観察眼~心の実力~

外は急に寒くなり、雪も降って冬景色です。

動物たちは小さく丸くなって寒さをしのいでいますが、人間は数々の暖房器具、防寒衣服に包まれてぬくぬくとしています。

今は水も水道をひねればすぐに出てきますし、火もガスコンロを回せばすぐにつきます。また空調によって室内の温度も自由に調整でき、食べ物はコンビニに行けば何でも買えます。調べたいものがあればインターネットで検索できるし、買い物もボタン一つで購入しそれがすぐに自宅に届きます。暇があればテレビをつければ娯楽番組が流れますし、音楽だって聴きたいものはすぐにダウンロードできる時代です。人間関係も同じく、お金さえあればと面倒なことを避けて関わっている人も増えています。

少し羅列してみてもそこに何の不便さもなく、「便利」に囲まれて生きていると言っても過言ではありません。これらの便利さと引き換えに失ったものの本質は、じっくりと考えて物事を判断する観察眼ではないかとも思えます。

年越しに火を焚き、薪をくべ満天の星空を眺めながらゆっくりと思想に耽る時間がありました。昔の人たちは変化をじっくりと考える時間があり、物事の判断をとても長いスパンで検討して決断をしてきました。今は、情報化社会の中で何でも簡単便利に迅速に快適になることが何よりも優先されています。欲望を中和するような時間も持てず、目先の快楽のために精神が怠惰に流されてしまうのかもしれません。

観察眼とは、心を感じる力です。

心で感じたり、心で動いたり、心で取り組むという心の力、言い換えれば真心の実践を行うには観察眼がいるのです。相手と心を通じ合わせたり、全体のために心を配ったり、心を籠めて丁寧に接するというのは、そこに心が入っているのに気づきます。

心無いことをしたり、心を入れなかったり、心がけもなくなれば、頭でわかった気になり過去の知識からこんなものだろうと忙殺してしまいます。心は目には見えませんから気づこうとしなければあっという間に観えなくなるものです。心で観るという習慣を持つには、自分が心をいつも遣っていく生き方をしなければなりません。それはよく面倒くさいといって人が自分からやりたがらないことを敢えて自ら進んでやることでその観察眼が磨かれるのです。

森のイスキアの佐藤初女さんにこういう言葉があります。

「私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。「(おむすびの祈り 集英社)」

心を失い、心を遣わないでいるとすぐに人は不安になり不信になり自我感情に呑まれてしまうものです。平常心や心の平安は常に心を感じるから視野も広くなり絶対安心の世界に住むことができます。

観察眼とは手間暇の実践です、手間暇という心を遣うそのひと手間こその中に心が籠っているからこそ「実践」を蔑ろにしてはならないと改めて思います。「凡事徹底」という言葉も、心を遣い観察眼を磨く智慧の一つということです。

人間生活の中でいくら面倒と感じても御蔭様の心を持ってもうひと手間ができるようになれば心の実力が備わってきていると考えていいと思います。今年も、雑さを戒め、自然の精妙さと丹精をモデルにして心がけ、かんながらの道を求めていきたいと思います。

2015年のテーマ

昨年も本当に沢山の有難いご縁をいただいた一年になりました。毎年、当たり前ではない出来事に恵まれ、日々に充実するのは一日一日が最期だと感じているからかもしれません。

人生はあって当たり前のものではなく、勿体ないものです。今の自分が今此処にあるのはそこには由緒があります。これは単に私だけの人生ではなく、連綿とはじまりから今まで続いている人たちがあってその中に自分も居るのです。

先祖代々から今まで、数々の困難や苦難を生き延び、私にまでいのちをつないでくださった方々に感謝を思わない日はありません。今の私が存在するのは、本当に偉大な御蔭様で成り立っています。決して私個人で生きるのではなく、志古人に生きたいと願うばかりです。

子どもたちのために生きようと志した日からずっと、自分の生を何のために遣おうかと覚悟を定めてきた日々でしたがいつも感じることは、祖神祖先への畏敬と慈愛への感謝ばかりです。有難くいただいた一期一会のいのちですから、悔いのない日々を魂に応じて従いつつ信念をもって歩ませていただきたいと思います。

また今年も師とテーマを共有することができました。ご縁をいただいてから十二年の歳月、共に錆びずに磨き続けて道と学問を共有できるものをいただけるのは真心の為せることだと師の恩沢洪大に心より感謝の念が湧いてきます。

今年のテーマは、「時代に翻弄されず、初心を忘れない」ということです。

変化の時は近くを見ては酔ってしまうものです、そうではなく夢を持ち常に本質でいることを忘れないということです。単に頭で理解すると簡単な言葉ですが、実際は今までの毎年のテーマの総合力が必要でこれが分かるにはまた沢山の実践が必要です。

夢を持つからこそ人はブレずに一つにいのちを盡していけます。時代が変化の時こそ、夢に向かって真摯に自分自身と正対して独立自尊の努力をできるかが大切になってきます。

世界は次第に激動期に入ってきています。どんなに寒く凍ったような闇夜がきても、明けない朝はなく、太陽が昇らないことはありません。私たちは地球にいるいのちの一つですから万事転じて安心し、信じた福世かな時代に換えていくのみです。

常に初心を忘れずに人類共通の夢の実現のために自分自身の真心を盡し切ってつながりの中で篤く貢献していきたいと願います。

今年も天恩に対して謙虚に、人恩に対して素直に、仲間を愛し思いやり、同志を勇気づけ励まし、師を真心で援け、後輩を命懸けで導き、子どもたちを深く信じ、清く正しい心で社會を広く明るく照らせるように、自然の道、かんながらを歩ませていただきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

メンターとメンティ①~親切という生き方~

メンターという言葉があります。

これはギリシャのホメロスの叙述詩『オデュッセイア』の登場人物である「メントール(Mentor)」という男性の名前から来ています。このメントールという男性は、オデュッセウス王の友人でもあり、王の息子テレマコスの教育を託された賢者でした。

そのメントールは王の息子にとり、生き方や判断のモデルとなり、指導者、理解者、支援者といった見守る役割を果たした人物です。このメントールが英語でメンターと言われるようになりメンターの対象者が「メンティ(Mentee)」ということになります。私の主観ですが、日本では吉田松陰と高杉晋作のような関係や、細井平洲と上杉鷹山の関係もまたこのメンターとメンティの関係のように思います。

もともと人は一人でやっているようで一人でやれることはありません。その人が結果を出せるのは、その陰に見守ってくださるメンターたちがいてはじめて事が実現します。

何かあればいつもメンターが助けてくださっているからこそ、メンティは立派に事を成し遂げることができ、メンターもまたそれを支援することでその人自身が志を完遂するのを惜しみなく助けるのです。

もともとメンターというのは、困っている人を助けるような存在です。つまりは見返りを求めない親切さがあるものです。今まで私がお会いしてきたメンターもみんな本当に自分のことを実の息子のように可愛がってくれて惜しみなく智慧や励ましやアイデアをいただきました。

その御蔭様をもって今日があり、今日があるのはメンターとの出会いがあったからと断言できます。そしてメンターもまた、メンターがいて同じようにメンティでもあったのです。

人は生きていく上で、実践モデルは必要です。自分にすべてをさらけ出して命を懸けて大切なことを教えてくださる存在がメンターです。教わる方もそれを命懸けで学んでこそはじめてメンティとも言えます。

つまりはメンターとメンティは共に本気であること、同等の覚悟をもつもの、道を共にし志を同じくするものたちがそう呼ばれるのではないかと私は思います。

善いメンターに出会いたいのなら、善いメンティにならなければなりません。つまりはお互いが「生き方としてのモデル」になったとき、ホメロスの叙事詩に画かれるような素晴らしいご縁や出会いの物語に恵まれるのです。

親切にしていくこと、親切にされたことを周りへお返ししていく生き方がメンターとメンティを育て、そしてその両方が子どもたちがお手本にする生き方の実践になって学問の素晴らしさを伝え、世の人々との関係を好循環させていくように思います。

自分がメンターでもありメンティでもあるのだから、常に学問は命懸けで実践していきたいと思います。コーチングもカウンセリングもどれもこれも基本は親切心と真心ですから常に自分の魂に問い出会いを磨いていきたいと思います。

善い一日

日々は毎日、あらゆる出来事に満ちています。自分の主体性が失わなければ人は毎日新しいご縁と感動の中で生きているのです。自分を見失うのも自分、自分を取り戻すのも自分、どれだけ日々に好奇心を失わないように精進するか、そこに魂の磨きがあるように思います。魂を磨くというのは曖昧な感覚で捉えられるものがありますが、それは状況や環境に左右されずに生き切ることができるかということなのでしょう。

人生をどれだけ真剣であったかは何よりもその魂に影響を与えます。人が結果だけを見るのではなくその生き方ともいう経過にどれだけ真摯かは自分の使命の重要性を自覚するからでしょう。自分自身の自覚とは日々の過ごし方が決定づけます。日々を遣い切る、日々を出し切るように真心を絞り出す人の魂はいつも子どもの憧れのまとでありその周囲はいつも光り照らされて観えます。

先日、作家の三浦綾子さんエッセイに触れる機会がありました。その生き方や生き様から学ぶことが多くこのタイミングで有難いご縁をいただきました。

その中の言葉をいくつか紹介します。

「私たちは、毎日生きています。 誰かの人生を生きているわけではないのです。 自分の人生を生きているのです。 きょうの一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。 もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、 きょうという一日がどんなに貴重かわからない。」

どれだけ毎日を真摯に生き切るかは、どれだけ自分を誰かのお役に立て切ったかということです。全体のために自分を使うとき、人は自分の考えた一日ではなく自分に与えていただいた大切なご縁に気づきます。そのご縁に気づいたら人は、一日一生の気持ちで生きようと思うのです。死にかけてみてはじめてわかるのが生の有難さです。人はすぐに昨日の繰り返しや、過去から予想して一日を過ごしますが好奇心はそれでは輝きません。常に新しい一日であったか、常に感動と感激を発見しているか、ひとり慎む内省の時間によってそれを育んでいくのでしょう。

私自身も太陽が出てから最大の活動をし、太陽が沈んでから静謐な内省をすればするほどにその間の御縁を通して機縁の奇妙さや不思議に心が感動し魂が揺さぶられます。毎日がかけがえないの記憶の中にあることに感謝する気持ちに満たされ愛に包まれていきます。

人は結局は、一日の過ごし方が一生の過ごし方になります。日々にどれだけ心を遣ったはその人の力量ですが、常に不満から入るのではなく感謝から入ることで自分自身の真の尊さに触れて初心に帰れるのかもしれません。

今の人間は経済的にも環境的にも恵まれすぎて当たり前の豊かさや仕合せを手放してしまったとも言えます。当たり前ではないことに感謝できる感性は、一日一日の過ごし方という実践にてはじめて得られるように思います。わかった気になってはならないのは何よりも毎日毎朝ということです。

最後に三浦綾子さんの言葉です。

「今日という日には、誰もが素人。」

気づけば教えてくださるのに気づくことができない自分がいるだけです。いつも見守られている自分さえ感謝で気づけるなら、大事なことや大切なことは常に日々が私に伝えてきてくださっています。

学びの感性があることそのものに感謝の日々です。毎日が真っ新、毎日が新鮮、毎日が発達、子どもの魂のままに善い一日を過ごしていきたいと思います。

私たちの実践~守りたいもの~

今の時代は経済優先の競争社会が当たり前の環境の中に蔓延っています。豊かさの定義は経済力でありその経済力というパワーを持っている人ほど豊かであると周りも羨ましがるものです。

実際に世界では経済力を持たなくても仕合せに暮らす人々もいます。それはかつての先住民族や農耕民族、今の西洋文明が入り込んでいないところで何千年も前から同じ暮らしをする民族たちです。

以前、ブータン王国のことを調べたことがありますがその発展の度合いを測るのにGDP(Gross Domestic Product/国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)を使っているとありました。

つまりは幸福の定義をお金ではなく、仕合せかで量ろうというものです。簡単に言えば、どれだけ今の自分が豊かであるか貧しいかを量るブータン独自のモノサシを持とうというものです。

グローバリゼーションが広がると、そこには今までの豊かさを経済の持つ豊かさに変えてしまいます。今までの「ゆったり生きること、手間暇をかけること、一緒にやること、楽しく面白く過ごすこと」を優先してきた先祖たちの生き方を、「早く効率よく済ませること、便利であること、一人でもできること、勤勉にやること」を優先する生き方に変えてしまい、その分だけお金(豊か)が得られるという謳い文句で人々の生き方を操作していくのです。

人間の慾を優先するか、それとも自然の道理に沿う命を優先するか、それを決めるのは自分自身なのです。

敢えて今の時代に刷り込みを取り除こうとするのであれば、心を強くしていくしかありません。心が本来の目指す生き方を選ぶなら環境に左右されない真の強さを育てあげていけるからです。本来の生き方を守りながら文明と上手に付き合っていける国際世界人に近づいていくからです。

今まで人間は何度も文明の崩壊を繰り返してきました。それは歴史を観れば一目瞭然です。あれだけ繁栄発展した古代文明も等しく滅んでいます。しかしその中でも滅ばずに生き残っている先住民族たちがいるのを忘れてはなりません。その先住民族たちがなぜ今も生き残り今でもこの世に存在するか、そこに共通するものが悠久を生きる鍵なのです。

私にはそれは自然に沿って暮らし、人との結びつき大切にし絆を守った人たちに観えます。

果たしてこのままどこまで人間の慾が金融を操り臨界期まで突入するか、原発の事故のようななれの果てまでいくのはそう時間がかからないようにも思えます。だからこそ、その警告を真摯に受け止め、世界に生き方と働き方を示していきたいと思うのです。

文化と文明は、自然と人間のかかわりのように一体になって時代に息づいています。子ども第一主義の理念に従い、地道にコツコツと根強く耐えて実践を続けながら天機を待ちたいと思います。

観通し力~いのちのままに~

人は経験してくることで伸びてくる本当の力というものがあります。

それは「観通し力」です。

この観通し力とは何か、深めてみたいと思います。

そもそも経験や体験というものは、その人の求める質量によって変化します。日々を過ごすのに、もし今日が人生最期の日だと思って過ごしている人と、いつも通りに過ぎていく消化試合のように過ごす人では同じ一日でも全く異なる一日を過ごします。

つまり体験や経験というものは単に「すればいい」のではなく、「実践すればいい」のです。言い換えれば、流されている場合ではなく自分から主体的に覚悟を決めて義務を甘受すればいいのです。

自分に与えれた天命を畏れ、徳性を尊び、道を真摯に切り拓いていくのが本当の人生の意味だからです。

しかし実際は、せっかく与えてくださった機会や環境に気づかずに不平不満やすぐに他人に矢印を向けては何かにつけて誰かのせいにして自分の問題だと気付かずに感情に呑みこまれたもったいない日々を悶々と過ごしていることが多いのです。

同じ一日にしても「実践しよう」と決心している日々は確かに積み上がっていくものです。しかし決めていない日々はいつまでもすることばかりに追われる忙しさに己自身が負けてしまうのです。自分に打ち克っていくというのは、一日一日、一瞬一瞬の過ごし方であるのです。

そしてその積み上げた先につく力こそ「観通し力」であると思います。

これは信じて実践してきてはじめて備わる力です。自分が信じているからこそ目先に囚われない、自分の小我に翻弄されない、焦らない、惑わない、悩まない、いつも明るく健やかに逞しく日々に笑顔で正対していくことができるのです。

観通すということは、それだけ長い目で偉大な視野で今此処が何に繋がっているのかの御縁を感じているということでもあります。今の自分をどれだけ真摯に生き切るか、それは日々を如何に出し切るか、言い換えれば「天命に任せ人事を盡してきたか」という自戒自省への問いを持ち続けているということです。

本気で生きた人生だけが真実であり、産まれてきた以上いかに自分の志を高め魂を磨くかはその人に与えられた日々の過ごし方で決まります。正解のない人生にもしも正解を求めるとすればそれは生き様ということでしょう。

そしてリーダーと呼ばれる人たちが自然に観通しがついてくるのはその生き方が「真摯」であるからでしょう。何を真似し何を見習うかは、目には観えないところのその人の「覚悟力」かもしれません。

どんな尊敬する先師、先覚者も先達者も皆等しく苦労して努力して精進しその日々の積み重ねではじめて偉大なことを成し得ています。本来の学び方というのはその生き方生き様に自分の生死間を照らしていくことなのです。因果応報が観えるのもまたその真摯に生きる人だからこそ実感できるのでしょう。

まだまだもったいない日々を過ごしていないか、今一度自分に問い直し、かけがえのない環境に感謝していのちのままにかんながらの道を創造していきたいと思います。

日々は常に貴重な学びの愉しさに満ちています、好奇心全開で楽問していきたいと思います。

いのちの徳性~万物の霊長~

「万物の霊長」という言葉があります。これは孔子の編纂した書経(秦誓上)の中に人類というものを解釈して書き記されたものです。実際に何を目指して人類は万物の霊長たれと孔子は言ったのか、それを理解している人が少ないように思います。

自分たちが動物たちや食物連鎖のトップだから霊長というわけでもなく、他の動物よりも寿命が長いから霊長であるというわけでもありません。その本質について深めてみようと思います。

そもそも私たちをはじめすべての生き物は、何を伸ばしていきたいかというものがあります。それは進化でも証明されています。生き物にはそれぞれに特有の固有の能力があります。

鳥であれば空を自由に飛び回りますし、魚は自由に泳げます。地上を走る動物たちもいます。そしてそれはさらに分化し飛び方から泳ぎ方、走り方に至るまで、あらゆる自分たちの特性を活かして進化成長を続けるのです。それは私たちが真似と道具を使う能力があるように、他の生き物たちもまたそれぞれに自分たちの得意分野で能力を伸ばします。

それでは孔子はこの能力がどんな動物よりも高く優れているから万物の霊長といったのか、私はそうではないと思います。

動物だけではなく樹木までありとあらゆる生き物には心があります。その心とは人間にわかるように話せば他を思いやる心があるということです。これは能力の特性ではなく「いのちの徳性」と名付けてもいいかもしれません。活かされている存在だからこそ備わっている唯一無二の徳性です。

このいのちの徳性を伸ばしていくことでどんな生き物よりも思いやりが長けている存在、それこそが万物の霊長であると孔子は定義したのではないかと私には直感するのです。なぜならそれが孔子が目指した理想でもあり、私たちをはじめ地球に生きているすべてのいのちを奥深く見つめ感謝し哲学する生き物たちが目指すところだからです。

例えばあのクジラやゾウなど、脳にシワが沢山刻まれている生き物たちのシワは私たち人間のように余分な知識を詰め込んでシワが多いのではありません。非科学的だと笑われるかもしれませんが、あのシワは思いやりや真心を伸ばしてきてついたシワです。樹木であればあの年輪こそがシワなのです。そしてあのシワはいのちの徳性を伸ばした生き方や哲学によって深く思いやりを学んでいる証拠だと私には思えます。

家族を大切にしたり、他の生き物たちを大切にする、その思いやりの心がまるで太陽や月、地球のような偉大な慈愛慈悲を持てるようになってはじめて「万物の霊長」、つまりは「いのちの徳性」を伸ばしたものというのでしょう。

私たちが本来、磨かないといけないものは単なる能力ではないように思います。それはあくまで付属的要素であり本質ではありません。私たちがこれだけ自由に地球の中で生きることができることに感謝するなら私たちに与えられている大きな使命をも同時に感じなければなりません。

能力ばかりで他を裁き押さえつけ排除するのではなく、思いやりの心で他と共生し他を活かすことを本懐や使命にすることのように私は思います。

孔子の言う、「万物の霊長」として恥じないように他の偉大な生き物たちの思いやりを尊敬し自らの真心、「いのちの徳性」をかんながらの道の中で磨いていきたいと思います。

助け合い育ち合う~御縁~

先日、ある法人で理念研修を行いました。もう随分長い間、一緒に取り組んできましたが理念に沿って明らかに善くなって理想に近づいていく姿に感慨深いものを感じています。

御縁は不思議で、思い返せば色々なことがありそれを一つ一つ乗り越えて積み重ねていく中で本物のチームや、本物のオープン、つまりは絆や結束力が高まってきました。わかりやすい安易なところからではなく、違いを受け容れ信じ合うというような難しいところから真摯に時間をかけて取り組んできた人たちを今では誇りに思います。

純粋な人たちが理想を前に純粋にかかわることは時には傷つき、時には痛み、涙するような出来事にも出会いました。しかしそれでも諦めずに根気強く信じて待つことで今の姿になりました。

変化というものをじっくりとゆっくりと味わっていると、不思議な計らいや絶妙なご縁の組み合わせを感じずにはおれません。何か偉大なものの慈愛や慈悲のようなものを感じることができます。考えるよりも感じていく人生を歩むなら、いつもそういう見守られている感覚に包まれるのが人間なのかもしれません。

その中でまた新たな気づきがあります。

経営者が社員を教えて育てるのではなく、社員によって経営者も育つということです。これは育てるという行為が2者関係や相対関係だけで行われているわけではないということです。お互いが育ちあい育てているという事実、これこそが共生と貢献なのではないかと確信したのです。

どちらかだけで育つことはありません。これは親子の関係然り、上司部下の関係然り、大人と子どもの関係然りです。つまりは立場などは超えて、同じ理想や理念のために共に学び合いながらお互いに成長する。

真の教育とは、偉大な見守りの中で同時に育て合うということでしょう。これは地球が自然の中で様々な生き物たちを活かすように、宇宙が銀河の中でお互いの星々を活かすように、すべての道理はこの「お互いに助け合う中」にこそ真実があります。

お互いに助け合うとき、お互いに育ちあい、お互いに見守り合うのです。

この時、自我や自分というものを大きく超えて包まれている中にいのちがあることを実感するのでしょう。そしてそのいのちを活かしあう関係をつくるとき、共に成長するといういのちの姿を実感できるのです。

育てているはずの自分が育てられている、育てられているはずの自分が誰かを育てている、素直に謙虚になっていれば育ち合う風土の中に自分が活かされていることに気づきます。

まさにこの真実に頭が下がり、心から有難く感謝できるのです。
そしてそれもご縁に由るものです。

御縁を深めていけば、お互いが助け合い育ち合った余韻が丸ごと響き香ります。

日々に精進していく中で、愉快な仲間たちと学び合い助け合えた背中を子どもたちに遺し譲っていきたいと思います。

育て方

野菜にも御米にも今の育て方とかつての育て方があります。今の時代は、一斉に成長させ一斉に収穫するという育て方が主流ですから、かつてのような固定種で骨が折れるような手間暇かかるものよりも品種改良と農薬と肥料で機械によって簡単に一気にできるものになりました。

何を優先するかで「育て方」というものは変わってきます。

食べ物も安全安心で美味しいものを作るときの育て方と、収入やお金を優先して美味しいものを作るときの育て方は全くというほど異なるのです。

例えば、かつては薬や肥料は木酢や堆肥でしたから虫たちを殺すというよりは忌避したり肥料も科学的な窒素やリンなどよりも人糞や鶏糞など身近な微生物の亡骸を利用しました。苗作りに時間をかけたり、蒔くタイミングを間違えなかったり、他の雑草や微生物との共生環境を維持育成したりと、薬や肥料を使わない分、自然を観察して自然に沿って取り組んでいかなければなりません。育て方も、自分都合で育ちませんからよく観察して接していかなければなりません。見た目のよさよりも食べる物なので安心で安全な自然のものを育てようとしました。

それに対し今の農業は、見た目の美しさで金額が変わるためにありとあらゆる虫たちが作物を食べないように薬を用います。また出荷する前にも、野菜や果物がくたびれないようにまた別の薬を散布します。とにかく作る前から作った後まで薬漬けである農法は今では当たり前なのです。そしてその種もまた、改良されたくさんの肥料が必要で薬にも強いものが作られて売られるのです。その種や苗で育てる場合は以上のことに合わせた育て方でなければうまく育ちません。マーケットに対して作物を育てますから如何にマーケットで沢山売れる商品を作るかに傾倒していくのです。

だからといって昔の農業に全部戻すというような乱暴な話をしているわけではなく、何を変えて何を変えないかを決めなければならないということなのです。

つまりは理念を定める必要があるということです。

本来、安心安全というのは食べるものですから当然それが優先されるべきです。そしてそのうえでマーケットに合わせられるところを合わせるという具合です。先日の藤崎農園さんは、「安心安全でお客様が喜ぶ美味しい御米」が理念でした。

変えないものと変えるものがはっきりしています、その育て方が不耕起栽培の自然耕ということです。

育て方に理念が出ますから、育て方を観ればその人の目指すところが分かるとも言います。育て方を直すというのは、理念を直すということです。自分がどのように育ってきかたも気付かなければなりませんし、これからどのような育ち方をするかも人間なら自分で選択しなけれなりません。

もしもこれが人間なら人間学を学び善良な人格を育て、そのうえで今の社會に必要な先端技術を身に着けることでしょう。そして本来、会社というのは生き方を集めた場所です、言い換えれば田んぼであり畑であるのです。その農地や畑をどうするか、そしてそこで育つものたちがどのような育ち方をするかでその会社の理念がはっきりするのです。

理念を優先するというのは、周りの環境に左右されずに自分が決めた信念を貫くということです。そしてそれは周りに反対するのではなく、周りの中でも自立して多様性を維持するということです。

謙虚で素直でなければ難しいことですが、敢えて子どもたちのために育て方の温故知新に挑戦していきたいと思います。

豊かさのモノサシ(豊かさの観念)

時代の価値観もあり、豊かさにもいろいろな価値基準があります。

例えば、人は持っているかもっていないか、多いか少ないか、早いか遅いか、高いや安いか、ある基準をもとに損か得かというように何かと比較することで物事を評価します。自分がどのように評価されているか、誰かをどのように評価するかはその人の自覚している価値観によるものです。

間違った豊かさを一度持ってしまうと、いつまでも自分に自信を持つことができなくなります。逆に真の豊かさと持つ人は、常に謙虚で確固とした自信を持っています。

つまりは豊かさには豊かさの観念(モノサシ)があるのです。その本人が豊かさの観念がどうなっているかで実は貧しかどうかが決まるのです。たった一人の自分の人生ですから周りと比べる自分ではなく、誰しも真の自分を持つ必要があるのです。

例えば貧しさというのは、もしも物質的なものだけになればお金持ちよりもずっとお金持ちがいますし、自分よりも多くのものを持っている人はいっぱいいます。それにそういうものさしで持ってしまうと一度得たものを失うことの怖さを持たなければなりません。ないものねだりをしているとそこには常に貧しさがつきまといます。足るを知るではないですが十分いただいているという実感を持つには謙虚さが必要です。

またそれとは別のモノサシで真の豊かさがあります。それは精を出せることが有難いと実感していたり、誰かと一緒に働ける幸せを噛みしめたり、体験をさせていただけることの尊さに感謝していたりと、自分が豊かであることに気づいているのです。まるで道楽をしているかのように無尽蔵の豊かさを味わっているのです。

つまりここで言いたいのは、「自分が豊かであることに気づかない人、自分が豊かであることに気づいている人」、そこには真の豊かな生き方があるかどうかがあるのです。

真の豊かさとは単に物質的なものでは得られない歓びを持つ人、言い換えればみんなが幸せになることを祈りながら自分が活かされることに喜びを持つ人、「みんなと一緒に」生きることを愉しめる人が真に豊かな人ではないかと私は思います。

そのみんなをどれだけ”丸ごとのみんな”にするかが豊かさの観念(ものさし)だと思います。マザーテレサにしてもガンジーにしても、清貧のところばかりが評価されますが実際は清富であったとはあまり人に言われることはありません。かの二宮尊徳も同じく終生で集まった報徳金は藩の財政を大きく超えるほどのものだったといいます。しかし本人の生き方は大変豊かであったと思います。

そしてその二宮尊徳が遺した言葉に「心田を耕す」というものがあります。

心が豊かであれば、精を出せる幸せに生きれるならばその無尽蔵の心の田んぼから多くの実り(御法)が顕現してくるといいました。心の豊かな人とは、貧しさがないのです。

心を豊かにするには、徳を積んでいかなければなりません。それは全体のために丸ごと信じて自分を活かすような実践を積み重ねていくことのように思います。生き方がそのままの働き方と仕事になるような大転換が必要です。

本来、私たちがいただいている結びが真の豊酬ですから私たちの「結豊酬」とはそういう天からすべにいただいているものに感謝していますかという意味で実践をしているのです。感謝を忘れればそこにもう真の豊かさなど存在しません。常に謙虚に素直に道を歩んでいきたいと思います。