独立自尊、禍福を転じる

古民家再生をしつつ、電気や水道周りなども自分で直しています。今までは専門業者でないと直すことができないと思い込んでいましたが、いざ家を修理すると覚悟を決めるとなんでもできるから不思議なものです。

自然農のときも、自然養鶏のときも、また古民家再生、これからはじめる風土報徳も、最初は一人で覚悟を決めます。何よりも自分自身がやると決心することは、何よりも大切なことでないものずくしのなかであっても自分がやると決めることで周りも動き出していきます。

人間は、この「決心」というものが何よりもハタラキを育みます。

そしてその後、その決心をみては助けてくださる人たちが出てきます。自分でやろうと決めた人を応援したいと思うのです。一人ではできないことを一人でもやろうとするのだから見ていられないことばかりです。人にはなさけ(情)があり、有り難いそのお情けを与えてくれます。

これは天のお情けも同じく、何とかしようとしている真心に加勢してくださるのです。お陰様も感謝もまた、そういう決心をすることで今まで以上に感じることができるようになります。

つまり独立自尊、まずは自分自身が自分の心と正対し折り合いをつけて言い訳を断つことで初心が固まりその行動が正直になり迷いが消えるのでしょう。

悩むことは迷いは同じではありませんから、「悩むけれど迷わない」というのが初心、決心をしている状態ということです。どんな結果になったとしても、自分自身で決めたことだからと清々しい境地を維持することができるのです。

そのために全体にとっていいか、未来にとっていいか、世界にとっていいか、地球にとってどうか、歴史をみてどうかと、あらゆる基準に照らしながら自問自答し悩み切ることは必要かもしれません。

どんな日々も、つながりとご縁の中の一期一会ですから一つの決断が次の今をつくっていきます。

独立自尊、禍福を転じつつ、楽しみ味わいながら歩みたいと思います。

五感と暮らし

暮らしの再生をするにおいて、何よりも大切なのは五感を使うことです。今の時代は暮らしが消失してきているといいますが、それは言い換えるのなら五感が消失してきているということです。

地球上のありとあらゆる生き物は五感を使って生活をしています。春夏秋冬や気温差、湿気、日差し、ありとあらゆるものを五感を研ぎ澄ませて実感しそれを活かして生活を営みます。かつての人間も同じく、頭で計算して生きていたのではなく五感をフル稼働して日々の生活を営みました。

今では、便利に機械や道具に囲まれ自分たちの五感を楽させては五感を使わないですむような生活にどっぷりとつかっています。頭で計算している世界というのは、五感を使わなくてすむ便利な世界です。そんな便利な世界の中では、五感は衰える一方で暮らしも衰退していきます。

五感が暮らしをつくるのは、少し体験すればだれでもわかります。例えば、私が実践する炭でいえば朝から鉄瓶に水を入れお湯を沸かします。その一つ一つが水の手触り、白い湯気、鉄が沸かす音、火の香り、茶葉の味わい、まだまだ並べるといくらでも書けそうなほどに五感を使っています。

他にも昨日は古民家で掃除をし柱を磨きましたが、磨けば磨くほどにそのものの味わいがにじみ出てきます。私たちは古いものを磨くことで刻とご縁を五感で直観しているのです。

古民家に住めばすぐにわかりますが、この古民家は常に五感を使います。五感を磨き続けています。それは別に五感を鍛えていたからこういう家を建てていたのではなく、暮らしが五感だったからなのです。五感を使わない暮らしなどは存在しなかったということです。

その五感を使うことが「豊かさの本質」であり、豊かになったというのは物が溢れたからそうなるのではなく、五感を活かした暮らしができているから豊かなのです。昔は今と違ってほとんど物がなく、今と比較すると貧しいと思われるでしょう。しかし実際は、物が溢れていなくても五感を使う生き方をすれば地球と混然一体になれ、その豊かさは何物にも代えがたい安心感と充実感を与えてくれるのです。

今の時代は大量生産大量消費のグローバリゼーションがとどまるところを知らず、このままでは必ず資源を食いつぶしてしまいます。もうほとんど手遅れかもしれません、しかしここでの転換は別の豊かさというものの発掘になるように思います。

人間が機械と同居するには、この五感を一緒に用いる仕組みにしなくてはなりませんし家屋においては五感を感じられる住まいを見直す必要があると私は思います。

子どもたちのためにも、大人たちが五感を使う豊かな暮らしのモデルを示していきたいと思います。聴福庵の復古創新から、かつての豊かな暮らしを味わい伝承していきたいと思います。

 

愛の伝承

聴福庵の手入れを仲間とする合間に飯塚市の日本劇場建築、嘉穂劇場を見学するご縁がありました。ここは全国でも数少ない現存する芝居小屋で前身の中座の時を含めると役100年以上の歴史を持つ建物です。両花道とマス席を持った木造二階建ての歌舞伎劇場として今でも全国座長大会が開かれています。

この建物は最初の火災から、次は台風、そして水害と数々の倒壊や倒壊の危機に見舞われながらもそこから不死鳥のように復興し、今でも歴史的建造物としてこの地で愛され続けています。

この嘉穂劇場のデザインや風格、その雰囲気が聴福庵の造りととてもよく似ているため、時期や意匠をみていたらひょっとしたら同じ大工が手掛けたものではないかとも感じています。

今から110年前、100年前にどのような思いで大工が手掛けてきたのか、その願いや思いを建物から感じます。

そもそも建物というものは、単なる建った物ではありません。建物にご縁があり、その建物をみんなが愛することで建物は生き物として生き続けていきます。愛するというのは、大切にしていくということです。

今では古いからと粗末にしたり、手入れが大変だからとすぐに捨てたりします。愛するとうことや、愛着を持つということから遠ざかれば相思相愛にはなりません。この相思相愛というのは、お互いに大切にしあう心から発生してくるものです。

造り手の思いに対して、使い手の思い、そういう思いが受け継がれ譲り語られて遺されていくのが文化財です。財産というものは、単に金銀財宝のことをいうのではありません。その大切に愛された思いこそが、時代へ受け継がれていく貴重な財産そのものなのです。

聴福庵を復古創新するのは、この愛する思いを子どもたちに譲り遺すためでもあります。110年の愛されて続けた建物を、さらに愛してその愛が子孫たちへの愛の伝承になればと願います。

今日からいよいよ傾いた柱を再生します。

家が願うように、家の声を聴いて一家の主人として一つ一つのご縁を大事にしていきたいと思います。

「嘉穂劇場援歌」

筑豊の空に唯ひとつ

何も言わずにドッシリと

右にボタ山眺めつつ

遠賀の川を忍び見て
心の光弾きせながら

歴史を語る

ああ ああ 嘉穂劇場

 

心音のチカラ

昨日は妙見高菜の種まきのために畝を整え表土を削り草をかけたりと一日中畑作業をしました。バッタやコオロギなど秋の音楽が畑中に広がり、ススキやその他の夏草たちが命を全うする景色に季節の移り変わりを感じます。

地球にはリズムがあります。私たちは様々な音楽の中で暮らしを営み、全身全霊で地球で聴こえてくる音楽に耳を澄ませて心を委ねていきます。

夜になれば夜の音楽、朝になれば朝の音楽があります。

また風が吹けば風にのって響いてくる音楽が聴こえます。

土に手を当てて、土の中の音楽を聴けばそこにも地球の息吹きを感じます。

私達の呼吸一つ、私たちの暮らしの中には耳には聞こえなくても聴こえてくる脈動のような心音があります。この心音は心を澄ませたとき、響き渡ってくるものです。

頭で計算したり、人工的に計画したりをやめてただ地球の音に耳を傾けてみる。
そしてその存在が和合してつながりを持ち合っている波長にあわせてみる。

宇宙にはいつもぐるぐると回転している闇の音楽が鳴り響いています。

闇のチカラとは決して悪いものではありません。闇は私たちが自然から離れ忘れてしまった太古から流れる脈動です。

その脈動に耳を澄ませて心が音を感じることができるなら大きなやすらぎと平和が訪れます。

瞑想というものの本質はこの闇の音楽に耳を傾けることです。

引き続き自然をよく観察し、自然と和合し、自然を学び直して自らを変化させていきたいと思います。

持ち味の発揮

ブランディングという言葉があります。全てのものにはブランドといものがあります。ブランドという言葉の語源は、他人の牛から自分の牛を区別するために牛のわき腹に焼き印を押すという意味の「burned」が語源であると言われています。そこから転じて他と区別するという使われ方になっています。このブランドの意味について深めてみようと思います。

英語ではBRANDにINGがついてブランディングということになります。これは名詞ではなく動詞です。私はこのブランドは無機質ではなく生命であると思っています。目的や意志を持ち、生きるものには生命が宿るからです。そして私はこのブランディングの定義を持ち味であるとしています。なぜならこの持ち味は、その社會全体の中で存在するもので単体では存在できないものだからです。

例えば、他人によってはブランドを差別化戦略などという言葉を用いる人もいますが本来、何を使命にしているか、自分たちが何のためにという目的を明確に打ち出して取り組むかでそれぞれの持ち味は変わってきます。その組織やその人が明確な理念があるのなら、次第にそれはブランド化していくということです。人は無理に周りと比べて違いを出すのではなく、理念を優先する中で無私になるとき己の持ち味が引き出されて全体に感化していくのです。まるで自然界がそれぞれの植物たちが多様に共生するようにそれぞれは自然の理に沿って真摯に生き切っているだけですがその中で全体にとって必要な役割と持ち味が発揮され全体が循環していくのと同じようにです。

そしてブランドがINGが入り動詞であるというのは、社會の中での意義や理念がそれぞれに生き続けて時代の変化の濁流の中でも杭がしっかりと立っていることを証明します。

アメリカの広告会社TWBACEOのジャン・マリー・ドル―氏が「アップルは反抗し、IBMは答えを出し、ナイキは熱く語り、ヴァージンは啓発し、ソニーは夢を見て、ベネトンは抵抗する。 つまり、ブランドとは名詞ではなく、動詞だ。」と言いました。

ブランドというものは、それぞれの使命が社會の中で生き続けていることでありその生き続けるものが実践され顕現するほどに可視化されたとき周囲にそのものの目的が伝わりはじめるのです。

そしてその目的がたくさんの人たちに共感されることで、そのものの価値や持ち味が認められるのです。そしてこれは決して単に見せかけで見た目だけを誤魔化してできるものではなく、創業者をはじめ一緒に取り組む仲間たちが強烈に一つの思いのためにいのちを懸けて真摯に実践を積み重ねたうえではじめて味が出てくるのです。自己をなくすほどに渾然一体となった祈りや願いや行動は自我の色を超えて透過した存在になっていくのです。まるで空気のようなもので、ないようにみえてここにはなくてはならないそのものの持ち味があります。

つまり持ち味とは、自分の根源的な性質が引き出されることを言います。つまりは比較や数値などでは測れず、点数もつけられず評価もできないものが出てくるということです。つまりは存在そのものの意味や、自分を超えた存在が滲み出てくるということです。それは産まれながらに持っているものであり、地球の味や月の味、宇宙の味が出てくるのに似ています。そのもののもっているあるがままの価値がブランドとして顕現するのです。

ブランディングというのは日々の小さな理念の実践、その思いの積み重ねによって実現するものです。

一日一日はそのブランドが練り上げられる修練の日々でもあります。これは稽古と同じで、怠ることはできません。持ち味の発揮は無私による真心の実践ですから引き続き理念を省み真摯に挑戦していきたいと思います。

 

時機を待つ

生き物は植物に限らず、人間も自己修養することで成熟していくことができます。例えば稲でいえば、種を蒔き芽が出て花が咲き実がなります。それはすべてにおいて時期があります。

時機というものは、そのものが最も育っている時です。そしてその機は発達のタイミングのことです。花が咲く時機に花が咲かなくては実にまではなりません。その自然のサイクルに従って如何に育つか、それはそのものが素直に健全に実力をつけるために体験が必要なのです。

そして生き物は実をつけます、実をつけるというのは種になるということです。しかしその実が青いままでは収穫しても種にもならず食べることも出来ません。如何にその実が熟すのを待つか、それは時機を蓄えるということです。いくら結果を先に求めても、実力が備わるまでは青いままです。これを熟す前の状態、つまり未熟と言います。

未熟と言えばよく未熟者と言われ、愚か者や馬鹿者のように揶揄されますが本来はまだ熟するところまで来ていないというところなのです。

だからこそ熟すためには自己修養を続け、自分を磨き続け謙虚さを持てるよう人格を高めていくしかありません。そして陰徳を積んでは、その陰徳が蓄えられ陽報が訪れる時機をじっと待つのです。

自分磨きと言うのは、つまりは自分の感情に左右されずに初心を実践していくことです。自分で決めた方の生き方を、自我欲や感情に流されずに優先することができるようになるということです。

稲には、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という諺があります。成熟し完熟すればするほどに実がなります。実が種になり次世代へと繋がるのは、そのものの生が一生懸命に育ったことの証明でもあります。

人間は自分の代だけですべてが終わるわけではなく、必ず後人や後輩たち子どもたちがその後を続いていきますから自分の代でいい加減なことをすることはできません。引き続き、自己修養をして時機を待ち精進していきたいと思います。

適合適応

以前、樹木研修で樹木がどのように生きてきたかを深める機会がありました。樹木たちは自ら他の樹木と競争しないように自ら厳しい環境へと移動して生き残っていました。生き残りの戦略というのは、周りと戦って勝ち残るのではなく自分自身が厳しい環境に「適合」し誰も来ないような場所へと移動しそこで「適応」することで克ち遺るという具合です。

これは自然界の理であり、私たちはこの勝ち残るということの本質、そして生き残るということの意味を学び直す必要を感じます。

人間の世界でもいつまでも適合もせず適応もせずに他と比較し自分の居場所を獲得するために競争し続けようとする人がいます。頑固に自分の存在価値を周りへ押し付けては、自分が一番になろうとします。しかし自然界ではそのような生き物はすぐに淘汰されており、生き残っているものはありません。人間は刷り込みによって自分という存在を歪められて、周りとつながっていない存在、自然から離れている存在だと自分自身で思い込んでいるから全体のことを考えず自分勝手に自分中心に物事を見るようになったのかもしれません。

本来、視野の広さというのは自分中心ではないということです。すべて丸ごとの存在としてみることができれば勝ち残るという意味も、生き残るという意味もはっきりと自明してくると思いますが常に人間自我が中心になっている人はどうしても視野が狭くなってしまうのでしょう。

自然界では棲み分けというものがあります。常に自分から他の種と争わないように移動していくのです。そのようにして今の地球の生命たちは多様化したとも言えます。今に遺る種たちは歴史を重ね自ら争わず生き残る戦略を優先して共生と貢献の社會を創造してきました。人間も本来はこのように個性が争わず、自分らしく適合適応していくのなら組織の中でも自分の役割が自然に分かれて御互いに協力して生き残るために助け合うことができるように思います。

いつまでも適合適応しないでいるというのは、進化でもなければ変化でもなく便利で楽な方を選ぼうとする人間の傲慢さのようにも思います。画一化されていく世界は人間のみ一番の中で勝手に役割を振り分け人間のために労働するようなロボットを製造し、バラバラに組織を分断化しているかのようにも見えます。

もう一度、全体に対して適合適応する生き方を示していくことが自分自我を手放し自然の理と一体になる方法のように思います。子ども達のためにも、自然に沿った生き方や暮らしを通して本当の意味で宇宙や地球で勝ち残る生き方、克ち続ける生き方、生き遺るための道筋をつけていきたいと思います。

人類の先生

先日、浦河ひがし町診療所で川村敏明院長の御話をお聴きする御縁がありました。ここは浦河町の中で「べてるの家」と連携して一心同体になって町全体を見守る仕組みを担っている病院です。世の中では対処療法で病気だけを見る人もいますがこの病院では常に根源治療の方を優先している気がして、先生も自ら「治さない医者」だとし、あくまでその人の人生そのもの全体をみんなで丸ごと見守るという姿勢にとても感動しました。古来からの御医者様の生き方を現代に見た気がして、胸に込みあげてくるものがありました。

先生の御話は、すべて今までの常識を覆し発想の転換で病院を経営しています。そもそも病気が悪いものではないという起点に立っていて、病気の御蔭で人生がよくなっていくという視点で患者さんの人生のチャレンジやその人の主体性を見守っていきます。

かつては川村先生も大病院勤務の頃はやっていたのは患者の為ではなく単に自分のためだったと仰り、今では「医者がすべてではない、私がなければだれがやるとなっていた。仲間の御蔭ですとか、周りの御蔭とかの方が良いとした。医者は限定的でいい。」と言い患者の主体性を大事にした治療に転換されています。

患者さんの浮袋になるのではなく、患者さん自らが泳げるようになるようにと患者さんを大切にするだけではなく患者さんが世間や社會に帰り安心して暮らせるようになる方を治そうとされています。

私達が子ども第一義で実践することもまったく同じことです。何をもって子どものためというのか、ここでは川村先生の仰る何をもって患者のためかということ同じです。

私達が子どものためにというのは、子どもが安心して暮らせる社會を治すことに他なりません。そのためには、一人ひとりの生き方を換えていくしかありません。一人ひとりが持っている持ち味やその人本来の魂を如何に見守るかは、自分の生き方や実践を通してしか弘めていくことができないからです。

私が今回、もっとも学んだことは「弱さ」の持つ「豊かさ」です。弱いということは如何に豊かなことか、これは自分の本心をさらけ出すことだったり、自分の駄目だと思うことを周りに伝えることで帰ってくる信頼、仲間に出会えることです。

一人で頑張っていてもこの豊かさはありません。手に入れた強さと共に失った弱さが貧しさになりその人の苦しみが悪いものになっていきます。だからこそ弱さを絆に換えていくために弱さをさらけ出すことが仲間を信じることであり、真の自立や共生に繋がるのではないかと私は感じます。

最後に、今回のご縁でまた二宮尊徳に纏わる逸話を思い出しました。

『医者には、大医、中医、小医がある。小医は病を癒し、中医は人を癒し、大医は国を癒す。また大医は、その人が生まれた時から死ぬまで、健やかに豊かにその人の生涯を安心立命に過ごしていくことができるように見守る医者のことを言うのだ。』

本物の医者は、本物の教育者でもあります。医者も教育者ももとは一つ、人類の先生であるということです。

今のような時代、心を病み魂を亡くして苦しみが増えているからこそ義憤と慈悲をもって人々に愛を伝道していきたいと思うのです。

日本の各地には同じような生き方を貫いている人たちがたくさんいることを知り、有り難い気持ちになりました。ご縁に深く感謝しています。

引き続き、子ども第一義の理念に沿って実践を高めていきたいと思います。

 

自分の寿命よりも長い存在

古くなったものを新しくするのに、一度かつての古民家をその時代のものに戻しています。そもそもこの家はどのようなものだったのか、その時代はどのような道具に囲まれていたのかを知ることは原点を確認するのに必要です。

人は原点回帰をしていく中で、本質を学び直してそのものの真価を確認することが出来ます。歴史とは単に過ぎ去った過去ではなく、今を知るうえで重要な「つながり」を感じるものです。

100年以上の古いものを集めて磨き直して古民家に置いてみると御互いが関係し合うことで空間が新たに活かされていきます。近代化して大量生産されたものではなく、職人が一つ一つ目的にあわせて自然物を活かして作られたものは作り手や私たちの寿命よりもずっと長く用いられていきます。

例えば、江戸時代の骨董品であったとしても丁寧に磨き直し正しいところに配置し直してみるとそれが如何にシンプルに機能しているかわかります。つまりいつまでも主人を換えてはそのものは甦生し続けるのです。

歴史というものやつながりというものが切れてしまうと人間は自分の寿命の範囲でしか物事を判断しなくなっていきます。しかし実際に自分よりも寿命の長いものに囲まれていきていると如何にいのちが連綿と繋がって紡がれて今の自分が存在しているかが自覚できます。

自分の寿命よりも長いものに包まれているからこそ、もったくなく感じられそのもののいのちはまだまだ大切に活かせばずっと先の先祖からずっと後の子孫まで私の代わりになっていのちのつながりを見届けてくださっているという安心感を感じるのです。

昔の祖父母がもったいないと常に言ってものを大切にしたのは、これらの寿命よりも長く生きている存在をいつも身近に感じるような場の中に暮らしがあったからなのでしょう。だからものを粗末にしなかったのです。

そう考えてみれば、地球や太陽をはじめこのすべての身の回りにある生きとし生けるもの、またそれは無機物であろうが風であろうが波であろうが自分よりもずっと永く遠くから存在して私を見守ってくださっているものです。

そういうものを感じる感性をいかに磨いていくかが、人類がこの先、寿命を延ばし永くこの地上で生きていくための智慧になっていくように私は思います。今一度、温故知新の大切さを学び直し子ども達に「自分の寿命よりも長い存在」を身近に感じられるような場を用意していきたいと思います。

心に寄り添う

昨日、ある方の理念取材をするなかで「心に寄り添う」ということについて話をお聴きする機会がありました。これは昔は当たり前だったかもしれませんが、今ではなくてはならないとても大切なことであることを感じます。

この心に寄り添うということが一体何か、それを少し深めてみたいと思います。

他人の気持ちが分かる人という人がいます。それは他人を単に頭で理解するのではなく、その人の思いやりやその人の心に共感し、その人がどんな気持ちでいるのかを心で理解していくことが出来る人のことです。

この心で理解するというのは、自分の中にある共感力が必要です。そしてこの共感力は単に知識で得られるものではなく、心の経験と体験の集積によって次第に理解が深まっていくものです。

齢を経ていけば、昔祖父母にしていただいたことや両親にしていただいたこと、周りの方々の見守りや先輩、先人からの御恩を感じて次第に心が育ち、他人の気持ちが分かる人に成るからです。

この他人の気持ちがわかるようになるということは、他人の心に寄り添うことができるようになってきたともいえます。

例えば、今では心で思っていなくても頭でこうすればいいのだろうと常識的に対応したりする人も増えています。子どもに対しても子どもの気持ちを心で理解しようとするのではなく、頭で思い込んで対応しても子どもは心が充たされるわけではありません。

これは動植物も同じで、すべてのいのちには心があり、その心に寄り添うことではじめて対話が成り立つからです。これは無機物のものであったとしても、使われる側の立場になって心を寄せながら使っていけばそのものと心が通じ合い満たされています。

共感というものは、人類をはじめすべての生き物たちがいのちのままに生きていくために必要な大切な能力です。これは「思いやり」のことです。人は心を寄せていく実践をすることで思いやりが育ちます。思いやりが育つ人は、次第に他人の気持ちが分かるようになってきます。自分がどんなに他人の気持ちが分からないと悩んでみても、もしも相手が自分だったらと自分の体験が増えれば増えるほどにその苦しみや歓びを分かち合うことが出来るようになります。

人は思いやりがあるから信じ合うことができ、思いやりがあるからいのちを感じることが出来ます。いのちと接している自覚をどれだけ大切にするかというのは、他人の気持ちが分かる人になることにおいては何よりも重要なことです。

昨日は「いのちに関わる大切な仕事」をしているのだから「子どもの心に寄り添う」と仰るその言葉に大切なことを学び直した気がします。どんなこともいのちに関わるからこそ思いやりの心を育てて自らが他人の気持ちがわかる人に近づいていきたいと思います。

ありがとうございました。