この道を究める

自分の道を歩んでいくなかで、大勢の方から評価されることがあります。その評価は賛否両論あり、それぞれの意見があります。人には価値観があり、それぞれに生き方も異なりますからそのどちらも参考になります。

しかし時折、親しくなりたい方や、大きな影響力をある方、認めてもらいたいと思っている方からの意見に自分が揺さぶられてしまうことがあります。

人が自分を見つめるというのは、こういう時かもしれません。

自分を見つめるというのは、自分というものをもう一度、外の目、内の目、全体の目で観直してみるということです。その中で、自分はいったいどうしたいのか。そして周囲はどう思うのか、自分の初心、役割、天命はどうしたいのかと自分自身を掘り下げていきます。

自分を掘り下げていくなかで、本当の自分に出会います。そして本当の自分の声を聴いてどういう結果になっても悔いのない方を生きようと心で納得するのです。

すると、結果に限らずその人はその人らしい人生を生きていこうとします。つまり自分らしく生きていくのです。

私は子どもを見守ることを本志、本業にしています。なので、試練はいつもそれを見守れるかどうかというものを見つめる機会があります。童心、そして道心を守れるかと自己に問うのです。

子どもが子どもらしくいられる世の中をつくりたい。そして子どもの憧れる生き方を実践したいと決心してから今があります。それは自分の中にある子どもを守れるかという覚悟と一心同体でもあります。

しかし有難いことに、事があるたびに救われるのはその自分の中にある子ども心であり納得していきていこうと約束して決めた二つが一つになった自己一体の本心です。

本心のままに生きていけるように、強く逞しくしなやかに、素直に謙虚にこの道を究めていきたいと思います。

純粋性

人生の中で感動するものの中に純粋性というものがあります。この純粋性は、その人の真心や本心に触れるとに顕現してくるものです。すぐに人は物事を頭で考えては、それが正しいか間違っているか、深いか浅いか、意味があるかどうかなどで裁こうともしますがそれでは心か感動する機会を失ってしまうようにも思います。

心というものはもともとは純粋性が備わっているものです。

なので人は心からの行動や言葉、心のままに生きている人をみると感動するのです。産まれて間もない子どもたちや、もしくは生き物たちの素直な行動に心を打たれることも多いように思います。

この純粋さというのは、純粋なものから引き出されていくように思います。自然界にはこの純粋なものが溢れていて、それを見出しその心を自分に投影するなかで純粋性もまた磨かれていくように思います。

心のままであるようにするには、色々な心のまわりにこびりついていくものを綺麗に掃除して取り除いていく必要があります。これは暮らしのお手入れも同じで、日々に積もってくる塵や埃を掃除し、そして次第に色あせてくるものを布で拭いて磨いていくような取り組みが必要です。

結局は、人は純粋性を保ち、この世で自分のままで生きていけるというものに憧れているように思います。私が子どもの憧れる生き方にこだわるのもまた、この純粋性を守りたいと願っているからかもしれません。

誰もが純粋のままでいられる世の中。みんなが素直になっている世の中。そこに美しい日本人の姿を感じます。

どの時代でも人は心の奥底で、純粋に生き切る人たちのことを尊敬しています。日々に純粋性を保てるように、暮らしフルネスの実践を味わっていきたいと思います。

いのりの道

伝統的なもの一つの信仰というものがあります。これは宗教とは異なっていて、むかしから自然と共生するなかで自然に発生してきた祈りの実践です。人は、祈りというものを感覚的に持っています。これは祈りのそのものといのちそのものが繋がっているからだと私は思います。

そもそもいのちというものは、自然から活かされている存在です。これはすべての動植物はじめあらゆる生命エネルギーが万物と共生しあうことで存在していることからわかります。

それが長い時間をかけて循環をし、あらゆるものが渾然一体となって活動しているともいえます。そしてそれは目に見えるものから目には観えないものまで膨大にかつ複雑に存在していますから私たちはその全体の一部としてこの今という世界に生き続けている存在ということになるのです。

そしてそれぞれに役割というものを持ち、いのちをかけてその役割を全うしていきます。一生懸命に自らのいのちに生きるだけで、私たちは自分にしか与えられていないいのちの使命を果たしていくのです。

そこには正否もなく、善悪もなく、そのいのちの全うこそに意味があり価値があります。

そのいのちの全うするなかで、私たちは時折、初心というものを忘れてしまいます。それは欲望や執着がうまれ、目先のことに流されて大切ないのちの存在を忘れてしまうからです。

そのいのちの存在を思い出すことが、伝統的な信仰であると私は思います。

そもそも信仰とは何かという話になりますが、私にとってはいのち=信仰です。これは宗教ではなく、人の生きる道です。つまり、人生道ともいうものです。宗教は真理が外側に存在していますが、信仰はいのちそのものです。そのいのちの存在を思い出すこと、いのちの存在に畏敬し触れようとするもの、そういう自然との一体化、共生のなかに太古のむかしから今も連綿とつながっているいのちの存在にいのるのです。

つまりいのりやいのるというのは、いのちの存在のままでいるということでしょう。

子どもたちにもこのいのりの生き方、そしていのりの道が続いていくことを忘れないように私自身も天命を全うしていきたいと思います。

自然から学ぶ

人はそれぞれに固定概念を持っています。今までの常識があるから思い込んでいるものはなかなか拭えません。特に最初からあったものに関しては、ほとんど疑うことがなくそういうものだと信じ込むのです。

これらの思い込みが執着になり、本質や真実がわからなくなっています。特に知識として誰かに教わって疑問を持たないとよりその思い込みは強くなります。

本当は文字や知識がなかったころ、人は何を見て学ぶのか。それは自然を観察して学んでいました。自然の中で発生する様々な道理や真実を直に観て、その本質を察知していきました。小さな変化から大きな変化、またこうすればああなるというように場数を繰り返して事実を学びました。

今では誰もがそうやって習得しなくても、言葉や文字によって便利になりある程度は理解し合えるようになりましたからその分、かつてのような本質の察知や道理の習得は失われていきました。

しかし、原理原則や道理、真実というのは基本であり基礎であり根本や根源の部分です。応用というのは、その原理原則をもっていることで発展させていきますから物事の道理を習得していた方がこの世の仕組みや知恵を発明するのに重要な役目を得られます。

例えば、私は自然農や伝統文化などに触れていますがそうすると道理や原理原則ばかりを見つめる機会が増えます。自然の原理原則に照らさなければ壊れる仕組みになっていますから、毎回、自然に近づき自然に寄り添い、自然の叡智をおかりしながら取り組むのです。

そうやっているうちに、自分が思い込んでいたものに気づき、大前提になっていた知識や執着が取り除かれていきます。世の中の当たり前を疑い、本来の自然にある当たり前に気づけるようになっていくのです。

こういう学問をしていたら、飽きがくることはありません。毎回、新鮮な学びがあり、気づくことが増えていくだけです。なにに気づくにか、それは自分の思い込みに気づくということ。そして新たな発見や発明に気づくということです。それはその道理や原理原則を応用する面白さに出会うからです。

人間の学問の根本は、この「自然から学ぶ」ことにあると私は思います。子どもたちのためにも、自然から学ぶ姿勢を伝承していきたいと思います。

歴史道

私たちは歴史というものを教科書で学びます。しかし本当の歴史は教科書には書いていないことがほとんどです。その理由は、歴史は勝者の歴史でありその時の勝者の目線で都合よく改ざんされていくからです。事実も、事実の様で事実ではありません。現実はさらに多くのものが関わり、同時に敗者の歴史もあるからです。

真の歴史を知るためには、起きたことを丸ごと理解して受け止めていくような歴史道のようなものがあるように思います。それは今まで連綿をつながってきたものにアクセスをし、それがなぜ行われていたのかをその土地や文化から学び、それを辿りながらかつての人たちの想いをつないだり甦生させていく過程で学ぶのです。

つまり本当の歴史は人々の心を伝えていく中にこそ存在するということになります。これは人の生きる道であり、まさに連綿と続いている歴史です。

歴史は生きているというのは、生き続けているということです。つまり生ものですから保存するには漬物のように漬け直して発酵させ続けていく必要があるのです。保存とは本来、放っておいて保存はできません。そこにはお手入れが必要です。そのお手入れは、物であれば行事ごとに出したり仕舞ったり、片づけたり、そして磨き直して手入れします。これが食べ物であれば、先ほどの漬物のように何度も漬け直して腐敗しないように手塩にかけて守っていくのです。

歴史も同様に、常に私たちが手塩にかけて育てていくものであり、また定期的に古くなり腐敗しないように漬け直していくことで甦るのです。

形だけを残すのなら、ホルマリン漬けや氷漬けにして深い暗闇で光が当たらないところで保管すれば可能かもしれません。しかし、そんな形式だけ残っても何の意味もないのです。

私がやっている歴史の甦生は、形をただ残すことに意味を感じていません。そうではなく、その歴史の道を残すことの方が大切だと思っているのです。そのためには、先ほどの伝統保存食の知恵がそのまま使えるのです。

私が漬物から学んだのは、この甦生や保存の知恵でありそれが和の心であり、すべてにおいて対応できる道の処し方とつながっているのです。

子どもたちのためにも、真の歴史を伝承しその知恵がどの時代でも活用できるように私の役割を全うしていきたいと思います。

 

 

目と心の和合

欲に目がくらむという言葉があります。目というのは眩いものに弱いようでどうしてもキラキラしていると目がくらみます。他にも目の格言を色々と調べてみると面白い言葉が多いことに気づきます。目から鱗がおちるというものがあります。これは何かがきっかけとなって、急にものごとの実態がよく見え、理解できるようになることのたとえです。

他にも、目にまつわることわざはたくさんあります。どれも共通するのは、目というものがそれだけ人間の感情や心の状態を示している部分であることがわかります。目は口ほどにものを言うという言葉もあります。それだけ、この目は影響を与えあっているということです。

日ごろ何を見ているのか、どんなものを見るのかでもその目の状態は心に影響を与えます。人は自分が何を目を通してみているかで写りこむ世界が変わります。

掃除をしたりゴミを拾ったり、磨いたりしたあとはまるで曇りガラスが綺麗になったあとのように世界も鮮明になります。その逆に、都会のネオンや派手な人工物をみていたら目が疲れて澱んでいきます。いくら澄み切った青空があっても、美しい山々があっても、広大な海の前に立っても、その目の状態次第で真実や本質は目には入ってきません。

よく座禅をしていて「半眼」というのを行います。これは目を半分開いて、半分閉じている状態のことです。 つまり目を見開いているのではなく、心の眼が半分、あとは残り半分。つまり全部目でみずに、心の眼で自分を見つめている状態になっているともいえます。

目で追いかけているうちに、人は不安が増えていきます。あまり見すぎてしまうのはかえって余計な疑念を生み、自分の見たい証拠ばかりを目で追いかけてしまうものです。

目で目は見えぬという格言もあります。これは自分の欠点は自分ではわからないということです。そういう時は、素直に謙虚に自分の目がどうなっていますかと、澄んだ心の目を持つ人、または真実や本質を見ようとしている人にアドバイスをいただくのも一つの半眼かもしれません。

子どもたちのためにも、丁寧に目を閉じ、そしてゆっくりと開き、瞬き一つが修行と思って心を研ぎ澄ませていきたいと思います。

 

真の融合

最先端と伝統文化の融合をみていて色々と思うことがあります。私は先人の智慧や先人の願いや祈りを尊重しますからあまり目新しくなる感じにはなりません。むしろ地味で、何が新しいのかわからないという具合にほとんどが目には見えません。今、あるものを活かし、そのあるものを別のものと組み合わせていくなかで今の自分に相応しい使い方を味わいます。

器というものは、その器は無です。しかしその器に何を載せるのか、もしくはその器をどう使うのかは、その器の天命にも関わってくるものです。

ある器は、飾り物になり、ある器は花の場になり、またある器は何かの想いを宿します。器は器、そして私たちもまた器にもなりえる存在でもあります。難しくなってきたかもしれませんがシンプルにいえば、徳を磨いていくということです。

私は古いものと新しいものを融合するとき、そこに徳を見出します。その徳は、いのちを尊重する中で顕現してきます。丁寧に磨き、丹精を籠めてお手入れをする。そうして、みんなが喜ぶように、そして少しでも長く幸福になれるようにとそのものの豊かさをみんなで味わいます。

ご縁を大切にしていく中で、自分に与えられた天命に従っていく。

そういう生き方が折り重なっていくとき、私たちは縦の糸と横の糸を結ぶように一期一会の融合に出会います。

よく考えてみるとわかります。

私たちの今もまた古いものと新しいものは融合し続けています。それは自分自身がそうであるからです。先祖からずっとつながっている自分、そして今を生きる自分。先人の恩徳に深く感謝して、今も子孫のために謙虚に自らを磨いて今以上に美しい世の中を推譲していく。

こういうことの繰り返しの中にこそ、真の新しいものと古いものの融合があるのです。見た目の融合ではなく、真の融合なのです。

私の取り組んでいることは、すぐにはわからないかもしれませんが時を経て歴史や時代に鑑照すればいつかは理解してくださる人も増えていきます。悔いのないよう、今とご縁を結んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの真価

春うららかな天気が続くと、犬や猫、鳥たちも心地よくゆったりと過ごしています。自然は四季のめぐりと共に、自然のリズムで時が流れます。現在のような人間都合のスケジュールではなく、まさに自然の時は全生命の時でもあります。

本来、むかしは人間も同様に自然のリズムで暮らしをしていました。今では暮らしが失われ、労働するための時間に管理されなかなか自然のリズムで生きることは難しくなっています。

その中で、暮らしの意味も変わり、暮らしはリズムとは関係のないものとして言葉も定義されて使われます。私の定義する暮らしは、自然のリズムのことであり決して日常生活のことをいうのではないのです。

私たちは本来、この自然の営みの中に伝統的な暮らしを持っていました。これを生活文化ともいうのでしょう。この文化が失われて、現代のような文明が優先されていく生き方が求められ息苦しくなっている人も増えているように思います。

子どもたちは、自然そのもので産まれてくる存在です。その最初の三つ子の魂のときは、私はできる限り自然のリズムで生きられるような環境を用意する方がいいと思うのです。それが地球で自立して生き残るためのチカラを得ることができるからです。

あまりにも早期に文明に慣れさせすぎると、人間は性格のバランスがととのわなくなります。人間の性格は、その後の社会でのバランス感覚や、その人が自分の人生をよりよく生きるための柔軟性に影響が出てきます。

だからこそ、私たちの先祖たちは日本の家屋の中で自然のリズムと調和する暮らしを永続して生きる力、生き残る力を醸成し伝承を続けたのでしょう。

私が古民家にこだわる理由も、自然のリズムと一体になって暮らしていくのに都合がいいからです。もちろん、大都会でもできなくはないですが圧倒的に自然のリズムに包まれにくいから智慧と工夫が必要になっているのです。それは決してデジタルで無理やりに自然をつくることではありません。もっと、リズムを考えて暮らしをととのえていく工夫をみんなで知恵を絞って取り組んでいくということです。

私の暮らしフルネスは、足るを知る暮らしと一般的にはお伝えしますが自然のリズム側から話せば暮らしだけで充分という意味でもあります。

暮らしの真価を子どもたちに伝承して、今と未来をよりよくしていきたいと思います。

英彦山の菩提樹

昨日、英彦山の宗像神社の境内にある菩提樹周辺のお掃除をしてきました。もともとここはかつて弁財天をお祀りしていて明治の神仏分離や廃仏毀釈で宗像神社に代わったものです。

本来、ここは寺院だった証としてもこの菩提樹があります。この菩提樹は、植物名ではありません。この「菩提」はサンスクリット語の「ボーディ」(bodhi)の音写で、仏の悟りという意味を現します。なので菩提樹というと、仏の悟った樹という名称なのです。もともと仏陀は苦行難行の末菩提樹の樹の元で坐禅を組み、12月8日明けの明星と共に悟りを開いたといいます。仏陀はこの菩提樹と共に悟ったということでしょう。

今でもインドのブッタガヤには二千五百年前にその下で悟りを開いたといわれる菩提樹の巨木が存在しているそうです。日本では、インドボダイジュではなく中国産の支那菩提樹が植えられています。これは栄西禅師が文治5年(1189)香椎の文治寺植え、後建久6年(1195)に奈良東大寺鯖木の跡に植えられたものが各地の寺院に植えられたご縁でそうなっているようです。

この英彦山の菩提樹は県指定の天然記念物で昭和39年に指定されました。この天然記念物指定とは、文化的、歴史的にも価値があり日本の宝として保存していきたいというものです。

菩提樹の歴史をよく眺めると仏陀とのご縁で広がり、またその後の仏教の弾圧などを受ける因果の樹木でもあります。仏教と共に歩み、そして様々な歴史の苦難を共にしてきた不思議な樹です。私にはこの菩提樹の佇まいが仏陀の化身そのものにも観え、不思議な気持ちになります。

英彦山の守静坊にある枝垂れ桜も、数奇な運命で今も存在していますが同じ下谷を守り続けているこの菩提樹もまた数奇な運命であることを直感します。

この不思議な2本の樹木は、誰が何のために植え、そして今も何を語っているのか。

こうなってくると直観や五次元や量子の世界の話になってしまいますがこの樹木たちが歴史をとおして見てきたもの、そしてこの樹木に語り掛けてきたご縁のある人たちの想いを今に伝えているように私には感じます。

歴史のなかで、今も生き残り人々に触媒として何かを伝道し伝承する存在こそ日本の宝です。私もこのご縁を通して、未来の子どもたちに大切な宝を守り譲っていきたいと思います。

自然の仕組み

私たちは1年のめぐりを四季を通して行います。1000年続いていれば、1000回の四季を、そして2000年続いていれば2000回の四季を巡ってきたことになります。私たちは時代を年数で捉えますが、実際にはその回数繰り返してきたということでもあるのです。

自然の仕組みは見事で、毎年同じように繰り返されます。その都度、はじめからやり直すようになっていて私たちはその自然に合わせて自分たちもはじめに戻します。例えば、種を蒔き、芽が出て、花が咲き、実をつけまた種になる。この繰り返しですが、自然はその前の一年と同じことはほぼありません。毎回、はじめに戻りますが同じことは二度とありません。

その都度、私たちは謙虚に自然の姿から学び、自分たちを変化に合わせて成長させていく必要が出てきます。つまり自然の変化にあわせて私たちも進化し続けているのです。

同じように菜の花が咲いても、同じ菜の花はない。

これはタイミングも異なれば、同じ量でもない、大きさも形状も前の年とは異なります。つまり自然のあらゆる生命は同じように、自然と調和しながら進化を已みません。そして一緒に、進化して生きているのです。

私たちは自然と共生しながら、その生き方を学び、同じように変化に合わせて繰り返しの中でいのちを磨き直していきます。

いつまでも同じようにしていくのは、私たちが自然の存在であるからです。

大事な時こそ、今までどのようにして暮らしを営んできたのか原点回帰していたいものです。謙虚に、人類の行く末と子どもたちの平和のために尽力していきたいと思います。