個性=人間性~助け合う社會のために~

個性というものについて昨日も書きましたが、個性は人間性を優先するためになによりも大切なものです。人間性が個性ですから個性を排除するというのは人間性を排除するということです。人間がロボットやゾンビのようになるのもまた、その個性を排除することで行われていきます。

個性とはその人そのままの姿ですから、それをみんなと同じにするというのは個性を否定するということです。人間は自分得意不得意がカラダにも出てきていますし、顔にも、性格にも、特長にも表れて出ています。それは観方によれば、それを活かして使ってほしいというアピールでもあるのです。それを長所ともいい、その長所を伸ばしてあげることで人はみんな役に立つ仕合わせに出会います。仕合わせとは助け合いの中で得られるものですから、自分の長所が皆に喜んでもらうことほど自己実現できることはありません。

そしてそれは周りが個性を発見、発掘することも大事ですがその本人が個性を出していかなければ周りに貢献していくことが難しくなります。長い時間をかけて個性を否定される教育を受けてきたり、自分自身で個性をなくしていくような生き方をしてきたら自分自身に気づかずに新しい自分にも出会えません。

それではどうやって個性を引き出すかということです。

それは「己に克つ」ということです。人は自我欲を乗り越えて、自分都合を度外視して私的な自分を手放して己の目的や信念、初心、理念を優先することで己に打ち克つことできます。そうやって己に打ち克ち続けることで次第に個性は磨かれて発揮されていくものです。個性が出てくれば、次第に周りがその個性に自分の個性を合わせて協力していくことができるようになります。

個性は己に克った集積により磨きだされていきます。世の中で活躍する人たちや、貢献していく人たちはみんな個性が突出しています。そしてその全ての人たちはみんな「己に克つ」ことができている人です。個性が人間性であり、個性を磨くことが人格を磨くということはそういうことです。

人間は生まれながらに唯一の個性をもって産まれてきます。それは指紋が一人として同じ物がないように、顔が同じ顔がないように個性を何よりも尊重します。その個性を尊重することが本来の「人権」であり、それは単になんでも私物化する自分の権利のことではないのです。

だからこそ人権を尊重するために、産まれてきたままの異なりを否定せずに認めることが子ども一人ひとりの発達を尊重するということになるのです。私たちの提案するミマモリングプラスというのはそういう哲学と思想、実践の中から開発されてきたものです。

個性豊かな仲間たちを増やして、百花繚乱の美しい思いやりのある社會を子どもたちに譲っていきたいと思います。

本元の味

昨日、ある方にお会いすることができました。ずっと以前から知っている方でしたが、ご縁はいつも不思議で「場・間・和」の織りなす今のタイミングをいただけます。あの頃ではお会いしても全く分からなかったと、今、過去を振り返れば思うものです。

自分が通ってきた道の延長上にいらっしゃる方とのめぐり会いというのは、自分が通っているからこそその存在の価値を認識し、まるで過去と未来が回転します。

改めて道縁の素晴らしさに感謝するばかりです。

人は無意識ですが、風土の魂が宿るのではないかと私は思います。その風土とは、この私たちの住まう土地のことですがいつもそことつながり結ばれているのが私たちのいのちのように思います。

だからこそその自然の中には風土の魂ともいい、そういう人物のことを大和人と呼ぶのかもしれません。私自身の中に流れるその大和魂との邂逅も、道縁によって顕現してきます。

昨日は、ワークショップについてや様々な西洋からの教育手法についてのお話を拝聴することができました。この方の素晴らしいのは西洋から来たものを自分で美事にアレンジし、自ら風土に合うように仕上げていくところです。それはまるで海外の料理を、日本人が日本に合うようにアレンジしまた世界に返り咲かせるかかのように日本の和の精神を存分に取り入れたものに調理していきます。

私が目指した味付けをもう随分と先に現場で実現されており、ただ感動するばかりでした。なぜそうなるのかと内省するとき私が直観したのは、そこに「師弟一体心の境地」を感じました。

これは、日本の職人文化に似ています。師が全身全霊で弟子のことを思い、弟子も命がけで師を思う、その間、まるで自他一体の真心で智慧を受け継ぎます。そのようにして様々なことを結和させたのではないかと、これは智慧の感得力です。

そういうそもそも別であるものを自分のものにしていくチカラというのは、風土の魂や和の心が存分に発揮されたものではないかと私には感じます。そしてそういう人だけが「本元の味」を知っているのでしょう。本元の味を知るからこそ、様々な文化を含有でき異質なものを融和させていくことができるように思います。

本元の味が分かる人物に出会えるというのは、本当に仕合せなことです。
御蔭様の御引き合わせと、めぐり会いに心から感謝しております。

子ども達の未来のためにも引き続きこの縁起と学問を味わい楽しんでいきたいと思います。

地球人財の資質~日本古来の心~

昨日、グローバル人材の資質と実力とは日本古来の心という書き方をしました。これは脈々と古来の親祖から私たちに受け継がれてきた伝統文化とも言ってもいいかもしれません。

私たちはこの日本の風土に活かされ、その風土に見合った様々な伝統を道を実践する中で磨き上げてきたとも言えます。それぞれの国にはそれぞれの風土があり、先人たちが智慧を結集して子々孫々へと資質と実力を譲り渡してきたものが私たちに具わっています。

それは生き方や思想とも言っていいのかもしれませんが、太古の昔からどんな暮らしをしてその暮らしを伸ばしてきたかということです。しかし今は、その暮らしが経済優先の便利な社会構造の中で次第に失われてきているようにも思います。

私たちの伝統文化というのは、身近な職人さんたちや生活の智慧の中に籠められてきました。子どもの頃からその古来からの伝統文化を見ながら、日本古来の精神や思想を身に着けていくことで文化の本質を理解していたのでしょう。

これから国際的な交流はますます増え、いよいよ子どもたちが地球人財として活躍していかなければならない時に、如何に異文化に対する理解を高めつつ、異なる文化をもつ人々と協調していけるかは今の教育環境にかかっていると思います。

自分たちがどのような民であるかを知ることは、相手がどのような民であるかを知ることに繋がります。世界では風土と融合して発明された様々な文化が存在しています。その文化をどうまた融和し合い、互いの相乗効果を高めて尊重して組み合わせていくかが異なりを活かしあい助け合うためには必須の力になってきます。

日本古来の智慧を学び直すことは、日本古来の心に触れることです。

それは私たちの先祖がどんな初心で国造りを行ってきたかという理念と経過をかつての暮らしの産物から学び、その真心をカタチにすることです。

世界ではすでに活躍する日本人が沢山いますが、そのどれもが根底には自分たちの風土の文化をしっかりと身に纏い、そのアイデンティティを持って新しいことに挑戦しています。自分のルーツや自分が何をしたいのか、その初心を持つことで世界はその人をその風土文化の真心の体現者と認めるように思います。そしてそういう人たちが集まってくるからこそはじめて世界は一つの中で互いの異なりを活かしあい真の平和を創造していくことができるように思います。

私が考えるこれからのグローバル教育とは、「異なることを理解し、一緒に協力する意味を教える。」ことではないかと直感しました。それは今の社業で時間をかけて行っている自然に学ぶこと、発酵や稲作にもつながっています。

どんなに時代が変わっても自分自身の生きる願いの中に、先祖たちがみんな生きています。世界はこれから急速に近づいてやがて一つになっていくでしょう。今、私たちが子ども達のために観直していくことはやはり暮らし、生き方の方からです。

先祖を敬い、先祖を慕い、日本古来の心を学び直していきたいと思います。

真の強さ~人類の目的~

先日、ある人と話をする中で強くなることについて考える機会がありました。

強さについての定義はそれぞれで異なります。それはヒーロー願望などもそうですが、そのヒーロー像もそれぞれです。例えばドラゴンボールのように、常に自分ばかりを強くして自分をバージョンアップして強化していくヒーロー像もあれば、ワンピースのように仲間たちと一緒に強化していくというヒーロー像もあります。

先日、ドラゴンボールで強い敵と戦うときに、主人公の孫悟空は仲間と一緒に戦うよりも一人で戦いたいからともっと強くなりたいといって一人で出ていきました。そしてライバルのベジータもそれでいいとし、自分も一人でやりたいと言いました。この物語は個人の最強を目指しているのです。それに対してワンピースの強さは全く異なります。ワンピースは自分たちの生き方とその絆や夢を生きるファミリーを守りたいわけで最強を目指しているのではなく、仲間たちとの物語そのものを大切にしているのです。

集団や組織で圧倒的な主人公でいたい場合はドラゴンボールを目指すのでしょうが、それぞれが主人公でいる場合はワンピースではないかとも思います。目指す姿も異なりますから、自分が好きな方を選べばいいのですが目的が異なる場合は別の番組を選択してその人がそれぞれに強さと求めればいいのではないかと思います。

しかしこの強さという言葉は、昔から”我が強い”という言い方もあるくらいですから強いというのは我がとても関係しますから真の強さがある人は弱さも強さも受け容れる人になっているのですからきっと無我の境地ということなのでしょう。人間は何のための強さであるのかを省みるとき、誰かのためにの志が偉大であればあるほどに真の強さに近づいていくように私は思います。

私の思う本当の強さとは仲間との信頼です。

なぜならそれが人間の意義だからです。もちろん自分に克つことは自分自身との向き合いですが、社會で克つためには仲間たちとの協働が必要です。人間は社會をつくる生き物ですし、人類は如何にいのちを次世代へと存続していくかが最大の使命ですから本質的には信頼をカタチにして多様化していくことでそれを実現してきたのでしょう。

最後に私が子ども達の未来を思う時、とても示唆がある言葉があります。この言葉がきっとその人らしさを引き出し、子どもたちが安心して自分らしくいきていく道にたどり着くのではないかと思います。これは若い頃、私の人生の価値観を変えた「7つの習慣」の著者、スティーブン・コヴィーが語ったものです。

「強さは、似た者同士の中ではなく、多様性の中にこそ存在する。」

志に従って理念をカタチにして、子どもたちに勇気を与える存在のままでいたいと思います。人類の成熟した未来にあるものが何か、それを見守り続けていきたいと思います。

力の出し入れ~生き方を省みる~

昨日、力を抜くことについて深めてみました。力が抜けているというのは、自分らしくいること、つまりは自分がどうありたいかという自分の生き方の方を優先する自分でいられる状態になっていれば力もまた抜けるということです。

そもそも力というのは何のためにあるのかということです。

力もまたお金と同じように使い道の問題のように私は思います。その力を何のために使うかでその力の価値が発生していくように思います。その力をいつも自分のためだけに使う人、その力をいつも誰かのために使う人ではその力のつき方もまた変わっていくように思えるからです。

私はどんな時に力が出るかと自分を省みると、いつも誰かを思いやって使うときにこそ最大限に発揮されるように感じています。逆に自分のためにやるときは、余計な力が入るだけであまり力が存分に出ている感じにはなりません。この力はお金にも似ていて、貧乏神が自分のためだけにお金を使っているのに対して、福の神はいつも誰かのためにとお金を使っているのと同じように思います。つまり何のために使うのかということがはっきりしているかどうかです。

そして力の使い方とは、常に自分自身の執着が関係しているように思うのです。

私が思う力が出るという、この「出す」技術というものは、思いやりに出すことや、誰かのためにと感謝で出すことではじめてなんでも出てくるように思います。言葉もそうです、よくよく自分や他人の言葉を聴いて観ていたら何の言葉が出ているかでその人の思いが出てきます。「ありがとう」や「おかげさまで」、「たすかったよ」とか「すばらしい」とか、「すごいじゃないか」なとといつも人を励まし信じるような言葉が出ている人はその心は「思いやり」が出ているのです。

逆に余計な力が入っている人は、これらの言葉が出てきません。黙っていたり、文句を貯めこんだり感情をイライラしたり、もしくは周りに矢印を向けていたりと、なかなか言葉に出すこともなくそれが出たときには先ほどの言葉と反対のような不平不満不足不信が出てくるものです。

この「出す」ということをどう出すかでその人の生き方が出てきます。思いやりのために出そうとするか、自分のためだけに出そうとするかはその人の生き方次第です。

力の出し入れ具合にはその人の生き方を省みるキッカケになります。力を入れるときは自分を信じること、力を出す時は人を思いやることと、力を大切に使わせていただける自分でいたいと思います。

 

希望とは何か

昨日、サミエル・ウルマンについて深める機会がありました。私が20歳の前半のときに詩集の「青春」にめぐり会い、大きな勇気をもらったことを思い出しました。松下幸之助氏の著書の中で自分の座右の銘として紹介されていたその時の詩の印象から青春の真価を再確認したことを覚えています。

もともとこのサミエルウルマンは、ユダヤ人でアメリカで活躍した実業家です。その当時、社会的弱者でもあった孤児、女性、黒人、労働者の救済運動に生涯を捧げた方だったそうです。この詩は、サミエルウルマンが80歳の誕生日に自費出版した詩集の中にあったものです。

日本でこの詩が翻訳され広がったきっかけは、アメリカの連合国司令官だったマッカーサー氏が座右の銘にしていた詩で、執務室に掲げられ日々に内省していたものを日本フェルト工業統制組合専務理事の岡田義夫氏が感動してそれが友人ずてに伝わり松下幸之助さんが紹介して今に至るようです。社会的閉塞感の中で、心が病んでいる人たちがたくさんいる今の時代だからこそ、もう一度この詩の必要性を感じました。ちょうど、この詩が広がったときも終戦後の暗くつらい時代でした。

「青春~YOUTH~」

「青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。

若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
安易に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。

人間は年齢を重ねた時老いるのではない。
理想をなくした時老いるのである。

歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。

悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。

六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬
夜空に輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛
何かに挑戦する心
子どものような探究心
人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。

人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、
美しさや喜び勇気や力などを感じ取ることができる限り、
その人は若いのだ。

感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、
人間は真に老いるのである。

そのような人は神のあわれみを乞うしかない。」

希望とは、心の持ち方を変えることです。そして心の持ち方を常に変えることができる人は、人生において一生涯好奇心を捨てることはありません。最初は光輝く子ども心も、社會の中で次第に曇りそのうち光らなくなっていくものです。それを磨き続けていくことで、光り輝く心を取り戻すことができる。

それを私は「希望」と呼び、「青春」と定義しています。

人生において絶望とは、生き方を見つめる最大の転機です。その転機に関われることこそ教育の醍醐味ではないかと改めて実感しました。これから、新しい道に同行しますが面白くワクワクするご縁をいただけたことに感謝しています。

私もその一人として絶学を継ぎ、心の世界を創造し青春を謳歌しつつ希望の詩を仲間と一緒に唱和していきたいと思います。

人財教育の王道

人間は理想と現実の間に今を設け、今を見つめ向き合うことではじめて今に存在することができるように思います。妄想ばかりをいくら増やしても、現実は変わらないのですから実行していくしかありません。

昨日、鹿児島に入り維新館を見学する機会がありました。ここ薩摩は、古より教育を何よりも重んじる風土があるような気がします、昔から「島津にバカ殿なし」と呼ばれるようにここには郷中教育をはじめ様々な人財育成の仕組みが文化として継承されているように思えるからです。

その郷中教育の中で、日新公いろは歌というものがあります。これは物心つく前から毎日唱和しからだに沁みこませてきた歌です。そこのはじまりの「い」にはこうあります。

「いにしえの道を聞きても唱えても わか行いにせすは甲斐なし」

(古来から言われてきたどんなに素晴らしい道を聞いても語っていても、自分で実践して行わなければ何にもなりません)という意味です。

そして「ろ」にはこうあります。

「楼の上もはにふの小屋も住人の こころにこそはたかき賤しき」

(どんなに立派な御殿に住んでいる人も粗末な小屋に住んでいる人もそのことだけでは人間の価値は判断できない。要は住んでいる人の心の気高さが重要なのだ)とあります。

今回は「は」までご紹介しますが、そこにはこうあります。

「はかなくも明日の命を頼むかなけふもけふもと学ひをはせて」

(人間明日のことは予測がつかない。勉学修行を明日にしようと引き延ばし、もし明日自分が死んだらどうするのか。今その時その時に全力投球せよ。)と。

この「いろは」だけでもこの言霊の濃さと重さです。これは島津中興の祖である島津忠良が5年の歳月をかけて郷中教育の基本として定めたものです。この出発点であり原点が今の薩摩の人財をいまだに育てているのではないかと思います。

なんだか今回のご縁に何をすべきであるかを直感するものがありました。出発点や原点を思うとき、今までのものを毀す勇気が今にこそ必要のように思えます。そんな時は「今」を奮い立たせる勇気のある詩に励まされるのも人間のように思います。

最後に京都大徳寺大仙院の尾関宗園さんの詩を紹介して終わります。

「今こそ出発点」

人生とは毎日が訓練である
わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である
今この幸せを喜ぶことなく
いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう
わたくし自身の将来は
今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る

普遍的な道の上にこそ人財教育の王道があると確信できました。

ありがとうございます。

個性~人格形成~

人はそれぞれ生き方があり、個性も異なりますから、その顕し方も人それぞれです。しかしその個性は比較する中で出てくるものではなく、その個性は人格が磨かれてくる中で顕れてくるものです。なぜなら本当の個性というものは、そのものが何よりもそのものとして在るときにはじめて出るからです。

よく誰かと比較して個性があるやないとかいいますが、実際は組織や集団に入る中でその人の個性は引き出されてくるものです。一人では個性とは言わないように、集団の中で個性は出ます。その時の個性は、集団の中でのその人の役割のようなものです。しかし本来の個性は、その人が思いやりや真心で全体のために自分を活かした時こそはじめて発揮されているように思います。

そしてそのためには人格を磨き人物となっていなければ個性を修めることができないのです。周りに合わせるのではなく、自分を修めるという発想が個性を存分に発揮するには必要のように思えるからです。

論語に十五にして学を志、三十にして立つ、四十にして惑わずとありますが、少年期は志を立て、青年期には自分を試しあらゆる挑戦をし、中年期には自力を発揮するようにそれぞれがそれぞれの年輪で自らを磨き修めることが世の中で自分を発揮していく道だと述べているかのように思います。

今の自分がみんなのためにできることを発展させてそれを広げ膨らませていくことで本当の自分自身に出会うということでしょう。そして同時にそれは自らの人格を育てて自分をつくり上げていくということです。

東井義雄さんに『自分は自分の主人公』という詩があります。

「自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして 自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。」

自分は自分の主人公、世界でただ一人の自分を創っていく責任者という言葉は、個性とは自らで磨き上げていくものであるということを伝えてきます。自分に打ち克つというのは、誰かに打ち勝つよりも難しいことです。常に自分との調和融合を実現し、平常心を身に着けることで人は自分らしく自然体でいれるようになるのかもしれません。

畢竟、個性を大切にするというのは、人格を尊重するということです。自他一体に人格形成を優先して大事にしていきたいと思います。

ゼロベース~体内時計~

今の世の中のことを知ろうとするとき一つは知識を増やすことによって得られ、もう一つは知覚を澄ますことで得られるように思います。そのどちらも自分という刷り込みを破るためです。今の私たちは自然の叡智に触れて自然の叡智を可視化して自分たちのものにするために知識を得ましたが、同時に自然の叡智の切り取った一部しか視なくなったとも言えます。

様々な叡智を可視化し分けてしまうことで分かれてしまったのは叡智そのものの自然から離れた人間の方かもしれません。そもそも分けてしまっているのですから、一度全ての知識を御破算にして無分別智のところ、つまりゼロベースにしてみないとこの世の基本ともいえる自然を丸ごと理解することはできないように思います。

このゼロベースというのは、例えれば動物の体内時計で自然を理解するのに似ているように思います。ニワトリや猫、犬、その他すべての動物たちは自分たちの体内に時間を持っています。朝になれば朝を知り、春になれば春を知る、新しい仲間も、古い仲間も、生死のめぐりでさえ、体内時計に従います。その彼らの時間は、まるで宇宙のように悠久と矛盾が絶妙に調和して無のようです。

よくよく観察していると、彼らには時間もなく今があるだけです。この今という時間の中には、妄想もなくそのままの宇宙があるように思います。そういう流れて流れない時間の中で、永遠を感じることができるからこそ、その魂をいつも全うすることができるように思います。

魂への刷り込みは、この世の美しさも奪い、この世の真心も穢すように思います。私たちは新しいものばかりを詰め込みますが、本来の古代からの古いものも同時に詰め込めばいいものを古いものは価値のないもののように切り捨てていきます。ここに人間文明の深い問題があるような気がしてなりません。

魂は温故知新することで、あの宇宙の星々のようにいつまでも光り輝くように思います。

英国の詩人、ウィリアムブレイクの「無知の告知」の冒頭に有名な詩があります。

「To see a World in a Grain of Sand  一粒の砂に世界を見、
And a Heaven in a wild Flower  一輪の野の花に天国を見る
Hold Infinity in the palm of your hand  手のひらに無限をつかみ、
And Eternity in an hour  一瞬のうちに永遠をとらえる 」

私の意訳ですが、一粒の砂は土の姿であり、一輪の野生の花は自然のいのちです。その手には悠久が顕れ、時を遡り時は超越されるという意味なのかもしれません。

ゼロベースで感じるご縁とつながりの中で、魂は存在するのかもしれません。詩には不思議な力がありますが、その詩を学ぶとき、詩の中で伝えようとする真実が観えてきます。

詩こそ体内時計のゼロベースで詠う自然の声色なのかもしれません。あの動物たちや植物たち、虫や魚、あらゆる自然界の歌声に詩を感じます。詩を学び、自らゼロベースでいることから自然を取り戻していきたいと思います。

 

後の先~正直に向き合う~

先日、ある食事会で向き合い方についての議論がありました。それは向き合う姿勢そのものについて向き合うという話です。人は向き合うことで自分を知りますが、同時にどのように向き合うかでそれまでの自分ではなくはじめて本当の自分に出会うとも言えます。

人生は自分の身に起きる出来事に対して、自分自身が都合で歪めずどれだけ素直に選ばずに現実を受け止めていくかというのが人生の修業のように思えます。自分の実力を知り、自分を育てていくのも、素直さがなければ難しいように思います。

例えば人生に起きる出来事は全て必然だと受け止めることができるなら、その後に「選ばない」という覚悟が生じるからです。そして選ばないと決めるなら、自分には合っているとか合っていないとか迷うのではなくそのままそれはもっとも今の自分に相応しいと正直に受け容れられるのです。そうしたとき、はじめて今の自分の本当の役割や天から与えられている使命に気づくことができるようにも私は思います。

横綱白鵬の話に「後の先」という話があります。これは相撲では相手より一瞬あとに立ちながらあたり合ったあとには先をとっている相撲の立ち合い方です。これは言い換えれば全て受け止めて打ち克つという戦法のことです。

その横綱の白鵬の日経新聞のインタビュー「基本はぶつかり稽古」と題する中でこう書かれていました。『全身砂にまみれ、土俵に倒れ込んで動けなくなる。兄弟子の竹刀が飛んできても、反応する力さえ残っていない。口に塩を突っ込まれる。最後にバケツの水がザブン。これを荒稽古というのだろう。「1日3回泣いてた。ほぼ毎日ですね。稽古場で2回、夜寝る前に1回。稽古が苦しい時、泣いて。終わった後先輩にお前のためだからって慰められて泣く。夜は、明日また稽古始まるんだっていうね。自然と涙が出てくるわけ。ふとんでね。でも当時やってたことが、今生きてるわけね」』とあります。

今でも白鵬はこのもっとも苦しい基本のぶつかり稽古を欠かすことはないと言います。

後の先の本質とは、この基本の向き合うという素直な姿勢をどこまで徹底するかが重要なのではないかと私には感じます。現場というのは相撲の土俵のようなもので、常に真剣勝負です。その人生においての現場の場数をどれだけ逃げずに真摯に素直に謙虚に向き合うかというのは、自分の心がけを見つめれば向き合うことができます。

どの状況であっても真心を籠めることも、命懸けでやりきることも、それは常に人生の稽古である信じているからです。年齢は関係ないといくらいってもまだ若干29歳の白鵬の土俵での立ち合い方から私たちは日本人としての大切な心「正直さ」を学び直すことができます。

どんな相手であったとしても、どんな場面であったとしても、どんな機会であったとしても、自分自身が素直に謙虚に向き合って真摯に正直に実践し自らを磨くことが理想を追求するという姿勢と心がけなのかもしれません。

やっていることは異なっていても、目指すその姿から勇気をいただけることが沢山あります。同じ時代でそれぞれの分野で生き方のモデルがいることは、道を歩む仲間がたくさんいる有難さです。未熟さを痛感することばかりですが、修行できる有難さに感謝し、日々の土俵に対して選ばずに基本を崩さずに精進していきたいと思います。