場道の心得

日本の精神文化として醸成し発展してきたものに、場・間・和があります。これは三位一体であり、三つ巴にそれぞれが混ざり合って調和しているものですからどれも単語が分かれたものではなく一つです。

この三位一体というのは、真理を表現するのに非常に使いやすい言葉です。私たちは単語によって分化させていきますから、実際には分かれていないものも分けて理解していきます。言葉はそうやって分けたものを表現するために使われている道具ですから、こうやってブログを書いていても全体のことや真理のことなどは文章にすればするほど表現が難しく、読み手のことを考えていたら何も書けなくなっていきます。

なので、共感することや、自分で実感したこと、日記のように内面のことをそのままに書いていくことで全体の雰囲気を伝えているだけなのかもしれません。

話を戻せば、先ほどの三位一体ですが例えば心技体というものがあります。これは合わせて一つということで武道や茶道、あらゆる道という修業が伴うものには使われるものです。これらの分かれて存在しているようなものが一つに融合するときに、道は達するということなのでしょう。言い換えれば、このどれも一つでも欠けたら達しないということを意味しています。

そして私に取り組む、場道もまた道ですからこの心技体は欠かせません。では何がこの場によっての心技体であるかということです。これを和でわかりやすく伝えると、私は「もてなし、しつらい、ふるまい」という言い方で三位一体に整える実践をしています。そもそもこれが和の実践の基本であり、そして同様に場と間の実践にもなります。

まず「もてなし」は、心です。「しつらい」は技です、そして「ふるまい」が体です。

これは場道を理解してもらうために、私が自然に準備して感覚で理解してもらいその道を伝道していく方法でもあります。もてなしは、真心を籠めることです。相手のことを思いやり、心の耳を傾けて聴くこと。そしてしつらいは、それを自然の尊敬のままに謙虚におかりし、場を整えていくことです。美しい花の力を借りたり、磨き上げた道具たちに徳に包まれることで万物全体のいのちに礼を盡します。最後のふるまいは、一期一会に接するということです。この人との出会いはここで最初で最後かもしれない、そして深い意味があってこの一瞬を分け合っているという態度で行動することです。もちろん世の中のふるまいのような立ち振る舞いもあります。しかし本来は、見かけだけのものではなくまさに永遠の時をこの今に集中するという態度のことで覚悟のことでもあります。

人生を省みて、その時にどのようにふるまったのか。

つまりその人は、どのような夢や志をもちこの時代の出会いの中での「ふるまい」という上位概念でのふるまいを私はここでの三位一体のふるまいと定義しているのです。これは実は、先ほどの「もてなし、しつらい、ふるまい」の共通する理念を指しているものでもあります。

つまり「生き方」のことです。

場道の真髄と極意は、生き方を日本の文化を通して学び直すことです。先人たちに倣い、本来の日本人の大和魂とは何か、生き方とは何かを、思い出し、それを現在に甦生させていくことで魂を磨き結んでいくのです。

子どもたちが、この先もずっと日本人の先祖たちの徳を譲り受けて輝き続けられるように見守っていきたいと思います。

 

 

日本人の心

以前、私は偶然にもドイツ人建築家のブルーノ・タウトの設計した旧日向邸を見学したことがあります。もう6年くらい前になりますが、仕事の合間に立ち寄ったお蕎麦屋さんで偶然ブルーノ・タウトの遺作の家具をみせていただくご縁がありそのまま興味を持って訪問してきました。

お蕎麦屋さんでは親切に、他にも2階にあるブルーノタウトのものを案内してくれました。今思えば、その時に私はこの西洋と日本の工芸の合わさったものを見せていただいた気がしています。

現在、徳積カフェの設計でどうしても椅子を中心にどうしたものかと悩んでいました。しかし思い返してみれば、私はブルーノタウトが日本の工芸職人に、様々な工芸を依頼してつくらせていたものを観てその魅力と価値を感じていたのかもしれません。

そもそも椅子とは何か、もっといえば西洋文化とは何か、その原点や本質を知っているからこそ日本の伝統工芸に示唆を与えることができたように思うのです。私の身近には、現在、多くの工芸品が集まってきています。

その一つ一つには、実に多くの文化が融合しているものばかりであるのに気づきます。例えば、今、私がパソコンでブログを書いているのに使っている八角テーブルは中国の文化を取り入れた風水で仕上がっています。

思想をそのままカタチに換えてそれがテーブルとなって新しい文化に融合していく。

その役目を果たすデザイナーや設計者、そして職人たちは、「思想や文化」を伝統的な日本人ならどう咀嚼して融和させられるか、もっとシンプルに例えれば、今の風土の素材で挑むのなら何をどうするかと試されているのです。

発明や発見というものは畢竟、そういうものです。

あらゆる素材をあらゆる文化で結合させる、そして新しい調和を産んでいくということ。

私たちは日本人として日本の風土で生まれ育っています。単なる輸入したものを、輸入した素材で似たものをつくってもそれは本物ではありません。その証拠に、何も風土で練り上げられたものが活用されていないからです。

本物とは風土の化身であり、私たちはあくまで海外から来た新しいものを風土で調理して本物に仕上げる必要があるのです。私がこだわっているのは、この一点であり、建築やデザインを手掛けるものの中心には常に「風土」を基本にしています。

現在、建築も設計もデザインもあらゆる職業は分化して専門家されています。私は専門があることはいいことだと思っていますが、専門しかしないというのはどうかなと感じます。

なぜなら自然はすべて専門が集積調和したものでありそれぞれは全体で成り立っています。それを風土といいます。その風土を究めることが、工芸に出たり、大工に出たりして民藝という具合に人々がすべてアーティストに変換されているのです。つまり風土の美を日本人は全員が持っていて本来は全員がデザイナーでありアーティストでありミュージシャンであったからです。

無名の、何の職業と関係ない人が、真善美をあらわすほんの小さな芸術を数々に産み出してきました。そしてそれが日本のふるまい、しつらい、もてなしなどにも融和されて独特な生き方を示していました。

忘れてはならない日本をもっと大切にすることこそが、子孫たちへ日本人の心を譲り遺す鍵となります。私のできることで、その生き方で示していきたいと思います。

いのちの伝統食

日本人の風土が生んだ歴史的な食のことを伝統食といいます。この伝統食というのは、色々な定義があると思いますが私は日本古来の風土食であると定義しています。

例えば、現在は海外からあらゆる食材が入ってきますからふるさとの味とかいいながらそれは海外の風土でできたものだったりします。またおふくろの味とかいいながらも、実際には海外のレシピでできたものだったりします。もちろん、その人にとっての味がふるさとであり、おふくろであればそれはそれで懐かしい味でいいのですが伝統食とは言わないということです。

そもそも伝統とは何かということになるのですが、「世代を超えて受け継がれた精神性」「人間の行動様式や思考、慣習などの歴史的存在意義」と辞書にもあります。

これをその日本の古来の風土、つまり自然のなかで時間と人々の暮らしと共に醸成されたものが伝統なのです。その中で何を食べ続けてきたか、何をもっとも中心に据えて食を支えてきたか。まさにそれが伝統食になるのです。縄文時代のもっと先から私たちの先祖は、この日本の風土で収穫できるもの、育てられるものを工夫して食べ続けてきました。食べるというのは、健康で生き続けることですから何を食べて健康を維持してきたか、そして何を食べて医薬としてきたか、それが食の歴史には詰まっています。

その伝統食とあわせて地域の郷土料理というものに人々が移動移住と共に発展していきます。私たちが食べている郷土料理は、伝統食が分化してその地域の郷土料理として発展していくのです。

そこにはその地域特有の生活習慣があり、価値観があり、風習やしきたり、ならわしなどもありそれぞれの個性を発揮していきました。それが精神性を含めて受け継がれて、食を通して懐かしい日本人の生き方までを実感できるのです。

私は伝統食に取り組んでいますが、その材料は神棚にお祀りする神饌そのもののように丹誠を籠めて慎んで提供するようにしています。古来から何を神様にお祀りしてきたか、その一つにいのちのままの自然の素材、いのちを壊さないための配慮、いのちを組み合わせた調和する品格、いのちを支えるいのちの器、これらを働かせるいのちの料理をしています。

いのちの料理をすることで、それを食べた人たちはいのちの存在を身近に感じて自分のいのちを味わい美味しい、しあわせと口々に語ります。

こうやって伝統が伝承されていけば、子どもたちにも日本の大和魂を甦生させていけるように私は考えるのです。引き続き、子どもたちのためにもいのちの伝統食を提供していきたいと思います。

余韻を生きる

私は人生の中でよく「余韻」を味わうタイプの方だと思います。振り返りがとても好きで、楽しかった日はそのあとに訪れる余韻の方をもっと楽しみにしています。この余韻は、心の本音との対話の時間でもあり人生の豊かさを彩る記憶の数々です。

幼いころは、楽しすぎることを怖がり余韻を感じるのが苦手な方でした。それが次第に、内省を味わうことを続ける中で仕合せを噛みしめるようになってきて余韻を感じることが人生の醍醐味であると思えるほどです。

人生にはそれぞれの体験があります、喜怒哀楽、まさに感情が味わうセンスを高めて感受性を育てていきます。私たちの感情と心はそのままにつながっていて、感情が心に素直に影響を与え、またその逆も然りです。

心と感情が一致するとき、私たちは一体になった姿になります。まるで赤ちゃんの頃のような神人合一に近づくのです。

私が特にこの歳になって余韻を味わう時に仕合せを感じるのは、ご先祖様の存在を感じるとき、人の心の優しさやぬくもり、思いやりに出会う時、同じ道を歩む仲間に出会い、共に笑い、共に食べ、共に詠う時、当たり前の暮らしの中にある当たらり前ではないことを噛みしめるとき、また自然の美しさやいのちが甦り寿命が大切にされるときなどです。

歳を取ることが幸福に感じるようになったのは、道に学び、徳を磨き、愛を綴り、場を清める面白さで好奇心が止まらない日々を生きているからかもしれません。

もちろん疲れも苦労も心配も重労働もありますが、それもまた心地よく、それができることの有難さを感じます。

生きていることは素晴らしい。

そう感じるとき、私たちは余韻を生きています。人が人と出会い、時と出会い、場と出会い、魂と出会う、まさに余韻を生きる一期一会の生き方は、この世で懐かしい喜びを大切に寿命を全うしようとする太古からの意志を感じます。

子どもたちが憧れるような生き方や働き方を通して、遠大で悠久の夢を子孫たちが健やかに暮らしていけるように伝承していきたいと願います。

仲間との邂逅に感謝します。

時のこと

人はそれぞれに時間の使い方というものを持っています。ある人は、時間が忙しくキビキビと流れまたある人は、時間がゆっくりと穏やかに流れます。時間は人間には平等に流れていますが、その感じる時間がそれぞれに異なるということです。

本来、自然には自然界のリズムの時間があります。それは地球が過ごしている時間の事です。地球は24時間で自転し、太陽を中心に廻り365日で過ごします。そして銀河系はまた、長い時間をかけて銀河を廻ります。

私たち動物たちも寿命の長さにあわせて、日々の過ごす時間が異なります。寿命が短いものは、寿命が短いだけにその時間の速さを持ちます。しかし今度は寿命の長い大樹などは数千年の時間をもちますからその時間域で生きています。人間は、現在は平均年齢があがってきていますからそれだけの時間域を持つようになります。

つまり私たちが時間が早いとか遅いとかは、人間を基準に考えていますから実際には異なる時間域でそれぞれが生きていて時の交点によって重なり合うところで場を分け合っているということになるのです。

しかし、その時間をどう過ごすのかはそれぞれの生命体の物理的な時間軸と精神的な時間軸があるのは間違いありません。心穏やかに生きる人や、精神がとても安定して成熟した人たちは時間の使い方が異なります。どんなに有事で環境が変化著しい状態であっても高僧の瞑想時のような悠久の時を過ごします。

その時は、単なる物理的な時間ではなく心の中に無限の時を持っているという具合です。それは時というものの本質を現わし、本来は時は動くものではないという真理を象っています。

私たちは無意識に時には過去と未来があり、前にだけ進むものだと認識します。過去は過去と呼びますが、実際には懐かしいというような感覚、時が止まったままにいつでも回帰できるというものも持ち合わせています。同時に未来といいながら、今を感じて今に生きるとき、今こそが時の中心であるということに気づくことがあります。

このように時は実際には、止まっているものであり動くものではありません。そういう時に生きる人は、常に心に永遠を持ち、精神が悠久に包まれ、時そのものと一体になることができるのです。

可笑しなことを書いていると思われるかもしれませんが、時とは何か、時空とは何を指すのか、掘り下げてみればきっと誰もが同じところにたどり着くように思います。

時を大切に生きていく人は、いのちを大切にすることができます。同時に、懐かしい思い出に包まれて、いつも時に感謝して味わい盡していくことができます。忙しい時代にみんな心が時に追われています。もっと時を大切にして、かけがえのない今を子どもたちに譲っていきたいと思います。

徳積カフェ

現在、徳積カフェの建築で色々と思案をして素材を組み合わせて検証しています。私の場合は、いのちをもったいなく活かしきる仕組みで取り組んでいきますから世の中に捨ててあるものや、価値が変わってしまったものに息吹を与えてそれを甦生し、さらに観建て直して輝かせるように工夫します。

そもそもこの見立ては、あらゆるものの融合と調和からはじまります。そしてそれを組み合わせを創意工夫し折り合いをつけては新しい価値に仕立て直します。

新しい創造とは、今あるものの組み合わせの再定義であり再構築です。これは自分の成長とも同じで、もともと備わっているものはあるがままですがそれを使い方次第で、また組み合わせ次第でまた別の能力へと変化するのです。

私は建築家ではありませんから、あまり建物のことにどうこうというこだわりはありません。しかし、日本の文化や大和心、民族伝承の智慧には強いこだわりがありますからそれを徹底的に深め、今ならどうこれを活かすか、その価値の最大化や再構築には妥協は一切することはありません。まさに、狂ってるかのようにそのものと一体になってそのものを寝ても覚めても離れることはありません。

今回、カフェを設計するにいたっては「徳」にこだわるのは大前提です。その上で、暮らしフルネスの応用を使って「禅」や「茶」の空間や場の和の仕組みを融合させて組み立てています。

当然、風水を重んじ、日、月、水、石、風、土、木そして火に炭、光、陰、ゆらぎ、時間、手間、色、素材などを丁寧に組み合わせていきます。まるで、自然の野菜をつかって、自然の道具を用いて料理を楽しみ味わうような瞬間です。

本当は、忙しくて大変なはずですがこれらを設計している間はいのちがわくわくしてきます。そして新たな空間と場ができれば、そこに奇跡の人たちとのめぐり逢いが生まれます。

建物を創る喜びは、出会いです。

出会いがあるからこだわりが産まれ、こだわりがあるからご縁が深まっていきます。一期一会の生き方を、この新たな建物に息吹を与え、イキイキといのちが輝けるように真心を籠めて最期までやり遂げてみたいと思います。

もったいない暮らし

全ての物や場には「いのち」というものが宿ります。そのいのちをわかりやすく感じる方法は、「思い出」でというものに置き換えてみるとわかるように思います。

無機質だったものが、何かの物語に出会い、そこで共通する「思い出」を持ちます。そのものは、ある人の思い出になりその人の心の中で共に生きいのちを与えられます。するとそれはモノではなく、いのちの一つになって存在するようになります。

つまり「出会う」のです、いのちとしてのご縁と。

これがいのちの一端を感じる方法であり、思い出はみんなそうやっていのちとつながっていきます。例え、片方がこの世から去りそのものがなくなっているように感じたとしてもその思い出といのちは、別のものに引き継がれ一体として残りのいのちの寿命を全うしていくのです。

この仕組みとこの仕掛けこそ、私たちが存在するいのちの真理であり私たちはその仕合せと喜びを無償で天与されているのです。ありとあらゆるものが、変化し、思い出と共に循環するという仕組みは宇宙の本体でもあります。

だからこそ、その寿命を少しでも伸ばしてあげたいという思いやりはその人の寿命だけでなく全体の寿命も伸ばしていくのです。それを神道では真心といい、観音様は大悲といい、イエスキリストは愛といい、孔子は仁と呼んだようにも思います。

もったいないというのは、この思い出を大切にしていくということと同じ定義です。下位概念である、捨てないとか、利活用できるとか、その辺ももったいないといいますが本来はこの「思い出」の方を言うのです。

一日、一瞬、人生はそのすべてをいのちと共に歩んでいきます。だからこそ、大切ないのちの思い出を忘れないで、いのちの思い出と共に暮らしていく。

これが暮らしの本体なのです。

暮らしフルネスという言葉は、暮らしとマインドフルネスの合体した言葉であり、現代の西洋思想に取って代わられた日本人が分かるように転換した言葉です。改めて、一つ一つのいのちを大切にしながらもったいない暮らしを味わっていきたいと思います。

変化とは何か

東京から戻ってきてBAに滞在していますが、室礼していた紫陽花の花が次第に寂てきています。また庭先には蝉の鳴き声が大きくなり、雲は積みあげられ空の碧さはますます鮮明です。

季節は梅雨から初夏にはいり、光の差しかたや風の動きが変わってきました。

私たちは、気づいていないうちに日々に大きな変化に晒され私たちも変化の真っただ中に存在します。止まっているようでも止まってはない、地球が自転し、宇宙が旋回し、あらゆるいのちが循環をしていくなかで活動を已むことはないのです。

しかしこの動きの本体こそが、静止していることもでもあるように私は思います。つまり動こそが静であり、その静こそが止であるということ。言葉遊びのように聞こえますがこれはそうではなく、この偉大なる動きこそが已むことがないのだから止まっているということなのです。

心を落ち着けて瞑想をすると、この動いている今の中に静を感じます。つまり静止します。静止するというのは、先ほどの宇宙の旋回、地球の自転、いのちの循環を感じている状態になることです。

それを感じるとき、これが永遠に繰り返されていることを知り本当の止まるという意味を悟るという具合です。

変化とは何か、それは変化しないということです。永遠とか永久とかいうものもまた変化の正体です。私たちは、変わるものと変わらないものを持ちますが、変わらないものは変えようがないものです。変えることができるものだけが、私たちが変化と呼ぶものです。

私たちが変化と呼べるものは宇宙や自然、いのちに私たちが合わせて和していくことです。こうやって暮らしを一つ一つ丁寧に紡いでいけば、私たちはそこに変化の根源や変化の意味を直観するのです。

変化しても已まない、この心の安心感はとても偉大で穏やかです。子どもたちに、変化の喜びや仕合せを伝道していきたいと思います。

徳の正体

老子にこういう言葉があります。

これは「大方は隅なく、大器は晩成し、大音は声希かに、大象は形無し、道は隠れて名なし。」(大方無隅 大器晩成 大音希声 大象無形 道隠無名)

直訳すると、「大いなる方形には角がなく、大いなる器はでき上がるのがおそく、大いなる音声は聞きとれず、大いなる象には形がない。道とは目に見える事象の裏側に隠れているもので、もともと名づけようがないものなのです。」となります

これは道を語る一文です。

偉大なものはこういうものであり、偉大だからこそそこに徳があるというのです。

この言葉は私の解釈ですが観方を換えれば、こうなります。

「もし道を学ぶのであれば、大方とはもっと大きな意味と深さがあることを知り分かった気になってはならぬ、そして本物になろうとするのなら時間がかかることを覚悟し根気をもって事に励み実力をつけ、真摯に研ぎ澄まし洗練された透明で鮮明になるまで磨き上げ、自他一体、全体善になるほどにすべての事と調和してそのものとなる。これが道であると。」

どんなことにも大切な意味があり、その意味はその先の偉大なものの一部であるという生き方。まさに道は徳に裏付けられて存在し、道を歩む人は必ず徳の存在に出会います。

私たちが捉えている宇宙と、老子が捉えている宇宙はまるで別物かもしれません。それは道には天の道と人の道があるというように、道を解釈する人と、解釈する前の道があるという言葉では語りつくせないものを表現しているように思います。

文字や言葉では表現できないものが必ずこの世には存在します。私はそれを「意味」と呼びます。意味がないものなどこの世には一切存在せず、意味があるから日々が発生してきます。真理を探究していく人は、意味を深めて意味をつなげて意味を生きる人たちです。

真実の深さというものは、この意味を辿る生き方、ご縁と共にあるひとたちがもっています。頭で考えてどうにもならないことがあるのは、そこには天の道、徳があるということでしょう。

「道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無名は天地の始め、有名は万物の母なり。故に常に無はもってその妙を観んと欲し、常に有はもってその徼を観んと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄のまた玄衆妙の門なり。

この玄妙こそ、私は徳の正体に近いと感じています。

私の歩む道は、遠大で偉大を志しています。そのことを自覚して、心の余裕を大切に日々の意味を紡いでいきたいと思います。

 

一つの生き方

人は主体的な能動的であるとき、やる気が出てくるものです。しかし自分のやりたくないことや否定的なことをやらされると感じるとき、やる気は出てきません。これは感情がその人のやる気を調整しているからです。

しかしよく考えてみると、人生というものは生きていればやりたくないこともやりたいことも同じくらい出てきます。やりたいことだけをやっていたら、それと同じくらいやりたくないこともでてくるのです。

これを毎回、自分でやっていたら結局はやりたくないからやりたいこともしないという具合に消極的になることが多いように思います。

その中で、どんなこともやる気に満ちていて人生を楽しみ充実させている人がいます。日々に、一期一会だと真剣に向き合いどんなこともやる気がある人がいます。そういう人たちの共通する特徴は、やらされているという感じがないということです。

つまりどのようなことでも、「自分のやりたいこと」になっている人はやる気がつねに湧いてくるということでしょう。では、やりたくないことはどこにいったのかということです。この方々は、「やりたくないことも含めてやりたいことになっている」ということが前提にあるように思います。

物事の捉え方、物の観方が最初から異なるのです。

何のためにやるのか、なぜやるのか、それを突き詰めている人はどんなことも必然であり必要なことだというマインドセットを持っています。そして大きな意味で、それは自分の魂が望んでいることであるという自覚を持っています。

そういう人は、すべてやりたいことだったと自分の意識をすぐに切り替えることができる訓練を積んでいるのです。生きていれば、本能もあり感情もありますから心の声に従えといってもなかなか言うことを聴いてくれないのが人間です。

しかし何度も自分の初心や心の声に問いかけて、本当は自分はこれをやりたかったのではないかと自問自答する中で次第に磨かれていきマインドセットされていきます。それを修練を通して、気が付くとすべてやりたかったことに換わるマインドを身に着けるように思うのです。

人生は一度きり、日々は常に一期一会。感情に左右されても、目的は失わない。そういう生き方ができる人が、人生のプロセスを味わい、初心を忘れずに豊かで楽しい人生が送れるように思います。

現代は、忙しすぎてそんなマインドセットの修練をするよりもすぐに目先の結果ばかりを追いかけてしまいます。心豊かに生きられる人生は、成功も失敗もなく、そこに最高の人生があっただけです。

子どもたちのためにも、一つの生き方としてお手本を目指していきたいと思います。