優しい包丁

先日、代々刀剣を打つ鍛冶師の方から包丁を購入するご縁をいただきました。私の愛用の包丁は、玉鋼で打たれたものですが非常に滑らな切れ味で食材が美味しくなります。

以前、鍛冶師と出会う前はホームセンターなどの市販の包丁を使っていました。シャープナーなども合わせて購入して、切れなくなるとすぐに研いでいましたが長持ちせずにすぐに買い替えていました。

最初に包丁を換えようと決心したのは、松坂の研師とのご縁からです。研ぎの奥深さ、そして鍛冶師との関係、そして一生使う道具をお手入れしていくことの大切さを学びました。

玉鋼の包丁と出会ったのもそのあとです。日本刀を手入れするうちに、硬くて柔らかいしなやかな鉄のことを知り、鉄にのめり込んでいきました。もともと鉄瓶をはじめ、鉄はあらゆるところで日常的に触れていたので鉄を知るのにそんなに抵抗感もなく色々と深めていきました。

研ぎは、砥石を社員の祖父の伝来ものをいただきそれを用いて包丁を研いでいます。独特の砥石と鉄が交じり合う香りをかいでいると、心も静かに落ち着きます。

定期的に研ぎをしますが、綺麗に研ぎ澄まされた包丁は食材を大切に思いやっているのがわかるほどの切れ味です。

私は隕鉄で鍛造した日本刀を守り刀に持っていますが、以前手入れ中に誤って少し指先を切ったことがあります。その時は、熱いと感じるだけで痛みも一切なく、そしてすぐに傷口がふさがり治癒した体験があります。あの時、切る側だけではなく切られる側の気持ちも体験し、如何に切れ味のよいものには心が宿っているかを実感したのです。

包丁は、使捨てのものではなく最後の最後まで研いで使えます。自分の一代では使い切れないかもしれません。しかしそれをまた次の代が使っていきます。研ぎ切った小さな伝来物の包丁に触れたことがありましたが、まるで老木や長老のような優しい雰囲気で最期まで使われるもののいのちの尊さや美しさ、尊厳に大きな感動を覚えたことがあります。

私たちはすぐに物を買い、捨てます。しかし物ではなく、そこには使い手と用いて、そして道具との心の関りや繋がりが日々に産まれます。そういうものを大切にする心の中に、私たちは日々の心がけというものの生き方を学ぶように思います。

新たに出会った包丁ともこれから関係が増えますが、それぞれの古民家でおもてなしをするときの一つの個性になるように思います。出会いに感謝しています。

徳のある暮らし

暮らしというのは、いつもプロセスの中に喜びや仕合せがあるものです。スピード社会でプロセスを省いて結果さえ出せばいいことだからと結果ばかりをみんなで評価していたら暮らしもそのうち失われていくものです。本来の結果とは一つ一つが重なって時間をかけて結果が出てきます。しかし、現代はプロセスを如何に取り除いて早く結果を出すかが求められます。それが至上の価値だとも思い込み、企業もこぞって競争して早くそれを実現しようと躍起になっています。その結果主義の最たるものが学校で人間の教育の仕方にまでになっているのはとても残念なことです。

子どもたちは本来、プロセスに喜びを感じるものです。遊びというものもプロセスが楽しいから遊びこむことができます。もちろん、目標もあったほうが楽しくなることはあります。しかしそれはプロセスの大切さやそれを深く味わうために用いるもので楽しみや喜びを増すものだからです。

私は暮らしフルネスの中で、丁寧な暮らしをしているとよく周囲に言われます。いちいち、そのものの意味や価値、その意義を味わいながら取り組むからそう見えるのでしょう。実際に手間暇というのは、めんどくさいと思われますがその逆で実は自分も喜び、周囲も喜ぶ、自他一体の幸福の循環を生み出すものです。これを私は徳の循環とも呼んでいます。徳が循環するような世の中になっていけば、誰もが気が付けば丁寧な暮らしになってしまい喜びや仕合せを深く味わえるようになります。それは誰にでも今からでもすぐにできることです。

今の時代の空気感は情報社会でもお金を使うところでも効率優先、結果主義の便利さこそが至上の価値になっています。これは一言でいえば、「心を使わずに脳みそだけで処理する世の中」がいいとなっているということです。

私が提案している暮らしフルネスは、この逆で敢えて心の方を先に使い、心の豊かさが循環し徳が積める生き方を実践していくことです。これは単に丁寧な暮らしのことをいうのではなく、真心を盡す暮らしのことをいいます。

例えばお漬物を合成添加物や保存料、着色料を使わないから丁寧な暮らしをしているというわけではありません。もちろん、私が取り組む日子鷹菜は、そんなものは入れませんが大切なのは真心を籠めて取り組むそのプロセスや結果が単に丁寧な暮らしのようになったということです。

丁寧な暮らしを目指しているのではなく、真心を使うことを忘れないということを大切にしているのです。

似て非なるものもたくさんあります、これは脳が心にとって換わっているからです。情報化社会の中では、心まで脳で心風に処理されるからです。大切なのは、知ることではなく行うこと、知行合一に真心をまず実践することです。脳を使わないというわけではありません、まずは順番として心を用い、脳はそれに付随して活かすという具合です。それを日々の暮らしのなかで日常的に実践していけば脳と心のバランスは保たれ本来の謙虚さや感謝のままの自分でいつもいられるということです。

先人たちはそれを「徳のある暮らし」と呼び、一生かけてその徳を磨いて恩に報いたように私は思います。むかしのものは懐かしいものには、その徳の智慧の伝承が詰まっています。先人たちの生き方に習い、この時代も次世代につながっていることを忘れずに徳を伝承していきたいと思います。

心のふるさと

家庭教育というものがあります。そもそもこの家庭教育はいつからはじまったかといえば、人類が始まった時からとも言えます。その時から代々、その家の家風や文化が産まれていきました。それは色々な体験や経験を通して、大切なことを親から子へと伝承していくのです。

つまりは家庭教育の本質は、伝承教育ということでしょう。

その伝承は暮らしの中で行われてきました。これを徳育ともいいます。私たちは徳を暮らしから学び、その徳が伝承していくことで代々の家は守られ持続してきました。私たちが生きていく上で、これは生き残れると思えるもの、自然界の中で許された生きるための仕組みを智慧として取り込んできたのです。

これは人間だけに限ったものではありません。鶏がもつ秩序であったり、虫たちがもつ本能であったりと、見た目は違ってみえてもそれぞれに家庭教育がありその一つの顕現した姿としての今の生きざまがあるのです。

人類は、その家庭教育をそれぞれの小さな単位の家からその周囲の家にまで広げていきました。親子で伝承してきたものを、その地域で伝承していくようになりました。善いものの智慧は、善いものとしてみんなで分かち合ったのです。助け合いの仕組みもまた地域の伝承の一つです。地域ぐるみでみんなで伝承してきたからこそ、その地域が豊かに発展し、存続してきたともいえます。

それが現代は破壊されてきています。地域の共同体も歪んだ個人主義により失われ、家庭教育も核家族化などによって環境が劣化していきました。今だけ金だけ自分だけという空気を吸い、家庭教育は学校任せです。こうなってくると、人類は今まで生き残ってきた力を失っていくことになります。

つまり生きる力の喪失です。生きる力が失われることは、私たちは心のふるさとを失うことでもあります。心のふるさとは、この代々の伝承のことでありそこをいつまでも持っているから故郷の心も守られます。

次世代のことを思うと、今の環境を変革すべきだと危機感を感じます。そしてそれは何処からかといえば、家庭教育の甦生からというのは間違いありません。家庭教育を国家などに任せず、それぞれが暮らしを丁寧に紡ぎ、地域の方々と一緒にかつての先人たちや両親、祖父母からいただいたものをみんなで分け合い守り続ける活動をしていくことだと私は思います。

私が故郷で行っているすべての事業もまた、その心のふるさとを甦生することに関係しています。保育という仕事に関わってきたからこそ、到達した境地です。

子どもたちのためにも、保育の先生方を支えるためにも信念をもって家庭教育を遣りきっていきたいと思います。

休みを味わう

人は休みが必要な時があります。なぜなら休むことは、止まることになるからです。以前、骨折した時に何もできなくなり色々と苦労したことがあります。それまでのハードな日常が全て途絶え、食欲もなくなり気力も失いました。そうなると、うつ状態のようになり不安や心配事が波のようにやってきます。真面目であればあるほどに、何とかしなければとバタバタするほどに余計に休むことができません。

思い切って、諦めて休もうと決心すると周囲がよく動いているのが観察できるようになってきます。自分が止まるからこそ、周りがよく観えるのです。今の時代はスピード社会で何でも一日でやれることが増えています、車や飛行機であっという間に移動でき、お金を使えばすぐに御飯が出てきて携帯やパソコンで情報や連絡が瞬時にできます。こうなってくると、スピードは増していくばかりで便利の渦のなかで自分が動き続けている状態になります。

じっとするというのは、内側からの治癒を快復させていくことに似ています。動くときに使う気力と、じっとする時に使う気力は陰陽のバランスのように調和しています。動いているからこそ、止まる時間が必要になる。これは座禅などでも同じです。

また動くと疲れますが、疲れると硬くなってきます。必要以上に無理をしたり、緊張する時間が増えると緩む時間が減ってきます。緊張と緩和、自律神経やストレスというものは常にその止まることとのバランスを保つことで調っています。

また「止」というのは、古代中国の甲骨文字がルーツです。足を意味する偏旁(へんぼう)が加わり足で立ち止まるという意味です。字も足跡を表していて、歩くというのもこの止まるが合わさっています。

質の高い動きと休みは、「止まる」ことではじめて実現するように私は感じます。しかし止まることを學ぶというのは、なかなか難しいことです。車の運転も、速度を上げすぎたら周りの景色も見えませんし事故にあったらどうしようもありません。ブレーキをちゃんと踏め止まることを会得しているからこそ運転も楽しくなります。長旅するには、運転を安心してできるように休みを覚えることが必要不可欠ということなのでしょう。

休みはただじっとしているだけではなく、地に足が着いているという意味もあります。地に足をついてちゃんと一歩ずつ丁寧に進むことで私たちの心身は安定してきます。丁寧な暮らしをしながら休みを大切に味わっていきたいと思います。

 

当たり前を学び直す

昨日は見事な十五夜の美しいお月さまを拝見でき、仲間たちと徳積堂で徳積と暮らしフルネスの実践をするなかで心身がとても元氣になっています。今ではお月見の方が非日常になっていますが、本来はこのお月見こそ私たちの当たり前の日常の暮らしの中心に据えられていました。

いつからか私たちはかつての当たり前が、当たり前ではない非現実のものになっています。私は、かつての当たり前を忘れないように色々と現代の特定の環境に刷り込まれないようにと日々の暮らしを調えていますが、よく周囲の環境に染まっている人たちからは尖がっている人といわれたりします。別に尖がろうとしてやっていないのに尖がっているというのは、それだけ今は当たり前のことが当たり前ではなく見えるということです。他にもこだわりが強すぎると驚かれたりします。これは別にむかしの当たり前を自然にやっていたら周りからそう見えるだけということです。極端だと、縄文人を目にすれば現代人からは異常に見えたということでしょう。しかし別に縄文人の恰好をしてなく、物事の自然が分かる人なら違和感はそんなにないはずです。

そもそも何が自然で何が不自然かがわかるというのは、どの時代を生きることにおいてもとても大切な見識です。どの時代も今の時代が当たり前になっていることは、むかしから見るととても滑稽で異常に見えるからです。

例えば、保存食が添加物たっぷりの調理になっていることやサプリや薬ばかり飲んで身近な薬草など除草剤で枯らしていること。他には、お金を大量に使って心の満足を得ようとしていたり、季節の循環をまったく無視するような生活をすることで経済を動かすこと、水道やガスや石油などエネルギーの無駄遣いなど驚くほどに当たり前が変わっています。

どちらにしても不自然な生活を続けていたら、いつか必ず限界がきて崩壊します。それでも当たり前の環境がすぐに変わるわけではありませんから赤信号をみんなで渡れば怖くないと誰もが先延ばしをしてツケを子孫に残しています。

本来は、気づいたらすぐに自然に回帰できるように色々と改善をして子孫へのツケを今の世代で解消しようとするのですがそんなことをしていたら尖がっているやこだわりが強いといわれ変わり者として裁かれる始末です。実際にはそうではない人もいますが、世の中の大多数、特に既得権益を持っている人たちほどかつての当たり前は異常になっていた方が都合がいいのかもしれません。

昨夜、お月見をしていたら数千年、数万年前のことに思いを馳せました。その頃の人たちは何を感じていたのか、どれくらい澄み切った感性で物事を観ていたのか。日本刀の古刀に現代刀が叶わないように、その魂の純度は研ぎ澄まされた人たちの暮らしはどうなっていたのか。

私の関心はそこにあります。

先人たちはみんなで自然に対して謙虚に、正直に生きてきたからそれを暮らしに昇華させみんなで実践を怠らず子孫へ徳を積み続けてきました。先人たちが磨いてきた美しい暮らしは、子孫たちへそのまま譲り渡していけば私たちはツケを解消していけ同時に徳も譲っていけます。一人一人はたとえ小さくて弱い実践かもしれませんが、暮らしは誰にでも今からでもすぐに改善することができます。

お月さまが私たちを澄んだ光で見守ってくださっているうちに、私たちも懐かしくて美しい生き方に当たり前を学び直していきたいと思います。

月の陰徳

今日は、徳積堂の十五夜祭を開催します。もう取り組み始めて3年目になりますが、この行事は大変人気でいつも席が足りません。お月見と音楽の調和は美しく、懐かしい秋の風情に心が深く癒されます。

もともとこのお月見の行事は想像してみるときっと縄文時代よりもずっと前から人類は夜に月を眺めては月が実りを見守ってくれているのを感じて暮らしの中で自然に行事をしていたように思います。

特にこの秋の澄み切った空の月の光を浴びると、心の深いところまで照らされるように清らかな夜にいのちへの感謝や恵みへの恩徳を思ったのでしょう。

今日の室礼は、そのお月さまやご先祖様への感謝と供養を籠めてお月見団子やススキや、芋を使って行います。

まずお月見団子は、満月に見立てます。このお月見の団子は農作物の豊作をいのり感謝する意味があります。一般的に十五夜から因んで一寸五分の大きさにするといいと言われます。一寸五分とは、約4.5cmくらいです。また十五夜なので団子の数も15個がいいといいます。それに月の光を浴びせては力をいただき、みんなで食べて元氣やいのちをいただきます。

またススキは、本来は収穫した稲を飾っていましたが稲穂がなくなっているので実がついたススキを稲に見立てたといいます。ススキは魔除けの効果もあることから、農作物を災いから守るといわれます。月の光を浴びて透明にキラキラと輝き、風にたなびく姿は心を静かに安らかにします。

そして芋名月といって、サトイモやサツマイモなどを使ってお供えして直来でいただきます。これは稲作が始まる前の、田イモ、サトイモを食べていたころの風習の名残です。芋の美しい白さや形が月に見立てられ、またこの時期独独の旬の甘みや香りにはうっとりします。芋を使って、様々な調理をし、芋が主役になる味わいも格別です。

この徳積堂の十五夜祭は、もともと月を眺めるのに徳があると信じるところから開始したものです。私たちは夜に月を眺めて、月を祈り、月に感謝するとき、いのちの中にある深く厚い徳を感じるものです。ただ月が夜空にあるだけで仕合せ、ただ月が見守ってくださっているだけで喜びになる。

陰ながらいつも地球を、そして私たちを見守ってくださっている存在に気づくことのなかにこそ、陰徳があります。お月さまはまさに陰徳の象徴だと私は思います。

暮らしフルネスの豊かさを、今日も皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。

暮らしの音

聴福庵では懐かしい道具たちに囲まれた暮らしをしています。その懐かしい道具に囲まれる喜びの一つは暮らしの音です。例えば、建具を移動する音、料理をするときの和包丁の音、また炭火が燃えていくときの音、その他、風鈴や暖簾などが揺れる音が聴こえてきます。

この音は、むかしからある懐かしい音です。私たちは音を聴くとき、その音が持つ波動のようなものを感じ取っています。音には時代を超えたそのもののいのちの存在を感じることができます。

私は暮らしの音で最も好きなのは、備長炭の奏でる音です。私は炭オタクなのであらゆる炭を収集し、試行錯誤して最も音の善い炭ばかりに囲まれています。その炭が、静かに燃えるときに奏でるキンキンと啼く高音には火と水が調和するような穏やかな気持ちになります。合わせて、鉄瓶の水が沸騰しシャーシャーと沸き立つ音もまた安らかな気持ちになります。

日々の些細な暮らしの中で、どのような音を聴いているかで心の仕合せやゆとりも変わります。

暮らしの喜びというものは、この音との暮らしの中にあります。

現代では、特に都会はあらゆる人工的な機械音が聴こえてきます。それにスマホをイヤホンで聞いたり、また電磁波の音なども鳴っています。懐かしい音は、耳をかなり澄まさないと聴こえてきません。

日常的に心が穏やかで安らかになるような環境があることで、暮らしはとても豊かになります。

子どもたちや子孫のためにも、懐かしい音のある暮らしを伝承していきたいと思います。

実践を磨く

今年は自然農の田んぼのお米はあまり収穫できませんでした。その理由は、収穫のタイミングを自分たちの都合に合わせたのが原因の一つです。雀や他の虫たちが一気に群がり、随分食べられてしまいました。これはお米だけではなく、野菜でもよく発生することです。

私たちのいる自然界では、タイミングというものを全ての生き物は感じて生きています。つまり旬というものがあります。その旬を逃さずに待っているのです。旬を過ぎれば食べられなくなるものもたくさんあります。そしてその旬は作物においても、その時期に種を蒔こうとするものです。お米も種を落として翌年のために土の中で眠ります。その種が落ちる前に収穫するから得られます。しかし種が土に落ちると食べられなくなるため、人間や鳥たちをはじめ虫たちはその前に収穫にきます。これは山の果樹や木の実などと同じく、そのタイミングをみんなで待って一斉に食べにくるというものです。

この仕組みは自然界ではとてもうまく成り立っており、長い年月を経てその生き物たちとの組み合わせを獲得していきました。お互いに共生していくための調和をそれぞれがタイミングというものを持ち、合わせていくのです。これが自然の仕組みであり智慧であるのは間違いありません。

この仕組みは、ご縁というものも同じです。タイミングに合わせて、共生する者たちが集まってくる。それはお互いに旬を待つことによって得られます。自分勝手な都合でご縁を合わせても先ほどの収穫と同じくそれはやってこないものです。

それぞれがお互いの旬を理解しあい、その時機を一期一会に暮らしていくなかで私たちは共生し、また助け合うことができるということなのでしょう。

自然から學ぶのは、智慧を學ぶことです。

収穫は少なくても、そこから自分のタイミングの間違いに気づき、丁寧に自己を調え時機を見間違わないように実践を磨いていきたいと思います。

場を調える意味

明治以降、日本人は様々な暮らしを大きく変化させていきました。特に大きく変化したのは、自然との関係です。自然をコントロールしようとし、自然と共生してきた智慧を捨てていきました。もう150年も経てば、ほとんど人は亡くなっていますからその当時がどうだったかのを語る人もいなくなります。

ではどのように変えられてきたかに気づくのか、それは暮らしを深く見つめると実感するものです。例えば、それまでに使われてきた道具をよく観察します。明治以前の人たちが、どのような道具を使ってきたか。包丁一つとっても、石臼一つとっても、いのちが壊れないように、自然が傷まないようにと配慮したものばかりです。現代は、錆びない研ぎもいらない包丁ですし全自動電動ミキサーなどになっています。

手間や暇や時間をかけないことが良しとする考え方に換えているのがわかります。それにいのちのようなものよりも、見た目だけ整えていればいいという考え方になっているのもわかります。自然物から人工物へと物との接し方も変わります。つまり自然との暮らしよりも、人工的な生活に転換してきたということです。

都会などまさに人工的な生活をする場所です。自然物はほとんどなく、すべて自然は人工的なコントロール下にあります。これはすべて金融経済を優先する仕組みで成り立っています。人類は金融経済を優先するために、あらゆる自然物からお金に転換し搾取をするという構造で世界のグローバリゼーションは進化させていきました。小さな範囲で行われていた時はまだしも、地球上のありとあらゆる場所でそれを進めてきましたからもはや地球に自然の共生していた場所はほとんど失われてきました。いつ終わりが来るのが誰にもわかりませんが、壮大な文明実験をしているということでしょう。

かつて、人類の文明は歴史を観ると何度も滅んでいます。その滅んだ理由も、様々ですが根本は人類の欲望との調整です。飽くなき欲望の果てに、人間はすぐに謙虚さを失います。自然災害が来ることも忘れて、気が付くと自然の猛威の前に立ち尽くすだけです。

自然災害というものは、実は人造の災害であるというのはわかります。もともとあると思っている人間は謙虚に暮らします。それがないと思ったところから問題が発生します。

映画でも地球滅亡などをテーマにしたものがたくさん出ていますが、どれもハッピーエンドで救われるものばかりです。実際に暗くなっても仕方がないということでしょう。しかし明るいか暗いかが重要なのではなく、やっぱり謙虚かどうかということが肝心ということでしょう。

謙虚さというのは、自然を身近に感じる暮らしをし続けていれば忘れないものです。自然のリズム、自然の持つ壮大な循環の中にいると、如何に自分がそのちっぽけで同時に偉大な一部であることを自覚できます。

その安心感と有難さを覚えるとき、人は欲望との調和が保たれます。欲望を助長していくだけの環境ではなく、調和が保たれる環境、つまり「場」をどれだけこの世に実現させていくかが子孫のためには大切になっていくだろうと私は思います。

子どもたちのためにも、今いる自分の場を調えて場からこの世界を改善していきたいと思います。

農業の本当の価値

現在、農業の本当の価値は正しく世の中には伝わっていないように思います。長い時間を経て、手間暇をかけてじっくりと育ててきたものが世の中のマーケットに出そうとすると、大変な安さで値決めをされてしまいます。その理由は、中国産や機械化やあるいは農薬化学肥料による量産化したものと比べられるからです。

本来、小さな農家が集まって市場に品物を出し、それぞれの善さを競い合っていた時代から大規模農家が独占しどれだけ安く出せるかを競い合う。これは家電製品なども同様に、値引きすることが当たり前というのは消費者側の市場原理と大衆の欲望を優先した結果でありそれを繰り返しているうち、本当に長い目で観て善いものをつくろうという考えは否定され、目先のもので安価で使い捨てられるような便利なものをつくる人が優先されていきました。そのため、ちゃんとした本物の価値を提供しようとしていたメーカーは倒産し、農家も正直に丁寧に小さくても在来種や固定種、その洗練された技術を持っていた篤農家たちもいなくなりました。

末路として、今、世界中で問題になっている現代の環境汚染や自然の破壊や富の格差や飢餓貧困などが多発しました。そういうものをいつまでも解決しようともせず、まだ今でもその浅はかな市場原理を優先した売り方や買い方を換えようとはしていきません。

私が取り組んでいる伝統在来種の高菜も、自然農で人が丁寧につくりそれをお漬物にするのもスパイスにするのも物凄い時間と技術と労力がかかります。作物を育てるだけでも、8か月以上時間がかかります。そしてそれを加工するのに半年以上かかります。また商品にするにも一つずつ手作業でかなりの手間暇をかけていきます。すると、その経費だけでも市場に販売されている添加物たっぷりの高菜の10倍以上の費用がかかります。それには利益はのっていません。そこに利益をのせようとすれば、農家さんが生活できる費用、継続できる費用、未来のために投資を続けるための費用があります。しかしそれをしたら値段が高いという理由で市場は取り扱ってもくれません。だから値引きしろと言われたら、赤字を出しながら農家を続けることになります。そうしているうちに、ちゃんと正直にむかしの大切な智慧と味を守ってきた農家が世の中からいなくなったという流れです。

これは、自然の動植物が絶滅していく仕組みにそっくりです。篤農家も自然と共生して、むかしながらの智慧の暮らしを継続していましたから動植物と似ています。だから絶滅していくのでしょう。気が付いた時には、漬物であれば発酵もしていないような添加物や防腐剤いりのものばかりが食卓にあがり、それを漬物と認知していざ、もし自然災害や戦争等で保存食が必要なときにはその智慧も失われて酷いことになるのは火を見るよりも明らかです。

結局は、私が取り組んでいる伝統在来種の懐かしい農産物や暮らしの智慧がその時には必ず役に立ちます。今の時代のように便利でお金で豊富に安いものを買っているうちは、保存食の智慧など価値がないとも思われます。

しかしそんなことをみんなでやっていたら、危機に対しでどう地域やみんなで乗り越えるのでしょうか。種でもF1などの改良のものを使っていたら、自家採取もできません。化学肥料や農薬がないとできない農法をしていたら、もしそれが海外から入ってこなくなったら作物はできないということでしょう。石油が止まり機械が使えなくなれば、作業すらできないとなったらどうするのでしょうか。

私がむかしの懐かしい味や伝統や知恵を守ろうとするのは、子孫のことを思うからでありみんなでその価値を守ることで美味しさも健康も、仕合せも徳も譲っていくためです。

何でも都市化して、グローバリゼーションの大合唱の名のもとに均一化してお金だけの価値を優先して軸足を単なる搾取経済の援助ばかりをしていたら社会もそういう未来になるばかりです。

そろそろ本気で目覚めて、自分たちの誇りや子どもたちや子孫のために一人一人が選択をしていく時代だと私は思います。そしてそういう人たちがきっと、本物の農産物や正直な加工をする人たちを支えていくことを信じています。引き続き、世の中の流れがどうあろうが、本質や根源を見失わないように丁寧に暮らしを紡いでいきたいと思います。