物語を生き切る

英彦山の宿坊の甦生が始まる前に色々と心の整理をしています。毎回、古民家甦生や場の甦生をする前は傾聴や覚悟の時間があります。このプロセスはとても大切で、今までの様々な物事を紡ぎ、結び物語を続ける準備に入るからです。

物語というものは、すべてのものに存在するものです。

この世にあるものはすべて物語があり、その物語の続きを私たちは生きています。何も意味もないもののように見えても、実際にはそこには意味が存在します。それが物語がある由縁であり理由です。

その意味が観える人と、意味が見えない人がいるだけです。私たちはどのような場にも意味があると感じられる人と、場に意味を感じられない人がいます。私は場道家を実践しますから、そこに一期一会の物語を直観していくのです。

これは自分の人生にも言えることです。

今の自分があるのは多くの物語の集大成でもあります。その物語を歩んでいく過程で、色々な人たちとさらなる物語の続きを見つめ、自分の役割、徳、業にいのちを傾けていきます。

こうやってまた新たなご縁が産まれ、新たな出会いと別れがあります。この出会いと別れもまた物語の一端に過ぎないことでありまた再び物語は歩むのです。私がもっとも仕合せを感じるのは、止まっていたもの、忘れられていたもの、捨てられていたもの、失われていたもの、形がなくなっていたものを「甦生」するときです。

私にとっての甦生は、物語を綴ることでありそれはこのブログを書いていることにも似ています。

今日も一日、かけがえのない日々がはじまります。

子どもたちのように一期一会に生き切り、自分自身の一生の物語に生きていたいと思います。

徳積の一灯

仏陀に「貧者の一灯」という物語があります。これは簡単に言うと古代インドの阿闍世王が招待した釈迦のために、宮殿から祇園精舎への帰り道を大量の灯火で明るく照らそうと布施を声掛けします。貧乏な老婆も自分も釈迦のためにとお金を工面して一本の灯火を布施する。阿闍世王の灯火は徐々に消えていったが、老婆の灯火は朝まで消えなかったという話です。

それぞれの解釈の仕方がありますが、この物語はその中身がとても重要な話です。食べるものがなくて貧しくても布施をしようとしたこと、釈迦の教えを説いて布施をする人を集めたこと、単に油や火をつけたのではなく永遠に消えない信仰という火をつけたこと。どんな大量の油や火よりも真心を籠めて徳を積んできた火は尊いということ。世の中のために世界のために未来永劫の子孫のためにという偉大な心で取り組んだこと。ないからできないではなく、徳を実践しようと心掛けたことなどがあります。

釈迦は、説法もしますが実践をされた方です。それは姿からもわかります。布切れ一枚しか持たず、道を歩み、最期まで徳を実践されました。この徳は、仏教では布施ともいい、わかるよりも行動で示されました。

有名な布施には、「無財の七施」というものがあります。言い換えれば、徳を積むための「七つの実践」ということです。眼施、和顔施、言辞施、身施、心施、床座施、房舎施の七つです。

眼施(がんせ)は、常にやさしいまなざしでいる実践。

和顔施(わがんせ)は、いつも和やかに笑顔で人と接する実践。

言辞施(ごんじせ)は、優しい言葉で人と接する実践。

身施(しんせ)、自分の身体で奉仕する実践。

心施(しんせ)は、他の人に対して心配りをする実践。

床座施(しょうざせ)は、席や地位を譲る実践。

房舎施(ぼうじゃせ)は、自分の家や部屋を提供する実践のことです。

これは、他人を自分だと思って大切にする実践。自他一体の境地を顕すものです。私たちは自分を大切にするように他人を大切にするときに徳は積めます。決してお金をたくさん持っていなくても、財産に恵まれていなくても徳は積めます。言い換えるのなら、ないからこそ徳の実践はさらに豊かになります。

簡単にできないからこそ磨かれるものであり、それがもっとシンプルで根源的であるからこそ私たちは迷いなく生きていくための真理に近づいていくともいえます。

大切なのは真心で「一緒に積んでいこう」「共に磨こう」というあるないにかかわらず、実践するという純度の高い一灯に真の意味があるように私は思うのです。この貧者は果たして本当に貧者なのか、真の豊かな心を持つ「心の長者=仏陀」ではないかと思うのです。

昨日のブログで心の長者のことを書きましたが、この心の長者は心の豊かな者のことです。そしてこの心の豊かな者の正体は、この貧者の一灯の実践をする人ということだと私は確信しました。まさに仏陀は、誰にもできることであり、みんなが勇気を出して踏み出せばそこには仏陀があるのです。

徳の仲間ができることは、仏陀を産み出すことであり仏陀はそれを同じ人として平等なところで語っているのです。

これからいよいよ地球環境の変化の著しい人類の行く末を決める大きな分岐点に、この貧者の一灯はこの世を明るく照ら光明になるでしょう。子どもたちのためにも、徳を積むことの意味を実践して伝承していきたいと思います。

最善観の覚悟

昨日、「最善観」という言葉を改めて知りました。これは教育者、森信三先生が語った言葉です。この意味は、「いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然である共に、またこの私にとっては、最善なはずだ」という根本原理に沿ったものです。

この最善観、私は「禍福一円観」という言葉をよく使いますがほとんど同じような意味に感じています。人は自分に色々なことが毎日発生してきますが、それを自分勝手に左右に分類してはこれはいい、これはよくないと決めていきます。

しかし、そのどれもは本当は現実には自分に最も相応しいことが発生しているのだと実感する人と、これは自分には相応しくないと分別している人がいるだけです。

本当はすべて必然であり、自分の身に発生したことはそれが現実ですからそれを素直に受け取っていくところによりよい人生が開けていくように思います。つまりいいかわるいかではなく、そこに大切な意味があるという生き方でもあります。自分にとって必ず通る道だから天命として絶対安心して歩んでいけということもあります。

これを西洋ではオプティミズムともいい、楽観性と表現します。積極思考ともいうかもしれません。また別の言い方では、「これでいいのだ」という言葉にも似ています。

最初から自分に与えられた自分だけの人生は、他と比べられるものもなく自分自身が体験しながら自分の道を自分の足のみで歩んでいくものです。その道は誰でもなく自分にしかない道、自分にのみ与えられた道だから善悪関係なく「すべて最善」なことだと覚悟して生きるということです。

時折、何で自分がとか、誰かがやるだろうとか、他の人の方がなどと思うこともあるものです。もしくはなぜ自分がや、どうしてこんなことにと悲嘆にくれること、もしくは自分にはもったいないや、自分にこんなにもという恩恵もあるかもしれません。しかしそのどれもをそのままあるがままに受け容れることで最善観を持つことがその人の人生を真に生きることになるように思います。

私はよく考えてみると、まだまだ世間の刷り込みが多く入り込み自分自身というものを正しく認識することができないでいるように思います。というよりも、日々の刷り込みの中で本当の自分、主人公としての自分を日々に顔を洗い目覚めていく鍛錬が不足しているようにも感じます。

自分にしかできないことをやるには、誰とも比べられない自分を生きる必要があります。森信三先生が日々の実践に生きたように、私自身も絶対必然、最善であると自分を鼓舞して素直に謙虚に生きていきたいと思います。

この世のすべての御縁を一期一会と共に歩んでいきます。

ありがとうございます。

場力

世界には同じようなことをやっている人がいるものです。昨日もアメリカから2名の方が、聴福庵に見学に来られましたが通じ合う話が多く楽しい時間を過ごすことができました。

不思議ですが、似た人たちや同じ目的を持っている人はいつも同じことを考え波動もまた似ているものです。しかし、同時に似ているからことお互いの異なりから発見することも多くあります。

つまり何が似ていて、何が似ていないのかが合わせ鏡のようにわかるということです。その似ているものの普遍性が何で、似ていないものからたくさんのことを発見し学ぶことができるのです。

私自身も昨日は、何か力になればとオープンにお伝えしましたが私の方が学ぶことが多かったように思います。

場づくりというのは、その場で何をするかということに由ります。

つまり何のためにその場をつくるか、そして何がその場で発生していくようにするのか。そこにはその場の思想というものがあるのです。その場の思想は、思想が先か、場が先かというとこれは表裏一体です。

なのでその場がどうなるかは、常に思想と場に磨きをかけて光らせ続けていく必要があるのです。場力があるとよく人に言われるのは、その主人の思想力があるということでもあり、同時にそれは場によく反映されているということです。

この場は、その思想全体の集中する舞台ですからその舞台には役者が集まるのです。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるようにここから変化を伝道していきたいと思います。

御縁

御縁というものは誰にもあります。そのご縁の中でも自分の魂や本心が望んでいるものは、そのご縁との結びつきを強く厚くしていきます。御縁というのは、それだけ自分自身と深く関係しているということになります。

御縁には人とだけではなく、物とのご縁というものもあります。そして空間や場所、思想や思い出、歴史や感覚というものもあります。それをどれだけ磨いたか、関係を高めたかということがご縁の姿です。

私も思い返せば、ふとした出会いの中から自分にとってとても大切なご縁をずっとつなげて磨いてきました。一期一会にその時機にしか出会わないご縁もあれば、ずっと長い道中で共に出会い続けるご縁もあります。お互いにこの世に存在する長さも感覚も異なりますから巡り会えた仕合せは格別なものです。

お互いにたくさんの思い出や絆を結んでまた次の道へと向かっていきます。

いつかは離れ離れになってしまうとしても、その一瞬の仕合せやめぐり合わせに感謝するのです。最近は、木々や山、岩との出会いが増えています。不思議なことですが、200年以上の枝垂れ桜や銀杏の木をお手入れし守るご縁です。幼い頃から、神社の境内には樹齢数百年の楠や杉がありましたが眺めているだけの存在でした。

人が関わり大切に守ってきたものには、人との深いつながりやご縁が感じられます。

時代を超えても思いは思い出と共に懐かしく、思い出と共に豊かになります。

私たちはこの世で豊かに生きていくために御縁を深く味わう感覚を持っているのです。人類のそう遠くない未来、原点回帰することが予想されます。その原点回帰は、新しいとか古いとかではなく普遍的なものに気づきなおすことです。

複雑怪奇に分類わけされたこの世の中の霧がかった空を澄んだものに転じていくことです。暮らしフルネスは、この転じるものの礎になるものだと信じています。子どもたちがご縁に恵まれ豊かに育っていけるように見守り続けていきたいと思います。

徳に報いる

生きていると御恩をいただいたところに恩返ししたいと次第に思うようになります。恩返しをしたいという気持ちは何処からくるのか、それは自分というものを育ててもらった感謝からくるものです。これは親孝行に似ています。

今までお世話になった存在、大切に育ててくださった存在に対して何かお返ししたいと思うようになるのです。

思い返すと、私も沢山の御恩をいただいてここまで来ました。それは故郷などの土地の恩、そして他の場所でいただいた恩、地球や自然からの恩など数えきれないほどの恩をいただきまた今もその恩を引き続きいただいています。歳を経ていくと共にその恩が観えてくるようになります。

それだけ多くの恩に包まれているのです。その恩に次第に感謝するようになるとき、徳に報いたいと願うようになっていきます。自分を育ててくださったもの、自分というものを与えてくださったすべてに自分は何かできないかと思うようになるのです。それが「徳」を積む動機になります。

この徳は決して良いことをすることが徳になるとはいいません。その人らしく、その人の持ち味を活かして自分にかできないことをやるとき徳は顕現してきます。素直で純粋、真心で恩返しに生きようとするとき徳は湧き出してきます。

なぜ自分にこの才能があるのか、なぜ自分がこれを与えられたのか、なぜ今なのか、そのようななぜを合わせていくとき、可能性を発見し挑戦をしていきます。周囲の固定概念やそれまでのルールに縛られずにその人らしく育てていただいた徳に報いるのです。

その根底にあるもの、それは恩返しの真心からであればそれは徳積の仕合せを深く味わっているように思います。

子どもたちの未来のために、自分がいただいた偉大な御恩を同じように次へと譲り渡していけるように自分らしいやり方と自分の徳で貢献していきたいと思います。

両輪

コロナウイルスが出てからほとんど田舎のようなところで暮らしていますが久しぶりに都会にいくと人の多さに驚きます。20年近く都心で生活して福岡と二拠点で往来していましたがこんなに長く東京に行かなかったことははじめてです。

思い返すと子どもの頃、人の多いところにいるのは疲れていました。大人になり都会に住めば気にならなくなっていましたが、久しぶりに都会の人混みの中にいるとどっと疲れます。

何が疲れるのかと思うと、もちろん視界に入ってくる情報が多すぎて気になることもありますが様々な音や匂いや物体に五感が反応し過ぎて疲れたのがわかります。

田舎の自然の中で過ごしていると、五感が鋭敏になっていきます。都会は便利ですから、五感を使うよりも便利なものに委ねていくことで適応していきます。脳がある程度まで対応できれば、脳の反応だけで事足ります。

バーチャルリアリティの技術が進化していくのも、都会での生活がベースになっていることがわかります。現実と理想の間で、人類はあらゆることを分類わけして切り取って住み分けていきます。

とはいえ、田舎でも私たちは便利な道具を用いて自然と分離させていきます。

例えば私がこの書いているブログの部屋も、外の自然と窓ガラスを隔てて分けています。窓を開ければ寒い空気が入ってきます。窓が閉まっているから自然を眺めながらも寒さはありません。頭では寒いのだろうとわかっていても、身体は寒さを感じていません。香りも音もあまり入ってきませんし、雨も風も入ってこないので五感のアンテナはその感覚を拾おうとはしていません。

自然というのは、全身全霊で感受するものです。

そうして自然の持つ様々な気配を動植物たちは分かち合い共に生きています。いのちは自然を受け容れる器があります。いのちのままであることは偉大なことです。そして人間は愛があります。思いやりや真心で人間のあらゆる行いを受け容れる偉大な愛を持っているともいえます。

このいのちと愛のことは、そろそろ付き合いを決めた方がよさそうな時機に入ってきました。

新しい価値と普遍的な価値の学び、その両輪をまわしてみたいと思います。

デジタル証明書の未来

役所にいくと今でもたくさんの証明書の発行が必要になります。本人の確認できるものとして使うものとしては現在は、免許証や保険証、パスポートなどもあります。マイナンバーもはじまり少しずつIT化していますがまだまだ進んでいません。

時代の流れでもうすぐ紙の証明書がなくなっていくことは予想されますが、なかなか今までのものが変わるというのは難しいことです。誰もが電気が止まったらどうするのかや本当に本物かどうかを専門家が確認したのかなど、偽物であっては困るものはこれでもかというくらい確認するものです。

よく考えてみたら印鑑なども5000年も前のメソポタミアではじまっていてそこでも証明をするものを用意していたことになります。

人類にとってこの「証明」というものがこれだけ時代を経てもなくならないのはそれだけ証明は人類にとっては重要なことであるということです。

現在はデジタル証明書というものが出ています。このデジタル証明書はインターネット上で行われる取引に関する事実や価値の真偽を証明するために発行された電子ファイル全般のことです。

紙での契約書を電子契約書にし、署名も電子署名になり、それが本人のものであることを証明するためのものです。

このデジタル証明書は、紙での証明書と同じく第三者機関によって発行さることがほとんどです。これをは「認証局」と呼びます。その認証局がデジタル証明書が本物かを認証します。インターネットでいうSSLなどの仕組みも同じです。

このウェブサイトは、本物かどうか、この商品の売買は間違いないかとうかなど認証局を通していれば安心という具合です。それだけデジタルの世界ではコピーが容易く、なりすましや偽装などができるということでもあります。しかし認証局を通さない複雑なやり取りなどがある場合は新しい解決方法を用意しなければなりません。

そこでブロックチェーン技術の登場でこのデジタル証明書が誕生しています。

ブロックチェーンは書き込んだ情報を変更できないことやブロックチェーン上に分散管理することもできること、さらにそれがいつまでもコストをかけずに保存できることができよりデジタル証明書としての機能が発展しています。

これからのデジタル証明書の可能性は、人類が今まで続いてきた偽装や改ざんなどの歴史の中で如何に信頼性を高めた社会にしていくかという課題と紐づいているように思います。それは権力というものがあるからでもあります。

本来、私たち日本人は信用第一にする民族ですが世の中が変われば対策を立てて取り組んできました。それは印鑑、サイン、方言、合図、家系などあらゆるものに出ています。

近未来の社会実験の実証実験を子どもたちの未来のために挑戦してみたいと思います。

感謝を磨く

人間は一生のうちで多くの出会いと別れがあります。そのどれもが一人ひとりの道であり、それぞれの人生です。思い返すと、多くの人たちの真心や親切によって私たちは暮らしを豊かに彩ることができます。

自分一人が生きるのに、どれだけ多くの人たちが関わっているのかと思うと私たちの生活のすべては親切で成り立っているといっても過言ではありません。

あの時、あのタイミングでお世話になったとか、あの時、あの場所で出会ったおかげで助かったとか、まさに人の親切は重なりあいます。

だからこそ出会った時の喜び、別れの悲しみがありますが同時に感謝が結び合っていることに気づくのです。あの出会いも、別れも感謝であったと思う人生は親切を感じやすいように思います。

親切を感じる人は、感謝を感じる人でもあります。

そういう人にとっての出会いもまた別れもも感謝が結びます。感謝を磨いていくというのは、その一期一会の出会いに際にして感謝を忘れないようにしていくことです。

人は頑張り過ぎたり無理をし過ぎると感謝を感じる力が鈍っていくものです。それは自分というものを出し過ぎているからです。本当の自分というものは伴侶であり、とても親切で陰ひなたから自分自身の存在に常に寄り添って見守ってくれているものです。

自他に素直に親切にすることができる人は、他人にも親切にできる人でもあります。そうやって自他との関係が親切にできる人は、感謝を持ち続けていきます。感謝は自他を結ぶ仕合せの絆です。

誰もがいつか人は必ず死ぬ時がきて、それまでに多くの出会い別れを繰り返します。その引き際や別れ際にその人の生き方が出てくるものです。引き際を感謝でというのは人生においてはとても大切だと感じます。

感謝を磨いていくと今まで自分自身そのものの存在が与えてくださった偉大な恩恵にも自然に有難いと感じることができ喜びと仕合せを感じます。私にも2年前から共に感謝を磨こうと、一緒に取り組んでいる同朋がいますが私は本当にまだまだです。

最後に、ローマの哲学者キケロの格言です。

「感謝は最大の徳であるだけでなく、全ての徳の源である。」

徳の源泉、それは感謝。

子どもたちのためにも徳を目指して、精進していきたいと思います。

 

マインドフル・プラネット

昨日は、宗像国際会議のスピリチュアルツーリズムのセッションでZEN2.0の活動をされている宍戸さんと三木さんのお話のコメンテーターとして参加してきました。この団体の掲げているミッションは『生きとし生けるもの全てをかけがえのない存在として、人類全体が心豊かに地球を共有するマインドフル・プラネットを創っていくことをミッションとしています。また、近づく方法として、仏教の「仏・法・僧」の三宝から借り、「わたし」「自然」「つながり」を調和した社会の実現を目指します。』とあります。

お話の中では、ご自分の病気の体験やそこからの気づきにはじまり、心豊かに生きていくことの大切さ、世界のマインドフルな想いをオンラインで繋がりあうなど共感するお話がたくさんお聴きできました。また詳しくは後日、宗像国際環境会議のHP等から動画配信されると思います。

このZENというのは、アメリカに伝わった禅がそのままZENとして呼ばれているものです。アメリカではZENというと仏教という印象が強く、一般的にはマインフルネスという言葉で使われることが多いように思います。

マインドフルネスという呼び名になると、特定の宗教や宗派というものを超えて高い精神性や、静かな心境、穏やかな境地のようなものを持ちたいと願う人たちが使う言葉として現在は世界で定着しているようにも思います。

私には古くからの友人の一人に長崎にある禅寺の僧侶の方がいます。

その友人は、いつも禅的な生き方をして自由奔放で私のイメージする「雲水」そのものです。何ものにも捉われない、自分自身であることを大切にしておられます。

私自身も若い頃、道元禅師を慕い永平寺を参拝して朝の参禅に参加したことがあります。今でも思い出すのは、永平寺の周辺の滝場の美しさ、そしてととのった場の美しさ、今でも想いを馳せると心に薫ります。

本来、頭で理解する宗教や経典などとは別にそもそも生き方というのは「感じる」ものです。感じるというのは、五感をすべて自然に投げ出してそれを深く味わう時に磨かれ、その自然と一体になって全体と調和していきます。

本当の自分とは何か、自分自身とは何かということを自然から導いてもらうのです。

私たち人間は生きているうちに、人間だけが創り出した社会という名のどこか仮想で虚構の空間の中に放り込まれていきます。しかし、現実というものはそれとは別に「地球と一体になって暮らし」ているのです。

私もこのzen2.0のマインドフルプラネットという理念にはとても共感して、そうありたいと思う一人になりました。志のあるお二人に出会えたことをとても仕合せに思います。今日は、私も10時から「環境問題と価値観の転換」というテーマで登壇しますが未来の子どもたちのためにも自分の役割を真摯に果たしてきたいと思います。

ありがとうございます。