学問の大禁忌~道を見失う~

知識をつける世間でいう勉強ではなく、道を実践する学問は学び方にルールがあるように思います。道に入っている人は決してしないことでも、道がよくわからない人は簡単にやってしまうものがあります。そういうものが生き方に出て来ますから、なぜかいつも王道の中で自然体に歩む人と、いつも道から逸れては煩悶として不自然になっている人に分かれるように思います。

ではその差は何かということです。

吉田松陰の遺訓の中に「学問の大禁忌は作輟なり」があります。意訳ですが、「道を実践するという本物の学問において、絶対にやってはならぬことはやったりやらなかったりすることである。」と言います。

道というのは、歩んでなんぼのものです。歩まなければ道ではなく、歩むから道だと言えます。もしも足を前に出していないのなら歩んでいないということは誰でもわかります。それが日々の実践です。しかし実際は、悩んでばかりや周りに文句ばかりったり、言い訳ばかりして一向に自分の脚で歩もうとしない。自分で歩かないのに進まないと愚痴をいっては実践しないでは道は自分から遠ざかっていくように思います。

道とは、自分の人生のことです。自分に与えられた人生ですから、それは自分自身でしか歩むことが出来ません。そしてその道を歩むにおいてどこに向かいどこに辿りつこうとするのかはその道の歩み方といった志に顕れてきます。

どんな人生を歩みたいかを初心に、理念を定め、定めた理念に正直に素直に実践していくことで人は道を謳歌していくことができます。そのために、もっとも道においての禁忌は「したりしなかったりすること」であると私も思います。

したりしなかったりするのは、そこに我欲があります。自我に真我が負けて己に嘘をついてしまうからしなくてもいいことになっていきます。しない日々が続くのは、自分で決めた初心を偽るのですから自分にいつも言い訳を言って帳尻を合わせることになります。すると、自分の中にある真心や情熱、そういうものに水をかけてしまうことになるのです。

常に自分で決めた道は、自分の脚で歩き切るといった自らの実践があって人は学問の楽しみを深く味わうことができるように思います。

最後に、吉田松陰の言葉で締めくくります。

「至大至剛は気の形状模様にして、直を以て養ひて害することなきは、即ち其の志を持して其の気を暴ふ義にして、浩然の気を養ふの道なり。其の志を持すと云ふは、我が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰めて片時も緩がせなくすることなり。学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の志を緩がせなくするを、其の志を持すと云ふ。」

どんな時も理念からブレずに実践することこそ初心を忘れず志を守り続けたということです。これこそが「真の学問」ということです。道に入るということは学問に出会い学問をするということです。道は消えるのではなく見失うだけですから、本来の道に帰りまた道を一緒に歩んでいく仲間に合流していけばいいようにも思います。道はそれぞれ自分の脚で歩みますが、同志や仲間がいれば一緒に歩んでいくことに仕合せを感じ感謝の心と同時に深い味わい楽しみがあります。

子ども達に日々の実践こそ学問ということを自らの生き方で示せるよう精進していきたいと思います。

 

心のふるさと~御縁の暮らし~

年末の「復古創新」の理念研修を迎えるにあたり、温故知新の妙を深めています。古いものを新生し、新たな役割を担っていただきます。永く誰かの御役にたったものや、ずっと誰かに愛されてきたものを感じると心が安らぎます。

先日、十日市町の100年古民家を訪問したときに「思い出」について考える機会がありました。それは古民家再生を手がけるドイツ人建築家カールベンクスさんのHPを知り、そのプロフィールに共感することが記されていたからです。

「『古い家のない町は、思い出のない人と同じです』とは、東山魁夷がわたしにくれた言葉。古い=価値がないのではありません。古いものは、歴史や思いがつまった、単なる”モノ”以上のものなのです。使い捨て、大量消費の文化とともに、日本人はモノを大切にすることを忘れつつあるのかもしれません。この世界に誇れる文化の現状は私にとって残念で悲しいものです。」

今は、大量消費の使い捨て文化の中で新しいものがさも価値があるように宣伝して古いものを捨てていきます。しかし実際は古いものの中には思い出がたくさん詰まっています。物だけではなく人も同じく、「一緒に生きた仲間たち」があって「暮らし」は成り立っているからです。それを何を間違ったか、自分のことだけを心配し、自分の利益ばかりを優先し、自分勝手に我儘ばかりが使い捨て文化の中で助長していくと古いものは邪魔だとさえ考えるようになるようです。

本来、古いものというのは利他に生きた生き方が沢山そのものに詰まっています。それは徳とも言ってもいいかもしれません。物は単なる具ではないからこそ、日本人は具に道をあてて「道具」と呼びました。

物を大切にする「もったいない」という文化は、そこに一緒にお役立ちした仲間たちとの暮らしを何よりも重んじていたから発生した文化ではないでしょうか。

永いもの、古いものは其処にあるだけで心が安心します。

心が安心に落ち着く場所こそ、「思い出の場所」なのです。

大量消費、使い捨てで「思い出」までも捨てていくというのはいかがなものかと思います。それだけ情報化社会の中で、スピードばかりが重視されていますが新しいものばかりに囲まれた生活は果たして仕合わせだと言えるでしょうか。

時間をかけて味わっていく仕合わせというものが「御縁」というものです。

御縁をどのように活かしていくかは、その人の生き方ですから天から頂いたもの、我が家に来ていただいたもの、自分を探し当ててくださったもの、一緒にいたいと思ったもの、そういう一つ一つを大切にする生き方が人間を孤独から遠ざけ、「豊かな暮らし」を与えてくれるのではないかと直感します。心のふるさとは、もったいない暮らしの中に存在するものかもしれません。

まだ実践して間もないのですが、この「心落ち着く」古き善きものに囲まれる暮らしは穏やかな気持ちを与えてくれます。現代に失っていく心を、もう一度暮らしの民具を含め、様々な道具から学び直し、子ども達に伝承していきたいと思います。

 

お気楽極楽

昨日、「お気楽極楽」について書きましたが少しこの意味を深めてみようと思います。

このお気楽極楽とは、天国というものではありません。よく極楽が天国だと言われますが、天国には地獄もあります。天国とは、自分の願望がなんでもかなっていくのを天国だと思われています。逆に地獄は、自分の思いどおりにならない状態、苦しく辛い状況のときに地獄だと使われます。

それに対してお気楽極楽というのは、心の状況のことを言います。よく西洋の考え方の基準に「正・反・合」という見方があります。正しいではなく反対でもなく、合わさった場所が中庸だという意味です。私はこれに対して「正・反・福」というように正しいでもなく反対でもなく福であることが本来の中庸だと思っています。禍転じて福にする、人間万事塞翁が馬とも言いますが、お気楽極楽とはそういう何があっても「福」だと考える見方のことを言います。

人は自分の願望がかなったことを天国にし、思いどおりではないことを地獄にしてしまうと常に心は天国と地獄の狭間を行き来し、天国の時は幸せだといい、地獄の時は不幸だと言います。そういう心境はとてもお気楽でも極楽でもありません。

新潟の方言で「じょんのび」というのを聴いたことがあります。これはのんびりとゆったりとするという意味だそうです。漢字で書くと「寿命延」と書きます。心が穏やかで安らか、豊に伸びやかに落ち着いていると寿命も延びていくという意味でしょう。

心配事や不安なことは、自分の中にある天国と地獄という物の見方の方に問題があるように思います。TODOリストを出しては、それが叶ったら幸せで叶わないと不幸という捉え方をするのではなく、足るを知り、頂いている方をよく観ると本当に膨大な恩恵を与えてくださったことに感謝の心に包まれるものです。

物が増えて使い捨ての文化が蔓延することで、「ないものねだり」の刷り込みはますます分厚くなっていきます。今の時代の不幸の元凶は、感謝できなくなってくることのように思います。

人は思った通りにいかなくても、思った以上のことをいただいているものです。ないものをみては焦り、周りに矢印を向けるのではなく、いただいている御恩の大きさをみては自分に矢印を向けて内省することで心は落ち着いてくるものです。

お気楽極楽の境地というものは、安心している心境であるということです。きっと福になる、きっと善いことになると運を信じて今此処に集中することは福を呼び込みます。

福を呼び込むというのは、信じるということであり、私たちはそれを聴くという実践によってその福を広げていきます。日本の祖親には、「アメノウズメ」という先祖がいました。踊りの神様であり、和来の神様です。世の中が暗闇に沈むとき、踊り詠うことで福を呼び込みました。争い世の中が乱れるときもまた、踊り詠うことで福を呼び込みました。

私たちカグヤの理念の原点には、このアメノウズメの実践があります。

引き続き、お気楽極楽を広げて今の刷り込みの社會に真の豊かさと智慧を広げて子どもたちの未来が笑いに満ちるように生き方を精進していきたいと思います。

御気楽極楽~頑張らない~

頭で考えているように完璧にやることとベストを盡すということは異なります。頭で考えてここまでやればいいと思って目指す完璧は先に正解がありそれに近づけようとする努力のことです。そしてベストを盡すというのは、与えられている状況や環境の中でできることを精一杯やるということです。

しかしここに落とし穴があるように思います。

よく「手抜き」というのと「肩の力を抜け」という言葉があります。手抜きというのは手間を省いてしまうことを言います。本来の手間暇を怠りいい加減にやってしまうことを手抜きと言います。それに対して肩の力を抜けというのは、気楽に安心して物事を受け容れ取り組んでいくということです。言い換えれば頑張り過ぎないといも言えます。

これらのことが教えるのは、「頑張る」ということについての本質です。この頑張るという字は、我を張るとも言われます。自分の我を押し通すとき、頑張るというように使われることが多く、よく頑張りますというと無理をしてでも我慢してやりますという使われ方をしているように思います。

しかし本来、自分のやりたかったことをやっているはずが思い通りにいかないことで頑張ろうとし、そのことから無理をしてでもやるという意味になってしまっては頑張ると余計に物事は頑なになり苦しくなる一方です。では「頑張らない」というのは何か、それはありのままを受け容れるという意味ですが実際は目的が達成しなくてもやるだけやってみますという意味に使われています。

これは教育の刷り込みであり、小さい頃から勤勉を教え込まれ無理にやらされてきたり、考えさせずやらされることが沁みつくと「頑張る」という刷り込みにもっていかれてしまうのです。

今の自分をあるがままに受け容れることや、今の状況がもっとも自分に相応しいと受け止めること、そういうポジティブな心の持ち方ができるなら「今此処から学び直していこう」という心境を得ることが出来ます。そしてそうやって少しずつ我を手放すことをやっていくのが頑張らないことになり刷り込みも取り払われます。

頑張るという言葉の中には、もっと我を強くしてやれ、今のままではダメだといったネガティブな意味が潜んでいるように思います。本来、ありのままの自分を受け容れることは自分の長所と欠点を自覚する最上の道です。その上でどのように欠点を補い、どのように長所を伸ばすか、自分本来の持ち味に気づきそれを活かそうとすることではじめて人は本質的に人事を盡していくことができます。

単に勤勉に頑張れば人事を盡しているのではなく、今やっていることのすべては本来自分がやりたかったことだと初心を思い出し自分の天命を信じて今に集中して”お気楽極楽”に実践していくことができるならその人は本質的に人事を盡していると言えると思います。

もちろん大事な局面では「踏ん張る」必要があるときもありますが、決して「頑張る」必要はないように思います。老子に、「柔弱は剛強に克つ」という言葉があります。しなやかで嫋やかな生き方が、堅強で頑固な生き方を凌駕するという意味でしょう。

自然界も同じように、頑張らず受け容れてきたから悠久の年月変化を已まずに生き残り続けることができたように思います。今の自分を信じることは、今までの自分、これからの自分、そして世間様、自然界、全てを見守る存在として信じようとすることです。

今の自分が最も今に相応しいからこそ、今起きる出来事は訪れます。そしてその出来事を一つ一つ感謝でお受けして学び直していくことで人はその人らしく成長していくように思います。自分の決めた道だからこそ与えられた道を選ばないで歩んでいくことができるならその人は素直であり謙虚になっていると言えます。

無理をするのではなく、御気楽になることが何よりも信じるチカラを得て最終的な目的を果たす持続力になっていくと思います。まずは自分自身をお手本になるように日々のブログも、日々の実践もまた、御気楽に愉しんで味わい盡していきたいと思います。

生き方を換える

人はそれぞれに生き方といった自分の習慣を持っています。今までどんな生き方をしてきたかがその人の生き様ですが、その生き様が働き方や生活の仕方、思考、行動のあらゆるものを決めているとも言えます。

自分がどのように行動するか、いわばそれは日々の行動パターンや思考パターンなどが習慣になりそれが生き方になっているということです。その習慣が身に付いてしまうと、自分の習慣に従って人生もつくられていくものです。

人生には、前進か後退しかなく中間はないという言葉があります。地球が廻るように日々は循環していますから止まれば下がり、歩めば進むだけですから確かにじっとしていることは後退になります。自分の生き方も同じで、そのままにしていたらそのうち時代に合わなくなったり周りの環境に順応しなくなっていくものです。

また場合によってはいつも悪循環になる人と、好循環になる人がいますがこれも生き方の癖、習慣が決めているとも言えます。例えば、何でも先延ばしにしたり、言い訳をしたり、迷ってばかりいたり、周りの目を気にしたり、比較や正解探し、自分の都合ばかりを優先したり我儘だったりする生き方は悪循環になることが多く、そのことから不自然なことの揺り戻しで苦労することがあります。そういう自分の悪循環の流れを断ち切るには、今までの習慣、生活習慣を変えていくしかありません。自分の生活習慣が変われば意識が変わり、意識が変われば人生が変わっていくからです。

基本的生活習慣を変えるというのは、今まで早起きできない人が早起きして朝練をしたり、遅刻ばかりする人が時間を厳守できるようにしたり、食べ過ぎを腹八分目で止めるようにしたりと、ちょっとした変化ですがこの生活習慣が変わることでその人の人生の癖もまた変化し生き方が変わっていきます。

生き方が変われば自ずから働き方も変わりますし、逆に働き方から変えていくことで生き方を変えることができるものです。それを分けて考えて、生き方はそのままでも仕事だけはなんとかやり過ごそうと思ってもその人の習慣が変わっているわけではありませんからその癖によってまた仕事にも影響が出てしまうものです。

人生は生き方と働き方の両輪をどう実践によって一致させていくか、それは人生そのものを本来の目指す理想や本来の目的といっ初心に近づけるために必要なことです。理想や初心がないのなら、習慣を変えてまで自分を変えようとはしなくてもいいのですが、今までの生き方がその理想や初心に反する習慣を身に着けてしまっているのならばそれを新たな習慣で上書きしていくしかありません。

習慣は第二の天性とも言いますが、習慣が変わらないのに自分の生き方や働き方、考え方や行動の仕方が変わっていくことはありません。習慣を変えるというのは、自分の生き方を見つめる一つのバロメーターです。習慣を変えることを恐れる人は、今までの生き方を変えることを恐れる人です。

変わろうと決めることがあったなら、それを実践に換えて粛々と習慣になるまで継続したものだけが新しい人生を手に入れるのかもしれません。習慣と向き合うには、自分のパターンを分析しそのパターンを見つめそのパターンを変えてみると今までとは異なった感覚に出会います。その異なった感覚を持ち続けてそれが普通になるまで遣りきることができればその人は変わります。違和感があるうちは、まだ受け容れていない証拠ですから当たり前になるまで実践できるかどうかが生き方を変えるキーポイントなのでしょう。

周りが合わせてくれないと嘆く前に、自分が実践により生き方を変えたどうかを見つめることが自分を変えて世界を変えていく方法なのかもしれません。子ども達のためにも、悪循環を改善し好循環になるような新たな実践と習慣に取り組んでいきたいと思います。

先日、新潟にある「点塾」にて理念研修をしていただく御縁をいただきました。この点塾は、清水代表によると共同創始者である藤坂さんという方と一緒に「輝く点になろう、点をつくろう」それを点塾の理念の原点に据えて開いたリーダー育成の塾です。

「点」という字には深いこだわりがあり、すべては点からはじまる、そして点があるから線もでき面にもなる、その点が何よりも大切だということを教えてくださいました。

真っ新な紙に、点が入る姿を創造しましたがとてもワクワクする塾の名前だと改めてその哲学と思想の深淵に触れて理念に感動しました。

ここでは「教えない教育」を柱に、様々なワークショップやアクティビティ、その他の研修が行われます。これは私たちの実践する、「見守る保育」と通じていて、和の心と繋がっているように感じ終始居心地のよい場の中で、沢山の新たな気づきや発見をいただきました。

特に印象に遺ったのは、「和のファシリテーション」です。私たちはファシリテーターを「聴福人」と定義していますが、ここでは和のファシリテーションとはどのようなものかを再実感することができました。

日本の伝統文化のエッセンスを盛り込まれたり、さらに自然を上手く活用し、あるものを活かしながらそれぞれの表現を通して顕れたその人らしさを存分に楽しめ味わえる仕組みになっていました。

点が光るということがどういうことか、全体のシナリオを通じて清水代表の持つ人生観や生き方も感じられ、一人ひとりが輝く経営、リーダーシップはどういうものかということを再確認できました。

同じ理念を持つ方々との合同研修は大変有難く、御互いに貴重な気づきを交換できて学びが深まるだけではなく学びが高まっていく実感がありました。巡り合わせの仕合わせを実感しつつ、同じ志、同じ義憤を持つからこそ、道の大義を盡していくぞと心を新たに覚悟が深まる有難いお時間になったように思います。

生きる力はそれぞれの点の中に具わっている。しかしそれを活かすかどうかは、その人の生活の仕方、つまりは生き方の中にあるともいえます。教えられ詰め込まれた教育の中で減退した自然の本能をどう呼び覚まし、これからの激動期を乗り越える力を引き出していくか、子どもの可能性を信じて次世代が次の世の中で如何にいのちを輝かせていきていくことができるか。これはかの吉田松陰の松下村塾でも同じ理念下で塾生を育成し挑戦してきたことです。

この世に教育があるのは、いのちを輝かせていくチカラ添えを与えるためです。子ども達が光り輝く点になり、あの星々のように夜空に瞬き煌き美しく流れていくように私たちも引き続き理念の実践を強く発揮していきたいと思いました。

ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。

 

=個々をどう輝かせるか、それが点塾

不便を愉しむ

今の時代は何でも便利になってきました。不便なことを嫌い、不便を悪とさえみなし不便を遠ざける生活を送っています。しかしこの不便というものは、実は生きる力に深くつながっていて便利さの中にいるというのは生きる力の減退になっていることに気づかなくなっているものです。

そもそも不便というのは思い通りにならないということです。人生は思い通りにいくだけの人生などはありあせん。時には順境、時には逆境、どちらかといえば理想や夢を抱き追い求める人生を歩むならそのほとんどは試練や苦労に包まれるものです。 そんな時、何でも思い通りになる便利な生活は果たしてその人のもともともっている乗り越える力や立ち直る力、つまりは生きる力を高めているかということです。

その人の生きる力というものは、その人がどんな人生であっても自分らしく主体的に自分の脚で力強く歩んでいくかどうかという力です。

昨日のブログのコメントで、高村光太郎の「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」がありましたがこれはどんな道で歩んでいくという生きる力、人間の持つ生命力や本能でいることの大切さを伝えてきます。

そういう人間の生命力や本能は「不便を味わい楽しむ」ことで磨かれていきます。不便だ不便だと便利さを追い求める前に、不便であることの方が自分の生きる力が磨かれ、そしてその状態が愉しめているのならその人は逞しい人になっているとも言えます。

今の若い人たちや今の時代の人たちがなくなったといわれるものに「逞しさ」がありますがこれはすべて便利さの中で失われたものです。

不便を愉しむ心があるのなら、どんな逆境でも乗り越える強さとやさしさが身に付いているように思います。 思い通りにならないことを嘆かず、むしろ思った以上のことが起きているのではないかとワクワクドキドキと歩んで往く姿にこそ道を歩んでいく尊い生き方がきらりと光り、子ども達の憧れる大人の背中になっていくのでしょう。

敢えて不便さを与えるという古来の仕法で新たなロードマップと結び付けていきたいと思います。

誠道常脚下開在

本質を保ち、真実を実践するというのは他人からの誤解を多く招くことがあります。本来は世間一般の常識に合わせて、誤解されることを憚りうまいことやっていくという方法もありますがそれがもしも誠実ではないと思うのならばそういう生き方が次第にできなくなるものです。

自分がどう相手に思われようとも、自分の真心を盡す生き方というのは簡単には分かってもらえるものではないのかもしれません。そんな時、なんでこうなるのだろうかと自己嫌悪になることもありますが自分の真心や素直さに嘘がなければ天が分かってくれるだろうという境地に入ります。

昔、維新の志士たちはみんな同じような思いを抱いて歩んでいたように思います。「世の人はわれを何ともいわばいえ 我がなすことはわれのみぞ知る」という詩であったり、「世の人はよしあしことも言わば言え しずか誠は神ぞ知るらん」であっても、己の中にある誠実さに対して恥じていないかをモノサシにしました。他にも、「志を立てて、以って万事の源となす」、「他人を相手にせず天を相手にせよ」とも言いました。どの時代も、誤解をされようが自分の真心を貫いていくことは志を抱き生きていくために篩にかけられる試練の一つであろうと思います。

しかしそうはいっても人間ですから、人間関係での誤解というものは苦労も多く、親しい人や身近な人の誤解にはまいることもあるものです。そういう時は、同じような生き方をする同志や道を歩んだ先達や師のことを思い返します。そして私は曾子の「三省」のことをいつも思い出します。

そこにはこうあります。

「曾子曰く、 吾れ日に吾が身を三省す。 人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習はざるを伝へしか」と。

相手からどう誤解されようが、自らの心に真心を訪ねて常に内省し続けた曾子の生き方に共感し、常に自らが愛する人たちすべてに対してどうあるべきかと問い続けていけばいいのです。大切なことは相手によってころころと態度を変えて自分を守るのではなく、相手によらず自分自身の真心を盡していくことと、それを遣りきることでいつの日かその誠意は伝わる日もくるように思います。そしてそういう生き方を貫く人には必ず仲間が顕れ孤独になることはありません。

道を歩んでいくということは、誤解されるということはつきものです。

最後に道を歩むことを忘れないために発奮していくときに思い返す言葉があるので、同じような思いをする同志はぜひこれによって誠を盡してほしいと思います。

「自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。

どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。

広いときもある。狭いときもある。
のぼりもあれば、くだりもある。

坦々としたときもあれば、
かきわけかきわけ汗するときもある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、
思案にあまるときもあろう。
なぐさめを求めたくなるときもあろう。

しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。

いま立っているこの道、
いま歩んでいるこの道、
とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられている
かけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、
思案にくれて立ちすくんでいても、
道は少しもひらけない。

道をひらくためには、
まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは
必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。」(松下幸之助)

与えられた道を迷わずに歩み切る中にこそ、真実の「信」があります。道を信じる心が天に通じるとき、至誠となります。至誠を盡して信じて歩むことを已めず、必ずや真心が通じる日がくることを念じて粛々と実践を続けていきたいと思います。

閒と闇

稲刈り後、稲架をし天日干しして三週間が過ぎました。稲もいい感じで乾燥し、これから脱穀に入ります。種まきから稲刈り、そして天日干しまでを通して行っていると不思議に心が安心するものです。

これは太古の昔から、私たちが食べるものを確保できた安心だけではなくそこに暮らしを感じる「間」があったからのように思います。自分たちが今まで何と一緒に暮らしてきたか、そういうものを忘れるということが何よりも残念なことであろうと思います。

文明が発展し、都会の生活ではネオンは明々朝まで照らし、食べ物は余るほど豊富にあり様々な機械や仕組みによってお金を用いてはスピードが上がり経過も結果も都合よく便利に変わってきました。しかし、その一方で「暮らし」はどんどん消え失せ、本来、人間らしいものを感じる「間」が取り除かれ忙しすぎて間抜けな状況になっているように思います。これら「間」については様々な研究がされてきて、建築から芸能まで幅広く活用されていますがその間にも定義がありますから、その間をどう定義するかで考え方も少しズレてくるようにも思います。

本来、「間」という字の語源は門構えに「日」ではなく門構えに「月」という字でした。「閒」の字は、門を閉じてもその隙間から月明かりがもれてくるという様子が漢字になったものです。

夜に一家団欒で一日を振り返り、薄暗い部屋で囲炉裏を囲み静かに物思いにふけていく。そうしていると、闇の隙間から月明かりが差し込んできて心が清らかで澄んだ光によって周りが透き通っていく様子に私はこの「閒」を深く感じます。

この閒とは、私にとっては異種異別、陰陽動静のものが一体に合間することであり、それはバラバラだったものが光と闇によって解け合うことを定義しています。今の時代は直感や本能が惚けているからこの「閒」が抜けてしまったのかもしれません。

光に呑まれ目くらましにあい、心を失い忙しい時間に自分の欲求だけを満たして一時的な安心ばかりを追い求めたら、御互いに解け合う豊かな時間もまた見失ってしまうのかもしれません。・・・ゆったりと夜の闇の中で静かに古来からの炎を見つめる。そして虫たちや風の音に耳を傾け悠久の流れを感じ瞑想してみる。・・・そこには、流れている時間が緩やかに穏かになる悠久の刻の流れがあります。

自然を感じるというのはこれらの閒をどのように刻んでいるのかを実感する心を持ち、自然と一体になった暮らしに静寂を持つことです。

いのちが静寂を失うということ、それこそが間抜けな間違いになってしまうということです。

心の静寂はすべて自然の暮らしの中に具わっています。子ども達に譲っていきたい暮らしを見つめ直していきたいと思います。

自分自身の本心~本心の棲家~

人は自分自身との付き合い方が、他の人との付き合い方になるものです。どれだけ自分の本心に対して誠実であるか、そして正直であるかは周りとの信頼関係を結んでいくためにもっとも大切なことであろうと思います。

しかしこの自分自身というものをいつまでも分かろうとせず、自分を誤魔化してばかりいると自分の本心というものを見失ってしまうように思います。なぜ本心というか、それは心とは別に本物の心と書いて本心だからです。心と思っているものは実は思い違いで、本来の心は素直な自分のことです。

如何に素直になるかは、その人の自分自身との誠実な向き合い、そして感謝に根差した正直な対話によって顕れます。言い換えるなら素直でなければ本心とは出会えず、素直でなければ自分自身でもないということです。

かつて神道禅仏一体を究めた慈雲尊者が「もとよりも直ぐなる道をとやかくと思ふこころにまどわされ行く」と言いました。意訳ですが本来は素直であるものを、自分の価値観であれこれと惑うがゆえに道から逸れてしまうという意味だと私は思います。

そしてその和歌の中で私が好きなものに「心」についてこう詠まれます。

「心とも知らぬこころをいつのまに我が心とやおもひ染めけむ」

つまりは心は自らの本心を知らないうちに勝手に自分の心を別のものにしてしまうということです。それだけ人は素直でなければ己自身を知ることはなく、結局は我執や自分の頑なで狭い価値観の中で勝手気ままに良し悪しを決めつけては物事の道理や本質を見失ってしまうということでしょう。

誰しも自分の本心を見つめるならばあまり我を張らない、つまり頑張らずいつまでも頑固に自分の価値観を周りに押し付けないことです。その上で、我を立てずその我を倒して順縁変化を愉しむことで次第に自らの本来の姿、本心がどうなっているのかに気づけるようにも思います。しかしそれでもなかなか気づけないのが自分自身の本心ですから、我を張らず本質的で実践を続けているような道の信頼できる人の話を素直にちゃんと聴くことができるようになることが最初の素直の入口なのかもしれません。

そして自分の今いただいている御縁を、「自分にもっとも相応しい」と感謝できるのはその御蔭様に気づけるからです。自分が”なにものか”を己事究明するとき、自分がどれだけ見守られて御蔭様の中で生かされ今があるか、自分が偉大な恩恵によってできているかが自明してくるはずです。それを自覚とも言いますが、自分のカラダをはじめ環境や出会い、御縁すべてが有難い”なにものか”によって与えられていることに気づきます。その真心と感謝に出会うからこそ報恩といって、その御恩に報いたいと自然に願う心が本心の棲家であろうと私は思います。

慈雲尊者は、十善という自戒を立てて実践をなさっていましたがそれぞれに人は本心が観えなくならないようにそれぞれに恩送りや恩返しの日々を歩んで素直に磨きをかけて精進していく必要があるように思います。何をするにもまずはじめに理念や初心を忘れないのはまずその我執に気づけるかどうか、本来の姿に戻ってこれるかどうかのキッカケに過ぎません。そのあとは、やはり十善のような実践を積み重ねていくことで我が立ちすぎないように謙虚に学び直しを続けていくことが最善のように思います。

最後にその慈雲尊者の「十善」を紹介して終わりたいと思います。

第一 慈悲、不殺生戒

第二 高行、不偸盗戒

第三 浄潔、不邪婬戒

第四 正直、不妄語戒

第五 尊尚、不綺語戒

第六 柔順、不悪口戒

第七 交友、不両舌戒

第八 知足、不貪欲戒

第九 忍辱、不瞋恚戒

第十 正智、不邪見戒

子ども達に譲っていく生き方に照らしつつ、自分自身の心を静かに見つめて精進していきたいと思います。