伝統の魂

現在、英彦山の宿坊での暮らしを調えていくなかでかつてその場所で行われていたことを一つ一つを甦生させています。その中で、学び直すことが多く私たちの先人たちがどのような伝統を創造してきたかも気づき直しています。

知識というものは、先に持つこともできますが実際には後で持つ方がためになります。何のためになるかといえば、革新するときのためになるのです。先に伝統を学ぶのではなく、先に伝統に親しむ方が後から変化させることが容易くできます。

私の場合は、場から学び、そのものから理解する癖があり体験を重視し気づきを尊重するので知識が後になることがほとんどです。このブログも、後の知識であることがほとんとで先には親しむだけです。この親しむというものも、素直さが必要でありよくそのものに使われるような謙虚な気持ちがなければなかなかそうならないものです。

よく考えてみると、幼い子どもたちは先に知識がありません。そのものからよく使われているうちに次第に知識が集まり習熟していきます。発達というのは、そのものであるということでしょう。

また伝統というものは、誰かがそれをはじめに創造してそれが時間をかけて繰り返される中で育まれていくものです。しかし気が付くと、形ばかりに囚われて中身がないものがたくさん出てきます。この時の中身とは何か、それは魂ともいえるものです。

かつて柔道の父といわれる嘉納治五郎氏が「伝統とは形を継承することを言わず、その魂を、その精神を継承することを言う」と仰っていました。まさに私も全く同感で伝統だけを保存することに何の意味があるのかと感じます。保存というのは、活かすことであり単にショーケースに居れたり形だけを保ち続けることではないのです。

そこには魂が宿るのですから、その魂を受け継ぐことが真に伝統を革新しているということになると私は思います。

また南方熊楠がこうもいいました。「森を破壊して、何の伝統ぞ。何の神道ぞ。何の日本ぞ。」と。そもそも伝統が最優先ではなく、子孫や自然を如何に守るかということでしょう。その手段としての伝統や神道などがあるということでしょう。

そもそも何のために伝統があるのかを考えれば、そこには守りたいものがあるからでありその守りたいものを守るところに魂があるということです。

伝統の魂を守ることを伝承ともいいます。伝承には純度が必要でそこには魂が宿っていることが最低であり絶対条件でしょう。周囲がどういおうと信念をもって実践できるかどうかが志の登竜門ということでしょう。

引き続き、子孫のためにも英彦山で伝統の革新を続けていきたいと思います。

墨の智慧

昨日は、英彦山の守静坊で8回目の仙人苦楽部を行いました。今回は山水画の仙人でしたが4時間ほどの知恵を共にしましたが深い体験ができました。参加した方々はみんな山水画ははじめてでしたが、そのどの画にもその人らしさをはじめ場で得た境地を拝見することができました。

最初は仙人からの山水画とは何かという話にはじまり墨の濃淡のこと、筆の持ち方、そして画き方などの基本についてのお話をいただきました。とても謙虚に、山水画の楽しみや喜び、画の持つ妙味を全身でお伝えいただきました。

そしてみんな画への苦手意識など全く気にならず、それぞれが没頭してテーマに対して楽しく集中して画き楽しみ喜びあいました。守静坊英彦山の場の力もあり美しい新緑の光や風に見守られ一期一会の山水画のお時間を過ごしました。

また仙人がライブでこの英彦山と守静坊と仙人を即興で画きあげてくださって、その雰囲気にみんな深く魅了されました。

私たちは画いてみるときはじめて深く観察します。ただ見ているのと観ているのとではまったく異なるということ。そして美しさや自然というものを感じるのは、相性がありその相性そのものを通して和合していく豊かさ。さらには、現実にこだわらず理想を自由に画くことの大切さなどの素晴らしさを学び直すことができました。

私は炭大好きですが、この墨も同様に深く愛しています。この墨が画く濃淡には、火の心があります。この火は、消えているようでも墨に残存しているものです。その火を、水で濃淡を調整してそこにいのちを宿します。まさひ火水(カミ)の業です。墨はその神がかる力があるのを直感します。

この墨を用いて画くものは、私にはとても相性がよさそうです。これから少しずつ仙人から学んだ知恵を掘り下げて、場をさらに磨き上げていきたいと思います。

ありがとうございました。

暮らしフルネス 掃除の意味

暮らしフルネスの中では、よく掃除をします。掃除というよりもお手入れという言い方の方が多くしますが、これには色々な理由があります。また道具もむかしの日本の職人たちがつくった和帚を使います。現代は、箒も中国産や東南アジア産ですぐに壊れますが安いものがたくさんホームセンターで販売しています。便利ですがすぐに傷むのでどうしても使い捨てになります。さらには掃除機が普及したことで、余計にむかしの道具は消えています。日本で箒職人さんというのはほとんど見かけなくなりました。

手間暇かかる自然の道具は、時間も労力もそして技もいるので安い海外産が入ってくるとどうしても駆逐されていきます。畳なども同様です。しかし畳の時も同じで、伝統の和のものは本来は日本の風土を活かした風土と一体になった暮らしの中で循環する大切な暮らしそのものでした。

日本の暮らしを味わうためには、先人の生き方に倣いその先人の知恵を尊敬のままに活用することで感得できるものです。そういう意味で、掃除というものは知恵の宝庫です。

もともと掃除という言葉の由来を調べていると、中国からのものであることがわかります。この時の掃除は、廟の中を祓い清めるために行いました。もともと箒というという字も「ほうき」は「ははき」の音が変化したもので「ははき」は、古くは鳥の羽を用いたところから「羽掃き」となったとあります。その道具は棒の先端に細かい枝葉などを束ねて取り付けたものです。

これを「帚(そう)」と呼び、そこに酒をふりかけるなどして廟を神聖に保ちました。この字に竹を冠したものが「箒」でその異体字として「草」を冠した「菷」の字になりさらに「手」にとって廟の中を祓い清めたら「掃」となります。そして「掃除」の「除」は“あまねく”という意味で、神聖な場所を余すところなく掃き清めるということです。

特に禅宗では「一掃除二信心」というように掃除こそすべての修行の先であるともいわれます。和箒となると、神道ではもともと箒神(ははきがみ)という産神(うぐがみ、出産に関係のある神様)が宿ると信じられていました。古事記にも「玉箒(たまほうき)」や「帚持(ははきもち)」という言葉で表現され祭祀用の道具として用いられていました。

それだけ掃除や箒は、神聖なものということでしょう。仏教でも周利槃特といって掃除で悟りを開いた方がおられました。掃除という儀式や実践そのものが信仰の原点であるというのもよくわかります。

私も古民家甦生を通して、実際にやっているほとんどは掃除の実践です。本当に驚くほど、掃除とお手入れしかしていません。しかしそれが何よりも家が喜ぶことになり、自分も場も喜びます。

色々と情報化社会で便利でお金で何でも買える世の中になっていますが、掃除もメンテナンスや掃除屋さんに頼んでは強烈な薬品や業務用の掃除機やブロアーで吹き飛ばすようなことが盛んです。時短で効率優先というのは、掃除や和帚にそもそもの意味がなくなってしまえばそうなるのは当然です。

時代が変わっても、初心を忘れないこと、意味を場に留めることは伝統や伝承に関わる人たちの大切な責任と使命であろうとも私は思います。時代の流行や日々の喧騒に流されないように丁寧に暮らしを紡いでいきたいと思います。

原初の感覚

今年は辰年ということもあり、龍とのご縁が増えているとブログでも書きましたが引き続きあまりにも龍に関することが次々に発生するので色々と深めています。

私の場合は、スピリチュアルでもなく特定の宗教への信仰があるわけではなく感覚や歴史を掘り下げていくことで好奇心に委ねながら学び直していきますが学術的かというとそういうわけでもなく自然から教えていただいたものをどう汲み取るかということを大事にしています。

例えば、英彦山の守静坊に滞在しお山やお水とずっと心を澄ませて触れていきます。すると、次第に月が身近に感じるようになり龍という存在とのご縁が増えていきます。龍が増えていくと、次第に役行者や瀬織津姫、あるいは弁財天など神仏混淆したものとのつながりが出てきて次第に出雲族のことや海神族、龍蛇族のことなどのことを深めていきます。また魏志倭人伝にある邪馬台国のことや、一支国のことが出てきます。ルーツというものは、今も繋がっていて辿っていくと原始や原初の存在に巡り会うようにも思います。

これは自分というものの存在も同じです。先祖を辿れば、先祖が通ってきた道を実感することができます。今の自分の存在の個性や魂が望んでいることや出来事、あるいはご縁のある人たちとの関係をよく観察して直観するとその理由があることがわかります。すべてのことは認知していないだけで、今、こうなっていることは全ては理由がありご縁があることしかこの世にはありません。

人間は不思議ですが、同じようなことを何回も生まれ変わり体験しその記憶を思い出し鮮明に甦生させているだけともいえます。時間というものの概念をもしも取り払うのなら、私たちの記憶こそが実体の正体でもありその記憶のために体験を続けているともいえます。

話を戻せば、龍というのは、月であり、水であり、夜であり、山であり海でもあります。夜の月明かりに照らされた海の一筋のゆらぐ光ともいえます。漆黒の闇を導く透明な光です。

私たちの心が澄んでいるのなら、龍はそこに顕現してきます。古代の人たち、あるいは原初の先祖たちは龍を感じていつも生きていたように私は思います。時代がどう変化しても、原初の感覚を研ぎ澄ましてかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

長期的に醸成するものを観る

物事というのは長期的に醸成されることと、短期的に可視化されて理解されるのではその意味や内容が異なるものです。例えば、田んぼでいえば稲が収穫されていますがこれは短期的に可視化されたものです。しかしその一年の田んぼでのめぐりを通して土や地力が高まっていくのは長期的に醸成されるものです。

つまり私たちは稲を見てはその土の力を感じ、田んぼというものを理解するのです。世の中の半分は目に見えるもの、そしてもう半分は目に見えないもので構成されているのがこの世の中の理です。

朝、太陽の光が差し込んできます。太陽の光は目に見えますが、もう一つ光とは別に目に見えない気が入ってきます。元氣の中心ともいうべきものですが、これも同様に私たちは澄んだ光を見てはその日の元氣を感じるのです。これは夜の月も同様です。目に見える月の満ち欠けを見てはその月の成長を感じ、同時に目には観えない重力や引力を通して月というものを理解するのです。

現代は、目に見えるものだけを信じる世界になりました。これは言い換えれば、短期的なものしか見ないという世の中のことです。近視眼的に目に見えるものだけを科学的に証明して信じるという世の中は、目に見えないものを蔑ろにしてないもののように接する世の中です。

先ほどの田んぼであれば、稲さえできれば土などは関係がないという田んぼの考え方。太陽の光であれば、明るて温度さえ出せれば太陽でなくても代替えできるという考え方。月などは夜空のネオンや部屋の明るさのせいで観ることもなくなっていきます。

私たちは目に見えないものを語り合うことで長期的に醸成されるものを大切にしてきました。それが伝統文化や伝承文化、歴史やいのちというものです。今の時代は、歴史も教科書に載っているものしか信じない世の中になり、文化も形だけの形骸化されたものだけになり、いのちは動いているものだけにあると思われている様相です。宗教においても、教えという組織化するためのメソッドだけが信奉され、本来の信仰という長期的に醸成されるものは失われつつあります。

人間の目は確かに、身近にあるものを見通してくれます。しかし本来は、半分目を閉じて心の目を開き心を通してその長期的に醸成されるものを観ることができたはずです。この力は、使わなければ減退していきます。私たちは自然と離れて暮らす前は、この力を重宝してきました。その御蔭で自然災害を未然に防ぎ、自分のいのちのバイオリズムや諦観といった自然の一部として循環する時間を持っていました。

私たちが今こそもっとも取り戻さなければならない力は、この長期的に醸成する目を磨いていくことだと私は思います。

子どもたちがこの先も安心して暮らしていけるように、徳を積んでいきたいと思います。

新たな種~第二創業

創業という言葉があります。これは事業をゼロから創ることです。そして第二創業というものがあります。これは創業して成長し成熟し、そして衰退するときにまた新たな種を蒔き芽を出しまたゼロから成長していくときの節目のことです。

宇宙のなかで地球に住むとこの場所の摂理というものがあります。それは重力や引力があるのも、陰陽がありバランスをとるのも、また呼吸をして水を循環させいのちを保つのも「最初から決められて存在している」ものです。これを「自然の摂理」とも私たちは呼びます。

その自然の摂理の中に、種から芽が出て成長し花や実をつけて枯れてまた新たな種になるという循環があります。私たちが赤ちゃんで生まれてから成長し老化して死に至ることも摂理でありそれは最初から決められているものです。地球が丸いことも、水に包まれていることも、太陽との距離が一定であることも月が傍にあるのもこの場所が持つ摂理です。

摂理というものは、いちいち逆らっても仕方がないのでその中で私たちは最善の体験をして摂理を学びそれを活かし、いのちを繋いでいきます。植物も年々同じ四季を迎えて同じ成長をしているようですが変化し続けているものです。天候、気候も変わり時も経ち周囲の循環すべてが微妙に変化していますから同じであることは不可能です。その同じではないことに対して、どんなものでも小さな変化を続けていきます。それが成長の本質でもあります。

摂理にはサイクルがあり、また新たに生まれ変わるような状況を意図的に創り出します。それが死というものです。ある意味では、私たちの生死とは摂理の中で創り出した自然と共に永続して生きるための最善の智慧であり仕組みです。

そしてこの生まれ変わりというのは、実は日々に発生しているともいえます。毎日、夜寝て朝起きては細胞をつくり毀し新しい自分として甦生させます。これを繰り返していくなかで老いて死ぬまで細胞分裂を繰り返します。そのうち別のいのちと和合して新たないのちを産み出します。それが赤ちゃんです。子どもは瑞々しい産まれたての好奇心を発揮して新たな環境を創り出すのです。それが創業のサイクルです。

永続している老舗やまだ数十年ほどの会社であってもこの創業のサイクルは発生しています。そして自然の摂理に沿ってまた新たに生まれ変わるのです。自然に逆らえばそのまま終焉を迎えます。それだけ自然というのは、循環することや永続することを最も大切な摂理にしているのです。終わることは最初からないということです。終わるのは私たちが摂理に合わせて終わらせているのです。

そう考えてみたら有難いことに第二創業というのは、それまでのいのちが充実して結実し新たな種を創るところまで時間も経験も醸成したということの証です。何もなかったところから、志に導かれ目的を定め理念を磨き、仲間を集め、形として顕現するところまで生育して成長して終わるのです。いわば、次の種を創れるところまで成長してきたということです。

一つの種ができるためには、大切な時間といのちを使う「思いの醸成」が必要でした。種はちゃんとこの思いの醸成という自然の摂理を通らないとできませんから種が新たにできたというのは思いの結晶が誕生できたということです。

その結晶を軸に、新たないのちの芽を出していくのが第二創業です。不易と流行という言葉もありますが、変わらないものを持っているからこそすべてを変えていくことができるのです。つまり摂理が変わらないからこそ、我々が変わっていくことができるのです。世の無常というのは、歴史を鑑が観ても明らかです。人の生死のように摂理はいまでも揺るぎません。新たな門出に、感謝の気持ちがこみあげます。

ここ数年取り組んでいる修験道でも、山伏が峰入りするのは擬死再生や母胎回帰の通過儀礼を意味しますがある意味、第二創業にも似ています。生々流転していくことは仕合せなことであり何よりおめでたいことです。

昨日は、カグヤのクルーたちと共に百年自然酒を酌み交わして予祝をしました。いつも善いご縁、善い仲間、そして徳に包まれて有難い時を過ごしています。

この機会をいただけたこと、そして新たないのちが誕生していくこと、摂理と共に永続していく喜びに感謝しています。子どもたち、子孫たちに徳が譲り渡されていくことを信じて新たな種と共に社業を邁進していきたいと思います。

暮らし=生き方

昨日は、千葉県神崎市にあるカグヤのむかしの田んぼで視察研修を行いました。この田んぼは、取り組みだした13年前から一度も肥料も農薬も入れたことはありません。しかしある研究機関がお米を分析調査していただくと、非常に抗酸化力が高いと驚かれました。また味も美味しく、お米好きな人や本物好きな方にとても好評です。

何か特別な農法をしているのかとよく聞かれますが、実際にやっていることといえば、社員みんなでお田植祭や新嘗祭などをしご縁に感謝して楽しく取り組んでいるくらいなものです。

福岡県飯塚市でも伝統の在来種の高菜を自然農法で育てていますがここもまた同じく肥料や農薬を一切使っていません。しかし市販の高菜と比べたら、味も複雑で濃く、同時にピリリとした辛みと野性味があります。虫にもほとんど食べられることなく、見た目の元氣さも特別です。

ここも特別な栽培方法をしているわけではなく、家族で多少の草取りと作業しながら美味しいご飯を畑で食べたり、音楽を聴いたり歌ったりしながら楽しみ有難い時間を過ごしているくらいです。

現代は、すぐに収量を余計に気にします。それは儲からないからです。大量につくれば多く稼げます。しかしその大量を優先すれば、大量になるような農法をしなければなりません。そこから様々な欲望が芽生えていきます。一緒に育つ大切なパートナーを儲けのためだけに利用するようになるのです。

これは養鶏も養豚も養殖なども同じです。餌に何かを足し、抗生物質などの薬を投与し、大量に育てては安く販売していきます。世の中の経済の在り方が、そもそも安く大量にを推奨してきましたからみんなそのことには疑問にも思いません。いいものを安く買えるのは正義のようになっています。それが現代では、人間にも同様なことが発生して安くて大量な人材ばかりをつくろうとします。

そもそも私たちのご先祖様たちが取り組んできた理想の姿を見つめていると損か得かとか、利益があるかないかではなく、常に「生き方」というものを大切にしてきたことがわかります。

今でも見事な風土や貴重な在来種の種が大切に残っているのは、その種を守るために自分の生き方を磨いてこられた人たちがいたからです。特に何百年や千年を超える老舗を見学するとその磨かれてきた生き方が随所に垣間見ることができます。彼らは、単に儲けのために材料を利用するのではなく、今でも生き方を守り感謝して代々の願いや祈りを伝承して味わって暮らしているのです。

私が「暮らしフルネス」にこだわるのは、生き方にこだわるからです。暮らしをどう定義するのかは色々とあるでしょうが、私にとっての暮らしは生き方です。暮らしを換えるというのは、生き方を換えるということでそれは人生を換えるという選択です。

どのような人生を歩んでいくかは、その人が決めることができます。何を大切にするのかを判断するかは、まさに日々の生き方が決めていきます。時代が変わっても、生き方はそれを伝承していく人たちによって結ばれ繋がり永遠です。

いい土を遺してくださった存在や、いい種を繋いでくださった先人、そういう有難く温かい真心をいつまでも継いでいきたいと思うものです。現在、お米のことを深めてお米を甦生していますがお米には何かそういう先人たちのいのりを感じます。

子どもたちの未来のためにも、暮らしや生き方を見つめ直していきたいと思います。

剣聖や医聖の生き方

塚原卜伝という人物がいます。のちに剣聖と呼ばれる人物です。戦国時代に戦わずして勝つという思想を持ち、その極意である一之太刀は「国に平和をもたらす剣」であるとされ尊敬されたといいます。

よく考えてみると、戦国時代はまさに戦いの世の中です。戦いを終わらせるために新たな戦いをしては戦国時代は終わりを見せません。仮初の平和というのは、強いものが出て仕方なく戦わないでいるだけで弱くなればまた争いの世の中です。人類史の歴史は、いつまでもこの戦いを続けています。戦いというのは、ある意味で人類にインプットされた必然なのかもしれません。

だからこそ、どう戦いを終わらせるのかというのが勝つということかなのかもしれません。この剣聖の塚原卜伝は、無手勝流といって戦わないための仕組みを考案しました。その一つは、戦わないということを極めることで未然に戦いを防ぐ意識であったり、あるいは敢えてそれを避けるために行動するということです。侍であれば非常に憶病にみえますが、実際の戦いでも一度も負けたことがありません。この負けるということの定義が、一般的な勝ち負けではないことはすぐにわかります。

そういえば以前、似た話で扁鵲のことを書いたことがありました。これは中国の同じく春秋戦国時代の伝説の医者のことです。この扁鵲はその時の皇帝から認められた真の名医ですが兄弟の中ではもっとも自分の医術が低いといいます。それは長兄は発病する前に未然に防ぐ人で、次兄は病気が軽いうちに少ない薬と施術で治す人で、扁鵲は病気なってから人を治す人だからだといいます。

発生する前に決着が着いているというのが、まさに戦わずして勝つということなのでしょう。

今の時代の有名人や評価されている人たちは、果たしてどれが一番でしょうか。私は塚原卜伝や扁鵲の長兄のような人物こそがこの世を平和に導く真の聖者ではないかと感じます。もちろん、それぞれに役割がありますがだからこそそういう市井の隠者のような人物を探し求める必要があるのではないかと思います。

世の中の変革は、決して目立つような派手なところ、権力があり膨大な財力や名声があるところで発生しているのではありません。塚原卜伝や扁鵲の長兄のような人物が裏で支えているのでしょう。私もそうありたいと思います。

子孫のためにも、人類の未来のためにも徳を磨いて徳の循環する世の中に貢献していきたいと思います。

役割の尊さ

すべてのものには役割というものがあります。それはそのものにしかないものです。不思議なことですが役割は交代することもあれば、急に別な役割をいただくことがあります。自分がこういう役割を果たしたいといくら思ってみても、あるいは役割が果たせない状態になっていたとしても役割は与えられることがあります。その時々の役割があって、それを体験することで自分というものの可能性を新たに発見していくことがあります。

例えば、器というものがあります。一つのお椀というものでもいいです。はじめはご飯を食べるときに食べ物を容れるものでしたがそれが愛着が湧いて自分の大切な暮らしのパートナーになります、時には汁を容れたり、またある時は子どもの御粥をつくったり、時には保存するものに使ったり、割れたら修繕し、大切な時の縁起担ぎや御守りになったり、そして場をととのえるお花や苔を活けるものになったり、最後は一緒に土になったり、それぞれにその時の役割を全うしていきます。

私は古民家甦生に取り組んでからその「役割」というものをとても強く感じるようになりました。私の身近にあるものは、長いものは数百年の役割をもっていた道具があります。伝来するなかで多くの人たちにご縁があり大切にされ、あらゆる役割を果たしてきました。

色々な役割を経てきたものが持つ美しさや洗練された徳には頭が下がる思いがします。

現代の社会では人間は役割というものを誰かによって決めつけられるものです。あるいは、自分の役割を自分勝手に決めつけては苦しんでいるものです。しかし本来の役割というのは、自然に与えられるものです。

与えられた役割を全うする生き方というのは、仕合せで豊かなものです。他人と比べて幸福の善し悪しを嘆くよりも、自分に与えられた最も尊い役割を実感することで有難い気持ちが満ちてきます。時にはそれが自分の思っていないものかもしれませんし、世間的にはあまりよいものではないと評価されることがあるかもしれません。

しかし不思議なことですが、自分にしかない役割を天が与えてくれていることがほとんどです。それをどう受け取るかは自分次第でもあります。他の誰かにはなれないからこそ、自分の役割を全うする喜びに生きることが大切です。

教育というのは、何かにさせるのではなく、役割に気づいてその役割を全うする中で出会うご縁に感謝していく人を見守っていくことではないかと私は思います。今の価値観では、そして日本の教育環境という空気を吸っている中ではそこは議論の中心になることもなくなっているのかもしれません。

徳というのは、本来は観えないものです。だからこそ、気づく環境を用意して見守るのがある意味での教育者の役割かもしれません。生意気なことを言っているようですが、役割の尊さに気付けることが入り口に立つことだろうと私は思います。

子どもたちに役割があることを丸ごと信じてそれぞれの人生を全うする喜びを伝承していきたいと思います。

真理と生きる

久しぶりに三重県伊賀市にいる私のメンターにお会いしました。コロナもあり、お便りが途絶えていたのもあり心配していましたがご夫婦共にお元氣で安心して嬉しい時間を過ごしました。

いつお会いしてもとても純粋な方で、遠い未来を見つめて深く考えて行動されておられます。世間一般には、気ちがいや変人などといわれていますが私にすればそうではなくあまりにも根源的な智慧に対して正確無比で本質的、そして自然的に真実を語る姿に現代の価値観に毒された人たちや刷り込まれた人たちには理解できないだけです。

よくお話をお聴きしていると、すべては自分の実体験からでしか語っておられず、そして自分の身に起きたことや感じたものを素直に掘り下げてそれを誰よりも素直に受け止めて歩んでおられます。色々な大変な人生を送っておられますが、大変強運でいつも何か偉大なものに助けられておられます。

奥様も大変素敵な方で、実践を味わい感謝も忘れていません。ご夫婦でバランスがよく、なかなか冒険的な人生を楽しんでおられます。人柄というものは、人徳と合わせてにじみ出てくるものです。

今の時代、世の中の価値観が本来のあるべきようと離れて道からズレていたとしても粛々とそれに抗いながらも人類のためにと愛をもって様々なことに取り組んでいく姿にはいつも共感を覚えます。

純粋な方が居る御蔭で、私も多少世の中と調整しながらやっていこうとする気持ちが産まれます。常に希望があるのは、その方が純粋性や夢を諦めていないということです。

今回の訪問でメンターは新たに物事を見極めるモノサシを定義されておられました。そこにはこうあります。

「真理と断定できる条件」

1.生死がない

2.損得がない

3.表裏がない

4.不変である

5.万物に公平公正平等である

6.永久永遠に継続する

これは、よくよく見つめ直すと自然の姿であること。これではないことは不自然であると言っているように私は思います。如何に今の人間や人類が自然の道から外れているのかを物語ります。

人は、人生の最期にこの世に産まれてきて何をしてきたかの総決算があります。それは徳に顕現されてきます。その時、自分はどのように生きたかということを自覚するのです。

私も一期一会、一日一生のこのいのちをどう生きるか、いただいてきたものを感謝で恩返しできるよう徳に報いる人生を歩んでいきたいと思います。

ご夫婦には、純粋さで同志を励ます存在でおられるよういつまでもお元氣で健やかでいてほしいと思います。いつもありがとうございます。