人間性の快復

人間は人間中心に物事を考えるようになってから、より自然から遠ざかっていきました。人間中心とは何か、それは人間至上主義ともいえます。これが資本主義の正体です。自然の一部としての人間性を見失った人間はもはや本来の人間らしさはありません。

自然を支配しようとして世界を席巻してきた便利な道具を次々と発明した物質文明の終焉は地球規模の自然災害があれば瞬時に滅びます。文明の滅びというのは、同じパターンで幾度も行われます。人間は歴史に学ばないといいますが、ここまでくると学ばないのではなく何か余計なチップでも埋め込まれているように制限され反抗できないようになっているかのようです。

よく観察してみると、自然界の中で機械を発明して自由自在にコントロールする他の動物はありません。あまりにも地球上の他の生物とは異なります。見方によっては、地球にどこからかの星から別のものが入ってきたような歪さ異物さがあります。

たとえば構成しているものが地球外のものであればすぐに誰でも地球の存在ではないとわかります。しかし構成されているものがすべて地球に存在する成分で人間は形成されています。土や水、そして食べ物や成長、骨格などすべて地球のものです。他の動物と似ていたりもします。

しかしなぜか、他の動物がしないことをするのです。

人間が人間から観たこの世界はどう観えているのか。動物であれば弱肉強食の頂点にいるのが自分たちで最下層は植物ということになっています。これも穿ったものの見方でそんなことはありません。もし今の人間のような視点で植物から観たら最下層が人間であるのは間違いありません。しかし当然、植物はそんなことはしませんしそんなものの見方などするはずもする必要もありません。

人間というのは、自分勝手に思い込みや決めつけを正当化してそれを世の中の絶対的な価値観としてまるで宗教や信仰のように社会通念の常識としていきます。その常識のおかげで、様々な非常識は抹殺されていきました。

環境問題などみても人間至上主義の価値観で取り組む環境問題は環境破壊を促すための免罪符のようになっています。また暮らしも競争しお金を集めること以外をしない存在を犯罪者のように扱い比較差別の対象者にして安心したりもしています。

如何に人間が本来の自然の一部としての人間性から離れたら心のないロボットのようになるのかがわかります。

だからこそ私たちは今こそ、自然の一部として調和する真の人間性を快復する時機に来ていると思うのです。それを私は先人たちが遺してくださった暮らしの智慧に倣い、暮らしフルネスと命名して日々に求道者のように取り組んでいます。

小さな一歩で、自分の小さな場所であってもそれは大きな前進で地球の一部としての大きな場所に繋がっています。

丁寧に取り組み、真の人間性を快復する場を調えて子どもたちに自然に寄り添う仕合せを譲り渡していきたいと思います。

いのちの言葉

日頃、私たちが使っている言葉をよく観察するとそこにはその時代や環境の価値観が大きく影響を与えていることが分かります。例えば、経営戦略や経済戦争など、常に競争をしているからこそ戦争用語が並びます。本来は、経営も経済も争うものではありません。恩や徳、あるいは感謝や安心など日々の暮らしがよりよく調和していくための言葉です。しかし実際には、新たな造語にまでしてそれが当たり前に使われます。

そういう意味では、意訳や誤訳が解釈の違いは人間が創り出していきます。本来は真理を言葉にしたものであっても、それを使う人によって捻じ曲げられ歪みます。これは道具という性質が、人間によってどうにでも使われてしまうからです。

どんなに善い道具をつくったとしても、それを使う人間が善くないとそれは悪しきことのために用いられます。例えば、包丁やハサミも使い方次第では人を傷つける危険な武器にもなります。

だからこそ私たちはこの優れた道具をどう使う人になるのかを一緒に磨き続ける必要があるのです。

ITやAIなど、まさに今は機械という道具が次々に発明され世の中を便利にしています。しかしこの機械のもつ危険性をどれだけ直視して真摯に議論しているかというとほとんど無視しでは欲望や競争の道具としていち早く世の中にあることや使うことを常識にしようと躍起になります。

先ほどの言葉であれば、マスコミの報道を見聞きしていてもわかりますが言葉という道具を巧みに利用し敢えて不安を煽り、ゴシップを流し、専門家がさも絶対のような話を語り部分最適がまるで全体最適かのように本質を歪めます。言葉は情報伝達の道具としては便利ですが、その言葉が大変危険なことを世の中に産み出すことについてはまるで無関係かのようにふるまっています。本来は言葉がない時代であれば、人間は常に自然の一部であり誠の実行実践があるのみでした。

言葉も道具の一つですから先ほどの包丁やハサミのように人を傷つける武器にもなります。だからこそ、言葉は扱い方を気を付けなければなりません。先ほどの経済戦争というのは、お金や石油という武器を使って相手を抹殺しようとしている行為です。そんな言葉を使っていたら、世の中がみんなその言葉によって価値観をつくられます。

自分たちが本来の意味で道具を正しく、丁寧に使い人格を磨いてその道具を使いこなせるようにと学び続けていけば知らず知らずに価値観に流される人ではなく、主体的に価値観を省みて自己を調える人になります。

人間は自己を省みることによってのみ、はじめてこの世の主人公として自立して全体最適に調和していくことができます。

いのちの言葉のことをこれから少し深めていきますが、大前提になっている道具というものそのものの持つ徳をよく見詰め直して纏めていきたいと思います。

炭の生き方

昨日は、聴福庵に懐かしい方々が集まり炭火を囲んで美味しい時間を楽しみました。同じテーマで生きていると、お互いの生き方から学びが深まります。この炭というものの徳は本来は澄みのことです。

澄というのは、お水が透明に澄んでいくイメージがあると思います。色々な不純物が透過され澄まされていくこと。濁っていたものが時間を経て沈殿し透明になっていくように、また燃えて煙が出てその中の光が澄み切った輝きを持つように浄化、デトックスされます。

現代は、何かと濁り澱む時代です。食べ物一つにおいても、大量生産される過程であらゆるプロセスに不純物が混じります。便利さであったり欲望であったり、あるいは効率を優先するために色々な化学物質を混ぜ合わせたりしているうちに身体によくないものを摂取することになります。

それが積み重なっていくと、身体本来がもっている浄化能力が追い付かずに様々な病気になっていきます。そうならないためには、日頃から澄ます実践を積み重ねて浄化力を磨いていくのが一番です。

この浄化の仕組みは実は日本人はとても長けているように思います。神社に行けば、祓えたまえ清めたまえとご祈祷します。またお掃除をしてゴミを拾います。お水に恵まれた国土、自然の新鮮さが充ちている風土があるからこそこの浄化の文化が発達したように思います。

かつての武士の魂ともいえる日本刀などはまさにその澄み切った心の姿を映し出しているものです。恥の意識を持ち、常に澄まし続ける生き方はまさに生き方のお手本です。

この世が渾沌と澱んでいくのは、人間の性質によるものです。人間は人間都合に様々な道具を生み出しますがその道具は危険極まりないものばかりです。それを扱う側がよく育ってもいないのに、その場しのぎでそれを使ってしまいます。

それがそのうちに常識になり、危険性を感じる感性が麻痺していきます。茹でガエルの故事にも似ています。だからこそ、むかしの人たちは澄ます生き方をし、様々な感性が研ぎ澄まされ穢れないように気をつけたように思います。

日々の暮らしの中でどれだけこの研ぎ澄ましていく修養や実践をするのか。私が炭をパートナーにしている理由です。

一期一会のご縁と、対話に感謝しています。

いのちへのいのり

古今、人は何を學ぶのかと問われればそれは道を學ぶと応えます。この道とは何かと言えば今では生き方のことです。生き方を學ぶためには、誠である必要があります。この誠とは、文字通り言うことと実践することを一致させるということです。しかしこれはなかなか簡単なことではありません。

人は言葉を喋るようになり、あるいは文字を持つことによって言行一致することが難しくなりました。自分の血肉になっていないものを簡単に語り、自己を含め人心を惑わします。また実践は終わりなく、磨いても完成はありません。常に自己修養の連続でその最中に人に教えていてもその教えはまだ途上です。結局は、未熟さを知れば知るほどに人に教えることはできません。

神人合一という言葉もありますが、この意味は言行一致と似ています。もしもこの世を素直に謙虚に生きるのなら自らの徳を省みて日々の生活を信仰の境地で調えていくのが何よりも和合することになります。

生活即信仰という言葉があります。

これは日々の暮らしが祈りそのものになっているということです。私は古民家甦生を通してこのことを學びました。むかしの井戸をはじめ、古い道具や建物にはいのちが宿ります。そのいのちに接する時、頭で計算して簡単に使えるものはなくどれも真心を使います。日々の生活の中で真心を使うことが増えることで、頭よりも心が大きくなってきます。頭の一部として心があるのではなく、人は心の一部として人であるのです。

心を盡していく生き方は誠の道につながります。

私は法螺貝を日々に立てますが、これは暮らしの一部になっているものです。お山に入ればお山にご挨拶をし、神様にご挨拶をし、自分の身体にご挨拶をし、場にご挨拶をし、貝にご挨拶をし、太陽にご挨拶をし、お水にご挨拶をし、ご縁にご挨拶をしと、永遠にご挨拶をし続けます。またご挨拶には清々しい気持ちで、いただいているすべてに丸ごと感謝していのり呼吸を吹くのです。

もともと暮らしの中にいつもご挨拶がありいつも感謝があります。それは呼吸をするように吐いて謙虚にご挨拶をし吸って素直に感謝をします。それが暮らしです。

暮らしフルネスというのは人の生きる道の実践です。親孝行も、今いる場を調えるのも、周囲の徳を活かすのも暮らしあってこそです。暮らしの中に色々なことがあり、その一つには仕事があったり、その一つにはお野菜づくりやお漬物づくりなど生きていくために必要な糧をえる活動があります。

当たり前の暮らしの中で、当たり前にどれだけいのちへのいのりがあるか。常にこの世で私たちが試されるのは人間性や人間らしさを磨いているかということかもしれません。

今日も一期一会のご縁に感謝して暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

いのちの役割

私たち人間は誰しも生き方というものを学び成長していく生き物です。お互いにそれぞれに別の人ですから同じ人、同じ役割になることはありません。お互いに違う役割だからこそ、尊重しあい助け合うことができます。

現代の教育では競争社会のなかで、みんな同じ役割を目指しますがそんなことは不可能です。粒子で見れば同じかもしれませんが、役割が異なるから別の姿になって顕現していきます。

今の自分の姿は、唯一無二の役割を果たそうと今のかたちになっています。いのちというものは、役割がありそれぞれの役割を一生懸命に生きようとします。それぞれが自分を生き切るとき、お互いの役割が合わさって全体のいのちを支えるのです。自分らしく生きるというのは、自分になるということです。

私たちはそのいのちの姿を科学的に証明しようとします。それが現代の機械にも出てきますし、経済という金融の姿にもなってきます。しかしよくよく観察すると人間都合の役割が増えると本来のいのちの流れからするとあまりにも歪なものが出てくるものです。その証拠に、不自然なその姿は自然には適応しません。自然はいのちではないものを活かせないからです。

いのちは時間を経ていくうちに変化していきます。それは役割が少しずつ変わっていくからです。気候変動などもその一つであり、刻々と変化は已みません。自然界にあって壊れないものがないように、これは役割が変わっていくことを意味します。それを修繕することによって、新たな役割を与えること。これを私は「甦生」と定義します。甦生はここでは書ききれないので別の機会にしますが私たちは先祖からずっと今に至るまで一つの経糸で結ばれています。そこにも大切な使命や役割があります。そこに今を生きる私たちが横糸を通して結び直します。時には絡まり合ったものを解いていく必要もあります。その時、探していくのはお役目の意味です。

いのちは常にお役目を生きます。ご苦労様と見送りながら、おめでとうと誕生を新たに祝います。日々は、この連続でありその中ですべてのいのちを輝かせていきています。

子孫たちのためにも、先人たちがそうしてきたように変化を味わい本来の役割に目覚め、自然の普遍的な真心に気付けるように丹誠を籠めて徳を積んでいきたいと思います。

いのちの存在

人間は呼吸や空気のことを当たり前として意識しないように「いのち」のことをあまり意識して過ごすことがありません。しかしこの世の中はいのちが円転循環しているなかで私たちは存在しているものです。いのちの存在を意識すればするほどに、いのちがどう循環しているのかに気づきます。

まさに今の時代は、如何に当たり前に気付けるかを学び直す時代かもしれません。それくらい機械や文明、便利に囲まれて人間性を見失いやすい環境の影響を受けているからです。

例えば、自分の身体にある体温というものを深く気づいていくとします。この体温は何処からきたものなのか、なぜ体は温かいのか。科学的には、細胞や代謝、栄養や筋肉の運動などとも言われます。しかし果たしてそれだけでしょうか。実際には、私たちは太陽の光やお水、空気をはじめ自然や宇宙などのあらゆるいのちと繋がっていることで存在しているともいえます。

この世には、切れているものなどは一切存在せずすべては羅網のように結ばれ繋がっています。その中にあるいのちもまた同様に、分かれても切れてもいないものです。

なぜ体温があるのか、そこには私たちが言語化できている火や水や光や波動などを超えたものが存在する御蔭様であるのです。

いのちは、この世で存在する必要なもので形成されます。そして不必要になれば消えていきます。しかしこの不必要は、反対側から観ると必要不可欠なものです。生も死も必要な存在としていのちはめぐります。

温度であれば、私たちは温度を移動させることによっていのちを移動させます。ぬくもりや暖かさの中には、眼には見えないエネルギーのようなものがありそのエネルギーは熱を帯びてあらゆるものの間を移動していきます。

いのちの活動はこの熱移動に似ています。

大切なのは、それぞれが燃えていることです。燃えているというのは与えられた天命を生きているということです。自然はそうやってみんなでいのちを輝かせて存在しています。

世の中には色々な定義でいのちは語られますが、私は場の中にいのちを感じられるような工夫をして気づきを伝承しているものです。これからの子どもたちには、そのいのちに気づいてほしいと願います。

気づきの時代は、まずいのちの存在からとし丁寧に暮らしフルネスな日々を精進していきたいと思います。

いのちのめぐり

いのちという存在はどこで感じるのか、それは心の中ともいえます。心の中に育っているのがいのちです。このいのちはどのように育つのか、それは自然風土と渾然一体になって育ちます。私たちのいのちは、自然から活かされているという存在です。

いのちは無限で終わりはありません。しかし変化があります。変化すること、諸行無常はいのちの一つの姿です。それをいのちの廻りともいいます。

そもそもいのちは自然から離れることはありません。自然のハタラキがいのちのハタラキであり、そのハタラキの中にあるものがいのちの正体です。ずっと私たちはハタラキ続けている存在に活かされています。

人間がハタラキカタを學ぶのは、そこにはいのちのイキカタがあるからです。

同じ一生で、どのようにイキルか、ハタラクかはその人が決めることができます。

現代は不思議なことに長寿をいのりながらひたすらに急ぎすぎる生き方をしていたり、天命を全うしたいと願いながら便利な生活にどっぷりと漬かっていたり、あるいは環境を変えようとしてさらに人間の欲望を助長していくような環境を増やしたりといのちを感じることとは程遠い暮らしをしています。

人間は環境に流されやすい存在です。だからこそ先人たちは自然の深さを学び、場を創る存在になりました。その先人たちの克己の工夫と智慧の御蔭で、今でも私たちはいのちの豊かさに包まれています。

この先、機械化がさらに発展しお金は際限なく発行され、貧富の差別が拡大し自然が破壊されていけばいのちを粗末にしていきます。

空気やお水、光のように包まれている存在に気付ける人はいのちをより鮮明に甦生させていく人々です。私が徳積に取り組むのも、子どもたちの未来にこだわるのもこのいのちの甦生を続けていくためです。

いのちは消えてはいません。だからこそそのいのちを甦生させ続けることが今の時代は必要です。それがたとえ、大海の一滴であったとしても自然のハタラキといのちの輝きでいつかは元通り以上に快復していきます。宇宙、神羅万象は生々流転を已みません。

変化の有難さを味わいながら、いのちのめぐりの豊かさを丹誠を籠めて楽しんでいきたいと思います。

 

 

 

いのちの根

今朝、窓を開けると冬の美しい純白の風景と合わせて透明な光が差し込んでいます。昨夜のお月さまも綺麗でしたが、この時季の光とお水との調和は清々しさを増していきます。

私たちが清々しいと感じるのは、この光と水の調和、さらに言えばあらゆる自然の調和が合わさるときにこと実感するものです。この調和というのものを感じるのは心を感じることからはじまります。

心が何を感応したのか、光を観る時、光の何を観ているのか。そして雪を観る時、雪の何を観ているのかということです。あらゆる存在を遍く照らす透明な光、そして丸ごとすべてを包み込むお水。その中にある自然に私たちは心の和合を覚えます。そこには目には観えないハタラキがあり、全て同じ粒子が波打っています。

素直さというものを磨いていくとき、人はいのちの存在に気づきます。いのちは渾然一体であり、バラバラではなく調和しています。それを活かしあうとき、私たちは徳の循環を感じるものです。和の尊さ、それが私たちのご先祖様たちが最も大切にしてきた生き方です。

今はまさにいのちを見つめ直す時代です。それだけいのちに包まれていることを人間が忘れた時代ともいえます。つまりいのちとは何か、いのちを見つめる視点、いのちを知ろうとする原点から学び直すのです。

そこにはいのちの根とつながる暮らしが大切です。

そしていのちの根がつながれば、あとは克己の工夫が必要になります。それが暮らしフルネスとも言えます。畢竟、環境や自然が問題になったことは宇宙創生いらい一度もなく、すべての問題は人間の問題があるだけです。

だからこそ、人間がいのちという存在に目覚めてみんなでいのちを輝かせていくことが人として生きる使命だと感じます。

だからこそ私は、私の居る場を「人間のいのちの拠り所」にしたいと思い今があります。

今はこの世に亡き、私の大切な御師匠さんは今は「光」になりました。今朝の光は、御師匠さんの光です。いつも見守ってくださって感謝しています。今日も、いのち輝く宇宙の光の中に入り、かんながらの道を歩んでいきたいと思います。

例大祭と5周年

久しぶりの大雪のなか、御蔭さまで無事に例大祭と徳積財団5周年記念を開催することができました。真っ白に光り輝く風景のなかで、美しい奉納音楽や神楽舞、祈りの時間は心に深く遺る有難い時間になりました。

思い返せば、何もなかったところからはじまり今ではたくさんの仲間や同志に恵まれています。それぞれに無二の役割があり、天命を全うするために徳を磨いておられる方々ばかりです。時折、道を生きる最中に場に立ち寄りその努力を分かち合い、苦労を労い合うことは心のエネルギーを充足させます。何かの偉大なものに見守られていると実感する場には、お互いを深く尊重しあう安らぎや元氣があります。

一人一人がそのような安心で健やかな元氣に充ちれば心も解放されます。心を解放していくことは、心を喜ばせていくことです。真のおもてなしというのは、心の解放があってこそです。

この例大祭は、みんなで協力しあっておもてなしの準備をはじめます。同じ釜の飯を食べ、綺麗に場を清め、静かに穏やかに暮らしを調えます。真っ白な雪の中、妙見神社のお汐井川に若水を汲みにいき、桜の薪に炭火をいれて火を熾します。その火を竈に移し、前日からお祓いして汲んでおいた井戸水を鉄鍋にいれてじっくりと昆布や高菜を煮出していきます。直来は、白いものとして御餅や素麺等、そして福茶などご準備します。

自然の恵みと薫りに包まれた仕合せな時間です。

祝詞にはじまり、岩笛、法螺貝、篠笛、そして鈴に太鼓と懐かしい音に包まれます。龍の舞に音楽、お祭りも賑やかで弥栄な一日でした。恵方も偶然にも、龍王山や龍神池、そして神社の方角にピタリと合っていました。5周年でしたが、またこの恵方になるのは次回は5年後の10周年の時です。周期の豊かさも味わう有難いひと時でした。

人間は見守り見守られるという感覚をお互いに持つことで自然と一体になっているかのような同じような安心感を得ていくものです。安心感は徳を活かしいのちを輝く場を創造していきます。どれだけ安心感の種を蒔いていくか、安心の場こそ懐かしい未来であり心のふるさとです。

これからも子どもたちに先人の生き方を譲り遺せるよう精進し、道を確かめ道を手入れし、真の人間らしさや人間性を高める場を弘げていきたいと思います。

 

 

祓い清める生き方

昨夜は立春のご祈祷をして奉納演者の方々とみんなでお豆腐を食べてゆっくり過ごしました。同じ釜の飯を食うという言い方もありますが、寝食を共にして心を打ちとけてゆったりと過ごします。毎年例大祭の時は、節分からの流れで穢れを祓い、そして福を招きます。祓い清めるというのは、私たちの心の修験の真髄です。

そもそも私は特別な宗教や宗派に属しているわけではありません。神道も修験道も形の中にこだわるものはなく、神道であればかんながらという常に神人合一の実践をしていこうとする生き方であり、修験道は今をどう内省して深く味わい今を磨くかという今を生き切る実践をする生き方として認識しています。

日々の暮らしは、まさに実践そのものであり日々は修行そのものです。

先人たちは生き方としてこの祓い清めるということを生活の中心に据え置いていたように思います。例えば、お水を中心に暮らせば日々に洗い清める連続です。火も、土も風も光もすべて洗い清める存在です。

昨夜は大寒波の襲来で凍てついた空気でしたが、空には美しく澄んだ月が出ていました。お月さまもまた、祓い清める存在として夜を暮らします。暮らしは土に入れば、お墓です。そのお墓に祈りを捧げご供養することもまた、穢れを洗い流し、清めて福にしていくことをします。

日々というのは、小さな祓い清めの連続です。

お掃除やお手入れの功徳はまさにこの祓い清めることをすぐに味わう実践でもあります。場を調えて、場を磨いて、場を清める。この行為もまた、かんながらの道であり修験道であり、暮らしフルネスの実践です。

同じ人生であるのなら、場を荒し、場を穢し、場を壊し、場を乱すようなことを積み重ねる人生よりも場を少しでも美しく清らかに調える方が今に感謝し、未来に徳を譲れるように思います。

同じことを繰り返したとしても、その同じことの中には必ずこの祓い清めるという生き方がある。その安心感こそが、先人が遺してくださった智慧だと実感します。

みんなで祓い清めて新たないのちを彌栄元氣にしていきたいと思います。