伝承の場

今日は、仙人苦楽部で高菜漬物の伝承の場を主催します。伝承の場というのは、一期一会で伝える人と承る人の一生に一度のいのちの移し替えの場です。それまでの自分が醸成してきたいのちを、次に結んでいく場です。伝える側もその瞬間に懸け流し込みますが、承る側もその瞬間に全てをくみ取るのです。これはコップからコップへと液体を移し替えることに似ています。

その液体を受ける人は、こぼさないようにと真剣に自分のコップを持って受け止めます。一つのコップの大きさでは受け止められないときは、コップの数を増やします。器が大きければ、それだけ液体は受け止められます。小さくても、その受け止めた器の分の大切なお役目を入れることができます。小さなコップをみんなで持てばそれだけ、分散して液体を受け止められます。

その受け止めた液体は、またそこから丁寧に醸造され発酵してますます芳醇になります。それを今度は、また次の伝承者に譲り渡していくために伝承の場が必要になるのです。

むかしは家庭環境の中で、あるいは共に暮らす師弟関係の中でその伝承の場は設けられていました。そこではいのちの移し替えを、一気に行わずに少しずつ丁寧に行われていました。

今ではその機会も減り、伝承の場は猛スピード消えていきました。しかし、世の中には志を同じくする仲間がそれぞれの場で真摯にその伝承を守りたいと精進しています。その仲間たちを集め、その仲間が伝承のいのちの移し替えを行う場においてコップに液体を受け止めれる分だけ伝承されたらそこからまた液体は次の世代へと弘がっていきます。

この伝承の場は、伝承に相応しい純粋性が必要になります。それはまるで神事のような清らかさと潔さがあってこそです。

これからも受け継いできた光を、次世代へ譲り結んでいくために伝承の場を続けていきたいと思います。

いつもありがとうございます。

「ありがとう」という言葉には様々な深さがあるということを話す機会がありました。感謝の度合いと広さともいうかもしれませんが、どの領域までの感謝があるかで感謝の意味も変わってきます。

同じありがとうという言葉でも、意味が変わってくるものです。例えば、ありがとうの段階には一般的には、結果に対する感謝、行動に対する感謝、存在に対する感謝、逆境への感謝、万象への感謝があるといわれます。最初は、何かの結果にありがとうと言いますがそのうち行動してくださったこと、そして存在価値に気づいてありがとうをいいます。さらには自分に与えられた境遇に感謝し、すべてのものに感謝できるという段階です。

感謝が磨かれていくと、自分にまつわるすべてのものがありがたいものであると実感できるようになるということでしょう。これは一般的な感謝の段階ですが、実際にはこれ以外にもたくさんあります。

先人からいただいているあらゆる恩恵への感謝であったり、奇跡のようなご縁に包まれていることへの感謝であったり、あるいは感謝できることに対しての感謝であったりと、他にも色々なありがとうがあります。

私たちの会社は、口癖で「いつもありがとうございます」というのをよく使います。別に誰かが指示命令したことは一度もなく、いつからか気が付くとみんなが使っていました。またありがとうの機会が多く、他の会社やインターンの人たちからもありがとうをよく使っていると指摘されることがあります。

これはきっと「讃給」といって私たちの会社では毎月、みんなに御礼と手紙を書く文化があるからではないかと思います。そのことに由って、感謝が磨かれ自然にいつも有難いと思うようになったように思います。

このありがとうや有難いという感覚は、そのまま幸福度に直結しています。仕合せとは、有難いということに尽きるということでしょう。

最後に、私が好きな西行の言葉です。

「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

感謝にも境地の体得というものがあります。遊行を通じてどのような体験をしたのかはわかりませんが、偉大な大勢の見守りに感謝できる自分でいたいと思います。

場道家

世の中には、学者と呼ばれる人、専門家と呼ばれる人、研究者と呼ばれる人それぞれに様々です。これは世間の評価軸の一つで、これで職種が振り分けられています。そのどれもに精通して一体になってしまうことや、分けようがない分野にまで到達している人のことを世間は奇人変人と呼んだりもします。

おかしな話で、整理できないものはすべて「変」で済まされてしまうのです。よく私も変人と呼ばれますが、そんなに悪い意味で使われている感じではありません。色々と広い分野から狭い分野、それに自分で人体実験までするので変人になったのかもしれません。

人の人生は、周囲の呼ばれ方で変わっていきます。私の場合は、若い時は、何かやりそうな人や、熱い人と呼ばれていました。そこからリーダーや経営者、教育者と呼ばれたり、その後は博士や炭オタク、アーティストと呼ばれ、今では変人や修行者、求道者などと呼ばれます。

そう考えると、本人には関係ないところで様々な呼び名をつけられて周囲がわかりやすいように分類されているのです。一つの道を歩んでいくなかで、その時々に歩んでいる場所で呼び名も変わるのでしょう。

しかし実際にこれを深めていると、本当は目的が何かを聴けばその人の本質はわかるものです。何をしようとする人なのか、何のためにやっているのかを確認すればその人の本当の正体がわかるのです。

世間から偉い人や分かりやすい人に分類されるのは、仕事をする上では便利なものです。こういう人と決めてしまうことで、世間は安心したいのでしょう。例えば、医者であれば医者の国家資格があれば医者になります。しかし世の中には、国家資格をもっていなくても伝統医療をはじめ、その人にもって生まれた才覚や先人たちの叡智や伝承されたもので人を治す医者もいます。それに医者にも、大医、中医、小医というように大医のように国家や人々、社会を治す医者も指します。

きっとこの大医も、最初は臨床で目の前の人を助けることからはじまり、それが研究や実践を積み、専門的な知識も増え、問題の本質に気づき、その結果、国家や世界を治療するようなことをはじめていったように思います。

つまりは、目的に対して道を真摯に追及していけば自ずから一つの場に辿り着くということです。それで私は「場道家」という肩書にしてしまいあとは何もないという具合に表現しています。

最終的には、道は場に宿るのだからその場を感じることで理解する。それでいいとしたのです。

便利な肩書はその都度これからも変化します。本人はどうかは別として周囲の価値観や世間のモノサシでいくらでも分類されるのでしょう。

子どもたちのためにも、自分らしく自分らしい道を拓いて少しでも人としての徳、自然あるがままでいることの大切さを伝道していきたいと思います。

和の徳

能力主義というものがあります。これは人を能力というモノサシでその価値を判断するということです。特にこの数十年は、その価値観が優先されるような環境や教育を受けてきました。

能力があれば必要とされ、能力がなければ不必要とされている世の中のことを能力主義と呼ばれます。例えば、会社などはその最たるもので能力だけで採用不採用を決めます。確かに一つの判断としては能力が必要ですが、能力は本来は全体の個性やその人の持ち味の一部分でしかありません。それを能力だけに偏った判断をすると、その能力の代替え機能としてのロボットやAIなどが出てくれば不必要ということになるのでしょう。

本来は、能力というもの以外の方がたくさんの価値がその人に存在するものです。ある人は、空気を和ませたり、ある人は人と人と結んだり、またある人は豊かな心を膨らませたり、ピンチに強かったり、応援や勇気に結ばれる存在だったりと多種多様です。

本来の多様性は、能力の中にあるのではなく個性や持ち味の中にあります。そしてその個性を発揮するのも持ち味を活かすのもそれは生き方が決めていくものです。大切なのは、どのような生き方をしてきたか、あるいはどのような生き方をこれから一緒に目指していくかということが大切だと私は思います。

能力によって人を裁けば自分に帰ってきます。それは自分が老人になり機能が低下していけばそのうち能力は失われていくように、できることは必ずいつかできなくなるのです。

できるかできないか、能力があるかないかではなく、存在そのものの善さ、それを私は「徳」と呼びますがそういうものをみんなで伸ばし活かそうとする方が社會や環境や教育のうえでは最も大切ではないかと感じます。

そのためにも、自分がどのような見方をしているか、そして能力も一つとしてそれ以外の生き方をどれだけみんなと分かち合ったかということを顧みて、お互いの存在を尊敬し感謝しあえるように実践していきたいと思います。

子どもたちにお互いが尊重しあう和の心を伝承していきたいと思います。

今を磨く、謙虚を知る

カグヤでは3月11日には、「大切なことを忘れないDAY」としてみんなで東日本大震災の犠牲者の方々への黙とうや振り返り、その後から今までの経過を観察したことからの気づきなどを学ぶために一日を過ごします。

あの日、あの時、私たちは東京で被災し大きな衝撃を受けました。自然からの警告を真摯に受け止め、生き方と働き方を見直す大切な機会になりました。そしてその後の原発事故で如何に人災が恐ろしいかという人間の悍ましさを実感しました。その反省からこの日を設け、自分たちが体験したことを忘れず後世の子どもたちが正しく怖れ、いのちを守れるようにと実践を増やしてきて今があります。

例えば、自然災害においては先人の智慧がたくさんあります。それは「備えあれば患いなし」という諺や「禍転じて福になる」や「直観は間違わない、判断が間違うのである」など色々とあります。謙虚に自然への畏敬を忘れずに、最善を盡していけば不思議ですが自然が全体調和の中で私たち人類のことも見守ってくれています。

しかし人災はそうはいかず、如何に日々に自分に打ち克っていくか、己の我欲を慎み自他一体に全体最適であるように協力し和合しあっていくかが問われます。これは守られているかどうかの話ではなく、自分の問題をそれぞれが自律し自立して取り組んでいくかありません。

人災は、目先の損得や既得権益、感謝を忘れ足るを知らない暮らしから蔓延ってきます。洗脳されるような環境下にあれば、それを自然だと勘違いして思考停止してしまいます。そうならないように、日々の暮らしを見つめ直し丁寧に初心や目的、原点を見つめ続けて生きていく必要があります。

そもそも防災という言葉は、「未然に災害を防ぐ」という意味です。それが災害があった時にどうするかになっていますが、本来は病気の未病と同様に発生してからでは手遅れになるから先に防ぐために実践していこうとするものです。

現在では、防災も治療もすべて事後のことについてばかりが注目されます。具体的にわかりやすく、そしてお金になるからです。しかし本来の防災や治療は災害の前に決着がついています。もちろん、怪我や事故などは対処療法が必要な時もありますが数万人や数十万人が一度に被災すれば対処できることはありません。

だからこそ、そうならないように日頃から未然に防ぐために訓練し、実践し、あるいは暮らしを換えていくのです。災害時であろうがなかろうが、発酵食品などをつくり保存食を食べ、自然の中に入り食料を生産し生きていれば災害時でもたくさんの人たちを救う場がつくれます。

自分だけが生き残ろうではなく、まずは自分がその状態を確立してそのあとに周囲をたくさん助けようとすることが大切なことだと私は思います。これは防災の鉄則の一つ、自分のいのちを守ってから人のいのちを救うということと同じです。共倒れや道連れにするような救援はありません。

人間は、のど元過ぎれば熱さ忘れるようにすぐに何でも忘れてしまいます。それがいのちを守る大切なことであってもです。だからこそ、定期的に忘れないための時間を設け、みんなで新鮮さが失われないように工夫していくことが必要です。

未来の子どもたちに私たちの体験がお役に立てるように、真摯に今を磨いていきたいと思います。

人災への対応

自然災害というのは、私たちの人為的な想像を超える規模で行われるものです。隕石の衝突から重力の変化、大噴火や大津波、寒波や熱波などどれもスケールが大きくひとたび発生すればどれも想像を超えるほどの災害になります。そもそも自然をどうにかできることはなく、自然への畏敬を忘れず正しく怖れていれば、ある程度は自然は守ってくれます。自然は、あらゆるものを循環して調えていきますからその一部としての役割を全うしていくようにみんなで暮らしています。

ただ問題は自然災害の方ではなく、人災の方です。

世の中のニュースのほとんどが人災の話です。最近ではコロナなどもですが、他にも戦争の問題、気候変動の問題、経済の問題はすべて人災です。

人災というのは、人間の欲が巻き起こします。我を優先し、欲望に目が眩み真実を誤魔化し目先の損得に判断を間違えます。それをみんなで一斉に行うことで、多くの人たちが被害を受けます。

自然災害においては、自然への畏敬を忘れない暮らしをしていけば安心立命できますが人災においては自分に打ち克つ努力や、我欲に負けず刷り込みや執着から逃れるための実践や精進が必要になります。

これも日々の暮らしの中で、自らを調えて徳を磨いていくような努力がいります。人災の方は、流されやすくあるい程度に大きくなってくると堰を切ったようにあふれ出して災害化します。そうならないようにむかしの人たちは、智慧のある暮らしを続け、様々な年中行事によって人間本来の霊性が曇らないように、あるいは流されないように調えてきたのでしょう。

今の時代、すべて既得権益をはじめ欲望を優先した時間を切り売りする生活に呑まれ忙しくみんな目先のことだけで精一杯になっています。こういう時だからこそ、基本の暮らしに立ち返る必要性を感じます。

子どもたちに、大人の生きざまや背中が見せられるように真摯に日々の暮らしフルネスを調えていきたいと思います。

花粉症の正体

この時季、花粉症というものが増えていきます。日本では杉花粉や檜花粉などが有名です。しかしこの花粉症ですが、いつからこんなに国民病のように広がっていったのかを深めていると花粉ではない別の問題が引き起こしたことがわかります。つまり自然災害のように語れていますが、これは明らかに人災です。

そもそも私たちの身体には免疫力というものがあります。杉や檜はむかしから当たり前にあった植物です。その花粉が飛来してきたからといって、長い歳月をかけて私たちの身体はその花粉に適応していて問題はありませんでした。

しかし高度経済成長期以降、大気汚染が進み花粉症という症状が出てきました。これはヨーロッパでも産業革命以降に花粉症が出てきたことと似ています。つまり、花粉症の正体は花粉ではなく大気汚染ということです。

少し考えてみたらわかりますが、人類は途中から石油を燃やすことで私たちの社会は成り立つようになりました。自動車なども一家に何台も持ち、大量の排気ガスを排出します。工場をはじめ、あらゆる場所で石油製品がつくられます。化学物質は膨大は増え、私たちはその化学物質を日々に摂取しています。その摂取量とアレルギーになる人の数は相関関係があり年々増え続けています。

結局、アレルギーのほとんどは化学物質過敏によるものです。自然にないものを免疫が攻撃するということです。花粉症は、花粉と大気汚染物質が融合して混ざり合うことで花粉も変化し、人間が不自然なものとして異物として認識して過剰に免疫が働きます。そして化学物質が増大してそれを摂取する量が排出する量を大幅に超えているのがわかります。

添加物をはじめ防腐剤や抗生剤などあらゆる化学物質を摂取しています。あるいは洗剤や柔軟剤、洋服や室内環境のホルムアルデヒドなども大量です。そう考えると、アレルギーとは、不自然に対する体の反応ともいえます。

このまま何も改善されなければ、不自然に対する反応はますます増えていくばかりです。自らの体験から学び、その学びを具体的な改善に進めていきたいと思います。

 

封印解除

歴史を学んでいると、そこに隠されたものや封印されたものがあることに気づくものがたくさんあります。本来、目的があり意味があったことが誰かによって封じられるのです。別の言い方をすれば、扉が開いていたものが閉じられているのです。完全に消し去ったと思っていても、消し去りきれていないものがあります。そこを思い出し、甦生し、もう一度、扉を開けば封印は解除されます。

現在、アニメや漫画などで陰陽師のことやむかしの呪術的なもの、あるいは妖怪のことや神話や霊的な話など動画配信をはじめ様々なところで見かけるようになりました。ちょっと前までは、怪しいスピリチュアル的なものや新興宗教などといわれたりもしましたが今では一般的にその存在を理解できるようになってきています。

例えば、縁起のよくない場所に封じられている結界を壊したり、むかしからの井戸を粗末にしたり、石祠や石像などを移動したり破壊するとよくないことが起きるというのを感覚的に人はわかります。これは神聖な場所や不吉な場所には何かをすると問題が発生したということをあまりにも多く聞いているからでもあります。

眼には見えないもの、エビデンスがないといわれるものでも、実際にはかなりの確率で不運や不幸が発生してしまうことでその存在を直観しているのです。同時に、大切な場所や結界は意味があって守られているものがあります。

例えば、お水が湧くところであったり、地盤の境目であったり、風の通る要点であったり、杜の中心であったり、火山の頂点であったり、巨石が重力を抑えるところであったりと大切な場所がこの地球にはあります。

そこを結界として大切に守ることは、先人たちの智慧であり人類の調和を保つ重要な場所です。そこを封印して、なかったことにし粗末にすると後世の人たちが大変な思いをするものがあります。歴史の中で、消してはならないものを隠すことやなかったことにするのはどれだけ酷いことをしたかは後になればすぐにわかります。

私は古民家甦生など含め、あらゆる歴史と直に関わりますから封印されたものを解除するのが甦生家としての役目でもあります。

今回の人生で、どれだけ閉じた扉を開き直していけるかわかりませんが充分検証してみておかしいと感じたものを見直し、この先の未来の子孫に必要なものを丁寧に甦生していきたいと思います。

 

ご縁結び~魂の対話~

今年も英彦山、守静坊の「サクラ祭り」が近づいてきました。有難いことに、この季節の宿坊はまるでこの世のものとは思えないほどの幻想的で美しい純白の一本桜の花と薫りが場を包み込みます。

この守静坊の一本桜はひとたび風が吹ば、ゆらゆらと仙人のような佇まいになり夜になれば満天の星空と和合します。今回は、昨年よりもまた充実して周囲に茶席を設けたり、ライトアップしたり、生演奏をしたりとサクラと共に開花の歓びを分かち合います。

元々、霊峰と呼ばれる英彦山は我々のご先祖様たちの魂が居る場所ともいわれ宿坊はその魂の宿直をする場であると信じられていました。お盆にはたくさんの檀家さんたちをはじめご縁のある方々が参拝されお山の静謐で清々しい場でご先祖様たちとの魂の対話をし感謝を通じ合わせていたといいます。

現代は、各家庭にはお仏壇もなくなりご先祖様と通じ合う時間が激減しているといいます。

私たちの今の身体を含め、すべてはご先祖様たちから譲り受けてきて今があります。その証拠に、顔かたちをはじめ身長や体格、持病や性格なども色濃く受け継いでいることがわかります。心を落ち着かせ耳を傾ければ、ご先祖様が今も一緒に私の身体に宿り生きているのがわかります。

その共生するご先祖様の存在を一年に一度、思い出し共に感謝しあって桜の木の下で和合するのがこの「サクラ祭り」なのです。

不思議なことですが、サクラ祭りに参加された方からはご先祖様にお会いできて涙が出たとか、あるいは心の養分が甦り元氣が出てきたとか、他にもすでにご先祖さまにいただいている感謝や幸福を感じ直すことができたなど喜びの声ばかりでした。

年中行事というのは、本来は意味があって行っていたものです。ただのお花見ではありません。この英彦山の守静坊のサクラ祭りは「ご先祖様との邂逅」のために行われてきたものです。

今を生きる私たちが、伝統を継ぎ継承しご先祖様たちとの繋がりや結びを強くすることで自分だけでなく子孫たちをはじめご縁のある方々の幸福に貢献していくことができます。

もうこの年中行事を復活させてから3回目になりますが、幸運ばかりに恵まれご先祖様たちの応援を感じます。過大な宣伝はせずご縁のある方々から丁寧に少しずつ、植物が芽吹いて花が咲き種が増えていくようにご縁を中心にお誘いしています。

今年も、守静坊でご縁結びができるのを楽しみにしています。

日時:2025年3月29日(土曜日)13時より~

場所:英彦山守静坊 (福岡県添田町英彦山731)

詳しくはこちらをご覧ください。

人生の妙味

梅の花が咲いてきました。今年は、春のお花たちの咲く時機が遅くどうなることやらと心配していましたがそれぞれが自らのタイミングで咲いていきます。気候変動が大きく、自然界でもみんな調整に苦労しているようです。自然に繋がっている関係の中で循環している仲間たちは、それぞれにそれぞれのタイミングを合わせて共生しています。

その共生関係の中で、お互いを待ちあい、お互いを信じあい、お互いを助け合います。つまり自然は常に寄り添う関係を失うことはなく、永遠にお互いを思いやることで生き延びています。寿命というのは、お互いがあってこそ深く味わえるものです。

また私たちは、一年という季節のめぐりを繰り返していきます。回転している地球のように、ぐるぐるとまわり続けます。その中で、同じことは二度となく一期一会に出会いと別れを繰り返して様々な体験と記憶を積み重ねていきます。

有難いことに、姿形を変えても永遠に同じ地球で循環する変化として存在し続けているということ。当たり前にまた明日がきて、そしてまた翌日に明後日くると思い込んでいますが着実に時間は育っていきます。

そして時間は同じ今を生きているもの同士で、一つの即興劇を繰り返してご縁を結び合っていきます。同じ今に生きているということが奇蹟で、物語の続きを今を生きることで発展させていくのです。

一生というのは、植物も木々もまた虫も動物もみんな同様です。

どのような一生を歩んでいくのか、今、自分は一生のどの辺にいるのか。そしてどう時間が育っていていつ寿命がきて循環の節目を迎えるのか。

春は新たらしい変化を味わう素晴らしいひと時です。

すべてに感謝して、人生の妙味を味わっていきたいと思います。