夜明け前の鐘

盂蘭盆会の期間は、私がご縁の深い場所のご供養をして過ごしています。むかしから毎年続けている場所、そして新たに加わった場所、減ることはなく増えていく一方ですからその豊かさも増えていることになります。

また親友の初盆にも参列してきました。両親ともお話をして彼を偲びましたが47年の生涯でしたが彼にとって長かったのか短かったのか、彼にしかわかりません。よく怪我をしたもので、体質的な病気も抱えていました。好きなことをした人生というよりは、親孝行をしていた人生だったようにも思います。私のことを心から応援してくれて何があっても味方になってくれていました。彼の妹に子どもができて、家族にまた光があったとお聴きしました。人は生まれ変わり、希望と共に前に進みます。

私ももう48歳、夢のような人生はあと残された時間はどれくらいあるのか。勝手に人生の後半だと思っていますが実は終盤だったりすることもあります。尊敬する先達や恩師、同志のように私も天命天寿を生き切りたいと願っています。

王陽明の48歳の時の詩に「睡起偶成」というものがあります。

「四十餘年睡夢中 而今醒眼始朦朧 不知日已過亭午 起向高樓撞曉鐘」(四十余年睡夢の中 いま醒眼始めて朦朧(もうろう)知らず日すでに亭午を過ぐるを 起って高楼に向んで暁鐘を撞く )

意訳ですが、「私はこの四十数年夢の中で朦朧として過ごしてきた。ようやく覚醒したらもう正午を過ぎていた。これから起きてすぐに高楼に鐘を鳴らしにいくぞ。」と。

人間は、常識や思い込みや刷り込み、時代の大衆の価値観や所属する国家や政治、比較や競争などの環境によってほとんどの人生を目の前に追われて目覚めることなく毎日を過ごしては本当のことや真実に気付かないままに人生を終えてしまうものです。

夢のようなあっという間の人生なのです。

しかし、ある時、本当はこうではなかったと気づくときに人生が目覚めます。本当は何をしにこの世に来たのか、何が自分の使命なのかと目覚めてしまうのです。

朦朧とした夢うつつの日常から志に覚めるのです。

王陽明は詩の続きにこういいます。

「起向高楼撞暁鐘 尚多昏睡正懵懵 縦令日暮醒猶得 不信人閒耳盡聾」(起きて高楼に向かい暁鐘を撞く なお多くの昏睡まさに懵懵たり たちひ日暮るも醒猶お得ん
信ぜず人間の耳ことごとく聾なるを)

これも意訳ですが、「起きて高楼に向かって夜明けの鐘をついても多くの人はまだ眠ったまま朦朧をして少しも目覚めない。このままもしも日が暮れてしまったとしていつか目覚める人はいるはず。私はみんなが耳が聴こえない人とは信じないぞ。」と。

周囲の人々に、「こんな暮らしは本来おかしい」と声高々に発しても一瞬目が覚めたと思えばまた元に戻っていく。それでもしつこく、一人でも目覚める人がいるはずと信じて鐘を撞くことが大切なことだと。

もっとも普遍的で当たり前であるほど、空気のように人はその存在に気づきません。空気が大事だといっても、そうだねと言われて取り合わないのと同じです。しかしこの空気こそを換えないといけないと目覚める人は一人でも増やそうとするのは愛があるからです。

人類は、夜明け前にいるという感覚を持つ人たちが「徳に目覚める」はずです。

私たちのすべてのいのちは地球の中で空気でつながっています。同じ空気を吸っては交換し合ってお互いに一緒一体に暮らしていきます。一度、空気を入れ替えてみると清々しい空気に仕合せを感じるものです。

あっという間の人生にいつも鐘の音が響くように仲間と場を磨いていきたいと思います。

場をつくる

私たちは場の中でそれぞれの人生の物語を実感するものです。その場は、一つの人生の舞台でもあります。その舞台は何度も時を変え、人を変えその場で物語の一つのシーンを創造し続けます。

例えば、昨日の場で今日は別の物事がある、その時点で舞台は変わりませんがシーンが巡ります。私たちは、自分を舞台の主人公としてしか見ていませんからどうしても見えるシーンは自分が中心になって繋がっている物語です。しかし場や舞台から観てみると日々に別のキャストがあり別の物語が繋がっているのです。

もしもこれが100年経てば100年の場が生れ、1000年であれば1000年の場になっている。これが100万年でも同様です。私たちは場の持つ物語の一つを今、感じることができているということです。

だからこそ研ぎ澄まされ洗練された場にいくとその場の中の舞台の物語に溶け込んで自分もまたその場の影響で濁りが薄まり浄化されたりするものです。

私たちは自分側の視点ばかりが強くなります。しかしよく全体と調和するとき、そこには場にあるすべての物の視点があることに気づくものです。その場の視点に気づくとき、私たちは日々に新しい物語をみんなで演じあうことになります。この演じる中には、宇宙全体の星々をはじめ空気や風などあらゆるものが登場していることに気づきます。

そういう感覚を持っていることが道を知る心であり、場を創造することができる人です。場を創造するというのは、普遍的な道を調えることができるということです。

私たちはつい人の方に注目してしまいますが、私はすぐに場の方に意識が出てきます。場は、全てを載せる器となりその器は時を超えて物語を育て続ける根ともなるのです。

根がある場には、自然に芽も出て花も咲き実をつけます。大切なのは、場をつくることです。

私の場の道場では、その場の持つ徳性を学び、場を感じる豊かさを伝道しています。まさにこれは江戸時代から続く心学でもあり、実践哲学でもあり、日本古来から伝来する和の真髄でもあろうと思います。

来週日曜日に飯塚の場の道場でまた新たな場が誕生するのが楽しみです。

ご縁を結んだ存在

人生を振り返ってみると、人生は出会いによって形成していることがわかります。生まれたときから亡くなるまで、誰に出会ってどのような生き方を教わり何に氣づいて感じたかということの連続です。

その出会いには、現実に人生の節目で深く絆を交わし関わった人もいれば先人や偉人といったすでにこの世に身体はなくてもその生き方を場や伝承において影響を与えてくださったものがあります。

そのどの出会いも、それぞれの人たちの人生で深く関わっているものであり私たちは目には観えない何かのご縁に導かれ続けているということになります。ご縁の繋がりの中に私たちは生きているということでしょう。

これは当たり前のことですが、ここから自分の人生が俯瞰できます。出会う人たちはご縁を連れてくる人たちです。何か必要なご縁の結びがお互いに必要であり、それを分け合うのです。つまりお互いに必要としあうということです。私たちの身体は言い換えれば、そのご縁のために必要ということにもなります。

亡くなった人たちはこの世にはいませんが、ご縁の中には生き続けています。ご縁があるのは、そのご縁を結んだ存在があるからです。そのご縁を素直に受け取り、そのご縁を活かしていけば自ずから自分が身体で体験していくことが俯瞰できます。つまり、ご縁をどのように活かしてきたかというのが自分の人生を映すからです。

この世でどのような人たちと出会ってきたか。

それは単に大勢に出会ったからいいのではなく、どのご縁に導かれているかということが重要なことなのでしょう。そしてご縁を活かすように最適な時機が訪れるのを素直に待つ心がご縁を尊重していく一期一会の人生のようにも思います。

映画やドラマのように仕立てられた有名人や偉人のような劇的な出会いのように演出しなくても、ご縁の世界ではダイナミックに毎日のように時空を超えて感動の連続を味わっているのです。魂や意識というものの変化は、四季の巡りのようにいのちの喜びを味わっているように思います。

静かに自然に寄り添い、安らかな暮らしをご縁と共に結んでいきたいと思います。

盂蘭盆会の徳

先日から自宅で今年の分の落雁をつくり盂蘭盆会のお供えをはじめています。今回は菊の花を象った木型をつかい美しい菊の落雁ができました。以前、このブログでも紹介しましたが落雁は室町時代に中国経由で日本に伝来したものです。

落雁の名前の由来は中国では軟楽甘という名前からというものと、平たく四角形に固められた表面に胡麻を散らせた様が近江八景のひとつ「堅田の落雁」に似ていたからとも。実際の内容は、仏陀の百味飲物(ひゃくみおんじき)が由来です。これは目連という僧侶が亡くなったお母さんが食べられるようにと供養に用いたところがはじまりです。

実際に手作りで落雁をつくってみると、その一つ一つの工程が供養に結ばれていることが分かります。私たちは誰かのことを思いやり、真心で手作りするとき手から供養が入ります。物質的なものの見方だけではなく、たとえ目には観えなくてもこの世には魂や思いのようなものが存在します。

例えば、「場」というものにおいても追善供養といっていつまでも亡くなった方の遺徳を偲び、いつまでもその人への感謝や魂への尊敬を失わないでいるといつまでもこの世に存在し続けています。目には観えないし直接に触ることもできませんが、意識を通して触れ合うこともでき、同時に冥福を祈るように供養をすると心で通じ合うこともできるように思います。

お経やお香、お水やお光など、また声や音などを通しても伝わっていくようにも思います。私たちはそういう目には観えないものを「場」で感じることができるのです。

私が場を調えて、場を磨くのは、目には観えないものの存在によって私たちが謙虚に覚り反省しさらに世の中を明るく徳が伝承していくような実践をして豊かさや仕合せを感じるようにしていきたいからです。

私たちの存在は、親祖をはじめ祖先からずっといただいてきた何かでできています。それも徳の一つです。その徳を大切にするために、私たちは先祖へのご供養をします。先祖を思い慕い冥福に感謝するとき、同時に自分自身の徳へも感謝していることになります。

この盂蘭盆会の時機は、一年でもっとも豊かな暮らしが味わえる時間です。丁寧に真心を籠めて、場を調えて先人たちの遺徳の全てにここから祈りたいと思います。

徳の根源

懐徳堂の学問を深めていくと、「孝」が中心になっていることがわかります。この孝とは、中国の孝経が由来で孔子が弟子の曾子に孝こそが徳の根源と語ったものから由来します。

孝経の中で「身体髪膚之を父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始なり」とあります。これは自分の身体は元々は父母からいただいたもの、その身体を大切にして傷つけないようにすることが最初の孝行であると。そこからずっと辿っていけば、ご先祖様からいただいたこの大切な身体を真心で大切にしていくことが孝行であるといいます。

そもそも「徳の根源」というものはどのようなものか、私の解釈ではそれは生まれる前から私たちに具わっているというもののことです。これは人間に限らずあらゆる生き物にも等しくいえます。

生まれたばかりの鶏でも本能があり、誰も何を教えてなくても餌の食べ方や遊び方、水の飲み方からその体の使い方や鳴き声が具わっています。親は子を守り、子は親を信頼します。これは自分が勝手に得たものではなく、父母をはじめ先祖からの徳の根源の存在があるからです。

自分の身体と共に生きている存在に感謝してそれに孝行することは先祖に孝行することと同じとも言えます。その気持ちをもって実際の父母を自分と同じように孝行をし、そして同時にその先のご先祖様たちの存在にも感謝を忘れないで暮らしていくことができればそれは徳を積んでいるのと同様であるということでしょう。実際には、その孝行を盡すのを広げて他にも国家の主や上司や先輩にも仕えていくことを忠孝ともいいました。明治維新以降はこの忠孝という言葉が戦争に使われ戦後はこの忠孝を忘れるような教育が入り家の概念も薄れて失われていきました。今では歪んだ個人主義が蔓延し、忠孝はパワハラや押し付けともなっています。

本来、この忠孝は「徳」の存在を感じるものであり、身近な徳を理解し実践するのに何よりも近道になっているものだったように思います。自分を大切に見守ってくださっている存在を自分と同じかそれ以上に深く思いやり愛することによって私たちは徳の根源にいつも出会うということでしょう。

懐徳堂もその教義の中で、「孝」「悌」をまず第一の徳目として掲げていたといいます。具体的には「父母によくお仕えするのを孝といい、年長者によくお仕えするのを悌と名付ける」とあります。そして「孝悌の二字は日夜心がけて、一生忘れてはならない」ともいい學問の道に導いていました。

同じく近江聖人と呼ばれた中江藤樹先生は、「父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し」といい同じく孝を第一義に実践をされ徳のことをあるがままに伝承されました。また孝行にならないものとして「にせの学問は、博学のほまれを専らとし、まされる人をねたみ、おのれが名をたかくせんとのみ、高満の心をまなことし、孝行にも忠節にも心がけず、只ひたすら記誦詞章の芸ばかりをつとむる故に、おほくするほど心だて行儀あしくなれり」ともいいました。つまり孝行や忠節がなくなると、人は父母の恩徳を忘れているということでしょう。自分の代のことばかりを憂いて夢ばかりを追いかけていると志が損なわれていくのはいつの時代も同じです。

懐徳堂の代々學主の生き方をはじめ、三浦梅園先生、麻田剛立先生など道なき道を拓き子孫へと徳を伝承された方々は共通して静かに隠棲し名誉や地位や権力やお金など私利私欲よりも公や天下万民、あるいは子孫たちの真に豊かな未来のためにと生涯を盡されておられたことが生きざまから観えてきます。この根本には、常に共通して「孝」があると実感します。

これから盂蘭盆会の時節ですが、ご先祖様のことをずっと感じ続けるこの期間はとても仕合せを覚えます。落雁をつくりお供えし、献花し香や火を絶やさずお水を添えてお祈りをする。父母の恩徳や家の有難さを最も感じる場です。

長い目で観れば最も子どもたちに伝承したいのはこの「孝の心と実践」です。引き続き、自らが恥ずかしくないように心身を調えて心穏やかに恩徳に報いていきたいと思います。

古今を懐かしみ真の今に至る大切さ

昨年、三浦梅園生誕300周年記念シンポジウムを開催したことのご縁からその學朋で同志の天文学者、麻田剛立のことを知りました。麻田剛立を知って大坂にある町人による學問所、「懐徳堂」にご縁が結ばれました。私が取り組む「徳積堂」に名前が似ていてすぐに関心が湧き、どのような「場」であったのかを深めました。

懐徳堂は今から300年前の江戸時代、五人の町人有志が出資して創設されその後も町人有志により運営された私塾ということがわかりました。そしてその學風も自由で寛容、自律や自助、そして貴賤貧富は関係がなく、謝礼も貧苦の方々は受けずまた聴くだけでもいいとあります。この当時、世界のなかでもこれだけ開かれ純粋に學問に取り組める場はありません。

最初の學主は、三宅石庵といい万年先生と呼ばれていました。朱子学を始め、陽明学、古義学、医学等々の諸学の善いところ取りをするから周囲から鵺学問といわれたそうです。鵺とは伝説の妖怪の総称です。鵺の見た目はサルの顔にタヌキの胴体、さらにはトラの手足に尻尾はヘビのようになっていてここから鵺学問とは得体のしれない不思議ではっきりしない人物や学問だといわれたということです。現代でも似たようなもので、分類わけできないものは得体のしれないものとして評価されないのと同じです。しかし本来はこの鵺のように、真の學問は「分かれていない」ところにあるものです。一物全体ともいい、一円融合ともいい、真の実践者たちは自然体で丸ごと自由に學び問い続けます。この懐徳堂の學風は、この鵺学問の実践がその後に偉大な影響を与えます。

その初代學主、三宅石庵はこの私塾創設の理念や初心に「人の道」を掲げます。

『扨学ト云ヘルハ、何ヲ学ブモノゾ、道ヲ学ブコト也、何ヲカ道ト云フ、人ノ道也、人ニアラザレバ各別、人ト生レタルモノハ、人ノ道ヲ学ハ子バナラヌ也。(學とは何を学ぶのか、それは道を学ぶのである。道とは何か。それは人の道のことである。人と生まれたからには人の道を学ばなければならない。)』

學=道=人だと言います。つまり人は道を學ぶことが誠の人になることだと、そしてこう続きます。

『シカルニ気質ノ偏ガ有ツタリ、耳目ノ欲ガアリテ、フト我ガ生レツキテヲル道ヲトリ失フナリ、ソレヲ失ナハズ、生レノママナルガ聖人也、学トハソレヲマナブ也。(現実には性格の偏りや情報の刷り込みや目先の欲望によって人は自分の生まれつきの道を失うことがある。それを決して失わないままでいることが聖人である。學とはこの聖人になる道のことである。)』

これは人=聖=徳であり、自分が生来もっている「徳」をいつまでも失なわずに存分に発揮できることが聖人でありそうあり続けるように學び続けることが道徳であると。

畢竟、人の道は「徳」に尽きるのでしょう。

懐徳とは、その徳の意味を心に深く省みて生きようとする生き方のことです。ご縁あって今月の8月25日に「徳積堂と場の道場」で「懐徳堂300周年供養祭×徳が循環する未来の甦生シンポジウム×ブロックチェーン経済」を開催することになり、先んじて先人たちのご遺徳を偲び墓前にご焼香と献花とご念仏をお供えしてきました。また旧懐徳堂跡の「懐徳堂旧阯の碑」でも一緒に登壇する禅僧、星覚さんと法螺貝奉納をはじめ供養祭をしてきました。大阪の今を眺めつつ、日本人の和の系譜に思いを馳せる善い機会になりました。

この今は普遍的な道を生きた方々への懐かしさがあってこそ真の今になると私は信じています。今を生きる私たちは子孫として先人たちの遺徳をよくよく顕彰し伝承し、その後の道を歩む一人として真摯に學問を心の中で磨き続けていくことが大切なのではないでしょうか。懐徳堂を知り、明治以前にあった思想は、私たちの思想の根源と結ばれていることに氣づきます。明治のころに歴史が消失し分断されましたが今一度、懐かしく徳を結び直して道を続けていきたいと思います。

古今を懐かしみ真の今に至る大切さを忘れないで300周年のご供養といたします。

懐徳堂の代々の學主、創設者の方々。またご縁を結んでいただいた方々。懐徳堂が144年間、塾生たちが学んだ場所跡。

三宅石庵
中井甃庵
三宅春楼
中井竹山
中井蕉園
中井履軒
中井桐園
並河寒泉
五井蘭洲
五井持軒
富永仲基
山片蟠桃
長崎黙淵
中村良斎
井上赤水
麻田剛立
緒方洪庵
緒方八重

誠の道

富永仲基は、江戸中期の思想家であり大坂の町人の儒者で懐徳堂に学び、形骸化している神儒仏を批判して本来の「誠の道」という道徳実践をその著書で説いた人物です。

その生涯たるは独立不羈であり、32歳で亡くなりましたがその遺した著書が後世の人たちに大きな影響を与えます。三浦梅園の時もでしたが、その時代に発見されていなくてもその遠大で普遍的で私心のない思想に人々は魂が揺さぶられるのでしょう。

そのように数百年以上などの時を経ても今でも燦然と光を放つ人物は、普遍的な道理、つまりは富永仲基の言葉を借りると「誠の道」の上におられたのでしょう。その誠の道とは何か、これは現代にこそみんなで学び直す必要があるのではないかと私は思います。

富永仲基は翁の文の中で誠の道は「あたりまへより出来たる事」と書き記します。

「天よりくだりたるにもあらず。地より出たるにもあらず。只今日の人の上にて、かくすれば、人もこれを悦び、己もこころよく、始終さはる所なふ、よくおさまりゆき、又かくせざれば、人もこれをにくみ、己もこころよからず、物事さはりがちに、とどこほりのみおほくなりゆけば、かくせざればかなはざる、人のあたりまへより出来たる事にて、これを又人のわざとたばかりて、かりにつくり出たることにもあらず。」

私の解釈では人は日常の暮らしの中で日常的に当たり前に道徳実践をする存在であるといいます。本来の道徳とは、誰かが定めた何かをすることではなくそれぞれが自然に多様な暮らしの中に存在するものであるといいます。

この暮らしの中に当たり前があると、高尚な文章の中ではなく日々の実践こそ誠の道と説いたように思います。二宮尊徳が、かつて弟子になった儒者の富田高慶に君は学者だそうだが豆というものを知っているかと尋ね、豆という字を書いたところその豆は馬は食べるかと答えます。そして自分の育てた豆を持ってきて自分の豆は馬も食べると言った逸話があります。

何をすることが誠の道で、何をすることが道徳実践であるかを実感する話です。

私はそれを「暮らしフルネス」の実践の中で取り組んでいます。そもそも暮らしというのは、人間がこれまで生きてきた全てです。私はその暮らしを通してはじめて人は道徳が発揮されていくとも思います。

日々の暮らしの中でどのように道徳実践をするのか、真に世のため人のために我を捨てて志をもって生きていくためにはこの「あたりまへ」のことから何よりも一番に取り組む必要を感じます。

そしてそれは今の学問の在り方をもう一度、見つめ直すという原点回帰の姿です。現代は、富永仲基のいうようなことがほとんど語り合うことがありません。むかしはとか今とかを議論する前に、古今普遍的に最も大切にしてきた暮らしを見つめていくとこうなります。

『もろもろのあしきことをなさず、もろもろのよき事を行うを、誠の道という』

空気や水や太陽も当たり前になってしまうとその価値がわからなくなります。この人としての誠の道もまた同様に気付かなくなるのでしょう。至誠こそ全てと実践してきた先人たちは、それぞれ己の徳を活かし誠を盡しました。

時代が変わっても、学問の根源はこの己の徳を深く心に省みて今を素直に生き切るということでしょう。日本人に流れる和の系譜、かんながらの道を邁進していきたいと思います。

徳積堂と懐徳堂のご縁~富永仲基の氣づき~

富永仲基のことを深めていると、歴史の面白さを改めて感じます。私たちは現代に生きていますが、なぜ今のような歴史観になっているのか。そして歴史のはじまりから今に至るものは実際にどのように編纂されてきたのか。歴史をただ人の言い伝え、あるいは書かれたものを鵜呑みにする前に、どのように編纂されてきたかを理解するというのはとても大切であるように思います。

もっと言えば、なぜ言葉はこうなっているのか。なぜ音と言葉は今のような関係になっているのか、あるいは本当は最初は何で何をどう加工されてきたのかなどのことをもっと知ろうとすることはこれから何をどう自らが自らの歴史を人生で編纂するかという事実と向き合うにも重要だと思います。

思えば、孔子をはじめとした人たちのことを儒者と呼び、仏陀をはじめとした人たちのことを僧侶と呼びます。しかし元々孔子や仏陀が本当に今のようなことを言ったのか。かれこれ2500年以上前の話で、本当にその時代の人だったかも実際には定かではありません。そして経典をはじめ、解釈された本などもそのずっと後になって誰かによって編纂されたものです。本人がすでにこの世にいないのだから、そういう意味だたったかどうかも本当のところは定かではわかりません。

そもそもこの定かではないことを如何に信じるのか、善いことを言っているのだから別にそれでいいではないかということもあります。それをいちいち調べて紐解き、本当はどうかということを言い続けていたら話が纏まらなくて紛争すら起こるではないかと。しかしわからない事実はどうあれ、「編纂されたこと」はちゃんと調べて紐解く必要があるように思います。

ひょっとしたら私たちが2500年前からと信じていたものが50年前に誰かが新たに上書きして編纂した別ものだったりしたら驚くと思います。しかし実際には、時代の価値観をはじめそれぞれの民族の性質、あるいは言葉の定義の違いやその時代の権力者たちの思惑などあらゆるものが上書きされ編纂されます。とにかく全てがちぐはぐになっているのだからそれを編纂を見極めるというのは難しいのです。

富永仲基はその著書、「出定後語」のなかで加上説を唱えました。これは歴史は代が経ることにそのさらに上の歴史を載せて編纂していくということ。原初のものがあって、時代が経つたびにさらに古い時代のことを持ちだして歴史を改ざんしていくという事実です。なので人類の編纂は事実に対して二極化されてどちらが正否での議論はなく、もっと古いものを持ちだして単に上書きしてきたということです。

これは個人でもある自分の先祖のことを遡るとその人本人はもうこの世にはいないのだから推定で色々と調べて編纂します。しかしその先祖が本当にそうだったかと別の子孫が語ればその人はいないのだからもっと前の先祖からの話を付け加えて説明します。つまりは後世になるたびに上書きを繰り返していくという原理です。それは本人とはもう別の話になっています。これはもう本人にしかわからないということでしょう。それでも本人になり換わって編纂していく、これが歴史の編纂をしているということでしょう。それに今の私たちが信じている歴史は勝者になればすまたそれまでの敗者の歴史を上書き編纂していきますからその時にももっと古いものを付け加えては自己の歴史を新たに加えて正当化していくということでしょう。

編纂というのは、編纂者が何を上書きしたかということをよく観察すると歴史を紐解くことができるように思います。不思議なことですが、絡まった紐を紐解くように上書きされたものを少しずつ剥がしていくなかでその奥に入っているものを洞察していくということに似ています。

笑い話ですが、全部紐解いてみたら中身が何もなかったということもあるかもしれません。最初の点が何だったのか。富永仲基は別の著書「翁の文」で「誠の道」ともいいました。言葉や文字が氾濫し複雑極まりない現代の情報が溢れかえった仮想経世の真っただ中でその最初の歴史の「点」を覗いてみたいものです。

ということで、今月の8月25日に福岡県飯塚市にある「徳積堂」で富永仲基が学んだ懐徳堂300周年記念を兼ねて先人たちのご遺徳を偲び徳積循環経済のシンポジウムや供養祭を開催しようと思います。

点をどのように結ぶかのなかに、真の徳積を味わえるかもしれません。楽しみにしています。

懐徳堂の甦生

昨日から懐徳堂の代々堂主や先生方のご供養をしにそれぞれのお墓参りをしてきました。いくつかのお墓にはその方の人生がどうであったかが文字で刻まれ、徳が顕彰されていました。

実際に歴史を省みるとき、現地に赴きそれぞれの遺した跡を辿ることで知識として得ている情報が実際に感じられるものに変わります。そこには、場の不思議があり場にはいつまでも徳の余韻が残るものです。

それぞれの墓前で、ご冥福をお祈りし献花、焼香をし、お経をあげて現状の世の中のこと、私の志、また行く末や未来について報告してきました。

先人たちはどのような未来を画いてその時代を生きておられたか、その思いに心を合わせる時間になりました。

そもそも人が何かをするとき、そこに志があります。懐徳堂であれば、最初に五同志が資金を持ち寄り設立するときにその志を定めて開堂します。そして道なき道を切り拓き、その道の最中に志ある方々がその場所でその志を同志や同胞、仲間と磨き合い精進して道をさらに結んでいくのです。

懐徳堂の玄関柱には中井竹山の筆になる竹製の聯が玄関柱にかけられこう文字が刻まれていたといいます。

「学に努めて以て己を修め、言を立てて以て人を修む」

そして懐徳堂が明治維新後に体制が変わりその144年の歴史に幕をおろし閉堂する際に学主となった並河寒泉は一首したため門前に下記を詠み掲げました。

「百余り四十路四とせのふみの宿 けふを限りとみかへりて出ず」

しかし、その後も同志や有志が何度も懐徳堂の徳が顕彰され甦生を続けて今に至ります。

道というものは、最初切り拓いてからそのうち誰も通らなくなると草や木が生え鬱蒼とした森になります。しかしその誰かが通った道を、改めて歩み直して調えているとその遺徳の道が永遠に場にあり今でも見事に甦生するのを感じます。

先人たちの歩んでこられた道は、失われることはなく今でもその続きを私たちが歩んでいるともいえます。改めて、志を持ち、同志の理想の未来を共に歩むと心に深くその士魂が響いてきます。

懐徳堂がはじまり300年が経ち、大坂をはじめ日本は経済大国としてどのように振舞っていくのか。何をもって経済大国であり、何が私たちの先人たちが目指した経済の本質であるか。今一度、原点に帰り懐徳堂から学び直していきたいと思います。

懐徳堂300周年のご供養

懐徳堂の300周年のご供養のために今日から大阪に向かいます。それぞれの先人たちの墓地にお伺いしてご遺徳を偲びます。そもそも私たちが今の時代にこれだけの様々な恩恵をいただいているのは先人たちの志と実践、実行の御蔭です。その志の糸を、連綿と継ぐ方々によって長い時間をかけて結実してきたものです。

例えば、学問においても大志を抱いて世のため人のためと偉大に願い取り組んできた人物たちが一代では終わらないその志をやり遂げるためにいのちを懸けて道なき道を切り拓き挑んできました。その挑んだ道の壮大さに感銘を受けた同志たちが弟子になり、或いは朋となりそれぞれの場所で志を継承して結実に貢献していきました。

こういうものは志の系譜を辿れば観えてくるものです。特に日本は、和の系譜があり最初まで辿るとそこには偉大な先人たちの志が連綿と結ばれているものを感じます。特に和という祈りは、縄文時代よりもずっと前から私たちの民族が大切にしてきた真心です。

その真心の道を、時代時代に生きた人たちがそれぞれの持ち味と徳において発揮して世の中の和に貢献していきました。私はこの和の系譜の実践こそが、このブログのタイトルにもなっていますが「かんながらの道」だと信じています。

私もかんながらの道を歩みたいと普遍的な同志たちの生きる魂に憧れ取り組むなかで和の系譜の方々の遺した言霊や士魂に本当に励まされています。

現代は、人類の行き過ぎた欲望の果てに思考停止し雑なものや余談のような話ばかりが出ては情報に操作され、懐かしい徳が輝くシンプルな生き方や暮らしが蔑ろになっています。それは知識として持つものではなく、志としてふるまうものであったはずです。

そのふるまいの一つに、ご供養や遺徳を偲ぶというものがありました。私たちが先人の御恩に深く感謝して自己を見つめどう生きるのかを学び直すのです。本当は、知識ではなく生き方からというのが志の編み込みになるように私は思います。

心静かに祈りと共に歩んでいきたいと思います。