改善

人生というのは改善の連続で今があるともいえます。この改善というのは、悪いものを良いものにするという意味と善いものをさらに善いものにするという意味があるように私は思います。

もちろん悪いものを善いものへ改善するというのは大切です。しかしその事実をよく観察していると悪いことがわかったて善いものにするのだから善いものがさらに善いものになったという捉え方ができることがわかります。

この物事の捉え方というのは、前提に感謝があるかどうかが関係があるように私には感じられるのです。

今の自分があるのが何の御蔭様であるのか、そしてどのような積み重ねがあって今に至ったのかをよくよく内省するとその今のすべては何らかの御蔭様のお導きであることに気づきます。

努力し、積み重ねてきた歴史や過去があって今が開きます。これは自分という存在も同様です。先人たちやご先祖様があって今の自分が存在します。今の自分に与えられた全て、例えば身体も心も特性も丸ごとかつての積み重ねがあったことで成り立ちます。

それをどう捉えているかで、改善への心得や心構えが変わってくるように思うのです。

改善は別の言い方では、恩返しとも言えます。たくさんの御恩をいただいたからこそ、御恩返しをしていきたいと思うほどに改善は進みます。そうやって先祖代々、子々孫々に改善されていくのです。

今よりももっと善いものになるのは、御恩に対して徳に報いようとする実践が続いているからでしょう。子どもたちの志事をするからこそ、常に改善に感謝しながら取り組んでいきたいと思います。

結界の甦生

郷里の妙見神社の山中の神域を遊行したときに大きな岩石、一般的には磐座や巨石というものに出会いました。英彦山にも山中には大きな岩石がたくさん見かけます。この大きな岩石は、威厳や威風があります。まるで山がそのまま鎮座したかのような雰囲気です。

この岩は、色々な捉え方があります。お山の結界であったり、あるいは依り代であったり、またあるいは修行場の証明であったり認識は様々です。

先日訪問したスリランカでも、仏教の聖地はほとんど大きな岩石の場所にありました。その場所を神域として、たくさんの僧侶たちがそこで修行をしていました。まるで岩に守られているかのような様子でした。

よく考えてみると、私たちがいる場所の地下にも大きな岩盤が存在して地上を支えています。私たちは岩によって場所を保つことができているともいいます。宿坊も石垣があり、土を固め水をはじきます。岩がなければ場を保つこともできません。

神域の山中には、あちこちにむき出しの岩がでています。その岩が自然に横たわり、お山の表情を彩ります。岩の下や岩の穴に入るときは、背筋がぞっとします。もしも倒れてきたらや、落ちてしまったらやあるいは岩が割れてしまったらなどと畏怖がでます。その畏怖を鎮めてそのまま座ると、まるで地球に鎮座したような感覚になります。

つまり引力や重力をはじめ、力が一点に漲るのを直観するのです。

岩には他にも悠久の記憶を感じます。周囲が変化をしても、岩は変わらずにその場所に数千年、数万年と鎮座しいています。今、急にできたものでもなく、この数十年や数百年でできたものではないのです。

そう考えると、記憶装置のような存在です。これは星々の正体にも似ています。

岩を祀るのは古代からずっと意味は普遍に存在しています。岩と岩は結ばれていて、その間に界があり、それを結界と呼びます。岩の配置によって場を創るのです。

子どもたちにこの岩の持つ徳を伝承していきたいと思います。場を清め、場を調え、場を感じるよう本来の結界を甦生していきます。

場のご縁

私たちは「場」によってあらゆる影響を受けています。これは生きた人間だけではなく、動植物をはじめあるいは霊的なものや宇宙的なものにも影響を与えます。古代より、遺跡を調査するとその配置がとても絶妙であることに気づきます。これは龍脈のような気の通り道があり、太陽をはじめ星の運行と関係が深いこともわかります。また地名を調べると、その地名の奥深い意味の中にその場の持つ力を感じるものがあります。

その場をどのように保つかは、その時代時代のその場にご縁があった人たちの責任でもあります。その場を本来の場のままにするには、水の流れをはじめ風の通り、光が入るように調える必要があります。これを風水ともいいます。

かつては、その場をその場のままにしていくためにあらゆる工夫をしてきました。それが建築土木の智慧でもあります。木を見て森を見ずのような現代の取り組み方では、場が弱る一方です。

本来、これは建築と同じで大工さんをはじめ左官さんや庭師、あらゆる職人さんたちにはそれぞれの分野で磨き上げてきた技術や法則などの智慧を持っています。その智慧を結集して、どのように場をつくるかは場主が決めます。私は、神主などではありませんが場の感覚を持っていますから場のもつ本来の徳を甦生することができます。

場を感じる力は、場によって磨かれます。私は場道家を名乗りますが、それは場がわかるからです。

むかしは都を遷都して場を換えていくことが度々ありました。有名な遷都に桓武天皇のときの世があります。あの時は、和気清麻呂と空海、そして秦一族が智慧を結集して実現しました。

このお三方は、場の意味を伝承するものです。場を定め、場を甦生し、場を創るということ。

これから故あって奥の院や奥宮の場を新たにすることに関わりますが、心して場と対話していきたいと思います。

パラダイム転換?

人類は思い込みによってあらゆるものを決めつけては時代をつくります。結局はパラダイム転換といっても、思い込みが別の思い込みに変わっていくということでしょう。

根拠のないものを信じることを悪として、根拠があるものだけを信じようとする。エビデンス信者のようになっていると余計に思い込みは増えていきます。かつての天動説や地動説があったころも、千年単位で思い込みをし続けてそれが変わる時は大変な軋轢が産まれました。宗教や政治が、動かない真理を好みそれによって民衆や国民を管理する中において真理が動いてしまうというのはそれまでの権威などが揺らぐということになるのでしょう。

結局はそう考えてみると、この世のすでに正しいと信じられているほとんどの真理は宗教や政治のためにあるということになります。人類のそれまでの思い込みや決めつけは刷り込みとなり絶対的な常識となります。これを解き放ち別のものになったように見えても実際には別の権威や権力が取って換わったということになります。

パラダイムシフトの正体は、宗教や政治が変化したということが本質なのでしょう。よく技術革新がパラダイムシフトだと定義する人もいます。実際には、天動説が終焉し、地動説になってから産業革命がはじまったという説もあります。それまでの政治や宗教が変われば、当然それによって新たな権威権力を持つ別の政治や宗教がはじまります。そうなればその既得権益に肖ろうとする人たちがパラダイムを創造します。そのパラダイムこそ絶対的な常識です。

それを変えるには、また別の宗教や政治が誕生して新たな思い込みや決めつけを信じる状態が発生してくることです。

たとえ、UFOや宇宙人が現れ高度な文明を持ってきたとしてもそれではパラダイムは変わりません。変わるとしたら、それらと組んで新たな政治や宗教を司る権威が誕生する時です。

そもそも宇宙や自然というものは、あるがままにありのままで真理です。万有引力の法則を発見する前から存在していたもので、新たな発明発見などはほとんどありません。その証拠に、古代の人たちや先住民族たちが持っている伝統文化を観ると、真理そのものを現代も生きています。

その人たちを文明や科学が劣った原始人のように蔑み差別をしたりしていますが、こんなものは先ほどのパラダイムシフトで変化しただけで自分たちがそちら側だということを忘れているだけです。

最初からあったもの、創始からそうであったものが真実であり真理だと私は思います。

しかしそんなことを声高に伝えても権威や常識に踏みつぶされてしまいます。人類は信じたものを世界とし、世界は人類が信じたようにしておきたいのでしょう。

ただし、いつかは揺れ戻しがあるのもまた事実です。宇宙や地球をはじめすべての天体は、絶妙な関係性のなかで引き合い運行しています。小さな一つの微細な動きが、宇宙全体に大きな変化をもたらします。私たちが地球で活動する何かも、月に温度変化をもたらすほどに影響を与えます。それだけ微妙な動きをすればそれが他の星々へも影響を与えそれがまた循環して戻ってきます。

自然が大きく変化するとき、私たちは宗教や政治ではどうにもならないものを直視することになります。その時、私たちは最初からあったもの、創始からのものに縋るしかなくなるものです。自然に寄り添い生きていると、様々な思い込みや決めつけや刷り込みは取り払われていきます。

子どもたちには、余計なものをあまり押し付けず尊重して自由にあるがままのいのちを歩んでほしいと思います。一つずつ、人間が創始の人間らしさに回帰できるように暮らしと場によって安心基地を弘げていきたいと思います。

神域の甦生

私が幼少期より馴染んできた神社の境内には、それはもう美しい川が流れていました。お汐井取りが有名で、澄み切ったお水に人がたくさん集まってきていました。

それが土砂崩れの後の堤防や砂防ダムなどの工事によって水が汚染され、かつての清涼で澄んだ川は破壊されてしまい濁り澱んだ水になりました。そして人も集まらなくなり、神社も場も寂しい感じになりました。

神域のお水が汚れるというのは、とても悲しいことです。実際には、お水が湧くところが汚れたのではなく人工的にダムをつくったところのお水が澱んだということです。

自然環境に対して、人間が何かをするとその場所の循環が滞ります。循環が滞ることで様々な汚れが出てきます。循環が澱まない場所を言い換えるのなら神域と呼ぶのでしょう。

私はこの神域の御蔭さまで、お水や自然の循環の中に入り自分のいのちも健やかに育まれてきました。それが滞るのを見るのはとても辛いことです。現代の人間の問題を真摯に向き合い、そのうえでどのように神域を甦生していくか。

これから長い時間をかけても、一人でも神域の甦生をやり遂げていこうと覚悟を決めました。人間の問題は色々と利害や損得がつき纏いますが、本来の自然や神社の場が喜ぶ方だけを観てその中に人間が和合できる道を模索していきたいと思います。

回転

地球は回転しています。回転していますが同じ回転は一つとしてありません。私たちは回転すると同じことが起きていると錯覚します。しかし回転とはその中に、あらゆる事象が発生しているのです。永遠と思えるほどに回転はあらゆるエネルギーを循環させています。

回転というのは、宇宙の真理でいのちの根源です。

回転数の多いものは、それだけ強いエネルギーを凝縮していることになります。また早い回転と緩やかな回転では、そのエネルギーの質が異なります。この回転数や強弱や緩急によって、いのちが誕生したり眠ったりします。

これはお水でも同じです。

お水も回転しながら別の物に変化していきます。その回転の質によって、色々なものに影響を与えます。ある時は、漂い、ある時はいのちを伸ばします。いのちを伸ばすものは、壮大な回転をします。大きければ大きいほどに、回転を大きくし、小さいほどにスピードを早めます。

この技術は、現代でもあるのですがないと思い込んでいます。根拠や科学的に物事を知識に転換したせいで当たり前のことが分からなくなっているのです。

よくロストテクノロジーという言い方もしますが、失ったのはテクノロジーではなく智慧の方です。智慧がなくなって技術がわからないということでしょう。

あらゆるものを調和し融合するのはお水でできます。お水さえ理解できれば、宇宙の真理やいのちのことも察知できます。

太古のむかしからそれを龍とし、龍のハタラキを知恵者たちは伝承してきました。龍も今は量子力学や科学が発展してきて怪しいものではなくなっています。しかし科学からのアプローチでは全体最適ではないため、真に直観することはできないように思います。

引き続き、具体的な智慧を体験を通して子孫へ伝承していきたいと思います。

太古の記憶

私たちは日々に日の出の太陽の光を浴びます。この朝の太陽の光は、清々しく場を清め調えます。光というのは、単に明るいという作用のものだけではなく様々な効能を心身や自然界全体に与えます。私たちは関係性のなかでいのちが結ばれ、日々の小さな自然の変化によってすべての影響を受けているのです。

これは太陽に限らず、月にも同じことが言えます。そしてそれは星々とも同じです。私たちは繋がりの中でその光の持つエネルギーを感じています。月でいえば海の満ち潮にも影響を与えますし星は地球に住む私たちの運行や運気にも影響を与えます。

古代の人たちは今よりもずっと感覚が鋭敏で研ぎ澄まされていましたから、その繋がりから発生する影響を感じながら暮らしを営んできました。

宇宙の微細な変化であっても、それが地球の小さないのちにも偉大な影響を与えます。調和というものは、バランスともいえますがそのバランスを保つためにお互いに距離や配置、そして結び方や行動を変化させてちょうどいい具合に変化し続けているからです。

人間が頭で知識だけで、流行りのエビデンスで証拠探しばかりしているうちに感覚的な真理や真実はほとんどわからなくなっていきました。

根拠というものは人間側だけにあるものではなく、根拠は全体や宇宙の中にあるものです。本物やシンプルなものこそ、エビデンスの正体でありいちいち論理的に説明するものの中には根拠などは本来は存在しません。

エビデンスと言った時点で、かえって真実や本物であることが真実風、本物風になり結局は分からない人たちの自己満足でかえって不信は広まるばかりです。

世の中で最も影響がある存在はどれも素朴でシンプルです。先ほどの太陽の光のように、あらゆるエネルギーの中心であり私たちのいのちの源泉であるものこそ本物です。

他にはお水や空気、音などもいのちを構成している本物です。こんなに科学が発展しているように見えても言語も知識も増えても、偽物や本物風ばかりが増えて一向に辿り着くどころかどんどん遠ざかっていく世の中になるのは残念なことです。

自分の思い込みや刷り込み、決めつけを外すことの方が本来の人間教育に近づいていくようにも私は思います。日々の光に手を合わせ拝みながら太古の記憶を甦生させていきたいと思います。

薬の道

英彦山守静坊の敷地内に薬草園をこれからつくりこみます。もともと霊峰のお山の力を存分に吸収した薬草はとても偉大な力を持っています。霊峰伊吹山なども有名です。

そもそも薬草というのは、植物のことです。雑草などというものはこの世にはなく、全ての草にはすべての徳が具わっています。そしてその徳の中でも人間にとても相性の善いものと、他の生き物に相性がいいものがあります。あらゆる植物は、生命の相互循環を助け、この世に健やかにいのちを伸ばし生き延びることを助けます。

私たちは誕生以来、永遠にあらゆる植物に支えられてこの世でいのちを全うしているのです。

その中で特に人間と相性がよい植物に「蓬(よもぎ)」があります。今回の英彦山の薬草園でもはじめはこの蓬からはじめます。蓬は蓬莱山という仙人のすむ仙境から名づけられたものとも言われます。まさに不老不死の仙薬がある霊峰英彦山にはぴったりの植物です。

この蓬(よもぎ)の語源は調べると萬葉集に所収される大友家持の長歌に「余母疑」とあり蓬が和名だということはわかります。和名類聚抄にはよもぎは「蓬」の文字をあてられています。倭名抄には、「蓬、一名蓽、艾也。與毛木」とあり、本草和名には「艾葉、一名醫草、與毛岐」ともあります。よもぎという呼び名は、私たちの先祖が大切にしてきた大和言葉ということになります。このよもぎという響きはどこから来たのか、これは黄泉(よも)の植物という意味もあるともいわれます。古代アイヌ語ではヨモギを 「カムイノヤ」(神の草)とも呼び、沖縄の古い言葉では、「病気」や「薬」を意味する「フーチ」と、「葉」を意味する「バー」を合わせた言葉でフーチバー(薬草)という名を持っています。

それだけ古代より、悠久の歳月薬として人間と共に歩んできました。

また蓬の学名は「アルテミシア(Artemisia)」といいます。これは古代ギリシャ神話の狩猟と月の女神「アルテミス」が由来です。アルテミスは山野の守護神ともされたところから山野を守る植物として大切にされてきました。

守静坊のある龍谷は、大地と月の女神、瀬織津姫、弁財天の守護する場所です。そして月に深い関係がある女神の力が満ちています。そのお山の神域を守護する願いをこめて蓬とこれから共に歩み古代から続く薬の道を伝承していきます。

古代から続く叡智や真心は、生死の間にあり黄泉がえりの中にあります。

宿坊に遺る薬研や不老園、そしてその場所の気配から本草學を学び直し本来の自然療法や免疫を高め長寿と幸福と健康を祈る場として磨き上げて後人に繋いでいきたいと思います。

いよいよ覚悟を定め、お山での植物と循環の修行に入ります。

変化の研鑽

お水という存在はまだあまり解明されていません。これだけ日常的に私たちは摂取しているにも関わらずあらゆるものに変化できる存在のポテンシャルの一部しか活用できていません。

昨日、お水を注ぐことで別のお水に変化させる仙人のところにいきました。この方は、注ぐ方でお水を色々な味わいへと変えていくことができます。所作の中にもお水への深い尊敬を感じます。

そもそも私たちの認識している水や火、植物というのは知識として持っている物質として思い込んだ存在です。例えば、お水一つにしても汲んだ場所でまったく性質も内容も異なりますし、その時の気温や扱い方でも別の存在になります。それに自分の体内に流れている水とも調和し融合し変化します。

無限の組み合わせの変化があり、その変化次第では今までに想像もできなかったことを実現できるようにもなります。それがお水の性質です。同様に火も同じように変化します。

奇蹟的な組み合わせで私たちは、その存在を感知することができます。自分の感覚を研ぎ澄ませていくことでその変化にも気づきやすくなります。

変化というのは自分自身の変化の研鑽で磨かれます。むかしの人たちのように、日々の暮らしから変化を磨いて様々な徳を活かす修行をしていきたいと思います。

好転反応

好転反応という言葉があります。これはウィキペディよれば「好転反応(こうてんはんのう)とは、治療の過程において改善に向かう中で起こる、一時的に悪化した身体反応のことを指す言葉。東洋医学において瞑眩とよばれるものはこれに含まれるとされる。ただし科学的な根拠はなく、標準医療においては用いられない概念である 」とあります。

具体的には整体などでよく使われている言葉で施術によって筋肉がほぐれることで、血行やリンパの流れが良くなることをいいます。他にも滞っていた老廃物や疲労物質などが血中に入り、排出される過程で体調に変化が現れることだったりをいいます。発熱やだるさなどもその一つです。

科学的な根拠はないとありますが、確かに施術が下手で起きる場合もあれば、身体に合わないだけというものもあります。しかしよく考えてみると、私たちの肉体をはじめ様々なものは好転反応しているともいえます。

例えば、病気というものは一時的に悪くなっているように感じますがそれは別の観方だと治癒しているということです。風邪なども免疫によって発熱や鼻水が出てだるくなり寝込みます。それは健康にするために発生している好転反応ともいえます。他にも、私たちが成長する過程で成長痛があったり、意識変革の際に一時的なショックから立ち直る時に閃きが来たりも好転反応です。

特に今の時代は、浄化やデトックスの際に好転反応があるものです。

私は石風呂を備長炭で行いますが、入るたびに明らかに古傷が痛み、あるいは体がだるくなりトイレに行く回数が増えだるくなり眠くなります。これは身体が浄化しようとするために発生している反応です。

呼び水というものや、お漬物で塩抜きの際に使う塩のように何かを引き金にして解毒や浄化ははじまります。

先人たちは植物の持っている毒性を上手に分量や加工を工夫して体内の解毒や浄化に活用してきました。これは好転反応を確認しながらやってきたことです。科学的に根拠がないから怪しいやしないではなく、よく身体や精神、そして歴史や伝統や智慧を鑑みて善いものは残し、わからないものは慎重に解明していくことが本来の在り方です。

好転反応こそ、身体との対話として真摯に伝統医療を深めていきたいと思います。