ブロックチェーンと徳

現在、ブロックチェーンをつかって新しい取り組みをはじめています。世の中ではビットコインなどの暗号化技術に使われていることで有名ですがシンプルにいえば改ざんできない台帳というイメージが近いように思います。

用意に改ざんできませんから、それだけ信用や信頼を提供するものということです。これからこの技術を用いて何が生まれるかは、社会の変化に合わせてアイデアをそれぞれが出していきますから確かにこれからの未来に大きな影響を与える技術であることは間違いありません。

特に新しい経済の在り方においては、でこの技術が使われる可能性を秘めています。現在は成熟期に入っていますから、この辺でまた原点回帰していく必要があります。歴史は何度も原点回帰をしながららせん状に発達していきますから経済も社会もこれからまた原点回帰がはじまるのです。

例えば、通貨の原点回帰とは何か。もともと通貨が必要になったのは物々交換の中でその時に交換できるものがない場合に、のちの信用の証として貝を交換したことが通貨のはじまりともいわれます。そこから貝貨という貝殻を用いた貨幣が誕生しました。 特にタカラガイは豊産、繁栄、再生、富などを象徴し、キイロダカラとハナビラダカラなどが使われました。

お祈りで私たちが手を合わせるのも、貝を合わせるところから来ているともいいます。日本でもハマグリなどが縁起物として使われますが、これも必ずぴったりと合いますから間違いない証として用いられました。

実は改ざんできないという意味は、このぴったりと合致するというところから嘘偽りのなく信用・信頼できますという証明の仕組みを顕しているのです。そこから、私たちは貝が紙幣に変わり今では通貨を用いて経済も社会も発展させていったのです。

しかし現代はどうなっているのか。

地球何個分が買えるほどの紙幣を発行し、今の世界は通貨であふれかえっています。これでもかと通貨を発行しては、嘘偽りの状態で事実と異なる状態で混乱を極めています。物々交換でいえば、交換できる資源がもうなくなっているのに貝殻だけはたくさん渡していつか交換すると先送りしているような状況なのです。

その貝殻がもしも証明できる価値がなくなってしまえば、物々交換はできませんからそこですべてゴミのように溢れかえります。現在の環境問題と同様に先送りして延命治療をするだけをしていてもいつかは必ず終焉を迎えます。そうならないように、私たちは原点回帰してもう一度、原初の初心に立ち返る必要があるのです。

私はそれをブロックチェーン技術を用い実現しようとしています。

具体的には、むかしの人たちの智慧の一つである「天の蔵に徳を積む」という考え方を用いるのです。これは私たちは等価交換という評価によって今の社会を動かしていますが、実際にこの世の中には等価交換できないものも同時に発生しています。

それが「陰徳」というものです。この陰徳は、私たちはお祈りをするのと同じで直接的には見返りがありません。しかし間接的に、また全体的にその祈りは別のかたちになって縁起を結んでいきます。つまり、そこで使われている対価は別の大きな場所へと転換されて移動していくのです。

むかしは蔵といえば、今でいう銀行です。銀行にはお金しかいきませんが、本来は天の銀行のようなものがありそこにお金では換算できないものが貯められているということを信じていました。

実は本来の信用・信頼の社会というものは、人徳というものが重要でした。信頼でき信用できる人だからこそ、その人に託したりその人の願いを適える絆を持ったのです。人は信用・信頼しあうことでここまで発展をしてきた民族です。その民族が、急速に欲望に負けてその徳を荒廃させていったのはこの通貨という道具を単なるモノとして扱っていったからです。もしくは使えなくなったものをゴミとして捨てるところが影響なのです。

私はブロックチェーンによって、徳循環の世の中を甦生させていこうと思い「BA」(ブロックチェーンアウェイクニング)を設立しました。先人の智慧と現代の最先端を用い、温故知新した原点貝貨としての役割を持つものをこれから発明していきます。

子どもたちの未来に、延命治療ではなく根源治癒が働くようにこの「場」から挑戦をしていきたいと思います。興味があり賛同する仲間をこの「BA」に集めていきたいと思います。

平和の甦生

昨日、藁ぶき古民家の甦生で傾いていた家を直すために伝統的な道具をつかって直していきました。シロアリ被害が深刻で床下の土台の木もほとんど機能せず、ジャッキアップをしようとしても木を貫通するばかりで少しも傾きを直すことができませんでした。中心の柱も全体的に約5センチほど、前のめりに傾いていて床板も張れず、このままでは時間をかけて傾きが大きくなり家自体の寿命も短くなるし、家主や家族を守り続けることができません。

もう百何十年も前から建っていますが、地盤沈下もふくめどうしても家は傾いていきます。土台がしっかりしていればいいのですが、この藁ぶきの古民家はむかしのあまり裕福ではない百姓の家ですからつくりもそんなにしっかりしてなく、また昭和の素人大工の工事であちこち突貫工事をされていてその傷みも激しく、床をめくると大量の釘や無理に直した形跡が残っていました。また天井の藁も台風で飛んでしまってからトタンにしたようですが、その藁もほとんど失われていましたから家自体がこの数十年の間はあまり大事に扱われていなかったことがわかります。さらに十数年前から空き家になって鬱蒼として手入れをされなかった庭によって風通しも悪くなり高湿度にさらされ家の内部はさらに傷みが酷くなっていました。

見方を換えればこんな状態でよくぞここまで持ちこたえたというところでしょうか。それを伝統的な大工棟梁と大工さんたちで傾きを直して家を恢復していきますが、これは人間であれば大手術するようなものです。大手術に家が耐えられるかどうかもありますが、この藁ぶきの古民家であれば土台はほとんど腐り、梁もほとんどシロアリに食べられ、土壁で持っているようなものでもうボロボロの満身創痍の状態です。

この大手術をしてまず傾きを直し、そのあとに補強や補修、修繕をしてもう一度甦ってもらうように直します。こうやって愛情をかけて一緒に暮らしをしていくなかで、家も甦りますが同時に家主や家族も甦ります。

私たちは修繕や手入れをすることでお互いに愛着を持ちます。それは愛の循環であり、愛はこうやっていつまでもその「場」に「想い」をとして残りその後のご縁のある方々を仕合せにしていきます。私が取り組み古民家再生は、実はあまり古民家かどうかが重要ではありません。大事なのは、人の想いが遺っているものを大切にすること、この世は愛でお互いを満たしあうとき愛し合う平和が訪れること、またお互いが一緒に末永く喜び合える関係が徳を積むことになり最幸の人生が送れることを実現するために取り組んでいるのです。なので私は再生ではなく「甦生」という言葉を使います。つまり単なる再生ではなく、甦生こそが生まれ変わらせ続けて永遠や永久という日本人の持つ「常若」という生き方を伝承していくのです。

本当は、子どもたちをはじめ現代の人にこの家があることが当たり前ではないこと、先人たちの想いや智慧を大切にしようと真摯に取り組む人たちの想いや願い、そして家主をはじめ家族をいつまでも見守りたいという人たちの祈り。そういうものを、この家を大手術するときに見に来てほしいのです。なぜなら、家が必死にまた恢復して家主や家族を守りたいと生き返ろうとしながら軋み響く音を聴くと涙が出てきます。それにそれを祈りみんなで立て直してねと祈る姿に心が打たれます。そうして甦っていく過程のなかで、家が甦り、里が甦り、国が甦りそして人々が甦っていきます。

徳を積むというのは、まず恩徳に報いるという心があってはじまります。つまり、今までいただいている御恩にどう報いるか、そしてお借りしているこの肉体をはじめあらゆる恵みに対してどう感謝を実践していくか、この生き方があってはじめて人は人の仕合せを得ることができるからです。

今回、大工さんらの真摯な手当てと、関係者のご協力と皆様のいのりによって無事に5センチの傾きはほぼ立て直すことができました。ここにまた新しい物語や伝説が生まれ、この地域をはじめ日本、世界を甦生させていくことになるでしょう。

家はモノではない、いのちのある大切なものです。

子どもたちにこのように先人や地域、その恩恵や恩徳を大切にする後ろ姿を見せていくことでいつまでも見守られているということを後世に伝承していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

普遍的な幸福論

貝原益軒の養生訓は、人がどう生きることが幸福であるかを平易な言葉でシンプルにまとめているものです。人間は、足るを知らずついないものねだりをしてはかえって健康の大切さを忘れるほどに日々を費やしていくものです。

しかし本当は、すべてはないものはなくあるものの中に存在していて幸福もその中に存在するという事実は普遍的な事実でもあります。養生訓にもそのことが記されています。

「ひとの身体は父母を本とし、天地を初めとしてなったものであって、天地・父母の恵みを受けて生まれ育った身体であるから、それは私自身のもののようであるが、しかし私のみによって存在するものではない。つまり、天地の賜物であり、父母の残して下さった身体であるから、慎んで大切にして天寿をたもつように心がけなければならない。これが天地・父母に仕える孝の本である。身体を失っては仕えようもないのである。」

この身体は、もともと何でできているのか。天地和合した存在がこの肉体、なので自分のものであって自分のものではないからこそ慎むことが真理であるといいます。だからこそ親孝行するようにこの身体を大切に使うことであるといいます。つまり両親や天地自然から預かったものだから最期まで大切に大事に使っていこうという気持ちこそがまず第一であるというのです。

そしてその慎みを実践するために、心の状態、精神の状態、肉体の状態において何が大切であるのかを説きます。特に大切なのは心の状態のことをいいます。どれだけ裕福になったとしても、心豊かでなければそれは真の意味で裕福であるのではないともいうのです。つまり心豊かではないことこそが、病気の根源であるとしたのではないかと私は思います。予防医学や未病として、この発想こそが私は重要であると思うし現代人にも必要な教訓があるように思うのです。きっとこのあたりが、特に江戸時代の人々に共感されたところではないかと思います。少しひも解いていきます。

真の裕福さにおいてはこういう言い方をしています。

「およそ人間には三つの楽しみがある。一つは道を行ない心得ちがいをせず、善を楽しむこと。二つは健康で気持よく楽しむこと。三つは長生きして長くひさしく楽しむことである。いくら富貴であっても、この三つの楽しみがなければ真の楽しみは得られない。」

「ひとり家に居て、閑(しずか)に日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖を玩び、山水をのぞみ、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔にのみ、園菜を煮るも、皆これ心を楽ましめ、気を養ふ助なり。貧賎の人もこの楽つねに得やすし。もしよくこの楽をしれらば、富貴にして楽をしらざる人にまさるべし。」

まず3つの楽しみの裕福さを道を実践し、徳を積むのを楽しむ、そして健康を楽しむ、末永く楽しむと定義します、歳を重ねる喜びその仕合せを味わうのも貝原益軒の生き方であったといいます。そして具体的な「真の豊かな暮らし」がどのようなものであるのかを説きます。真の裕福とは、この日本的で伝統的な暮らしにこそあるといいます。これは私の提案する暮らしフルネス™とほとんど同じです。

そして日々の実践としては、「心を平静にし、気をなごやかにし、言葉を少なくして静をたもつことは、徳を養うとともに身体を養うことにもなる。」とまとめています。

人がどう生きるのが仕合せなのかということを示したものとしては、シンプルでそれは貝原益軒が85歳で亡くなるまでに得た教訓がこの養生訓だったように思います。私が特に印象に残ったのは、「徳を養うことが身体を養うことである」という一文です。

この徳を養うことの正体とは何か、これを貝原益軒のこの言葉で締めくくります。

「自ら楽しみ、人を楽しませてこそ人として生まれた甲斐がある。」

何が真に自らを楽しませるのかを知るものこそが真の豊かさを持つものであり、その真の豊かさを知るものこそが周囲の人を真に楽しませることができる。そしてそうやって道楽に生きる人たちこそが生き甲斐を持っているのであると。

暮らしフルネス™をいよいよ発信し、真実の暮らしを甦生させて普遍的な幸福論をこの場から発信していきたいと思います。

養生訓と暮らしフルネス

貝原益軒という人物がいまます。郷里の福岡県出身で幼少期には父の知行地である飯塚市で学問を学んでいてその石碑も残っています。この貝原益軒は、数々の著書を出していますがその有名なものに「養生訓」というものがあります。

この養生訓は、現代にも通じる智慧の宝庫であり私も最近になって知ったのですが暮らしフルネス™ととても共通するものがあります。歳を重ねるたびに心豊かになり、楽しみが増えていく生き方をすることを養生訓でも説いています。そして恩返しに生きることの大切さ、徳を積むことの価値についても言及しておられます。

江戸時代には日本のアリストテレス、東洋のアリストテレスといわれるほどに自然科学や哲学に精通しており、また実践家でした。農業全書の出版などにも支援され、実学を中心に人の生きる道を示された人生だったようにも思います。

特に注目すべきは、「心の養生」のところです。養生とは、暮らし方のことですがどのような心の暮らし方をするのかを貝原益軒は説きます。そこにはこう記されます。

“養生の術は、まず心法をよく慎んで守らなければ行われないものだ。心を静かにして落ちつけ、怒りをおさえて欲を少なくし、いつも楽しんで心配をしない。これが養生の術であって、心を守る道でもある。心法を守らなければ養生の術は行われないものだ。それゆえに、心を養い身体を養う工夫は別なことではなく、一つの術である”

意訳になりますが心を守る道、自分自身の心の状態をいかに暮らしで整わせていくか。その心整う暮らし方こそ大切な方法なのだといいます。それが体そのものを養生する暮らしになっているということ。心と体は暮らし方によって決まるといいます。

“心を平静にして徳を養う 心を平静にし、気をなごやかにし、言葉を少なくして静をたもつことは、徳を養うとともに身体を養うことにもなる。その方法は同じなのである。口数多くお喋べりであること、心が動揺し気が荒くなることは、徳をそこない、身体をそこなう。その害をなす点では同様なのである”

そして心の暮らし方においては、まずその心を穏やかにして徳を積むこと。この徳は、伝統的な暮らし方を通して徳を磨いていくこと、精進することだといいます。この徳を磨くことで、暮らしはさらに洗練され豊かになっていきます。

脳みそばかりを酷使するようなことを抑え、頭でっかちになっていくのは迷いであり気も荒くなり暮らしがととのわなくなると。なので、まず暮らしを整わせることに集中することだといいます。

私は養生訓が現代でも通じるのは、そこに人の暮らし方が記されているからです。どのような暮らしをしていくことは豊かであるのか、そして仕合せであるのか。その暮らし方について語っている本だから普遍的な価値を持っているのです。何が仕合せであるのかを善く見つめ、それは徳を磨くこと、恩に報いること、そのような暮らしを積み重ねていくことなど、暮らしが足るを知り満たされて喜びになるという答えを生きています。

暮らしフルネス™がこれから多くの人々の心の癒しになるように祈り、同郷の先達であった貝原益軒の想いも受け継いでいきたいと思います。

謙虚さと幸運

自然界というものは、人間の欲に敏感なように思います。人間が欲を持つことで、自然はそれに反応して対応してくるように思います。

私は自然農を実践していますが、自然に対して欲をもって接するときはその欲の種類に合わせて結果が変わってきます。例えば、自分の都合で収量を増やそうとすると虫や病気が来たり、便利にやろうとすると動物や天災などがやってきます。こんなことをいうと不思議に思われるかもしれませんが、自分の状態に合わせて自然もまた対応してくるのです。

この逆に、無の境地というか自然体で自然と一体となって作物を見守り育てるときは作物は健やかによく育ちます。虫や病気にも負けず、動物たちも悪さもせず天災も乗り越えていきます。

もちろん科学的みたら、肥料がよかったとか、菌類が豊富だったからとか、環境がよかったからではないかとかいくらでも理屈はつけることができます。しかし実際には、そんなことよりも欲が少なく足るを知るからこそよく育ったと感じているのです。

自然に対して自分がどのような状態でいるか、それはなかなか重要には思われません。しかし科学的には証明されなくても、むかしから謙虚であれば自然との共生関係ができ、傲慢になると災害が訪れるというのは先人の諺の中にもたくさん残っています。

津波や地震、その他の災害でもそれを乗り越えてきた人たちは一様に謙虚さがありました。そして謙虚だからこそ運をもっていました。この幸運は、常に謙虚さと一対であり、自分の欲を少し抑えてその分、全体快適になるように自分を努めれば運に恵まれていくのです。

自然農をはじめ、私が取り組む甦生はこの原理原則を重んじています。だからこそ、暮らしをととのえる必要があり、暮らしフルネス™を実践していく必要があるのです。

先人たちが身に着けてきた暮らしの中に、日本人の原風景があります。この日本の原風景が里山でもそして結というコミュニティの中でも顕現しています。

子どもたちに譲り遺したい未来を仲間たちとともに広げていきたいと思います。

真の智慧

人間に限らず、すべての生き物はその土地や風土の影響を受けています。それは単に肉体だけに影響を及ぼすだけではなく、精神を含めた全体に大きな影響を与えるのです。また石ころのような鉱物においても、場所を移動することでその影響を受けるように思います。

自然界の真理として、「適応する」ことが「変化そのもの」ですからこの世のすべては風土に合わせて適応するという仕組みが働くのです。逆説になりますが、風土が適応し続けているから私たちもその風土の影響を受けて変化するということなのです。

この世は、よく自然を観察すればわかりますが宇宙全体で変化しながら適応をし続けています。変化しない存在などは一つもなく、風土は常にその場所で変化し続けています。

私たちは移動する生き物ですから、人間は多くの場所に移動することによって多様性を発揮していきました。人類の生存戦略は、あらゆるところに移動してきたことです。そして移動しながらその場所に適応してきたことです。まもなく人類は宇宙にも旅に出ようとしています。その土地の風土によってまた適応し、肉体だけでなく精神もまた変化していきます。

おかしな話ですが、この地球に来る前に私たちは宇宙から飛来してきているのは間違いありません。なぜならそうやって永遠に適合していくようにあらゆる姿に変化して存在しているからです。宇宙はそうやってあらゆる姿に変わっては、適応し続けて変化を已みません。

その風土の中でどう適応してきたか、その適応してきたプロセスと結果こそが真の智慧であり、人類はそれを真の智慧であるということに気づく必要があると私は思います。その智慧が、この先の未来にとって必要なのは間違いありません。地域の伝承や口伝、またその暮らしの智慧を一つでも次世代につなぐことで私たちは適応を循環させていくことができます。

変化のもつエネルギー、変化のなせる業を子どもたちに伝承していきたいと思います。

士君子

「士君子」という言葉があります。これは学問に通じた徳の高い人のことをいいます。別の言い方をすれば、智慧があり徳を実践する人のことでもあります。この士君子は中国の言葉です。

中国の古典の菜根譚にはこういう一文があります。

「士君子(しくんし)貧なれば、物を済うこと能わざる者なり。人の癡迷の処に遇わば、一言を出して之を提醒し、人の急難の処に遇わば、一言を出してこれを解救す。亦是れ無量の功徳なり。」

直訳すると、学に通じる徳の高い人は金銭的なもので他人を救済できなくてもその学問から得た智慧から人々が何かに困窮して迷うときこれをその智慧の言葉や徳の実践によって迷いを取り払うことができる。まさにこれこそ、偉大な功徳になっているのです。

つまりこの士君子の意味は、智慧と徳を併せ持つ人物ということです。智慧と徳は本来はイコールで、分かれているものではありません。徳ある人は智慧を持ち、智慧がある人は徳があるのです。なぜなら、徳は智慧の実践によって磨かれるものであり、また智慧も徳の実践によってはじめて積み上げられるものだからです。

私は、この智慧と徳を伝統文化の甦生や先人たちの智慧の伝承の中で学問を探求することができています。この今も、先人たちの遺徳が遺るこの場の御蔭で士君子の学問を暮らしを通してさせていただける有難い機会を得ています。私が仕合せなのは、この智慧と徳を実践する機会と場があることだと改めて感じます。

現代は、士君子を醸成するような環境がととのっていません。つまり先人たちの智慧や徳に触れる機会がないのです。これでは、士君子は育たず、本物の技術も伝承されていくこともありません。

私が場の道場でもっとも大切にしているのは、本物の技術者を育成することです。本物の技術者とは、この智慧と徳の実践をし磨き研ぎ澄まされた暮らしの中で真の技術力を発揮して社会に大いに貢献できる人のことを言うと私は思っています。

道具を産み出す人は、道に精通していることが肝要です。道なき道具は道具ではなく、それはただの具です。具は、使い手によってどうにでも使われてしまいます。戦争の具になったり、世の中を荒廃させていく愚にもなります。

だからこそまず士君子を醸成することが第一であり、その士君子は日本伝統の場の中で育むことが重要なのです。今は、道に入る場がだんだん減ってきています。道に導くような大人も減ってきています。

だからこそ「場」が重要であり、この士君子の育つ場づくりを通して立派な人物を世の中に醸成していくための真の舞台を整えていく必要があるのです。私が取り組むこのBA(場の道場)ではその役割を果たすべく暮らしフルネス™を展開しています。

子どもたちが、世界で活躍し徳を弘め、立派な道具を産み出す技術を使える人物になって仕合せになるようにこの場から私が背中を見せていきたいと思います。

 

真の幸福論~暮らしフルネス~

現在、一般的に世界の三大幸福論はヒルティの『幸福論』(1891年)、アランの『幸福論』(1925年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)と言われます。ほかにも数々の哲学者が幸福論を書き記していますが、原初は古代ギリシャ哲学者アリストテレスにあるように私は思います。

アリストテレスは幸福を「真の幸福とは、徳のある人生を生き、価値ある行為をすることによって得られる」と定義しています。

私はこの言葉が真の幸福論の原点に近いものだと思っています。真の幸福とは何かを人類は今までずっと追及してきました。特に現代は、何が本当の幸せなのかということがあまり議論されることもない情報化のスピード社会に呑まれています。こういう時こそ、何のために生まれてきたのか、人類の仕合せとはいったい何かということを原点回帰して見つめ直す必要があるように思います。

それこそが人類の平和や未来を考え直すきっかけになりあらゆる環境問題や人種問題などを解決する根源治癒になっていくと思います。

人は元来、最初から自分に備わっている徳性というものがあります。その徳性そのものがすべての存在の真の価値です。これを活かしあう、めぐらせる、いきわたらせる、そういう共生関係の中にお互いの徳が満ち足りていきます。私はそれを日本に古来から続いてきた伝統的な暮らしの中に見出しました。これは単なる長く続いていた生活のことをいうのではありません。先人が長い間、磨き上げてきた徳、その生き方と実践、そういうものを私は「真の暮らし」であると定義しているのです。つまり伝統的な暮らし=真の暮らしということです。

この真の暮らしは、この先人たちの徳の中にこそ存在します。その徳を感じるためには、私たちはいつまでもないものばかりを追いかけるのをやめなければなりません。不足ばかりを思い、もっともっとと欲望ばかりを追いかけていても徳は顕れてくることはありません。

今あるものは本来は完全で満ちています。不完全はなく、存在は完全そのものです。この徳の本体をしっかりと受け止め、そのいただいている恩恵に感謝し、その徳に報いていくことが価値のある行動になっていくのです。

自然研究をし一つの真理を得た万学の祖と呼ばれたアリストテレスは、今から2300年前の人物ですがすでにその時に、本当の幸福論はもう定まっていたということでしょう。そこから複雑になっていき、いろいろな人が出てきて新説が出てきましたが真理は対極にあるものではなくいつも絶対的で二つが一つになっているものです。

分かれたものを和にする、私はまさに今こそ原点回帰して祖に帰す必要があると思っています。

私が提案する「暮らしフルネス™」は、暮らしで足るを知るという意味も込めています。フルネスというのは西洋の言葉ですが、暮らしフルネスは私の造語です。これは足るを知る暮らし、言い換えれば「徳に生きる暮らしをする」ということです。

今回、魂の友人が協力してくださってこのブログの記事を抜粋して暮らしフルネスのことをまとめた新著を上梓してくださいます。アリストテレスの誕生から2300年経ち、もう一度、幸福論の原点回帰を提案するのです。

コロナ禍でこれからどう生きていけばいいか、どの道を歩めばいいのか迷う人が増えている中でこの本が人々の心を癒し、平和に貢献し、同志を鼓舞することができることを祈念しています。

引き続き、徳を磨いていく日々を精進していきたいと思います。

 

徳の次元を生きる人たち

「天の蔵に徳を積む」という言葉があります。今の時代は、あまりこの言葉は使われなくなって知らない人も増えてきているように思います。蔵という言葉も、蔵自体がなくなっていますし、天の蔵といえばまたイメージがしにくいのかもしれません。

蔵とは大事なものをしまこんでおくところをいいます、そして天の蔵というのは自分の大切にしているものをこの世ではないところにしまいこんでおく場所のことです。

ここでのこの世というのは、現実の自分がいる世界のことです。あの世というのは、自分の先祖や今までのご縁やつながりで存在している別の次元の世界のことです。シンプルにいえば、生まれる前からあり死んだ後もある世界のことです。

科学が進めば進むほど、私たちはこの世とあの世の境界線に近づいていきます。その時、人類にははっきりとあの世の存在の偉大さに気づきなおします。気づいたときに、何を最初に悟るか。それはこの「天の蔵に徳を積む」ことの重要さに出会うことだと思います。

私たちは、目に見える世界と、目には観えない世界が存在します。目には観えないところであらゆるものがつながっていき、目に見える世界で形になっていきます。その逆に、目に見えるところを形にしていくことで目には観えない世界が結実していきます。

この両方の間にあるものを可視化したものが一つの「徳」というものです。この徳を直観し、その徳を積んでいく。言い換えるのなら、磨いていくことで天の蔵にその大切なものをしまいこんでいくことができるのです。

このしまい込んでいくというのは、記憶していく、記録していくということです。それが残ってあらゆるものと和合してご縁が結ばれまた新しい物語を産み続けます。因果応報という言葉もありますが、功徳や善行を積めば、それが長い時間をかけて結実し子孫だけでなく、自分の魂をも磨いて純粋に美しくしていくことができるのです。

幸田露伴が、かつて幸福三説の「惜福」でこう述べます。

『「惜福」とは、自らに与えられた福を、取り尽くし、使い尽くしてしまわずに、天に預けておく、ということ。その心掛けが、再度運にめぐり合う確率を高くする。露伴は「幸福に遇う人を観ると、多くは「惜福」の工夫のある人であって、然らざる否運の人を観ると、十の八、九までは少しも惜福の工夫のない人である。福を取り尽くしてしまわぬが惜福であり、また使い尽くしてしまわぬが惜福である。惜福の工夫を積んでいる人が、不思議にまた福に遇うものであり、惜福の工夫に欠けて居る人が不思議に福に遇わぬものであることは、面白い世間の現象である』

これが「天の蔵に徳を積む」ことです。

どうやったら陰徳を積めるか、どうやったら天の蔵にしまい込んでいけるのか。これを知っている人こそ、この惜福の工夫をする人であり、この世で幸福を実践している人ということになります。

私たちは目に見える世界で、競争し対立し、その中で迷い自分を見失うことも増えています。しかし、天の蔵に徳を積む人たちは迷いも少なくこの世での自分の使命を知り、魂を磨き続けていくことに余念がありません。

日々の暮らしの中で、私たちはこの「徳」に触れる機会が何度もあります。大切なのはその「徳」に気づくことであり、その「徳」を磨いていくことです。そうしていけば、天の蔵からその徳を引き出しその徳がこの世に真の豊かさや仕合せを結んでいくように思います。

私たちの意識は、いろいろな次元をもっています。この「徳の次元を生きる人たち」は、これからの新しい時代の先導者たちになるはずです。子どもたちの未来のためにも、私は私の道を迷いながらも徳を意識して道を歩んでいきたいと思います。

子ども第一義

子どもというのは、自然からの宝であり恵みです。それは私たちが発展繁栄するためになくてはならない存在だからなのはみんなわかっています。子どもがいない社会というのは、この先、発展することがない、つまり未来がない状態ともいえます。

子どもがいるから持続するのであり、それがなければ持続する理由もありません。そういう意味での子どもということを一度、ちゃんと定義しなおす必要を私は感じています。

現在、一般的に世の中で子どもというものの定義は、いわゆる大人と対比した幼いころの大人、まだ若く小さく未熟な存在としての子どものことを指していることが多いように思います。

しかしこの子どもは、私たちの未来そのものですから過去と今と未来をつないでくれる大切な伝承者ということにもなるわけです。何を伝承してもらいたいのか、何を伝承してくれるのかを私たち大人はきちんと向き合って子どもたちのために何ができるのかを大人たちが子どもたちに素直に語りかけていかなければなりません。

そして私たち大人も大切な伝承の役割を担っています。両親をはじめ祖父母、そして先祖の方々の想いや願い、いのり、その生き方を受け継ぎそれを子どもたちにつないでいく役割です。つないでいく役割は、決して肉体的な子孫を残すというだけではなく精神的なもの、文化的なもの、環境的なもの、あらゆるものをつないで子孫に譲り渡していく役割を担っています。

そういう意味で、子どもとはどういう存在なのかの定義が大切になるのです。

私たちの会社は「子ども第一義」というものを理念にしています。これは第一主義ではなく、第一義、つまり絶対的なものとしています。この第一義は、上杉謙信がかつて掲げていた理念です。つまり物事の根本、根源という意味です。

子ども第一義とは、子どもが根本であり根源であるという意味です。私たちが子どもをどの位置で観ているのか、そして定義しているのか。その視座や全体観がまずあって、未来への語り部になれるように日々に社業に精進しています。

子どもが憧れるような未来、子どもが憧れる生き方と働き方を目指していい会社、いい仕事をしていきたいと思います。