や影、空間や場などもです。あって当たり前のもの、なぜそれがあるのかを考えるところに自然を観察するための入り口があります。

なぜというのは、真理の入り口でありそのなぜをどの場所でなぜと思うかで人は学びの場所が変わるということでしょう。

これだけ知識が増えて複雑になった世の中では、知識はさらに便利なもの、特殊なものばかりに偏っていきます。しかし天地というものは、悠久に変わりなくこの先も永遠に普遍です。本来の学びというものは、何を主軸にしているかで自分たちの在り方も変わっていきます。

後世に名を遺すような偉業、つまり子孫たちのために何をすべきかを問う学問は常に天地と正対しているものです。

私も先人たちの生き方に倣い、脚下の観察と実践を味わっていきたいと思います。

故郷の徳を磨く

昨日は、私の母校の庄内中学校の生徒たちと鳥羽池のお手入れ、ゴミ拾いを行いました。前回は、バスケットボール部が中心に行いましたが今回は生徒会が中心に声掛けをして80名以上の有志が集まりお掃除を行いました。

休みの日の初日に、これだけの生徒が集まってみんなで主体的に掃除をしましたからその熱気や熱意は相当なものでした。私たちは、ゴミ袋に入らないようなものを軽トラックで伴走しながらお手伝いしましたが普段拾うことがないような工業ゴミや自転車、タイヤなどの粗大ごみもたくさん拾うことができました。

この池は、ブラックバスが良く釣れるということで釣りの人たちがたくさん来ます。ルアーをはじめあらゆる釣り具が捨ててありましたがそれで怪我をして生徒もいました。きっとすべての釣り人が捨てているわけではなく、一部の人たちによって全体の釣り人の評判が下がるのはとても残念なことです。自然を愛する人たちは、自然を汚したりゴミを捨てたりすることはしないように思います。みんなが気持ちよく、自然を楽しめるように配慮していただけると鳥羽池も喜んでくれるように思います。

ゴミで多かったのは空き缶など、そのほかには生活ごみです。ゴミ箱に捨てるのが面倒だったのか、それとも捨て方がわからなかったのかその辺に投げ捨てているものがほとんどです。粗大ごみにいたっては、きっとお金がかかるとか面倒という理由で池に投げ捨てたのでしょう。冬の間に水を抜くことで、ゴミが捨ててあることに気づきます。

この池は、冬鳥たちや渡り鳥がたくさんきます。年中、色々な鳥たちが憩いの場になっています。魚をはじめ亀なども多く、小春日和や秋の夕暮れなどは幻想的で自然の美しさにうっとりします。自分の故郷や町にこのような場所があることで、心のゆとりや余裕もうまれます。朝夕、散歩の老夫婦をはじめランニングをする方々もたくさんいます。私の父も、桜を守っていて蔓などが桜を枯らさないように見守っています。

みんなが愛した場所は、愛したように場所が美しくなっていきます。

場というものは、本来はみんなでお手入れして守っていくものです。お手入れとは、心のお手入れでありそして場所のお手入れです。このお手入れとは、いつの日か必ずこの世から存在が消えてしまうものだからこそ勿体ないと丁寧に少しでも寿命が長く持てるように愛していくことです。

そうやって愛されたものは、そのままにその愛を周囲に恩返ししていきます。私は古民家甦生をしていますから、それがよくわかります。古く長く大切にされてきたものは、みんなから愛されてきたものがほとんどだからです。

生徒たちが中心になってこのような活動を故郷で行っていくことは本当に素晴らしいことと思います。こういう活動がいつまでも続き、そしてその生徒の姿をみて大人たちがもっと変わっていけばいいなとも感じます。子どもたちに恥ずかしくないような大人でありたいと思います。

これからも故郷の徳を磨いていきたいと思います。

日本人の徳~やまと心の甦生~

日本人の心の風景を譲り伝わるものに「歌枕」というものがあります。これは辞書によれば「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。」とあります。

またサントリー美術館の「歌枕~あなたの知らない心の風景」の序文にとても分かりやすく解説されていました。それには「古来、日本人にとって形のない感動や感情を、形のあるものとして表わす手段が和歌でありました。自らの思いを移り変わる自然やさまざまな物事に託し、その心を歌に表わしていたのです。ゆえに日本人は美しい風景を詠わずにはいられませんでした。そうして繰り返し和歌に詠まれた土地には次第に特定のイメージが定着し、歌人の間で広く共有されていきました。そして、ついには実際の風景を知らなくとも、その土地のイメージを通して、自らの思いを表わすことができるまでになるのです。このように和歌によって特定のイメージが結びつけられた土地、それが今日に言う「歌枕」です。」

そして日本古来の書物の一つであるホツマツタヱによる歌枕の起源には、「土中の闇に眠る種子のようなものでそこからやがて芽が生じるように歌が出てくる」と記されています。

日本人とは何か、その情緒を理解するのに歌枕はとても重宝されるものです。「古来・古代」には、万葉人が万葉集で詠んだ歌があります。その時代の人たちがどのような心を持っていたのか、その時代の先祖たちはどのような人々だったのか。私たちの中にある大和民族の「やまと心」とはどのようなものだったのか、それはこの歌枕と共に直観していくことができます。

しかし現代のような風景も人も価値観も文化も混ざり合った時代において、その時代にタイムスリップしてもその風景がどうしても純粋に思い出すことができません。ビルや人工物、そして山も川もすべて変わってしまった現代において歌枕が詠まれた場所のイメージがどうしても甦ってこないのです。

私は古民家甦生のなかで、歌枕と風景が描かれた屏風や陶器、他にも掛け軸や扇子などを多くを観てきました。先人たちは、そこにうつる心の原風景を味わい、先人たちの心の故郷を訪ねまた同化し豊かな暮らしを永遠と共に味わってきました。現代は、身近な物のなかにはその風景はほとんど写りこみません。ほぼ物質文明のなかで物が優先された世の中では、心の風景や大和心の情緒などはあまり必要としなくなったのでしょう。

しかし、私たちは、どのようなルーツをもってどのように辿って今があるのかを見つめ直すことが時代と共に必要です。つまりこの現在地、この今がどうなっているのかを感じ、改善したり内省ができるのです。つまりその軸になっているもの、それが初心なのです。

初心を思い出すのに、初心を伝承するのにはこの初心がどこにあるのか、その初心を磨くような体験が必要だと私は感じるのです。それが日本人の心の故郷を甦生することになり、日本人の心の風景を忘れずに伝えていくことになります。そのことで真に誇りを育て、先祖から子々孫々まで真の幸福を約束されるからです。

私の取り組みは、やまと心の甦生ですがこれは決して歴史を改ざんしようとか新説を立てようとかいうものではありません。御先祖様が繋いでくださった絆への感謝と配慮であり、子孫へその思いやりや真心を譲り遺して渡していきたいという愛からの取り組みです。

真摯に歌枕のお手入れをして、現場で真の歴史に触れて日本人の徳を積んでいきたいと思います。

 

 

煤払いの暮らし

昨日は、聴福庵と和楽のすす払いを行いました。この煤払いは一般的には12月13日に行います。もともと旧暦12月13日は、婚礼以外は万事に大吉とされる鬼宿日(きしゅくにち)とのことで江戸時代に江戸城で煤払いが広がったからといいます。

もともと神聖な歳神さまをお迎えする神事として厄払いを兼ねて丁寧に準備をして待つという意味でも行われてきました。この後は、正月に向けて門松やお餅つきなども行い新年にむけて清浄な場をととのえていきます。

有難いことに今年は、ご縁のあった曹洞宗の和尚さんに来ていただき家祈祷を行いました。この一年の道具たちや暮らしのあらゆる場に対して御供養していただきました。思い返せば、今年も竈や囲炉裏をはじめ火の神様と共に歩んだ一年でした。当たり前ではなく、この火があることの有難さ、尊さ、そしていつも豊かな人生を助けてくれる暮らしのあらゆるものへと感謝する機会になります。

和尚さんと共に数日間を暮らしていると、朝は日が昇る前に起き座禅をしお参りをします。そして元氣よくご挨拶をしてお掃除をします。一緒に朝食を食べ、一日を合掌と共に過ごします。心豊かに保ち、どんなこともご縁であり学びであるとよく聴きよく観て手を合わせます。夜になれば湯あみをして穢れを払い、またお経を唱えてはお参りをしてお休みします。

丁寧な生き方が暮らしを支えています。

もともと私たちは宇宙の運行や自然の循環とともに丁寧に和合する暮らしを営んできました。その時々の季節のめぐりと身体と心を一致させ感情をととのえて豊かに生きてきました。健康であることの有難さ、静かに過ごすことの仕合せ、太古の昔から足るを知り、幸福を味わって一生を終えていきました。

現代は、人間の都合で経済活動を中心とした時間とお金に管理されて暮らしが消失していきました。季節感もあまりなく、毎日は人間同士の活動で忙しくしています。太古からの暮らしは今では遠いむかしの過去の出来事です。

私は煤払いをはじめてから、懐かしいふるさとを感じる機会が増えたように思います。年末まで色々とあったことを振り返り、一年が豊かで恵まれていたことに感謝するのです。その感謝は、煤を払ったときに美しくその場にととのうものです。

大掃除という言い方ではなく、煤払いという言葉の中にその意味を感じます。積もった雪のような灰も煤も、暮らしの余韻であり仕合せの宝。それを綺麗にふき取って磨いていきまた元の状態を確認していくこと。私たちの日々は、払い、拭いて磨いてお手入れをしていくなかで味わい深いものになり心は安心するものです。

安心できる日々は、生きている深い味わいと実感を得られる日々です。

子どもたちに安心できる豊かな日々を共に創造していきたいと思います。

むかしの人々

英彦山のむかしの山伏の道を歩いていると、岩窟や仏像、墓石などが谷の深いところにたくさんあります。今は木々が鬱蒼としていて、廃墟のようになっている場所にも石垣があったり石板があったりとむかしは宿坊だった気配があります。むかしはどのような景色だったのだろうかと思うと、色々と感じるものがあります。

守静坊の甦生をするときに、2階からむかしの山伏たちの道具がたくさん出てきました。薬研であったり、お札をつくる木版であったり、陶器や漆器、他にも山の暮らしで使うものが出てきました。

その道具たちを見ていたら、むかしはたくさんの人たちが往来していたのだろうと感じるものばかりです。食器の数も、お膳もお札の数も、薬研の大きさも関わる方々のために用意されたものです。

英彦山は3000人の山伏と800の宿坊があったといいます。この山では谷も深くお米もできませんから、食べ物はどうしていたのだろうかと感じます。これだけの宿坊があり、家族もいますから山の中だけでは食べ物は確保できません。実際に、宿坊にいるとそんなに作物が育てられるような場所も畑もありません。きっと、里の方々、檀家の方々をお守りしお布施として成り立っていたのでしょう。

宿坊には、他にも立派な御神鏡や扁額、欄間などがあります。貧しくもなく、そして派手でもない。しかしとても裕福な暮らし、仕合せをつくるお仕事をなさっていたことを感じます。

庭には、柿の木やゆずの木があります。そして220年の枝垂れ桜があります。足るを知る暮らしを静かに営み、祈りと里の人々の平安を見守るような日々を感じます。

英彦山、お山という存在は人々にとってどのような場所であったのか。

日々に疲れやすい心を癒し、身体を健康にしていくための故郷だったのではないか。今ではそう感じます。お山は誰かのものではなく、みんなのものです。そのみんなのものを大切に守ろうとされてきた方々によってみんなの故郷も守られてきました。今ではほとんど宿坊もなくなり、山伏もいませんがその精神や心、魂はお山の中に遺っています。

この遺ったものを感じ、自分なりにお手入れをしながらむかしの人々の生き方を学んでみたいと思います。

治療の仕組み

日本の地方ではどこも過疎化や空き家の問題などが進んでいます。国の主導の仕組みでやってきたことのほとんどが地方では結果、裏目に出たという状態としか思えません。現実や現場を観ずに、上から降ろしていくような政策というのは歴史をみてもほとんどうまくいっていないものです。

延命治療ばかりを続けているうちに、最後は打つ手がなくなりあとは最期を待つばかりというのは治療の方法自体に問題があることを気づく必要があります。しかし実際には、今の補助金や予算のつけかたでは目先の問題で症状が出た所への対処療法にしか対応できずかえってその延命治療の幅を広げるばかりです。

本来は延命治療をやめるという選択肢を持つべきですが、現在の選挙も票もあるいは仕組みがそうさせませんからどうしようもありません。いよいよという時に、その土地の人たちがみんなで自立して根源的に治療していこうと向き合っていくことではじめて延命治療は終わるようにも思います。

病気というたとえは、人間の欲の中にも存在します。質素倹約、適度な運動、一汁一菜、地産地消、身土不二、心の平安、瞑想、など、食や運動、ストレス大切にし健康を保つためにみんなで工夫した生活をおくればあまり病気になることはありません。

現代はその当たり前のことができなくなっていますから、健康をお金で買うような世の中にあり、ストレスの解消や心の不安もお金でなんとかしようとする仕組みにもなっています。

お金にならないものはやらないとしていると、問題があってもお金がないからやらないということになります。お金があるかどうかで問題を観ていると、次第に本来の大切なものにもお金次第でかけられないということになります。これでは、先ほどお対処療法や延命治療が伸びるばかりです。

根源治療というのは、原点回帰でもあります。

本来は、どうだったのか、最初はどのようにしてきたのか。先人への配慮や思いやりを忘れずに、みんなで大切なことを思い出そうという活動に取り組んでいくことです。そうしているうちに時代の価値観から目覚め、永続する仕組みや根源的なものの存在に気づき感謝できるようになるものです。

子どもたちや子孫に借金を残すのではなく、次世代のために少しでも善いものにして譲渡していくような生き方をしていきたいと思います。

いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。