有徳の志

富者有徳、富国有徳という言葉があります。もともと富者とは何か、その定義が有徳であるということです。これはどういうことかといえば、徳が積み重ねられることこそが真の富であるということです。この富という意味は、現在は大金持ちや資産家というイメージになっています。

この富の字を分解すると会意兼形声文字 です (宀+畐)となります。これは「屋根 (家屋)」の象形と「神に供える酒樽の意味を持ち、「満ち足りている」ということ、そして家が豊であるということです。

つまり家が豊かになっていくのが富であり、それが国家であれば国家が豊かに満ち足りていくこと、そして個人であれば家が豊かに満ち足りていくことを意味します。そしてこの有徳というのは、個人であろうが国家であろうがみんなが徳を積めば豊かさはさらに満ち足りていくという意味です。

むかしの伝統的な日本人は、貧しいようにみえて貧しいのではなくただ質素であったといいます。これは現代のように単なる貧乏金持ちという分け方ではなく、徳を積むから質素であったことが容易に想像できます。

つまりお金があるかどうか、稼ぐかどうか、競争に勝つかどうかのような今の消費経済ではなく本来の経世済民、つまりは道徳と経済を一致させる道をそれぞれが実践していました。それを有徳といいます。

この有徳の実践があってこそ、年数を重ねていけばいくほどに富は満ち足りて豊かになっていくのです。自分の時代で使い切っていこうとしたり、先人の貯えた徳をすべて放出していこうとしていたら国家も個人も本当の意味で貧しくなっていきます。

先人たちはそうならないように、徳を失わず徳を穢さずに徳の実践にそれぞれが努めて精進していきたのでしょう。その御蔭様で今の日本国があり、自分の家があるのです。

改めて今の時代をよく省ると、みんなで徳を目指すというような気風はあまり感じません。それぞれが日々に追われ忙しく余裕が失われているようにも思います。

だからこそ敢えて目覚めた人たちから先に、子どもたちに徳を推譲していけるように何よりも徳を優先し、徳を循環させようと自他の喜びに集中し勇気を出して実践していく必要があるように私は感じます。

まずは自分から有徳の志を実践していけるように精進していきたいと思います。

主食の甦生

私たちが日ごろ食べているお米にはとても長い歴史があります。特に近代においては、収量の確保からあらゆる食味がいいお米が多数開発されて私たちの食卓のお米の味は数々に進化してきました。

コシヒカリという銘柄があります。この開発の歴史も、収量重視から品質重視への転換でその当時の人々によって開発されてきたものです。最初は欠陥品種として病気の弱さや倒れやすさなども指摘されましたが、それを栽培方法などを工夫することで改善し、今では新潟のお米の代表となっています。そこにも関わった人たちの歴史があり、特に魚沼では風土と一体になってコシヒカリを見守り現在では日本の農家の約40パーセントがこのコシヒカリを栽培しているともいいます。

このコシヒカリという名前は、越前、越中、越後などの国々を指す「越の国」と「光」の字から「越の国に光かがやく」ことを願って付けられたといいます。その名付け親である元旧新潟県農業試験場長の国武正彦(福岡県出身)が「木枯らしが吹けば色なき越の国 せめて光れや稲越光」(冬には雪に閉ざされてしまう越の国にあってコシヒカリが越の国を輝かせる光となりますようにの意)」と和歌に詠んだことによるといいます。

同じ福岡県出身で、これから私たちがエミタタワ(笑みたわわ)の新たな品種の発展に取り組むのにとても参考になる人物であり、その生きざまや生き方にもこれからどのように日本のお米に取り組んでいけばいいかということも直観します。

もともと私も震災後から会社で無肥料無農薬でお米づくりに関わってきました。収量を気にせず、子どもたちの憧れるような生き方や働き方を目指し田んぼでの暮らしを充実させていきました。一般的に国が定めるような食味とは異なりますが、その美味しさは格別で今ではたくさんのファンがいて喜んでくださっています。

今回、福岡県朝倉市で復古起新してお米づくりに関わることにも深いご縁を感じます。

このエミタワワ(笑みたわわ)は、私の叔父さんが名付け親です。まず平成27年、農研機構との共同開発で研究段階にあった「羽919」という品種改良に着手し収穫1年目から羽919には他のお米にはない粘性・膨らみ・おいしさがあることに気づきます。そして翌年には「西海307号」へと名称を更新し、その後も改良を重ね続け、令和元年10月に農水省の品種申請の受理のもと「笑みたわわ」として誕生します。それを農薬・化学肥料一切不使用の安心でおいしいお米で、笑みがたわわに実りますようにと今まさにその志が世の中に出ていく黎明期です。

日本は、農家に対する政策を失敗してきた国だと私は思います。現在では、農家の担い手も減り、田んぼは化学薬品で傷み、現在の米騒動にあるように民衆の怨嗟の声も出ています。海外からのお米がこれから大量に流入してくるのも予測できます。

だからこそ、本来の日本人として私たちの主食をどのように大切にするかが問われる時代でもあります。子どもたちのためにも、今まで取り組んできたことをさらに磨き上げ、主食の甦生に挑んでいきたいと思います。

遊行の甦生

一遍上人という人物がいます。遊行宗の開祖の方です。別の言い方では遊行上人ともいいます。すべて捨て去る実践を遊行という言い方で求道なさった方です。その一遍上人の書いた書物などは亡くなる前にすべてご本人が焼いてしまったため残っていません。また「我が化導は一期ばかりぞ」と常に一期一会に生き切ることのみで残すということをしませんでした。

その後に、遊行上人を慕う人たちによって教義を定め組織化されて今に至ります。そしてその遊行の実践語録として後世の人たちが語り継いできたことで今の私も存在を知ることができます。

結局、物質的なものとしては残さなくてもその生き方や生きざまは人々の心にいつまでも残っていくということかもしれません。もしも歴史でお会いできるのであれば、ぜひお会いしてみたい人物の一人です。

そもそも捨てるというのは、今の時代ではデトックスという言い方もします。このデトックスは解毒を意味する英語の「detoxification」を短縮した呼び名で、体内から毒素や老廃物を取り除く言葉です。

日本では古来から、「穢れを祓う」という意識があります。これは神道の実践の一つで、心身を清浄にしようとするものです。日々に置かれた環境によって私たちは穢れがつきます。これは掃除であれば、何もしなくても埃が溜まっていくようにチリも積もっていきます。そのままにしておけば、害虫がわいたり、病気の原因になったり、家も傷みます。掃除やお手入れは、常に清浄であるために行うものです。

私たちは日々に学んだと思っていても、その学んだこと自体が知識だけが増えて実践が追いつかないとそれは毒にもなり穢れにもなるものです。本来は、体験して実践してみたものを知識として調和させていくのが學びの本質ですが現代のように先に知識ばかりが詰め込まれて分かった気になってしまうとさらに毒や穢れになって積もり積もっていくものです。一度、そうやって貯えた知識や毒は次第に執着となり本来の自己の素直さや正直さを濁らせていくものです。

現代の環境は、あまり清浄を保つのに相応しいものではありません。消費活動を発展させるばかりでゴミが増え続けているような時代です。また忙しい日々に追いかけられ、心を静かにゆったりと落ち着いて休む時間も取れなくなっています。

しかし普遍的に人間の幸福や豊かさを人々は求めては苦しむものです。遊行上人はこう言います。

「無為の境にいらんため すつるぞ実(まこと)の報恩よ」

そしてこのような和歌も語り継がれます。

「旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨られぬ 処あるべき」

どのような思いを旅をしていたのでしょうか。きっと一期一会でいるためにあらゆるものを捨てていたのではないかと勝手に空想してしまいます。かの仏陀も万物は変化しないものはこの世には一切ないからこそ、怠らず精進せよと説いたといいます。

何が精進であるか、その一つがこの遊行であると私は直観します。

遊行をこの時代に甦生し、懐かしく新しい真の豊かさを試行錯誤していきたいと思います。

 

道徳とは何か

この二日間、仲間と共に遊行を行いました。中国や台湾からの方も参加して、お山を歩き、いのりを味わいました。一期一会のめぐりあわせに豊かさと仕合せを感じました。

人はそれぞれの道をそれぞれに歩むものです。

しかしその時、一瞬のズレもなく絶妙に出会います。お互いに必要なタイミングで最幸の瞬間に邂逅するのです。それをご縁ともいいます。ご縁は、人とだけではなく場とも出会います。天候、光の加減、星の運行、つながる歴史、とても書ききれないほどの膨大な奇跡の連続です。

それを感じて生きる人は、常に一期一会の生き方をしているともいえます。そもそも修験道をはじめ、すべての道は生き方のことです。どのような生き方をしているか、その実践や実践者たちの背中には學びの原点や根源があるものです。

そしてそれは同じ場、同じ時、同じご縁を味わい盡す時にこそ顕現するものです。

道をどのように歩むのか、それが學ぶということの本質です。

そして徳というのは、その歩み方のなかで何を最も大切にするかということです。

例えば、素直であること、謙虚であること、正直であること、思いやること、助け合うこと、真心でいること、心身を清め続けることなどが徳になります。

道徳というのは、本来は言葉や単語で理解し説明するものではなく実践を通して學び続けていく人間のいのちのいのりです。

いのちのいのりには、答えはなく生き方があるだけです。

生き方を學ぶ人たちが、いつの時代にも道を結んで螺旋のように歩んでいきます。

一期一会は、真の幸福の道ということでしょう。

このまま丁寧な暮らしを続けて、最期の瞬間まで人間らしく生きていきたいと思います。

手の持ちよう

人の手というものは色々なことができます。いのちを扱うのも手ですし、奪うのも手です。この手を通して私たちは心を見つめます。料理などはその最たるもので、自分の手を通して食事をつくります。その手はどのようにいのちを扱っているのか、そしてどのような心でいるのかが味に出てくるものです。

私はよく炭を使いますが、炭火の火加減や焼き具合などは手を通して実感しています。目で見ているというよりは、手で観ているという感覚です。舌は味を感じるものですが、実際には手で味を観るという具合です。

手は、他にも色々なことを感知できます。私は、たくさんの石を扱うからか石の持っている波動や石の持つ性質なども触ると感じたりします。他には、道に迷ったり自分の行きたいところを確認する時も手かざしのように手を向けて位置を確認したりもします。

指先からあらゆる情報を取っては、そのものの使い方や活かし方を感じます。この今は、パソコンのキーボードを打ち込みますがその指先には心やいのちが宿りこの文字を綴ります。

指先には心が宿っていて、その心をどのように感じるかでまた手の使い方も磨かれていくのです。

この世界は、人間がこの手の力を活かすことで創造されてきました。この手が世界を創ったともいえるのでしょう。

その手を何に使うか、その手で何を磨くか、手の持ちようですべては変化します。

自分の手の持ちようは、まさに心の持ちようです。

手と心を合一して、丁寧にお手入れをしていきたいと思います。

徳に報いる

人間は、今ある徳はどうやって頂戴したのかと突き詰めると必ずその徳に報いようと考えるものです。徳とは何か、それはいのちのことであり「この世の全ての存在」とも言えます。その存在そのものに感謝して生きていこうとする生き方のことです。

この生き方を生涯大切にしたのは、私も心から尊敬する二宮尊徳先生です。こういう言葉を遺しています。

「遠きを謀(はか)る者は富み、近きを謀る者は貧(ひん)す。夫れ遠きを謀る者は、百年の為に松杉の苗を植う、まして春植ゑて、秋実のる物に於てをや、故に富有なり、

近きを謀る者は、春植えて秋実法(みの)る物をも、猶(なほ)遠しとして植ゑず、只(たゞ)眼前の利に迷ふて、蒔かずして取り、植ゑずして刈取る事のみに眼をつく、故に貧窮す。

夫れ蒔かずして取り、植ゑずして刈る物は、眼前利あるが如しといへども、一度取る時は、二度刈る事を得ず。蒔きて取り、植ゑて刈る者は歳々尽くる事なし、故に無尽蔵(むじんざう)と云ふなり。

仏に福聚海(ふくじゆかい)と云ふも、又同じ。」

そして徳に報いるというのは、天地人の三徳に報いるともいいます。私なりの解釈で今でいうのなら、「自然を尊敬し、場を調え、自己を磨く」ということでしょうか。調和というものは、徳に報いるときにはじめて顕現するものです。

本来、いのちの幸福は調和にこそあります。調和というのは、自分も自然の中に一体になって存在することです。そして調和は眼前の損得を追いかけるような状態では観えてきません。競争社会で比較され、差別が優先する社会では目先にばかりに追われる忙しい心になりやすい環境があります。

しかしよく考えてみて、自分がなぜ今、活かされているのか、どのような徳の恩恵をいただいているのかを思えば何をすべきかは自明するものです。

生き方というのは、それぞれの徳に報いることで磨かれていきます。

時代が変わっても、普遍的な道は変わることはありません。先祖への感謝と子孫への推譲を祈り、日々の徳積に精進していきたいと思います。

徳の中心

嘘をつくなというのは幼い時に親に教えられるものです。嘘というのは、本当ではないということです。本当ではないというのは偽物ということです。本物は嘘がないということです。嘘がないというのは、ではどういうものをいうかといえば自分の心に嘘がないということです。これは正直であるということです。

正直というのは、どんな状態でも正直に生きるという生き方のことです。正直に生きる人のことを誠実ともいいます。誠実な人は、自他ともに信頼されます。自己を信頼できる人は、他人からも大いに信頼されるのです。

生き方を貫いている人は、その生き方ゆえに嘘がありません。日々に、自分の心に確認してその心が正直であるように努力精進していきます。正直であるからこそ、信頼されその人は社會に認められます。

また正直にも感謝と同じように段階があるように思います。

例えば、最初の正直は他人に誠実であることから始まり深い正直さはどのような環境や状況であっても自己に誠実であり続けるということです。

実際には今の世の中は、食品偽装や医薬品や化粧品、環境商品や政治をみても残念なくらい嘘だらけです。防腐剤化学調味料無添加と謳いながら実際には本来のむかしながらのつくり方をしません。漬物であっても、現代のお金にするためにはあり方を換えても世間の声や便利さを優先します。お金にならなければ生きていけないから、これくらいはいいだろうと嘘をつきます。そして購入する方も、嘘が入っていることは当たり前だろうとそれでもこの程度の嘘ならと気にしなくなっていきます。

人間の欲望によって、正直さは歪められていき他人や周囲が納得していればそれも正直でいいと正直が流されることや、大多数に合わせること、仕方がないと妥協することが正直さと誤認されるようにもなりました。

そうしたのは、嘘をつくなといった大人側の責任でもあります。

そう考えてみると、むかしの人たちは道徳を子どもに教えるとき自分自身のことを深く反省していたからこそ、そして生き方や実践をしていたからこそその意味の大切さを知っていたように思います。

西郷隆盛がお母さんや郷中教育から「嘘をつくな、負けるな、弱いものをいじめるな」と教わってきました。その結果として、信頼される人物に育っていきました。人間がどうあるかというのに、複雑な教育メソッドなどは必要ありません。

もしこれだけはと選ぶのなら、やっぱり「嘘をつくな」というのは一番なのかもしれません。実際には、嘘をつかないとなると本当のことを直視して本物になる努力が今の時代は必要です。

何が本物で何が偽物か、何が本当で何が嘘かを見抜く力も必要です。本質を學ぶことや、元々何かという根源を學ぶことも大切です。そして何が自然かという自然観も養う必要があります。また真実の歴史を深めることも大事です。

人間らしさは、正直さの中にこそあります。

正直はまさに徳の中心です。

徳を磨いて、正直の実践を積んでいきたいと思います。

調和

現在、英彦山の宿坊の周囲をお手入れ調えていますがこれはお水を守るためでもあります。もともと修験道の宿坊は、お水を守るように建っているところがほとんどです。そこには大切な水源があったり、お山の中での要所であり、修行者たちを観守るような場にあります。

そもそも信仰の原点は、いのちやお水にあると私は思います。元々、そのいのちの正体や根源が何かをつきつめるとき、私たちは調和というものや循環のもつ偉大な叡智に気づきます。不調和があるのは、調和を學ぶためです。私たちは、そのものの本質を學びその存在を感じるようにできています。これは寒い暑いがあってこそ、その調和がわかるように「間」にこそ感得できるものがあります。そしてその間は、「場」によって行われます。場で共に學び合うことで「和」が到来します。

日本は、常に調和を尊重してきた民族でありそれが信仰の高みであったということだと私は思います。

私は修行とは何のために行うのかというと、調和するために行うものだと感じています。すべてのいのちと調和するとき、人になるからです。本来の人になるとき、私たちはそこに仕合せを感じます。

自然の中に一体になっているとき、そのすべてのものと結ばれて境界が消えていきます。境界とは自分が線引きしたものです。自分もその自然の中に入っていくのなら、まるでお水のように万物と溶け合います。この溶け合うというのは、一体になるということです。

修行とは、自他一体の境地で体得でありそこに向かうために様々な種類の修行が開発されてきました。特に今の時代は、助け合いや協力のための修行最も効果的だと感じます。それだけ孤立し、分断し、個が強くなり過ぎているからです。つまり人間優先主義、人間至上主義になっていて都市化された人工的な社会で生きているからです。

自然を優先すると人は助け合い協力を学びます。自然の中では一人では生きていけず、どんなことも助け合いが必要です。例えば、お山であれば石垣一つつくるにも協力がいります。また田んぼでも田植えや収穫も協力が必要です。

現代はお金になるからと何かと便利なものや人工的な機械や道具を使いますがそれでは、調和になりません。

調和は、人が人になる道です。

正直であるように、素直であるように、そして嘘がないようにと生きていくためにも私たちは調和を羅針盤にしていく必要があるのでしょう。

引き続き、暮らしフルネスを通して調和を実践していきたいと思います。

いのちのめぐり

今年もしだれ桜の御蔭さまでたくさんのご縁をいただく季節になりました。一つの木にも一つの物語があり、同じ木は存在しないと改めて実感します。豊かさというのは、今居る場の周囲とどれだけご縁や関係性を結び丁寧に暮らしていくかということに尽きるようにも思います。

昨夜は、友人たちが先方から訪れゆったりと夜を桜と共に穏やかに過ごしました。夕食のおもてなしでは、しだれ桜の隣にある柚子の老木からいただいた柚子胡椒で、またその桜の下にある梅の木からいただいた梅干しを食べました。他にも、きのこの汁にはお水もこの桜の場所の湧水、また桜の傍にある枯れた古木についたきくらげも入れました。みんなこの桜の周囲のものを一緒にいただくのです。

こんなに桜三昧で場所三昧の贅沢で豊かなことはありません。

私たちは自然のめぐりと一体になる時、いのちのめぐりを味わいます。このいのちのめぐりは、場所とのめぐり逢いです。私は有難いことに、この場所に出会い、この場所の徳を発見し、その徳が循環するように場を調えています。

現在は、桜の横に薬草園をつくりここで英彦山の薬草を育てます。その薬草を使って、薬膳をご用意したり薬草石風呂、この場所のお水の力を存分に発揮するような蒸気による治療などもやっていこうと思います。

これは別に私がどうこうではなく、この場所のいのちのめぐりをよくよく一緒に生きているうえでどうしていけばこの場所が喜ぶか、どう取り組むことが桜が仕合せかと一緒にめぐりを生きているからご縁とお導きがいただけるのです。

みんなで一緒に今を生き、場所の中に喜び合うことは幸福の極みです。

月明かりに照らされた桜は、神々しく言葉にならないほどの美しさです。自然に覚醒し、現代でも大切なことを忘れない場所が一つでも増えていきますようにといのりながらいのちの循環に謙虚に素直に向き合っていきたいと思います。

一期一会に感謝します。

場の伝道

人生は一期一会でできています。その一期一会は、二度と同じことはなく奇蹟によって今が存在するということでもあります。これは今というものの認識を磨くことで研鑽していけるものです。同じ今でも、一期一会の今には深さもあれば厚みもあります。今をどう磨くか、それに尽きるのも一期一会です。

今回、英彦山の守静坊で桜守をしてきましたが開花前からずっと観察し満開になるまで観ています。これから散っていき、新緑がはじまりますがそのどの瞬間にもあらゆる一期一会があります。

これは自然との一期一会、光やお水との一期一会、そしてご縁のある方々との一期一会、歴史の中での一期一会などまだまだたくさんあります。

その瞬間の今に何が結ばれ誕生したのかを振り返ってみると、そのどれもが人智の及ばない壮大な出来事の集積によって存在していることがわかります。そしてそれを「場」は伝道します。

場の伝道というのは、今を研ぎ澄ましそぎ落とした時にこそ実現するものです。

その場の伝道には、場の伝承があります。

場の伝承は、純度が高いこと、澄み切っていることが絶対条件で最低条件です。

現代のように人間優先主義や頭でっかちに生きがちな世の中においては、損な生き方に見えるかもしれません。しかし、損は別の見方では徳ともいえます。そして得だと思えていたことが実際には大きな損害になることもあります。

場というのは、全てを呑み込みますが場には一期一会に生きる人の心魂が宿ります。その理由に、その場の舞台では今に様々な一期一会と奇蹟が結ばれ続けているからです。

場と結ばれること、場に出会うこと、場を育てること。

場の伝道は生きがいそのものであり、生きざまそのものです。

一期一会と徳を結びさらなる自然循環を促進していきたいと思います。