自然の時流

世間には人間が言う時間というものと、自然の中にある時間というものがあるように思います。人間の時間は、グリニッジ標準時を基準に動ていますが自然の時間はそのままの存在が時間として動きます。

例えば、グリニッジ標準時は人間世界で時間を統一するための基準ですからスケジュールは人間の都合で動かしていきます。人間が誰かと共に行動するには、年間、月間、週間、また一日、午前午後、何時何分と細かくなっていきます。時間が合うとか合わないとはお互いにその時間帯が確保できる余裕があるか、他の予定が入っていないかということが問題になります。

結局は時間はその人たちの都合ですから、上手くお互いがその時間を合わせていくことがタイミングがあったということになります。

しかし自然の時間は、こういうものではなく過ぎ去っている瞬間瞬間、言い換えれば「今」だけが時間ということになります。自然農で例えればすぐにわかるのですが、種まきの時機や収穫の時機、そして今何をすべきかはすべて自然を観察することで行われます。自然は刻々と変化を已みませんから、その時々でやらなければ手遅れになります。そこには人間の都合などは関係なく、自然は絶妙にバランスの中で動いていますから自然に合わせて変化していくしかありません。

人間には時流というものがあります。これは人間の間で流行りすたりがあるということです。時流に乗って成功する人もいれば、時流で失敗する人もいます。これは人間社會の中での観察に由ります。

自然の時流とは、自然そのものの存在の流れ、それは運とも言います。中国の古書に易経という時の書というものがありそこに「時中」という言葉があります。これは自然の時を顕す言葉です。

時に流されながら時に流されない、つまりは流れるということを得ているということ。運に任せ人事を盡す、つまりは今から離れることなく今そのものに的中するということです。これを中庸とも言います。

如何に時に中るか、それを私は直観と呼びます。

直観を使うというのは単に博打をするというわけではありません、直観とは丸ごと全体そのものと一体になっている境地であり、今何をすべきかが素直に自明している状態であり正直にありのままの自然な流れに従うということです。

自然の経営の極意は、タイミングを外さないということです。自然な流れで自然に生きることは、如何に謙虚に真心のままでいるかということです。

引き続き、子どもたちに自然が譲れるように時を深めていきたいと思います。

主燈明

この世に死なない人がいないように必ず形あるものは消滅していきます。自然でも同じく、いくら固い石であろうが鉄であろうが時間が経てば必ず風化して消滅していくものです。これは今の国家であっても世界であっても時代時代で必ず消えていくものです。

必ず消滅すると知るのなら、執着しているものの全ては消えてほしくないと願っている私たちの心でもあります。あるものを保とうとするのは意識から細胞にいたるまで自己防衛本能の根本でもあります。しかし消えてしまうものを無理に消えさせまいと自然の摂理に反していたらその歪から変化することを抑え込もうや変化することを避けようなどという不自然なことをやってしまうものです。

例えば、川の流れで水をいくらせき止めてみても水は増え続けて流れようとするものです。堤防が大きくなってみても雨の量や風化のスピードは抑えようもありませんから必ずその堤防は決壊して変化の流れは誰にも止められません。

だからこそ人はその変化を受け容れて、その自然万物が消滅することを知りそれが少しでも永く継続維持できるように努めていくのでしょう。変わることを受け容れる人だからこそ今あるものをもったいなく感じて大切にしていくことができます。

人間は自然の摂理において淘汰されるはずのものでも、いつまでもみんなが守り大切にすることで生き続けていく文化として子孫へ継承されていくようにも思うのです。

仏陀は2500年前に自燈明・法燈明という言葉を遺しました。「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きる」と解釈されます。これは私たちでいえば組織に頼らず、内省を怠らず、理念(初心)を拠り所にして実践していきなさいという言葉になります。

変化していくというのは言い換えれば諸行無常ということです。変わらないものはなく、いつまでも今のままであることは続きません。だからこそどんな変化が訪れても理念(初心)を拠り所にして内省を怠らず、自分自身の心に意見をして歩んでいく必要があります。変化はいついかなる時も已むことはありませんから、常に人は日々に理念や初心を確認して自らがズレていないか、自分の心が変化に流されていないか、その変化に気づき心を常に原点回帰しているかと一歩一歩歩むたびに自らを省みる必要があります。

そうやって自分の心の主になることを自燈明といい、理念の主になることを法燈明になると私は思います。主体性というものは、自らの積極的な自燃力によって命を熾すこと、決して時と他人の奴隷になるなということでもあります。それを私は「主燈明」と名付けます。禅語でいうところの主人公のようなものかもしれません。

主は誰か、主とは何か、ひょっとすると仏陀はそれを生き方で示した方だったのかもしれません。

引き続き、私たちは子どもたちの主体性を守る仕事しているのだから自分自身が主体性を発揮して変化の中で何を守り何を守らないかを実践して子どもたちに主燈明を通してその背中を見せていきたいと思います。

心田を耕す

心田という言葉があります。これは心の田んぼのことを言います。二宮尊徳は心田開発とも言い、また心田を耕すといいました。この心田の「田」とはどのようなものかということを少し深めてみます。

自然農の田んぼで昔ながらの農法を実践していればすぐにわかるのですが、田んぼがちゃんと田んぼであるのは人の手で手入れを行っているからです。畔の管理から草の管理、その他、田んぼに稲が育つようにその環境に相応しい場を見守り続けていきます。これは畑も同じく、作物を育てるためには育てる作物に応じて適切な場所や適当な広さ、または必要なら畝をつくり水切りし、太陽が届くように周りの木々を剪定します。

このように手入れをすることではじめて田も畑も私たちが暮らしていけるように順応してくれるとも言います。ここで大切なのは放置しないということです。自然農の田んぼで人手が足りず一つの場所だけは放置しているところがあります。そこはもう人の手が入らず自然そのもので雑木林のようにススキやセイタカアワダチソウなどで畑とは呼べるようなものではありません。手入れを怠り数年経てば、野生のままに回帰していくということです。

二宮尊徳は心田についてこう語ります。

「私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種、すなわち仁義礼智というものを培養して、この善種を収穫して、又まき返しまき返して、国家に善種をまき広めることにあるのだ。」

「そもそも我が道は、人々の心の荒蕪を開くのを本意とする。一人の心の荒蕪が開けたならば、土地の荒蕪は何万町歩あろうとも恐れるものはないからだ。そなたの村は、そなたの兄ひとりの心の開拓ができただけで、一村がすみやかに一新したではないか。」

田んぼの手入れを怠れば田んぼは自然の摂理で野性地に戻ります。しかし人間が手入れをすれば耕作地となり私たちが生きていくための「保育地」になります。これを人の心に置き換えるのなら、私たちが心の手入れを怠れば人間も野性に戻ります。場合によっては動物のようになり理性が失われ本能だけのものになります。しかし心を正しく手入れをしていけば人間が育成され自然の恵みに感謝して共に助け合い暮らしていくための思いやりのある道徳社會ができてきます。

つまり心田の手入れとは何をいうか、それは我慾を制し、己に打ち克ち、自らを律し、感謝の心を育て、恩に報い、周囲を見守ることに似ています。そして心田を耕すとは、その荒れ果てて欲望のままに野生化した人の心をもう一度手入れをすることの大切さに気付かせそれを一緒に直し、直したらまた荒れることがないようにと手入れを怠らない工夫を人々に与えていくことです。

そうやって心田を耕すことで人ははじめて自然の叡智を得た人間の智慧を持ったことになります。何もしなければ自然のままに壊れていくのが天理ですから、その天理の道理を悟り、人道はその壊れていくものを壊れないように手入れをしその自然からの恩恵をいただき生きていくという人間本来の姿に回帰していくということです。

今は田んぼを耕すのは農家の仕事としてあまり周りの人たちには馴染みがなくなってきましたが、本来は自然の恵みを受けてそれを感謝でいただいて暮らしていくという人間本来の営みは農家に限らずこれは人類が今まで生き延びてきた由来であり由縁であるのです。自然の恩恵をいただき自然と共に暮らしていくことこそ迷いなく人間が生きるためのたった一つの悟りです。

もう一度、心田を耕すことを思い出し原点回帰する必要を感じます。

引き続き、子どもの傍にいて心の手入れを行うとはどういうことか。その手入れ方法を人々に伝授し、私も尊敬する二宮尊徳のように自然から学び直したことをカタチにして心田を耕すことに生涯を捧げていきたいと思います。

 

手間暇とプロセス~本物とは何か~

現在は、本物を見分ける目というものが失われてきています。例えば、売られているほとんどのものが大量生産大量消費するために用いられていますから古来からの商品では採算が合わず値段を安く抑えるために効率を優先されて製作されていきますから本来の工程を経ていません。この工程という順序や段階を経ないということはどこか手間暇を抜いたということです。しかしこの手間暇こそ本物かどうかの大切な見分けどころになります。

それは食べ物でも生活用品でも、または何かしらの営業においても同じです。例えば、漬物は合成香料などで味付けし漬けることもなく、お酒でもアルコールを添加して発酵させることもなく、時間がかかるものはほとんど排除されています。他にも生活用品でいえば先日の畳や障子、木材などもプラスチックで機械で大量につくられます。

見た目さえ似ていれば安い方がいいという考え方の消費者が増えれば増えるほど、本物が伝わらなくなっていくものです。なぜなら本物は高くて不便、価値がないと思われるようになるからです。すでに原材料が少ない上に、昔は職人たちの道具はすべて繋がって循環していましたからそのひとつが失われると周りも一緒に消失します。

例えば、藁は農家がお米を作った後にその藁を用いて畳や屋根、草履に草鞋、米俵にしめ縄などをつくります。他にも竹を取ればそこからあらゆる製品の職人たちに流通します。今ではプラスチックで竹も藁も代用されますからそれらの職人たちには原材料が届きません。こうやって次第に本物であったものが失われていきます。

そして仕方がないからと原材料を変えてしまったり、それまでの製作技術を壊してしまっていたらそれはもう本物とは呼べません。しかし本物にこだわり高価になりすぎてもそれは金額が膨大で購入することができません。こうやって古来からのものは失われますがそれは消費する側が改革していくしかないように私は思います。

もしも消費する側が、こちらの方がいいと大多数の人たちが購入するようになればまたかつてのような職人たちの仕事が発展していきます。そのためにはかつての本物の善さを身近に触れるような場や機会が増えなければなりません。今のようにどこにいったら本物に出会えるかわからないような市場ではなかなか触れる機会がありません。

伝統や文化というものは、長い年月をかけて培われてきたものですからそれを伝承している人も今は急激に減少していますからいよいよ出会う機会が薄れています。お金に早くしようと結果主義で工程を排除していくというのは、偽物を大量に作り出すということと同じです。

子どもたちのことを思えば、何が本来だったか、何が本物であるかを知ることはその工程や順序、段階を体験する場、または素材や原料が循環するプロセスを観る場が必要だと感じます。その中にある徳を見極める力を育成していかなければなりません。

引き続き、古来の文化を深めながら風土改善を見つめていきたいと思います。

 

素直の能力

色々なご縁を辿っていると、あの出会いがまさかこうなるとはと人は感じるものです。その時、分からなかったことが後々に自明してくる、まさにご縁は縦横無尽に時を超越して結ばれてきます。

人が人と出会うのは、果たして自分の意思だったのかそれとも自然にそうなったのかと考えてみると私は後者の自然にそうなったのではないかと思います。これを天命といいます。

人は誰にしろ天命があり、その人の使命や定めというものがあります。その宿命はその人のいのちに決まっていますがそれをどのように感じるか、それをどのように味わうかはその人の選択になります。

素直に生きていく人はみんな自分は運が善かったと言います。これは来たものを受け容れてそれを感謝で味わっていく能力が高いということです。素直の能力とは、訪れたご縁に対して素直に謙虚で生きていく才能というものです。

その才能はどのように伸ばし磨くのか、それは日々に発生するご縁に対してどれだけ真摯に反省し、一つひとつを学び直していくかということです。直すというのは磨くということです。人格を磨いていくのは自分の間違いに気づき、その間違いを直していくということです。そして判断基準は自己を中心にするのではなく、いただいたご縁に感謝することを中心にしてもしも自分に感謝が足りず間違っている姿勢があればそれを素に直すということです。素は人間はみんな正直です。その正直な自分でいられるように人は感謝を学び謙虚を実践するのでしょう。

人は磨かれていくことで研ぎ澄まされ天命がはっきりと観えてくるように思います。日々の出来事の受け止め方、受け取り方こそがその人の素直の能力なのでしょう。

引き続きご縁を大切に、日々の学び直しを深めていこうと思います。

真の学者、真の学問

今年も無事に萩にある松陰神社に参拝することができました。毎年欠かさず24年間、一念発起してから初心を忘れずに今でも実践が続けられていることに改めて感謝します。

私は吉田松陰の生き方に触れ、魂が揺さぶられ如何に義に生き切るかということの大切さを学びました。その人の功績よりも、その人自ら背中で語る生き様に日本人の美しい精神、純粋な真心を学びました。

吉田松陰は思想の方ばかりを注目されますが、私はその真心の方に心を打たれました。真心の生き方を貫いた人物でこれほどの純粋無垢な人物が先祖にいたことに何よりも誇りに思います。

松下村塾には、竹に刻まれた「松下村塾聯」というものが掲げられています。これは吉田松陰が27歳の時に刻んだもので、塾生たちの最も目に入るところに掲げて戒めたものです「刻む」というのは忘れてはならないという意味です。

「万巻の書を読むに非ざるよりは、いずくんぞ千秋の人たるを得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりはいずくんぞ兆民の安きを致すを得ん」

一般的にはこれは「たくさんの本を読んで人間としての生き方を学ばない限り、後世に名を残せるような人になることはできない。自分がやるべきことに努力を惜しむようでは、世の中の役に立つ人になることはできない」と訳されています。

私の意訳は、「立派なご先祖様たちの生き方を文字や言葉を通して学ばない限り、同じようにご先祖様と同じような立派な存在になることはありません。そして自分自身の人生を自分のことだけに使い、世のため人のためにする苦労を自ら避けようとするようではとても社會を平和に変えていくことはできませんよ。」としています。

この書を読むことと苦労は一つであるとしているのです。

「日本の国柄を明らかにし、時代の趨勢を見極め、武士の精神を養い、人々の生活を安らかにした歴史上の秀れた君主や宰相の事蹟や世界の国々の治世のしくみを調べ、一万巻の本を読破すれば、つまらぬ学者や小役人にならなくてもすむ」といいます。

ここでのつまらぬというのは、「そもそも、空しい理屈をもてあそび、実践をいい加減にするのは、学者一般の欠点である」という意味と同じです。思想だけを弄び決して自分では実践しないでは世の中は何も変わらないから言ったのでしょう。

吉田松陰は真の学者、真の学問をするように学友や仲間たちに説きました。それは富岡鉄斎の座右「万巻の書を読み 千里の道を行く」に通じるところがあります。これは書を読むことと道を行くことが同じであることを意味します。つまりは「道を深めよ」という学問の本質が隠れていると思うのです。

吉田松陰はこういう言葉も遺します。

「井戸を掘るのは水を得るため、学問をするのは人の生きる道を知るためである。水を得ることができなければ、どんなに深く掘っても井戸とは言えないように、人の生きる正しい道を知ることがなければ、どんなに勉強に励んでも、学問をしたとは言えない」

人の生きる道を学ぶ道場、それが松下村塾であったと私は思います。志とは継続することで磨かれるもの、そして実践することを深めることで実現していくものだからです。常に学友と共に持ち味を活かして磨き合うところに、学問を活かす道があったように思います。

『学問とは何のためにあるのか。』

これをまずはじめに考えなさいと「聯」に刻まれているようで、松下村塾に行くとその初志を観て心が引き締まります。

時代を越えても時空を超えても志によって人々に勇気を与え道を示してくださる、まさに師と言います。私は生きている人をメンターと呼び、亡くなっている人を師と呼びます。

真の学者、真の学問を極めてご先祖様と同じように徳を磨き社會を豊かにしていけるように今年も精進していきたいと思います。

2017のテーマ

昨年は伝統を通して、本来の姿を見つめた一年になりました。かつての先祖たちがどのように暮らしてきたかを知れば知るほどに自然と一体になり、自然に親しみ、自らを慎み、素直に謙虚に生きてきた様子に日本人本来の当たり前の姿を観た気がします。

昨年はもののはじまりを知るがテーマでしたが、すべての物事には起源がありその本質を見極めれば何が異常で何が正常であったかがわかります。今の世に照らして、正常が何であるかをつかむというのは本質的に生きていくことを大切にしていく上では何よりも重要な実践項目になります。

先日、熊本県八代市のい草農家の草野様が聴福庵に来庵した際に「こだわり」と「当たり前」についてのお話をしてくださいました。

草野様が見守り育てているい草は、品質、出来栄え共に「本物」で熊本でも有名で若い人たちの指導もなさっているそうです。そのい草を聴福庵に入れましたがその輝きや美しさ、また触り心地などすべてにおいて素晴らしく、い草本来の徳が引き出されているように感じます。

この草野様のい草づくりはとても手間暇と丹精を籠めてあり、通常ではここまでやるかというくらい徹底して丁寧に育てられているそうです。それを見た周りの人たちは「あそこまでこだわれない」とか「草野さんのこだわりはすごい」などと評するそうです。

しかし本人は「こだわり」だと言われるのは好まず、これは「当たり前」のことだといいます。このこだわりと当たり前の間には、異常と正常の違いがあるのです。

今では心を籠めないで頭でっかちに計算をして取り組むことの方を当たり前だとなってます。しかし古来のように丹精を籠めて丁寧に心を使い手間暇をかけることはこだわりだと言われます。私も様々なことを徹底して実践するタイプですから周囲からはこだわりが強い人だと言われます。しかし私自身は同じくこだわっているのではなく、真心を用いるのは当たり前のことなのです。

メンターと共有した今年のテーマは「常」です。つまりは「平常心で心を乱さない、心のままでいること」です。

常は平ともいい、その常とは平常心のことです。これは心のままでいる、本質が観えてきているから、表面的なものにあたふたしないで心のままであり続けます。心の世界で取り組むのならば常に本質を維持できますが、心から離れればすぐに本質がブレてしまいます。

本当のことや本物にこだわるのは、それがかつては当たり前であったからです。そしてそれが今、最も危うい状況になっているからです。作物を育てるのも人を育てるのも心を用います。心があるからこそ理に適います。つまり「心即理」なのです。

だからこそ今年はその当たり前をさらに深めて、こだわりとか当たり前とか区別されないくらいの自然な姿に私自身近づいていきたいと思います。子どもたちが何が当たり前であるかに気付けるように平常心を大切に取り組む一年にしていきます。

今年もよろしくお願いします。

い草道

昨日は、聴福庵にて畳づくりを畳職人と一緒に行いました。私たちが手伝ったのはほんの少しでしたが、い草の表を藁のクッションの上に敷きそれを加工し糸で縫い上げていきます。い草のいい香りがする中で、一つ一つの畳を丁寧に手作業で創り上げていくプロセスを一緒にすることで畳の持つ魅力となぜこれが日本文化とつながっているのかを再認識することができました。

また今回は、熊本の八代からい草の生産ではとても有名な草野さんご夫妻に来ていただきイグサのことや育て方、その生き方までお話をお聴きするご縁をいただきました。

聴福庵に導入されたい草の畳は丈夫で艶のある品種のい草「せとなみ」「涼風」の中から厳選され選り抜かれたい草のみで織り上げたものです。その風合いはまるで美しい草原が和室に入っているようなもので、その上に座りじっと佇んでいるとうっとりします。時間が経てば経つほどに好い飴色の雰囲気を醸し出すこの畳は私たちの暮らしにとても大きな豊かさを引き立ててくれます。

まず草野さんは「畳は工業品ではない、農産物です」という言葉からはじまり、「生物として生きているからこそ「いのち」を扱っていることを大切にしている。いのちがあるからこそ、畳の色も香りも変化してくる。喋らないから生きていないのではなく、植物も生きているということを忘れてはいけない」と仰いました。

私がお話の中で特に感動したのは、「自然の恵みを受ける農業は、自然から授かるのだからもっとも神聖なお仕事です」という言葉です。また続いて「自然は素直で必ず自分がやったことがそのまま帰ってくる。だからこそ素直な心で自然と向き合っていかないといけません。」

私も自然農を実践して6年目になりましたが、ここにも自然に寄り添い自然の道に学ぶ人がいて、草野さんから醸し出す雰囲気はとても謙虚さに溢れ優しく日本人らしい懐かしい精神を感じました。私が尊敬している自然人はみんな、同様に自然の畏敬を忘れずに自分自身を変え続けている人です。そして自然の御蔭様に感謝して楽しみ喜びの中で暮らしている人々です。

かつての日本人はみんなこのように優しくて素直な雰囲気を持っていたように思います。風土が育てた純粋な日本人はみな、このような無垢な自然体を持っていたように思います。今ではその日本の風土と異なった人間都合の生活の中で風土に合わせた生き方をする人たちがいなくなってきています。

草野さんは「自分がい草に寄り添いながら生きてそれを喜びにすることでい草を使ってくださる方の喜びをつくり、そして竟には社會の喜びにしていく」といいました。それを「共存共栄」と定義してその生き方が草野さんの理念になっていました。そのために「本物の製品をつくり続ける努力を怠らない」といいました。これは単にものづくりにおける精神ではなく、真摯に真心を込めて生き切る生きざまと生き方を感じてそういう方の畳とのご縁をいただき尊いご縁に有難い気持ちになりました。

そしてこれは私のこだわりではなく、当たり前であることと仰る姿に草野さんの道楽の境地を感じて私も精進していきたいと改めて学び直しました。

最後に草野さんの言葉です。

「子どもや孫たちにしてほしいことをやっているだけす。そうして自分たちが真から楽しく、喜びの真ん中にいればいい。よい思いは周りも変わっていくのだから。またこれは自分の生き方だから、それを子孫へ押し付けるつもりもない。どんな時も自分がどうありたいかが大事、まずは、自分の心が素直で真摯かどうか。それがすべて。そうはいっても自分の中に反発心とかもあるけれど、それでもやりきることが大切。イグサとも、そういうことをやっている。そして私の楽しくは、泣いても苦しくても楽しい。面白くで楽しいではなく、そういう思いでやっているのです。」

ここに私は「い草道」を感じました。

道を歩む先覚者たちの言霊はみんな同じ響きを持っています。有難いご縁に感謝し、このご縁を活かせるよう子どもたちにこの出会いを還元していけるように引き続き心の在り様を見つめて伝道していきたいと思います。

 

 

 

一期一会~今~

四書五経の一つ「大学」の中で「苟日新、日日新、又日新」という言葉が出てきます。これは古代中国に殷という国の初代湯王が (まことに日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり)と毎日使う手水の盥(たらい)に銘辞を刻んで日日の自戒としたとされているものです。

これは自分の日々の垢を洗い清めるように、過去に発生したすべてのことを取り払い新しい自分でいようと磨き続ける、言い換えれば「今を生き切る」と弛まずに精進し続けたという証です。自分が過去に捉われないよう、自分が今に生き続けるようにと自戒したという生き方にとても共感します。

これを座右にした昭和の大経営者の土光敏夫さんがこのようなことを語っています。

「神は万人に公平に一日24時間を与え給もうた。われわれは、明日の時間を今使うことはできないし、昨日の時間を今とりもどすすべもない。ただ今日の時間を有効に使うことができるだけである。毎日の24時間をどう使っていくか。私は一日の決算は一日にやることを心がけている。うまくゆくこともあるが、しくじることもある。しくじれば、その日のうちに始末する。反省するということだ。今日が眼目だから、昨日の尾を引いたり、明日へ持ち越したりしない。昨日を悔やむこともしないし、明日を思いわずらうこともしない。このことを積極的に言い表したのが「日新」だ。
昨日も明日もない、新たに今日という清浄無垢の日を迎える。今日という一日に全力を傾ける。今日一日を有意義に過ごす。」

今この瞬間に生き切るということは、自分のいのちを一期一会に使い切っているということです。私の座右も一期一会ですから、この生き方に共感するのです。時は過ぎ去っていくだけで過去の成功に縛られても仕方がないし、未来のことばかり憂いていても仕方がない。大切なのは、今どうにかできる今だけですから今に真摯に真心を盡していくことこそが人生を豊かに感謝で生き続けることになると思います。新しい自分とは、今の自分のことで古い自分も今の中に生きています。だからこそ古今は未来そのものです。

この殷の湯王の自戒には、もう一つ私が心から尊敬するものがあります。反省とはこういうもので、内省とはこういうものだという至高のお手本を示したものです。論語を学び、大学を学ぶものとしてこの殷の湯王は何よりもそのモデルになります。

最後にこの殷の湯王の自戒で締めくくります。

「希望あれば若く
燃ゆる情熱
美しいものへの喜悦
逞しい意志と情熱と
安易な惰性を振り捨てて
人は信念とともに若く
情熱を失うときに老ゆ
希望ある限り若く
理想を失い失望と共に老ゆ
心して暮らせ」

一期一会というのは、この信念と情熱と理想、意志と希望と喜悦によって真心を盡して暮らすことです。子どもたちのためにも、自分がその実践を体現して生き切っていきたいと思います。

本義本業

人は誰しも感情があります、その感情は我があるから感応します。また人には誰しも真心というものがあります、その真心があるから真我が感応します。ここの境目にははっきりと我と真我という分かれ目があるわけではなくそこは薄明りのように和合しています。

この我や真我というものは頭で理解することはできず、たとえば真心なども言葉や知識で理解できるものでもありません。心技体、真摯に苦労をおしまず自己すべてを使い切っているときに発動しているものです。すべての物事はこの真心に懸っているとも言えます。つまり良いか悪いかは頭ですること、心でするのは真心のみです。

聖徳太子がこういう言葉を17条の憲法の中で遺しています。

「真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。物事の善し悪しや 成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。真心があるならば、何事も達成できるだ ろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。」

これは第9条に書かれており、良いか悪いか、正しいか間違っているか、それはすべては真心のあるなしがすべてであるといいます。それを受けて第10条にはこう添えられます。

「十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。お互いにだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。」

謙虚に自分自身の至らなさを恥じて、自分自身の真心を確認して自分を正し続けるということです。そしてこれは私たちが目指す聴福人の姿です。まずは心のままに聴くのが先だということです。そのうえで誠実に実直に真心を盡していくことこそが、人の道の根本でありそれが生きるということにおいての本業です。そういう意味で仕事のコトとは何か、このコトには意味がありますからその事が為すということは真心を盡すということであり、その真心を盡すことこそが仕事の本義本業ということになります。

頭でっかちにわかった気になる理由は、真心を盡すという本来の本義から外れているからです。頭でできるような仕事は真心を使わない分、楽を選んでいきます。自分にとって都合が悪いもの、自分にとっては苦しいもの、自分にとっては大変なものであったとしても、「それでもやるか」と自省するとき、真心がどうなっているのか、自分の至誠は果たしてどうなっているのかは自分自身(我真我)が対話をするのです。

この対話を通して人は対立関係をやめて和合し一つになります。真心を盡していくことが和合そのものであり、その真心こそが何よりも尊いのです。和を持って尊しとするのは、何よりも真心こそが全ての根本なのです。

真心の仕事こそ、カグヤの本義本業です。

刷り込みが深いのもまたこの心の対話がまだまだ未熟な証拠ですから、常に真心からの行動や言葉、そして真心での働き方、かかわるすべての物事へ真心の生き方を通して磨きをかけて刷り込みを転じて丸ごと活かし子どもたちの役にたっていきたいと思います。