いのちの養生

昨日は、堀池高菜の漬け直しを行いました。春先に漬け込んだものをこの時期に漬け直せば来春までまた漬かります。長いものでは9年目に入ったものがあり、3年目や今年のものもあります。長い時間をかけて漬け続けるにはコツがあります。

私はもともとこの堀池高菜は、供養のために続けています。採算度外視で儲けるためにやっているわけではありまんから唯一無二のものです。

例えば、30年以上農薬も肥料の入れない畑で自然農で行いこの地域にしかない伝統固定種の種のみでつくります。樽は吉野杉で塩も平窯天日塩、また天然秋ウコン、蓋は楮の和紙で閉じています。そして発酵場は林の日陰の風通しの良い場所で備長炭と共に寝かせ続けます。

こんな環境の中で育っていますから菌もイキイキしています。はじめて3年目くらいまでは腐敗することがありましたが今ではほとんどそれもありません。手塩にかけて塩梅をみながら丁寧に関わっていく。ずっと生きているものとして関わりますから大切に一緒に育っている家族のようなものです。

現代は、大量生産、大量消費で儲かるためにあらゆる作業を省いて効率優先、合理化優先していきます。すべては売り物、そして買い物にするために加工するのです。

私は加工することは儲かるためだとは思っていません。加工するのは、大切に扱うためのプロセスだと思っているのです。私が手掛けるこの堀池高菜は生産、加工という名の家族と共に暮らす豊かで仕合せな営みなのです。

その営みのなかで出来上がったものだからこそ、舌先三寸では味わえない深い滋味があります。その滋味を感じていただける人たちからは、本当に喜ばれ、運がよくなりそうだと感動されます。

この場所、この土地ならではの風味は風土がつくります。

そしてその風土で育ち、風味をわかる人だからこそ滋味が出せるのです。身土不二という言葉もあります。これは『体と土とは一つである』という意味です。私たちは土を食べる化け物ですからその土地の味はその土の味でもあります。

今では遠くの食べ物をどこでも便利に食べれるようになりました。しかし本来、食事というのは食養であり大切ないのちの養生の根源です。

だからこそこの土地に来て、この土地で自然に食べてもらうことこそがその土地のいのちを味わうことになります。

私がやっていることは、今の資本主義社会でやっている儲けるための食事とは異なるものになります。だからこそ儲からないし売れないし売らないのでは誤解され、道楽や趣味のようにいわれます。しかし本来、伝統文化や伝承というものはそのためにやっているのではなく、先祖代々、豊かに暮らし仕合せにいきる知恵を自分も同様に生きているということを守っているだけです。

子どもたちや次世代、子孫へ知恵が伝わり同じような仕合せが繰り返されるように今の時代の価値観に流されずに本質を保ち喜びを楽しむのです。これからますます遣り甲斐も生き甲斐も増えていきますから大切にいのちを養生していきたいと思います。

 

戦争の時代

ロシアとウクライナの戦争がさらに進行しています。世界を巻き込んだ戦争、第3次世界大戦はすでにはじまっています。もともと第一次、第二次世界大戦のときもやっている最中はそういう意識ではなく終わってみてあれは世界大戦だったとなっていたのです。

どの国が先に本気で火ぶたを切るのか、これはもはやロシアであることは間違いないことです。もう随分長い間、平和が続き私たちも戦争の記憶がなくなった人たちばかりです。まさか自分が戦争に巻き込まれるはずはないと考えるものですが、実際にはみんなそのまさかで巻き込まれます。

自分だけはみんな巻き込まれないはずと安全バイアスが働きますが実際には全体を巻き込んでいますから他人事ではありません。

昨日もニュースで、ロシアで召集令状が出され一日にして大勢の人たちが戦地に輸送されていきました。家族、恋人や妻子と別れていく様子は映像をみていて心が酷く傷みました。行きたくない戦争、政治的に行われた戦争に強制的に参加させる。参加しなければ刑務所で刑期10年といいます。この刑期も果たしてどのような刑期なのか、無理やり理由をつけては戦地に送り出されることも予想できます。すでに、10万人ほどのロシアの兵隊も死者がでていて戦況は悪くなるばかり。それでも諦めずに兵隊を送り続けてあとどれくらいの人が死ねば戦争をやめようとするのか。為政者によって戦争が行われるというのは歴史の事実であり時代が変わっても何も変わりません。

戦争の歴史を深めると、その理由はほとんどが為政者の都合です。皇帝といわれるような独裁者が権力を握りしめ独断で行うもの、あるいは内部が腐った組織、その民衆の依存した既得権益者たちの操り人形のような組織、他には集団的無責任で保身だけにひたすら走る組織、キリがありませんが発端は思考停止になっているところからはじまります。もっとシンプルにいえば「まともではない」状態に意識が入っているのです。

戦争をしている当事者、もしくは巻き込まれた人たちは保身がちらつきますから身の危険を感じてまともではなくなります。安心安全なところにいる人からすれば、そんなことはないだろうと思いますがまともではない人たちになっているのだからそんな理屈は通じません。気が付いたら巻き込まれているのです。

召集令状一つにしても、明治頃は市役所が赤紙といってそれを自宅にもって「おめでとうございます」とあいさつに来ます。それを受けて逃げれば家族全員が非国民として差別され、受けたら家に旗をたてて英雄と称えられます。もはやこれだけでもまともではありませんが、戦争とはそういうことです。ロシアでは、選択肢は戦争で罪のない人を殺すか、あるいは刑務所に入るか、もしくは海外逃亡しかありません。他にはいつも時代も同じですが、政治力や資金力、コネや賄賂などを渡して戦争でも死なないような職種や配属をさせたり、兵役を逃れられるように話をつける人たちが逃げられることです。実際に政治の中枢にいる家族や子どもは守られるという構図です。

人間はいつの時代も似たようなことを繰り返します。権力や権威は何のためにあるのか、本来は人々の生活を守るためにあるものが権力闘争や利権に巻き込まれ結果、大勢の人が悲惨な戦争に巻き込まれます。

そうならないように本来は、教育があり人間学があり道徳を習慣にする文化があったはずです。今思い返せば、世界経済が破綻寸前まで紙幣を発行し、感染症で人々のつながりが分断され、自然災害が追い打ちをかけ、大国間の戦争が発生する。もはや歴史通りであり、シナリオそのままです。

この先、どう生きるのか。

失敗から何も学ばない人間だとしても、失敗を未然に防ぐためにできることはあるはずです。それは現代のように情報で世界がすぐにつながるのだから、一人一人の意識と行動が変革を促すはずです。

私がDAOや徳循環、ブロックチェーンのテクノジーに可能性を見出すのもその部分です。気づいていないのだから、気づいた人が草莽崛起することしか今はありません。

残りの後半の人生、今まで学んだことを活かし、やるべきこと、使命を果たしていきたいと思います。

御蔭様の文化

私たち日本人の感性は、御蔭様の文化で磨かれてきたものです。この御蔭様というのは、光でいうところの闇、そして表でいうところの裏です。そういう目には見えないところ、目に映らないもののハタラキを観て私たちは感性を研ぎ澄ませてきました。

つまり、それが場になり、間になり、和とも変化してきたのです。これらのハタラキは、目には見えませんが感じようとすればそのハタラキは実感できます。

例えば、古民家の陰影というものを感じていれば常に目には見えないハタラキがあることを直観できます。他にも、丁寧に炭火で調理すればその御蔭様を感じますし、水もお水として大切にお祀りしていればそのお水のハタラキを感じます。そういう日々を過ごしていく中で、如何に裏側で陰になって大切な役割を果たしてくれているのか。そういうものを実感し感謝するのです。

これを農業でいえば、土のハタラキです。土が善く働いているからこそそのうえで立派な野菜が育ちます。土は目には見えませんが、土の状態がいいからこそ表面の活動は活発するのです。

またこれを人間でいえば、陰ながら支えてくださっている存在。例えばご先祖さまや家族、そしてその土地の風土や歴史、文化、さらには祈りや助け合いになどのハタラキによって自分というものが活動できます。如何に裏で陰で支えてくれているのかを知れば自ずから御蔭様に感謝できます。

この御蔭様というものは、足るを知るという価値観と思想であることがわかります。

今あるものに感謝するところから始めるということ。あれがないとか、これが不足しているとか不完全だとか言う前に、今、この状態であることが如何に有難いことかというところを起点にして自分たちがどう振る舞うかということを決めていくのです。

発展というものは、決して新しく拡大し不完全なものを完璧に仕上げていくということではありません。悠久に雄大に活動する自然のように、不完全を完全として循環してそれぞれの小さなお役目をみんなで支え合っていくことが真の発展だと私は思うのです。

そのために私たちはその御蔭様の感性を磨いて日本という風土で暮らしを研ぎ澄ませてきたのです。私が暮らしフルネスの中で、味わうのもまたその御蔭様の文化を活かした日々に感謝してどうハタラキをととのえていくかというところに由ります。

子どもたちがこの先の未来を生きていく上で、失ってはならないものは先人から大切に守られ伝承してきた生き方、磨き方、味わい方、暮らし方、ハタラキ方です。

子ども第一義の理念を守り、憧れる懐かしい未来を実践していきたいと思います。

便利さの副産物

消費文明の中では、使うことや捨てることがよいことをされています。特に利便性というのは、便利であること。便利は誰にとって都合がいいかということ。それは使う人にとってメリットがあるということです。しかしなんでもそうですが、誰かにとって都合のいいことは誰かにとって都合が悪いことがあります。それが自然でいえば、人間にとって都合のいいことは自然にとっては都合が悪いものです。しかし自然は文句を言いませんから、人間が好き勝手に便利に走っても誰からも非難されることはありません。

つまり非難されず文句を言えない相手なら便利であることは最善とも思うことがあるということです。子どもも同じく、大人の便利に左右されて色々なことに困っています。この逆に不便さというものは悪のようにいわれます。不便というのは、役に立たないことや都合よくないときに使われます。

世の中の不便を解消するためにビジネスを発展させるというのがこの前の時代の価値観でした。しかしよく眺めてみたら、これだけ便利になってもなおさらに便利になるように追及しています。これは確かに間違いとはいいませんが、その便利さによって発生する副産物によって私たちは大切なものを失います。

その一つは、時間というものです。時間を稼ぐためにスピードを上げる。そして便利なものを使う。しかしそれで時間が産まれるかというと消費されていきます。本来の時間はゆったりと充実して味わうものでかけがえのないものです。それは便利さと共に失われていくのです。

そして次に場です。便利であるがゆえに場がととのうことがありません。面倒なことを取り払い、場を磨き上げることを怠ることで自他がととのい、穏やかで豊かな関係が築けるご縁をも失います。

他にも健康というものがあります。便利になって健康が失われます。本来、不便というものは心身をバランスよく使い、丁寧に身体の声を聴きながら一つ一つの五感を活用して味わうものです。それを時間がないから、関係を重ねる暇もないからと便利に走っては健康まで失います。

もう少し不便を取り入れていこうとはなぜしないのか。

それは不便であることをよくないことだを刷り込まれているからです。私は暮らしフルネスの中で多くの不便を取り入れています。もちろん便利さも善いところもありますが同じくらい不便を取り入れます。それが喜びや豊かさ、古くて新しく、柔軟で謙虚でいられるからです。

時代は色々と問題をかかえているのはすぐにわかります。先ほどのことを大きくすれば、因果の法則で環境問題、自然災害。そして人災として戦争、飢饉。感染症や精神病もです。これは先ほどの便利さの副産物であるのです。

気づいた人から日々の暮らしを換えていくのが解決の近道です。次の時代の生き方、子どもが大切にされるような時代にしていきたいと思います。

竹垣の修繕

昨日、聴福庵の竹垣の修繕を行いました。毎年、2回ほど柿渋を塗り棕櫚縄で結び直したりしていましたが少しずつ傷んできます。蔓が巻き込んで壊したり、雨風でどうしても木材が腐食してきます。竹も時間が経てば、表面にざらざらと埃がついたりして傷みます。

お手入れをしていくことで長持ちしますが、油断していると急に壊れた気がしてきます。しかし実際には急にというのはなく、心を籠めて丁寧に観察していればどこが壊れてくるかなど次第にわかり早めにととのえておけばお手入れも少しで済みます。

もともと現代はやることが多く、少しでも気を抜けば忙しくなってしまいます。暮らしが消費に傾いていて、消費することで経済を活性化するというモデルですから世間の空気がそういう消費やスピードの空気です。特に都会に住めば、この空気はさらに密度が濃くなります。何かをやっていないと不安になるかのようにあらゆるものに手を出していきます。情報化がさらにそれに拍車をかけていきます。

本来、自然のリズムで生きていけば自然の循環を身近に感じてどのようにお手入れをしていけばいいかを暮らしをととのえながら組み立てていきます。それは今ではむしろ正反対、自然の利子で得た分をどうみんなで分け合うかという発想になります。なければないなりに工夫し、あればそれを使って修繕をしたり未来への徳を譲る活動をしてきたのです。

話を竹垣に戻しますが、聴福庵の竹垣は透かし垣です。もう一つの和楽の竹垣は遮蔽垣です。境界を示し風通しのよいものと、お庭の目隠しやプライバシーを守る意味もあります。

竹は天然の素材で毎年間引いていくことで美しい竹林ができます。またタケノコなども美味しく、旬を味わい健康にもなります。間引いた竹を家のあらゆるところに活用でき、しかも丈夫で長持ちし柔軟で使いやすい素材です。竹をつかった伝統工芸もたくさん出ていますがこれも自然のリズムと自然からの利子を活用した知恵です。

私たちはどうやったらこの地球で長く豊かに仕合せに暮らしていけるのかを考えて創意工夫して今があります。縄文時代より前、もう数万年も前からみんなで豊かに仕合せに生きていくためにあらゆることを実験して取り組んできたように思います。その知恵は古臭い過去の産物ではなく今でも最先端であり新しく、そして錆びつくことのない叡智そのものです。

竹垣は修繕したおかげでその場所にさらに深い愛着がわいてきます。さらにお手入れをして長持ちさせたいという気持ちも増えてきます。豊かさというものは、こういう物だけではなく心の豊かさや足るを知る感謝とともにあります。

子どもたちに暮らしの豊かさと仕合せ、暮らしフルネスの実践を伝承していきたいと思います。

歴史を前に進める

過去の歴史の中には、時が止まっているままのものがあります。本来、何もなかったところに人が物語をつくります。そしてその物語は、そこで終わってしまうものか、それとも続いていくものか、もしくはまた再開させるのかはその歴史の物語を受け継いだ人の判断になります。人は、このように自由に時を止めたり動かしたりしていくものですがそれは物語の中にいる人たちでしか繋いでいくことはできません。

いくら文字でそれを知識として分析しても、それは止まった歴史です。生きている歴史は知識ではなく知恵として受け継がれていきます。歴史を受け取った人のその後の行動で甦生するからです。これを遺志を継ぐともいいます。

その前の歴史がどのようなものであったか、それを学んだ人がその歴史を前に進めていきます。その人が進められるところまでを進めたら、それを継いだ人がさらに前に歴史を進めます。こうやって過去にどのような悲しい歴史があったとしても、それを転じてそのことによってさらに素晴らしい未来が訪れるように歴史を変えていく人たちが現れることで過去の歴史も肯定されます。

この時、悲惨な歴史も未来がそれによって善くなっているというのならただ可哀そうな存在にはなりません。後世の人からは感謝され、大切に思われ、偉大な先祖であったと慕われ尊敬されることもあります。しかし時を止めたままにしたり、悪いことのままで終わらせてしまうと人は歴史に学ぶことができません。

世の中には終わらせてはいけない大切な知恵が入った歴史がたくさんあります。私の周りにも、子孫の仕合せを願い取り組んできた先人たちの想いを深く感じるような場所がたくさんあります。

その方々からの遺志を感じ、過去の歴史の続きを紡いでほしいといった願いや祈りを感じることもあります。今の私をはじめ、私たちが生きているのは先人たちが人生をかけて大切ないのちを使ってくださっているからでもあります。

その願いや祈りは、世代を超え、身体をこえて伝わっていくものです。これを伝承ともいいます。伝承するというのは、歴史を生きてその歴史をさらに善いものへと転換していく私たちの生きる意味でもあります。

自分のことばかりを考えて、世代を省みて未来を思わなければ歴史はそこで途切れてしまいます。自分の中にあるあらゆる想いや祈り、そして願いを忘れず一つ一つの歴史を丁寧に紡ぎ修繕し、お手入れしながら子どもたちに譲っていきたいと思います。

むすびの真心

昨日は、カグヤの初心会議のワークショップで「むすび」の体験をみんなで行いました。具体的には、合気道の極意に触れるような体験をいくつか行いました。現代は、型を中心に形式的なものが武道になっていますがどの武道も突き詰めれば戦わない知恵を極めたもののように私は感じます。

矛盾ですが、戦わないで勝つというのが真の勝利ということでしょう。我をぶつけ合い、感情や闘志を戦わせるのは周囲は興奮しますがそんなものは本当の力ではないということでしょう。本当の力は、大切なものを守るためのものでそれはすべて生き方に関係しているようにも思います。

私たちにはもともと「軸」というものが具わっています。この「軸」は辞書では車の心棒、回転の中心となる棒。また 中心や基準となる直線。そして物事の中心、大切なところと記されます。

軸が定まっていないと、色々なことに振り回されてしまいます。言い換えれば、軸がどこにあるかで自分がブレなくなるのです。むしろ、周囲のブレの影響を無効化することもできます。

敵対関係というものも、敵にならなければ無敵です。

この無敵というのは、最強の力を獲得したから無敵になると思い込まれていますが本来は読んで字のごとく敵がいなくなるから無敵です。以前、木鶏の実践を学ぶ中で無敵になることを説明されている故事を知りました。闘鶏の話でしたが、最後は木鶏になり無敵になったということです。

これを同様に、軸を立てることができそしてむすぶことができるのなら私たちは無敵になるということです。無敵になることが目的ではなく、むすびの生き方を実践することが大切だということでしょう。

様々な他力や様々な自他一体の実践によって、大いなる一つの力そのものとむすばれていく。我を通そう、自分の力だけに頼ろうとすることは力を働かせたのではなく、力は偉大なるすべてのいのちを活かすときにこそ発揮されるということ。

頭でわかるのではなく、それを日々の暮らしや実践の中でととのえていくことが大切であることを学び直しました。暮らしフルネスに通じる体験で、すぐに取り入れられるものばかりでした。

子どもたちに、先人の生き方、その知恵を伝承していきたいと思います。

子ども第一義とは

私たちは幼い頃からあらゆるものの真似をして成長していきます。周囲を観ては、その環境をはじめその環境に適応した生き物たち、あるいは親や周辺の大人、そして兄弟姉妹の姿から学びます。この学ぶということの語源は、真似ぶからという説もあるのがわかります。

そう考えたときに、私たちは子どもたちにとってもっとも大切にしないといけない教育環境は真似されるものかどうかということです。そして真似されるということは、それだけ周囲が魅力的であるか、そして真似したいと思われるような生き方をしているかということは重要です。

子どもたちがあのように生きてみたいと憧れるような存在があればあるほどに、子どもは自らの可能性や夢を拡大していくことができます。つまりは目標として憧れ、そこに向かって真似してみようと思うようになるということです。

この子どもの憧れというものこそ、子ども心の正体でもあります。

子ども心というのは、別の言い方では好奇心ともいいますが子どもがワクワクしたり目がきらきらして夢中になり没頭できるものとシンクロしているということです。これは幸福感を感じているのであり、生まれてきた喜び、自分の使命に直結して全体と結ばれ存在を全肯定できている状態ともいえます。

いのちというものは、そのままの存在でそのままに役立て、そのままで喜べるとき私たちはいのちがイキイキと輝きます。いのちが充実している姿のことです。現代では、何が幸福で何が不幸かもその定義もお金や地位や名誉、財産を多く持っているか、五体満足かどうかなど色々と欲望の話が中心です。

しかしすべての生命やいのちや存在は、ありのままで自然、あるがままで仕合せを感じられるように完全無欠で誕生してくるものです。そこにみんなで近づいていこうと自然界は共生しています。人類もまた同じように、技術や知識で進化したとしても根本的には何も変わっていません。人類の本質や幸福というものは、時代が変わろうが世界が変わろうが普遍的です。

だからこそ私たち、今を生きる大人は子どもの憧れるような生き方と働き方をしているかどうかが常に問われるように思うのです。私がカグヤで子ども第一義の理念を掲げ、働き方と生き方の一致を実践するのもすべては子どもの未来から逆算して今を想像するためです。

たとえ今の時代、それが不可能のように見えても子どもの未来を思えばそれに挑戦する価値があります。暮らしフルネスもまた、それを実現するための挑戦に他なりません。

改めてお盆休みを豊かに暮らしていると、子どもの憧れる未来に思いを馳せます。今の自分の生き方を内省して、襟を正して社業を取り組んでいきたいと思います。

意味の甦生~お中元~

私が小さい頃は、この時期はたくさんのお中元が自宅に届いていました。お盆のご挨拶に、近所の方々や父親の会社の方々がたくさんお中元の贈答品をもってご挨拶に来られました。中身も、お菓子や果物やジュースが多かったのでとても楽しみにしていたのを覚えています。

今ではあまりお中元を贈り合うような文化はなくなりました。世の中の価値観の変化はこういう行事の消失と共に感じるものです。

この「お中元」はもともと中国の道教の旧暦の1月15日は「上元」、旧暦の7月15日「中元」、旧暦の10月15日「下元」の中の「中元」から来ています。この「上元」「中元」「下元」は「三元」と総称され道教の3人の神様を意味します。

この三人は三官大帝(天官、地官、水官)はどれも龍王の孫であり、天官(天官賜福大帝)は福を賜い、地官(地官赦罪大帝)は罪を赦し、水官(水官解厄大帝)は厄を解く神徳があると信じられていました。

中元は、罪を赦す地官赦罪大帝の誕生日である旧暦7月15日が贖罪の日になり、同に地官大帝は同時に地獄の帝でもありましたからその死者の罪が赦されるよう願う日となり今のお中元になった経緯があります。つまりこの日にお供えをして供養することで、罪がゆるされたという行事だったのです。

仏教の年中行事である「盂蘭盆会(うらぼんえ)」も以前ブログで書きましたが、仏陀の弟子の目連が地獄に落ちて飢えに苦しんでいるお母さんを助けるため仏陀の助言に従い、旧暦の7月15日に百味を盆に盛って修行を終えた僧たちに供養して救えたという話がはじまりの由縁です。この仏教と道教、お盆とお中元が結びついてお盆の時期に贈り物をするようになったといいます。

日本人は、時間をかけてあらゆる宗教や信仰を上手に暮らしに取り入れて融和させていきました。その御蔭で、日本ではあらゆる行事の中で知恵が生き続け活かされ続けています。その恩恵はとても大きく、私たちは知らず知らずにして知恵を会得しそれを子どもに伝承して暮らしをさらに豊かにしていたのです。

話をお中元に戻せば、お中元が食べ物が多いのはお互いに共食といって同じ釜の飯を食べたり、煮物を分け合い一緒に食べることがお互いを信頼し合う関係づくりにもなったからです。家族のように心を開いて一緒に食べることで、お互いの結びつきやご縁に感謝することもできます。

これは神道の直会と同じような意味で 神様に供えた御神酒や神饌を弔問客でいただき身を清める、という神事の一つでした。

みんなで分け合う、助け合う、共食することで神様やご先祖様の気持ちになって穢れを祓い、平安の心に甦生します。

むかしの人たちは、このお盆や正月は身を清めるような暮らしをととのえていたように思います。現在はあらゆるものが形骸化して、意味が分からないままにカタチだけになったものが増えてきました。しかしちゃんと意味を理解し、実践する人たちの背中や実践が意味を甦生させてくように思います。

子どもたちにも、本来の姿、何のために行うのかを伝承していきたいと思います。

使命の全う

昨日からハーバード大学で修験道の研究をされているカナダ人の方がBAに来られています。色々と情報交換をしていると、この道に入ったことの理由やその哲学などを語り合い豊かな時間を一緒に過ごしています。

もともとこの方が大学生の時に、仏教のことを教えるいい先生に出会ったことが切っ掛けだったそうです。この先生は、仏教の教えとして苦労することの大切さ、そして森羅万象の死について話をされたそうです。そこで価値観が転換し、仏教の道を学び始めたそうです。

その後は、カナダの先住民族の儀式で日本でいうお祓いのような行事に3年間をかけて参加して自分の中の価値観を醸成されたそうです。もう日本は12回目の訪問で、少し前までは出羽三山で研究を進めていたそうです。

このカナダの先住民の儀式をきくと面白いもので、シャーマンが石を火にかけてそれを円の中心に置き、サウナのようにみんなでその中に入ります。その石に、聖水や薬草のような何かをいれてかけてその水蒸気を浴びながら祈る、謳うという具合です。夕方17時くらいからはじまり深夜まで行われたそうです。まるで温泉やサウナに入ったあとのようなととのうような感覚だったそうです。

これを何のためにするのかと聴いたら、先住民族の方々は「甦生するため」とあったそうです。毎週1回、これをすることで生まれ変わることができるという意味だそうです。

この感覚は、私の取り組んでいる暮らしフルネスの「お手入れ」と同じです。私も、生きていたら日々に穢れもくすみもでてきます。それは物事が分化して複雑になっていくからこそ、初心に帰るように原点回帰していくためにも行います。

掃除も同じく、洗濯も同じく、使うと器が汚れるからそれを濯ぎ洗い拭いて仕舞うのです。私たちの心身は器ともいえます。その器には何が入っているのか、それをある人は心ともいい、またある人は魂ともいいます。どのような呼び方であっても、私たちは器に盛られた一つの存在です。

どのように生きるのか、器と一緒にどこに向かうのかは自分で決めることができます。どの時代においても、先を観て何が大切なのかと伝承してきた人たちは古から知恵を受け継いで現代も暮らしをととのえています。

暮らしがととのうことは、人間が自然の叡智をもって自然と共生し平和を保っていくことです。人間がこの甦生や生まれ変わりをしなくなれば、そのうち穢れも積もり悲しい出来事が増えていきます。

苦労も死も、私たちがどうにもならない諦観を持つための材料として存在します。何を諦めて、何を諦めないのか。現代のように人間中心の世界や社会が広がるなかで、どのような空気を吸っているのか。私たちは蓮の花のように汚泥で美しい花を咲かせる時、先人の偉大な徳を感じるものです。

子どもたちのためにも、自分の使命を全うしていきたいと思います。