丁寧な暮らし

生き物は美しい造形物を作り上げていくものです。私は若い時に拾った一つの貝を持っています。そしてもう一つ、石英の勾玉を持っています。身近に置いておくと心が癒され美意識が高まっていくのを感じます。

自然のもつ造形物はまさに完全無欠であり、どのような状態になってもそのものらしく自然体で驚きと感動を与えてくれるものです。

まずこの貝は巻貝ですが、科学的には炭酸カルシウムとタンパク質を融和させながら成長していきます。最初は小さな姿から大人になっていくにつれて次第に貝も大きくなっていきます。

つまりこの手元にある巻貝は、この貝の一生を生きた証ともいえるものです。美しい海の中で仕合せに生きたこの貝の姿を眺めていたり触っていると私はいつも心が癒されその美しい貝の姿から海の中でどのように過ごして何を貝は感じて生きたのかというものが伝わってきます。一つ一つの曲線の美しさ、そして肌触り、手に収まるくらいの大きさ、そのどれもが飽きることもなく何度みてもうっとりするのです。

出会いは宮崎の日南の海で、仕事中に走っていたら海の中に光っているものがみえ、車を止めて石やサンゴがゴツゴツとした中での出会いでしたが発見した時の感動は今でも忘れることはできません。

もう一つの石英の勾玉もまた不思議な出会いでした。ある森の中の美しい水が流れている近くで微睡んでいた時に土の中に光るものを感じて掘り起こしてみたらそこにあったのです。ドロドロで真っ黒でしたが、水洗いしたら見たことのない緑色の美しい姿になり透明な光が出てきました。

これは数億年という単位で、水が薄く流れる鍾乳洞のような場所で少しずつカルシウムと水が融和してできたものです。水晶などは1㎜成長するのに少なくても100年かかります。数万年単位で水に溶けたシリカなどが固まって石になるのです。

つまりこの手元の石には億年単位の石の生涯があり、その美しさがあらゆる模様や姿形に出てくるのです。私はこの石に触れるたびに、その歴史やドラマ、地球内部での暮らしを感じて悠久の時を思い出します。

いつかは死に別れることもありますが、私の身体もまた自然物の一つで造形されたものですから違うものになっていくのでしょうがいのちの本体がなくなることはありません。

私たちが美しいと感じるものは、このいのちの本体に触れているからです。

私は芸術のことや専門のことはわかりませんが、美しいものは何かということは本能で感じます。人はみんな自然物ですから真の美しさがわかるはずです。自然物に触れて、一期一会に出会いつつづけることで美しい人生はさらに彩られていくものです。

日々の出会いを大切に、美しいものを見逃さないように丁寧に暮らしていきたいと思います。

甦生業

藁ぶき古民家の甦生もまもなく最終段階に入ってきていて家の徳が引き出されてきています。ご近所の方や通りすがりの車が止まり声をかけてくださいます。その声は、一様に「だんだんと家が善くなってきていますね、楽しみです」というものです。

それは動画で配信しているサイトのコメントでもたくさんいただき、身内や仲間からも喜びの声をいただきます。その言葉に励まされ、信念を強くして真摯に家に向き合って修繕を続けています。

考えてみると、人はみんな何かが甦っていくことに希望を感じるように思います。

もう御終いだと思っていたものが復活して、それがさらに以前よりも元氣になって美しく生命を輝かせていく姿に偉大な何かの存在を感じるように思うのです。

それは病気からの恢復、あるいは壊れた機械の修理、よくお手入れされた道具、これらのものに触れると人は善かったねと喜んでくれるのです。徳を積むということは、この甦えらせていくことに似ているのです。

今まで荒れ地で捨て去っていたものを甦らせてそこで作物を育て農地を役立てること、経験豊富な高齢者や職人たちが後世の若い人に技術を伝承していくこと、他にも古井戸や古民家を甦生して新しい役目を与えて人々を潤してもらうこと、こういうこともまた徳になるのです。

徳は事業ではなく、お金儲けではありません。なので無理にお金のためにするものではなく、みんなが喜び、自分も喜ぶことを真摯に取り組んでいくことに似ています。自他一体に全体が幸福になるというのは、自然循環の摂理であり自然の徳の仕組みでもあります。

この徳循環を支えるもの、それが「甦生」なのです。

甦生業が私の取り組みですから、甦生したものが役に立てるように場を創造していくこともまた使命です。挑戦すれば喜びも多いですが苦しみもまた同時に発生します。それを味わいながら、今、できることに真摯に挑戦を本気のままに続けていきたいと思います。

 

運気を磨く

昨日、久しぶりに田坂広志先生の講演を拝聴する機会がありました。新著「運気を引き寄せりリーダーの7つの心得」のお話が中心でしたが共感するものが多く学ばせていただきました。

想えば20年以上前に東京で田坂塾でお会いしたのがはじめてでしたが、ほとんどお変わりなく一期一会に真摯に講義されるお姿に生き方を垣間見させていただき刺激もいただきました。

あの頃は、「メメント・モリ」という死を想うという生き様を実践する大切さを語られていました。今日が人生最期の日と定めて生きていくことの大切さ、当たり前ではない時間に気づいているかという問いを発して一期一会に生きることを伝えておられました。

そして今回は「運気」ということでしたが、運は決して宗教的技法の祈りではなく、科学的技法としての祈りであると定義しています。つまり単なる神秘的なものではなく、これは実証されているという事実であると。現代、量子論を含め科学がその神秘の世界を可視化してきています。その時、これは単なる偶然ではないということがわかってきているのです。

それをあらゆる角度から分析し、リーダーというものの真の役割について語れています。古今、リーダーはすべて「運がいい」ということが絶対条件だといいます。その理由は、リーダーを含めた組織全体を導いていく使命があるからです。運がよくないリーダーについていけばいくらその人が良い人でも組織は運を逃して悲惨なことになることもあります。

運のよさというのは、その人だけではなくその周囲も幸運に導いていきますのでリーダーはその運気というものへの心得を持つ必要があるということでしょう。

田坂先生のいう心得の詳細は、GROBISのサイトで拝見できます。

私もいつまでも実践と改善を積み重ねて、運気を高めて子どもたちを導いていけるよう徳を磨いていきたいと思います。

渋い生き方

昨日、藁ぶきの古民家の壁に伝統的な渋墨の塗料を使い塗装していきました。松煙を使った黒い塗料ですが、塗った後の板の木目がまさに「渋い」感じてうっとりとしました。

この渋いという言葉は、室町時代の「渋し」が起源であるといわれ未熟な柿のような酸味、苦味の事を元来は意味していたといいます。

そこから「渋い」、現代でも「落ち着きがある」「趣がある」といった意味とし使用され、現代でも渋いことは格好良いものの一つとして使われています。

この渋さは、ただ見た目だけのカッコよさをいうのではないのは古民家甦生に手掛けてわかるようになりました。聴福庵では5年前に施した渋墨の板壁が今では本当に黒光りして磨き上げられた壁のように艶があります。

これは長年をかけて熟成されてさらに雰囲気があり格好よくなっています。渋いことに似た言葉に「いぶし銀」というものもあります。時間をかけて磨き上げられた美の魅力を表現する言葉です。

この「いぶし銀」は「銀」の持つ性質のことをいいます。一般的に金属の中には錆びていきますが「銀」の場合は、化学反応によって硫化し表面が硫黄銀で覆われていきます。すると黄味がかった色が黒へと時間をかけて色合い・風合いが出て魅力が上がっていきます。いぶし銀は、ピカピカするような輝きは失せまずがその分、「渋い」感じが出てくるのです。

この「いぶし銀」の持つ渋さや奥行きになぞらえて、「いぶし銀の活躍」などという言葉のように「魅力的な人」の代名詞になっています。

このいぶし銀の持つ、渋さは本物の実力を兼ね備えた人ということです。渋い人というのは、真の魅力を持っているということの意味でもあるのでしょう。私は、古民家甦生をするときによくこの渋い黒を用います。黒が好きということもありますが、私は正確にいうと熟成されていくのが好きなのです。なので発酵も大好きですし、時間をかけて醸成させていくのにもっとも興味があります。

9年物の高菜漬けを漬け続けるのもまた熟成されたものでしかでない芳醇な香りと品のある味を学ぶためでもあります。

「渋い」というのは、一つの生き方でもあります。

渋い生き方ができるように、伝統や日本人の美意識から学び、子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

温故改新

私はヨーロッパやアジアの国々の保育を視察し、色々と学ぶ機会がありました。特にドイツやオランダにはたくさんの示唆をいただきました。アジアではシンガポールも印象的でした。その中で、私は日本の保育とはどのようなものかということを保育環境研究所ギビングツリーを通して深めてきました。

世界の国々にはそれぞれの風土が異なるように、保育の環境も異なります。つまり、それぞれの風土がそれぞれの保育になっているのです。本来その保育をどこかの国のものをいれても、そもそも風土が異なるのだからうまくいくわけはありません。

もちろんその国の素晴らしいものは、観光を通して取り入れたとしても風土が異なるのだから同じにはなりません。善いところ取りをするには、それを解釈し自国の文化で調理して取り入れるという咀嚼する力がいるのです。

例えば、モンテッソーリであろうがシュタイナーであろうがそのまま持ち込んでも本質的には別物になってしまっていることもあるように思います。

そこで大事なのは自分の国の歴史をもう一度おさらいしていくことだと思います。その風土にどのような暮らしがあったのか、どのような文化を醸成してきたのか、環境を見つめ直していくことです。

そのうえで私たちが長い時間をかけて取り組んできたものを基盤に新しいものを取り入れていくのです。私が古民家甦生をして暮らしの甦生をするのもまた、基盤づくりの一つです。そのうえで、最先端技術やデザインやアートを取り入れるのもまた時代の潮流に合わせていくのです。

日々に新たに今の時代は今の世代がきちんと子孫たちに咀嚼して温故改新し続けていくことは今を生きる我々の使命であり責任です。そしてそれが真の自立なのです。

今の時代、自分で考えようともせず他人軸で他人の評価ばかりに合わせて依存している人が増えています。それでは仕合せにはなりません。そういう教育を施されてきて仕上がってしまえば仕合せは誰かが自分に与えてくれるものだと勘違いするのです。

本当の意味での勘違いとは、自分の仕合せは自分が決めるということです。そのためには、教育そのものを今の仕組みを改善して本来の真の豊かさに気づいて生きることに回帰する必要があると私は思うのです。

自分が本当は何をしたいのか、そして自分とは何か、主人公である自分を思い出し、自分であり続けることです。そのためは、日々の生き方をととのえていく暮らしから実践していくのが近道であろうと思うのです。

私が暮らしフルネス™を取り組む理由は、子ども第一義の理念があるからです。

子どもたちに、真の生き方、真の豊かさ、真の仕合せを生き、真に自立と協力をする人生を歩めるように少しでも今よりも善い環境を譲り遺したいと願っているのです。

初心に帰り、限りある人生を自分の使命に集中していきたいと思います。

尊重する世界

世界にはまだ100以上の外界と接触していない民族や部族があるといわれます。アマゾンの奥地であったり、山の高地であったり、あるいは孤島の中であったりします。そこには独自のユニークな文化や生活様式を発展させ、少数ながらもその風土に適した暮らしを実現しています。

グローバリゼーションの中で、世界はあらゆるところに行けるようになりあらゆる文化や生活様式を一変させてしまいました。工業製品などは、安くて便利なものがあらゆるところに行き渡りその土地の生活様式を変えてしまいます。

今までよりも便利なものが外から入ってくればそれが今まで風土に合った手間暇かかるものよりも価値があると欲を優先してしまうのでしょう。そうやって日本も江戸時代から明治にかけて西洋文化や工業製品などが膨大に流入してそれまでの文化を手放していきました。

特に若い人たちは携帯電話をはじめ、目新しい道具を使って力を手に入れることに敏感ですからあっという間に広がっていきます。そうやって世界はどこにいっても、同じような価値観の社会を広げてきたのです。

しかし同時に、外界と関係を断っていた民族は外からやってくる病気やウイルスに対する抵抗力もありません。なので、あっという間に蔓延して絶滅したところもたくさんあります。またその反対に、今まで関係を持たなかった地域の危険な風土病が世界に広がっていくということも発生します。

お互いを尊重してそっとしておくような関係が維持できれば、その場での平和は保たれるのでしょうが現代のグローバリゼーションはそこに資源を取りにいき、経済成長のために浸食していく仕組みですからそっとすることは不可能です。このまま最後は、世界のあらゆるところに隙間がないほどに入り込んでいきます。

そのうち、宇宙人というものを地球外に見つけそこに向かって移動していこうとするでしょう。そして現在の少数民族とのやり取りのように病気を持ち込み資源を奪い、また経済成長のためという大義をもって浸食していくということは簡単に予想ができます。

よく考えてみると多様性というものは、尊重されることで維持されるものです。尊重せずに浸食すれば多様性というものはありません。その尊重は、無理やり折り合いをつけるのではなくお互いの最適な距離感の中で見守りあっていくことであろうとも思います。これは自然界の仕組みそのものでもあります。

世界は、何で一つになるのか。それがいよいよ人類に問われている時代だと私は思います。

後悔しないように子どもたちの憧れるような生き方を譲り遺していきたいと思います。

結友の仕合せ

昨日は、また藁ぶきの古民家で結友の仲間たちと掃除やべんがら塗を行いました。大変な作業もみんなで助け合って取り組めば心地よく、家も人もみんなが元氣になっていく感覚があるものです。

また人は一緒に何かをすると、その人の個性や人間性が観えてきます。対面で相手の様子を伺うよりも、一緒になって作業することでお互いの特徴や人柄、そのほかの得意不得意などを知り、心が通じ合っていきます。

掃除の効能は、一緒に取り組むことでお互いを尊敬しあうことができることです。一般的には現在はすぐに比較や競争、評価ばかりが重んじられていてなかなかお互いを尊重して認め合うことができません。一緒にやるよりも、個々の専門分野の人の役割のように配置されているものです。しかし実際には、自分にはない多様な能力や個性がありますから力を合わせた方がいい仕事をすることができます。

ここでのいい仕事は、決して完璧に仕上げることではありません。豊かさやつながり、また楽しみや喜びを感じることができるいい仕事になるということです。一緒に取り組むというのは、それをたくさん味わう時間が持てるということです。

私は、結果よりもプロセスのタイプでみんなで一緒に取り組んだり、味わったり、振り返ったりする方が楽しいと感じるタイプです。終わらせることや目標を達成することだけがいいのではなく、そのプロセスが如何に豊かであったか、仕合せであったかを確認するものです。そのためには、お互いを認め合い、一緒に取り組むという体験を増やす必要があるのです。

それは別に能力があるかないかだけではなくです。昨日は、小学生や大学生が来ていたり、シェフや主婦の方などがそれぞれで一緒に作業しました。みんなで取り組むことで、その人の仕事ぶりが観えてうれしくなります。それはその人がここがダメだとか、ここは直さないととか評価は全く入りません。むしろ、下手でもその人が主体的に取り組んでいることが楽しいのです。子どもたちも最初はみんな上手い人はいません。みんな下手です。そのみんなが協力し合って取り組んだものは下手でもそこには楽しみや喜びがあります。それはみんなの心を通じ合わせて取り組んだからです。

本来の価値とは何か、それは人が仕合せになることです。その仕合せになるために、結果があるのだからあまり上手いとか能力があるかとかにこだわる必要は私はないと思っています。

なぜなら、それが認め合い尊重することになり慢心を戒め、人が謙虚に感謝しあい助け合うための基礎になっていくからです。本来の教育とは何を教えるものか、それは評価や比較ではないと私は思います。なぜならそれで幸福を感じにくいからです。幸福を感じるためには、みんなで下手でもお互いで教え合い知恵を出し合い許しあい、認め合い、助け合うことです。

結友の集まりはいつもそれを実感させてくれます。

こういうプロセスを経て仕上がっていく藁ぶきの古民家は心のふるさとです。子どもたちのためにも憧れるような生き方を増やしていきたいと思います。

ご縁を実践すること

昨日、35年前に近所に住んでいた先輩と久しぶりに再会するご縁がありました。小さいころにソフトボールやラジオ体操などを一緒にやったことを覚えています。思い返すと、小さいときは3つ歳が離れていたら大きなお兄さんです。

後輩や子どもたちの面倒見がよかった先輩のことは心のどこかで覚えているものです。35年も経ちなんとなく面影が残っていると、安心するものもあります。歳をとっていくと3つの歳の差などほとんど気にならなくなってきます。

縁あって再会し、同じテーマで話ができたり、それぞれに困難に挑戦している共通点を感じると不思議な時のつながりを感じるものです。

人間には、ご縁というものがあります。

どのようなご縁で結ばれていくかで、日々は変化していきます。ご縁には場所とのご縁もありますが、時機とのご縁があります、そして人とのご縁です。

最初からその場所、その時、その人と出会う運命であったのではないかと振り返ると思うことばかりです。私は、日々に様々な方々とのご縁がありその時々でそのご縁に対処していきます。時として、あれは夢ではなかったかなと思うようなご縁もたくさんあります。

心の余韻にいつまでも残るような仕合せなご縁もたくさんありました。また同時に、傷つけあって一つの絆になったご縁もたくさんありました。あの人たちたちは今、一体どうしているのだろうかと思っても今は連絡も取りようもありません。ただ、未熟者同士で磨き合った思い出が遺っているだけです。

そういうご縁は、その後の人生でさらに深くし輝かせていくことができるものです。それはご縁を大切にするということに尽きるように思います。人のご縁は意味あって存在し、自分が如何にそれに執着しても思い通りにはならないものです。思い切って諦めてみることで、自分に相応しいご縁が訪れていることを自覚するものです。

それもまたご縁を大切にする一つの実践ということでしょう。ご縁を如何に大事に過ごしていくか、それは日々の内省によります。一期一会に生きるというのは、先人の遺してくださった大切な文化であり生き方です。

子どもたちのためにも、日々のご縁を内省により紡いでいきたいと思います。

 

ゼロウェイストの理念

先日、友人から「ゼロ ウェイスト」の徳島県上勝町の取り組みの動画を拝見する機会がありました。美しい町や村が汚されないようにゴミをゼロにするという活動そのものが故郷を守る気持ちと合致して美しい風景になっているようにも感じました。

美しい場所には美しい人たちがいるというのは、原風景を守るために何よりも重要なことかもしれません。少しこのゼロウェイストというものがどのようなものかを深めてみたいと思います。

日本大百科全書(ニッポニカ)にはこう書かれています。

「イギリスの産業経済学者マレーRobin Murray(1944― )が提唱した概念。2003年(平成15)7月に、マレーの著書『Zero Waste』の日本語版『ゴミポリシー――燃やさないごみ政策「ゼロ・ウェイスト」ハンドブック』(グリーンピース・ジャパン翻訳、築地書館刊)が出版され、日本でも注目された。「ゼロ・ウェイスト」とは、ごみを焼却、埋立て処理をせず、資源の浪費や、有害物質や非再生可能資源の利用をやめて環境負荷を減らしながら、堆肥(たいひ)化などの物質回収や再生可能エネルギー利用、リサイクルによって、ごみをゼロにする考え方。「ゼロ・ウェイスト」の目的はごみの発生回避であり、エネルギー消費が少なく、環境負荷が少ない自然代謝を最大限に活用した社会を目ざしているといえよう。」

ゴミを発生させないためにどうすべきかをみんなで考えて取り組むという概念です。これは解体業の方などはみんな仰っていますが、焼却できないものをつくるせいで捨てることができずに大変なことになっているといいます。保健所が細かく分類わけするように指導が入るといいますが、とても分解できるようなものではない状態で解体されていくのでゴミを処分する方法が末端になればなるほどできないのです。

例えば、原発などの放射能などはその最たるもののように思います。何億年も処分に困るものを大量につくり、捨てるところがないので国家や自治体間で押し付け合ったりしています。福島原発の燃料棒なども、冷却した水なども捨てることすらできません。ゴミの究極の姿ともいえるあれは、実は身近なゴミ問題でも発生していて捨てられないものが増えているのです。プラスチックゴミなども同様に、海洋汚染、空気汚染、この世はゴミだらけになっています。また、続けてこうも書かれます。

「ゼロ・ウェイスト」の三大目標として、(1)有害物質を排出しない、(2)大気汚染を生じさせない、(3)資源をむだにしない、が提唱されている。また、「ゼロ・ウェイスト」の重要なポイントである4Lとは、Local(地域主義)、Low cost(低コスト)、Low impact(低環境負荷)、Low technology(高度の技術にたよらない)を意味している。1996年、オーストラリアの首都キャンベラが初めて「ゼロ・ウェイスト」を政策として採用し、その後ニュージーランド、北米やヨーロッパなどの各都市に広がっていった。」

有害物質を出さない、大気汚染をさせない、資源も無駄にしない、この3つがあるかどうかを確認するということです。そのために、地産地消、自然循環、文明の化学をあてにしない、エネルギーを大量に消費しないということを重んじています。

本来の日本の里山のような状態を目指そうということでしょう。美しい風景は、自然との共生と循環の中にありますからこの取り組みの姿として理想は里山ということになります。

私の故郷にもまだ棚田が遺っていて、藁ぶきの古民家を甦生していますがそこにはまだ日本の原風景の気配が遺っています。本来、そういう場所には「結」という組織もあり人々が助け合い美しい風景を創造し守り続けてきました。

ある意味で私が取り組んでいる暮らしフルネス™も、このゼロウェイストの理念に共通するものがあります。そもそも自然が分解できない人工的なものを極力避けるのは、それはほかの生き物たちの暮らしを阻害しないということでもあります。

人間だけがこの地球に住んでいるのではなく、この地球は無数無限の生き物たちがお互いに自由な環境を与えられて暮らしを豊かに営んでいます。すべてのいのちがみんなが幸せを感じて豊かになれるようにするには、人間が中心の人間だけの世の中にしていかないことが肝要です。

すべての生き物たちが喜び暮らしていけるように、自然との共生や循環をさらに実践していきたいと思います。

子どもが憧れる社会

人は信頼する仲間がいることで強くなれるものです。一昔前の教育では、強くなることは誰にも頼らずに自分で全部できる人になることでした。一人でなんでもできるようにならないといけないと、学校では指導されたものです。

実際には、今でも宿題は自分一人、学校でも教え合わないでと指導している教育をしているところばかりです。先生が一方的に一人で教壇にたって生徒に指導する。生徒は自分で正解を探して答えを出す。この正解があるところでの勉強というものは、一人で全部できないといけないのでしょう。

しかし世の中に出てみたら、ほとんどのすべてが正解などありません。正解があるような勉強もありません、なので正解を持っている人ばかりを探している人は裏切られる毎日を送るものです。正解などはないと開き直っている人から、試行錯誤することや意味を深め学べるということをはじめていくものです。

そこで正解がないとわかってしまうと、一人でできないことがわかってきます。言い換えれば正解がないというのは、やっていくことがすべて答えになるということです。その答えを生きるなかで協力し改善し、よりよくしていくことが人生ということになってきます。

その時、信頼できる仲間がいるかどうかは何よりも重要になってきます。そして信頼というのは、頼れる人がいるかということです。心を開いて素のままで弱音が話せ、助けてもらえる人がいるということは信じる姿の一つです。

信念でやり遂げようと必死に取り組んでいるからこそ弱音が出せない人もいるでしょう。それを共感し察知し理解して手を指しのべる人もまた信頼し合っているともいえます。お互いの弱音や本音を言いえるほどの信頼関係があるというのは、心を安んじることができるものです。

安心できる関係があること、それが信頼関係です。お互いが安心して本音本気で一緒に取り組める場には、居心地のよさと共に不思議な力が宿るものです。

これからも未来のふるさとの甦生のために子どもたちの憧れるような社会づくりをしていきたいと思います。