祈りの喜び

昨日は、英彦山にある烏尾観音堂のお手入れと甦生を遺志を持つ方々のご家族と一緒に行うことができました。法蓮上人が観音霊場をはじめたとされるとても大切な場所で、この場所を守り遺そうとする方々の想いに触れることができました。

場所というのは、単なるplaceではなく、そこには今も生き続けている歴史がある場です。場というのは、想いが宿る場のことです。何百年と連綿と続けられ人が祈り続けていた場所には人々の想いが生き続けています。最近、場の量子論をはじめ量子力学の解明によって場は空であるけれど空ではないということ。つまり中庸として目に見える物質的なものと、目にはみえない不思議なものが共に存在することが観えてきています。

今の時代は、物質文明で物質主義ですから目には見えないものは怪しいと思われます。しかし、本来、空気も気体も、風も光もよくよく科学で観察したら目に見えないものの集合体であることは誰でもわかります。むかしの人たちは、その目には見えないけれど、五感や六感で直感的にその存在を感じとる感性を研ぎ澄ませていたように思います。

その一つが、祈りというものです。

祈りに触れるためには、自分をまず清浄にしていく必要があります。その清浄になるには、色々な澱みや穢れを洗い流す必要があります。つまりは、自分の心や目が何か清浄であるか、何が透明であるかを感じる感性を研ぎ澄ます必要があります。そのために、人は己を磨き、場を磨き、志を磨き合うような関係によって場を調えるのです。

場を調えれば、自然に目には見えないけれどそこに生き続けている何かに触れることができます。昨日も、みんなで徹底して掃除をしお堂を磨き、清らかに無心に没頭することによって瞑想のような心地で磨き合いました。磨き合うことで、心は研ぎ澄まされ、晴れやかで清らかな気持ちになって喜びを分かち合いました。

本来、私たちは嬉しい仕合せ、楽しい感謝しますという心地のときに祈る喜びを感じるものです。祈りというのは、つらいことや悲しいこと、大変なときだけにするものではなく、日頃の喜びを味わうように行うものです。

偶像崇拝のように形ばかりを祈るのではなく、自分の心の中にある真の喜びに触れる祈りがこれからの時代には必要になってくると確信しています。子どもたちに伝承が結ばれ、子孫たちが喜びに生きられるように丁寧な暮らしと甦生を続けていきたいと思います。

天地自然の学問

早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきます。鳥はなぜ鳴くのか、それぞれに縄張りを知らせるからや雌への求愛からなど一般的に言われています。私たちはほかの生き物を認識するとき、人間が特別で別の生き物は別のもののような認識をします。

しかし実際には、目もあり耳もありそして手足もあります。共通するところをよく観察すると似ているところがとても多いことに気づきます。違いばかりを探すよりも、似ているところを観察すると自分というものと同じところがあることを認識します。すると次第に、その生物のことを深く感得していくことができるように思います。

そもそも多様性というものは、尊重するために必要な言葉です。生物も何らかの天性や個性があり、固有の意識や魂もあります。それぞれに意味があって生まれてきて、この自然界の中で大切な役割を果たしていきます。それを尊重しようとするのが多様性を理解する本質だと思います。

鳥もまた、季節ごとに活動していますが自然の役割があります。その役割をよく観察するとき、豊かに生きることや仕合せであることなどが共通していることに気づきます。

鳥が鳴くのは、私の感覚では感情があるからです。単なる合図だけで鳴いているのでもなく、対話をするだけではなく、私たちが自然に感情がこみあげてくるように鳥にも同じように感情が湧きます。私は烏骨鶏を長いこと飼育していますが、その日その日の感情で鳴き声が微妙に異なっているのがわかります。悲しいときには悲しい鳴き声を発し、怖がっているときには怖がっている鳴き声を発する。自分の感情を鳴き声で伝えているのです。

私たちの体は感情を伝えるように機能が発達しています。例えば、目というもの。目は口ほどにものをいうともいわれますが目は自分の感情をそのままに現わします。鳥もまた同じく、苦しそうな時には苦しそうに目が表情を映します。楽しそうなとき、うれしそうなときも同じように表情が出てきます。

そしてこれは鳥に限りません、犬にも猫にも同じことがいえますしもっといえば、虫や植物にも同じことが言えます。つまりこの「感情」というものは、この地球のすべてのいのちに宿っている共通のものということです。

私たちは変に勉強しているうちに細部がわかっても全体がわからなくなっていきました。本来は、自分と同一であるということを忘れて人間だけが特別かのように勘違いしていきました。ここから学問は崩れ、専門家たちのものになり本来の天地自然を尊敬し尊重するという意識が薄れてきたように思います。

本物の学問は、天地自然を相手にするものだと私は思います。古来の普遍的な大道を生きた先達たちような生き方をこれから結んでいきたいと思います。

暮らしの甦生

人は真理というものを外に求めていく人と内なるものに求めていく人がいます。それぞれに外にも内にも見出せるのかもしれませんが、そのアプローチが人によって異なるものです。実際には外側にあるものを信じさせるようなことが多いと、偶像崇拝のようになって形式的なものになっていきます。本来は、形にこだわるよりも中身だということがわかっていても中身がわからないからより外側にまた推し進めていくように思います。

形にこだわりすぎると中身が薄くなっていき、中身にこだわりすぎると形がなくなっていくということは往々にして行われていくことのように思います。それではどうしたらその両輪、総合的にバランスよく行われるかといえばその中庸というか中心の実践によるものだと私は思います。

例えば、自然というものがわかりやすいものです。自然というものは形もありますが中身もあり真理もあります。私たちが自然に沿って自然と一体になって暮らしていると、何が自然で何が不自然かということがわかってきます。旬なものは旬なものしかないし、変化し続けて変わらないものはありません。人工的な生活をしていたら、不便なことばかりですがそれは中身と形が不自然になっていた証拠に気づかせてくれます。

空調がなければ、自分の体の方をコントロールするしかありません。その時、呼吸をはじめ心身を調えることに意識を向ければ真理というものが自己の内面に具わっていることに気づきます。ヨガなどをするとそれを感じられるのも同様のことのように思います。また自然農で畑をすると、自然の植物や生き物たちがどのように生育して活動するのかで外側との共生や調和に真理が顕現します。自分もその生命圏の一部として営みを共にしていくなかで真理と一体化していきます。

この真理という言葉は、宇宙や自然の道理とも言えます。別に教科書や文字で真理を理解しなくても、山にいき一日、山で暮らしてみれば自然にその道理や調和を学べるものです。

私たちは知識によって真理を得る方ばかりを優先してきましたが、そのせいで当たり前の徳の存在や、自分に与えられている様々な知恵を忘れてしまっています。そういうものを思い出すことは、これからの時代を生きていく子孫への偉大な伝承になっていくように思います。

時代が変わっても、普遍的な真理をどうそのままに継承するのか。そこに私は、暮らしフルネスの役割があるように感じています。本来の先人から伝承されてきた本物の暮らしは、実践するほどに自然に内外と結ばれ真理と調和していくからです。

暮らしを甦生して、本物を伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスの体験

楽観的な意識というのは、足るを知る心と通じているものです。私たちはすでにあるものに感謝しているとき、充たされています。一つの型としての暮らしフルネスはその意識の実践ともいえます。

どのような状況であっても、すでにある方に常に感謝を忘れていない。いただいているすべてに感謝できているというのは、常に今を楽しく味わっているということになります。これが楽観的であるということです。

おかしく聞こえるかもしれませんが、不安や迷いや心配、悲しみも苦しみもそして怒りも、本来は味わえるものです。どのような気持ちを今、自分が感じているのかということを味わえるというのはそこに感謝があります。

感謝というのは、何かしてもらったり、得られたりするときにするもののようになっていますが実際にはすでにあるもの、具わっているもの、その徳に対して行うものです。

例えば、味わえるというのは体がなければ体験できません。そして感じられる環境、宇宙や自然がなければその場もありません。さらに物語というのは関係性やご縁が結ばれていなければつながりません。これらは自分で創ったのではなく、最初からあるものをいただいているのです。

こういう初めから存在する徳に感謝している状態こそが、私たちが仕合せを感じている根源ということになります。そしてその徳に報いるというのは何か、それは感謝して前に一歩進めて道を歩んでいくということです。

前向きというのは、楽観と意味が同じようにいわれますがこれもまた感謝の別の顕現したものです。

暮らしというのは、そういう意味ではその徳がすべて具わったものです。この意識や感覚を私と一緒に体験するというのが暮らしフルネスの体験の意味でもあります。それは頭や知識では教えられませんから、体験するしかありません。しかし人生の大切な節目や、本来の自分の魂や天命を見失っているときなどは非常に得難い邂逅になります。

日々の過ごし方のなかで、どのような学びをするのかはその人次第ですが誰と一緒にやるのかというのはまさに徳が結ばれているからでしょう。子どもたちの今と未来のため、子孫の仕合せのためにこれからも味わい深い暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

場を思い出す

昨日は、暮らしフルネスで自然農の体験をしたいという方がきて夏野菜の畑を一緒に取り組みました。はじめてこれから農的な暮らしをはじめるとのことで、何もしたことがなくてもやる気はとてもある方でした。

思い返せば、私も幼いころより祖父の手伝いで畑にはよく連れていかれましたが自分が本格的に野菜やお米をつくるようになったのはまだ十数年くらいなものです。しかも仕事をしながらの隙間時間でだったので、失敗も多く、思ったようにならないことばかりでした。

今では、野菜の性質をしり、土を理解し、風や水の通し、虫や動物への対策なども体験し自然に畑をつくり収穫をしています。しかも、どうやったら美味しく食べられるかも学び、自然農家のような暮らしができるようになりました。合わせて、今では山での暮らしもはじまりもう一歩前に進めて山での暮らしを体験しています。

みんなはじめは初心者です。誰が偉いとか、誰がすごいとかではなく、あのすごい人も偉い人もみんなはじめては初心者です。それを継続していくなかで、様々な失敗や成功を繰り返し実力が磨かれ結果としてできるようになります。

初心者だからダメではなく、いつかはできるようになる人のことを初心者というのです。私も現実的には、不可能と思えるようなことをたくさん体験してきました。特にはじめてやるときは現実に直面してたじろくこともありました。

しかしそれでも周囲に支えてくれる人や、見守ってくださる方が顕れ気が付くとできるようになっていました。こうやって人は、思いがあれば仲間が集まり伝承されることで継承されていくのです。

特に土を触ることや、野菜を育てることはもう何千年も前から私たちの先祖がはじめたことを私たちは今も取り組んでいることになります。できないはずはなく、忘れているだけです。

忘れているものを取り戻すことこそ、私は真にできることであろうと思います。問題は、どのように思い出すかということです。子どもたちのためにも、思い出すことが忘れないように場を調えていきたいと思います。

暮らしフルネスの日々

昨日から英彦山の守静坊で結の人たちと一緒に仙人苦楽部と古い参道をお手入れしています。もともと、私はこの仙人苦楽部はイベントのようにしたいわけではなく日々の暮らしの中で知恵を持った人たちと共にすることでその生き方や先人からの遺徳、さらには叡智を子孫へ伝承していこうとする活動になります。

今回は、長年放置され誰も通らなくなってしまった古道が土砂や枯れ木、水害などで破壊されていてそれをもう一度甦生し、参道を歩けるように繋ごうとする活動です。

もともと道が廃れるというのは何か。

これは道を歩かなくなるからです。道が歩かなくなるのはなぜか、それは本来の道がわからなくなるからです。本来の道とは、いにしえのむかしからどのような心でその道を歩いたか、その人たちが通り続けるところに本当の道があるのです。

この道を甦生しようとするのが私の試みです。

そして道を甦生するには、どのような心であるか、どのような精神であるか、どのような姿勢、どのような生き方、どのような働き方、どのような人たちかということがとても大切になっていきます。

心を一つに合わせて、道を甦らせていくのです。

有難いことに、この道を甦らせたいという声をかけたら有志が集まってきます。その人たちは、損得度外視で徳を積むことを喜びに参加してくださいます。そういう人たちとこの人生で出会い、そして共に汗を流し、一緒に喜び合う時間はまさに真の豊かさと邂逅があります。

道は途絶えたのではありません。

道を見失っているだけです。そして道は見失ったらもう一度、みんなでこの道だったかと探し出せばいいのです。そして道が見つかったならそれをお手入れしてもう一度歩き始めればいいのです。そうしているうちに、道が踏み固められまたむかしの道が新しくなり道の続きがはじまります。

参道を甦生するというのは、どういうことか。また英彦山やお山から教えていただきました。心から感謝しています。皆さんと一緒に参禅し、穏やかな気持ちで感謝し合える暮らしはまさに道そのものを再発掘できます。

暮らしフルネスな時を、今日も過ごしていきたいと思います。

憧れる生き方

子どもの憧れる社会の一つに、仕事観というものがあります。将来、自分は何をして生きていくか、それが自分の仕合せや喜びにどうつながっていくのかということをわくわくと取り組める社会のことです。

日本は、義務感や責任感が仕事をすることの基本として教えていてあまり楽しそうにしていたり、自由に働いていることを良いことのようには教えません。特に学校というところもハードな仕事で残業もなく、精神疾患などが増えているということもよくニュースで流れています。

本来、憧れる職業の上位にあったものが今ではハードワークの代名詞のようになり担い手も減り、子どもたちもその仕事を夢とはしなくなりました。子どもたちにキャリア教育を指導することも大切かもしれませんが、本来は自分たちがどれくらい豊かに幸せに楽しく働いているか、そんな環境を調えているかということに向き合う方が先ではないかと私は感じます。

そういう私も、日本の社会のなかで目立つとすぐに色々と厳しい指摘があります。どれも有難い言葉として受け取ってはいるものの、子どもたちのこの先の行く末のことを思うと本来はもっと寛容な部分があってもいいのではないかと思うのです。

みんな勇気を出して、人と異なることをしてでも世の中のお役に立ちたいと思っているものです。しかし何か新しいこと、理解できないことをやろうとするとすぐに否定されたり、クレームが入ってきたりします。もちろん、新しいことをやるには秩序が乱れることもありますがそれでも何のためにやるのか、その初心が何か、目的がどうなのかを聴いてみるとそれはこの先の未来に必要なことだったりすることがほとんどなのです。

そういう時は、文句を先に言うのではなくどのようなフォローができるだろうか、どのように見守れるだろうかというのが大人の対応ではないかと感じるのです。子どもたちが同じようなことを挑戦し、新しいことをして世の中や社会をよくしたいと夢に挑戦するとき、自分はどちらの大人でありたいか、どうせ無理だと諦めるように促すのか、それともやったことは必ず意味があるから、フォローしたりカバーするから挑戦してみようと励ますのか。私は、これからを生きる子どもちたちが理想の社会を築いていけるように見守りたいと思うのです。

人は自分が仕合せでなければ、人の仕合せを喜べません。まずは自分自身の幸福、仕合せを感謝で磨いて高めていかなければ他人の成功や成長を支援できないように思うのです。

だからこそ、このいま、この瞬間を大切に夢を生き、夢を味わい、苦労ができる有難さや挑戦させていただける喜びに感謝していくことからが子どもの見本になるように思います。

まず正しいことを教えるよりも、喜びを感じてもらうことの方が生き方は換わるものです。引き続き、子どもたちの未来のためにも自分の生き方で力になれるように精進していきたいと思います。

本来の伝承

修験道のことを深めていると、時代の変遷を経て様々なものが混淆していることがわかります。はじめは山からはじまり、その山で修業し暮らした人たちが持っていた様々な知恵が里の人を救うための仕組みとして伝道していきました。本来の根源的なものは何だったのか、そういうものに触れることで私たちは歴史から原点を学び直すことができるように思います。

ざっくりですが、修験道をはじめすべての神仏混淆したものはそのはじまりは日本の場合は自然崇拝からはじまります。自然と自分と結んでいるもの、自分の心身を構成しているものとのつながりの中にいのちや、その存在の妙を直感し、自然にいのりはじめたことがはじまりです。縄文時代の遺跡や文化にも、祭祀を行い、自分を活かしているもの、自分のいのちを存続させてもらえる有難い存在、それはご先祖さまを含めて大切にいのり続けたことからも理解できます。

それが時代の変遷を通して、数々の人たちとその時代の価値観と融合してあらたな信仰として変化してきました。自然崇拝からの巫女さんたちが神道に混ざり、そして仏教が入り尼になりと、様々な暮らしの中で信仰が結びついてきました。さらに、政治的な宗教も入り、共同体としての豪族から領主的なものとしての統治に代わるなかでまた組織ができ、信仰も形を変えていきます。また明治に入り様々な宗教が区別されていくなかで、混淆していたものを分類わけして今に至ります。

本来の始まりはどこかということも、今であまり重要視されていません。しかし私は、分類わけして複雑になってそれがいがみ合うほどになっているのなら原点回帰することが自然ではないかとも感じています。それもまた自然の仕組みの一つだからです。

自然というのは、はじまりから終わりまで循環を続けます。ただその循環は何が循環しているのかということが重要です。自然界であれば、いのちが形を変えて循環を続けます。そのいのちがまるで水のように移り流れることで、私たちは生き続けて活かし続けられていきます。

本来のいのちがあるものは、そういう原点や根源的なものを失ってはいないものです。今の時代は、物質文明でいのちを物として扱い、便利さや効率を優先して経済効果を最大化するという仕組みで成り立っています。だからこそ、原点や根源的なものをあまり意識することもなくなってきました。

しかし、山は変わらずに今私たちの前にあります。その山と対話することは、今の私たちが忘れてしまっている原点や根源を思い出す大切な機会になるように思います。

子どもたちのためにも、はじまりから学び続ける姿勢を伝承していきたいと思います。

変化の正体

私たちの日常は同じ日々、同じものがあるように感じられていますが実際には同じというものは一つもありません。同じであるものを探しても、いくら同じ型で大量生産したとしても同じではないのです。時間もたてば、そこで使われている材料やタイミングも異なります。そしてそれに触れた時点で、また同じものではなくなります。

ミクロでみても、人間や生き物も細胞一つ一つは常に入れ替わっていきます。体にいる菌においても、あらゆる組み合わせで一緒に生きています。同じということはありません。またマクロでみると、私たちの地球も時速1,600kmで自転しながら、太陽の周りを時速10万kmで公転しています。しかも太陽系は銀河系の軌道を時速85万kmで公転し、銀河系は膨張する宇宙とともに秒速630km(時速約216万km)の速度で移動しているともいわれます。

止まっていると思っている時間や場所であっても、私たちは猛スピードの中で遠くへと運ばれている最中ということで同じ時、同じ場所はないのです。常に一期一会であり、二度と同じ今はないともいえます。

しかし人間は、妄想というか概念の中に同じものを無理やり構築していきます。同じではないことにクレームを出したり、いつまでも同じ状態が続くことが当たり前だと思ってしまうものです。健康も、いつまでも元気だと錯覚していますし空気や太陽などもいつまでもあるものと思うものです。

それが時として災害や病気、死に直面した時などにバグが発生します。こんなはずではないや、こんなことが起きるはずはないと思うのです。しかし、よく考えてみると同じような日々が送れることが奇跡そのものであり、同じであると思えることが当たり前ではない有難いことであることがわかります。

同じものはないからこそ、同じようなものに感謝の気持ちが湧いてきます。

この今も、今日も、同じようにあることが如何に奇跡であるか。そういうものに気づく感性は、変化に気づく感性ともいえます。変化し続けているものに合わせて、自分も変化させ続ける。そうやって万物は全体と調和し続けています。先ほどのミクロであれば、体の変化に意識を合わせていくこと。そしてマクロであれば銀河や宇宙の動きそのものに意識を合わせていくこと。

人間は自分の都合で変化をやめるとき、知恵から離れます。知識というものは、意識の固定に役立つのであり知恵の活用にはほとんど役に立ちません。私たちの感覚というのは、それだけ変化に適応するように備わっているということです。

この世の中は、感覚といのちが構成されているもので本来は成り立っています。そういういのちの繋がりやいのちの変化にいかに感覚を研ぎ澄ませていくか。これからの時代、人間が社会を切り取って同じであると洗脳する意識のなかで本来の変化に適応する力がそれぞれに求められるはずです。

こういう時代だからこそ、先人が研ぎ澄ませてきた感覚を大切にしていく必要を私は感じます。子どもたちにも感覚の大切さに気付いて、それを磨き直していくための環境をととのえていきたいと思います。

シンクロの知恵

人は、仲間と一緒に協力するときにシンクロするものです。そのシンクロとは、一緒一体になっているということです。一つが全体になり、全体が人格を持つということでもあります。会社というものも同じく、一つの法人格というものを持っています。そこで働いている人たちが、どのような人物たちであるか。その会社の一人一人の人格が集まって会社というものの人格がにじみ出てくるものです。

いい会社というのは、文字通りいい人たちがいる会社です。そのいい人たちというのは、崇高な理念を持ち、日々に自己との対話と研鑽をし、ともに支えあい、助け合い、思いやりそれが会社の文化にまで昇華されている存在です。

そういう法人で働けるということは仕合せなことです。と同時に、シンクロしていくためにみんなで精進していく一人になるということでもあります。人間はそれぞれに持ち味がありますからその得意を伸ばし、短所を補い合いながら折り合いをつけていきます。

いつもある人だけが前線で活躍しているのではなく、縁の下の力持ちの存在もあってはじめてシンクロします。このシンクロという言葉は、シンクロとは英語 synchronize 同期する、タイミングをあわせる、同時に起こる」 に由来する語から来ています。

似た言葉には、阿吽の呼吸、以心伝心、共鳴、呼応などがあります。これは気持ちを合わせたり、心を通じ合わせたり、お互いに共感同感したり、よい組み合わせを合致させたり、協力しあうときに使われる言葉です。

スポーツでも、会社経営でも、人間が何かを誰かを集まって行うときにはこの協力が他力を引き出し、幸運を呼び寄せる知恵になります。太古のむかしから人類は、このような知恵を持ち、その知恵を活かしてきたからここまで生き延びてこれたように思います。

子どもたちが憧れる生き方、お手本になれるような取り組みは、日々の過ごし方、働き方から見つめていけるものです。引き続き、大切なものを優先し、いい会社に近づけていきたいと思います。