場の徳

人は場を通して心を広げていけるように思います。それは波紋のようなものです。波紋は波動ともいえます。お山の中にいて、色々な生き物たちの音が聴こえてきます。この音は、波紋として全体に響きます。その音は、水の音や風の音、そして植物の触れる音、鳥の声、虫の羽ばたき、木々の揺らぎなどあらゆるものが自然の波動を合わせていきます。

その合わせていくものに心を寄せていくと、次第に境界線が取り払われ少し遠くで行われる波紋も感覚が拾うようになっていきます。身体の中にある様々な感覚と一体化していく感じです。それを感じていると、お山全体の波紋や波動を感じます。

たとえば、深夜の静けさに包まれているときのお山の状態。そして朝から昼にかけての状態、一日のの中で何度もその波紋や波動を感じます。すると、次第に自分がお山になっているのかのような感覚を得られます。すると、とても穏やかで静かな心になります。シンプルに心地いいのです。この心地よさというのは、心が地に着いているということでしょう。別の言い方にすると、落ち着いているということです。

心は場に落ち着くと、心は全体と結ばれていきます。心地よさというのは、波紋や波動が好循環して調和しているということでしょう。

お山には、そのような調和を司るいのちが宿っているようにも思います。お山にいき静かに瞑想をし、あるいは自然と結ばれると心が落ち着くというのはお山自体にそういう場があるからです。

その場をどう守っていくかというのは、如何にその靜けさを保つかということに他なりません。英彦山の宿坊で、ただ一人閑かに暮らしていると先人たちが何をこの場で取り組んできたのかが感覚的に伝わってきます。

先人たちが磨いてきた場の徳を、これからも大切に守っていきたいと思います。

守静坊の護符

今日は、一年のうちに7回しかないといわれる己巳の日と大明月が重なる日といわれます。この巳(み)とは、十二支の蛇のことで陰陽五行では土は金を生むということから蛇は金運、宝の神様とし弁財天のお遣いといわれています。また大明月というのは、暦では七箇の善日といわれ「物事の始まりを天が明るく照らしてくれる日」という意味があります。これが合わさった大吉日ということになります。

これから英彦山の守静坊で護符づくりを行います。この護符は、もともと御守りや魔除けとして太古の時代より伝承されてきました。今ではあまり護符や御札はその価値や意味も次第に薄れていますが、むかしは偉大な効果があるものとして人々の間で大切にされていました。これだけ悠久の歴史の篩にかけて今でも残っているのは、それだけの価値があるものだからということでしょう。

私は現在、英彦山で懐かしいお山の暮らしを甦生しています。護符づくりもその一つです。昨日から場を調え、周囲をお掃除し、隅々まで新しい湧水で拭き清めていき宿坊全体を清浄にしていきます。またこの場のすべてをご供養して室礼をし、供物などを捧げます。また護符用の和紙は、ご神木のサクラの木の下に一晩安置してサクラの徳が宿るようにいのります。

そして弁財天の祠をお掃除し、同様に供物を捧げ焼香や読経、法螺貝を奉納し場を清めます。私自身も食べものをはじめお酒も控え、麻やヒノキや和晒しで眠り早起きしてお水を換えて供物を調え火を入れて座禅をします。その後は、弁財天に祈祷をし前日同様なことを全て行い禊をしてから場をととのえます。この日は朝からは甘酒だけにし、鏡を磨いたあとは火と水と音だけで過ごします。

護符は、秋月の手漉き和紙ですが楮ではなくミツマタを使い今回は材料のところからこだわり何度も祈りを捧げながら半年かけて職人さんと共につくったものです。そして墨は200年前の固形墨を削ります。赤は辰砂を使い、龍脳の粉を少し混ぜていきます。そこに守静坊の汲みたての湧水を使い、版木は江戸時代のこの宿坊で伝承されてきたものを手で一つ一つ丁寧に押して力を篭めて入れていきます。

護符は丁寧に乾かし、最後に祭壇の前で法螺貝を吹き立てたあと大切に仕舞います。

ご縁のある方々がこの護符のご縁でさらによりよくなりますようにと真心を籠めていきます。よく護符は祈祷師の霊的力量次第ともいわれますが、私はそんな霊的力量に軸足を置かず、むかしの人たちが丹誠を籠めて丁寧に手間暇をかけて取り組んできたプロセスの方を尊重してつくるようにしています。

印刷機などの便利な道具で簡単にスピーディに大量につくれる時代だからこそ、長い時間をかけて、一つ一つの意味を噛み締めながら何一つ怠らず謙虚に真摯に真心を籠めて取り組むと不思議ですがそういうところにこそ神が宿るような気もしています。

そして己巳の日、大明日という大吉日に縁起を担ぐのも、このおめでたい日だからこそ「予祝」として先に叶うと丸ごと信じて、先人たちの生き方の実践し続けていきたいと思います。

暮らしの中の護符に感謝、おめでとうございます。

記憶と感情

懐かしい写真を整理していたら幼馴染の誕生日を祝う動画が出てきました。今から12年前のものです。そこでまだ生前の声や雰囲気が感じられ、仕合せそうな姿がありました。

私たちはむかしの映像や記憶をそれぞれの思い出として心に宿しています。ほとんど思い出さないようなシーンであっても、映像や写真を観るとその時の情景が甦ってきます。

この時の情景は、その時の感情によって変化します。嬉しい時に見れば嬉しい感情が増幅し、悲しい時に見れば悲しさが増幅します。私たち人間は、感情がありその感情に様々な記憶が揺さぶられ記憶が鮮明になっていきます。

感情は常に記憶と結ばれていて、私たちはその記憶と共に感情を顕すのでしょう。思い出したくないものや、これ以上記憶したくないようなことがあれば感情が途切れることもあります。

それくらい感情は記憶とは切り離すことができないものです。最近、テレビや動画が便利にいつでも見れるようになり脳が記憶のように認知しているものがあります。心から顕現してくるような記憶ではなく、頭で映像を見ているようなものです。映画やドラマのシーンなどもまるで記憶にアクセスしたかのように鮮明です。

私たちは他にも夢を見ます。これは寝ている時の夢のことです。この夢もまた、記憶の一部が顕現したものです。まるで別の未来や別の過去があったかのように自分の経験してみてきた記憶が別のものに改造されています。

すると同時にまた別の感情が呼び覚まされます。私たちの感情は記憶であり、記憶が感情そのものをつくっています。つまりは、記憶を甦生するのは感情であり感情があるから記憶が常に新しくなっているということでしょう。

そして感情はすべての生き物にあります、それは無機質のものにも存在します。小さな虫でも、あるいは動物でも夢を見ます。これは私が観察してきた犬やクワガタでも夢を見ていました。何を見ているのだろうかと思うとき、記憶を観ていたことを感じました。

私たちの正体は、この記憶の中に存在するということなのかもしれません。

日々の暮らしは、記憶の再現です。感情を丁寧に調えて、記憶を磨いていきたいと思います。

食歴

現在、日本では外食産業が発展しどこでいつでもご飯が食べられるようになっています。24時間営業しているところも増えて、外でご飯を食べることは当たり前になっています。

しかし歴史をよく調べていくと、それもほんのこの数十年での変化であることがわかります。江戸時代は、屋台がほとんどで中期ごろより江戸大火の後に職人さんたちが全国から集まり屋台のほかに、ご飯を食べられるところとして奈良茶飯が流行り、今でいうファミリーレストランのようなものがはじまったといいます。

それでも明治以前までは、食事は序列があったりしきたりがありましたから女性はほとんど外食などはせずまた家でちゃぶ台で鍋を囲むようなこともなかったといわれます。それが次第に西洋化していき新たな自由が増え女性や若者たちの社會進出によって洋食なども取り入れられ戦後はバブル期にあわせて外食産業として本格的に外で食べる文化が広がっていきました。

食卓には世界中のあらゆる食材が並び、まるで多国籍料理のような食生活になっているところもあるともいいます。またファーストフードやドライフード、電子レンジなどで便利なものが増えましたから毎日の食卓の食事風景も変わってきています。

同時に食べすぎや飲みすぎ、あるいは添加物や嗜好の方よりなどもあって健康にも問題が出てきて、一汁一菜や一汁三菜などがまた認められてそれを食べる人も増えているともいいます。

今まで私たちの民族が何をどう食べてきたか、それを食歴ともいいます。そして自分が人生の中でどのようなものを食べてきたかもまた食歴です。そして時代の変遷で人々が何が流行り、どのような食生活をしてきたかというものも食歴です。

この食歴をよく観察すると、自分たちの文化や、日頃の生き方、また民族の智慧や伝承なども観えてきます。

この先の100年、あるいは500年、1000年先の食歴はどうなっているのでしょうか。今のこの時代は、世界中のあらゆるものを養殖したり栽培して輸入します。そしてあらゆる科学調味料で調理されます。伝統なども無視して便利なもので手軽に美味しいものばかりを食べています。この食歴がこの先にどのような影響を与えていくのか、眠さんはどのように予測するでしょうか。

食歴から学び直して、どのような食を甦生していくか、子孫のために考えて取り組んでいきたいと思います。

自然の猛威

一昨日から台風の影響で強風だったものが今ではそよ風程度の風になりました。今回は、台風の速度が遅かったこともあり上陸してからはすぐに弱まりましたが遠方の時の方が激しい風が吹き荒れました。古民家をたくさん維持しているため、色々と家の弱いところが崩れますからその対策とお手入れなどに心を使っていたため一安心です。

よく考えてみると、私たちの風土に台風は欠かせないものです。数千年も前からきっとこの台風は同じように到来してきたように思います。いつの時機に来るのか、どう入ってくるのか、大きさや特徴などその年年に変わってきたように思います。タイミングが善い時もあれば悪い時もある、それは私たちの先祖たちはみんな体験してきたはずです。

一生の人生の中で何回の台風に巡り会うのか、そして一喜一憂してはこの台風に対してどう謙虚に自分たちを見つめるかと取り組んできたのでしょう。自然というのは、人間の都合のよいことにはなりません。今、私たちの風土で発生する自然災害は地球のその反対側の影響を受けています。

私たちの地球は円くなっており常に調和して生きています。調和しようとするから自然災害は発生しているともいえます。私たち人間にとっては災害ですが、自然にとっては自浄作用で調和しているということです。

その災害を人間の力で止めることはできません。しかしその災害を緩やかにしていくことはできたようにも思います。例えば、自然と共生してその自然からの恩恵の方を観てその恩恵を活かすという具合です。

そうではなく自然に反発すれば、それ相応の報いが来てさらに災害が人災となりさらに多くの人間の犠牲が増えていきます。私たちの災害は、自然と共生するか、しないかで自然か人かが変わってきます。

もう数千年も前から私たちはこの台風と向き合い、それをどう活かしてきたかをもう一度よく見詰める必要を感じています。自然の猛威は近年、ますます増しています。これは宇宙の運行をはじめ色々な作用が働き仕方がないことです。

しかしその猛威に対して、人間がどう生きるかは色々とまだまだ人事を盡すことができます。子どもたちや子孫のことを思えば、自然がこれからどのようになっていくのか、そしてどう共生していくのかを今こそ向き合いよく考えないといけないと感じます。

自然から学び直し、自然から謙虚に生き方そのものを内省していきたいと思います。

共生の道

自然というものの一つにお互いを活かしあうというものがあります。自然をよく観察しているとそれぞれが自分あるがままにいて周囲を活かします。あるがままであることでよく周囲を活かします。これはお互いの善いところを認めて共生しようとするからです。

何でも受け容れて順応していくということ、これは全てを委ねることに似ています。無理して流れに逆らわずに、自然の流れに従って委ねていくということ。これは身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれの故事と同じ境地です。

例えば、何かの出来事をやろうと決めてそれを行うときに予想もしていなかったことが色々と発生します。最近であれば、大切な行事でコロナ感染があり急に内容を変更することになりました。色々とあっても無理をしない、自然に任せて流れに任せようと柔軟に対応しましたがそれは軸があるからできることです。

この軸というのは、重心ともいえます。どこに重心があるのかが決まれば、浮いていても流されるけれど流されていないという状態になります。つまりは、浮いているけれど溺れていないということです。これを無理をして、ジタバタしたり溺れまいと力んでは必死に泳ぐとかえって流れに逆らい軸を失います。

どこかで絶対安心の境地であったり、常に全体やご縁や初心などの本質や布置を見失わないように重きに任せていると自然にその時々の最善に出会います。最善というのは、ある意味諦めの境地であり委ねている境地です。この諦めや委ねるというのは、いのりに似ています。人事は盡すけれどあとは天命にお任せするということです。

私のメンターの一人は、この信楽の境地を「全てお任せ」と表現して体現しておられました。別の言い方では、お気楽極楽だとも。その実践をするのは、如何にいただいているものや存在に感謝しているかという心の在り方にもつながります。

松下幸之助さんにこういう言葉があります。

「自分も生き、他人も生かす」

「意見が対立すると、ともすると我を張って人に自分の考えを無理強いしがちである。あるいは反対に、投げやりになって安易に妥協する。しかし、両者の良いところを生かしあってこそ、より優れた考えにもたどり着けるのである。何事においても、自分も生き、他人も生きる道を求めて歩みたい。」

対立しないというのは、和合しているということでしょう。そしてこの和合とは、善いところを活かしあう、自他共に生きる道、つまり共生の道を歩もうということでしょう。

自然は、常に共生の道の上にいます。そしてその道を、ずっと子々孫々が続いていきます。私が生れる前よりあったものを、今の時代でも自分の人生でも生き切っていきたいと思います。

ご縁と経験

今、その人が何をしているのかをよく観察するとそこに至る前の経緯の中で学びや変化がありそこに至ったことがわかります。私たちの人生において、経験というものは人生を決める大切な要素です。頭で考えたようにはいかず、そして思った通りにもいきません。しかし経験した事実は、その後の人生にとても大きな影響を与えていきます。

そして経験とは何かと見つめるとそれはご縁であることがわかります。人とのご縁、自分とのご縁、亡くなった人とのご縁、物とのご縁、時とのご縁、環境や場とのご縁などあらゆるご縁が結ばれて今に至ります。

そもそもこのご縁というものを辿る時、私たちは経験を辿っていることが分かります。経験がご縁であり、ご縁が経験になっているということでしょう。

ではどのようなご縁を結びたいと思うのか、どのような経験をしたいと願うのか、それがその人の初心でもあり理念になります。

自分のことを遡って辿ってみると、産まれたときにこの世を観ては聴いていたものとは違うという感覚を最初に覚えました。そして何が違うのかと色々と見つめては常識に反発してきました。しかし、祖父母や両親、幼馴染や友達、犬や動物や虫たちなどと触れ合い、学校にはいり日常を教え込まれていきました。海外に飛び出してからは自分で考えてこれからの世界のこと、日本のこと、未来のことを真摯に悩みました。環境問題に向きあい、健康問題に向き合い、そして子どもたちの環境のことに向き合いました。仕事もそれに合わせて変えていきました。その道中に素晴らしいメンターたちに出会い、死生観、歴史観、大局観、宇宙観などを学びました。それを合わせたものを「徳」として、その徳が循環するような世の中にしたいと思い今に至ります。

ご縁が何と結ばれているのか。何の経験をさせていただいているのか。

因果の中に、今の人生があります。

子孫のためにも、さらなる経験を積んでよいご縁を循環させていきたいと思います。

供養する喜び

「懐徳堂300周年供養祭×徳が循環する未来の甦生シンポジウム×ブロックチェーン経済」が無事に終わり、多くの方々から御礼や感謝の声をいただきました。その一つに「供養する喜び」がありました。

もともとこの「供養」という言葉は、古代インド語の一種であるパーリ語では「pūjā (プージャ) 」が由来だと言われます。 この梵語は「尊敬する」や「崇拝する」という意味です。

今回の懐徳堂の甦生では、みんなで火鉢を囲んで車座になり供養祭での學びや氣づきと合わせて自分の尊敬する人や崇拝する人の話をしていただきました。

ある人は、祖父であったり、ある人は郷里の偉人や長老であったり、またある人は身近な友人であったり、先祖代々が宿っている自分であったりとその理由を語ってくださいました。またこれから300年先のことを考えてみんなで何を実践して変えていくのかを傾聴しあうことができました。

300年前に懐徳堂が創設したとき、その初代學主はそこで「人の道」を學びの中心に定めました。人の道とは何か、それは「徳」のことです。つまり私たちは徳を學ぶことで道を知り人と為るということでしょう。

ではその徳とは何かということです。

もともと「徳」という字は「直線」の「直」と「心」を組み合わせた「悳」と書き「まっすぐな心・すなおな心」を表していたといわれています。その後、「彳(ぎょうにんべん)」を加えて「まっすぐ正しい行い、真心の実践」のことを指すようになりました。

この徳というものは、自然でいえば最初から自然に備わっているものということです。海も山も空も、水も太陽も宇宙も私たちができる前から存在していたものです。一番最初は何か、それは最初から「あったもの」ということになります。この元々あったものをそのままに使えることほど仕合せなことはありません。

しかし人間は、三宅石庵が言うように現実に生れてきた後は気質の偏りや耳目の欲望によって人は自分の生まれつきの「道」を失ってしまうこともある。それらの刷り込みに流されずに自分自身に具わった徳を決して失わないのが「聖人」であると。

私たちは聖人というと、偉い人や立派な人のことを思い浮かべます。しかし実際にはは、この一生の中で最期まで徳を失わなかった人、徳を遣りきった人のことを指すように思います。

論語の中で孔子の弟子の曾子はこう言います。「吾(われ)、日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」と。これは私の師匠でメンターの方も座右の銘にされています。

懐徳というのは、徳を心に深く省みるということです。これは内省によって徳を磨こう、改善によって徳を積もうとすることでもあります。

時代が変わっても、普遍的な道はいつまでも変わることはありません。道が無窮であるように徳もまた無窮ということでしょう。

供養を軸に徳が循環する未来の甦生やブロックチェーンの持つ経世済民の可能性などについて学び合いましたが徳に包まれそれぞれの道を明らかにする素晴らしい場になったこと心から感謝しています。

暮らしの中で如何に私たちは「当たり前」のことを丁寧に紡いでいけるのか。変革は常に小さいところ、弱いところ、一人からはじまります。

故 清水義晴氏の魂に供養のいのりを捧げたいと思います。

ありがとうございます。

徳は永遠の道

「懐徳堂300周年供養祭×徳が循環する未来の甦生シンポジウム×ブロックチェーン経済」を無事に開催することができました。有難いことに徳を実践する方々やこれから取り組もうとする方々が集まり温かい雰囲気に包まれた「場」になりました。

最初は、みんなで場を調えることからはじめ蜜蝋などで場のお手入れをしました。そして床の間に集まり法螺貝奉納後、懐徳堂の創設者や學主をはじめ関りの深いご縁のある方々と、この活動を深く支援してくださった方々、また参加者のご先祖様たちをご供養して念仏とご焼香をみんなで行いました。

会場を移動し、真ん中のテーブルをみんなで囲んでシンポジウムを行いました。シンポジウムでは、懐徳堂のその当時の歴史的背景や人物模様、また資本主義がはじまったころから今の成熟していくまでのプロセスでそれぞれの人物たちが何を思い、どう語ってきたかなど先人たちの遺徳を偲び学び直しました。人と人の繋がりの中にある徳を積む話にはみんな深く共感していたのが印象的でした。また贈与や布施、徳積という人間本来の結び合いから新しい技術を通して懐かしい未来やこれからの可能性についても話しました。また世の中の変革は、上からではなく底辺から一人からというのも印象に残りました。

ブロックチェーン経済のところでは、この2年間の私の徳積帳の経過や反省点や課題点、そして可能性や思いなどについて話をしました。同時に、本来のブロックチェーン技術は循環や徳積であることが望ましいこと、技術の前に人間が自分に打ち克つことの価値などを同志や開発者から話がありました。

その後は、みんなで車座になって火鉢を囲み懐徳堂の甦生を試みました。34名ほどの参加者が、それぞれに尊敬する生き方や今回の学びで気づいたことを語り合いました。涙する人もいれば、深く自省している人もいて、またそれぞれの言葉に励まされ元氣や勇氣をたくさんいただいたという言葉が多かったのも印象的でした。それぞれの場で、それぞれに挑戦している人たちだからこそ一人ではないと実感されたように思います。

最後は、直来をして朝から地下水と備長炭で竈で炊いたむかしのお米のおむすびと、伝統在来種の高菜や自然食の副菜、きのこ汁をみんなで食べてとても豊かな時間を過ごすことができました。おやつには、日本最大饅頭の柏屋さんのお饅頭をいただきました。

多くの徳積スタッフがお手伝いいただき、居心地のよい場をつくってくれています。BAでは自然農の畑や田んぼのように、多くの自然に見守られ健やかにいのちが育つ場が醸成されています。有難いことで、自然の叡智には感謝しかありません。

論語に、「徳は孤ならず必ず隣あり」という言葉があります。

まさにそれを実感する素晴らしい一日になりました。懐徳堂も300年前、「人の道」を大切にしようと志してはじまったといいます、先人たちが志たような場をこれからも何度も甦生していくことでその遺徳を継いでいけるようにも思います。

長い時代のなかで、人はずっと人の道を大切にしてきました。少し時代が揺さぶられて道から離れてもそれもほんのわずかな時間です。また原点回帰して元の道に戻れば、そのあとを子々孫々たちが歩んできます。

徳は永遠の道です。

引き続き、場を磨き、場を調え、場と和しながら徳を積み、子どもたちのために今できることを真摯に有難く取り組んでいきたいと思います。

 

學問の宝

私たちは何かを知ろうとするとき、どこかで借りてきた知識を持つのと自分の身体で体験して得ている知識とでは異なります。自分の体験からの知識であれば自分の身体と一体になっていますから自然に思い出すことができますし引き出しにいつも入っています。

しかしそれを誰かに借りたもので、自分の身体の外に置いていればそれがなくなったり繋がらなくなれば出てきません。このパソコンやインターネットとも似ていますが、データが破損したりインターネットにつながらなければ出てこないということです。

また知っているのと、実行してきて知ったのとではまた内容も異なります。経験から得た教訓は体に刻まれますが、ただ頭で理解しただけの教訓では真実味が起きません。しかし頭で理解したものを暗記しておけば、それが時間をかけているうちにある時点で色々な体験が重なり自分のものになるというものがあります。

論語の素読でったり、家訓の唱和であったり、理念の確認においても同じです。繰り返し繰り返しているうちに、磨かれて玉になるように少しずつ拭き掃除をしていくようにそのものの徳や正体に気づくというものです。

學問の醍醐味の一つはこの繰り返していくなかで突然ハッっと気づくという面白さです。まるで最初から知っていたことを思い出すような感覚、つまりは目が覚めるというような感覚を得られるのです。

目覚めというのは、何か、それは朦朧とした状態からはっきりと覚醒するということです。周囲に流されず、自分の道を発見し迷いがなくなることに似ています。この世の中をはじめ人は様々な誘惑があり迷います。特に目先の判断というのは、どちらがよいのかよく分からないものです。そういう時は、遠大な航路の先にある北極星や太陽などをみつめて歩んでいくのでしょう。

自分の身体の中に、どれだけ深い体験をするかはどれだけ時間をかけて労苦を惜しまずに學問に勤しんだかということが問われます。時間をかけて労苦を惜しまずに取り組んできたことは、その人にとっての學問の宝です。

先人たちの生き方を習いながら今でもその學問の豊かさを愉快に味わっていき子どもたちに伝承していきたいと思います。